猫耳少女と召使の物語@wiki保管庫(戎)

続虎の威22

最終更新:

匿名ユーザー

- view
だれでも歓迎! 編集
 揺り起こされ、千宏は目を覚ました。
 目を覚ましてようやく、自分が眠っていたのだと気付く。
 ゆるゆると目を開いて、千宏は間近に迫ったハンスの顔に驚きの声を上げようとしたが、毛むく
じゃらの大きな手に阻まれてももがもがと妙な音がこぼれるに留まった。
 しい、とハンスが細く息を吐き出した。声を出すなということだろう。千宏がこくこくと頷くと、
ハンスは慎重に口を塞ぐ手をどけた。
「逃げるぞ」
 何があったのか、と問うより先に紙片に書き記された短い言葉を突きつけられ、千宏は寝ぼけた頭
を軽く振ってまず窓の外を見た。
 どうやら、すでに夜中である。到着した時はまだ日が傾き始めるかどうかという時刻だったはずなのに、
随分と熟睡してしまったようだった。
「逃げるって……」
 ほぼ唇を動かして問うだけで、ハンスは声を出さずとも千宏の言葉を聞きとることが出来た。唇を
読んでいるわけではなく、微妙な呼吸音が言葉に聞こえるのだという。特別な訓練などつまずとも、
イヌならば誰にだってできることだとハンスはつまらなそうに答えたが、それが種族的な特技だろう
と千宏は素直に凄いと思う。
 ハンスはぴんと立てた耳で廊下の音を伺いながら、声を低く殺して早口に言った。
「トラの盗賊は性質が悪いと言っただろう。今なら奴も油断して眠ってる。取り返しが付かなくなる
前にここを出るんだ」
 今すぐに、とハンスは珍しく強い口調で千宏を促した。
 会話をした限りではそこまで性質の悪い人物には思えなかったが、ハンスがここまで言うのなら、
なるほど余程の事態なのだろうと千宏は腰を浮かせかけ――ふと、コウヤと呼ばれた男の顔が頭に浮
かんで動きを止めた。
 もう一人一緒に連れては行けないかと聞いたら、きっとハンスは鼻の頭に皺を寄せて絶対にダメだ
と言うのだろう。
 千宏一人を守るだけで精一杯――それすらも担い切れるかどうか危ういのだと、ハンスは常々苦い
表情で繰り返している。
 そもそも、一緒に連れて行ってどうしようというのか。コウヤの意思がそこに存在しなければ、彼を
ここから連れ出すことは単なる拉致だ。
 だがもし一緒に逃げようと声をかけたら、彼は頷いてくれるのだろうか。
 頭を振って立ち上がり、千宏は促されるままハンスの背に負ぶさった。危険な場所で、親が子を背
負うような物である。前はみっともないから嫌だとごねた千宏だが、その方が守りやすいのだと言わ
れては従うしかない。
 ハンスは千宏を背負ったままするりと窓から抜け出すと、あっという間に屋外の暗闇へと紛れ込んだ。
 さすがに元盗賊だけあって鮮やかなものだと千宏が内心で呟くと、ハンスが急に立ち止まって忌々
しげに罵り声を上げた。
「どうりで、無用心にぐーすか寝てるわけだ」
「どういうこと?」
「トラップだ。倉庫一体を囲んでびっしりとな。トラの許可がなければ、俺たちはこの敷地から
出られない」
 千宏は闇しか見えない荒地の彼方に視線を投げた。深い森のはるか向うに、ちらちらと街道の
明かりが見え隠れしている。走ればほんの十分の距離だろう。
「じゃあ、逃げられないの?」
「トラップは解除しない限り、術者が死んでも残り続ける。こうして侵入者に寝首を掛かれることを
防いでるんだろう」
 典型的なトラの巣だと短く吐き捨て、ハンスは乱暴に鼻面をこすった。
 その時、ぽんっとトラヤキがハンスのバッグから飛び出した。そのまま地面に降り立とうとする
その体を、ハンスが空中でむんずと捕まえる。
「大人しくしてろ」
 もがくトラヤキを腰のバッグに押し戻し出てこられないようにボタンを留め、ハンスは短くため息を
吐いた。そのバッグの隙間からぎょろりとした瞳を覗かせ、トラヤキが物言いたげにじっとハンスを睨む。
 しかしハンスが再び倉庫に向かうと、ふてくされたように目を閉じてバッグの中でもぞもぞと
丸まってしまった。危なくトラップに掛かるところを救ってもらったと言うのに、恩知らず極まる
態度である。
 千宏が寝ていた部屋に戻って、並んでベッドに腰を下ろす。今にも頭を抱えてしまいそうなハンスの
顔をひょいと覗き込み、千宏は情けなく丸まった背中を軽く叩いて微笑んだ。
「ハンス、大丈夫だよ。明日、シャエクが起きたらトラップ解除してもらおう。顔の傷治したいって
言えば、すぐに帰してもらえるって」
「さすがに楽観的すぎる……」
「悲観することが多すぎてね」
 冗談めかして肩を竦めとハンスは低く唸り声を上げ、とうとう頭を抱えてしまった。どうせまた
過去の自分の行動を、取り返しも付かないのに内心で責め立てているのだろう。あの時こうしていれば、
ああしていればと、ハンスはいつもくよくよと考える。
「あのさ」
 靴を脱いでベッドに乗りあがり、毛布を手繰り寄せながら、千宏は頭を抱えたまま動かないハンスの
背に呼びかけた。
 ハンスは返事を返さなかったが、ピンとたった片耳が千宏の問いの続きを待っている。
「ハンスだけなら逃げられたりするの?」
「無理だ」
 即答であった。そして、
「あんたを置いて逃げたら生きられない」
 職を失うから、という意味ではないだろう。実にイヌらしい模範的な回答だったが、その忠誠心とも
言える言動に感動するよりも呆れる千宏である。
「そもそも、危険なのは俺じゃない」
 顔を上げて、ハンスは濁った沼色の瞳で千宏を見据えた。
「逃げたのが俺なら、奴は追わない。トラはイヌになんぞ興味を持たないからな。奴が欲しがるのは
あんただ――女だ」
「露骨だなぁ」
「それが男で、盗賊で、トラだ。あんたがトラだろうが、ヒトだろうが、ネズミだろうが関係ない。
トラが一度手中に入れた女をみすみす逃がすなんて事はあり得ないんだ」
「好意的な雰囲気で一発やらせてあげたら?」
「ヒトだとばれずにか?」
 鋭く睨まれて、千宏は苦笑いと共に毛布を身体に巻きつけた。それからハンスの背に自らの背を預け、
壁を眺めながら膝を抱える。
「けどハンス一人なら逃げられるならさ」
「チヒロ」
「いや、ネコに助けてもらえないかなーって。街道は走ってすぐだし、お金は一応あるわけだし。
いくらかつかませたら役人が何とかしてくれるんじゃない? 惜しいけど、また溜められない
額じゃない」
 そうすればコウヤも現状から解き放つことが出来るし、自分達の連れだと偽って引き取ることも
出来るかもしれない。
 背中合わせのまま、ハンスが頭を振る気配がした。
「ここはネコの国だぞ、チヒロ。有料街道の近くに、トラの巣だ。こいつらが結託してないわけがない。
金で動いてくれる可能性もあるだろうが……そんな賭けには出られない」
 盗賊と役人の結託はネコの国では珍しい話ではないようで、シャエクと顔すら合わせていない
はずのハンスは当然のように状況を理解していた。さすが、ネコの国で盗賊をしていた男である。
 それじゃあ、と。千宏は首を反らせてハンスの背に頭を預けた。
「守ってもらうしかないね、ハンスに」
 千宏の言葉に自信を持って応と言える性格ならば、こうも悲観的になりはしないだろう。案の定、
ハンスは肩を落として再び頭を抱えてしまった。
 どうにも頼りにならないと思うのは事実だが、自己卑下と自虐主義は性分なのだから仕方がない。
ハンスは全力を尽くしてくれているし、無茶な要求ばかりする千宏を無事今まで生きながらえさせて
くれているのだ。
 自信に満ち溢れているハンスなど、逆に不安になってしまうような気もする。
「ねえ、かっこいい事しようか」
 ふと思い立って、千宏は体ごとハンスに振り向いた。ハンスはうなだれた様子のまま首だけで
千宏に振り返り、どういうことかと視線で問う。
「クールな守護者といたいけな少女ごっこ。まずハンスが毛布をかぶるわけよ」
 言って、千宏はハンスの肩に毛布をかぶせ、ひょいとベッドから降り立った。そのまま、わけが
分からずオロオロとしているハンスの足の間に座りなおし、毛布の前をかき合わせる。
「剣を抜いて、あたしの正面に突き立てる。両手は重ねて柄の上ね」
「こ、こうか?」
「ほーら、超頼もしい! どっからでもあたしを守れそう。ファンタジー漫画でよくあるシーンだよ」
 ぐるりと首を巡らせて、千宏は困り顔のハンスに笑いかけた。
 背中からハンスに抱きこまれ、正面には白刃の輝く剣。その上から暖かな毛布で包まれて、
居心地はなかなか悪くない。
 一つ難点を挙げるとすれば、少々気を抜くと剣で足を切ってしまいそうなところだろうか。
「この状態で一夜を明かすのか……?」
「そういうことになってるね」
「これだと咄嗟の襲撃のとき動けないだろう。暖を取るには最適かもしれないが……」
 足の間に千宏がいては、立ち上がることもままならないのは間違いない。何か間違えただろうか。
そうえば、大体においてこの体勢は屋外の野宿でこそ真価を発揮していたような気がする。
屋内だろうと屋外だろうと、動きにくいことに代わりは無いかもしれないが、それではこれは
寒さをしのぐ為の体勢だったのか。
 そういえばこの体勢が発動する状況は野宿である上、雪が降っている場合が多かったような気もする。
「じゃあどんな体勢だったら動きやすくて、あたしをクールに安全に守りながら世を明かせるわけ?」
「あんたが寝ている間、窓と扉が見える位置で剣を持って眠らず見張る」
 つまらない正論を吐くなと視線で責めると、ハンスは剣の柄に両手を乗せたまま難しい顔で真剣に
悩み始めた。それからしばらく二人であれこれと試してみたが、結局しっくりくる形が見つからぬ
ままに空が白み始め、千宏は諦めて投げやりにベッドに寝転がった。
「現実と理想の差は大きいね」
「すまん……」
「結局、いつもの寝方が一番か」
 千宏がベッドを叩いて促すと、ハンスはしおれた様子で剣を鞘に戻し、千宏を抱くようにして
横たわった。剣は手に届く位置に置き、盗まれないよう紐で腕に繋いでおく。
 こうしておけば千宏一人が襲撃を受けることはないし、ハンスが異変を察知すればすぐに千宏を
起こすことができる。切迫した状況ならば、抱き上げることも容易い。
「少し眠ろう。護衛が寝不足じゃ心配だし、これならトラの巣でも少しは安心でしょ?」
「それはそうかもしれないが……」
「大丈夫大丈夫。さすがに行き成り襲い掛かられて、二人とも永遠に目覚めることはありませんでした
なんて事にはならないって」
「楽観的だな……」
 そんな事態になる可能性などいくらだってあるのだとしばらく頑張っていたハンスだが、結局折れて
不承不承目を閉じた。ハンスはいつでも、目を閉じた瞬間には静かな寝息を立て始める。激しく揺れる
船の中だろうと、やかましい汽笛が延々鳴り響く駅舎の側の宿だろうと、ハンスにとっては穏やかな
揺り籠となんら違い無いらしい。
「羨ましいね、純粋に……」
 嫌味のつもりで言った千宏だったが、目を閉じた次の瞬間、千宏もあっけなく眠りに落ちていた。

*


 気が付くと、冷たい床の上に寝転がっていた。剥げ落ちた壁の破片がじゃりじゃりと不愉快で、
全身がぎしぎしと軋んで痛む。
 何度か目を瞬き、コウヤはようやく自分が椅子から落ちたのかと理解した。
 戻らなければ。彼が戻ってくる前に、椅子の上に戻らなければならない。
「座ってろ」
 と、コウヤを拾ったトラの男は短く命じた。であるから昨晩からずっと椅子に座っていたが、
朝を迎えて昼を過ぎ、日が暮れたあたりで気を失ってしまったらしい。
 この失態を、彼は許しはしないだろう。彼に気付かれる前に、早く。
「起きたか」
 声が聞こえて、コウヤはすうと心に暗い幕が掛かるのを意識した。声のほうに視線を巡らせれば、
そこには頭に思い描いたとおり、心底楽しそうなトラの男が立っている。
「なあ、コウヤ。俺は確か座ってろって言ったはずだな? たったそれだけの命令だったはずだ。
なのにお前どういうわけだよ、その様は」
「申し訳ありません」
「謝って欲しいんじゃねぇ。俺はただ、命令を聞いて欲しいんだ。なあコウヤ、それとも俺なんかの
命令は聞けねぇか? マダラごときの言うことは、聞く価値がねぇと思ってるのか?」
 大股で歩み寄る力強い足音に、コウヤはうなだれて頭を振った。その髪を強くつかまれ、乱暴に
身体を引き上げられる。
「答えろ、コウヤ。おまえさんは俺が怖くないのか?」
「お……そろしい、です……」
 嘘だった。別に恐ろしくなどない。けれどもそう答えなければこのトラは怒り狂い、コウヤに
痛みを与えるだろう。苦痛は好きではなかった。だからコウヤは、トラの望む答えを口にする。
 トラはつまらなそうに舌打ちし、コウヤを床へと投げ出した。
 そうして、
「ほらよ」
 一切れのパンを投げ渡す。次いでミルクを満たしたコップを地面に置き、トラはコウヤの
近くに倒れている椅子を起こして乱暴に腰を下ろした。そうして、コウヤに渡したのと同じパンを、
上手くもなさそうに黙々と食べ始める。
 それを見てようやく、コウヤもパンをひとちぎり口に運んだ。
 シャエクだ、と。彼がはるか昔に名乗ったのを覚えているが、その名を呼んだ記憶は無い。そもそも
コウヤからこの男に声をかけたことなど一度も無かった。これからも無いだろう。こちらからこの男に
用は無い。食事すら要求する気は無かった。与えられなければ飢えて死ぬだけである。
「今日、女が来たろ」
 柔らかなパンだった。遠い昔に舌を焼けれて味覚はないが、恐らく甘いのだろうと思う。
「この前話したヒト商人に騙されてここに来ちまったらしいんだがよ、トラにしちゃ貧相な体だが
黒髪なんて珍しいし、顔もまあ悪くはねぇ」
ミルクを一口飲むとよく冷えていて、食堂を流れ落ちていくのが分かる。ここに来て随分経つ気がするが、
ようやく胃が固形物を受け入れるようになった。最初は与えられた食べ物を吐き戻してばかりだったが、
最後に吐いた記憶はもう随分と前だろう。
「変な女だよなあ……マダラの俺にも、ヒトのおまえにも大して興味ないみてぇでよ。同族の女を
見るのは久しぶりだが、ありゃあやっぱ相当変わってるよなぁ」
 さらに一口、パンを千切る。物を噛むことにも随分慣れた。最近ではあまり顎が疲れたと感じる
こともない。ひょっとしたら、パンを食いちぎることもできるだろうか。試してみようと口を開き
かけ、やはり千切って口の中に押し込んだ。
「まいったなぁ」
 トラはパンを乱暴に口の中に押し込み、ろくに噛みもせずミルクで喉の奥に流し込む。それから
思い出したように、チーズをひとかけコウヤに投げ渡した。
 溶けていないチーズは硬い。トラからすれば柔らかい物だろうが、コウヤには少々荷の重い食べ物だ。
投げ返すわけにも行かないので、前歯で少しずつ削って食べる。
 味が分からないので、おがくずでも食べているような感覚だった。
「気に入っちまった、あれ。お前の隣にさ、合いそうじゃねえか? 同じ黒髪だしよ。トラ女つっても
病弱そうだし」
 ああ、とトラが面倒そうな声をあげ。だらりと体勢を崩して天井をあおいだ。
「イヌが邪魔だなぁ。あいつら魔法使うからなぁ。交渉できねぇかなぁ、コウヤ」
 コウヤは食事の手を止め、顔を上げた。しかしトラにコウヤの返事を待つ様子はなく、天井を見上げ
たまま嘆くように深いため息を吐いた。
「欲しいなあ。あれ……」
 玩具に憧れる子供のような物言いだった。
 奴隷が増えるのは、コウヤにとって悪いことではない。しばらくはそちらの女に掛かりきりになる
だろうし、一人でいられる時間も長くなる。
 あるいはそのまま忘れられ、ひっそりと死ぬこともあるかもしれない。あくまで可能性の話だが、
トラの興味がよそに移ればその可能性はゼロではない。
 トラが立ち上がり、ふらふらと尻尾を揺らしながら部屋を出て行く。
「ちゃんと座ってろよ」
 その言葉を残して、トラは扉を閉めた。遠ざかる足音を聞きながら、コウヤは食事を終えてずるずると
椅子へと這い登る。
 窓の外を見ると、背の高い枯れ木の頂点から五十八度の位置に青い星が光っていた。であるなら、
夜明けまで少なくとも六時間はある計算になる。
 夜はまだ長いようだった。

タグ:

+ タグ編集
  • タグ:

このサイトはreCAPTCHAによって保護されており、Googleの プライバシーポリシー利用規約 が適用されます。

目安箱バナー