猫耳少女と召使の物語@wiki保管庫(戎)

『桃源郷』へようこそ

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『桃源郷』へようこそ



 ざわめく森。
 木々の向こうから聞こえてくる怒声。

 俺は、逃げていた。
 何から? あの汚れた生き物たちからだ。
 あいつらは、俺を捕まえ、奴隷にして売ろうとしている……。

 『人身売買』

 その概念は理解し、知っていたが、俺がその対象になるなんて、
 元々暮らしていた世界にいたときには考えたこともなかった。
 けれど残念ながら、今こうやって山の中で走っていることはまぎれもない事実だ。

 こんなイカれた世界に迷い込み、もうどれくらい時が経ったのか。
 逃亡に逃亡を重ねる日々だったせいか、あまり覚えていない。

 なんてことのない普通の公立高校に入学し、青春のために用いられる時間を無為に費やし、
 とある休日にたまには遠出で遊びに行こうか、と電車に乗ろうと駅までいったら、
 プラットホームで不意に、こっちの世界に『落ち』た。
 こちらの世界へやってきて、わけのわからないままケダモノ連中に捕まって、
 奴隷にされては逃げ、逃げては捕まり、捕まっては逃げる。
 いくつものサイクルを繰り返しながらも、俺は幸いにもまだ生きていて、希望を捨ててはいない。
 諸国を旅して、元の世界に戻る方法を孤立無援で探しているが、
 何か手がかりを掴むどころか、行くとこ来るとこ、俺をヒト奴隷にしようと捕まえるやつらばかり。
 今も、人目を避けるために街道から逸れ、山の中を移動している最中に、あの追跡者共に見つかってしまった。

 この世界では、人の代わりに動物の特性を持った生き物たちが繁栄している。
 ヒトの数倍の身体能力を持ち、ものによっては魔法を用いる、ヒトとしての俺の立場から言えば『獣人』
 この世界で希に俺の元いた世界からやってくるヒトは、とても希少価値の高い生物であり、
 そのためにヒト奴隷はかなりの高価な値段で取引されている。日本円でいうと億単位、でだ。
 売るやつもいるということは買うやつもいる。
 そんな金額を出してでも、俺を欲しがっているやつが、この世界には存在している。

 もちろん、知的生命体を売買している連中にモラルがどうであるかは想像に難くない。
 例外的な存在もいるだろうが、世界はどこも確かに汚れている。
 良心を期待しても無駄な連中の方がずっと多い。

「いたぞッ!」

 チッ、見つかった!

 全身は硬い毛皮に覆われ、イヌの頭を冠している。
 この世界の『人間』の中でも特に優れた嗅覚を誇り、集団で狩りを行う……イヌだ。

 あのイヌのならず者どもは、ここらへんを縄張りとする盗賊団か何かだったんだろう。
 金銭のためだけに俺を捕まえようとしている、最低最悪のクズどもだ。
 俺を生け捕りにしなければ意味がないので命を取ることはないだろうが、
 捕まったら考えたくもない目に遭わされるに決まっている。

 ヒトを売って得るお金は余程魅力的なようで、執拗に追いかけてきている。
 身体能力は、馬鹿がつくほどあるが、頭はそれほど回らないようだ。
 今まで俺が何度も捕まっても逃げ続けることができたのは、
 頭の回らない連中の裏をつくことができたおかげだろう。

 俺は、帰るんだ。
 元の世界へ。
 こんな世界にいてたまるか。
 こんなところで一生奴隷やるのも、みじめに死ぬのもどっちもお断りだ。

 目の前の木の間から、突然犬野郎が出てきた。

「へっへ、もう逃げられねーぜ」

 糞ッ。
 犬野郎は俺よりも大きい体を持ちながら、俺よりも俊敏に動くことができる。
 一回見つかってしまえば、そう易々と逃げることはできない。
 ならば……。

「あー、降参降参、もう無理、疲れたし、あんたら異様に足速いし、
 ここがどこだかわからないし、もうやってらんねーよ。
 頼むから、なるべく痛くないようにおいしく食べて」

 両手を腰に当て、やや胸を張って言う。
 イヌ野郎は、観念した台詞を聞いて、無警戒に俺に近寄ってくる。
 ざっと見て、あと五、六歩で手の届く距離まで近づくだろう。
 何も知らない『落ちたばかり』のヒトを振る舞う。馬鹿のように笑い、無知を装う。
 無抵抗を宣言したならば、相手は警戒を解く。

「何、殺しはしねぇよ」

 四歩、三歩……。
 犬野郎は、にたにた笑っている。
 どんな意味をもって笑っているのか知らないが、あれが犬世間一般で言う邪な笑みというやつなんだろう。
 なるほど、ヒトである俺から見ても、凶悪、の一言に尽きる、クソッタレ。

「お前はいい金になるんだ」

 二歩……。
 俺を売って得る金で何をしようか、なんてことを考えている面だ。
 こんな顔を何度も見てきた。確信している。
 ヒトを捕まえられる、ひ弱なヒトを捕まえられる。
 ヒトはひ弱、脆弱だ。だから俺からは逃げられない。
 俺はヒトを捕まえて、一応楽しんだ後、売る。
 売れば信じられないほどの金になる。その金で遊ぶ。
 さて、何をして遊ぼうか?

 死ねよ、クズ野郎が。

「殺すだなんてそんなもったいないこと……」

 上着を少しまくり、ズボンの間に挟んでいたナイフを取って、犬野郎に飛びかかった。
 犬野郎は本当に油断していたのか、ほんの少し身をかがめたが、至近距離から一気に距離をつめてきた俺に反応できなかった。
 渾身の力を持って、ナイフを犬野郎の心臓目掛けて突き立てる。
 懐に飛び込みながら、足を絡め、そのままの勢いで犬野郎を後ろに倒した。
 まるで固いゴムにナイフを突き立てているような感触が腕全体に伝わった。

「な……」

 ナイフの刀身が全て埋まったところを確認すると、思いっきり柄をねじった。
 刺しただけでは相手に与えるダメージは少ない。
 ねじることによって、激痛を与え、抵抗する意思を刈り取らねばならない。
 大事に大事に使っていたナイフがパキンと音を立てて割れた。
 しょうがない、犬野郎一匹と引き替えにしたんだ、決して無駄ではない。

 俺はすぐさま立ち上がり、容赦なく犬野郎の顎を蹴っ飛ばした。
 雄叫びを上げて、仲間を呼ばれたら厄介だ。
 せめてもう少し時間を稼がなければ、俺はケダモノ連中に捕まってしまう。
 ボロボロになりかけてはいるが、まだまだはけるスニーカーが俺の体重と足を振り上げた反動とともに
 犬野郎の顎を蹴り上げた。
 あまり聞きたくない類の音と感触が足下に残っている。

 息も切れ切れになりながら、俺はまたこの世界のケダモノを一匹、刺した。

「馬鹿が。人だからってな、舐めてたら死ぬんだよ」

 この世界では、ヒトは弱く、高級品だ。
 高級品だからこそ、傷を付けることを躊躇う。
 弱いからこそ、油断する。
 こいつは、窮鼠猫を噛む、ということわざを知らなかったようだ。
 とはいえ、こいつはイヌだがな。

 心臓を一突きしたところで、こいつらはそう易々と死んではくれない。
 ヒトにしたって、心臓を刺しただけでは滅多に即死しない。
 心臓がその機能を失って、血液が脳に届かなくなって初めて死ぬ。
 イヌ野郎は頑丈だから、割と長時間生きていられるだろう。
 そうだな、三分くらいは持つんじゃないだろうか。

「もうお前は終わりだ。心臓を貫いた。助からない、できることは死を待つだけだ」

 イヌ野郎から飛び退いた。
 奇襲に奇襲を重ね、今まではなんとか上手くいったものの、
 モタモタしているとイヌ野郎の反撃を喰らいかねない。
 だが、取る物は取っておかねば逃げ続けることはできないだろうから、
 どさくさにまぎれてイヌ野郎の腰元からナイフを一本と腰袋を奪い取っておいた。

 いくら畜生とはいえ、俺にも通じる言葉をしゃべり、さっきまで生きていたものを殺すのことには多大なストレスを感じる。
 俺は普通の人間だ。いや、普通の人間だった。
 普通の家庭に育ち、普通の学校に通って、普通に生きていた。
 こんなわけのわからない世界に突然飛ばされて、わけのわからないまま追われて、
 捕まって、奴隷にされて、脱走して、また追われて……必要とあらば、追っ手を殺す。
 空き巣、強盗、殺人、当たり前。
 もううんざりだ。俺はもう普通の生活に戻りたい。
 あの、ヒトのみが知的生命体の世界に戻りたい。
 馬鹿げた身体能力を持った獣人が、俺を付け狙う世界から抜け出したい。
 元の世界に戻ったって、前の俺に戻れるわけじゃない、けど、俺は何がなんでもあの世界に戻る。
 ここは地獄だ。俺のいるところじゃない。
 何があろうとも、何が立ちふさがろうとも、俺は絶対に戻ってみせる。

 イヌ野郎を殺したことに、多大なストレスを感じながらも、
 黒い愉悦に身を悶えさせていた自分も存在していた。
 イヌ野郎はもう、必ず、絶対、死ぬ。
 俺を殺そうが何しようが、イヌ野郎の死は確定している。
 ざまあみろ、だ。

 あいつは俺を捕まえ、非人道な行為を行い、物のように売るつもりだったんだろう。
 それがどうだ?
 脆弱なもののはずのヒトが、見た通りすぐに降参の意を表したヒトが、
 近づいた瞬間ナイフを取り出し、心臓を一突き。
 イヌ野郎はさぞかし無念だったろう、否、無念だろう、まだ生きている。
 不可避の死を、イヌ野郎の認識では『野生動物でもない、人間ですらないもの』によって与えられた。
 夢のような人生が、一転、絶望だ。
 あいつをそんな運命に叩き込んだことに、俺はたまらないうれしさを感じていた。
 できることならば、この世界にいるケダモノども全部に同じ未来を歩ませてやりたいが、
 しかし、それは適わぬことだ。

「くっ……」

 イヌ野郎はその場に倒れたまま動かなかった。
 しかしまだ生きている。
 人間ならば、胸を刺されたショックで気絶したり、死んでいたりしてもおかしくないが、
 あいつはイヌ野郎だ、そう易々と死ぬわけがない。
 俺が近づくのを待って、襲うつもりなんだ。
 手に入れたばかりのナイフを構え、寝ころんでいる犬野郎を見据える。
 頬を伝って、顎から汗の滴が落ちる。イヌ野郎は動かない。

 ナイフを構えたところで、はっきりいって手傷を負っているとはいえ、
 本気になったイヌ野郎相手には勝てないだろう。
 こんな刃渡りの小さな刃物を持っていたって、非力なヒトに一体何ができるっていうんだ。
 イヌ野郎はナイフを振るスピードよりも遙かに早く俺を殺すことができるのは明白なことだ。
 もし万が一ナイフを振るえたとしても、イヌ野郎の毛皮や筋肉は相当固く、刃なんて通りはしないだろう。

 さっきは、油断させて筋肉が硬化していない状態のところを、俺の全力を持ってナイフを突き立てたので、
 運がよく刺さってくれたおかげだ。
 素人が狙って心臓に突き刺せることはまずありえない。
 奇跡がいくつも重なって、俺は今こうやって二本足で地面に立っていられる。
 ナイフが刀身からぽっきりと折れてしまったが、
 ナイフ一本で俺を追いかけてくるケダモノ一匹を殺せたのなら、悪くない戦果だった。

 それでも俺がイヌ野郎から奪ったナイフを構えているのは、
 ほとんどと言っていいほど、精神の安定のためだ。
 刃物を持っているということはそれだけでストレスになるが、
 俺を簡単に殺せる相手に向けているという恐怖を若干ながら和らげてくれる。
 毛皮のない目に突き刺せば、あるいは……という考えにすがりつき、現実から目を逸らす。
 満月とはいえ、夜にそんな小さな的を狙うことはまず不可能。
 そもそもあのイヌ野郎に目以外の場所すら、当てられはしまい。

「……くっ」

 イヌ野郎の仲間が近づいてくるのがわかる。
 普通の世界ではあまり使わなかった俺の本能が、それを知らせてくれる。
 イヌ野郎の仲間は、まだ余裕がある様子なのか、ゆっくりとしたペースではあるが確実にこちらに近づいてくる。
 まだ仲間が屠られたことに気付いていないらしい。

 畜生、ここから早く逃げなきゃ……捕まる……。
 けど、今背中を見せたら、確実にあのイヌ野郎は襲ってくる。

「……」

 ふと、犬野郎の出血量が異様に少ないことに気が付いた。
 犬野郎の周り数センチまでは赤い液体が広がっているが、
 心臓を一突きにし、ナイフの柄をねじったわりには出血量が少ない。
 それでも十分血は出ているのだが。
 ……。

 擬死か。

 動物が危機に迫られたとき、反射的に新陳代謝を落として死んでいるふりをすることがあるらしい。
 このイヌ野郎も擬死しているのだろうか?
 もう考えている時間も確かめている時間もない。
 イヌ野郎は擬死状態だ。
 このまま待っていて捕まるくらいなら、逃げられる可能性に全てを賭けた方がいい。

 擬死状態に入ったら全身の新陳代謝が落ちる。
 が、心臓に穴が開いているため、再び元の状態に戻すことはできず、
 イヌ野郎はそのまま死んでいくだろう。

 ナイフを鞘に収め、ベルトに挟んだ後、唯一の荷物のボストンバックの中を漁った。
 中から、小さめの革袋と少量の液体が入った一本の小瓶を取り出す。
 小瓶の固く閉められた栓を抜き、革袋の中に入っていた白い粉を全て中にいれ、よく振る。
 ボストンバッグの中に入れてあったタオルで瓶をくるみ、転がっているイヌ野郎の近くの地面にそれを叩きつけた。
 くぐもった音を立てて小瓶が割れ、その後刺激臭が漂ってきたのを確認すると、
 ボストンバッグを担いで、再び森の中を走った。

 白い粉は、漂白剤だ。
 俺がヒトの世界にきたときに着ていた服のポケットの底に溶け残った漂白剤が溜まっていたのを、取っておいたのだ。
 一方、瓶の中の液体は塩酸。
 こちらは、この世界で怪しげな研究をしているという噂の人物の家に侵入したときに盗んできた物だ。
 怪しげな研究をしているのならば、元の世界に戻る方法を知っているだろうと思い侵入したのだが、
 残念ながらめぼしい結果は手に入らず、代わりに、というのもなんだが、色々な薬品を盗んできたのだ。

 漂白剤、つまりさらし粉を塩酸と混ぜると塩素が発生する。
 第一次世界大戦中に近代戦において初めて用いられた毒ガス兵器、それが塩素ガス。
 もっとも、あの犬コロどもを殺すほどの量はできないし、塩素は反応も早いのですぐに分解されてしまう。
 ただ塩素ガスというのは刺激臭のある気体で、かけつけた犬コロの嗅覚を一時的に麻痺させることができるかもしれない。
 それが目的だ。

 少なからず俺はあの犬野郎の返り血を浴びている。
 ただでさえ嗅覚の鋭いイヌコロどもが、血の臭いのついた俺を見つけるのはいともたやすいことだろう。
 だから、鼻を潰した。
 イヌというのは嗅覚はとても優れているが、視覚はあまりよくない。
 人が見ているカラーではなく、視界は白黒。
 聴覚に頼るも、夜の森という雑音だらけの場所では中々効果はあげられないだろう。

 あいつらは俺がヒトだと思って侮った。
 いつもは群れをなすはずの犬らしくなく、ヒトなら一人で捕まえられるだろうと、ゲーム感覚で俺を追いつめた。
 それが仇となった。
 もし二人一組で来られたら、俺は何をしようが勝てなかった。
 わざわざ単独行動し、「捕まえたヤツには配当を多く」などとふざけたことを考えたのが運の尽き。
 そんなことをしたから、仲間の一人は俺に殺され、裏をかかれて更なる逃走を許したんだ。

 ざまあみさらせ。
 卑怯だと言うなら言うがいい。
 だがな、俺に言わせれば、お前らの馬鹿げた身体能力持っている相手で、しかも数も圧倒的に違うのに
 俺に正々堂々勝負をすることを強要する方が卑怯だ、クズ犬どもめ。
 俺は無力だ。人故に無力。
 ケダモノどもは、対して訓練をせずとも俺の数倍に当たる身体能力を持っている。
 例え俺が訓練に訓練を重ね、同等の身体能力を持ち得たとしても勝てはしないだろう。
 あいつらの反射神経は、人が人であるが故に到達できぬものを持っている。
 種族的な宿命だ。それはネズミが象の大きさになれないのと一緒なんだ。
 真面目に戦って勝てるはずがない。
 だから俺はずるがしこく戦う。名誉やルールなんて糞くらえだ。

 木々をかき分け、岩を飛び越え、俺は山の中を走る。
 月明かりだけを頼りにして、一刻も早くこの山を抜けるために走る。
 獣道ですらないところを走ったので、突き出た枝が顔や腕など肌が剥き出しになっている部分をひっかき、
 そこらじゅう細かい傷だらけになってしまったが、そんなことは構っていられない。
 塩素ガスで鼻を潰したと言えど、俺に残されている時間は少ない。
 いずれは嗅覚が戻り、俺についた血の臭いをたどって執拗に追いかけてくるだろう。
 それを脱するには、なんとしても急がなければならない。

 俺の目的地に段々近づいていくのがわかる。
 ザアザアという大量の水が流れる音が耳に届いてくる。

「ついたッ!」

 長く続いた森の切れ目がやってきた。
 先日振った雨の所為か、増水し、流れも激しい。

 しまった。
 ここまで増水しているとは思わなかった。
 この川に飛び込んで逃げる算段だったのだ。
 大量の水が俺についた水を流し落とし、更に大量の水の匂いがあの犬コロどもを混乱させると考えていた。
 が、目の前の川ははっきり言って飛び込めるようなものではない。
 しかし飛び込まなければ捕まる。

 背後に目を向ける。
 森は夜の闇に包まれて、今にも俺を呑み込もうと蠢いているように見える。
 この森の奥には、仲間を殺されて憤っているイヌ野郎の仲間が、血眼になって追いかけてきている。
 殺されはしないだろうが、散々嬲られ、下手をしたら不具にされて、金持ちに売られることは明白。
 再び川に視線を戻す。
 川の激しい勢いは、ゴオゴオと音を立て、俺を引きずり込もうとしているように見える。
 この川には、石や岩や、木の枝などが流れて、飛び込めばそれらと同じ運命をたどってしまうかもしれない。
 向こう岸にたどり着ける可能性は非常に少ない。
 たどり着けなかった場合は、死、あるのみだ。
 もし万が一たどり着けたとしても、激しい疲労で一歩も歩けないかもしれない。
 水に浸ったまま動けなくなると、肺炎に冒されるかもしれない。
 肺炎に苦しみ、藻掻いて死ぬかもしれない。

 どちらが俺にとって得になるか……。

「いや……得、じゃないな」

 思わず考えていたことを口に出していた。
 そう、損、得、の問題じゃない。
 俺が、俺であるための決断。
 あんなやつらに捕まるくらいだったら、死んだ方がマシだ。

 岩を蹴り、次の瞬間にはどぼんという音を聞いた。
 身を切るような冷たい水。
 奔流の中に存在する木の枝が、俺を傷つける。
 川は見た目の持つ凶暴さもさながら、実質もそれに勝る凶暴さを持っていた。

 俺は藻掻いた。
 激しい濁流に流されて、どこからどこまで水に浸っているのかわからない。
 頭だけでているのか、手は出ているのか、それとも水の中に完全に潜っているのか。
 全身が酸素を大量に必要とし、肺はその供給に追いつくことができなくて、
 水の中にいても顔を外に出していても、同等に息苦しかった。
 手足をただひたすらに動かし、もはや方向感覚すら狂っているのに前へ前へと進んでいく。

 ふと走れメロスを思い出した。
 メロスも同じように、こうして自分の信念を貫くために増水した川に飛び込んだ。
 そしてメロスは泳ぎ切った。
 しかも、メロスは自分が死ぬために川を泳ぎ切っている。
 なら、生きるために、自由のために川に飛び込んだ俺が、助からない道理はない。
 何の根拠もなかったが、その考えは俺の手足に不思議な活力を与えた。
 今までの何倍もの力で水を掻き、生きることを強く求めた。
 月に雲がさし、完全な暗闇の中、激しい流れの水の中。

 視界はなく、においを感じれず、音もゴオゴオという激しくて意味のないものしか聞こえず、
 口の中には泥の味がしめ、全身に身を切られるような痛みが走っている。
 それでも懸命に藻掻き、生き残ろうとしている。

 俺だ。
 まさしくそれは俺の姿だった。
 この世界に『落ち』てきて、何も知らない状態で糞犬に捕まり、嬲られ、売られ、
 売られた先でも嬲られ、悦楽のために苦しみを与えられ、逃げて、また捕まり、嬲られ嬲られ。
 絶対に抗うことのできない流れに流されているのに、あがいている。
 翻弄され、痛めつけられることに耐えられなくて、手足を滅茶苦茶に振り回している。
 でもやっぱり、この暴力的な流れの中にいる以上、嬲られることは回避できない。
 ここに俺の安住の地はない。
 例え、中洲があって、そこにたどり着き、流れに翻弄されなくなっても、俺はそこに住めない。
 制限された空間で生きるなんて、川の流れによって自由が制限される空間で生きるなんて、耐えられない。

 ヒトは弱い。
 身体能力はこの世界にいる他のどんな人ケダモノより低く、魔法とやらも使えない。
 寿命だって、短い。
 だけど、弱者かというとまた別。
 弱肉強食。
 弱きものが食われ、強きものが食う。
 強いもの、弱いものという定義は、食ったもの、食われたものとするならば、
 身体能力の有無なんて関係ないじゃないか。
 魔法が使えるか使えないなんか関係ないじゃないか。

 ぐっ、ともがいていた手が何かを掴んだ。

 もっと言ってしまえば、勝ち負けという概念は俺の中に存在していると言える。
 俺の勝利は、元の世界に戻ること。
 獣人どもの勝利は、俺を屈服させること。
 俺は死にたくない。死んだら、俺の勝利は果たせなくなるから。

 しかし、あいつらに勝利をもたらすくらいなら、死を選ぶ。
 死ねば、俺は勝てはしないが、獣人どもの負けだ。
 無駄なあがき? 無駄かどうかはやってみなければわからない。
 無駄だとしても失うものはほとんど何もない。
 俺の持っているものは魂と信念だけ。
 屈服すれば両方を奪われるが、死ねば信念だけは残る。
 二つ取られるくらいなら、一つを切り捨て、もう一つを守るべき。

 体が川の中から抜け出した。
 さあ、『とうそう』の始まりだ。

「げほっ、げほっ……う、ぉぇ……」

 激しくむせながら、振り返って嘔吐する。
 大量に飲み込んだ泥水とともに、胃の中の物が排出される。
 貴重な食料が体内から吐き出されてしまった。
 これは、痛い。
 数日前に山に入る前に、誰かの家から盗んできた最後の食料だったのに。
 毎日毎日凍死の恐怖に怯えるこの時期に、天然の食料を求めるのは難しい。
 幸い、さっき殺した犬野郎から盗んだ荷物の中に、干し肉がはいっていた。
 泥水に浸って、泥水の味がしたが、もう既に口の中は泥水だらけだったので、
 対して気にはならず、よくかみ砕いて飲み込んだ。
 この程度の味なら平気だと思っていたが、実際には泥水よりまずい食事だった。

 俺はゆっくり立ち上がる。
 ここでちんたらしていられない。
 こたえられない寒さだ。
 どう見ても薄着の格好で、息が白くなる寒さで、水遊びをしたあと、
 びしょぬれのままいて、どうなるかは考えなくてもわかる。
 あまりの寒さに気を失いそうになりつつも、俺は足を動かした。
 一歩足で地面を踏むたびに、靴がぐしょぐしょ音を立て、
 髪があたりに水滴を撒き散らし、服が肌に張り付いていく。
 あと何時間俺は動けるだろうか。
 それまでに日が昇ってくれたらいいのだが……。





 目が覚めたら、まだ死んでいないことに気が付いた。
 ただまぶたがものすごく重く、息苦しく、全身がだるかった。
 奇跡的に生き残れたものの、ただではすまなかったらしい。
 何、大した問題じゃない、どんな状態でも生きているのは死んでいるよりかはマシだ。

「あ、起きたんですね」

 俺のうっすらとぼやけた視界の中に、人の姿がうつっていた。
 もこもことしたヴォリュームのある白い髪の毛に、ちょびっと突き出た大きさのねじれた角。
 肌に毛のないところを見ると、女性型のヒツジか何かだろう。
 それ以外のところは……視界がぼやけていて何も見えない。

「だ、駄目ですよ、まだ体を起こしちゃ」

 体を起こしたつもりはないのだけれど、どうやら反射的に動いてしまったらしい。
 ヒツジの彼女が、俺の体を軽く押す。
 どうやら、俺の全身の感覚は麻痺しているようで、確かに彼女は俺のことを押しているのに
 押されているという感覚がない。
 ぐらりと視界がゆらぎ、頭の横側が重力を感じていたけれど、
 まるで俺自身は中空に浮いているかのように、無感覚の中にいた。

「大丈夫ですか?」

 声に性格がでている。おっとりとした、穏やかな声だ。
 視界が更にぼやけてきた。またもう一度眠りにつくのだろう。

「ぁ……い……」

 不自由な喉が蠕動し、音を絞り出す。
 しかし中々上手く発声できない。
 俺が喉を動かしていることに、ヒツジの彼女は気付いたのか、もこもこヘアーからさきっぽだけ出ている耳を
 俺の口元の側まで持ってきた。

「何ですか? 何を伝えたいんですか?」

 俺としてはありがたい。必要以上に大きな声をあげたくなかった。
 喉がこれでもかというくらい痛かったし、今すぐにでも眠りたかった。
 けだるさと戦いながら、声をあげる。

「あり……が、とう……」

 俺は、一番言いたくない言葉を言い、そのまま目を閉じた。







「……」

 夕日の光が窓からさしている。
 俺はどこかの部屋に連れて行かれ、そこで眠らされていたらしい。
 先ほどのヒツジは、今回は別の場所にいっている。
 再び目が覚めた俺は、体を起こし、部屋を見回した。

 部屋、か。

 部屋は俺ごときが運ばれるのにはいささか上等すぎる部屋だった。
 硬くないベッド。それなりに広い部屋。一つずつある、タンスにテーブルに椅子。
 どれもこれも、最高級品とは言わないが、ABCDEで評価するならC+ぐらいはつけてもいい。
 ただ少し気になったのは、照明がランプだということだ。
 今は火が灯っていないけれど、万能魔力『魔洸』に頼らぬ照明は中々珍しい。
 一見して、それなりの資産を持ち主の所有する部屋だと思えるのに、あまり似つかわしくない。

「……ぐっ」

 足をベッドから出す。足には幾重にも包帯が巻かれていた。
 いや、足だけじゃない。腕も顔も、体も巻かれている。
 全身包帯ずくめだ。この季節に濡れ鼠でいるよりかはマシだろうが、いささか格好悪い。
 何か服を探してそれを着なければ。

 足が地面に触れると、その箇所がじりじりと痛んだ。
 が、我慢すれば耐えられないほどでもない。構わず、もう片方の足も地面につける。
 完全に体重が足の裏に集中すると、疼痛が大きくなる、が、まだ我慢できないわけではない。
 動けなくなるまで痛む前に、早く着替えて、この建物から出なければならない。
 しかし、数歩も歩く前にドアが開いた。

「あっ……」

 さっきのヒツジの子だった。
 たくさんの包帯を抱えて、部屋に入ってきた。
 部屋の中でミイラ男が立っていることに気が付くと、ばらばらとその腕に抱えていたものを全て落としてしまった。

「ダメーですよー」

 手を伸ばして俺に近づこうとする。
 が、足下に転がっている白い包帯を踏んづけて。

「あ、きゃっ」

 前のめりに倒れてきた。
 咄嗟に足を動かし、羊人間の彼女を優しく支える。
 なんとか、地面に転ぶことは防げたが、抱きかかえるような格好になり。

「……ぐっ」
「あ、ああああっ、ご、ごめんなさい!?」

 無理矢理動いたせいで、肌の表面に鈍痛が走り、筋肉が悲鳴をあげ、骨が軋む。
 羊の彼女がちゃんとバランスを取れるように立ったことを確認すると、
 脱力し、今度は俺の方が倒れてしまいそうになった。
 が、なんとか臍下丹田に力を込めて、こらえる。

「あ、ありがとうございました……って、駄目ですよ! 動いちゃ!
 あなた、全身ずぶぬれで、凍傷になってたんですよ?」

 そうか、凍傷だったのか。まあ、凍傷だったんだろうな。
 凍傷だったというのは合点がいく。
 俺はあのあとどうなったんだったろうか?
 川からはい上がり、山を再び彷徨っていたのだが、その後の記憶が一切ない。
 そういえば、山間にある奇妙な屋敷をみつけ、そこに向かっていたような感じが……。

「肺炎も患っていて危険な状態だったのに、動いちゃいけません!」
「大丈夫だ」
「だ、大丈夫って! まだ一日も経ってないのに、大丈夫なわけ……」

 肺炎、か。
 このけだるさはやっぱり肺に菌をいれてしまったからなのか。面倒なことだ。
 命あるだけ儲け物と出来れば考えたいけれど、そう易々と割り切れない。

「え? せ、咳は?」

 そういえば、咳をしていない。
 肺炎を患っていて咳がでないなんて……俺の知識の範囲では、そうありえることではない。

「と、とにかく、駄目ですよ! 寝ていてください」
「いや……いい」
「何がいいですか! 寝てなさい」

 ヒツジの彼女は、今度は情け容赦なく俺を追い立て、ベッドの上に寝かされた。

「ここは……どこなんだ?」

 無理矢理ベッドに寝かされ、布団をかけられた状態で、俺はゆっくり口を開いた。
 今はまだだが、いずれかはここから脱出しなければならない。
 そのための色々な準備を、今から整えておかねばならない。

「ここ?」
「俺は……確か駅のプラットホームに居て、目の前が白くなったと思ったら、山の中に……」
「……」

 ヒツジの彼女は、少々顔を歪めた。
 俺のことを哀れんでいる顔だ。純粋に、他意は全くなく。
 『落ち』てきて間もない『落ち物』だと思ってるんだろう。
 家族には二度と会えない運命にあり、更に見知らぬ世界に唐突に連れてこられた不運を、
 哀れんでいるんだろう。
 だが俺はとうにその悲しみを通り過ぎているし、運命に抗うことに決めている。
 この世界には俺の居場所はない。故に元の世界に戻る方法を探している。
 体は汚れきり、手は血まみれで、心は呪われ、だけどそれを負い目とは感じていない。

「大丈夫……大丈夫です、今はゆっくりお休みなさい」

 ヒツジの彼女は、そういって俺の瞼をそっと閉ざした。
 これ以上、起きていても実はない、と思い、俺も思考をとめて睡眠に身を任せた。








 朝、起きた。
 けだるさがほとんどなくなり、最高の目覚め、とは言わないが、
 ここ最近味わっていない心地よい気持ちで起きることができた。
 やはり柔らかいベッドはいい。ここ最近は、ずっと固い地面に座って寝ていたから、ひとしおだ。
 全身を覆っていた疼痛はこの前よりもずっと緩和され、それほど気にならなくなっている。
 とはいえ、骨の軋みや筋肉痛は相変わらず残っており、俺の行動の制限をしているが。

 ベッドから出て、俺の服を探す。
 一見この部屋にはそれらしいものは見つからず、
 部屋に備え付けられたタンスを開けるが、そこには俺の服は入っていなかった。
 新しいタオルや包帯……俺の看病に使うつもりだったものなのだろうか? 清潔に保たれている。
 部屋に俺の着れるものがないとわかると、やはり外にいかねば確保できないだろう。
 身につけているものは包帯のみ、という現代日本の屋外を歩いていたら逮捕される格好だったので、シーツに体をくるむ。
 なるべく音を立てないように、そろりそろりと廊下を歩く。幸い、音を立てずに歩くことには慣れていた。
 掃除のよく行き届いた廊下を、歩く。

「……」

 どこからかいい匂いが漂ってくる。胃がぐぅと音を立て、自己主張をする。
 朝食を作っているのか。
 服を探すよりも、やはり食欲にそそられて、匂いのする方向に足を進めることに決めた。

 階段を下り、廊下を二分ほど歩くと、その現場に到着した。
 調理を行っていたのは、白いもこもこ。
 台所を一人でせわしなく歩き回り、あちらこちらで作業している。
 さて、ここまで来たものの、何をすればいいものか。
 つまみ食いなどしてもしょうがないし、声をかけるのも気が引ける。
 体調が完全になるまで、従順なフリをして、すきを見て逃げるとはいえ、
 現段階で必要以上に媚びを売ったら、逆に怪しまれる可能性がある。
 等々考え込んでいたら、向こうが先にこちらの存在に気が付いてくれた。

 腕にたくさんの野菜を抱えたまま、俺のいる方向に振り返り、垂れた目を一杯開いて、大声をあげる。

「ま、まだ寝てないと駄目ですよぅ!」

 抱えた野菜がばらばらと落ち、しかしそれに気付いていないのか、一歩足を前に動かす。
 当然、ばらけた野菜に足をとられ。

「えっ、あ、っと……ととっ」

 いつか見た光景だが、歩み寄って、転びそうになったところを支えてやる。
 もこもこヘアーが手に触れて、図らずともいじりたくなったが、それはぐっと我慢した。

「あっ……わったったぁ」

 俺の体に寄りかかることに対して驚いたのか、思いっきりのけぞった。
 そして今度はそのまま後ろに転びそうになる。
 手を掴んで、これまた転ばないように助けてやる。

「何を踊ってる」
「す、すいませ……って、あなた、起きちゃ駄目って言ったでしょう!」
「……」

 ヒツジの彼女は、そう言って俺を追い返そうとしてきた。
 ずんずん目の前に迫ってくる。

「もう大丈夫だ。辛くはない」
「つ、辛くないって……一時は死にかけてたんですから、寝てないとだめですってば」

 と、言われても、俺の体はもう大丈夫だ。
 そりゃ、肌の表面の凍傷の後はまだ完治していないだろうが、それほど深いものではないだろう。
 凍傷の深度もせいぜい第一度くらいだろう。
 咳はでないし、発熱も確認できない。逆に体温が下がりすぎているわけでもない。

「本当は立つことすら出来ない状態のはずなんですよ!?」
「しかし、現に立っているし、大丈夫だ」
「え? そ、それはそうですけど……」
「それよりも俺の服と靴はどうした?」

 腹が減ったとは言わない。減ってはいるが、男は黙ってグッと我慢だ。

「お洗濯しましたけど、今は寝ていてくださいよ」

 結局、俺は部屋までヒツジの彼女に返されてしまった。
 昨日はよく見ていなかったからわからなかったが、ヒツジの彼女は、この屋敷の使用人らしい。
 やや白い部分が多いエプロンドレスを身に纏い、もこもこヘアーの奥底には
 目をこらしてよく見ると、白いカチューシャが埋まっている。
 彼女は俺に対し、『ヒト』というものがこの世界でどういう存在なのか語りはじめた。
 ヒトは脆弱な生き物だと。
 ヒトはこの世界では『人間』ではなく獣のような存在で、
 大抵のヒトは奴隷として、こちらの世界の『人間』に仕えねば生きていけないということ。

「ヒトは奴隷か……そんなものには、なりたくないな」

 全てその言葉を肯定するのもおかしいと思い、反論をした。
 これは、常々思っている言葉だったので、すんなりと口から出てきた。
 ただ、自分の今の、包帯まみれの体で言ったことが、何故か滑稽に思えた。

「あのですね、あなたはこっちの世界では無力で脆弱な生き物なんですよ。
 ただでさえ肺炎にかかっていて、体力も落ちているのに、外に出たら一時間と経たずに捕まって
 奴隷商人に売られて、奴隷にされちゃうんですよ?
 奴隷にならない道は、自ら命を絶つくらいしかないと思いますし、勿論そんなことしちゃいけません」
「……」

 脆弱なことは認めよう。だが、無力というのは認められない。
 完全に無力であるヒトが、獣人を殺せるだろうか?
 一寸の虫にも五分の魂、脆弱であるヒトとはいえ牙の一本や二本を隠し持っていて普通。
 この世界の獣人達には、その認識が欠けているモノが多すぎる。
 身体能力がヒトより優れ、魔法が使えて、寿命が長い、ただそれだけの理由でヒトより上位に立ってると思いこむ。
 いや、思いこんでいるのならば思いこませておけばいい。
 ナイフをのど元に突きつけられたときに、現実を知ればいいんだ。

「俺が、ここで凍傷の治療をされているのは保護されているということなのか?」
「え? えーと……まあ、そういうこと、かしら?」
「それは良かったな。君が俺を保護してくれるなら、俺は奴隷にならなくてもすむのか」
「い、いや……そういうわけでも、なかったりして?」
「もう奴隷、ってこと?」
「う……そう身も蓋もないことを……」
「……」

 落ち込んだふりをする。
 屋敷に連れてこられた時点で奴隷という認識をされているという予測があったから、
 それが再確認できたことに対し、全く何も心を動かされない。
 第一、奴隷であってもなくてもこの屋敷からは逃げる算段だったために、それほど意味はなかった。
 しかし、今は従順で、『落ち』てきたふりをしている。
 落ちた直後の人間が、奴隷としていきることを告げられ正常でいられるのはごく少数だろう。
 俺はこの世界のヒトではもう大人と言える年齢だ。
 幼少時に落ちてきたのならともかく、大抵のヒトは元の世界での生活があった。
 一生奴隷、それも『嗜好品』の奴隷ということが決定づけられた運命に対し、何も思わない方がおかしい。
 歩きながら目をつぶり、思いを馳せているフリをする。
 幸いながら俺の顔は包帯で隠れ、表情を変えなくてもよかった。

「……あの、奴隷っていっても、そんなに酷いことはしませんから安心してください」

 ヒツジの彼女からの慰めの言葉。
 確かに、極少数の人間ではあるが、ヒト奴隷にそれほど酷い仕打ちをしないものもいるだろう。
 ヒト奴隷に対して『酷いことをする』主人もまた数多く存在している。
 ヒツジの彼女は、前者のようだが、俺としてはそちらも受け付け難い存在だ。

 そのまま無言のうちに俺の最初に寝ていた部屋についた。
 戸を開き、まだ自分自身のぬくもりが残るベッドに腰掛ける。

「なんていうか、その……元気出してください。
 落ちてきたのは、本当に不運としか言いようのないことでしたけど、
 こちらの世界が気に入られるように、私、頑張りますから」
「ありがとう」

 彼女は最後まで励ましの言葉を言って部屋から出て行った。
 おそらく朝食を作る支度を再開するのだろう。

 いつか動くときが来る。今はじっと我慢して、体調を万全にするときだ。
 腹が空腹を訴えていたが、それを敢えて無視して、布団の中に潜り込んだ。

 浅い眠りについたところに彼女は再び戻ってきた。
 湯気がたったお椀と、水差し、そして口を下にしたコップをトレーに乗せて、持ってきた。、
 香ばしい香りが鼻を刺激し、食欲がより増進した。
 が、表面的には眠ったふりをしておく。
 落ちてきたばかりのヒトは、この世界の料理をおいしく食べたりはしないのだ。
 上の世界の食べ物の方がずっと豪華で、おいしい。
 ルイなんとか世は、当時では贅沢の限りを尽くしていたらしいが、
 それでも現代日本で普通に食べられる食事の方がおいしいらしい。
 胡椒が黄金と同じ値段で取引されていたというのを聞いた時点で、
 そこいらの百円ショップに普通に売ってる現代とは大違いだ。

 とはいえ、俺は落ちてきたばかりのヒトではない。
 むしろ、この世界で普通に生活しているヒトよりも貧弱な食生活をしている。
 ここ数週間、木の実、草の根、虫、捕まえたリスなど、あまり食べるには適さないものばかり食べてきた。
 干し肉その他の保存食は貴重であり、時間がないときに食べるためにとっておき、
 森の中で取れるものばかりで空腹をごまかしてきた。
 故に、彼女の持ってきたものは久々に見る『人間の食事』だった。

「……起きてます?」

 彼女が声をかけてきた。
 俺はなるべく自然な形で体を起こした。

「今寝たところだが、すぐに起きた」
「ふふっ、そうですよね。私が部屋に入ったとき、鼻がぴくぴくしてましたから」

 ……くっ、ばれていたか。

「癖なんだ」
「じゃあなんでわざとらしく目をつぶっていたんですか?」
「君が持ってきた食事で目が覚めたと勘違いされたくなかったからだ。
 俺はそれほど食い意地が張っているヒトじゃない」

 実際とは反したことを俺の口は言った。
 無論、俺が落ちてきたばかりのヒトでないことを隠すための演技でもあったが、
 同時に見栄もあった。
 とっくの昔におおよそ矜持なんてものは捨て去ったと思っていたつもりだが、
 どうやら変なところで残っていたらしい。

 ヒツジの彼女は、誠に失礼なことに、俺のことを見てくすくす笑っていた。
 どうせ俺の言葉は信じちゃいないんだろう。
 まあ、本当に嘘ではあるんだが、なんとなく腹が立つ。

「じゃあ、ふーふーしますからね」
「いや、いい、自分で食べる」
「別に遠慮しなくてもいいんですよ?」
「食事は自分のペースで食べることにしているんだ、別に遠慮なんてしていない」
「でも、腕だってまだうまく動かせないし、少し痛いんじゃないんですか?」
「少し痛いを我慢すれば、自分で食べられるんだったら、我慢する方を選ぶ」

 まだヒツジの彼女は何か文句を言っていたが、お盆の上の木のスプーンを取って、
 自分でスープを口にした。

 スープだと思っていたものは、実はおかゆ……のようなものだった。
 よくわからないが、いものようなものをどろどろに溶かしたものらしい。
 薄味も薄味、というよりもべちゃべちゃになったいもの味しかしない。

 しかし、俺の目は潤んでしまった。
 顔を包帯でくるんでいたおかげで、表情がわかりづらくなっていたことに感謝している。
 本当に、べちゃべちゃした芋の味しかしない。本当にだ。
 卵が入っているでもなし、梅が入っているでもなし、塩すらも使っていないだろう、この料理は。
 本当にべちゃべちゃした芋の味しかしない。
 だが、そのべちゃべちゃした芋のなんと上手いことよ!
 口にした瞬間、胃の中のものが全てリバースしてしまうような味に比べれば、至極!

 俺は今猛烈に感動している。
 今ここに生きていることを、今まで何千何万何億回と呪ってきた神様に感謝したい。
 ありがとう、ありがとう、本当にありがとう。

 スプーンですくっても、そのたびにぼたぼたぼたっと溢れるいも。
 それを浸している粘りけのある液体。
 ただ、それだけなのに、ただそれだけなのに。
 脳天を突き抜けるかのような至福感が味わえる。
 素晴らしい!
 ワンダフル!
 マーベラス!
 アンビリーバブル!
 イッツァファンタスティック!

 まさに、人類の勝利。
 究極の究極、至高の至高。
 これ以上にうまいものを食べたものなど、誰もいないだろう。


 ……気が付けば、皿は空になっていた。
 スプーンだけが何もないところを動き、俺の口元に動いている。
 この食事、俺にとってはこの世の物とは思えぬほど美味なものではあったが、
 落ちてきたばかりの肥えた舌を持つヒトにとっては、それほどのものではない。
 故に、俺は落ちてきたばかりのヒトを振る舞うために、
 『なんだこの家畜のエサは』といった表情で食していたが、しかし、体は正直だ。

「……」
「あら……手が止まらないなんて……頭にケガを……」
「あ、いや、気にしないでくれ、これも癖だ」
「癖?」
「まあな」

 彼女はいぶかしんでいたが、癖で押し通した。
 まさか、全部無くなっているのに気付かずに、体が勝手に食事を欲していたなどとは言えなかった。
 ともあれ、腹がくちくなった俺は、さっきよりもより自然に眠りにつくことができた。





 それから三日後……。

「はーい、もう包帯を取っていいかな? かな?」

 もうだいぶ体の体調は良くなっていた。
 ヒツジの彼女は数日間、手厚い看護をしてくれ、もうほとんど快調といっても差し支えないほどだった。
 凍傷と肺炎の治療中、ヒツジの彼女は俺に、ここの建物のことを話してくれた。
 人間のやってこない山間の屋敷で、週に一度行商人がやってくる以外、外の世界とは途絶した場所らしい。
 何故こんなに辺鄙なところに、大きな屋敷を建て、住んでいるのか、と聞くと、
 この屋敷の主は、呼吸器系を患っており、山の新鮮な空気での療養が必要と聞いた。
 そしてこの屋敷にいるのは屋敷の主と、ヒツジの彼女だけ……女二人で危険はないのか、と聞くと、
 方向感覚を狂わせる魔法の結界が張られており、
 危険な野生動物や盗賊などが入ろうとしても入ろうとしても道に迷って入ることができなくなる、
 とヒツジの彼女は言っていた。
 定期的にこの屋敷に訪れる行商人だけはその結界に惑わされない護符を持っている。
 そして、その護符を持っていない俺が入ってこられたのは、川の流れに乗ってきたかららしい。
 いくら方向感覚を狂わせる結界とはいえ、川の流れに乗ってきた相手には通用しない、というわけだ。
 また、呼吸器系を患っている主人のため、ヒツジの彼女はメイド兼看護婦ときには医者にもなる。
 まさにマルチなメイドだとか。
 よく考えてみると、肺炎のための薬が何故ここに? という疑問も払拭される。

「にしても、回復早いですねー。
 三日前には死にかけていたのに、二日で肺炎の症状は一切なくなりましたし、
 完治したと言いようがないほどです。
 今日になって凍傷の跡も完全に消えるなんて、正直信じられません。
 質の良い薬を使ったといえど、ここまでの回復力があるなんて……。
 ヒトってみんなそうなんですか?」

 ヒツジのメイドはもこもこヘアーを上下に揺らし、俺の体に巻かれた包帯をはがしていく。
 包帯の下は、凍傷のあとの残っていない綺麗な肌が見えている。

「いや、違うな。ヒトはもっと脆い。
 もちろん俺もヒトだが、ヒトであることをはねのけるくらい、生きることに意地汚いからかもしれん」
「いいですねー、病は気から。気持ちさえあればどんな病気にも負けませんよー」

 ヒツジのメイドは何が楽しいのか顔に笑みをつけたまま、俺の背中に回って、四つ目の包帯を取り去ろうとしていた。

「……あら? 背中に何か黒い染みが……この前はなかったのに」

 しまった、もうアレが出てきたのか。
 反射的に動き、背中を壁に向ける。
 あのいまいましい刻印を見られれば、余計な厄介ごとが増えることになる。

「あっ、どうしたんですか?」
「いや……今のはただの入れ墨だ。気にしないでくれ」
「へ? え、えぇまあ、入れ墨、ですか」

 俺が入れ墨と言い切ると、ヒツジのメイドは一応の納得を示してくれた。
 若気の至り、という一言がきいたのか、更に追求しなかったし、それ以上背中の染みを見られずにすんだ。
 包帯は自分ではがした。取り去る際、若干関節に痛みが走ったが、問題ではない。
 問題は背中の刻印だった。
 一定の周期で段々と浮かび上がり、とあることをきっかけに再び肌の色に戻る。
 消える際にそのまま何もせずに消えてくれればいいものの、とんでもない置きみやげを残してくれる。
 この刻印は魔法……いや呪いの産物だ。

「……では、そろそろご主人様に会ってもよろしいですね」
「ご主人様?」
「はい、わたしの雇い主で、この屋敷の管理者、そしてあなたのご主人様です。
 少々、その方は体が虚弱で、あなたが肺炎を患っていたため万が一を考えて接触は控えていたのですが、
 もう完治が確認できた以上、あなたをご主人様に会わせていい時期でしょう」
「俺はてっきり君が俺のご主人様かと思っていたが……この屋敷のあるじが俺のご主人様なのか。
 まあ、どちらでもそう対して変わらないだろうが。
 ところで、そのご主人様とやらは君と同じく羊なのかい?」
「いえ、ご主人様はトムソンガゼルです」

 トムソンガゼルか。確かサバンナに生息している草食動物だったな、確か。
 ドキュメント番組だと、よくチーターに食われている動物、か。
 マイナーメジャーどころだが……トムソンガゼルの国というのはまだ聞いたことがない。
 少数の種族なんだろうか?
 そういえば、よく考えたら羊というのをここに来るまで見たことがなかった。
 人ケダモノの連中と接点を持たないように生きてきた、とは言え、犬や猫の国を旅して回った俺が
 見ていないということは、割と珍しい種族なのかもしれない。

「コレが貴方用の着替えです。サイズが合ってくれればいいんですが……」
「俺の着ていた服はどうした?」

 あの服はヒト世界の服を模した服だ。
 幸い、ヒトの世界から落ちてきた服は機能面やデザイン面において優れており、
 ヒトの世界でも十分に通用する、似せた服がこっちの世界でも作られている。
 長く着ていたうえに川に飛び込んだせいでボロボロになってしまったが、
 目の前に出された執事用の服を着て外を歩くより目立たない格好だ。

「ご主人様に会うときにはこの服を着て頂きたいんですけど」
「そうじゃない。この服を着ることには異存は一切ない。
 ただあの服がとってあるかどうかを聞きたいんだ。なるべくなら、あれは保管しておきたいんでな」
「は、はあ……とりあえず捨ててはいませんけど、なんでですか?」
「君にはわからないかもしれないが、あれは俺の世界から持ってきた唯一のものなんでな」
「あ……す、すいません……」
「気にしなくていい、手元に置いておければいいんだ」

 もう嘘をつくことにも抵抗が無くなった。
 服を手元に置いておくのは逃げるときに着替えるためであって、あの服自体に何の執着もない。
 人里にいくにはフードがついたローブを調達できれば尚良いが、この屋敷にはそのようなものはなさそうだ。
 レインコートくらいはあるだろうが、雨の日にしか使えないのと、
 屋内に入ったときに脱がなければならないことがネックではある。

「さて……」
「……」
「……」
「なあ」
「なんですか?」
「着替えたいんだが」
「手伝いましょうか?」
「いや、いい」
「はい」
「……」
「……」
「……少し、部屋を出ていて欲しいんだが、頼めるか?」
「え? なんでですか?」

 ヒツジのメイドはきょとんとした表情で俺を見てくる。
 俺の服を脱がしたり包帯を巻いたりしている以上、裸には見慣れているんだろうが、
 人が着替えるときには退室するのがマナーなんじゃないのだろうか。

「まあいい」

 なんだか必要以上ににこにこされたまま、俺は着替えることにした。
 新品ではなく、誰か以前にこの服を着用していたものらしいが、手入れはちゃんとしてある。
 サイズもだいたい合っていた。
 少々丈が短いような気がしないでもないが、これくらいならば許容範囲内だ。
 シャツの上に黒い上着を着、首が絞まらない程度にタイを締める。
 あまり言いたくないことだが、一時期はこれと同じ用途の服を何週間も着ていたことがあり、
 体で覚えているため、不格好にならずにすんでいると思う。

「わー、とってもお似合いですよ」

 と、褒められても、あまり嬉しくはない。
 嬉しがる理由がないのだからしょうがない。
 第一、デザイン性よりも機能性を求めた服が似合っていると言われても、な。

「そうか」
「そうですー」

 ヒツジのメイドは俺の姿を品定めするかのように、様々な角度から見ていた。
 別段拒否する理由もなく、されるがままにしておく。

 さて、いつまでここに逗留しようか。ここは飯もうまいし、外敵に襲われる心配はない。
 俺を乱暴に扱う輩もいない、と、俺がこの世界に来てから、一番もてなされた場所ではあるが、
 やはり俺は元の世界に戻る方法を探す旅に出なければならない。

 背中がつんつんした。

「うわっ!」
「えへへ、糸くずついてましたよぉー」

 ヒツジのメイドが、俺の背中をツンとつついたのだった。
 考え事をしている最中だったのもあいまって、思わずその場から飛び退いてしまった。

 危ないところだった。
 もう少し気が緩んでいたら、反射的にヒツジのメイドを殴り倒してしまったかもしれない。

「意味もなくおどかさないでくれ」
「てへへ、すいません」

 ヒツジのメイドはもこもこ頭に手を当て、舌を少し出して謝った。
 ひとなつこく笑うと、そのまま俺を、この屋敷のあるじの元へと誘った。

 部屋を出て、廊下を歩く。
 この屋敷はやはりそれなりに広いところであるようで、しばらく歩いてようやく目当ての部屋にたどり着いた。
 主の部屋の扉は、やはり主の部屋の扉らしく、重厚な木製の扉だった。
 細やかな細工が施され、かつそれが鼻につきすぎない。

 所謂、趣味のいい、扉だ。
 来客が一切来なさそうな、こんな山奥の屋敷でこんなに凝る意味がよくわからないが。

 ヒツジのメイドが二三度ノックした後、中に入るように指示する声が聞こえた。
 それに従い、まずヒツジのメイドが微かに開いたドアの隙間から、滑るように入っていく。
 そしてその後、俺に、部屋に入るように手で指示を出した。
 俺もそれに従って、中に入る。

「先日お話したヒトを連れてきました、ご主人様」

 先日お話された俺は、部屋の中央に向かって頭を下げた。
 部屋の中には、大きなベッドがあり、その中でちょこんと一人の女性が座っていた。
 栗色の髪の毛をかき分け、三十センチほどの先のとがった角が頭から二本生えている。
 顔色はお世辞にもいい色でなく、体の線の細さも相まって、とてもひ弱な印象を受ける女性だった。
 庇護欲をかきたてる容姿を持ってはいるが、しかし、目の光は強かった。

 貴婦人。そんな言葉がよぎった。
 一体どこの生まれなのかわからないが、高貴な身の上の方だとわかる。
 その呼称はしっくりきた。

「ご苦労様」

 トムソンガゼルの貴婦人はヒツジのメイドにねぎらいの言葉をかけ、
 俺の顔をじっと見据え、近寄るように言った。
 俺はゆっくりとトムソンガゼルの貴婦人に歩み寄った。

「……緊張なさらなくてもよいわよ」

 別に緊張しているつもりはなかったが、いつも通りの仏頂面が緊張しているものと見られてしまったようだ。
 特に愛想を振りまく必要もないかとも思い、そのままの状態を維持した。

「ヒト……おかしいわね、頭に角がなくて、耳の形が違って、少しだけ寿命が短く、少しだけ体が弱いだけなのに、
 わたくしたちと一緒と、またそれ以上の知能を持っているはずなのに……奴隷として扱われるなんて」

 なるほど、そう来たか。別段、喜びもしないし、憤ることもしない。
 それは俺の心が麻痺しているだけが理由ではないだろう。

 憐れみは結構です、と言いたかったが、口をつぐんだ。

「外はとても危険だったでしょう。彼女から聞きました、ここに来るまでに本当に大変だったんでしょう」

 トムソンガゼルの貴婦人は、俺を奴隷として見ず、そして多くのヒトが奴隷として扱われていることに嘆いている。
 俺が突然この世界に『落ち』て、イヌたちに追われてここにたどり着いたことをヒツジのメイドから聞き、
 それを哀れんでいる。
 俺がヒツジのメイドに話したことは、わざと省略した部分が大きく、
 本当の地獄を体験したことを省いていて、
 ただこの世界に落ちてイヌに追われて川に落ちて、ここに来たと思っている。
 本当の苦労や苦難から見れば、鼻くそみたいなものでも、トムソンガゼルの貴婦人は心から哀れんでいる。
 だけど、優しいだけだ。

 別にどうということはない。

「わたくしはあなたを奴隷のように扱いたくはありません。
 ただ、ごく一般に言われる執事としての仕事をして頂き、そしてたまにわたくしとお話してくださいな」

 働かざる者食うべからず。その考え方は同意だ。
 自分で働かず、他人に食わせて貰うのはあまり好きではない。
 これまでもあまり他人に食べ物を乞いたことはない。しょっちゅう盗んではいるがな。

 トムソンガゼルの貴婦人はしばらく俺を慰める言葉を言っていた。
 俺はあまり口を挟まず、時折相づちをうつことで応え、言うがままにさせておいた。
 少々飽き飽きしていたけれど、本当に慈悲深い心から発せられる憐れみを非難することもできない。
 辛抱強く、相づちを打っていた。

 やがてトムソンガゼルの貴婦人の方が、俺の態度を見て悟ったのか、下がらせてくれた。

「しばらくは先輩の指示に従ってお仕事を覚えてくださいね」

 トムソンガゼルの貴婦人は、去り際にそう言った。
 残念そうな表情だったのは、俺ともう少し話をしていたかったのか、
 それとも自分の気持ちが俺に毛ほどもも通じなかったことがわかったからなのか。

 通じないわけじゃない。理解はできている。
 ただその気持ちを理解したところで、俺は特に感想が沸かないだけだ。




 屋敷の生活は申し分ないものだった。
 たった三日動かなかっただけでも、俺の体力は落ちている。
 執事の仕事も、とりたてて力が必要なわけではないが、何も動かないよりかは疲れる。

「男手が増えたのでとっても助かります」
「俺はヒトだから、ヒツジの君よりも力も体力もないんだが」
「え? えーっと、それはそうなんですけど……」
「別にいい。君の言わんとしていることはわかる。ありがとう」
「あ、はい、どういたしまして……えっとぉ?」

 ヒツジのメイドも、とても好ましい性格をしている。
 料理洗濯掃除などは、メイドであるが故に全て卒なくこなし、医学の心得もあり、
 俺も彼女からいくらかの教えをたまわった。
 なんでもできるようで、少し間の抜けているところもあり、
 どうやら転び癖のようなものを持っていて、何もないところで転ぶという離れ業もしばしばやってのける。
 しばしば俺は転びそうになるたびに彼女を支えてやる。
 ヒツジのメイドはそのたびに、照れくさそうに礼を言い、手間をかけたと謝るが、一向にその癖が無くなることはない。
 むしろ俺の目の前で転倒未遂を起こす回数が段々と増えていっている。
 彼女の意図が読めないわけではないが、俺からは何も言わない。
 俺はいつも仏頂面をしているため、彼女だって俺が気付いていることはわからないだろう。

「あ、あのですね……とっても面白いことがあったんですよ」
「ほう? 何があったんだ?」
「うんとですね、それがもう面白くて面白くて……」
「もったいぶらずに教えてくれ」
「ええ、えーっと……あれ? なんだっけ?」
「……」
「えっと、た、確かに面白かったんですよ! でも、えーっと」
「忘れたのか?」
「い、いえ、わ、忘れちゃったわけじゃないんです、ただちょっと思い出せないだけで……」
「……」
「わ、忘れてないですよ、なんですかその目は! かわいそうな子じゃないですよ私は。
 ……ごめんなさい、忘れてました」
「そうか」

 ま、少々変わっている、と言わざるを得ないが……それは俺も同じことだ。
 人のことは言えまい。

 トムソンガゼルの貴婦人は、おおよそ日に2、3回ほど俺を部屋に呼んだ。
 自分で一方的に話し続けたこともあったり、俺から語ることもあった。
 概ね、変ないさかいもなく、そして大抵は俺への憐れみに溢れた言葉を聞かされていた。
 しばらくすると、俺が憐れみの言葉に対し、どんな風に言われても反応を示さないことを学習したのか、
 そのことは避けて、普通の話をした。

 トムソンガゼルの貴婦人は、中々外に出ることができず、外の様子をとても聞きたがった。
 彼女の世界は、彼女の部屋と窓から見える風景だけだ。
 季節を感じさせるものを見たことを話すと、彼女はその詳細を必ず尋ねる。
 もうそろそろ冬も終わるころであり、春の芽吹きを俺はよく語った。

 いつの間にかトムソンガゼルの貴婦人は聞き手に回り、俺が語り、彼女が相づちを打つようになっていた。
 もちろん、最初に話をするように頼むのは彼女の方だが、この世界に落ちて
 最初の主人に鬼畜行為をされた以降、あまり自分からしゃべろうとすることは無かった。
 何度か長く喋ったことはあったが、こうも長い期間において、一定以上言葉を発することは無かった。
 ある種新鮮でもあり、同時に、憐れみの言葉を聞かされるよりも、外の風景のことを語る方が精神衛生上に良かった。

「あなたのいた世界は、どのような世界だったんですか?」
「……」
「どうかしました?」
「いえ、『どのような』と言われても中々答えづらいものでして」
「ここと、どう違うんでしょう?」
「どう違うか……やはり人間と呼ばれるものがヒトだけだったというのが一番違うことでしょう。
 イヌもネコもカモシカもオオカミも、もちろんヒツジやトムソンガゼルもただの動物でした。
 知恵も知識もヒトには遠く及ばず、野生に生きるのみです」
「……」
「一部の動物はペットとしてヒトに飼われていたものもいます。
 が、この世界でも普通の動物をペットにしていたりしますので、違いではありませんが……
 それでも同じ知的生命体をペットにすることは、建前だけでも違法な行為でした。
 もっとも、ここに至るまではこの世界よりも長く歴史を重ねています。
 こちらの人間は寿命が長いのに対し、ヒトは短い……故に歴史の濃度も高かったです」
「……あなたは、元の世界に帰りたいですか?」
「さあ? どうでしょう」

 トムソンガゼルの貴婦人は、未だ力を持つ人らしい。
 どこの貴族の人なのかは聞かなかったが、権謀術数が渦巻く家に長くいたせいか、
 元々ひ弱だった体にガタが来て倒れ、この屋敷で養生しにきたと本人は語った。
 メイドのヒツジに聞いた話によると、重い病気ではあったものの、
 そろそろ治ってもおかしくない頃合いなのに、まだ治っていないのは、
 またあそこに戻りたくないという心理が働いている可能性があるそうだ。

 俺がこの屋敷に運ばれ、肺炎を短期間で治したことをヒツジのメイドがやたら感心していたのは
 こういうことがあってのことだったらしい。
 彼女もトムソンガゼルの貴婦人を慕っており……もっとも彼女のみがトムソンガゼルの貴婦人の
 信頼に足る人物だったために、この広い屋敷には二人っきりでいた。
 それを考えると、その権力争いというのは悲惨な状況にあるようだ。

「やっぱり、元の世界に戻りたい、と思っていませんか?」
「さあ、わかりません。戻りたい、と思っても、帰る方法がないですから」
「……帰る方法が見つかったら、帰るんですか?」
「見つかったんですか?」
「いえ……そういうわけでは……」
「では話すだけむだでしょう、見つからないのならば、
 どう思っているだけにせよ、この世界に骨を埋めるしかありませんから」
「そう……ですよね」
「そうです」
「……」
「もう、下がってよろしいでしょうか?
 私の先輩がさきほどから私のことを呼んでいるみたいでして、
 そのまま放っておいたら、何度も何度も転んで、体中ケガだらけにしてしまいます」
「そう……ね、もう下がってもよろしいです」
「では」
「今夜、もう一度ここに来てください」
「……わかりました」

 ……ついにこの日が来た、か。
 この屋敷に来てから、そろそろ一ヶ月に達する。
 案外早かったものだ。

 背中の刻印も、真っ黒に染まっている。
 そろそろ、でもあり、都合のよいタイミングだったとも言える。

 今日は食事を早めに済ませ、身辺の整理を行った。
 川に流されてしまったボストンバックの変わりになるものを前もって探しているときに、
 あらかじめ見つけておいたナップザックに、様々なものを入れる。
 携帯食料、ナイフ、いくらかのお金、近くの森から手に入れた木で作った道具や、その他にも色々。
 この屋敷に来たときに着ていた服を、きちんと折りたたみ、ナップザックと共にベッドの脇に置いた。

 そしてその後、部屋から出る。
 しんと静まりかえった廊下を、なるべく音をたてないように歩く。

 やがて、トムソンガゼルの貴婦人の部屋の前についた。
 執事服を正し、ゆっくりノックする。

「入ってよろしいですよ」

 声に導かれるままに部屋に入る。
 トムソンガゼルの貴婦人は、窓際に椅子を寄せ、そこに座って待っていた。
 月光が彼女を照らし、たおやかな彼女を更にひ弱そうに見せている。

「よくいらっしゃってくださいました」

 トムソンガゼルの貴婦人はゆっくり立ち上がり、にこやかに笑った。
 そして、少し躊躇った表情をする。

「もう、わかってらっしゃると思いますけど……」

 顔を伏せる。
 俺は無言で待っていた。

「ごめんなさい。わたくし、あなたに他の人間が行っているようなことをしない、と申したんですけど」

 そこで一旦言葉を切り、小さく息を吸って、吐いた。

「わたくしもただの女、ということだったのでしょうか。
 それともただ寂しいだけなのか……私を慕ってくれているメイドがいますけど、それでも……」

 トムソンガゼルの貴婦人の頬がやや上気し、瞳が薄く潤んでいる。
 特に媚びを売ったことはないつもりだったが……やはりヒトというのはこの世界の人間を狂わせるのか。

 トムソンガゼルの貴婦人はゆったりとした足取りで近づいてきて、
 俺の手に自分の手をそっと添えると、そのまましなだれかかってきた。
 トムソンガゼルの貴婦人の暖かい体温が、通じてくる。

 ゆっくり俺の胴に手が回される。
 俺の背中をまさぐるように腕がのたうち、もう片方の手が俺の手を自分の体に誘った。
 お互いに抱きしめ合い、体温を共有していく。
 背中をまさぐったり、撫でたりという軽い接触でも、今のところは満足しているようだ。

 一方、俺は、背中の刻印のある部分が鈍痛を放ってきていた。
 予兆だ。
 これから起きることを、刻印が察知して、呪いの発動のための準備を行っているのだろう。
 行く果てが見えて、俺らしくもなく怖気を感じてしまった。
 やれやれ。

 トムソンガゼルの貴婦人が不意に頭を上げた。
 角が俺の頬をかすめ、つーっと血が伝う。

「あ、ごめんなさい。あなたがヒトだったということを忘れていて」
「いえ、別にお気になさらずに」

 血をぬぐうために手をあげようとすると、トムソンガゼルの貴婦人はそれを押しとどめた。
 生暖かい何かが頬を這いずる。
 それは顔の中央から耳側に動き、じっとりとした粘液を肌に残していった。

「……おいしいですわ」

 口元に少量の赤い血を付けたトムソンガゼルの貴婦人は、瞳を俺に向けた。
 瞳は月明かりを乱反射させ、その隙間から情欲に燃える炎がゆらめいているのが見えた。

 トムソンガゼルの貴婦人にいざなわれるままに、ベッドの元へいく。
 貴婦人はベッドの端に腰掛けると、ゆっくりパジャマを脱ぎ始めた。
 頭の角を器用に避け、上着を取り去ると、胸部を隠す下着が揺れた。

「どう、かしら? ヒトのあなたから見て、わたくしの体は魅力的?」

 魅力的? 魅力的……魅力的、か。

「私個人の意見を言わせていただければ、確かに」

 ほっそりとした体の貴婦人は、やはり服を脱いでもほっそりとしていた。
 着やせするわけでもなく、着太りするわけでもなく……。
 女性として胸が小さすぎるわけではないが、表面と内側が同じ物であるように感じられた。

 俺も、タイを外し、上着を脱いだ。

 トムソンガゼルの貴婦人は、そのままベッドに倒れ込み、自分の足を高く天井に向けてあげ、
 パジャマのズボンをするすると脱ぎ始めた。
 流石はサバンナに住む草食動物か、ふくらはぎやふとももは、
 長い間屋敷の部屋から出ていないとは考えられないくらい、ひきしまっている。
 それが自慢なのか、貴婦人は大胆にもその足をふらふらと回し、
 かつ下着の三角ゾーンが見えないようにと隠していた。

 特に何の興奮もしなかった。
 むしろ一層俺の心は冷え込んでいく。
 浮かんでは消え、消えては浮かぶ、過去の記憶。忌まわしい記憶。

 鼻に生臭さが蘇り、耳に俺のものとも誰のものともつかぬ悲鳴が再生される。
 口に広がる苦み、全身に鞭で打たれる痛み、爪先に感じる熱……。

 胃が逆転したかのような吐き気がこみ上がり、そうかと思うと収まる。
 嫌な、嫌な記憶。忘れてしまいたい記憶。しかし忘れられない記憶。
 忘れてしまえば、俺は生きていけないから。精神の安定ができなくなるから。

 頭の片隅に金庫を作り、その中にいれ、そっと鍵を閉める。
 やがて中の物は、金庫を食い破り、浸食してくるだろうが、今はこれでいい。

 これは額の宝石。
 黒く輝く、生きた宝石。
 やがて俺を食いつぶす額の宝石。

「……雰囲気が少し変わりましたね」
「そうですか?」

 大丈夫、俺は、大丈夫。
 俺はヒトだ、ヒトだから、大丈夫。

「それとも、夜になると雰囲気が変わる男は嫌いなんですか?」
「いえ……大好きだわ」

 トムソンガゼルの貴婦人はそっと体を起こし、俺を捕まえると、唇を合わせてきた。
 積極的に、情熱的に、俺の唇を割って、舌が入ってくる。
 気のせいか、さっきの俺の血の味がするような気がする。

 俺からも入ってきた舌を、自分の舌で絡ませる。
 俺の唾液を相手が飲み、相手の唾液を俺が飲む。
 粘液の直接接触を関知したのか、背中の刻印の痛みは消えていた。
 あとは俺がしなければならないことをすればよい。

 体を前倒しにして、貴婦人を押し倒す。
 栗色の毛が円になって広がり、頭に生えた角の根本が露わになる。

 ほんの少し体を起こし、トムソンガゼルの貴婦人を見下ろす。
 貴婦人は顔を染め、目を閉じ、無防備に、次に起こる展開に胸を高鳴らせているようだった。
 俺はゆっくり彼女に覆いかぶさっていった。
 ベッドの上でそっと、細い体を抱きしめる。
 すると貴婦人も、そっと俺を抱きしめ返してくる。
 彼女の心臓の鼓動が、体を伝わって感じられる。
 しばらくの間、俺と彼女はそのまま無言で抱きしめ合っていた。

 貴婦人は、ただ抱いているだけで一向にことを進めようとしない俺に何も言わない。
 二人とも特に何もせず、敢えて言えば互いに顔を見続けることだけをしていた。
 どのくらい時間が経ったか。
 短かったような長かったような気がする。
 また再びじわじわと背中が痛くなってきた。

 俺はそろそろと体を引いた。

「あ、あんまり見ないでください……恥ずかしいですわ」

 トムソンガゼルの貴婦人は膝を合わせ、俺を拒もうとした。
 とはいえ、それはポーズだけで、手で掴んでやると簡単に膝を開いた。
 本気で拒んでいるのならば、俺の腕力では彼女の力に歯がたつわけがない。
 それは置いておいて、少々乱暴に扱った貴婦人の膝を、そのままベッドの上に押しつけておいたまま、
 ゆっくりと顔を彼女自身に近づけた。

 背中の痛みが引いていく。
 しとどに濡れた貴婦人の花弁をついばむと、溢れるように蜜がでてくる。
 舌を這わせてそれを舐め取ると、気のせいか若干甘い味がした。

「ふぅんッ……」

 トムソンガゼルの貴婦人が甘い声を出す。
 垂れ目がすぅっと細くなり、足が小刻みに震える。

「気持ちいいですか?」
「……」

 貴婦人は無言で、こくりと頷いた。
 再び貴婦人の横顔に軽くキスをする。
 栗色の髪の毛から発せられる彼女の匂いを肺一杯に吸い込み、ゆっくりと吐き出した。
 左手で自身の体重を支えながら、右手で秘裂を弄る。
 クニクニとした奇妙な感触と、人肌より若干高い体温、そして湿り気。
 まるで吸盤のように指が吸い付いてきて、且つ千切られそうなほどキツク締め付けてくる。

 下がるように首筋を舐め、そのまま鎖骨あたりをついばむ。
 貴婦人の手が俺の頭をなで上げるように包み込んできた。

「……挿れますよ」
「はい、来てください……」

 ゆっくりと、トムソンガゼルの貴婦人の中へと押し入っていく。
 指よりも太いので、締め付ける力は更に強い。

「んっ……あっ……」

 流石はトムソンガゼルと言うべきか、締まりは異様だ。
 括約筋が動きを阻害しつつも、最後まで到達した。
 しかし、途中に何か変な感触があったようだったけれど、あれはもしや……。

 トムソンガゼルの貴婦人の目尻には涙が浮かび、唇が微かに震えていた。
 俺の予感はどうやら当たっていたようだ。
 貴婦人は俺の首の後ろに腕を巻き付け、強く締め付けていた。

「思ったよりッ……経験、豊富なんですね」
「ええ、あなたの前には0人ほど私を抱いたかしら」

 よく軽口がたたける物だ。
 顔色もあまりよくないというのに。

「痛くないんですか?」

 答えは返ってこなかった。
 かわりに、首に巻き付けている腕が一層強く俺を締め付ける。

 その場でしばらく、お互いの体を強く抱きしめ合っていた。
 貴婦人と俺の体温が全く同一になったかのような錯覚に陥る。
 貴婦人の体は柔らかく、華奢で、繊細だった。
 頭に生えた二本の角が、俺との種族との違いを、嫌と言うほど知らしめてくれる。

「……ッ」

 突然嘔吐感に襲われた。
 胃からこみ上げる物を感じ、一旦体を引こうとする。

「痛ッ……」
「すいませ……うっ……」

 トムソンガゼルの貴婦人が痛みにうめく。
 が、俺はそれに構っていられなく、素早く離れ、ベッドの縁に座って深く息を吸った。
 なんとかこみ上げてくる物は、のど元で沈静化し、ゆっくりと落ちていく。

「どうしたの?」
「いや……まあ、堪えられなかったというか。男のワガママというやつです」
「ふふっ」

 トムソンガゼルの貴婦人は、まだ少し顔色が治っていないものの、俺に微笑みを見せた。

「初めてなのは……」

 トムソンガゼルの貴婦人は腕を使い、這って俺のところまで寄ってきた。
 俺の背中に胸を押しつけるような形でよりかかり、耳もとで言葉を紡ぐ。

「何も、私だけじゃなかったようね」
「ええ、まあ……」

 確かにこの世界に落ちてくる前まではそうだったが、
 今は望んでいない経験を山ほど積んできた。
 痛めつけるのも痛めつけられるのもしたし、受けも攻めも強制された。

「では、ビギナー同士、もう少し頑張りましょうね」

 引き倒された。
 今度は俺がベッドの上に寝かされ、しなびたモノをトムソンガゼルの貴婦人がくわえている。

 舌使いはとてもつたなかった。
 流石は処女といったところだろう。

「そう、そのくぼみのところをそって舐めてください……」
「こうですか……?」

 加えているモノをはなし、返事をするたびに唾液が口から垂れる。
 それは、ベッドのシーツを濡らすか、もしくは俺の体に落ちるか……。

「ふふ、わたくし、自分から進んでこのようなことをするなんて、淫乱なんでしょうか」

 角に気をつけながら、優しく頭を撫でた。
 トムソンガゼルの貴婦人は、ゆっくりと目を細めて、気持ちよさそうにしている。
 フェラチオをしているというのに、頭を撫でられているさまを見ると、何故か清純な存在に見えた。

 ようやく俺のモノは元気になり、さきほどまでの活力を取り戻す。

「今度は跨ってみてください」

 俺の言葉に、貴婦人は恐る恐る従う。
 ねらいを定めることのみ手伝ってやり、あとは貴婦人に任せる。

 まずゆっくり先端が一気に埋まり、じわじわと深くまで入ってくる。

「んっ……あっ……」

 膝立ちの体勢から、ゆっくり足を開き、深く深く入ってくる。
 俺の腹に手を突き……。

「ぜ……ぜんぶ、はいりましたね……」
「お疲れ様です」

 トムソンガゼルの貴婦人の額には汗が浮かんでいた。
 初めての経験でここまでやれるとは大したものだろう。

「……んっ……腰当たりがしびれる感じで……んっ」
「動いてみます?」
「ええ……ゆっくり……」

 トムソンガゼルの貴婦人はゆっくり左右に揺さぶるように腰を動かした。
 こちらもつたない動きではあったが、それを補ってあまりあるほど、貴婦人の膣の締め付けは強烈だった。
 熱く、爛れるようなソコは、うなり、俺のモノを包み込んで、さかんに射精を促していた。

「こちらも……動きますよ」
「……え、ええ、どうぞ……」

 トムソンガゼルの貴婦人を跳ね上げるように腰を上下に動かした。
 一番混じり合うときになると、ペニスの先端が何かにこつんとあたる感触がある。

「ふぅん……んっ……」

 貴婦人の声にも艶が出て、肌が紅潮していっている。

「あっ……いぁ……うん……いいわ……きもちっ……いい……」

 腹筋を使って上体を起こし、腰の少し上を支えて貴婦人の上体を反らせる。
 ちょうど俺の顔あたりに貴婦人の胸が来て、先端の桃色の突起を軽く口に含んだ。

「あっ、そんなっ……両方なんて……」

 貴婦人の両足が俺の腰をしっかりと固定するのを見るや、腰に回していた手を下に動かす。
 胸についで柔らかい体の部分である双丘の谷間にそっと指を伝わせ、最後はすぼまりの付近を指で軽く弾いた。

「んっ……だめよ、止めてちょうだい……」

 しかしその言葉通りに止めるトンマはいない。
 むしろ一層動かす速度を速め、豊満な尻を掴んで彼女自身も上下に揺さぶった。

「だめ……だめって……んふ……あっ……」

 貴婦人の声色も段々と高くなっていく、俺の限界も近い。
 そろそろ潮時か。

「くっ……出します……よっ」
「だ、駄目よ……とま、止まって……っく……」
「……そんなこといわれても、無理、ですよっ」
「だめ、今は……駄目……」
「大丈夫、子どもは、できませんから」
「そうじゃなくて……ッ……ーッ……」

 トムソンガゼルの貴婦人の最奥で果てた。
 精液がとめどとなく漏れ、膣内に溢れていく。
 おそらくは、子宮にも少なからず流れ込んでいるだろう。

 貴婦人はのけぞったまま、動かない。
 最後の始末をつけるために、貴婦人の腰を掴み、二度三度ギュッギュと押し込んでねじると、
 そのたびに体を震わせた。

 彼女の体内からゆっくりと脱すると、モノとともに白い液体が膣から溢れてくる。
 貴婦人をベッドに寝かせると、恍惚とした表情が明らかになる。
 全身で息をし、俺の姿が瞳に映ると、手を向けてきた。
 俺も貴婦人の横にねそべる。

「イケナイ人ね……駄目って言ってるのに……」
「情事中に駄目という言葉ほど信頼できない言葉はありませんよ」
「その通りね、もしあなたがそのとき止めてたら、首を絞めて殺しちゃっていたかも」

 二人は見つめ合う。
 貴婦人の瞳には、俺しか映っていない。
 恐らく俺の瞳にも貴婦人しか映っていないだろう。
 けれど、それは表面的なもので、本当に見ているモノは互いに違うものであることは、薄々わかっていた。

「なんていうのかしら、イクという感覚ではないと思いますけど、
 こう……そうでなくても、とても、気持ちよくて、幸せでしたわ」

 貴婦人はほんの少し首を動かして、俺に軽くキスをしてきた。
 俺はそれを抵抗無く受け入れ、また自分からも一度軽いキスをした後、ゆっくりと体を起こし、
 ベッドの縁に座った。

「あなたは……わたくしを裏切りませんわよね」

 トムソンガゼルの貴婦人は、俺の背中にしなだれかかり、熱い吐息とともに呟いた。

「わたくしのもとから、去ったりしませんよね?」

 俺の首に腕が巻かれる。
 最初は添えてあった手が、段々と強くなっていき、最後には息苦しくなるほどしめてきた。

「わたくしのもとから、いなくなったりしませんよね……」
「いや、それは約束できませんね」

 ……背中の刻印がまた俺に痛みをもたらしてきた。
 まだ駄目だ、まだ呪いを発動させてはいけない。

「ヒトの寿命は、長く生きても100がせいぜい。
 俺は17ですから、あと80年くらいしか、ご一緒することはできません」
「……いいわ、先に逝くことは許してあげましょう。
 でも、その代わり、あなたの80年はわたくしが貰いますわよ」
「ご随意に」

 トムソンガゼルの貴婦人は、俺の顔に手を当て、こちらに向かせ、再び口づけをした。
 粘液同士の接触を感じ、背中の刻印の痛みが引いていく。
 やや落ち着きを保ったが、刻印が今回のことを見逃してくれるはずがない。
 ただでさえ、刻印のタイムリミットが近づいてきているんだ。

 この呪いの刻印は、俺を最初に奴隷にした主人がつけたものだ。
 月に一度、俺に激痛をもたらす。
 それこそ、立っていられぬぐらいの激痛。
 全身に釣り針を突き刺し、強い力で引っ張られているような、そんな痛み。
 なんでそんな呪いをつけられたのか……その主人が死よりも辛い激痛に身もだえる姿を見て、
 得も言えないらしい快楽を得る変態だったから、としか答えようがない。
 俺がこの呪いをかけられる前に、何人か同じようなことをされたヒトがいたらしい。
 そしてそのヒトは俺よりも多くの回数、この呪いに苦しめられた。
 月に一度、それがヒトの精神が破壊されないギリギリの回数。
 一度だけ俺の先人達が入った部屋をちらりと見たことがあるが、
 忌まわしい記憶の中でもそれはあまり思い出したくない部類にはいった光景だった。
 糞ブタ野郎は、壊れてしまったヒトに対しても容赦なく、人体の改造なんぞを施していた。
 今はその先人達も、永遠の安息につき、糞ブタも同じような末路へと導いてやったがな。

 魔力が一切ないヒトに対してかけられたこの呪いは、俺の寿命を削って維持している。
 ただ、他者の粘液に触れているときには発動しない。
 俺を犯している最中に暴れられても困るから、という動機で。
 あのブタ野郎はいつもいつも俺が悶える時間の直前に俺を犯した。
 粘液に触れている最中には激痛が襲ってこない、ということを耳元で囁かれ、
 完全に時間が来たら、俺を放す。
 激痛に耐えられなくなり、再び抱かれることを自分からねだらせようとしたのだ。
 反吐の出る行為だった。
 幸い、俺は意思が強い部類のヒトだったのか、『死んだほうがまし』な苦痛の中で、
 一度も自分から、再び抱かれることを所望したことはない。
 もっとも、俺の記憶外のときのことはこれに含まないが。

「では、もう下がらせて頂きます」
「一緒に夜を過ごしてくださらないのですか?」
「何事にも一人で浸る余韻というものは必要ですよ。男女が初めて過ごした夜というなら尚更に」

 身支度を終え、部屋を立ち去る前に、裾を掴まれた。
 ほんのり赤みがさした白い裸体にシーツを巻き、心の膜を引きはがし。

「それほどまでに帰りたがるのは、あなたの心には誰か他の女性がいるからでなくて?
 この屋敷には使用人が『多い』ですし、わたくし、心当たりがありすぎて、心配ですわ」

 ヒツジのメイドのことを言っているのか。

「いえ、俺は別に……」
「ふふっ、冗談ですよ。あれは、わたくしの無二の親友です。
 取られたとしても、わたくしは何も言いません。
 いや、嫌味の一つか二つくらいは言うかもしれませんが」

 トムソンガゼルの貴婦人は、口を手で押さえながら、上品に笑った。
 ふふっ、という声が、耳に楽しい。

「第一、この三人しかいない屋敷で、わたくしとあなたの二人が仲良くなり、
 あの子だけが取り残されているというのは寂しいことじゃないですか。
 あの子が望むのならば、そう遠くない未来において、三人で幸せになりましょう」
「そう……ですね。三人で幸せに……それもいいかもしれません」

 目をつぶり、その未来像を頭に思い浮かべてみようと思った。
 けれど、どうしてもそれは浮かんでこなかった。

 それもそうか。

「では、俺はこれで」
「ええ、明日の朝、また会いましょう。
 わたくしも病気を、そろそろ治さなくてはね。いつかのように、外の森を散策したいわ」
「出来ますよ、きっと」
「あなたがいてくれれば、きっと出来るようになるわね。
 あなたがいてくれるだけで、わたくしは元気になれそうです」

 複雑な気持ちになりつつも、俺は部屋のドアを開けた。
 トムソンガゼルの貴婦人も、シーツの端を引っ張りながら、自分のベッドに戻っていった。

 ドアを閉め、深呼吸を行う。一回、二回、三回。
 心を引き締め、刻印の発動までの時間をなんとか引き延ばそうとする。
 体内の魔力の制御が出来たとしたら、この刻印の力もある程度抑えられただろうが、俺は生身の人間。
 蛇の国で見た精霊を所持していないかぎり、魔力の制御なんてできそうにない。
 もってせいぜい、俺の部屋に到着する時間ほどしか残っていない。
 それだけあればなんとかなるが、最悪なことに、一番会いたくない人に会ってしまった。
 とはいえ、この屋敷に、俺とトムソンガゼルの貴婦人以外の人は、
 一番目だろうが二番目だろうが一人しかいないわけだ。

 ドアの真ん前、壁に寄りかかり、しゃがみこんでいるヒツジのメイド。
 もこもこヘアーが燃えやしないかと心配になるほど、顔を真っ赤に染めて、
 スカートの裾をよだれがべとべとになるほどかみしめ、まくられたスカートの下では、
 下ろされた下着、塗れた手、赤くなった秘唇、その他諸々が見えた。

 刻印とはまた別の意味で、俺は激しい頭痛を覚えた。
 何も見なかったことにして、その場からたちさりたかったが、涙がぼろぼろこぼれだした目と
 俺の目の視線が交わってしまった以上、そうすることはできなかった。

「覗きは、あんまり感心できない趣味だな」

 せいぜい、この程度のことを言うことしかできなかった。
 ヒツジのメイドは、スカートの裾をくわえながらふもふも言い、急に立ち上がり、走ろうとしたところ
 中途半端に下ろされた下着があったので、そのまま転びそうになった。

「手間をかけさせるなって言ったじゃないか」
「どっ、どこを触ってるんですか!」
「別にどこも触ってない」
「むっむむむむむ、胸を触ってるじゃないですか!」

 今にいたってそんなことを言い出すのか。

「君が倒れそうだったから支えようとしただけだが、他意があると思われては困る」
「いっ、いいから離してください」

 ヒツジのメイドを立たせてやり、手を離す。
 そのまま背を向け、進もうとしたが、裾を掴まれた。

「……」
「何?」
「『何?』じゃないですよ……なんで何も言わないんですか!」
「何かいう必要があるのか?」
「……ッ!!」

 平手が飛んできた。
 これがヒトの放った平手だったらよかったんだが、ヒトの身体能力の数倍を持つ獣人の平手。
 激しく視界がぶれ、天と地がごちゃごちゃになった途端、頭に衝撃が走った。

「あ、だ、大丈夫ですか? す、すいません」

 平手打ちにされた衝撃で、俺はたやすく弾かれ、壁に頭を打ち付けてしまったようだ。
 右の側頭部に手を当ててみると、ぬらりとした。

「あっ、あ……ち、血が……な、なんで?」
「……俺はヒトなんだ。君が今まで見てきたものとは違う。
 毛皮はないし、たくましい筋肉も、頑丈な皮膚も、特別硬い骨もない。やわなヒトだ。
 本気を出していない平手打ちでも下手をしたら重傷を負うし、
 君でも本気を出せば、俺の頭蓋骨をたたき割るくらいはたやすくできる」
「あ、あああ、ご、ごめんなさいごめんなさい、私……」
「謝らなくてもいい、俺が悪かったんだ」

 少しくらくらするが、動けないわけではない。
 ヒツジのメイドは、あわてて俺の頭をさすっていた。
 俺の頭が出血していることを認めると、
 手慣れた手つきで、傷口を消毒し、ガーゼを当てて包帯を巻いた。
 全てエプロンドレスの前ポケットに入っているのは、メイド兼ナース兼医者故なのか。

「迷惑をかけたな」
「め、迷惑だなんて、そんな……これは私が……」

 ヒツジのメイドは、そういうと顔を伏せた。
 しばし沈黙があたりを包む。
 トムソンガゼルの貴婦人は、何故か、こうやって騒ぎを起こしているのに部屋から出てこない。
 配慮しているつもりなのか、もう寝てしまったのか、どっちだかわからないが、
 これ以上事態がややこしくなるのはごめんだった。

「もう、部屋に戻る」
「そう……ですか」

 ヒツジのメイドは言葉を切れ切れにして、俺に背を向けた。
 言いたいことを言えない、いや、言わない。
 俺もゆっくり立ち上がり、彼女に対して背を向けた。
 このまま部屋に戻っても問題ないだろう。
 ヒツジのメイドの心になんらかの影響が残るであろうことは想像に難くないが、俺には時間がない。

 ……そうこうしているうちに、案外早く崩壊の時は訪れた。
 ぱりぱりと卵の殻が割れるように、心の殻が壊れていく。
 理性と激しい憎悪によって、抑えてきた呪いが、ついに毒をはき始めた。

 まず手先と足先。
 一瞬ふっと感覚がなくなったかと思うと、寄せてくる激痛。
 指が根本から全て無くなってしまったかのような痛み。
 魔法によって生み出される、通常では絶対に味わえない痛みが体の末端を襲う。

 痛覚神経がパンクしてしまいそうだ。

 立っていられなくて、前に膝をつく。

「痛い……」

 指先からどんどん痛みは俺の体を浸食していく。
 指先からどんどん痛みが倍加していく。

「痛い、痛い……」

 情けないことに声を出さずにはいられなかった。
 涙が頬を伝う。
 耳から脳髄が出てきそうなほど頭痛があったが、それでもまだ音が聞こえていた。

「大丈夫ですか!?」

 俺を抱える、ヒツジのメイド。
 心配げな顔で俺を見つめている。
 まだまだ痛みの本番には到達していない。
 まだまだ痛みが引くまでの時間は残っている。
 彼女に、あれを見せることはできない。

 非常に心苦しい選択だったが、俺は選んだ。

「きゃあっ!」

 ヒツジのメイドを突き飛ばし、頭を掴む。
 全身に釘を打ち付けられたかのような痛みが走っていたが、それに耐えて、俺は彼女に覆い被さった。
 乱暴に唇を合わせ、舌を彼女の口の中に差し込む。
 痛みの逃げ場を探すかのように、舌は彼女の口の中を蹂躙し、粘液同士の接触が行われた。
 全身の痛みは瞬く間に消え去り、再び呪いの発動はリセットされた。

 やれもうそろそろ離れてもいいか、と思った瞬間、ヒツジのメイドは俺の体に手を回し、
 今度は逆に俺が下になるようにして覆い被さってきた。
 俺がリードしていたフレンチキスは、ヒツジのメイドの方が優位になり、俺の口の中を彼女の舌が駆け回る。
 やがて、いつの間にか俺の舌が目の前の女性の舌に絡まれて、大量の唾液がそれを通じて交換された。
 俺としては彼女と必要以上にキスをしていた気分ではないのだが、自分から口づけをしておいて、
 彼女の体を押し返すことは出来ず、彼女のするがままにしていた。
 うっすらと目を開けてみると、ヒツジのメイドは目をつぶり、頬を染めて、俺の唇にすいついていた。
 それほど欲求が溜まっていたのか、肋骨が折れそうなほど俺の体が締め付けられていた。

 ……そうか。

「ちょ、ちょっと待ってくれ……」
「あっ」

 ヒツジのメイドの体を押し返すと、彼女は熱い溜息をつき、同時にうらみがましそうな目でこちらを見てきた。

「なんで……」
「興奮するのはいいが、締め付けすぎだ。体が二分されるかと思ったぞ。
 肋骨が折れるかどうか本気で心配した」
「ご、ごめんなさい……」

 ヒツジのメイドはしどろもどろになりながら、俺に頭を下げた。

「……」

 なんだか気まずい雰囲気になる。
 二人とも廊下の床に座り、視線を合わせられなく、何も話しかけられずにいた。
 今すぐにでも部屋に戻りたいが、何も言わずに部屋に戻ったら、またややこしいコトになりかねない。
 中々、ことは上手く運ばないものだな。

「明日……」

 俺は口を開いた。
 まだヒツジのメイドの唾液の残滓が残っていて、なんだか奇妙な感じがした。

「明日、夜に俺の部屋に来てくれ」
「え?」
「……もう一人、この屋敷に住んでいる人は別にいいってさ。
 出来るなら、三人で幸せになろう、って言ってるから」
「……え?」
「ま、そういうことだ。今日はもう部屋に戻る。
 君も部屋に戻れ。全ては、明日、だ。明日。明日の夜に、な」
「は、はいっ!」

 言いたいことがわかったのか、ヒツジのメイドは満面の笑みを浮かべた。
 なんだ、割と簡単だったな。

 ヒツジのメイドがそのまま立ち上がって、部屋に戻ろうとしたその手を掴む。

「え?」
「これは手付けだ」

 こちらに振り向かせ、ほんの唇だけが触れるキスをした。
 頭一つ分俺より背が低い彼女に対して、首を折り曲げ、顎をあげさせてやった。
 中々、様になったキスができた、と自画自賛している最中にも、彼女はますます顔を赤くしていた。
 それこそディープキスや、自慰の最中を見られたときよりも遙かに赤く染め上げられていた。

「な、なにするんですか、もー」

 彼女がたわむれに振り回した手を避ける。
 俺が当たっても多少痛いと感じるくらいの、殺人的威力のあるものではなかったが、
 今までに二度も大けがを負わされかけた経験が、彼女の攻撃を反射的に避けるようにさせてしまっていたのだった。

「こ、これは、私からのて、ててて手付けです」

 ヒツジのメイドは、俺に習ってか、顔を真っ赤にさせながらキスをしようとしてきた。
 が、目をつぶりながら、突進してくるように顔を近づけたそれは、なんとか唇同士の接触はされたが、
 勢い余って顎同士がぶつかってしまった。

「……あぅ」

 うまく口づけができなかったことが残念だったのか、ほんの少し顔を下げ、縮こまる。
 俺はそんな彼女の頭にぽんぽんと手を乗せた。
 一度は触ってみたかったあの、もこもこヘアー。
 なるほど、流石はヒツジというところか、その手触りはまさに天然物のウール。
 奇跡の触り心地と言うべきか、一度触れてしまったら、もうその感触は忘れられない……。
 小一時間ほどその髪の毛を弄んでやりたかったけれど、俺にはそれほどの時間は無く。
 そのままヒツジのメイドに背を向けて、その場を立ち去った。

 色々あったが、その後は何事もなく、落ち着いた気分で俺に割り当てられた部屋の前についた。
 ドアノブに手をかける。
 さながら死刑直前の心持ち。
 達観したいけれど、達観しきれない。
 逃げたいけれど、逃げられない。

 部屋に入り、戸を閉め、あらかじめ用意しておいた布で口を縛る。
 片手と片足をベッドに縛り付け、目を閉じてその瞬間を待つ。

 心の奥底の、黒い何かが動き出す。
 体の末端からヒビが入るように痛みが浸食し、段々と中央部に向かって動き出す。
 どんなに語彙力を持っていても、この痛みを表現することはできないだろう。
 無理に表現したところで、その言葉は実際のそれとは何段も低い位置にある。

 次第に痛みが大きくなっていく。
 痛みは肥大化していき、ついには俺の意識をも飲み込む。
 一切の思考が出来なくなり、かといって気絶することもできない。
 ただただ痛みに耐え抜くうめきが、喉から漏れる。


 どのくらいの時間が経ったのか、わからない。
 気が付けば背中の刻印が消え、痛みが引いていた。
 残滓として、まだつま先や指先がしびれているが、歩けないほどではない。

 無言で立ち上がり、執事服を脱ぎ、大量の汗をぬぐった後、ベッドの上に用意しておいた服を着た。
 続いて必要なものをあらかじめ詰めておいたナップザックを背負い、音を立てずにドアを開く。
 屋敷には、もう明かりはなく、ヒツジのメイドも、トムソンガゼルの貴婦人も、ともに眠っているようだ。
 足音を消しながら、ゆっくりと廊下を歩き、玄関から屋敷を出た。

 山間に存在する、たった二人しか住んでいない屋敷。
 そこで過ごした三週間は、この世界に落ちてきてから、類い希なる心休まる時間だった。
 貴婦人もメイドも、俺に懇意にしてくれたが……やはり俺の居場所はこの世界に存在しない。
 彼女らの悲しそうな顔がふと脳裏によぎり、胸の辺りが痛んだ……がそれでも俺は行かねばならない。

 自分以外の全ての生き物に対する憎悪を活力に、多くの獣人の屍を乗り越えて来た俺だ。
 今回は厚意と慕情の念を踏みにじり、再び、元の世界に戻る方法を模索する旅に出る。
 その方法が見つかる可能性は、限りなく0に近いけれど、それでも……。

 途中で振り返った。
 相変わらず屋敷には明かり一つなく、静かな眠りについているようだった。

 さらば、ヒツジのメイド。
 さらば、トムソンガゼルの貴婦人。

 俺は……あなた達のことは嫌いではなかった。
 が、しかし、俺はやはり奴隷ではない。
 ヒトだ。
 好きとか嫌いとかそういった次元ではなく、俺はあなた達を受け入れられない。

 大変身勝手ながら、俺はここにとどまるべき運命ではなかったようだ。
 もう二度と、会うことはないだろう。
 結局、あなた達の日常を引っかき回しただけだったが、ここでお別れだ。

 いざ、さらば。

 屋敷から目を逸らし、再び前を見ると、森の中は真っ暗だった。
 もうそろそろ夜明けに近いはずだが、そうとは感じさせないほど暗い。
 だが、俺は知っている。
 夜明け前が一番くらいことを。






 獣人が食物連鎖の頂点にたっているこの世界。
 ただの『ヒト』は奴隷になるか、死か、という運命以外ないこの世界に、
 とことん逆らったヒトがいた。
 それは場末の酒場で、ギルドの建物の隅で、盗賊団の無駄話で、
 奥様方の井戸端会議で、とても上品なところではなかったが、その噂は存在していた。
 卑怯な手を使い、獣人を何人も殺し、悪逆非道を尽くすヒト。
 どんな人相なのか、どんな体格なのか、そういったものは明らかにされてはいなかったが、
 確かにその『ヒト』は噂になっていた。

 村に火を放ち、女子どもを容赦なく殺す……。
 ヒトは言うまでもなく脆弱な存在で、そんなことができるわけがない、と。
 こんな噂は誰かが流したデマだ、という人もいたが、しかし、その噂は絶えず、
 ほそぼそと続いて流れていた。
 今度は猫の国にいた、かと思えば、犬の国の国境を越えた。
 犬の国の盗賊団に襲われ、そのまま捕まり、売られた。
 しかし、その一ヶ月後には別の場所でそのヒトが現れた。
 捕まったというのは嘘だったのか? それとも捕まった後、間抜けな飼い主から逃げ出したきたのか。

 とりとめのない話だった。
 ただの噂、一セパタにもならない噂。
 もし本当であれば、国と国を渡り歩く犯罪者、国際犯罪者の一人であるのだが、
 ただのヒトを、それに認定するというのはあまりにも馬鹿馬鹿しいことだった。
 とある民俗学者は、噂話の中で生まれた、現実に存在しない存在、
 つまり都市伝説と言われるものである、という見解を示していた者もいた。
 けれど、定期的にその噂話は新しくなり、実際にそのヒトは存在すると、大半の人間は信じていた。

 ある時を境に、そのヒトの新しい噂話はめっきり途絶えてしまった。
 普通は一ヶ月やそこらで新しい話が出てくるはずなのに、半年が過ぎても出てこない。
 噂をしていた人達は、何故そのヒトはどうなったのか、話し合った。
 ある者は、どこかでのたれ死んだと言い、またある者は、元の世界に戻る方法を見つけたんだ、と言う。
 ボートで外海に挑みそのまま帰ってこなかった、どこかの富豪に飼われて絶対脱出できない状況になった、
 などなど多くの説が出てきたが、その真相を知るものはいない。

 そのヒト、噂話の中では本名は明らかになっていない。
 代わりに、一つの衝撃的なエピソードによって、とある二つ名が与えられていた。
 満月に近い夜の日に、とある盗賊団がそのヒトを襲ったところ、一人が返り討ちに遭い死亡。
 ヒトは、返り討ちにしたその一人の、切り裂かれた喉に舌を入れ、血をすすっていた。
 ぐちゃぐちゃと音を立て、生きたイヌの傷口に舌を這わすという行為によって、
 噂話で登場するそのヒトは『吸血鬼』と、仮に呼ばれるようになっていた。

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