「百夜の壱」
涼やかな虫の声。
揺らめく蝋燭の焔に照らされた、狐の男の顔は憔悴していた。
季節に合わせた白麻の着物に包まれた毛並には、白い毛が幾ばくか混じり、男の年が高齢であることを物語っている。
「主様や」
若い女の声が静寂を破る。
程なく、引き戸となった部屋の入り口が開き、額を床に伏した長い黒髪の女が姿を現した。
濡れたような艶のある黒髪から覗く白い耳。
男が返事を渋ると、再び、女は鈴のような響きで呼びかけた。
「主様。今宵も伽の準備が整いましてありんす」
ふっと面を上げた女の表情に、笑みが浮かぶ。
髪と同じく真っ黒な瞳が、夕闇の中の蝋燭の明かりにちろちろと光る。
いつか市場で目にした事のある、落ちもの人形を思い出させる、女は紙のような白さだ。
老いた狐は疲れた眼差しを女に向けると、力なく頷き、重い腰を上げた。
小さな蝋燭明かりを持ち、男の前を歩く女の影は、深く濃く廊下を染めた。
頭二つ分も小さな後姿からは、年相応の幼さと女独特の妖艶が漂っていた。
軋む床板の音と二人の足音以外、周りはすっかり闇に覆われている。
「さ、お入りなんし。主様」
ぼんやりと意識を漂わせている内に、一つの引き戸の前で女が手招きしている。
味気のない木造の室内には、一組の布団が綺麗に整えられていた。
その枕元へ視線を移すと、小さな膳の上に徳利と御猪口が二つ乗っている。
「ひとつ、お上がりなんし」
並々と注がれた清酒を一口で干す。爽やかな酔いが身体に巡り、緊張した意識が霞のように散っていく。
その様子を満足そうに眺める女の手元にも、同じく空となった杯がある。
先ほどまでの白さが、熱を帯びた桜色に変わり、黒い瞳が水気を帯びる。
もう数十年若ければ、否、例え枯れ年といわれる古狐でさえ、その妖しげな色香に惑わされるであろう。
しかし、男の表情は硬いまま、背に負う空気は重く、じっとりと毛皮を湿らせていた。
「まだ、酔い足りぬか?」
小首を傾げて愛らしく問う様ですら、男にとっては恐ろしいものであった。
だが、長く生きた者の慣習で、それを表に出さず、男は首を横に振った。
「ならば―――」
そう言うと、女が自らの袂に手をかけた。
ゆるりと結ばれていた帯が簡単に解け、ぱっくりと割れた胸元が白く照らし出される。
同時にもたれるように傾けてくる細い身体を、男は何も考えずに抱きすくめた。
嗅ぎ慣れた女物の香の香りと、腐った草葉と湿った土の匂い。
歓喜に染まっていく女の表情に、チクリと胸の奥が痛くなる。
しばしば、耳につく虫の鳴き声が、徐々に遠のいていくのがわかった。
***
明け方。白んだ光が差し込んで、男は目を覚ました。
波打ったように乱れた寝具を取り払い、汗と酒と微かな生臭さが漂う空気を開いた戸の隙間から追い出した。
人の気配はない。昨日は庭で鳴いていたはずの虫の気配すら、白く濁った朝霧に隠れている。
毛並みに逆らうようについたクセを気にする事もなく、枕元に用意された替えの衣に袖を通す。
ほのかに香が染み付いているようで、それに気づいた男の顔がみるみる曇っていく。
がらんと伸びた廊下、整然とした土間や炊事場、そして、遥か昔に主を失った、北側の離れの部屋。
無意識の内、その姿を探すように家を徘徊する男が向かったのは、手入れのされていない裏庭だった。
伸びすぎた草葉が折り重なり、その重みと熱でゆっくりと時間をかけて腐っていく。
柔らかい土を這う虫が、男の気配を察するや否や、か細い羽を震わせて、空へと逃げていった。
その何もない庭の真ん中に、真っ黒な石が静かに横たわっている。
つるりとした無表情な石の表面を撫で、男がふっと瞼を閉じる。
「主様や」
語りかけるように、風のような囁きが耳に届く。
瞼越しに見つけた妻の姿に、男は安堵と哀愁の交じり合ったため息をついた。
ゆっくりと瞼を開けても、そこには真っ黒な石しかない。
脇から覗くように芽を出した秋草を忌々しく毟り取り、もはや過ぎたる夢と知りながら、男はその石を撫で続ける。
白んだ庭に吹き込む風が、夏の終わりを告げていた。