猫耳少女と召使の物語@wiki保管庫(戎)

続虎の威18

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続・虎の威 18

 

 カブラが出先から宿に戻ると、部屋は奇妙な沈黙に包まれていた。
 部屋にいるのは深刻な面持ちのカアシュと、機嫌よさげに酒をあおっているブルックだ。なんらかの会話があってしかるべき雰囲気だが、二人とも無言のままお互いを見もしない。カブラは顔をしかめ、二人に交互に視線を投げた。
「……なにがあった?」
「なにがだ?」
 答えたのはブルックだ。カブラはブルックから酒瓶を取り上げた。
「まさかこの状況で何もありませんでしたで済ますつもりじゃねぇだろうな。別に話したくないなら、無理に何があったか聞こうとは思わねぇけどよ」
 突然硬い木が床を叩く音がして、カブラはベッドへ振り返った。カアシュが松葉杖を片手に立ち上がり、ゆっくりと歩き出す。
「少し、出てくる」
「……どうした突然」
「なんでもねぇよ。ちょっと外の空気が吸いたいだけだ」
「そうか……じゃあまあ、気をつけて……」
 行けよな、とカブラが言い終わるより前に、カアシュは部屋を出て行ってしまう。何か気に障ることでもしただろうかとブルックに助けを求めると、ブルックは苦笑いを浮かべるばかりだった。
「なんなんだ、一体」
「ハンターをやめることに決めたってよ」
「はぁーん。ハンターをねぇ。やめるってお前……」
 ブルックがあまりにも平然として言うので、カブラは一瞬事の重大さに気づけなかった。一瞬の間をおいて、ようやくカブラは表情を凍りつかせる。
「……カアシュがか?」
「他にハンターをやめそうなやつに心当たりでもあるのか?」
「いや……ねぇ、けど……」
冗談として笑い飛ばしていいのか真剣に受け取るべきなのか判断できず、カブラは困惑してブルックを見る。
 予想もしていなかった展開に驚くばかりで、カブラは怒鳴り声を上げることすらできなかった。足から力が抜けていき、崩れ落ちるようにソファへと沈む。
「……ちょっと、待ってくれ。待てよ……なんでそういう話になった……?」
「義足が作れないからだろうな」
「だから、それを今俺たちがどうにかしようとしてるんじゃねぇか!!」
「いつになるよ」
「なっ――」
「いつになったら、なんとかできるんだ? 一年後か? それとも十年後か?」
 静かなブルックの声に、カブラは勢いのまま吐き出そうとした虚勢の言葉を飲み込んだ。
「そりゃ……わかんねぇ……けど……」
「正直な話よ、お手上げじゃねぇか。俺たちにできることなんざ、ただ闇雲に探すことだ。広いネコの国でよ、膨大な数の技師職人をしらみつぶしだ。いったん国にかえって、カキシャに他の職人を探してもらうのもいいかもしれねぇ。けどよ、そんな状況に置かれて、もし俺がカアシュの立場だったら――俺はきっと耐えられねぇ」
 歩くこともままならない状態で、お荷物として仲間の足を引っ張り続ける。ブルックの言うとおりだった。もしカブラがカアシュの立場でも、おそらくもっと早い段階であきらめてしまっていたに違いない。カブラにはカアシュを止めることはできなかった。そもそもカアシュが足を失ったのはカブラの短慮が原因なのだ。これ以上、カアシュの決断を自分のわがままで捻じ曲げることはできない。
 だが、それでは――。
「カアシュなしじゃ、俺たちも続けられねぇ……」
「そうだな」
「……これで終わりか……?」
 百年、ハンターとして生きてきた。生き方に誇りを持っていた。意地だってあった。それが、こんなにもあっけなく。
「終わっちまうのかよ……」
 ハンター以外の仕事をしている自分を、カブラには思い描くことができなかった。かといってカアシュ以外をパーティーに入れることなど想像すらできない。
 カブラは頭を抱えて床を睨み、そして静かに目を閉じた。
「カブラ」
 呼ばれて顔を上げると、紙のつぶて飛んできてカブラの顔に当たった。こんな時になんのおふざけかと思ったが、ブルックの表情は真剣である。
「……なんだ、こりゃ。メモか?」
 くしゃくしゃに丸められた紙を広げてみると、夜遅い時刻の指定と、おそらくは宿の一室だろう住所が書いてある。右下の方にネコ語でサインが書いてあるが、見知らぬ女の名前だった。
「ここに小切手が用意してある。俺たちが今出せる金額の精一杯だ。明日これを持って、その紙に指示された時間に指定された場所へ行け」
「おいおい、何の説明もなくそりゃねぇだろう」
「説明したら、おまえは絶対そこに行かねぇ」
 ブルックのよどみない言葉に、カブラはしばし唖然となる。ふざけるなと声を荒げそうになり、カブラは努めて冷静な声を出した。
「おい……あのなブルック。確かに俺はお前よりゃ頭悪いかもしれねぇがな、さすがにそんな怪しげな場所に行くほど馬鹿じゃねぇぞ。説明されたら行くのをやめるような場所なら、説明されなくても行かねぇよ!」
「だがそこに行けば、カアシュの義足が作れるかもしれねぇと言ったら?」
「なんだと!? どういう意味だそりゃ!」
 歓喜と疑問に突き動かされてカブラが立ち上がると、ブルックはくたびれた革の包みを投げつけた。中を改めてみると、持ち歩くのに少々覚悟がいる金額の小切手が確かに包まれている。
「あくまで可能性だがな。いや、ひょっとしたら……つーかまず間違いなく、行かなくてもカアシュの義足は作れるだろう。だが行かなかったら、俺たちはそれを受け取れない。行かなかった俺たちには、それを受け取る権利がないと俺は思う」
「おい、何言ってんのかぜんぜんわかんねぇぞ。俺にも分かるように説明しろ!」
「だから説明したらてめぇは行かなくなるんだっつってんだろ! そんで、そしたらたとえカアシュの義足が作れても、それを受け取れない感じになっちまうんだよ!」
「だからなんでそうなるんだよ! どう考えても理屈がとおらねぇだろう!」
「しょうがねぇだろう俺たちゃトラなんだからよ!! 合理主義が頭抱えて匙を投げる馬鹿なんだ! ただ座ってるだけで与えられる恩恵を受け取れるほど、要領よくできてねぇだろうがよ俺たちは!!」
 言い返そうと大口を開いて身を乗り出し、しかし反論の言葉が見つからずにカブラは渋面を作った。
「……考えうる限り最悪のシナリオだ。カブラ。俺も、カアシュも、おまえも、プライドを粉々にされるだろうな。少なくとも俺はされた。カアシュもだ。だがたぶん、ある一点に目を瞑れば考えるうる限り最良の結果が生まれる。俺たちのリーダーはお前だ、カブラ。だから俺はお前に決断をゆだねる。とにかく、その場所に行け。そして決めろ。俺たちの未来と、俺たちのあり方をな」
 
 翌日の夜、ともかくカブラは外に出て、メモの場所に行ってみることにした。
 ブルックの言葉には多分に引っかかるところがあるが、ああまで言われて何もせずにいられるほどカブラは腑抜けではなかった。おそらくは、カブラにとって我慢ならないほど不本意な事態が待っているのだろう。だがそうすることでカアシュの足が治るのなら、カブラには高飛車なネコや傲慢なキツネにだって膝を折って助けを請うことができる自信があった。
「耐えてやろうじゃねぇか」
 誇りも、意地も、なにもかも。仲間を捨てなければ守れないものならば。
「そんなもの必要ねぇ」
 気がつくとカブラは、歓楽街の只中に立っていた。 
 てっきり職人通りか、そうでなければニャトリの近辺にたどり着くだろうと思っていたカブラは、道を間違えたかと改めてメモを見る。だが通りの名前も番地も間違っていない。仕方ないのでそのまま進むと、簡素な時間制の宿の前にたどり着いた。
「ここの三階か……」
 フロントに立つネコ女の視線を感じながら階段を上り、狭い廊下を奥へと進む。角をひとつ曲がったところで、カブラは愕然として立ち止まった。
 いるはずのない男が、そこにいる。
 どういうことだ、とカブラが頭の中でつぶやくよりも先に、壁に背を預けて立つ男がこちらに気づいて顔を上げた。
「……奇遇というには、少しできすぎてるな……」
「ハンス……おま、なんで……」
 ああ、ととぼけた声を出し、驚いた様子も見せずにハンスは独り言のように言う。
「なんだ、ブルックやカアシュから一切聞いてないのか? トゥルムの船であんたらを追いかけてきたんだ」
「チヒロも一緒なのか!?」
「俺個人にあんたらを追いかける理由があると思うのか?」
 カブラは絶句して手の平で顔面をおおい、ふらふらとよろめいて壁に肩を預ける。ハンスの口ぶりから察するに、ブルックとカアシュはすでに知っていたのだろう。なぜ教えなかったのだと怒りが首をもたげたが、あれほどきっぱりと「無関係だ」と言い放ってしまった事実を考えれば無理もないことだった。実際に千宏の存在を知らされたとして、カブラが取った行動と言えば「関係ねぇ」とはき捨てることくらいだろう。
 だがさすがにこういう再会は予想していなかった。毒気を抜かれたようになり、カブラは顔を覆った指の隙間からハンスを見る。
「なんでおいかけてきた……」
「友人の危機に安穏としていられなかったんだろう?」
「チヒロにゃ無関係だと言ったはずだ! はっきりとな! それで追いかけてきてどうするよ!? なんの意味があるってんだ!」
「俺も理解はできないが……」
 ぼんやりたした声を上げ、ハンスは首をかしげる。
「あんたがチヒロを無関係だと断じたところで、どうもチヒロには関係が無いらしい」
「な……」
 ハンスは笑った。
「滑稽だな。トラの下した決断を、たかがメスヒトがすべて無視して自分の意思で行動している。他者を押しのけてでも自分の意思と意地を貫き通すのは、トラの性質じゃなかったか。強者の特権だと思っていたが――どうも、そういうわけでもないらしい」
「ふざけんじゃねぇ! 意地で片付く問題か!? ここはネコの国なんだぞ! ヒト奴隷市場中心地だ!! それをおまえ……!」
 カブラは声を落としてハンスに詰め寄った。
「正式に登録された飼い主のいねぇメスヒトが出歩いて、無事でいられると思ってんのか? てめぇの頭は飾りかハンス! なんでチヒロがこの国に来ることを許したんだ!」
「雇い主の決断を、護衛の俺が覆せるわけがないだろう。それに、護衛なら俺がいる」
「そりゃ自分の実力と相談しての判断か? あ? 群れなきゃ大した力もねぇくせに、てめぇ一人でチヒロを守りきれると思ってんのかよ!」
「そう思ったから、あんたはチヒロの護衛をやめたんじゃないのか?」
「ネコの国に来ることなんざ想定してねぇよ!!」
「考えが甘かったな。チヒロは身の安全よりも、自分の誇りを取ったらしい」
「ほ……」
 カブラは失笑を抑えることができなかった。
「誇りだと……?」
「笑うような言葉か?」
「あー……いや……悪い」
「謝るのか。意外だな。典型的なトラの取る態度としては正しいだろう。あんたらは、自分たちの定義から外れた誇りは誇りとして認めない。誇りとはすなわち生き方。ゆえに自力で生きる力を持たない、依存的な存在には誇りが存在しないと断じるんだったか」
「……詳しいじゃねぇか」
「あんたらトラは誇りを語るのが好きだからな。あの国で暮らしていれば嫌でも耳に入ってくる。つまりあんたらの定義からすれば、ヒトであるチヒロが誇りを語るなんてことは、笑い話以外のなんでもないというわけだ」
 カブラは否定しなかった。実際に、カブラは千宏を自分と対等だと思ったことなど一度たりともありはしない。
「……それでもチヒロは、誰にも認められない誇りを捨てる気はないらしい」
 ハンスはカブラから視線をはずし、ふたたびぼんやりと壁を見る。
「滑稽だな」
 ハンスは笑っていなかった。
 会話が終わり、廊下に静寂とざわめきが戻ってくる。居心地の悪い沈黙の中、カブラは手にしていたメモの存在を思い出し、記された部屋番号を確認する。目指すは314号室。確かにこのあたりのはずなのだが――。
「……悪いが、今は時間がねぇ。この話はまた後だ」
「――鈍いやつだな」
 数歩歩いたところでハンスがため息を吐き、カブラは再び足を止めた。
「あ?」
「どうやったら気付かずにいられるんだ? あんたの目的地はこの部屋だ」
 言って、ハンスは自身の右手にあるドアを示す。プレートに記された部屋番号は314号室。カブラは愕然とハンスを見た。
「だが……こりゃお前の部屋だろう!?」
「いや、違うな」
「アホかてめぇ!? 紛らわしい場所に立ってんじゃねぇよ!」
「部屋を取ったのは雇い主で、部屋を与えられているのは客とチヒロだ。正確に言えば俺の部屋じゃない」
 カブラは凍りついた。
「チヒロが……一緒なのか?」
「さっき同じ質問をしなかったか?」
「今まさにこの場所にいるのかって聞いてんだ!! おい、ここは歓楽街の真ん中だぞ!? なんでそんな場所の宿にチヒロが……」
「体を売っている女の居場所としては、どこよりもしっくりくると思うが」
「あぁそうだったな畜生! 忘れてた!」
「そもそもチヒロが一緒じゃないのに、俺が一人でこんな場所にいるわけがないだろう」
「女に騙されて待ちぼうけでもくってんのかと思ったんだよ」
カブラは苦々しげに悪態をつき、力なく肩を落とした。
 チヒロはカブラの手を離れ、イヌの犯罪者を護衛に雇ってネコの国で体を売っている。そしてカブラにはもう、それをとがめる権利すらないのだ。
「くそ……なんてざまだ……」
この状況をアカブに知られたら、殺されても文句は言えまい。
「それで……チヒロは今……あー、仕事中なのか……?」
「客が俺の目の前にいるのに、仕事にかかれるわけがないだろう」
「客?」
 カブラは周囲を見回した。それから、ふと自分の目的地に思い至る。恐る恐る、カブラは自身を指差してハンスを見た。
 ハンスは機械的にうなづく。カブラは辛うじて叫び声を飲み込み、よろけて一歩後ずさった。
「冗談だろう……おい、ブルック……悪い冗談だぞこりゃ……」
「現実逃避の時間が必要か?」
「うるせぇな! 今考えを整理してんだから黙ってろ!!」
「俺が代わりにやってやろう。その様子だと、なんの説明もされずにブルックに言われて来たんだろう? じゃあやつに途方もない額の金を渡されなかったか?」
 カブラは顔をしかめてハンスを睨んだ。
「なんでてめぇにそんなことが分かる」
「正解らしいな。それならそれを俺に渡して部屋に入り、中のメスヒトを抱く。それがここにくる客の唯一の目的だ」
 カブラの質問には答えずに、ハンスは端的に言い放った。
「だがあんたは、チヒロを抱くためだけにそんな大金を投げ出したりはしないだろう? ブルックがどういうつもりかは知らないが、こちらとしてもあんたは招かれざる客だ。理由を説明して欲しいか?」
「……いや」
「ならいい。だからまあ……そうだな。つまりはこういうことだ」
 ハンスは静かに、カブラが歩いてきた方向を指差した。
「お帰りはあちらだカブラ。そしてブルックにこう伝えてくれ」
「おい待てハンス! 俺は別に……!」
「余計なお世話だ。あんたには関係ないとな」
 静かな決別の言葉だった。なるほどな、とカブラは口元を引きつらせていびつな笑みを浮かべて見せる。
「仕返しってわけか。俺が千宏を見捨てたことへの」
「どう受け取ってもらってもかまわんがな」
「……ブルックは、ここにくればカアシュの義足が作れるかもしれねぇと言った」
「悪いが、意味が分からないな」
「俺もだ。だがブルックはこういうことに関して嘘をつくような男じゃねぇ」
「勘違いという言葉を知ってるか?」
「それもあるかもな。けどよ……てめぇ、さっきブルックとカアシュにはもう会ったと言ったな。てことは、もう聞いたんだろうな。カアシュの義足は作れねぇとよ」
 喋りながら、カブラは自分の頭の中でするすると疑問の糸がほどけていくのを意識した。それと同時に、寒気にも似た感覚が胃の腑の奥から這い上がってくる。
「……チヒロは、俺たちに協力しようとするんだろうな。俺にあれだけのことを言われて、それでもここまで追いかけてきた女だ。そんで……カアシュはそれを断るだろう。そんなこと、あいつの意地が許さねぇ」
 普通は、きっとそれで全てが終わる。チヒロは差し伸べた手を振り払われて深く傷つき、あるいは怒り狂って二度とカブラたちの前に姿を見せないだろう。それが、誰もが思い描く結末だ。だが千宏は今もブラウカッツェにとどまり続け、こうして客を取っている。
 何故か? という問いに対する答えは、すでにブルックが出していた。
「冗談じゃねぇぞ……どういうつもりだ……」
 ハンスは長く息を吐きながら天井を見上げる。
「……何をどう結論付けたのか知らないが、見当違いだ。どういうつもりでもない」
「ふざけるんじゃねぇ!! それで誤魔化されると思ってんのか……? チヒロに会わせろ。今すぐにだ!」
「断る。チヒロはそれを望んでいない」
「じゃあ力ずくで止めるんだな、護衛らしくよ。俺は無理やりにでもその部屋に入るぞ。てめぇを半殺しにしてでもだ!」
 カブラが拳を振り上げた瞬間、ハンスは耳を立ててドアへと振り向き、渋面を作って舌打ちした。
「……どうも、俺は頼りない護衛らしい」
 深く嘆息し、ハンスは顎をしゃくってカブラに入室を促した。
「暴力沙汰は困るそうだ」

 ハンスに促されて部屋に入ると、そこは白い壁がまぶしく光る一級の客室だった。ふかふかとした絨毯に、磨き上げられた調度品――その、どこを取っても非の打ち所のない完璧な空間の中心に据えられた丸テーブルで、黄色と黒の縞模様をした一つ目の害獣と千宏とがクッキーを巡って死闘を繰り広げていた。精一杯伸び上がってクッキーを死守する千宏と、長い舌を伸ばしてクッキーを奪おうとしているベアトラである。
「……チヒロ……」
 毒気を抜かれた気持ちで低く呼びかけると、一瞬こちらに気を取られたベアトラの隙をついて千宏がクッキー口へと放り込んだ。ベアトラが愕然と目を見開き、涙目になってわなわなと震えている。
「勝負あったな」
 ハンスが無感動に言う。カブラは肩を落として額を押さえた。
「久々。って……分かれて一ヶ月経ってない相手にも使う言葉だっけ?」
 恨みがましそうにしているベアトラをハンスの方に押しやりながら、千宏はクッキーをもごもごさせながら何気ない表情でカブラを見た。
仕事のためかローブは身に付けておらず、付け耳も見当たらない。服装は白いブラウスと黒のプリーツスカート。膝の下まで来るブラウンの長い靴下という服装は、トラの主観からすると妙にこざっぱりして見える。
「聞き耳なんか立てなくても廊下の声が聞こえたよ。ブルックに言われて来たんだってね」
「……どういうつもりだ」
「さあ……なにが?」
 屈託なく千宏が笑う。
「俺はお前の護衛を降りた。それをてめぇは、よりによってその原因になった仕事で稼いだ金で俺たちに“施し”をしようとしてる。さすがに俺でも気づくぜチヒロ。お情けのつもりか? トラを馬鹿にするんじゃねぇ!!」
 どこか苦しげに眉を寄せ、千宏は喉の奥で笑い声を押し殺した。
「すごい。ほぼ全部予想通りのセリフで来たよ。ちょっと笑える。ねえハンス」
「典型的だな。理想的とも言う」
「やっぱりブルックに手伝わせたのは失敗だったかなぁ……トラって言われてるほど馬鹿じゃないんだよね。普段頭使わないだけで」
ため息を吐き、千宏は首をそらせて天井をあおいだ。
「特にブルック。危ないかなーとは思ったけど、やっぱりばれちゃった。で、折角だから力を合わせようとしてくれてるわけだ。あたしの客としてあんたをよこすことでさ。まさかトラがそういう手段に出るとは思わなかった。ブルックって変わり者」
 まるで悪びれた風もなく、怯えた風もなく、千宏はあくまでカブラと同じ目線で言葉を発していた。あるいは上の立場から物を言っているのかもしれない。カブラは言いようもない苛立ちが尻尾の毛を逆立たせていくのを感じた。
「無関係だと……俺は言ったはずだぞ」
「そうだね。だからあたしのことはほっといて。こっちはこっちで好きにやるから」
「だったらてめぇも俺たちに関わるな! そんでネコの国を出るんだ。テペウがお前の名前を覚えたそうじゃねぇか。だったらテペウのそばにいろ。それが一番安全だ」
「あたしの安全を気にするのはハンスの仕事であんたには関係ないし、あたしがあんたたちにどういう形でかかわろうがあたしの勝手」
「チヒロ!!」
「怒るの? どうして? 自分は自分。他人は他人。これってトラの流儀でしょ?」
「おまえは――!」
「トラじゃないだろうって?」
 今の今まで天井を見上げていた千宏が、カブラに顔を向けて目を細めた。気がつけばその瞳は怒りに燃え、カブラを捕らえて放さない。
「……ねえカブラ。あたしはあんたに軽く殴られただけで死ぬ。すごく弱い生き物だからね。それを前提で聞いてくれる? すっげー言っておきたい言葉があるんだ」
 千宏は静かに立ち上がると大またでカブラに歩み寄り、すぐ手の届く位置まで歩み寄った。ぐっと伸び上がってカブラの顔に顔を近づけ、視線を絡ませあって口角を吊り上げる。
「この偽善者面した差別主義者が。あんた見てると反吐が出る」
 全身の血が凍るような感覚がカブラを襲い、直後に凍った血液が沸騰するほどの激怒がカブラに拳を振り上げさせた。だがその拳を振り下ろすことは、トラの誇りが許さない。かつてないほどの侮辱に体が震え、かみ締めた歯がガチガチと鳴った。
「……あんたが理想や誇りを重んじるトラでよかったよ。でなきゃあたし死んでたもんね」
 千宏は笑い、カブラの鼻先でひらりと身を返すと壁にかけてあったローブを取った。
「ねえカブラ。思うんだけどさ、ヒトがこの世界で人間として認められない理由って何? 弱いから? けど身体能力じゃ、ヒトもネズミもそんなに違わないって言うよね。ヒトには特技がないって? そんなことないはずだ。だってそうじゃなきゃ、ヒトがこの世界の科学技術に貢献できるわけがない。むこうの世界の知識だけじゃなく、ヒトの知力はこの世界の基準では年老いたネコに匹敵するってクラブのママも言ってたしね」
 カブラは浅く息を吐き、握り締めた拳を静かに下ろす。
「……ヒトは、自分ひとりじゃ生きられねぇ」
「それってさ、本当にヒトが弱いせい?」
「……なに?」
 部屋を出るつもりなのか、千宏は身支度を整えながらカブラの方を見ようともしない。それでも休まずにしゃべり続けた。
「ある仮定をしようか。ネズミがたぶん妥当だね。そのネズミは、特に何も悪いこともしていないのに、ある日突然世界中で指名手配されるんだ。捕まえたら一生遊んで暮らせるくらいの懸賞金付でね。そのネズミは世界でただ一人だけで、耳を見られただけですぐに自分が指名手配犯だって気づかれる。もちろんまともに仕事はできないし、落ち着いて外もあるけない。おまけにそのネズミはどういうわけか記憶喪失で、どうしてこんなことになったのか、そもそもこの世界がなんなのかも分からない」
 その、状況で。
「そのネズミが死んだとしてさ。ひどい殺され方をしたとして、人間扱いされなかったとして、それはそのネズミの責任? 自分は無実だ、何も悪いことなんかしてないって叫ぶネズミにさ、あんたはこう言うわけ? “生きられなかったのはお前が弱いせいだろう。その状況で立派に胸を張って一人前に生きられなきゃ、この世界じゃ人間として扱ってももらえねぇんだよ”ってさ」
 言ってから、ふと千宏は立ち止まって首をかしげた。それから小さく息を吐き、責めるような表情でカブラを見る。
「……きっとあんたは言うんだろうね。全部“俺だったら”に置き換えて、自分にできることができないやつらは誰一人認めない」
 千宏は笑う。悲しげな表情を無理やり笑顔に作り変えたような顔をして、千宏は再びカブラの正面に立った。
「ヒトはね、カブラ。すごく自尊心が強い生き物なんだ。ヒトによってはトラよりもずっと。ヒトはその誇りを守るためならどんな事だってする。なんだって踏みにじる。それが例え他人の意思や決意でもお構いなしにね」
「……てめぇに何ができるよ」
「察しはついてるんでしょ? だからあんたはそれを阻止したかったわけだ。……けどね、もう手遅れ」
 千宏はカブラの横をすり抜け、ハンスを呼ぶと部屋を出た。
「“おいで”カブラ。カアシュの足を取り戻したいなら。唯一かどうかは別として、きっとこれが最大のチャンスだよ」
 

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