猫耳少女と召使の物語@wiki保管庫(戎)

僕の奴隷は愚鈍で困る 05

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匿名ユーザー

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だれでも歓迎! 編集
 遠くに春の足音が聞こえてきたか、ここのところ小春日和が二、三日続いたかと思えばその分を取り返すようにひどく冷え込むという日々が続く猫の国。
 兎角体調を崩しやすい時期であるとともに、僕の所属する研究科がそろって参加する大きな学会が地元で開催される、非常に多忙な時期でもある。
 そして、その学会は二日後に迫っていた。学生達はこの学会での発表が重要な卒業要件であるため、特に真剣な姿勢で臨まなければならないのだ。

「あ、ミカンとってにゃ」「ほいよ」「あー極楽にゃー。なんにもしたくねえにゃー」「そういや、こないだヒトメス喫茶行ったらさあ」「んにゃ」
「『コタツdeみかんフェア』つーのやってて」「まじにゃ」「まじまじ。2時間でイチゴー使った。マジ天国」「あーそりゃ使うにゃー。今度連れてけにゃー」

「君達、そ ん な に 留 年 し た い の か 」
「「ぐげにゃあ゛あ゛あ゛」」
 そういう緊迫しているはずの状況の中で、コタツに引きこもってごろごろとだべる学生どもの頭を上から思いきり握りつぶした。
「シャール君、スライドの直しは終わったのかね。モルト君、僕はまだ君の発表の原稿を見せてもらってないんだがね」
「いやー、寒くて」「コタツの温もりが恋しいにゃーよ」
「学会は明後日だぞこの馬鹿者どもが!! 温もりどころか尻尾に火が点いているのが分からんか! なんなら僕が点けてやるぞ!!」
 尻尾を膨らませてコタツから飛び出す馬鹿二人。
 講座へのコタツ導入を阻止できなかったのが痛かった。今年は特にネコ学生の進捗が致命的に遅れている。
 かといってコタツを撤去しようとすると団結して一揆を起こすので始末に負えない。
 これだから猫は。こいつら、長い人生一年くらい留年したって構わないと最初っから舐めてかかっているのだ。これだから猫は!
「先生、今日機嫌悪くね?」
「ここんところ修羅場だからにゃー。結局昨日も泊りだったみたいだし、ほら、先生のシャツヨレヨレにゃ」
「ああー。上からは俺らの面倒を押し付けられ、シャツを届けてくれるような嫁さんもなし」
「万年独身助教授の悲哀が身にしみるにゃー」
「貴様ら、さっさと研究に取り掛からんかァッ!!」
 今度こそ風を巻いて逃げていく学生どもにこめかみを押さえる。
 好き勝手言いおって。僕がヨレヨレなのは誰のせいだと思っているのだ。
 彼らの言うとおり、ここのところろくに家に帰れない日が続いている。
 学生たちは交代で仮眠をとったり家で寝てきたりとしているが、彼らをそれぞれ手伝っていた僕はここ三日ほど一睡もしていない。
 しかし、苛ついているのは睡眠不足だからでも独身の悲哀が身にしみるからでもない。家のユキカが心配だからだ。
 なにせ彼女には家の中で凍死しかけたという信じられない前科がある。
 一応、一日一度は様子を見に帰っているのだが、それだって心配なものは心配なんだ。
 未だ助教授である自身をこんなに悔しく思ったことは無い。仮に僕が教授であったなら、この講座の責任者であったなら、絶対にコタツなど導入させなかったものを!
「まあまあウォルター君、そうカリカリしなさんな。君も温まりたまえよ」
 振り返ると、仕立ての良いスーツと銀縁眼鏡の、銀毛の猫男性が黒猫の美女を伴っていつの間にかコタツに入っていた。
「……ギルデンスターン教授。そこで何をしておられるのですか」
「見ての通り、コタツにあたって秘書にミカンを剥いてもらっておる」
 ギルデンスターン教授は僕の恩師で、鶴の一声でコタツ導入を決定した講座のトップであり、名目上は先ほどの学生二人の指導教官である。
 だのに、なんだその余裕は。ええおい爺さん。
「はい先生、剥けましたよ。筋は取るのでしたわよね?」
「うむ、ご苦労。――ふむむ、やはりコタツにはミカンに限る」
 ……まあいい。いやよくはないが今さら言っても始まらん。教授がここに居るなら今のうちだ。
「おや、何をしているのかね?」
 見ての通り、鞄を取り出して手荷物をまとめている。
「一旦帰らせていただきます。僕が戻ってくるまで学生たちの面倒をお願いします」
「嫌だな、大変そうだ。いいじゃないかね、着替えくらい。以前は二、三日帰れずとも気にしなかっただろうに」
 大変だと分かっているなら少しは手伝え。半分はあんたの生徒だ。
 家には、目を離したらどうなっているか分からない子が一人で待っているんだ。
「そうも言ってられんのです。ほんのしばらくの間だけですから」
 僕はそんな無体を言ってはいないはずだ。それでも迷惑そうに片眉を上げた教授に、秘書の黒猫が何事か耳打ちする。
 上がった教授の眉尻がだんだんと下がっていくが…………。
 …………なんだ、その理解と感慨と憐れみの滲んだ笑顔は?
「そうか、君も加齢臭を気にする年齢になったのか」
「かッ……!?」
 僕はまだそんな年じゃない!
「心配要らんよ。まだ君の鼻でしか分からんレベルだ」「あまり気に病まないでくださいね。いずれ誰もが通る道ですわ」
 二人ともいかにも親切ごかしているが、口角がニヤニヤと上がっている。何と腹立たしい。だが、くそっ、否定するのも面倒だ。
「とにかく、僕は帰ります! すぐ戻りますからちゃんと見てやってくださいよ!」
「うむ、前向きに善処しておこう」「先生、ミカンもう一ついかがですか?」
 激しく不安だ。しかし、ユキカの様子も心配だ。
 ばたばたと鞄をまとめコートを羽織って出ていこうとすると、学生たちが次々と縋りついてきた。
「え゛ぇっ!? 先生帰っちゃうんですか!?」「すぐ戻る!」「俺の質疑応答は!?」「後で見てやるから!」「先生どうしよ実験データ失くしちゃった!」「な、バ……っく、探してやる! 後で!」「やったぜコタツー」「入 る な 馬 鹿 者 !」
 逃がすまいとコートの裾を掴んで扉の内に引きずり込もうとする亡者どもをちぎっては投げちぎっては投げ、ようやっと僕は研究室を後にすることができた。

 全てが終わったら、絶対にコタツを叩き壊してやる。 


「お帰りなさいませ、旦那様」
 家に帰ると、僕の分の着替えと朝食が用意されていた。軽く泣きたくなった。
 思わず撫で繰り回したら石より固く硬直された。軽く泣きたくなった。

 研究室に戻ると、学生たちは全員コタツで寝ていた。軽く泣きたく……殺意が沸いた。
「起きろ―――――!! 貴様ら、僕がいないと半刻も持たんのか―――!!」
「ぶにゃっ!? げ、先生もう戻ってきたの!?」 
「んむむ、うるさいぞウォルター君。静かにしたまえ」 
「教授、あんた、あんたなあ!」

 二日後、学生たち全員が無事に発表を終えたのは紛う事なき奇跡である。


◇◇◇


 今日は休みだ。大事な事なので二度言おう、今日は休みだ。
 そう、昨日、ようやっ…………っと学会が終わったのだ。
 もう睡眠不足で痺れる頭を抱えながら学生どもをコタツから引きずり出さなくて良いし、金釘流に誤字だらけの発表原稿やピンボケのスライドともしばしの別れ。
 データ失くしたの検体失くしたのやる気失くしたのと泣きつかれることもない、平和な日々が戻ってきたのだ。
 昨日までぐずつき気味だった天気も今日になってスカッと晴れて、季節の割には空気も暖かく気持ちいい。
 まるで今日という日をお天道様も祝福してくれているようではないか。
 ドリップされるコーヒーの香りが馥郁と鼻腔をくすぐり、ベーコンを炒める音も景気が良い。
 フライ返しを振るう細い背中を差し込む朝日が照らしている。
「おはようユキカ。良い朝だね」
 何故だ。ぎょっと細い背中が跳ねて、振り向いた黒い瞳が、朝の光の中まるで化け物でも見たかのように見開かれている。
「お、おはようございます」
「あ、ああ」
 この爽やかな朝においてさえも、僕は恐怖刺激か。
 毎朝毎夕顔を突き合わせて、いい加減挨拶くらいは馴染んでくれたものと思っていたのだが。
「申し訳ありません朝ごはんまだできてなくて、ぁ、コーヒーは」
「ああいい、それくらい自分でやるから。それよりちゃんと火を見ていてくれ」
 浮かれ気分から大分トーンが下がったが、それでも気持ちの良い朝であることに変わりは無い。
「……今日は、まだお休みかと思ってました。昨夜はとてもお疲れのご様子でしたので」
「ん、ああ、うん。確かにね。おかげで今日は朝の運動をサボってしまった」
 もう若者ではないという事か、5徹の後の打ち上げは少々きつかった。
 大した量は飲んでいなかったはずだが、玄関に上がってからベッドにたどり着くまでの記憶がスコンと抜けているのだ。
「もしかして、昨夜は迷惑をかけたかな」
「 めっそうもございません」
 一瞬だけ視線が虚ろさを増した。大変な迷惑をかけたらしい。
 そういうことならこの子が驚いたのもきっと仕方ない。うん、仕方ない。
 新聞を広げている間にミルクに浸したパンとスープ、卵にベーコンがテーブルの上に並べられ、彼女も席に着く。
「ところで、少し前のことだが、君の誕生日を祝おうと約束したな。覚えているかい」
「あ、は、はい」
 そうか、覚えていたのか。
「つい忙しさにかまけてそれっきりにしてしまったが、どうだい。何か欲しいものは考えついたかい?」
 ユキカが目に見えて固まる。 やっぱりな。
 それでもさらに目だけでさらに問いかけると、黒い瞳の奥の奥、かすかに逡巡するような光が見えたが、ややあってそれも消えてしまう。
 微かな意思の色さえ消えた白い肌と、黒い髪に黒い瞳。輝かんばかりの朝なのに、彼女だけがモノトーンに染まっている。
 空虚な表情で口を開こうとした彼女を手で制す。
「言わなくていい。大体こうだろう。自分はヒトで奴隷だと。だから祝い事なんてしなくていい、もしくは、僕の好きなようにやればいいと。どうだ、合ってるか」
  開いた瞳孔が僅かに締まり、緩慢な動きで左右に振れたが、結局頷く。
 逃げ出したくらいだからな。そうかなとは思っていたさ。だからこそあるいは、とも思っていたんだが。

 まあ、平たく言えば、こういう反応は想定の内という事だよ。 ふっふっふ。

「ユキカ、君は今日暇だな?」
「は?……はい。特に予定は、何も」
 そうだろうね。今のこの子には、基本的に家事以外できることはないのだから。
「やろうか、誕生会。今日」
 薄桃色の唇がほけっと開いて固まった。 



 玄関へ続く扉を開けると視界一杯に溢れかえる、鮮やかな色彩。
 面食らったようで隣のユキカの動きが止まった。
 朝一番に買ってきた花、花、花だ。まだ冬の息吹が残る中でもこれだけの量と種類が買えるあたり、さすがは世界一の大国、猫の国。
 農業においてもその技術水準は素晴らしいの一言だ。
「これ、いつのまに」
「朝市でちょっとな」
 二人きりの誕生会なのだから、なおさら華やかに彩らねばなるまい。
「ちなみにこれは君のだ」
 特別製の一番大きな花束を取り上げて押し付ける。
「……私、ヒトです。こんなこと、していただかなくても」
「僕がやりたいんだ。付き合ってくれ」
 俯いて花に埋もれた顔は僕からは見えないが、花を貰って悲しむ人間はそうはいない。
 まず掴みは上々、ということでいいのだろう。きっとそうだ。
「さあて、今日は忙しくなるぞ。心苦しいが、主賓たる君も座ってばかりはいられない」
「……はい……」
「だが、その分楽しい一日にしよう、な」
 返事は無く、花束を抱いた肩が壊れそうに縮こまった。 


◇◇◇

 彼女は困っていた。

 目の前では見上げるほどに大きな狼男が実に機嫌良さそうに立ち働いている。
 彼は、彼女がこれまで仕えた中で最も恐ろしい外見をした「人間」だ。
 今はリズミカルに箒を振るっているその太い腕は、簡単に彼女の首をへし折れるだろう。
 いつもは向けられるだけでナイフを突きつけられるような心地のする鋭い目つきが、今は珍しく柔らかに緩んでいる。
 怒鳴られると脳味噌を引っ叩かれた気になる太い声がこの世界でも聞かない旋律の鼻歌を歌っている。
 ……あんまり、上手くはない。それを彼女が口に出す時は絶対にこないだろうけれど。
「あ、の、旦那様」
「ん? テーブルクロスは替えてくれたか」
「は、はい……えっと、そうじゃなくて」
「そうだな。花瓶はどっちを使うべきか、迷うところだね」
「こちらの方が合うかと……いえ、その、ですから」
「うん、なんだい」
 上がった口角から覗く獣の牙が本能的な恐怖を掻き立てる。
 なのに、どこをとっても恐ろしい顔をしているのに、笑うとちゃんと優しい人に見えるのが彼女には不思議だった。

 彼女は困っていた。

 さりとて、奴隷の身で主人の上機嫌に水を差すのは恐ろしい。とてもとても恐ろしい。
 しかし、そこを強いてでも彼女は言わなければならなかった。

「こんな…………、……こんなにたくさんの花、飾る所も置いておく所もありません」
「むっ!? いやそんなはずはない。なせばなる、なんとかなる。
 交代だ。そっちは僕が何とかしよう」

 そうじゃない。本当は他にもっと、言わなければならないことがあるのだ。
 ……けれど、彼女は困っていたのだけれど、どうしてか口がうまく動かないので、やっぱりもう少しだけ後で言う事にしようと思った。

 ――ちゃんとする。ちゃんとするから、もう少しだけ。

 喉の奥にへばりついて消えない血の味を、知らず初めて無視して飲み込んだ。

 どうしてうまく口が動かないのかは考えなかった。
 ……後になっても口が動くようにはならないんじゃないか、とは少し考えたけれども、それはいざその時になってから考えることにした。
 そして、その『後』がいつになるのかは、やっぱり考えなかったのだった。


◇◇◇



「いいから。座って、TVでも見ながらゆっくり待っていなさい」
「そ、そんな訳にはいきません」
 外はまだ晴れているが、今に槍が降りそうだ。
 何と、ユキカが弱々しくも頑張って譲らない。
「旦那様だけに働かせるなんて」
「主賓とはそういうものだ。大体、たかが料理だ。そう大げさに考えるな」
 そう、今は、飾りつけが終わり、これから食卓に並べる料理をこさえようというところだ。
 あんまりに彼女をこき使うのも難があるのでここからは僕一人で取り掛かろうと考えていたのだが、そこでユキカは僕にそこまでさせるわけにはいかない、自分で作る、と必死に主張しているのである。
 しかし、少し考えてみてほしい。彼女を寿ぐご馳走を、彼女自身に作らせてどうする。
「そんな、だって、私はヒトです」
 困ったな。そんな顔をされると、まるで僕がとんでもない無理難題でも吹っ掛けているみたいじゃないか。
「分かった。そうまで言うなら君にも手伝ってもらう。二人で作ることにしよう。それならいいだろう?」
「……、はい……」


 さて、祝い事と言えば、何をおいてもまずは肉と相場が決まっている。異論は認めん。
「見ろ。今日の目玉は凄いぞ」
 クーラーボックスの一つから取り出したるは特級のタックルード。一羽まるごとだ。
 さしものユキカも目を丸くするのを見てとって、さらに気分が良くなった。
「すごい……シチメンチョウですか?」
「ほう、君のところではそう呼ぶのか」
「多分、こんなに、大きくなかったと思いますけど」
 恐る恐る肉の背の当たりを撫でるユキカの手付きには、純粋に感心だけが滲んでいる。
「そうだろうそうだろう。質の方も折り紙つきだぞ。なんせ群れのボスを牧場主が三日三晩の死闘の末ようやく仕留めたという代物だからな!」
「……はい?」
 タックルードはこの辺の地域の牧場で飼育される食肉用の家畜だが、特徴はその肉質が個体の攻撃性と正比例する点にある。
 他の家畜のように狭い厩舎の中で餌だけ食わせて飼殺しにしていては、とてもじゃないが食えたもんじゃないパサついた味にしかならない。
 できるだけ野生に近い状態で放し飼いにして、隙あらば飼い主の心臓に嘴を突きたてようとする殺し屋のような本性を全開に育て、その力が全盛を迎えた個体を死力を尽くしてねじ伏せてこそ肉の味は円熟し、得も言われぬ妙味を口の中に醸し出すのである。
 競り市で、はちきれそうな筋肉に真新しい包帯を巻いた売主が、金の問題じゃない、俺に勝てる男にしか譲らない、と嘯いていたのでこれ幸いと殴り倒して破格の安さで手に入れたのだ。
 いやあ、いい買い物だった。恐らく二度と無いだろう。
「ヒトは肉体的に弱いから、美味しく育てるにはきっと相当の苦労をするのだろうね」
「どうなんでしょう……」
 ふむ、この子は畜産には興味が無いと見える。
「ところで、これ、どうするんですか」
「そうだな。僕は一つしかないと思っているが、君はどうだ」
 黒い瞳のなかにあるかなしかの興奮を見て取れるのは、気のせいではないだろう。
「ロースト、ですか」
「そう。丸焼きだ」
 今日のは僕がこれまで目にした中でも最高級の品だ。既にそれ単体で完成された食肉の芸術である。
 濃厚に舌に纏わりついて味覚を支配し、そのくせ味わう傍から余韻だけを残して次の一口を誘うように素っ気なく溶けていく、まるで娼婦のようだと称された肉の真の旨味をそのままに味わわんとして何とする。
「下ごしらえは僕がやろう。君は詰め物のほうを頼む」
「はい。中身は」
「君に任せる。期待してるぞ」
 正味のところ、僕よりもこの子のほうが明らかに料理は上手い。
 小さな肩を軽く叩くと、ユキカは僕に向けて上向かせた目線を真ん中、足元と段々に移し、最後に俯いた頭をこくんと下げた。


「おや? ユキカ、皮むき器はどこにしまった?」
「ぁ、申し訳ありません……こちらに移してしまいました」
「ん、そうか。――軽量カップは」
「そこです」
「ああ、ありがとう」
 早くも想定外の事態が明るみになったのは、ユキカと調理を始めてすぐのことだった。
 なんと、物の置き場所が分からん。
 考えてみればここ一、二ヶ月はユキカが主にこの台所を使用していたわけで、物の配置が変わっているのは当たり前だ。
「旦那様。シュバインのお肉、下ごしらえが終わったので置いておきます」
「ん、ああ」
 そうして僕がまごついている間にユキカはさっさと調理の手を進めてしまうのだった。
 最早我が家の台所は彼女のフィールドであったか。
 これではどっちが手伝っているんだか分かったものじゃない、というか、要所で僕に指示を伺ってくるものの、調理の主役はユキカ、僕はサブとして自然と役割分担が確立されてしまった。
 まあ、それはそれで別に文句はない。
 くるくると自在に動き回るこの子の姿は、普段のびくびくおどおどした様子にくらべれば格段に好ましいことだし。
「どうかされましたか?」
 隣でリズミカルに響いていた包丁の音が途切れた。
 知らずに見つめてしまっていたらしい。
「いや、いつも美味い飯を作ってくれるだけあって、流石に大したもんだと思ってね。僕のゼミの女生徒など魚も捌けないというのに」
 感情の読み取れない瞳が瞬いて、はあ、と気の抜けた返事を寄越して調理に戻った。
 彼女の包丁と、火に掛けられた鍋が立てる音、それに水音だけが響く。
「……あの、旦那様」
 お、喋った。
「美味しかったですか、ご飯」
「ん? ああ。言ったことは無かったか? お陰で食事が楽しみになって、太らないようにするのが大変だ」
「そうですか」
 それだけで、また調理の音だけが台所を支配する。
 しかしこの子が用件でなしに自分から話しかけてくるとは珍しい。なんとなく得したような気分だ
「旦那様」
 お、またか?
「この黄色い果物なんですけど……」
 ユキカが手にしているのはリトゥムと言って、シャリシャリとした歯ごたえがリンゴに似ているがより酸味が強く、皮を剥けば滴るほどの汁気を蓄えている。
 僕はデザートに使う積りだったがユキカは絞ってドレッシングに使いたいという。
 リトゥムをそんなふうに使ったことは無かったが、この子が言うなら少なくとも不味くはならないだろうからと気軽にOKを出した。
 よし、インゲンを洗い終わった。
 魔洸コンロが空いていたので、フライパンを出してソテーを作ることにする。
 その後もちょいちょいとユキカがあれを使いたい、こうしてみたらどうかと訊いてくるので、適当に任せながら二人で調理を続けていく。
 なぜだろう? いつの間にか空気が変っているような。気のせいか?
 なんとなく首を傾げていると、オーブンから漂っている匂いがそれだけで涎が止まらなくなるような香ばしさに変わった。
 焼き上がりの印だ。
「ユキカ、来てみろ。タックルードが焼けたぞ」
 手招きすると、ユキカも調理の手を止めて寄ってきた。
 オーブンを開けて、二人で頭を寄せて中を覗き込む。
 ……ん? なんか今、さらっと驚くべき珍事が起こったような気がするぞ。
 まあいいか。
 むわっと湧き上がった蒸気はそれ自体が今すぐ齧り付きたくなるような旨みを含んでいた。
 そして肝心の本体はというと。
「……美味そうだな。なあ、おい」
「……はい」
 他になんと表現していいか分からない。
 パリパリに焼けた表面は輝くような焼き色に変化していて、滴る脂が余熱でパチパチと弾けて質感を伴うほどにジューシーな香りを飛ばす。
 ふっくらとして、それでいて鎮座と表現すべきこの存在感から、味の程は推して知るべし。
 しかしこんな瑣末だけを捉えた描写ではこの確信を伴った期待感はとても表現しきれない。
 美味そう。全てはこの一言に尽きるのだ。
 念のため串を通す。よし、ちゃんと中まで焼けているな。
 もっとも、この鼻が焼き加減を誤ることなどありえないのだが。
 ミトンを手にオーブン皿を取り出した。
「ふふふふ」
 自然と笑いが漏れる。
 傍らのユキカを見やると、その瞳がわずかに輝いて見えたのは決して気のせいではあるまい。 
 美味い食い物はそれだけで偉大だ。エンターティメントである。
「そういえば君、詰め物は何にしたんだ?」
「はい。フルーツ系にしてみました」
 ……フルーツだと? 芋とかキノコとかじゃないのか?
「全部がフルーツなわけじゃなくて……大丈夫、美味しいです」
「本当だな? もし不味かったら~、、、冗談だ。何もしないから逃げるな。君の判断は信頼している」
 ぎょっと跳び退ってから、おずおずとこちらを伺うユキカ。
 それがいつもの張り詰めた怯え方ではなくまるで叱られた子供のようで、思わず笑ってしまった。
「な、なんですか?」 
 なんだこの子。ほんのちょっと普通にすればこんなに可愛いじゃないか。
 ――ああ、そうか。さっきから不意に感じる不思議な違和感の正体はこれか。
 嬉しくなって、困惑して揺れる黒い瞳にまた笑いが漏れた。
「なんでもないよ。ただ、なんだか楽しくてね。君はどうだ?」



「…………………ぇ……?」
「え?」


 見返すユキカの瞳から、唐突に一切の光が消えた。


◇◇◇

【水溜りを踏み躙って汚れた靴をきれいにした。】
【顔を濡らす飛沫と同じ味がねっとりと舌にへばりついて、見下ろす猫が全身を染めたままげらげらと哂う。】 
【蹴り飛ばされても不思議と痛みは感じなかった。】


指摘されて気づいてしまった。
今日、確かに彼女は嬉しかったし、楽しかった。
一緒に料理をしたのも、かつて父と並んだ台所のようで楽しかった。
料理の腕を褒められたのも、花を買ってくれたのも。

――ちゃんと止めるつもりだったのに。
――上手く言えないから、ほんのちょっと後回しにしただけだったのに。

彼女はいつの間にか忘れていた。


――私は、ヒトなのに。


だが、そこで彼女は最初に上手く口が動かなかった理由に思い至る。
信じられなかった。吐き気がする。


――本当は、嬉しくなったりしちゃ、いけなかったのに。


崩れ落ちそうになった彼女を力強い腕が支えて、低い声が半ば裏返って彼女の名を呼んだ。
心配そうにこちらを覗き込む主人の緑の目に、いっそ自分を射抜いて殺してくれないか、と彼女は願った。


――そんなことを願うくらいなら自分で死ねばいいのに、それすら出来ないから。


だから自分はヒトなんだと、今日いつの間にか忘れていた現実を、喉の奥にじわじわと蘇る血の味と共に彼女はやっと思い出したのだった。 

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