猫耳少女と召使の物語@wiki保管庫(戎)

犬国奇憚夢日記12a

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 ル・ガル南部最大の建築物として、その威容を誇る聖導協会の大聖堂と対峙する様にそびえるスロゥチャイム家の本拠、紅朱館。

 栄えるスキャッパー地方の象徴として機能するこの巨大な建造物は、それ自体が一つの観光スポットとなっている。
 そして、春の陽気になり始めたこの地方に観光客を呼び込むもう一つのコンテンツが、紅朱館まえから続く大通りにあった。

 かつてトラの国を旅したマサミとカナが持ち帰ったのは、ヒトの世界の桜に良く似ている花樹の苗木。
 根付いて次の花を咲かせ始めた頃から、ロッソムの街の至る所で春を迎える頃合を美しく彩る風物詩になっていた。
 それだけでなく、いつの間にかこの地方の春の観光風物として秋の収穫祭と共に大層な評判を呼ぶようになっている。

 見事に続く桜並木は大通りを挟んでトンネル状に枝を伸ばし、実に500本余を数えるほどに育っていた。早くも散り始めた桜の花弁は川面に落ちて、ピンク色の帯を作り、ネコの国へと流れていく。

 長く冷たい冬が終わり、峻烈な春の芽吹きと滔々たる雪解け水の季節を過ぎると、この地方は短く鮮やかな夏を迎える。僅かしかない観光シーズンの到来を告げる鮮やかな広告塔。良い季節になったぞ!と観光客を呼び込む宣伝の役目も果たしていた。

 ・・・・遠い日。

 全く知らぬこの世界へと落ちてきたヒトの夫婦が、すっかり遠くなってしまった自らの『祖国』を思い出す光景。自らが何者であるかを忘れないための、その重要な語り部だった・・・・

「すっかり春だな。いや、モタモタしてるうちに夏か」

 紅朱館の最上階。
 大きなバルコニーから下界を見下ろすポール公は、未だ陽が高いと言うのにウィスキーをストレートで煽っていた。
 柔らかに降り注ぐ初夏の日差しが琥珀色のグラスを通り抜け、白く瀟洒に設えられたテーブルへ透き通った琥珀の影を落とす。

 かつてここで、何度も何度も。春が来るたびにこうやって酒を飲んでいた。
 向かいには年老いたヒトの男がイスに腰掛けていた。
 僅かに微笑んで下界を眺め、やや水の多いウィスキーを飲んでいた。

「どうした?酒が減ってないじゃないか。俺の酒が飲めないか?」

 テーブルを挟んだポール公の向かい側。
 小さな写真立てにはマサミの肖像写真があった。
 苦みばしった渋い顔で。だが、その目は笑っていて。
 厳しくも優しかった男の姿が写っている。

 そしてその前には小さなショットグラスと、なみなみと注がれたウィスキー。

 肴の無い、酒だけの酒宴。
 誰もいないバルコニーで一人語りかけるだけの酒宴。

「良い春だな。もうすっかり雪も溶けた。今年も豊作になるだろう。お前のお陰だ」

 マサミの為に注がれたウィスキーをぐいっと飲み干して、空になったショットグラスにもう一度ウィスキーを注ぐ。
 鼻腔をくすぐるオーク材の焦げた香りと、ピートモスの灰の臭い。

 何も特産物が無く、絶望的に貧しく、農業生産量の乏しいスロゥチャイム家の所領。このスキャッパーへ。富と名声をもたらした・・・・その燃え盛る炎のような情熱に焦がされた香りと余熱。

「今年の感謝祭にはしっかり勿体ぶって王都へ売りつけてやるさ。どうせ絶望的な状況だ。要らぬとは言えんだろ」

 10年近く続く慢性的な農作物の不作。
 イヌの国、ル・ガルの国内は慢性的に食料が不足していた。
 農務行政の構造的不作であり、これはもはや人災で有ると学府から散々指摘されているにも拘らず、担当者のメンツの為に全くと言って良いほど改善が施されていなかった。

 それ故。近年、王都ソティスの食糧事情はスキャッパーの供給する糧秣が需要の底を支えている。ただ、スキャッパーがどれ程に豊作続きであろうとも、王都の胃袋を支えきれるほどの収穫高がある訳ではない。
 ル・ガルの餓える周辺部から仕事と食料を求めて流れ込み続ける人口は、王都の生活限界を超えてしまっている。想定以上に人口が増えれば、供給が滞るのは自明の理。

 スキャッパーとて自前で食べる分は確保しておかねばならない。
 足りない分の糧秣をどうやって集めるのか?

 先代の執事は全てを見越して幾つもの手を打っていった。
 それも、出来る限りイヌに有利な形になるように・・・・だ。

 近隣諸国からやって来た観光客が落としていくネコの通貨セパタ。
 観光と言う鉱工業実態の無い産業により集められたその資金は、トゥン立て決済に比べ為替操作により不利になる事は無い。

 スキャッパーの食料調達バイヤーチームは、ルカパヤンの糧秣市場で一定の地位を得るだけの買い付けを行っていた。
 そして、そのチームが送り込むセパタこそルカパヤン発展の基礎資金でもある。

 生産の現場から見たならば、イヌとかトラとか種族的な事はあまり関係ない話だ。
 他所より高く買ってくれる客はどんな種族であろうと大事にされる。
 ルカパヤンの市場大卸はスキャッパーが送り込む資金を使って世界相場よりも高値で世界中から糧秣を買い集めていた。

 絶望的なまでの種族間階級差を木っ端微塵に打ち砕く武器は、どんな世界であってもお金でしかない。
 他を出し抜く情報戦と仕手戦を駆使し、他人に損をさせて儲けを得る経済の原則が、この世界でも生きていた。

 そして、それだけでは収まらないように、さらに効率よくスキャッパーが集金し続けるシステムがもう一つ。

 買い集めた食糧を輸送するのはネコやトラのシンジケートたちだ。
 基本的にセパタ決済を一切認めないル・ガル国内に於いて、彼らが使うトゥンを手数料を取ってセパタから両替し、当然、その逆も行われている。
 しかも、基本的にトゥン安傾向で固定されるスロゥチャイム家のレートは、多少損した感はあれど、わざわざネコの国の煩雑な手続き無しに両替出来る便利な窓口だった。

 なにをしても儲かるシステム。
 絶対に損しないように。間抜けなイヌがネコの口車に騙されて損しないように。
 慎重に慎重に練られ作られたシステムはマサミとカナの合作による芸術作品の域だ。

「今年はソティスの食料の大半をうちが収めてやる。それで・・・・あの野郎の首を取ってやるさ。ジョン公の恨みは俺が晴らすさ・・・・」

 恐ろしい事をボソリと呟いて。
 ポール公は残っていたグラスの中身を飲み干した。

「あ、御館様、こちらでしたか」

 階段を上がってきたヨシがポール公の姿を見つけた。
 ゆっくりと振り返ってにやりと笑うその姿に、ヨシはポール公の孤独を感じた。

「まだまだ風が冷たいです。お体を『平気だ』

 歩み寄ったヨシはテーブルの上に飾られた父の写真に気が付いた。

「御館様・・・・」
「実に詰まらん。この野郎は俺の酒が飲めないらしい」

 寂しそうに笑うポール公。
 ヨシは何も言わず父マサミのグラスを持ち上げて一気に飲み干した。

「・・・・っあふ!」
「はっはっは!どうした!」

 一気に煽ったウィスキーはシングルカスクの樽出しそのままだった。
 軽く70度はあろうかと言うアルコールにヨシの胸は焼かれた。
 だが、涙目になった理由はそれだけじゃなかったようだ・・・・

「これ、ストレートじゃないですか!」
「そうだ。奴とはこれを煽っていたぞ?」
「親父は・・・・ きっとこれで体壊しましたね」
「そんな人聞きの悪い事を言うな。ちゃんと水割りだった」

 楽しそうに笑うポール公とヨシ。
 柔らかな風がバルコニーを過ぎ去って行った。

「所で何の用だ?」
「あ、大事な事を忘れるところでした。先ほど軍事郵便が届きまして、開封証明にサインしろと」

 ヨシが差し出した小さな封筒を無言で受け取ったポール公は、小指の爪で器用に開封し中を覗きこむ。
 袋の中に入っていたのは、更に小さな、しかし、より上等な素材の封筒だった。

 二重封筒になっているのは、少なくともヨシの知る限り高階級な将軍職以上の者への秘密伝達だ。
 そして、それなりの階級か官職にある者でなければ、こんな手の込んだ事はしない・・・・

 魔法を使って封印された蝋の口は、開封するのにちょっとした儀式を要する。
 簡単な開封魔法だが、そのキーワードは特定の人間しか知らない筈。
 面倒くさい・・・・・ そんな表情で中に書いてある書類に目を通すポール公。
 途端に表情が厳しくなるのをヨシは見ていた。

「・・・・お前も読め」
「いえ、自分が読むのは・・・・」
「よいのだ。お前は執事だ。全部知っていろ」
「はい」

 小さな便覧に書かれた文字列は僅か二行だった。

 ―― この春。枢密院の秘密会議が招集される模様。各地域の要職者は最大限便宜を図れ。
 ―― なお、一切の妨害を挟むべからず。内外総監大臣の直接指令である。

 内外総監・・・・
 つまりは数年前に逝去した国王の跡を継ぎ国主の座に就いた女王イリア公をサポートすると言う大義名分で、まんまと誰にも邪魔されずに国家を乗っ取ったサリクス将軍の僭称。
 未だ肩書きは内大臣なのだが、彼の認可や決済が無ければル・ガルでは政治的に何も出来ない。

「どういうことでしょうか?」
「・・・・さぁな。俺が口を挟める内容じゃない。ただ、今回はアリスにアーサーを連れて行かせるつもりだ」
「いよいよ中央デビューですね」
「あぁ。あの出来損ないにも政治のごたごたを見せておかねばならん」

 小さな封筒に入っていた便覧へサインを入れてヨシへと付き返したポール公。 
 ヨシはその便覧を封筒へ収めてから、執事の割り印を入れた。

「ヨシ。その返信は明後日になったら出せ」
「しかし、返信は至急とありますが」

 フンッ!
 鼻で笑って下からヨシを見上げたポール公。
 その笑みはどこかの凶悪な犯罪者のようでもあった。

「構わんさ。アリスを含め枢密院の12名は集まるにしたって時間が掛かる。それまでに返信が届けばよい」
「中央から目を付けられます」
「もう付けられてるさ。それに、ここが潰れればル・ガルは内戦だ。スキャッパーが無ければル・ガルは首が回らんのだ」

 ショットグラスに半分ほど残っていたウィスキーを飲み干して、下品なげっぷを一つ吐き出して。凶悪な犯罪者が吐き捨てるように呟くまねをして・・・・

「だからあの男に・・・・ もう少しヤキモキしてもらわねば・・・・ な」
「御館様・・・・」

 ふと顔を上げたポール公の眼差しが、僅かに狂気の色を帯びている。
 それは酒に酔ったと言うことではなく、むしろ普段は隠している誰にも言わない本心の吐露の様でもあった。

「どれ程イヌが義理堅くとも、喰えぬほど飢えれば反乱が起きる。それに乗じる他種族の干渉も相当なものだろう。革命だ。ヒトの世界で起きた革命がこの世界にも起きる。それだけヒトがいるからな」

 どこか凄みのある笑みを浮かべてヨシを見据えるポール公。

「まともな政治家ならば共産革命より内戦を選ぶさ。他国から干渉を受けたとて、総体は維持できるし、死人の数は少なくて済む。もっとも、あの男は相当困るだろうがな・・・・ 結局はそれが目的さ。他の事など些事に過ぎぬ。我ら緋耀種の頂にあったイヌを一方的な理由で叩き潰してふんぞり返ったあのバカ男を権力の座から引き摺り下ろす。それが最終目標だよ」

 スッと伸ばした手のグラスへウィスキーを注がせ、その中に納まる琥珀の液へと眼差しを落とす。

 透き通る様でいてキチンと向こうが見えない透明度。
 うす濁ったかのような、それでいて透明感のある・・・・

「これが政治と言うものだ。まつりごとの本質だ。自分の手を汚さずに。しかも、勝たずに望む結果だけ得るのが最も良いのだ」

 グラスを僅かに持ち上げて乾杯の仕草を取った。
 その眼差しの先にあるのは・・・・マサミの写真。

「そうだよな。お前は本当にそれが上手かった」

 ニヤッと笑ってグラスの中身を流し込み、それしてまたにやりと笑う。

「それこそ、お前の父親が生涯を掛けてやろうとしていた事の本質だ。お前の父親を救ったジョン公のな、その無念を晴らそうと、それこそ寝ないでアレコレ考えていたもんだ。それに、おそらく個人的にも叩き潰したい理由があったんだろ。なんせお前の父親はあの腰抜け将軍の横っ面をステッキで殴った事があるんだぞ」

 凄く楽しそうにニヤニヤと笑いながら、どこかその反応を確かめるようにしてヨシを見ているポール公。だが、当のヨシ自身は父親のその目的やらなにやらの前に、とんでもない権力を欲しい侭にするサリクス将軍を殴った事に驚いた。

「・・・・え゙? まさか・・・・ 」
「いや、本当だとも」

 ショットグラスのウィスキーをちびりと飲んで。少し隙間の出来たグラスの淵から中身がこぼれないように、クルクルと機用に中身を廻す。

「名誉を与えず利だけ求めるなら、ヒトは名誉を求めて戦うと・・・・な。例え死んでも名が残る。今は無くともそれでよし。やがて名誉が付いてくるだろう・・・・そう言ったさ」
「よく粛清されませんでしたね」
「まぁ、確かにな。だが、本当の話だ。あの間抜け野郎は国家運営などヒトには出来んと言い切った。だからマサミはそれを鼻で笑って言ってやったのさ。コミュニストに国を乗っ取られるなら内戦をやれ。その方が死人が少なくて済むから。それも出来ない腰抜けなら政治家には向かないとな」

 呆気に取られ呆然とするヨシ。
 ポール公は楽しそうに笑っている。

「そもそもな。あの男はお前の父親にこう言ったんだ。ヒトは無能だから政治が安定せんのだと。ヒトの世界の政治の歴史は混乱とクーデターの歴史しかないじゃないかと。まぁ所詮ヒトの使い道などせいぜいベットの上の遊び道具だ。だから、ヨシ、お前の母親をよこせとマサミに嗾けたのさ。だが・・・・」

 黙って話しを聞いていたヨシ。
 ポール公は勿体ぶって続きを口に仕掛ける。
 だが。

「一緒に聞いてたカナがね。混乱は安定のもう一つの側面って言ったの。常に変わり続けることで安定を手に入れる。流れの止まった水は腐るだけって言ってね。イヌの国の水は、まだ流れていますか?と聞き返したら二の句が付けなかったから、マサミもカナも声を出して笑っていたわ」

 ・・・・なんだよ
 そう言いたげなポール公が振り返ると、そこにはアーサーとマヤをつれたアリス夫人が笑いながら立っていた。

「呼び出されたわよ。あのデバガメの馬鹿男から」
「あぁ、俺のところにも来たぞ。便宜を図れとさ」
「全くまぁ、結構なことね。王都へ参内するだけで一苦労な所もあるでしょうに」

 テーブルの上にある写真に気が付いたアーサーとマヤ。
 アリス夫人の眼差しが優しく写真を見つめていた。

「あなたのせいよ? 私たちがこんなに中央から目を付けられてるのは」

 そっと歩み寄って写真立てを持ち上げ見つめるアリス夫人。
 ジッと見つめる眼差しがまるで恋する乙女のそれに見えたのは、多分気のせいじゃないのだろう。何も言わず黙っているポール公もまた、色々と複雑な思いを抱えつつ、でも静かにそれを眺めている。

「アーサー。あなたは今回一緒に行きなさい。次からはあなたが行くの。良いわね」
「母上。それではまるで自分が」
「そうよ。そろそろ子供が生まれるでしょ?そしたら10年は戦地周りよ。死んだらどうするの?」
「・・・・死には ・・・・しないでしょうけど・・・・・」

 子供と家庭と領地と国家と。国家制度の根幹を成す公爵家の責任は重い。
 だが、逆に言えばそれ故の特権階級でもあり、そしてまたいくらでも抜け道を作れるシステム。

 この国の議会は一般市民から選挙によって選ばれた民生議会と、持ち回りな期限付き貴族議員による元老院の二院制が基本になっている。二つの議会は身分階級により厳密に色分けされ、元老院は民生議会に解散命令を出せるが、民生議会は貴族議員の罷免権を持ち、貴族の暴走を止める役目を負っていた。

 そしてそれらとは完全に独立し事実上最高権力機関として機能する枢密院は、両院の議案議決権や立法権などは無い物の、全会一致を条件に国主の命令を停止したり、または議会両院の議決を差し戻したりする事も出来るだけの力を持っている。

 司法・行政・立法・軍事の全権力を最終掌握する、僅か12の公爵家だけが集まる相談の場。
 王政府や軍部などが暴走した場合の、最後の防波堤。シビリアンコントロールの切り札。

 なにより。
 良識の府として機能する事こそが、枢密院議員としての特権を生かし自由気ままに財力を蓄えて所領を栄えさせ、勝手にイヌの国から独立してしまわないようにする、その重要な『鈴の付いた首輪』なのだった

 それ故その跡取りともなれば、様々な形で試練を掻い潜る事が要求される。
 次の世代を残したのだから、万が一にも戦死したとして家は存続できる。
 次々と危険な戦場へ送り込まれ、最前線で兵士を率いて勇敢に戦うことが求められている。

 危険を顧みず国家と国民のために生きる事を示すこと。
 そうでなければ公爵家などと言った、そもそもに恵まれた特権階級を市民は支持しない。

 だが、剣と魔法と肉弾戦が中心の時代であればそれでも良かった。
 様々に身を守る方法があったから、戦死はごく稀であった。

 しかし、ヒトの世界からやってきた銃火器の登場が、その長年の伝統に暗い影を落とし始めていた。
 この10年で4つの家の跡取りが戦死してしまった。
 長距離から狙撃されたり、或いは突入してきた騎兵による射撃で即死したり。
 それだけでなく、錯乱した兵士による射殺もあった。

 だからこそ。
 今回の枢密院議会にアーサーをデビューさせ、形式的にでも世代交代する必要があった。
 枢密院議員ならば、銃弾が飛び交い剣の火花散る所だけが戦場にあらず。
 奸術と謀策の渦巻くどす黒い空気の満ちた小さな部屋もまた・・・・ 戦場。

「お前は死んではならん。我が王国の腐った根幹を粛清し、新たな幹を作るまではな」
「父上・・・・」
「闘うだけが騎士にあらず。マサミはよくそう言っていた」

 この数年で一気に老いた感のあるポール公だが、年齢と比例するように威厳を増しつつあるのも事実だった。僅かに残ったウィスキーをグラスに集め、そっとマサミの遺影前へとおろす。その仕草はまるで戦友の死に水を取る兵士のようだった。

「俺も数々の死線を潜った。だがこうして生き延びた。結婚し子供を設け所領は栄えている。死ぬ事だけが名誉じゃない。死んでしまえば全てを失うからな。だからお前は生きろ。逃げようが転げまわろうがな」

 最後は呟くようだったポール公の眼差しが遠くの山並みへと向けられた。
 両側へ垂れ下がった耳が僅かに動き、遠く、城下の広場から聞こえてくる声に意識が向けられているのがわかった。

 ちょうどこの日、北伐から帰ってきた部隊の生き残りが叙勲を受けている声だった。
 所領から送り出された兵士は900名少々。大半が志願兵で賄われた戦意の高い部隊だった。
 ただ、この冬は予想以上に冬将軍が強かったようだ。

 酷い吹雪と猛烈な寒さと、そして滞った補給により行動不能に陥った部隊が各個撃破されてしまった。
 未来ある若者が戦に赴いたのだが、撤退の判断が遅れた結果、五体満足で帰ってきた者は半分にも満たなかった・・・・・

 ワーグナー上級兵曹長! 突撃先頭における勇敢な働きを讃え 2級鉄十字章
 シュルツ上級軍曹!  伝令における勇敢な働きを讃え 2級鉄十字章
 ザリチェビッチ兵曹! 狙撃兵として撤収する友軍のため戦線に残り、その手に上げた数多くの戦果を讃え2級鉄十字章

 装飾の簡易な2級鉄十字章とは言え、それを持っていると言う事は軍隊内部では相当に優遇される。自らの死と引き換えに近い苛酷な戦闘を生き残り、背中合わせの死神から逃れてきてこその栄誉・・・・・

 ラオホ伍長! 包囲線突破戦闘における献身的な働きを讃え 1級鉄十字章 ならびに 2級傷病慰問徽章

 カン上等兵! 地雷原突破と火線突破における勇敢な先陣突撃を讃え 1級鉄十字章 ならびに 人民英雄勲章

 シェンク上等兵! 伝令援護における勇敢な囮戦闘とその負傷に敬意を込め 1級鉄十字章 ならびに全軍模範兵勲章

 それぞれに勲章が授与されたのだろうか。居並んだ兵士達からの拍手が聞こえる。
 僅かな喧騒が吹きぬける風の様に静まり、再び張りのある声が聞こえてくる。

 ルーク・ヴァイトリング上級軍曹! 上等兵たる貴君の撤収戦における勇敢な殿戦闘と重傷を負ってなお戦うその鉄の意志は全軍の模範であり、また命を永らえた全ての兵士達の心からの感謝と、勇気と忠勇と道徳と、そして義務を果たす精神を永久に讃えなければならない。よってここに 金柏葉剣付き1級騎士十字章を授与し、3階級特進と一代準貴族としての名誉を与える。貴君の更なる忠勇と働きに期待している。全軍兵士の模範とし奮闘せよ。国主の権限を持って授与証への署名を内大臣に命じるものなり。
国主イリア・メル・グランド・ル・ガル・スィクスス・セコンド。代理署名、公爵・アリス・ホゥデル・スロゥチャイム・・・・・・


 きっと広場は黒山の人だかりであろう。
 下士官や士官と違い、一兵卒は城内の大広間で栄誉を受ける資格を持たない。
 しかし、一兵卒ならではと言うべきか、城下の様々な人々と繋がりのある兵士に取っては、このように中央広場において衆人環視の中での授与こそが最大の栄誉である。

 貧しい馬小屋育ちだろうと、路上で生まれ路上で育ち乞食で死んでいく運命だろうと。
 軍へ志願し、危険な最前線で獅子奮迅の働きをし、そして一代準貴族としての栄誉を得る事。騎士の資格に準じる騎士十字章は平民の得られる最大の栄誉でもあった。

「アーサー。午後にはあの者達がここへやってくる。まだ似合わぬ正装をして、普段平民出の人間が入れない所へな。お前はそれを笑ってはならんし、見届けねばならん。貴族の中の貴族。この国の責任を取る公爵としての義務だ。ヘンリーは残念ながらマダラに生まれた。だからお前は死んではならんのだよ。ここスキャッパーに生きる全ての者達のためにも・・・・な」

 ゆらりと立ち上がったポール公はバルコニーの手すりから下を眺めた。
 黒山の人だかりに祝福される着付けない軍服姿の兵士がもみくちゃにされていた。
 ポール公の横に立って下を見下ろしたアーサーにもその光景が目に入る。

 右足を失ったのだろうか。松葉杖を付いて立つその若い兵士の周りに戦友たちが輪を作っていた。昨日まで同じ階級に居た戦友が急に上官へ出世したのだ。一斉に敬礼されて妙に照れている姿が初々しい。

 だが、片足を失った者が満足に生きていくなど、ル・ガルでは少々厳しすぎる要求なのも事実だ。五体満足な者とて十分な福利厚生を受けられるわけではなく、また、ここスキャッパーとて、それほど余裕のあるわけではなく・・・・

「わかるな。お前はあの者達を守らねばならん。お前があの者達を守るから、お前はあの者達に守られる」
「はい。肝に銘じます」

 言葉無く頷き、そしてまた広場を見下ろすポール公。
 遠き峰嶺から雪型が消え霧と霞の季節が近づいている。

 今年の作況はどうであろうか・・・・・

 ―― 水は器の形に合わせるんだよ
 ―― でも器は水の行きたい方に転がるもんさ
 ―― 国を動かすなんてそう簡単なもんじゃないよ

 いつだったか、マサミの呟くように言ったその言葉を反芻して。
 ポール公は遠い目をしているのだった。


 第12話 第1部 了

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