猫耳少女と召使の物語@wiki保管庫(戎)

いつか少女が夢見たように

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いつか少女が夢見たように



「ご主人様、お話があります」
「なんだいお前、藪から棒に」

 ベッドの上に正座して切り出した私に、ご主人様が目を丸くなさいました。
 私のご主人様は大変お優しい方です。
 見た目は黒と白の毛並みに金色の瞳も大層鋭い、泣く子も黙る強面のイヌ男性ではありますが、
ヒト娼館にて病に冒された私をわざわざ身請けし、心身ともに健康を取り戻すまで親身に面倒を見てくださった聖人君子のような方なのでございます。
 そのような慈愛に溢れたお方が、こんなヒト風情の手をとって「一緒になってくれ」と仰ってくださった時には正しく天にも昇るような心地がいたしました。
 以来数年、時には取るに足らない諍いもいたしましたが、あるいは人間同士ヒト同士よりも仲睦まじい夫婦でいられたことと思います。

 だからこそ、我慢ならない事がございます。
 所詮は内縁の夫婦ではありますが、それでも月日を積み重ね今日に至っているのですから、妻として言わねばならない事がございます。

「ご主人様は、私に優しすぎると思うのです」
「……おや、つまり今夜は激しくされたいということか。ん?」
「誤魔化すのはおやめください。私は真剣なのです」

 にやつき、髪を撫でようとする手をそっと押さえます。ご主人様の凛々しいお耳がきゅうんと萎れました。
 その愛らしさに私の胸も思わずきゅうんと鳴りましたが、今は脇に置かねばなりません。

 そう、ご主人様は大変お優しい方です。
 夜の営みに際してさえも、大変にお優しい方なのです。
 私の嫌がることはなさいません。
 その、ふさふさの手と長い口で私の体中を、丁寧に、あくまで丁寧に愛撫いたします。
 そうして、私の芯が十分に燃え盛り、蜜を垂らすのを見て取った上で滾った一物をおもむろに突き入れ、愛の言葉と共に私が蕩けるまで突き上げるのでございます。
 無論、自分一人だけ精を吐き出して満足なさることなどございません。
 それで一体何の不満があろうかと、絞め殺してやりたいほどに羨ましい境遇ではないかと、この世界で数多虐げられている一般ヒト女性諸姉は憤りになることでしょう。
 私とて弁えております。私は幸せです。不満などあろうはずもございません。

 ですが、断言いたしましょう。男とは元来一人の例外もなくド変態なのでございます。
 
 鞭にロウソクなどまだしもメジャー。
 火責め水責め趣向を変えて赤ちゃんプレイ、敢えて私にディルドーを身につけさせ菊座を貫かせた方もいらっしゃいました。
 そう、お隣のエイミさん(96歳の女盛り、レトリバー系垂れ耳垂れ目の金髪美人さんです)も仰っていたではありませんか。正常位では誰もイけないのだと。
 何も知らない少女であった頃ならば、ご主人様だけは例外なのだと夢を見ることも出来たでしょう。
 しかし経験だけは空恐ろしいほど無駄に積んでしまった元ヒト娼婦としては現実から目を逸らすことなどできないのでございます。

 私には分かっています。どんなに激しく情を交わしていた最中にも、ご主人様の瞳にはどこか理性の歯止めが残っていたと。

 ご主人様はご自分を抑えていらっしゃるのです。私と出会い、初めて結ばれてから数年間ずっと。
 果たして、夫婦としてこのような体たらくがございましょうか。
 
「よろしいですか、ご主人様」

 ぴしりと膝もとのシーツを叩きます。
 重ねて申し上げますが、私は決して、決してご主人様との夜の営み自体に不満があるのではございません。
 不満を感じているのは、私の矜持故なのです。
 一寸の虫にも五分の魂が宿っているように、中古の元ヒト娼婦にもトランプタワー程度の高さと強度の矜持があるのでございます。

 愛する夫の欲望一つ受け止められなくて、何が妻か。何が夫婦か。

 お優しいご主人様のこと、きっと私の体を気遣ってくださっているのでしょう。ヒトは体が弱いですから。
 しかし私はとうに覚悟を済ませているのです。
 ご主人様のためならば火責め水責め赤ちゃんプレイもなんのその、もっふり力強い尻尾の下の菊座とて喜んで貫きましょう。
 だというのに、なぜご主人様はお心を隠そうとなさるのですか。
 ご主人様は、私を人間として女性として、対等に見てくださっているからこそ夫婦に迎えてくださったのではないのですか。
 私では貴方を熱に浮かせることは出来ないというのですか。ならば誰がそれを出来るというのです。
 まさか、まさか外に私以外の……
 そこまで言いさした私の唇を、長い鼻面のお口が塞ぎました。

「いや、すまなかった」

 もふもふの太い腕が抱きしめます。
 ご主人様のもふもふは美点です。上毛は固めですが下毛は大層柔らかいのです。
 この数年間、幾多の喧嘩を瞬く間に仲裁してきた偉大なもふもふでございます。ですが、今日という今日は屈するわけにはまいりません。

「何がすまないのですか。分かっておられないでしょう。本当にすまないとは、思っておられないでしょう」
「分かっている。思っているとも。心から」

 睨みあげる私に啄ばむような口付けを落とすご主人様。
 いつの間にか寝巻きが捲り上げられ、力強い指が乳房を揉みしだいております。
 ああ、いけません。これでは毎夜の流れと何の変わりもありません。
 おのれもふもふ、貴方には屈しないと誓ったばかりなのに。ご主人様との連係プレーとは卑怯にもほどがあります。
 つまりご主人様はもふもふの自乗に卑怯者です。
 ベッドに押し倒され、与えられる愛撫にはふはふと息を吐きながらも必死で睨みつける私に、ご主人様がにたり、と牙を見せて笑いました。

◇◇◇

「あぁ、あぁ、ご主人様、お願いです、もう」
「駄目だ。覚悟は出来ていたのだろうが。えぇ?」
 金色の瞳が嗜虐の喜びを湛えて悶える私を見下ろします。
 持ち上げられた足の指の間を殊更ゆっくりとねぶられ、思わず喉が引き攣りました。
 もう、もう、とっくに体中が火照りきってるのに。いつもなら、とうにその逞しくそそり立った剛直を沈めていただけるのに。
 あともう、ほんの半歩で気を遣ってしまえるのに。
「ひ、ぃ」
 毛先だけが触れるよう、絶妙のタッチでわき腹を撫でられ、頂上までさらに四半歩上り詰めました。
 だけど、それだけ。
 花芯がしとどに蜜を噴出し、脳裏で七色が瞬きますが、それだけ。そんなもどかしい刺激では達することなどできません。

 先ほどから、ずっとこのままなのです。
 ご主人様は私を極限まで頂上に近づけながら、決して止めを与えては下さらないのです。

 思い余って自ら手を下そうとしても、両腕は脱がされた服で拘束されています。
 どうしようもない切なさにせめて股を擦り合わせようとしても、片足は持ち上げられたままです。
 体の中には煮立った快楽がマグマのように溜まっているのに、それがぐつぐつ渦巻いて、どんどんかさを増しているのに。

「ご主人さまぁ、ほしぃ、ほしいのぉ」
「駄目だと言っているだろうが」

 ひどい、こんなの。どうしてこんな、むごい真似をなさるのです。
 こんなの、ご主人様は全く気持ちよくないではありませんか。私はご奉仕する余裕などこれっぽっちもないのですから。
 私は今までの営みに満足していたのです。
 ご主人様に、焼け付くほどに夢中になっていただかなければ意味がないのです。

「ひぐ、うぁ!」

 ぴちゃりと胸の頂をほんの一舐め、マグマが頭に回りました。
 頭の中を火かき棒で掻き回されているみたいです。
 なのに、もうこんなにめちゃくちゃなのに、こんなにまってるのに、どうして

「いれて欲しいか」

 何度目かの問いかけに、呻きながら必死で頷きます。もう声もうまく出せません。
 薬を使われた時だって、こんなにはならなかった。
 それなのに

「まだ、駄目だ」

 鈍く光る金の瞳が、無慈悲に見下ろす。
 違う、こんなの違うのです。私はこんな冷酷な行為を求めていたのではないのです。
 ご主人様のためならば火責め水責め赤ちゃんプレイもなんのその、もっふり力強い尻尾の下の菊座とて喜んで貫きましょう。
 だけれど、それも愛あればこそなのです。
 通り一遍では表現しきれない、狂おしいほどの愛欲情欲をぶつけ合う行為だからこそ受け入れられるのです。
 この、ただ一方的に嬲られ狂わされる私と、黙々と冷淡に嬲り続けるだけのご主人様との間のどこに、そんな怒涛のような奔流がありますか。
 どこに、愛があるのですか。

 あぁ、あぁ、ごめんなさい。もう白状いたします。
 今までの営みに不満がなかったなんて、嘘です。時にはこの体の一片までも貪りつくすように、力尽くで犯して欲しい夜もあったのです。
 私が貪りつくされたいと思うのと同じくらいに、この人が貪りつくしたいと思ってくれなくちゃ嫌だったのです。
 お行儀の良い、四角四面の情愛だけじゃ、お腹いっぱいになれないのです。
 
 それがいけなかったのですか。欲張りだったのですか。
 こんな、女でなく、妻でなく、よくできたお人形のように好き放題弄くられ玩ばれるのは、そのせいなのですか。
 貴方は、私を愛してくださっていたんじゃないのですか。もしや、お気に入りのお人形を手元に置いて、可愛がっていただけなのですか。
 知らずにいればいれたものを、私は知ってしまったのですか。

「いれ、いれて、ねぇ、おねがい、おねがいれすぅ、ごしゅじんさまぁ」

 回らない舌を必死で回して、ご主人様の慈悲を乞います。
 すでにべしょべしょの目元から、違う冷たい涙がぽろぽろと零れました。
 ずっとこのままなのは、嫌です。

「そんなに果てたいのか。ならばこのまま果てさせてやろうか」
「ぃ、やぁ、……やぁぁ…………!」

 駄々っ子のようにぶんぶんと首を振り、涙の粒が飛びました。
 これで最後まで達させられてしまうのは、もっと嫌です。
 こんな切なくって、苦しくって、恐ろしいまんまで体だけ果ててしまうなんて、絶対に嫌なのです。
 昔ならいざ知らず、今、この人と、そんな風に終わってしまうなんて、とても耐えられないのです。例え死んでも嫌なのです。

「では、コレで果てたいのか。コレでなくては駄目なのか」

 雄雄しく鎌首をもたげた肉棒を示されて、首よ千切れろとばかりに頷きます。それでなくては駄目なのです。
 この荒れ狂う熱の坩堝となった身の内を、同じ熱の杭で穿っていただかねば、私は弾けてしまいます。
 この冷え切りそうに慄く心の内を、灼熱の貴方自身で埋めていただかねば、私は狂ってしまいます。
 空恐ろしいほどの経験を積んできたのです。
 繋がりさえすれば、ご主人様のお心だってたちどころに分かってしまうのに。

「そうか」

 まだ、駄目と言うのですか。もう、壊れてしまえと言うのですか。
 怯える私の目元を、私の汗や、涎や、愛液でぺっとりと濡れた指が拭いました。

 あれ、金色のお星が二つ、ぎらぎら凶《まが》しく燃えている。
 
「――いい子だ」




 瞬間、ぐじゅり、と音がいたしました。




「あ゛ッ、ああ゛あ゛ッ!?」

 背筋を稲妻が走りぬけ、喉から悲鳴が迸りました。
 何が、何が私の身に起こっているのですか。
 わけも分からず頭を振り乱しているうちに、また、ぐじゅうぅ、と音が響いて、目の裏で光がばちばちと弾けます。
 人を焼き尽くそうとするような、手ひどい暴力が、私の、足の、間から、

「あ゛ぅぅっ!」

 ごつっ、と胎の奥を殴りつけられ、背筋が仰け反ります。
 ここにきてやっと、霞む視界に、ご主人様が私の足を割っているのを捉えました。
 金の瞳を血走らせ、剥いた牙の間から泡立つ涎を飛ばし、全身の毛を盛り上がらせた、獣の顔したご主人様が。
 
「あッ、や゛っ、あぁぁぁんっ! ヒッ!!」
 
 ごつ、ごつ、ごつん、と寸隙の間も置かず叩かれて、子宮が爆発いたしました。
 出口のないまま押し込められていた快楽が決壊し、全身を激しく戦慄かせます。
 神経の一本一本までがくまなく破裂して、私を責め苛んでいた熱病が洪水となって駆け抜けていきました。

 やっと解放されてみると、指先爪先、髪の毛一本に至るまで甘い痺れにひたひたに浸って、かひ、かひ、と息を吐くだけで痙攣が走ります。

 ――あぁ、これ、すごい。
 
「お前という奴は、自分さえ果ててしまえればそれで良いのかね!」
「あっ」

 ぴくんぴくんと体を震わせていた私が、弛緩した体のうちでまるで熱く硬いままのご主人様に気がつくのと、
 ご主人様が突き刺したままの私を持ち上げ、自身に叩きつけるようにして再び秘所を蹂躙し始めるのは全く同時でした。

「ひいんっ! ひ、い、いぃっ!」
「達したばかりの癖に、ひどく食らいついてくるじゃないかっ! お前は、節操を、知らないのかっ!」
「あぁっ! らって、 らってぇ! ああんっ」

 だって、全部ご主人様がいけないのです。
 ご主人様が、達したばかりなのに責めるから、内も外も痺れてわけが分からなくなってしまうのです。
 ご主人様が、これまでになく強く、速く突き入れるから、腰が融けるほどに気持ちよくなってしまうのです。
 ご主人様が、金のお目目を凶暴に光らせて、鋭い牙をぎりぎりと食いしばって、玉の汗を撒き散らして、一生懸命腰を振りたてるから。

 ご主人様が、初めて力の限りに私を求めてくださるから、嬉しくて幸せになってしまうのです。
 
 ああ、よかった。
 ご主人様は私をお人形などとは思っていなかった。ちゃんと、愛してくださっていた。
 空恐ろしいほどの経験を積んだので、分かるのです。
 ご主人様は、私を、私が思うよりずっと、狂おしいほど愛してくださっていた。
 嬉しい。嬉しい。死んでしまいそうに嬉しい。
 それなのに、そんな、まるで私が淫乱であるみたいに言わなくてもよいじゃありませんか。

「ごしゅ、じんさまっ、ごしゅじんさまぁっ」
「お前ッ、お前ッ!」

 縛られたままの両腕がもどかしくてぐいぐいと捩ると、あんなに解けなかった戒めがなぜかするりと解けました。
 愛しい人のふさふさの首を抱きしめようとして、先に唇に食いつかれました。
 大きな力強い舌が、下のお口を責める肉棒と同じ要領で上のお口を蹂躙なさいます。
 いつの間にかご主人様の腕は私を強く抱きしめ、そのまま上に伸し掛かって押し潰すかのように腰を振っておりました。
 私も両足と両腕をがっちりとご主人様に絡めています。
 跳ねる体が、胸の蕾が毛皮に擦れて、燃えるように熱くなりました。
 でも、まるで足りません。
 もっともっとくっつきたいのです。いっそ溶け合って一人になってしまいたいのです。

「ふぅっ、むぁ、あぐ、うぅっ!」
「ぐぅ、ぐふ、がふっ、ぐうぅっ!」

 せめて上と下、両方でお互いを夢中で貪りあう私達。
 ご主人様が押し入ってくると、私は喜びにざわめき、愛しくてむせび泣きながらお迎えいたします。
 ご主人様が出て行こうとすると、私は寂しさにしとどに泣き濡れ、切なくて必死に締め付けてお引止めします。

 嬉しくって、寂しくって、愛しくって、切なくって、もう、なんにも分からない。

「ぐ、うぉぉっ」

 不意に、私の中でご主人様が大きさを増した。

「あ、あ、あっ」

 同時に、私の体の芯もわななき始めた。

 ご主人様が一層速く、深く動き出す。
 私の体が、腰からがくがくと震えだす。

 いや、いやなの。まって。
 まだ、たりないの。
 もっと、こうしていたいの。
 ずっと、このひとをかんじていたいの。
 それがむりなら、せめて

「来てッ、来てェッ! ご主人様ァッ!」 
「行くッ、行くぞッ! お前ッ!!」

 体の中でご主人様が破裂して、どぐん、とお腹を灼熱が満たした。
 頭の中で光がデタラメに爆裂して、背中がびくんびくん跳ねた。

 ぎゅうっと、全身で力の限り、ご主人様を抱き締める。

――ねえ、ごしゅじんさま。わたし、あなたのおくさんで、とってもしあわせなの。
 ――だから、あなたがのぞむこと、ぜんぶしてあげたいの。なんでもしてあげたいの。
  ――こどもができないおくさんだけど。さきにしんでく、おくさんだけど。
    ――つたわってる? ねぇ、でも、だから、おねがい。
     ――ずっといっしょに。

 抱き締めあったまま、いつまでも続いた絶頂が、やっと引いて。
 そうして、ふうっと、瞼が落ちていく。

「……よく、頑張ったな」

 視界が闇に落ちていく中で、ご主人様が頭を撫でてくれているのを感じていた。

◇◇◇

 次の日。枕もとの時計は既に正午を回ろうというのに、私達はまだベッドの中におりました。

「おい、大丈夫だったか。痛いところはないか」

 覗き込んでくるハスキー頭を睨みつけます。
 黒いお鼻がきゅうんと鳴り、私の胸もきゅうんと鳴りましたがそんなことでは到底誤魔化されません。

「痛いですとも。全身が痛いのです。特に腰が酷く痛むのです」
「そ、そうか」

 ああ、やはりご主人様も一皮剥けば中身はケダモノのド変態でいらっしゃったのですね。
 ヒトがちょいと隙を見せれば、嬉々として虐めてくださって。
 お陰様でまったく腰が立たず、ベッドから出られないのです。体中がびしびしと筋肉痛なのです。
 ところでご主人様がベッドから出ないのは……休日だからなのでしょう。
 鬱陶しいのでむやみやたらと撫でたり抱き付いたりつついたりなさらないでいただきたいのですが。

「だがな、お前だってばかに盛り上がっていたじゃないか。うん、昨夜のお前は、とても素敵だった。」
 
 金色お目目がでれん、と緩んでおられます。反省の色など皆無。
 また、あのような交わりをしたいと、そう仰りたいのですね。焦らしプレイがお好きなのですね。
 率直に申し上げましょう。ドン引きでございます。
 太ももの辺りを撫でている尻尾を力いっぱい握って差し上げると、ぎゃいんと悲鳴が上がりました。

「ご主人様、何事にも限度とか、心の準備とか、そういうものがございますのですよ」
「わ、わかった。俺が悪かった。やりすぎだった。
 そうだ、何か買ってやろう。服が良いか。それとも香水か。お前は好きだったろう」

 ご主人様はお嫌いでしたね、香水。
 必死の涙目もあいまって多少は溜飲が下がりました。
 まずは力を緩めて差し上げましょう。
 ……まあ、香水も魅力的なのですが、どうせならば。

「温泉」
「なに?」
「温泉が良いです」

 あら、なぜ愕然と目を見開くのですか。

「お前、幾らなんでも温泉を買えというのは」
「誰がそんなとんちきな要求をいたしますか。私はただ、温泉に連れて行って欲しいと言っているのです」

 貴方と行きたいと、そう言っているのに。
 再び指に力を入れて差し上げると、またぎゃいん、と悲鳴があがりました。

「分かった。温泉、温泉だな。そうだな、再来月の休みにはなんとかしよう」

 だからその手を放してくれ、そう懇願するご主人様に、仕方がないので手を開いて差し上げます。
 この通り、ご主人様は勇ましく凄みのあるお顔の割りに、内実はどこかぼーっとした所のあるお方なのでございます。

 ああ、私はどんな運命の悪戯で、このような方と夫婦をやっているのでしょう。
 思い返してみれば、まだ少女であった時分には、いつか素敵な殿方が現れて、その方とだけ結ばれ、一生愛し合うものなどと夢想しておりました。
 しかし現実には、ご主人様はあらゆる意味でケダモノでいらっしゃいますし、私もまた、当時の自分には想像もつかないような阿婆擦れの身と成り果ててしまいました。
 
 ……ですが。


 ――よく、頑張ったな。
  ――大丈夫だったか。
   ――素敵だった。


「どうした?」

 急に顔が熱くなってご主人様に見られたくない心地になり、急いでシーツの中に潜りました。
 すると、どうしたことでしょう。今度はなにやら無性におかしくなって、くすくす笑いが漏れるではありませんか。


 あら、思い返せば今朝は、まるでいつかの少女が夢見たような。
 

 なんだ、機嫌はいいじゃないか。そうのたまったご主人様のお顔に、失礼ながら思い切り枕を叩きつけておきました。


《終》

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