猫耳少女と召使の物語@wiki保管庫(戎)

岩と森の国ものがたり18a

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匿名ユーザー

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 ──もう、四年近くも前のことが、今でも鮮明に思い返せる。

 ハトゥン・アイユ西方の保養地トルキリム。その中心部から少し離れた小高い丘。
 夜の闇は、二つの満月が照らす光で普段より少し明るい。
 朱と蒼の月光が、リュナとフィリーヌを照らしていた。
「……本当にやるの?」
 少し震える声で、フィリーヌが尋ねてくる。
「……ああ」
 短く答えるリュナ。だがその声も、普段とは違う重苦しい声。
「……これから先の任務のためには、僕に『ルークス家当主』という地位が必要になってくる。貴族やお偉いさんの集まる場に入り込める地位が必要なんだ」
「だから、弟を殺すの?」
 あえて、直接的な言葉で問いかけてくる。
 それは、翻意させたいという想いのせいかもしれない。
 だが、リュナは答えた。
「そうだ……いや、違う」
 一度は肯定し、言ってから、少し考えて否定する。
「……僕たちは何もしていない。ただ、町の中でビンの蓋を開けるだけにすぎない。カミルたちに近づきもしなかったし、そもそも同じ建物にすら入っていない」
「……でも、そのビンは……」
「僕たちは何も知らない。ただ上の命令どおりに、何も知らずにビンを開けただけだ」
 強い言葉で、無理やりフィリーヌの言葉を押さえ込む。
「知らなくないよ! 知ってるから悩んでるんじゃない! そのビンを空けたらどうなるか……」
 フィリーヌの抗弁に、リュナはあえて淡々と答える。
「これから起きることは、ただの自然災害の一つだ。歴史上、疫病は何回も発生した。同じことがもう一回起きるだけだ」
「……違う……違うよ」
「違わない。僕たちは……僕たちは、誰一人殺さない。この手を誰の血で染めるわけでもない」
 詭弁であることはわかっている。いや、これからやろうとしていることの意味を一番知っているのは他ならぬリュナ自身だ。
 持ち込んだ数十本のビンの中にあるのは、高濃度の病原菌。それも、空気感染する結核菌とインフルエンザウイルス。
 それを街中でばら撒けば、どうなるか。
 数日を持たずに、町は疫病が蔓延する地獄絵図となるだろう。
 ……なぜ?
 たった二人の人間を、殺害するために。
 それも、疑いをもたれることなく自然死に見せかけるために。
 ただそれだけのために、町全体を犠牲にする。
 これからやろうとしているのは、つまりはそういうことだ。
「……フィル」
「…………」
「僕たちは『そういう世界』の住人なんだ」
「………………」
「人の命を食らって生きるしかない世界の住人なんだ」
「……わかってる……わかってるけど」
「もし、どうしても嫌なら……かまわない。ここから立ち去ってくれ」
「……!?」
「ここから先のことは、何も知らなくていい。フィルは手を汚す必要はない」
「……そんなの……できるわけないよ」
 声が涙ぐんでいる。
「ここまできて……一人だけ逃げたってダメだよ……」
 そこまで言って、泣くようにリュナの腕にすがり付いて訴える。
「ねえ、やめようよ……こんなの……できないよぉ……」
「……フィル」
「無理だよ……こんなの、できるわけないよ……」
 いままで、リュナに対しては姉気取りで振舞っていたフィリーヌが初めて見せる弱さ。それに、リュナが一瞬戸惑う。
「……フィル……」
「もうやだ……こんなのできない……」
「…………」
 そう思うのが当然なのだろう。
 むしろリュナのように、これから起きることを知ってなお、任務だと割り切れる人間の方がおかしいのだ。
「……大丈夫だ」
 そう言って、抱き寄せるようにして耳元でささやく。
「フィルは何もしない。全ては、僕が勝手にやったことだ。フィルは何も知らない」
「知らなくないもん! 知ってるから、わかってるから……」
 我慢できなくなったのか、涙をこぼして訴えかける。
「リュナにこんなことさせたくないよ! ずっと一緒だったのに……リュナはこんなことしちゃダメだよ……」
 まるで子供のように、泣いて駄々をこねる。
 わかっているはずなのに。
 エグゼクターズ、それも特務部隊において任務を拒むことは、すなわち反逆罪での死に他ならないことを。
 それでも、嫌なのだろう。
「ねえ……このまま逃げようよ……私、リュナとならどこにだって……」
 言っていることが、どれほど非現実的なことか、本当はわかっているはずなのに。
「……フィル」
 静かに、リュナが言う。
「逃げても、何も変わらない。……いや、今より悪くなることはあっても、良くなることはない」
「……どうして……そんなことわかるのよ……」
「フィルだって、本当はわかっているだろ?」
「わからない……そんなのわかんないよ……」
 子供のように、いやいやと首を振りながら言うフィリーヌ。そんなフィリーヌを抱き寄せて、慰めるように頭を撫でながらリュナは言葉を続ける。
「だけど、この境遇からフィルを抜け出させる道はある。そのために、僕は力を手に入れる」
「……でも……でも、でもっ……」
「フィルが、もう泣かなくてもいい世界がある。その場所まで、僕は絶対にのし上がる」
「ひっく……うっ……りゅなぁ……」
「逃げてちゃ、そこにはたどり着けない。僕たちがいるこの場所、このどん底から這い上がるには、力を手に入れるしかないんだ」
 泣きじゃくるフィリーヌに、ささやきかけるように言う。
「だから、僕は力を、地位を、権力を奪い取る。その先にしか、フィルが泣かなくてもすむ場所はないんだ」
「……でも……」
「大丈夫だ。フィルの手は絶対に汚させない。ここから先は、僕だけの仕事だ」
「……やだ……そんなのやだ……」
「フィル」
「リュナが……それじゃ、リュナが壊れちゃうよ……」
「心配するな」
 そう言って、優しく頭を撫でる。
「フィルが泣かずにすむ世界に行くまで、僕は壊れない」

 ──あのときから、確かに何かが変わったのだと思う。

 生まれて初めて行った、無関係の人を無慈悲に巻き添えにする暗殺計画。
 それを完遂したとき、確かにリュナの中で何かが壊れたのだろう。
 
 リュナとフィリーヌが、丘の上で話しこんだ数日後。トルキリムの町のほぼ全域で謎の疫病が発生した。
 町のほぼ全員が感染し、住人の三分の一は病死した。そして、リュナの二人の弟も、二度とトルキリムから帰ってくることはなかった。
 その結果、リュナは後継者のいなくなったルークス家を継ぐことになる。
 ……その半年後、リュナをエグゼクターズに追い出した父と継母が、旅行先で事故死した。
 馬車に落石が激突したことによる即死だった。

 ──そして、内乱勃発直後のある日。

 太陽の都にある、エグゼクターズ支局の一室。
 リュナは、ベリルに相談をもちかけていた。
「本気なの?」
「本気だ。こいつを成功させないと、僕の未来は広がらない」
 真剣な眼差しのリュナ。そんなリュナに、ベリルは確かめるように言う。
「……そんなこと言っても、リュナちゃん、兵を率いた経験はないはずよ?」
「ああ。訓練さえ経験してない。土下座して頼み込んだらアルルスがサポートしてくれることにはなったけど、恐ろしいことに、初めての指揮が初めての実戦だ」
 冗談のような口調でそう話すリュナの態度を、ベリルが叱る。
「……自分が言ってることわかってるの!? 一人で動くのとはわけが違うのよ?」
「わかってる。ド素人の指揮官に、練度のまるでなってない、たった300の借り物の兵隊。……そいつで、二つの関所と一つの港を奪い取る」
 その言葉を聞いて、呆れと怒りの入り混じった口調でベリルが言う。
「無茶を通り越して暴挙よ。リュナちゃんだけじゃなく、兵士がかわいそうだわ」
「……だから、それでも勝つための“切り札”を手に入れたい」
「…………」
 ベリルが沈黙する。
「実戦でのデータが足りない、試作段階の病原菌がいくつかあったはずだ。そいつを借りたい。その代わりに、使用状況とその結果をまとめて教える」
「……リュナちゃん……」
 困惑した表情のベリル。
「頼む。ここを超えないと、僕は……力をつかめない」
「……そんなに……力が欲しいの?」
「欲しい。権力が。武力が。影響力が。……あらゆる力が、僕には必要だ。僕たちの未来に必要なんだ」
「未来……?」
「ああ。僕たちは、ここから這い上がらなきゃいけないんだ。……いや、絶対に這い上がる。一介の工作員のままでは終わらない」
 その表情に、ベリルが笑みを浮かべる。
「……ふふ。あの泣き虫だったリュナちゃんが」
「……おかしいか」
「別に。せんせーは、そんなリュナちゃんを応援するわよ」
 そう言って、悪戯っぽく身体を寄せてくる。
「……貸してくれるのか」
「いいわ。試作品の病原菌、使えそうなのを用意してあげる。空気感染、即効性、致死率高いのがいいわね」
「関所で使うから、二次感染の危険性もある」
 その言葉に、少し冷酷な笑みを浮かべてベリルが問い返す。
「でも、多少の犠牲はやむをえない……そのつもりなんでしょ?」
 聞く人が聞けば、あまりにも冷酷な言葉なのだろう。
 しかし、リュナは頷いた。
「かまわない。僕はここで“奇跡”を起こさなきゃいけない。そのためには……あらゆる犠牲を顧みない」

 ──王弟派の急襲により、摩天街道の二つの関と透河沿いの港が占拠されたという知らせは、内乱初期において大きな意味を持った。
 そして、それを成し遂げたリュナ・ルークスの名は一躍王弟派の中に広まることとなった。
 一介の工作員から、貧乏貴族の小領主。そして、王弟派の有力者。
 成り上がるために、リュナはもう細菌を使うことを躊躇わなくなっていた。
 錬金術師のアルヴェニスとダイオニス兄弟と知り合ったのも、その頃になる。
 二人の科学知識が、リュナの新たな武力を生んだ。
 細菌と言う新兵器。犠牲者の数さえ顧みなければ、確かに強力な武器だった。
 そして。
 その頃のリュナは、もはやそれを使うことによる二次感染の犠牲者を顧みなくなっていた。

 ──門閥貴族が幅を利かせる王弟派で発言力を保つには、武功も必要だった。
 指揮官としてはまるで素人のリュナが、それでも軍を率いて戦い、そして敗北が許されない状況に置かれたとき。
 リュナは、すでに菌を使うことを躊躇わなくなっていた。

 死屍累々の要塞の中を、リュナは歩いていた。
 それまで王弟派にとって悩みの種だった難攻不落の要塞を落としたという功は、今の戦況の中では輝いて見えることだろう。
 しかし、リュナの表情は暗かった。
「お手柄ね、リュナちゃん」
 背後から声がした。
「……ベリルか」
 振り返った表情に、喜びの色はなかった。
「暗い表情ね」
「……捕虜がいた」
 ぽつりと、リュナが言う。
「功を焦りすぎた。……取り返しが付かない」
「死んじゃった?」
「敵味方を問わず、な」
 それが、暗い表情の理由だったらしい。
「それで、そんな暗い顔してるのね」
 ベリルが、くすりと笑う。
「でも、その暗い表情の理由はなにかしら……?」
 すこし残酷な微笑で、リュナを下から見上げるようにして問いかける。
「『味方を殺した』から? それとも、味方を殺したことで『出世の道が絶たれた』から?」
「!? ……なにを……」
 ぞっとするような質問。それが、刃物のように心に刺さる。
「……両方だ。いや……」
 リュナが、少し気弱な表情を見せて答える。
「確かに、味方を犠牲にしたことより、それによって成り上がれなくなることを怖れていた」
 心の中のどす黒い部分を口に出す。
「ふふっ」
 ベリルが、その答えを聞いて微笑を浮かべる。
「任せて。せんせーが何とかしてあげる」
「何とか……?」
「事実は情報で隠蔽できるのよ。……『女王派は卑劣にも捕虜を人体実験に用いて殺害した。リュナちゃんが砦を攻め落としたとき、すでに捕虜は死んでいた』……この程度の捏造なら、簡単なものよ」
「……ベリル、君は……」
「深入りしないほうが身のためよ」
 そう言って、リュナの質問を遮る。
「リュナちゃんは私の大切なコマ。こんなところで躓いちゃ困るのよ」
 そして、冷たい口調でそう突き放す。
「……そうか」
「……だけど」
「何だ?」
「リュナちゃん、変わったわね。あの優しくて泣き虫だったリュナちゃんが」
 ベリルの言葉に、すこし目を背け、自嘲めいた口調で肯定する。
「……そうかもな」
「無理してるのね」
「……なぜ、そう思う?」
「人の本質って、変わらないもの」
「変わったって言ったのはベリルだろ」
「そう見えるだけよ。変わらないものを無理に変えようとしてるんだから」
「…………」
「けど、いつか反動が来るわ」
「……来るのかな」
「きっと、ね。……もしいつか、耐え切れなくなって泣きたくなったら、いつでもせんせーのところにいらっしゃい。たっぷり慰めてあげる」
「……期待せずに待ってるよ」
 そう答えると、リュナは再び、要塞の中を調査するために歩き出していった。

 ──始めは、土地と財産目当てだった。

 貧乏貴族の小領主に過ぎないルークス家の財力では限界を感じつつあったときに、偶然クレファン家の令嬢と出合った。
 内乱で、領主である父を失い、あてどもなく放浪していた。
 クレファン家も小領主ではあったが、少なくともルークス家よりは広い荘園を持っていた。
 もし、奪い返すことが出来れば、その時リュナが手にしていた三倍の面積の荘園が手に入る。
 そして、屋敷と財産も。
 始めは、それだけが目当ての結婚だった。
 土地と財産。のし上がるためにそれが必要だったから、リシェル・クレファンに近づいた。
 世間知らずのお嬢様を我が物にするのは容易だった。
 リシェル・クレファンを妻にすることでクレファン家の土地と財産を領有する名目を手に入れると、内乱の中で放置されていた広大な荘園を我が物とした。
 ……はじめは、それだけで用済みにするつもりだった。また、不幸な事故死に見せかければよい。内乱の中なら、そういうことは日常茶飯事なのだから。
 呆れるほどに下劣な男だとは自分でもわかっていたが、それでも、もっと高みに這い上がりたかった。
 そして、そのために必要なのはあくまで土地と財であり、そしてそれを手に入れたとき、妻など不要となったはずだった。

 ──それが、少しづつ変化していった。

 妻に招いた世間知らずのお嬢様は、年齢よりずっと幼く思えた。
 まるで、小動物のようにじゃれ付き、幼い恋愛感情を隠しもせずにぶつけてくる。
 それは、リュナがこれまで歩んできた世界とはまるで別世界の住人の姿だった。
 うっとおしい、と最初は思ったが、それを隠して妻に付き合ったのは、いずれ『不幸な事故』が起きたとき、疑いをもたれないための方便だった。
 ……そのはず、だったのだが。
 いつの間にか、そんな関係に安らぎを感じていた自分がいた。

「ねーねー、リュナぁ?」
「ん? なんだい、リシェル」
「これ、食べてくれる?」
「えーっと……何かな、これ」
「おそばのクッキー」
 そう言ってバスケットごと渡された、こげ茶色のクッキー……らしきもの。
「…………」
「あー、今、嫌な顔した」
「あ、いや、そんなことないよ」
 そう言って取り繕うと、一個食べる。
「………………」
 歯が欠けそうなほど固い。
「あのね、リシェル」
「な、なに……おいしくなかった?」
「一緒に台所に行こうか。二人で一緒に作ろう」
「あ、その、それって……」
「こう見えても、料理は自身があるんだぞ。……まだ、材料あるよね」
「うんっ」
 他愛のない会話と、平凡な日常。
 だが、今まで知らなかった世界。
 そんな時間が、いつしか欠かせないものになっていった。

「りゅなぁ……」
「何だい?」
「りゅなは、わたしのことすき?」
「当たり前だろ。ずーっと、僕はリシェルを愛してる」
「ほんと?」
「ほんと」
「えへへ……ふふ……」
「おかしいか?」
「ううん、うれしい」
 ベッドの中でまどろみながらの、子供じみた愛の会話。だがそれも、案外悪くないと思っている自分がいる。
 そして、そんな中で。
 失いかけていた心の中の何かが、また戻ってきているような感じがしていた。
 いつの間にか、リシェルへの恋愛感情が芝居から本心へと変わりつつあった。

     ◇          ◇          ◇

「リュナ……リュナぁ」
「ん? ……あ、ああ……」
 ライファス城内にあてがわれた一室。いつの間にかうたた寝していたらしい。
「もう。昔のリュナなら、こんなだらしないかっこで居眠りしなかったわよ」
 フィリーヌが、ちょっとだけ得意げな表情でリュナを見下ろしている。
「はは……かっこ悪いとこ見せたな」
「ほんと。最近だらけてるゾ」
 そう言って、こつんと頭に拳を当てる。
「悪い悪い。昨日、ちよっと夜更かししたせいでな」
「じゃ、目をさましてあげる」
 そう言うなり、いきなり唇を重ねてくる。
「……!?」
 驚いているリュナに、フィリーヌが微笑む。
「どう、目が覚めた?」
「…………覚めた、な」
 リュナも変わったのかもしれないが、フィリーヌも少しづつ変わってきているらしい。

「ほら、朝ごはんにはちょっと遅いけど」
 そう言って、トレーに乗せた料理をテーブルの上に並べる。
「……これは……?」
「ほら、この前チャールズおじさんから今年のお蕎麦が届いたでしょ。ちょっと頑張っちゃった」
 チャールズとは、リュナの荘園の管理をしている代官の名前。
 なかなか荘園に戻る間もなく、特に最近はライファスに軟禁中のリュナにかわって、荘園を管理している。
 もともと、チャールズは、イヌの国の徴税吏だった。
 しかし、政争の巻き添えを食らって尻尾切りとしか言いようがない国外追放処分を受け、その後ルカパヤンまで流浪してきたのを、たまたま現地に侵入していたリュナがスカウトした。
 統治者としての知識を学ぶより早くエグゼクターズに放り出され、その後も工作員としての任務に追われて、ロクに統治学を学べなかったリュナにとっては、家と土地を奪った後、自分に代わって荘園を管理する人材が不可欠だった。
 さらにいえば、リュナがほとんど荘園に戻れない状況下でも、裏切らずに忠実に勤めてくれる人物であればなおよい。
 チャールズ・マクスウェルはちょうど、そういった人物だった。
 そして、リュナの管理する荘園のうち、あまり土地が肥沃でない一角で蕎麦を栽培している。
 売り物になるほどの量ではないが、意外な風味があって、リュナと親しい人物の間では人気がある。
「へぇ……こういっちゃ何だが、フィルって意外と料理上手いんだな」
「意外は余計。いままでだって食べさせてあげたじゃない」
「携帯食料の丸焼きをな」
「あ、あれは時間取れなかったんだから仕方ないじゃない」
「冗談だ。それより、食べてもいいのか?」
「どうぞ♪」

 白い磁器の皿に盛られた、パスタ状の蕎麦。
 蕎麦の独特の色が、白い皿とのコントラストで映える。
 その上に、トマトベースのソース。
 脇に添えられているのは、湖牡蠣のソテー。
「見た目は素敵だな。問題は味……」
 冗談交じりの軽口をたたきながら、一口食べる。
「……悪くないな、意外と」
「だから、意外は余計」
 ただのトマトソースじゃなく、やや獅子国風のオイスターソースをブレンドした独特のソースは、酸味と旨味がほどよく組み合わされ、まろやかさを生み出している。
 ガーリックと唐辛子は入れず、そしてオイルもオリーブオイルではなく、おそらく胡麻油。
 散らせてあるのはハーブではなく、川海苔か。普通のパスタよりも、トッピングをやや狐耳国風に近づけてある。
 脇に添えた牡蠣。手間をかけたスープに漬け込んで旨味を加えた後、焼酎でフランベしたのだろうか。
 表面だけを加熱した牡蠣を一口噛むと、中からは芳醇なエキスがあふれてくる。
 さらに味わえば、どうやらオイスターソースもおそらくは自分で作ったのだろう。市販品に比べて、やや風味が濃い。
「そういえば、湖牡蠣は今が旬だな」
 ハトゥン・アイユの北東部、パルワイアナ塩湖。そこで育つ牡蠣は、この山岳地帯では珍しい、海の香のする水産資源。
 貴重な栄養源であり、特に冬のものは海のものにも遜色ないぐらいに美味い。
「うん。昔は牡蠣なんて食べられなかったもんね」
「……あの頃はなぁ。伸び盛りの時期によくもまあ、あんな食生活送ってて死ななかったもんだよな。……ひどい時は一年のうち7ヶ月は非常食かじってたもんな」
「お互いにね」
 あまり幸せじゃなかった時間を共有していると、どうしてもそんな話になる。
「その分、今は幸せ♪」
「……そうだな」
 ただ月日だけが過ぎ去る、無為な軟禁生活。だがそれはそれなりに、悪くないのかもしれない。
 もしかしたら、おたがい少年と少女だった頃に夢見ていた生活は、こんなところにあるのかもしれないとも思う。
「……本当に、これは美味い」
「ふふ。リュナのそんな顔見るの、最近になってからね」
「フィルこそ。エプロンがそんなに似合うとは思わなかった」
「ふふ……」
 少し照れたように笑う表情は、むかしの険が取れて愛らしい。
「こっちは?」
「蕎麦の実のスープ。脱穀して、そのままの実を具にしてみたの。ヒトの世界で言う『蕎麦米』って料理」
「へえ……」
 スプーンで一すくいして、口に運ぶ。
 ベースはチキンスープ。そこに狐耳国風の調味料で味を調えている。
 ささがきにした根菜と、大きく四つ切りにした椎茸。それが、ベースのチキンスープに野趣のある旨味と出汁を加えている。
 底の方に転がる、ごろりとした少し大きめの芋。食べるとほくほくとしてよく煮えている。
 美味そうに食べるリュナをみて、フィリーヌが言う。
「リュナ、お箸使うの上手ね」
「ん? ああ、獅子国に行ってたからな」
「あ、そっか」
「最初は使い慣れなくて苦労したんだが、いつの間にか自然と扱えるようになってたな」
「ヒトもお箸使うよね」
「そうだな。ヒトから伝わって定着したのか、それとも異世界のヒトとこっちの世界の獅子や狐が、たまたま偶然、同じように二本の木の棒を食事に使っていたのかはわからないけど」
「ヒト文化の浸透と言うのは、あまり学術研究としては進んでないのかな」
「確か、シュバルツカッツェ王立大学になんとかいうヒト文化論の教授がいたはずだが、なにしろ僕らとくらべて寿命六倍だからな。論文の出る速度も六倍遅い」
 そんな他愛のない話をしながら、レンゲでスープをすくう。
 澄んだスープの底の方に溜まっている蕎麦の実。麺にしたのとはまた別の食感がある。
「こういう食べ方もあるんだな」
「いろいろあるみたい。麺ばかりじゃなくて、ビスケットやお饅頭とか」
「……むかし、死ぬほど硬いクッキーを食わされたことがある」
「どうしたの?」
「いや、リシェルがな。バスケットに黒っぽいクッキー山のように入れて持ってきたんだ。それがまた硬いのなんの。歯には自信があったはずなんだが」
「へぇ……(ぎゅっ)」
「いてえっ!」
 頬を強くつねられ、思わず叫び声を上げる。
「何するんだっ!?」
「ん? なんとなく」
 いたずらっ子のように笑うフィリーヌに、リュナが頬を押さえながら文句を言う。
「なんとなくってなぁ……」
「だって。リュナがリシェルちゃんのこと楽しそうに話してるの見てたらつい」
「……ま、やきもち焼くフィルもかわいいけどな」
「え!?」
 そう言われたフィリーヌが、急に身体をそわそわと動かす。
「エグゼクターズの頃の、きつい性格のフィルも嫌いじゃないけど、今のフィルも悪くない」
「え、えっと、その、それって……」
 急に落ち着きをなくして、エプロンの端をにぎってもじもじとする格好が妙にかわいらしい。

「ほらほら、いちゃつくのもいいけど仕事よ」

 そんな雰囲気をぶち壊すように、聞きなれた声が扉の方から聞こえた。
「……ベリル」
「ほんとにもう、二人きりの甘い時間もいいけど、いつまでもただ飯食わせるわけじゃないのよ」
 いつもの軍服姿のベリルが、足音も立てずに部屋に入ってきた。
「フィルちゃんも。やっと二人っきりになって新婚気分もいいけど、ずっと浮かれてちゃダメよ」
「あ、その、これは……」
 急にエプロンを隠すように、ベリルに背中を向けて身体を小さくする。
「まあ、それ以上フィルをいじめないでくれ。それより、僕はどうすればいいんだ?」
「あら、聞く前からやる気満々ね」
「どうせ、断れないんだろ?」
「断ってもいいわよ。ちょっとフィルちゃんがひどい目にあうだけだから」
「……やることを教えてくれ」
 少し険しい口調で、リュナはベリルに問う。その口調と表情を見てベリルが微笑んだ。
「ほんと、リュナちゃん動かすのって簡単なんだから」
「…………」
 無言で、少し睨むリュナをみて、ベリルが落ち着かせるように両肩にぽんと手を置く。
「そんな顔しないでよ。これは、リュナちゃんにとっても悪くない仕事なんだから」
「………………」

 旗印のシャリアを失った王弟派残党は予想通り先鋭化し、各地で無差別のゲリラ戦を展開している。
 特筆すべきは、彼らがどこからか良質の武器と優れた参謀を手に入れていることだった。
 そのため、女王派は迎撃が間に合わず、各地で多大な損害を蒙っていた。

「けど、スパイが潜り込んでるの」
「……そいつらからの連絡はどうなってる?」
「警戒されてて、なかなか深いところの情報は伝わらないみたい。なかなかやり手の参謀が入ったみたいね」
「……なるほど。で、僕が女王陛下のために王弟派の中枢に潜り込むと」
 その問いかけに、ベリルは首を横に振る。
「それは無理よ。リュナは王弟派ら完璧に疑われてるんだから」
「……誰かが簀巻きにして拉致ってくれたおかげでな」
「あら、裸で簀巻きにされた責任の半分はリュナちゃんでしょ」
「…………」
 言葉に詰まったリュナに、横からフィリーヌが尋ねる。
「そういえば、どうして用心深いリュナが簡単に捕まったの?」
「え!? あ、いや、それはその……」
「それに、裸で簀巻きって……」
「いや、あのな、世の中には不可抗力と言うものが……って待て、その、どこに銃隠してた!」
「……土下座」
「はい?」
「この場で土下座して謝って。死にたくなかったら」
「ちょっと待て、その、悪いのは俺じゃ……いや、その、悪かった、だからそう……」
 銃口を突きつけられたリュナが本気の殺意を感じて必死に詫びる。
 そんな光景を見て、ベリルが面白そうに言う。
「おとなしく土下座して謝ったほうが身のためね」
「ベリルのせいだろっ!」
 反射的にそう言ってから、致命的な失言に気付く。
「ふーん……ベリルとやったんだ」
 言うと同時に、銃弾がリュナの耳元すれすれを掠めるようにして壁に突き刺さる。
「あ、いや……わわ、わかった、土下座でもなんでもするから許してくれっ!」
 その場でコメツキバッタのように頭を床にこすり付けるリュナ。
 仮にも、少し前は王弟派の若き有力者だったり、その前はエグゼクターズでも特A級の工作員やっていた男の姿には見えない。

「……リュナのばか」
 少しご機嫌斜めのフィリーヌ。こうなると二、三日は許してくれそうにない。
「それで、仕事の話だけど」
「ああ」
 椅子に座りなおして、ベリルの話を聞く。
「相手の警戒を解かせる必要があるの。そのためには、スパイが誰か、内部工作員が誰かを相手に誤認させる必要があるわ」
「つまり、その役目が……」
「リュナちゃんってこと」
「……つまり、本物の内通者が疑われないようにするため、僕が最初から女王派の内通者として王弟派に入っていたことにする、と」
「そう。グランダウス襲撃もシャリア暗殺も、裏でリュナちゃんが糸を引いていた、ってシナリオね。そうすることで、本当の実行犯には目が向かなくなる」
「で、僕が一人で王弟派の恨みと憎しみを背負うわけか」
「そうなるわね」
「……命狙われることになるな」
「それも織り込み済みよ。リュナちゃんが派手に立ち回れば立ち回るほど、相手の視線はリュナちゃんに向く」
「守ってくれるのか?」
「ある程度は自己責任。そのくらいは出来るでしょ?」
「……ある程度、であることを祈るよ」
 ベリルが『ある程度』とか『多少』とか言葉を濁したときに、生易しい事態で済んだためしがない。
「それで、本物の内通者には伝わってるのか? その相手に連絡が伝わってないと」
「連絡済。さすがに、誤解を招くことはちゃんと伝えておくわ」
「まあ、そうでなきゃ困るな」
「それで、明後日には女王様に謁見してもらうわ。正装はこちらで用意しておくから、ギュレムとちゃんと口裏合わせてね」
「……あのオッサンの差し金か」
「それだけじゃないけど、そう思ってくれていいわ」
「……含みのある言い方だな」
「リュナちゃんが知らなくていいこともいろいろあるのよ」
「ただの駒はだまって動けってかい?」
 皮肉交じりの言葉を、ベリルは笑って受け流す。
「いずれわかる時が来るわ。今は、目の前の仕事を演じてくれたらいい」
「……ま、いいさ。それが任務だって言うのならきちんとこなす」
「それでいいわ。それじゃあ、また明日ね」
 そう言い残して、ベリルが去った。

「…………」
「そう膨れるなよ」
「ふくれてなんかないわよ」
「声が怒ってるぞ」
「だって」
「悪かった」
「……もう」
 まるで子供のように口を尖らせるフィリーヌの姿に、ふと過去の記憶が蘇る。
「そういや、今まで拗ねたり膨れたりする暇なかったもんな」
「何よ、それ」
「いや……お互い、ガキの頃は目の前の任務に追われっ放しで、こんな格好する暇もなかったよなって」
「……何よ、急に」
「いや、なんでもない。ただ、フィルのそんな姿を見るのは新鮮だなって思っただけだ」
「……変なの」
「悪かったな」
「…………」
 そのまま、少しの沈黙が流れる。
「……ねえ、リュナ」
「ん?」
「謝って」
「な?」
 机につんのめりそうになるのを、何とかこらえる。
「謝ってくれたら、許してあげるから」
「……さっき土下座しただろ」
「さっきはさっき。もう一回謝って」
「……あのなぁ」
 渋るリュナに、フィリーヌが顔を覗き込むようにして聞く。
「嫌?」
「もし、謝らなかったら?」
「この場で無理心中」
「ちょっと待て」
 銃をいじりながらの冗談は冗談に聞こえない。
「じゃ、謝ってくれる?」
「わかったわかった、謝ればいいんだな」
「うん」
「……ったく」
 不承不承椅子から立ち上がると、やや大仰な仕草で頭を下げて謝る。
「僕がわるぅございました、許してください」
 その姿を見て、フィリーヌが楽しそうに笑う。
「ふふっ」
「そんなにおかしいか」
「だって……ふふ、こんなリュナもいいなって」
「何だよ、それ」
「ずっと、強くてかっこいいリュナしか見てなかったから」
「かっこよくはないだろ。なんかしょっちゅうズタボロになって泥まみれ血まみれになってた気がするけど」
 落ちものの物語や小説のように格好良く仕事を完遂する工作員とは程遠い、結果オーライとしか言いようのない任務もいくつも経験している。
「それがよかったの。けど、いつも私を守ってくれるリュナを見てると、なんか不安になって」
「不安?」
「いつまで、私なんかの側にいてくれるんだろうって」
「……『なんか』って言い方はよくないぞ」
 少し強い口調で注意する。
「けど、やっぱり……」
「そんなこと言うから、いつまでたってもフィルの側を離れられないんだよ」
「……りゅな」
「ったく。心配しなくても、フィルは僕が一生守る」
 自分でも口に出すのが恥ずかしいようなことをわざわざ言って聞かせなくてはならないから困る。
 ……いや、そういわせるように誘導しているのかもしれない。
 それでも、ようやく嬉しそうな笑顔を見せるフィリーヌをみると、もうどちらでもいい気分になる。
「なんか、僕は一生、こうやってフィルとリシェルの尻に敷かれるんだろうなって気がしてきた」
「うん。一生敷いてあげる♪」
 嬉しそうに、首に手を巻きつけて抱きついてくる。
 当分、フィリーヌの新婚気分は抜けそうになさそうだとリュナは思った。

「……けど、こんな毎日が続いたら楽しいのにね」
「……そうだな」
 二人とも、思うことは同じらしい。
「また、任務なのよね」
「ああ。そろそろ来るとは思ってたけど」
「思ってたんだ」
「あのベリルが、いつまでもただ飯食わせるほどお人よしのはずがない。どうせ、なにかの手ごまに使う気なのはわかってた」
「……わかってて、どうして逃げなかったの?」
「……逃げられるわけないだろ」
 その言葉に、フィリーヌがかぶりを振る。
「そんなことない。リュナは本気になったら、いつだってこんなとこ出て行ける」
「…………」
「私がいるから?」
 フィリーヌの問いかけに、微笑で応える。
「そりゃ……言いたくないけど、その気になればきっとフィルとアルつれて逃げ出すことだって無理じゃないさ。けど、いまだに残ってるのはきっと、自分の意思なんだろうと思う」
「自分の意思?」
「ああ。……いつごろからかはわからないけど……僕自身が、策謀とか陰謀ってのが好きになってしまったらしい」
「…………」
「やな奴だな」
「ううん。そんなことない」
「ありがと。だけど、あの話だと、また厄介な仕事になりそうだ」
「そばにいたほうがいい?」
「……そうだな。いてくれたら心強い……けど」
「けど?」
「いいのか、フィルは」
「いいよ」
 首に両腕を巻きつけたまま、耳元でそう囁いてくる。
「リュナと一緒なら、それでいい」
「……そっか」
 甘えるように身体を寄せてくるフィリーヌの背に片手を回すと、もう一方の手で、子供をあやすように頭を撫でる。
「もう……子供じゃないんだよ」
 ちっょと不満そうにそう言ってくるので、冗談交じりに返す。
「子供じゃない付き合い方がいいか?」
「うん」
 即答して、ぎゅっと抱きついてきた。
 いまさら冗談とは言えそうになかった。

     ◇          ◇          ◇

 

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