イノシシの国 イノシシ編パート5
伍
紅葉が冴える森。
笠の下、小さな唇から漏れた白い息が、樹々の間に消えて行く。
冷えた空気を遮るように、縞合羽を体に巻き付けると、獣の匂いが、なせの匂いを包み込む。
高く梢のそびえる根元、樹洞に押し込められた小さな体は隠れて、笠だけがはみ出して茸のように横から生えているようだった。
少しくすんだ紅葉が高い空を遮る枝の間から落ちてくる。
なせは、被せられていた笠を外し、不自由だった首を振る。
頬に、舞い落ちる葉の影が落ちた。
「ばじさまのにおい」
縞合羽からは、濃い獣の匂い。
既に慣れきってしまった獣脂の匂い。
笠を手にもって、縞合羽に頬をすり寄せ、匂いを嗅ぐと、少し落ち着いた。
小さく笑んで、また白い息を吐く。
木枯らしが吹いた。
辺りを見回す。
視界からバジが消えて、随分経っていた。
初めてひとりにされた身では、心細くて、何処へも踏み出せない。
この森をゆけば、どちらが街道だったのか、それすらも分からなくなっていた。
「ここで、待っていれば、戻ってきてくださる」
樹皮によりかかり、自分に言い聞かせるように、なせは呟いた。
足下に、紅葉が落ちる。
それを、拾おうとして、なせは身をかがめた。
その時。
落ち葉を踏みしめ、やってくる足音が耳に届く。
複数。
それと同時に、野太い男の声が、複数。
なせは身を凍らせた。
「……すぐに、戻ってくる」
なせは息をひそめる。
樹洞に隠れてやり過ごそうと、笠を持った手を引っ込める。
手元で、思ったより大きな音がした。
ひっかかったまま、動かない。
縦にしてもしまえない。
「ばじさまの、笠」
悲鳴に近い吐息が漏れた。
緊張に、ひゅーひゅーと喉が鳴る。
声が近づいてくる。
逃げなければ。隠れなければ。でも、何処へ?
この辺りは、紅葉に色づく樹々で、少し暗くなっている。
向こうに薮が見える。
なせの視線が硬い動きで、あちらこちらを彷徨った。
声が樹の後ろから近づいてくる。
「おい、こっちに本当にいるのか?」
「風上だぜ? 間違いない」
「でもよお、強いオスだったら困るじゃねェか」
足下でかさりと、落ち葉が音を立てた。
「おっ、気配がするぜ」
「でもあんな幅で俺達が隠れられるはずもねェ」
「なんか、匂いに違うの混じってねェか?」
声色の違う、野太い男達の声が三人分。
なせはバジ程鼻が利かない。
でも、バジ達が鼻が利くのは承知していた。
(ばじさまの、匂い)
自分の匂いではなく、バジの匂いを追ってきたと、そう理解した時、なせの足は樹洞より転がりでて、薮の向こうへと一気に走り出した。
手に持った笠が空気抵抗の邪魔をする。
手離さずに笠を胸に抱きかかえて、一心に走る。
「おっ、何かいたぜ」
なせの走る姿を認めたのか、声が少し訝し気なものに変わった。
「ん? なんだ? ありゃ」
「イノシシ……じゃねえな、ネズミか?」
背後で響く声。
なせの視線がちらりと声の方を向いた。
両目の開いた、イノシシが三人。
(……両目の開いたイノシシの男を見かけたら、すぐに逃げろ)
なせの全身に脂汗が滲んだ。
視線を戻すと目の前には薮。
「……っ」
なせはそのまま笠を盾にして突っ込んだ。
大きめの縞合羽があちこちの枝にひっかかって、穴があく。
もがきながら外して、先へと進む。
「おい、追いかけてみるか?」
後ろから迫る声はあくまでも能天気だった。
「よしとけ、『冬』は間近だ、女をやっと抱けるんだぜ?」
言い合う声は、若者特有の軽い口調。
「でも、あれが女だったらどうする?」
だが、なせには、会話の内容を聞き取る余裕も無い。
薮をやっと抜けると、また全力で走り出す。
藁靴が片方脱げた。
拾わずに、つんのめるようにして駆ける。
「あんなにオスの匂いをぷんぷんさせてる奴がか?」
足音は歩いて、変わらず追ってくるが、遠ざかりつつある。
このままなら、逃げ切れそうだ。
「『冬』の前に男とやってたから、あの匂いだって言うのはどうだ?」
上がった息を整えようと、少し速度を落としかけた、なせの背後で、下卑た笑い声が響く。
突然、足音が、疾走に変わった。
なせの喉から、悲鳴が息の漏れる音として生ずる。
「ぬしさま……っ」
イノシシ族は、走ると一転して足が疾い。
遠ざかっていたはずの足音が地響きとともに、近づいてくる。
三人分。
逃げ切れない。
つんのめる足先を、無理矢理前に運んだその時。
後ろから衝撃が来た。
「……っ」
なせの体が高々と空に舞い上がる。
高い悲鳴が、空を引き裂いた。
放物線を描いて、遠くの薮へと落ちて行く。
途中、大木の枝に縞合羽がひっかかって、落下が止まった。
一瞬の間を置いて、合羽が外れて、そのまま薮へと落ちる。
空中に残された笠は、風に翻弄されるように薮の手前へ後から落ちてきた。
その上を、急に止まって勢い余った蹄が踏み抜く。
笠が潰れる音が鈍く響いた。
「まさかあんなに飛ぶとは」
二人分の蹄も、後から揃って、立ち止まる。
「ぶちかましたんじゃあるまいな」
若いイノシシの三人組は、顔を見合わせて、足下の笠と自分達の顔を見比べる。
「いや、かすめただけだ。牙も当っちゃいねェ」
皆バジより一回りは体が小さく、牙も短い。真新しい旅姿は、泥汚れが裾についており、まだ乾ききらない毛並みが見える。
「とにかく、あれは何なのか確かめようぜ」
笠を蹴飛ばして、一人が薮に近づいた。
「イノシシの女じゃないのか……」
「そんなの分かりきってただろ」
肩を落とす一人を、もう一人が小突く。
「おい、見ろよ。耳、耳」
先に覗き込んだ一人の、好奇の色を帯びた声に、他の二人も群がった。
「お、なんだ? こりゃ」
落下の衝撃で気を失ったなせは薮の枝の上にひっかかるように、仰向けに倒れていた。
裂け傷の出来た縞合羽はなせの体を守るように巻き付いている。
白い顔には、黒髪が張り付いて、先程の恐怖を物語っていた。
「あー、この縞合羽か、匂いの元は」
薮に引っかかってあちこち破けた縞合羽を、一人が引っ張ると、なせの体が地面へと転げ落ちる。
「おっと」
一人が、それを抱きとめた。
「んー、やわらけェ」
剛毛に覆われた頬を寄せて臭いを嗅ごうとするのを、もう一人が止める。
「おい、独り占めは駄目だろ」
その言葉に渋々、抱きとめた一人は、なせを落ち葉積もる大木の下に寝かせる。
「ていうかよ、その匂い、相当強くねぇか? このオス」
一人が不安げに、紐が外され、なせの下に敷かれた縞合羽の匂いを警戒する。
「俺たちゃ三人いるんだぜ? 戻ってきても勝てるだろ」
先程なせを抱きしめた一人は、自信ありげに言い放つ。
「尻尾がねェな、本当に」
一人は、めくれ上がったなせの赤い小袖の裾をさらにまくり上げて、足を開かせた。
下帯から続く太腿が露になる。
片方だけ脱げた藁靴。両の臑は、薮を通り抜けた際に、またしても切り傷だらけになっていた。
「見ろよ、毛が全然生えてないぜ」
産毛の透ける白い脚を、剛毛の生えた腕がなぞり上げて行く。
なせの膝がぴくりと跳ねた。
「なあ、これ女かな、それともガキかな」
下帯をつついて、一人が無邪気な声を上げる。
「んな事言われてもよ、初めての『冬』なんだ、わかるかよ」
「じゃあ、試しにこの脚に挟んでヤってみるって言うのはどうだ? きっと気持ちいいぜ?」
「んー、脇も良さそうだよな」
なせのだらりとした腕をもう一人の剛毛に包まれた指が持ち上げる。
「なら、断然口だろ」
黒髪を踏まないように、頭の上に一人が立った。
「噛み切られたらどうするよ」
笑い声が響く。
「とりあえず、ヤってみるか?」
脚に執着している一人が、なせの脚を持ち上げながら、自分の股間に手を伸ばした。
「里の検番に見つからないうちに早くしようぜ」
袖をまくり上げて、脇を露出させ、匂いを嗅ごうとする一人も興奮してきたらしい。
「そういえば、こいつさっき恐怖の匂い振りまいてたもんな。まずいか」
思い出して、頭上に立っていた一人が首をすくめる。
「里までの距離はどのくらいだっけ?」
匂い云々に、なせの両の太腿を持ち上げ、揃えさせていた一人が顔を上げる。
「そんなにねェな」
風の匂いを嗅いで、一人が首を振った。
「出入り禁止食らったらどうするよ」
なせの髪が、落ち葉とともに、風に舞う。
「でもよ、『冬』になったら、俺達、協力してやれねェぜ?」
屈んでなせの脇に顔を埋めようとしていた一人が、ちらりと辺りを見た。
「選ぶのは女側で、一人だけって言うしな」
三人に迷いが見られた、その時。
風の匂いに、怒気が混じった。
「なせっ!」
旋風が、三人組の一人を突き飛ばし、剛毛の固まりがもつれあって横に転げて行く。
残された二人に緊張が走り、後を追いかける。
飛び交う怒号の中、争いの場は、なせから離れた。
なせの閉じられた瞼の上を、舞い落ちる紅葉がかすめて行く。
露になった四肢を、柔らかな腐葉土の上に投げ出し、片膝を曲げ、脚を放り出した姿で、なせは動かなかった。
帯と、手を付けられなかった着物の胸元が、僅かに上下する。
西日に傾く森の中。
木枯らしは、落ち葉を舞い上げ、なせの姿を覆い隠して行った。
(了)