猫耳少女と召使の物語@wiki保管庫(戎)

犬国奇憚夢日記12d

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匿名ユーザー

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 ~承前

「で、今は誰が一番儲けてるの?」

 豪華な調度品に埋め尽くされた部屋の中央付近その大きなテーブルはあった。
 車座になって並ぶ形の大きな円形テーブルの周りには、等間隔になって座る12名のイヌの男女。
 だれ一人として同じ血統種の居ない場だが、不思議とその姿は調和していた。

「そりゃ~アリス。君のところに決まってるじゃないか」

 ハッハッハと微妙に乾いた笑いを混ぜて初老のイヌが答えた。

 スロゥチャイム公爵家と並び称される古い血統の一つ。
 尖ったマズルにピンとたった三角耳が特徴のスピツラッツ公爵家。
 その公爵家のすっかり老成し豊かな白髪を綺麗にそろえた頭首は白小麦のパンにクリームチーズを塗りながら食べている。

「ソティスの食料は君が握っておる。急に止めたりしないでくれよ。ウチが困るからな」

 上品な物腰と穏やかな口調だが、そのイヌは周囲を圧する威を持っていた。
 他の席に座るイヌを圧するほどの威圧感と言って良いのだが、見方を変えればその姿は貴族と言うより配下を沢山従えた山賊の頭領の様でもあった。

「何で困るんだい?いつものように武力制圧してしまえば良いだろう?」

 幾つか席の離れた場所で優雅にグラスを揺すっていたイヌが言った。
 左右の瞳の色が違う、白と黒の体毛に覆われた大柄のイヌ。
 椅子の後に投げ出されるようにして伸びる尻尾は太く逞しい。
 まるで石工の様な太い腕には金色に輝く腕輪が光っている。

「そうも行くまい。大体にして力で圧すると、その分跳ね返りも大きいしな」
「おぉ!それは知らなかったよ。冷酷ヴェルダにも温情があったのか!」
「何を言ってるんだねヤートン。人聞きが悪いじゃないか。現実主義と言ってくれ」
「なんだ。なんともまぁ、ものは言いようだな」

 ハッハッハッハ・・・・

 僅か12名の公爵が円卓に並び丁々発止の掛け合いを続けている。

 話を聞きながらアーサーは恐怖と緊張に身を硬くしていた。
 母であり公爵家の頭首としてこの席に出ているアリスのすぐ後に彼は立っていた。
 事前に聞いていた枢密院議会のイメージとはかけ離れた、言葉には出来ない空気で充満した部屋の中だ。
 握り締めた手の中に汗をかき、マヤが持っている大き目のハンカチで、時折手を拭いている。

 上手く相手を怒らせて拳を振り上げさせ、その拳を下ろす大義名分を勿体ぶって売りつけて恩を売り、その分の見返りを得る。
 勝ってはいけないと言うなんとも微妙な暗黙のルールで、経験に勝る相手に対しどう戦うのか。
 答えの無い問いの、その最良の不正解を探さねばならない・・・・

 上等な背広に袖を通し、綺麗に髪を揃えて立っているものの、その背中には嫌な汗がじっとりと滲んでいて、なんとも不快にさせていた。

「アリス。君の息子は無口だな」
「珍しく緊張してるのよ。なにせほら。山賊とか海賊とか……悪党しか居ないでしょ?」
「君のポジションはどこだね?」
「そうね。誘拐された被害者と言うところかしら?」

 再び微妙な緊張が伴った笑いが響き、アーサーは生きた心地がしなかった。
 剣と剣をぶつけ合い、火花を散らし、命のやり取りをする軍(いくさ)場の方が性にあっていた。
 僅かな眩暈を感じ、泳がせるように視線を彷徨わせ部屋の中を一巡する。
 そこに居並ぶイヌ達はこの国の真の支配層。

 だが、どう見たって立派な聖人君子の貴族なんて姿には見えない。

 いつぞや、ルハス一家の頭目の護衛と言う大義名分で出席したマフィアや犯罪組織の首領が集まる会合の席で垣間見た光景。
 その見えぬ刃を突き立てあいながら、笑顔で歓談する恐るべき夜会の雰囲気と酷似していた。

 ふと、スロゥチャイム公爵の隣に座っていた厳しいしかめっ面のイヌがジロリと視線を向けてきた。
 指より遥かに太い葉巻をくわえ、倣岸な笑みを浮かべるその男はまるで闘牛士だとアーサーは思った。
 鋭い眼光を放つその男は煙を吐き出しながら低く轟くような渋い声音で言った。

「なに。すぐに慣れるさ。若いの。楽しんでいけ」

 僅かに肩を震わせ笑うような素振を見せ、今度は円卓の側にもフーッと煙を吐き出す。

「さて。じゃぁそろそろ始めるかね。この国を混沌と腐敗へ導く責を負った、呪われし一族のその代表の諸君」

 部屋の中の空気がガラリと変わる。
 その刹那、アリスはアーサーを呼び寄せて耳元で囁く。

 ―― マサミはあの男をブルドッグって言ったわよ。覚えておきなさい。

 コクリと頷いてアリスの後ろに立っているアーサー。
 一際大きな体と長い手足が部屋の中でやや浮き気味だ。

 だが、そのアーサーの向かいからやや外れたあたり。
 アーサー達緋耀種よりも鼻先が長く通り、男ですら女たちの様に長く髪を伸ばしたイヌが居た。
 その男はアーサーよりも長い手足を優雅に組み、ヘビの一族のような衣装をまとっている。
 遠い昔、砂漠など灼熱の地域を生活の場にしていたイヌの一族の末裔だとか・・・・とアーサーは聞いていた。
 士官学校で習ったイヌの古代史に寄れば、イヌと言う種族がかつて世界中に散らばってその地域に適応し生活してきた結果だとか。
 そしてこの種族はイヌの中で最も古くオオカミとの分化を終えた『血統』としての地位を得たのだと言う。
 独特の甲高い声は砂や岩で作られた遮蔽物の無い地域で笛の音が遠くまで聞こえるのと同じ事なんだろう。

「そうか。今回の議長はスペンサー卿であったか」
「卿はやめてくれたまえサルク。他人行儀ではないか。ウィンクでよい」
「ここではファーストネームで呼び合うのだったな。まだ……慣れぬ」
「君の家はイヌの歴史そのものだ。自信を持ってくれたまえ」
「お褒めに預かり恐縮だ。サー・ウィンストン・レナード・スペンサー」

 胸に手を当てて僅かに会釈したそのサルクと呼ばれたイヌ。
 そのイヌの絶対的な社会習慣として、また、障壁として存在するもの『血統』。

 この場で席に着いて話が出来るイヌは、ル・ガルの長い歴史の中でも相当古い時代に血統としての分化と純化を終えた家ばかりだった。

 イヌとオオカミがまだ同じ一族として生きていた時代から連綿と続くその歴史の中で、オオカミの血統に見られる特徴を捨ててイヌとして独立した事を『純化』と呼ぶ。
 遠い遠いはるかな昔。
 平原で暮らす様に適応したイヌ族の祖先、トマークタスから始まった種としての歴史を紐解くと、イヌとオオカミはどうしても断ち切れぬ深い縁があった。

 オオカミだけでなくジャッカルやキツネやタヌキや、そしてもっと多くの同じような骨格を持つ種族の祖先がトマークタスと言われているが、そこからイヌは分かれていない。イヌはあくまでオオカミから分かれて行った種族として認識されている。

 イヌとオオカミは交配できるが、イヌとキツネやイヌとタヌキでは交配できない。
 同じようにオオカミもジャッカルやキツネ・タヌキと交配できない。

 種族としての障壁を生み出すのが本来純化なのだが。
 しかし、イヌの場合はオオカミと交配出来てしまう関係で、交配しても血統としての特徴が埋没してしまわない事を意味している。

 だからこその同族嫌悪として、イヌとオオカミは昔から仲が悪い。

 その仲の悪い同士でも、ごく稀に子供が生まれてきたりする。
 その時に元の特性を失ってなければ、その血統はオオカミから独立したと認められるのだった。

「君にフルネームで呼ばれるとこそばゆいな。ウィンクと呼べぬならこう呼んでくれ」

 僅かに目を細めて視線を送ったサルク。
 長い髪を掻き揚げて、じっと見ている。

 目が合ったその『ブルドック』のようなイヌ。
 ウィンクは、もう一度フーッと煙を吐き出してから、勿体ぶって言った。

「チャーチルと」

 円卓を囲む公爵たちが一斉にクスリと笑った。
 釣られるようにしてウィンクも笑った。

「ウィンクはすっかりお気に入りなのね」

 半ば呆れるようにして笑ったアリス。

「あぁ、もちろんだ。我がスペンサー家にもヒトの男がおるでな。あやつから聞けば聞くほど、ワシはその男に合ってみたい。まぁ、叶わぬ夢だがな」

 ウィンクは部屋の中を一瞥し、部屋の入り口に立っている歩哨へ目配せした。
 正装で立っていた部屋の中の小間使い役が各々に声を掛け、公爵家の12名とアーサーだけを残し、それ以外に退室を促す。
 各家の頭首が、それぞれに従えて来た従者や、何処かで雇った政策顧問といった者たちが、それぞれに部屋の中へ残る公爵たちへ挨拶し、部屋から出て行く。

「マヤ。控え室で待っていろ。迂闊にそこらへ出歩くなよ」

 ニコッと笑ったマヤは、部屋の中の貴族たちへ丁寧に挨拶し、アリスの私物のカバンとアーサーの上着を抱えて部屋から出た。

 重々しい音が響き、分厚い姥目樫の一枚もので作られた扉が閉まる。
 その前には分厚い緞帳が下ろされ、室内の声は一切外には漏れないようになった。
 銃を持った歩哨が5名。ドアの前に立っている。

 マヤはそのもの達にすらもスカートの裾を左右へ広げて丁寧に挨拶をした。
 居並ぶ歩哨が敬礼でそれに応えた。
 例えヒトであっても公爵家の一員とみなされるのだろうか。
 マヤはそれがなんとも可笑しかった。

 スロゥチャイム公爵家専用の控え室へと歩みながら、ふと窓の外を見る。
 驚くほど大きく、そして絢爛な意匠を施された彫像が並んでいる。
 降り注ぐ日差しは眩いほどだが気温はそうでもない。

 部屋の中で何を話しているのだろう?

 ふとそんな事が気になったのだが、おそらくそれを耳に出来るのは、マヤの兄、ヨシヒトだけだろう。
 きっとマヤの知らぬ多くの事を兄は知っていて、その上でポール公やアリス夫人と相談しているだろう。
 かつて、マヤの父マサミや母カナがそうだったように。
 ヨシヒトはこんな問題を幾つも頭に詰め込みながら、それでも涼しい顔をして、城の中を巡回しているのだろう。

 それ以上の思案は無駄と察して、視線を遠くへと向けたマヤ。
 長い廊下の途中にある部屋の前に立って一つ小さな溜息をついた。
 大きな家紋の掘り込まれた専用控え室の扉は、重厚な赤樫で作られていた。

 いつだったか、まだ父マサミが若かりし頃の事だ。
 部下を集め指示を出し、何度も作り直しをして出来上がったのをマヤは覚えていた。
 そして、失敗作とも言うべき複数の扉は、紅朱館の各部屋にある扉へとリサイクルされていた。

 公爵家の集まる枢密院議会の場で、精一杯の見栄を張るためのもの。

 他の公爵家から舐められないように。
 足元を見られないように。
 面会にやってくる中級下級の貴族たちに、スロゥチャイム家の威光を知らしむる為に。

 さすが公爵家と唸らせる為に。時にはこういう物も必要なのだろう。

 ただ、王都ソティスの中心にそびえる王城の、その重厚にして絢爛を極める意匠を施された内部の。
 数ある扉のひとつとしてここにあるそれは、他の扉に比べ秀でているとか優れているとか、そういう印象を抱きにくい事も確かだ。
 他と比べ”負けていない”と言う部分が、実は最も重要なのではないかと思えるほどだった。

 余り収納を考慮されていないドレス仕立てのワンピースは、エプロンに隠れる部分にこっそりとポケットが付いていた。
 メイドの衣服に物を隠す場所があっては色々とまずい。
 極々当たり前の話なのだが、それでも時には困る事もある。

 小さなポケットから取り出した真鍮製の鍵を鍵穴に差し込み、手順に従ってドアに掛けられた鍵を外すのだが・・・・
 金庫の符号錠と同じ構造の筈の鍵が開いている。
 普通の方法でこの鍵を開ける事は出来ないはずだ。

 そしてそもそも。
 この鍵の解除符号を知っている人間は、スロゥチャイム家の人間だけの筈。

 マヤは少し身構えて部屋の扉を開けた。
 そっと再び鍵をポケットにしまったのは無意識だった。
 ドアを奥へと押し開けて、一歩踏み込む素振りだけして、すぐに身を手前に引いた。
 ドアの影に誰かがいれば、このタイミングで襲い掛かってくると思ったからだ。

 10秒ほど時間を掛けてから、そっと部屋の中へと入ってみる。
 出来る限り音を立てないようにドア閉めたのだが、再び鍵がロックされるガチッ!と言う音が部屋に響いた。

 上質な調度品の並ぶ室内。
 窓はすべて閉められている。

 周囲を警戒しつつ、マヤは窓辺へと歩み寄って鍵を確かめた。
 どれひとつとして、鍵の空いている所は無かった。

 何故ドアの鍵が開いていたのか?それが凄く不思議だった。
 警戒が疎かになり、頭をフル回転させて理由を考え始めるのだが、その刹那に口から心臓が飛び出てくる程にマヤは驚いた。

 本来はスロゥチャイム家以外の者が入れないはずの室内に、ル・ガルの官僚服を着たイヌがいた。
 見た感じではポール公よりだいぶ年上のベテランと思しき黒曜種のイヌ。
 その肩には、官僚階級を示す金の肩飾りが光っていた。
 赤の飾り刺繍が入った金のモールが8本。
 何処かの省庁の事務次官級の高級官僚だろうか。

 いつもはアリス夫人が座っているソファーへ、至極当然のように座っていた。

 余りに堂々とした態度に一瞬だけ動揺したのだが、表情の僅かな揺らぎすらもギリギリで堪えて狼狽振りを相手に悟らせないように頑張った筈だ。
 ただ、どうもこの場では相手の方が一枚上だったようだ・・・・

「あぁ、すまない。勝手にお邪魔しているよ。ここへ来ればスロゥチャイム公爵と話しが出来ると思ったのだが、まだ枢密院議会の途中だったか。残念だな。ただ待つと言うのはどうも苦手でね。困ったな」

 一方的に話をして、ニコリと笑ったそのイヌは、すぐ後に立っていた付き人と思しき者へ僅かな指の動きで指示を出した。
 どう見てもただの官僚などではなく、軍人か特殊部隊の隊員だろうと思わせるような、堂々たる巨躯のイヌの男たちだ。
 マヤの表情に一瞬だけ怯える様な色が浮いたのだが、それを隠そうとする前にそのイヌの高級官僚がニコッと笑った。

「あ、あの。どちら様でしょうか?」
「誰だって良いじゃないか。ただの一公務員だよ。単なる公僕さ。なに、そう怯えなくてもいい。別に手篭めにしようとか取って喰おうって話じゃないんだ」

 その男の指示だろうか。
 イヌの大男たちが無造作にドアを開けて部屋を出て行った。
 内側から鍵を開けるのだって、それなりに手順を要する筈なのだが・・・・・

 目を見開いてその様子を眺め驚くマヤ。
 不思議そうにして、そして僅かではなく狼狽しているのがてに取るように分かる。

「君の疑問はもっともだ。でもね、鍵を簡単に開ける魔法と言うのもあるんだよ。それにね、この城の内部を警護する者はどの部屋にもスルーパスで入れるようになってるんだ。そうじゃないと何かあった時に困るだろ?」

 手持ち無沙汰そうにしながらソファーに座りなおしたその官僚の男。
 肩に揺れる金のモールが重々しく揺れ、忌々しげに視線が部屋の中を彷徨った。

「ちょっと驚きましたが・・・・当然ですね」

 精一杯取り繕って、出来る限り落ち着いた様子でマヤはそう言った。
 だが、完全に見透かされていると、そう確信もしていた。

「分かってくれれば良い。驚かせてすまなかったね。君も座ったらどうだい?」
「では・・・・ 失礼します」

 作り笑顔を浮かべて、マヤはその男の前に座った。
 なんとも非常に気まずい空気があった。
 いや、気まずいと言うより重々しい空気だ。

 なんともいたたまれない座りの悪さを感じて、マヤはちょっと大げさに座りなおした。
 その刹那、半ば無意識にマヤの視線は部屋の四隅へと向かった。
 そして、ほんの僅かだがマヤの目が何かを捉え、一瞬だけ眉頭がピクリと揺れた。

「どうしたのかね?」
「いえ、いつもの癖です。部屋の中を掃除するのも私の仕事ですから」
「仕事・・・・か」

 何かの反応を確かめるかのようにジッと視線を向けてくる官僚の男。
 マヤはその視線に気圧されつつもニコリと笑って居住まいを正し、そのままテーブルの隅に置いてあったバスケットを引き寄せ、中からリンゴを取り出した。

「スキャッパーで収穫した物です。お口に合いますかどうか」

 そう言いながら、エプロンの上にナプキンを敷いて、マヤは皮をむき始めた。
 その流れるような指先の動きが、官僚の男の目をマヤの表情から引き剥がし、滑らかに動く刃先へと釘付けになる。

「ヒトは単なる遊び道具だと思ってきたが・・・・ なかなかどうして」

 わざと気に障ることを言ったつもりだろうか?
 マヤはそれが少し不思議だった。

 自分がもし第1世代のヒトならば、きっと怒ると思っているのだろうか?
 それとも、怒るか怒らないか確かめて、世代確認をしたつもりだろうか?
 いや、むしろ世代に関係なく、キチンと躾けられているかどうかの確認か?

 どう反応して良いのか。
 その答えを探し出せず、マヤはとりあえずニコリと笑みを向けて、再びリンゴに目を落とした。

「 ・・・・気に障ることを ・・・・言ってしまったかな?」

 再び確認するような言葉。
 そして、それはつまり、その言葉は本質では無いと言う事は無いと、二重の否定の暗なる自白。
 問いの言葉のその本質は根本的に別のところにあると、マヤは確信した。

「遊び道具かどうかは私には分かりません。求められれば喜んで応えますし、楽しんでいただければ、それに越した事はありませんから。でも」

 次の言葉を選ぶようにマヤは言葉を切った。
 ふと、男の眼差しがマヤの両目へと注がれた。

「でも?」

 ちょっと強い口調だった。
 だが、マヤはそれを気にせず目をナイフへと落とした。顎を引き顔自体を下へ向けて。
 それに釣られるようにして、官僚の男の眼差しもまたナイフへと向けられる。
 全くと言って良いほど先を取れなかったマヤの、絶妙の間合いで入れた反撃の糸口。

「道具に意思があるかどうかを確認するのは、ちょっと冷たくないでしょうか?道具なら道具と割り切っていただかないと。このナイフのように」

 言葉が終わるか終わらぬかのわずかな間に、マヤの手の中にあった小さな果物ナイフが彼女の手の中で一瞬、翻った。
 窓から差し込む光が刃先に反射し、それを見つめていた官僚の男の目を焼いた。
 咄嗟に目を細めたその男のうっすらと見える視界の中、まるでハエでも追っ払うかのように、マヤの右手が空中を彷徨った。
 その拍子に後へと流していたマヤの豊かなロングの黒髪がはだけ、まるで解けた髪を後へかき上げるように右へ腕が翻った。

 それだけだった。

 そして、その直後。
 広い部屋の片隅へ置かれた花瓶に生けられた、名も知らぬ花の一つが音もなく床に落ちた。
 床でバウンドし花びらを撒き散らして崩れて、その床には赤いシミがポタリと落ちた。

「そこで何をしていますか? ここは公爵家専用控え室ですよ」

 まるで舞台の上で踊る女優が言い放った冷たい台詞のように。
 マヤの口から非常に厳しい詰問調の言葉が放たれた。

 その言葉に驚いて官僚の男が目を見開いた先。
 マヤの右手にある指の全ての隙間にナイフの刃が挟まっていた。

 右の肘を左側へ極限まで絞り、しなやかに撓る上腕の動きだけで、そのナイフは飛んで行くだろう。

 壁際の花瓶の向こう。
 驚くほどに風景に溶け込んで隠れていた男が、のっそりと姿を現してきた。
 全身に黒とグレーの警備服を着ている城内警護のイヌだった。

 手の中には、咄嗟に受けたナイフがあった。
 飛んできたナイフを取り損ねたのか。
 右の手の指から血を流していた。

「まだまだだな。下がれ」
「失礼しました」

 冷たい口調でそう命じた官僚の男。
 警護のイヌはやや震える声で答えて部屋からフッと消えていった。
 ドアや窓が開いた形跡は無い。本当に煙のように消えていった。

 まるで人形の様ににこやかにしていたマヤが、驚くほどに鋭い視線を送っていた。
 その眼差しの鋭さに官僚の男は表情には出さずに驚いていた。

「あのヒトの夫婦の娘ならばこの程度は当たり前か。いやいや、恐れ入った」

 ソファーの背もたれへドサリと体を預けた官僚の男。
 両手を左右へ広げて首を振りながら笑っていた。

「君を試してすまなかった。ただね、ちょっと見てみたかったんだ」
「あの、私の父母をご存知なのですか?」
「もちろんだとも」

 クックックとかみ殺した笑みを浮かべ、楽しそうな眼差しをマヤに向けた。

「今から30と数年前、同じように勝手に部屋に入ったら君の父親に問答無用で銃で撃たれたよ。もちろん実弾でね。その時、君のお父さんはね、私にこう言ったんだ。死体は反撃してこないから安全だって」

 改めてソファーに座りなおしたその官僚の男。

「適当に言い繕ったら今度はステッキで殴られた。事前動作無しでいきなりね。お陰で頭にこぶが出来たよ。あれは痛かったなぁ」

 苦笑しつつ頭をさすったそのイヌは、真底楽しそうだった。
 マヤは指に挟んでいたナイフをバスケットの中へ戻し、一本だけ取り出してリンゴを切り分け、皿へと乗せて男の前に置いた。

「父が失礼をしたのですか」
「いや、至極当然の反応をした。そして君も今同じことをした。この部屋の中は王ではなく公爵の持ち物だ。この中だけは王も軍も介入できない。それに」

 極限まで薄く皮をむいたリンゴは綺麗に8等分されていた。
 まるで定規で測ったように切り揃えられたそれは、彫像のように角が立っていた。
 刃物を自由自在に扱えると言う事がそこから読み取れるのは、相手もそれなりだから。
 美味そうにリンゴを齧りながら、官僚の男の言葉は続いた。

「それにね。生き物にはみな尊厳と言う物がある。言うなれば、そう、名誉だ。誰かの持ち物だなどと言うのは本来ありえん事なんだよ。意思を持つ生き物ならば自分の運命は自分で決める権利がある。それをよこせだとか好きなようにさせろと言われれば、誰だって怒っても良いのだろうね」

 バリバリと音を立ててリンゴを齧り、美味そうに飲み込む姿はあの貧民街で見たイヌ達と同じだった。
  食べ物にありついて、それを美味そうに嬉しそうに食べる姿。
  貧しいイヌの国では食べ物にありつき、ただひたすらに食べる事こそが最上の楽しみ。

「そのナイフは誰に習ったのかな?」
「母が教えてくれました」
「君のお母さんはどこでそれを覚えたんだろうね?」
「私はそれを知りません。ただ、相当練習したと聞いています」
「相当?」
「えぇ。アチコチ手を切りながら、3年は練習したそうです」
「そうか」

 三つ目のリンゴを食べ終えると、官僚の男はポケットから一枚の書類を取り出した。

「これはル・ガルの身分証明書用の準備書類だ。まだ名前は入っていない」

 丁寧に折りたたまれたその書類をマヤは広げた。
 既に国主と国務大臣のサインが入ったそれは、ル・ガルの国民としての権利を保証する担保としての重要な書類だった。
 つまり戸籍登録証としての身分証明書。
 イヌならぬ種族の者がル・ガルの国民として住民登録する為の、いわば帰化申請書類。

 例えそれが奴隷扱いされるヒトだったとしても、国主と国務大臣のサインがあれば、それは有効な筈だ。
 過去、ル・ガルで住民登録されたヒトは国主イリア姫の付き人をしていたヒトの男や、国境警備上がりの軍の政務官に拾われた若いヒトの娘など、極僅かだと言うそうだが・・・・・・

「君のお母さんにそれを渡すはずだったんだがね。色々あって手渡せなかった。君のお母さんがカモシカの国と縁があったのは知っているかね?」
「えぇ。もちろんです。母から聞きました」

 官僚の男は満足そうに頷いた。

「ならば話しは早い。それでね、君のお母さんをエサにカモシカの国を釣り上げるつもりだったんだがね。その前に君のお母さんはルカパヤンの住民になってしまった。だから不要になったんだよ。でもまぁ、約束は約束だからな。イヌは約束を守る生き物だ。30年越しだが、今確かに手渡したからな。後は上手く使うと良い。それをどう使うかは君の意思だ。まぁ、とりあえず、公爵には全部言っておくといい」

 よっこらせ・・・・
 やや重そうに立ち上がったイヌの男。
 マヤも併せて立ち上がった。

「君は座っていても良いのだよ?」
「いえ。そういうわけには行きません。上下(かみしも)を分からぬほど愚かではありませんから」

 右手を上げて分かった分かったと言いたそうにして。
 そのままその男は部屋を出て行った。
 相変わらず、無造作に鍵を開けて、まるで普通の扉のように。

 マヤはちょっと気を抜いてソファーへドサリと腰を下ろした。
 背もたれへ体を預け、天井を見上げて目を閉じる。
 シーンと静まり返った部屋の中。コチコチと時を刻む時計の音が妙に耳障りだ。

 ふと、何処からか違う音が聞こえた。

 眠っていた獣が飛び起きて周囲を警戒するように。
 マヤは瞬間的に神経を集中して周囲を警戒している。
 その音の正体が何であるかを確かめねば、落ち着くに早すぎる。

 息を殺して部屋の中をゆっくりと見回す。
 先ほど、背景に溶け込むようにしていたイヌの男だろうか?
 部屋から出た形跡はなかった。本当に煙の様に消えていった。

 まだ部屋の中にいるかもしれない。

 そっと立ち上がって部屋の中を一周し、周囲を確認する。
 だが、これと言って異常はなかった。おかしい所もなかった。
 少し気持ち悪くなってソファーへ戻り、皮を剥いたナイフを取り出して丁寧にふき取り、元の場所へナイフを戻した。

 そしてその時にマヤは気が付いた。
 先ほど、一本投げて足りなくなっている筈のナイフがそこにある事に・・・・・

「公爵家のヒトですらも掌の上の些事だと・・・・ そういう事・・・・ なんですね」

 なんとも言えぬ気持ち悪さを抱え、マヤは少し混乱していた。
 ただ、逆に考えれば、これだけの事が出来るのなら、いつでも自分などどうにかされていると気が付く。

 ソファーの背もたれへ体を預け、マヤは目を閉じた。
 眠ってしまおう。そうしよう。
 やがてアリス夫人が戻ってくる筈だから、そしたら有態をすべて話せば良い。

 やがて静かな寝息を立ててマヤは眠ってしまった。
 煙の様に消えた筈のイヌがフッと姿を現して、公爵家の人間すら知らぬ秘密の隠し扉から出て行くのにも気が付かずに・・・・

 第12話 第4部 了

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