イノシシの国 ヒト編パート4
四
今日も、月明かりの射し込む板間に、ご主人様の長い影が伸びていた。
俺は背を向けて、薄い布団を被る。
酒の入った瓶は、もう幾度空になっただろう。毎夜、静かに呑む酒の量は増えて行く。
俺は、酒臭い室内から逃れるように、眠りに落ちる。
単調な日々は、少しだけ変わっていた。
階段に供えられるようになった斎を運び、ご主人様に渡す。あれ以来、酒瓶が途切れる日はない。
階段と言えば、あの、老婆。
翌日、訪れてみると、事切れた遺骸はそのままそこにあった。
俺が手を合わせる中、ご主人様が肩に担ぎ上げて、山の上に丁重に葬った。
一緒に埋葬した持ち物の中には、驚くべき物が入っていた。
人の頭蓋骨だ。
「これは……ヒトの物じゃの。イノシシや、『白膚』のものではあるまい」
ご主人様は一瞥してそう言い放った。
この世界で、命を全うしたヒト?
俺は首を振った。想像したくない。
傷一つなく、きれいに磨かれた頭蓋骨。
おそらく、早くに亡くなってしまったのだろう。
「ゴボウ、共に埋めてやれ」
「……はい」
埋めたら、この人も、御山の物になってしまうのだろうか。山に還ってしまうのだろうか。
山に還る、という意味が俺にはつかめず、躊躇しながらも、俺は、その骨を、老婆の遺骸と共に埋めた。
土をかけると、ご主人様が、老婆の持っていた錫杖を上に突き刺す。
「代替わりしても、こうして忠誠を誓う門番衆がおるとは……。先代は立派だったのだな」
遠い目で、ご主人様が空を見やった。
俺は聞きたい事が山ほどあるのに、整理しきれず押し黙っていた。
悲しみや衝撃を胸の奥底にぎゅうぎゅうに押し込み、放っておいた畑の手入れに、精を出した。
あれほど興味の無かった畑仕事が、こんなところで支えになるとは全く思っていなかった。
田んぼに虫送りの篝火が焚かれる頃、俺は初めての収穫を得て、帰り道を登っていた。
遠くに見える里のあちらこちらで、炎の列が続いている。
それが、俺には、あのちびを送る篝火に見えて、こみあげてくるものを瞼を閉じて堪えた。
あれから、もうひと月はゆうに経つ。
「帰ったか」
日暮れ前にたどり着くと、ご主人様が待っていた。
闇に沈んでしまえば、月明かりだけが、照らす家。
未だに煮炊きする設備は無く、俺は外で、ザルにいれた菜っ葉の汚れを軽く洗い流すと、ご主人様にザルごと差し出した。
「穫れました」
「そうか」
ご主人様は、手を伸ばして、菜っ葉をそのまま食べた。
「うむ、凝りも無く。ゴボウが食べても大丈夫じゃの」
「コゴリ?」
「山の氣が凝ると、毒になる」
それだけ言って、ご主人様は、黙々と、俺の穫った菜っ葉をつまみに、酒を呑んだ。
「山で穫れた物以外なら、食べられるから、俺の食事も斎の一部を取っているんですか」
「それもあるがの。山で火は使わぬ」
「ああ」
確かに。この家には、火を焚く設備が一切ない。
本来は社、と言った方がいい程、簡素な造りをしていた。
「おまえも、温かい飯の方が嬉しかろう」
いや、ここまで来るまでに大概冷えきるんですがね。
確かに、調理した方が旨い事は確かだし、ミクルの斎は何でも旨かった。
「ご主人様」
上がりかまちに腰掛けて、奥のご主人様を見つめる。
黒々とした瞳が、こちらを見据えていた。
あれだけいつも酒臭いのに、この瞳はいつも変わらない。
口元から覗く牙が、焦げ茶の髪から覗く小さな耳が、ご主人様が、俺とは違うのだと、主張する。
それ以外は、豊かに張り出した乳房も、少し寸胴目の胴も、よく鍛えられた手足も、俺と変わりなく見えるのに。
下ろしたてだった膝丈の着物は、今はくたびれて、毛羽立ったり、こすれたりしている。それでも、胸は半ばまで隠れ、帯の上に載っていた。
「なんだ、珍しいな。儂を正面から見つめるなど」
そう言えば、そうだった。
あの老婆に噛み付いた日から、ずっと、顔を見るのを避けていた。
なのに、今日は、自分が育てた菜っ葉を食べてくれた、それだけで、ご主人様の顔を見る気になれた。
「……、御山って、なんですか」
俺の喉から漏れた声は、思ったより低かった。
「ここじゃ」
そう返してご主人様は酒をあおった。
「他にも周りに山はあるじゃないですか。なんでここは御山っていうんですか」
以前、ご主人様は山巡りに出かけていた。
「周囲六山を束ねる要が、この白継山じゃ。ヌシは儂しかおらぬ」
「じゃあ、遠くへいけば、他にもご主人様みたいな人がいるんですか」
「おる」
青い闇がご主人様の表情を俺の視界から覆い隠して行く。
「他のヌシにも、ああいう門番衆とかいう人がいるんですか」
「おる。最も、これは生まれればじゃの」
「生まれれば?」
「里に、じゃ。もしかしたら、おらぬヌシもおるかもしれぬ」
今、里に、あの老婆と同じように、イノシシの顔をした女はいない。
「ヌシって言うのは、独りで棲むものなんですか」
俺は、話題をずらした。
「イノシシ族は、皆独りで生きて行くもの。子が出来れば姉妹で徒党を組むかもしれぬ。里に属すれば、たまには徒党を組むかもしれぬがの。じゃが、本質的には皆、独り」
「あいつらは、一緒にいたじゃないですか」
「あれらも、繁忙期の間、里長が預かっているに過ぎぬ。その方が死ぬる率が下がると判断されたからじゃ」
「死亡率?」
「イノシシの子は、よう死ぬ。おまえが嘆いたあの子のように」
息が止まった。
俺が生きていた、あの世界は、いや、あの時代は、自殺とか、殺人とか、そういうのはあれど、子供があっけなく死ぬっていうのは遠かった。
そりゃ、一度も知り合いが死んでいないって訳じゃない。葬式に参列した事なら1度くらいはある。だけど、誰かが死ぬ瞬間に立ち会った事なんてない。
死って言うのは、遠くて。明日も生きているのが当たり前で。
交通事故とかそういうのはたくさんあるだろうけど、でも、やはり想像出来なくて。人身事故とかは日常茶飯事なニュースで、死亡記事を見ても、身近なものとは思えない。
そんなありふれた日常から、今突きつけられた事実が、あの日からずっと胸に刺さった棘のように、痛く。俺はどこにも行けない、やり場のない思いを、ご主人様に向けた。
「あいつは、俺のせいで死んだ。俺が、あんな遊び教えたから。俺が、その後行かなかったから」
拳を固く握りしめる。
「あんたとやりまくっている間に、あいつは死んだんだ」
八つ当たりだった。
雨がずっと激しく降っていた。外になんて出られなかった。
そして、俺はご主人様に溺れていた。
「……ゴボウよ」
闇の中で、ご主人様の眼だけが光っていた。
「儂のせいにするか」
違う。違う事は分かっていた。でも、言葉は止められなかった。
「あんたに俺が溺れている間に、あいつは死んだ。そして、あんたは、あの老婆を噛んだ。俺のせいで子供ひとり死んで、ご主人様は、人ひとり殺して、」
俺は何を言おうとしたのだろう。
「儂が……殺した?」
闇の中でご主人様がのそりと立ち上がった。
獣の気配がする。
衣擦れの音と、ご主人様の怒りに満ちた気配が、近づいた。
間近で、眼が光っている。
「儂が、あの門番衆を殺したと申すか」
俺は口ごもる。
ご主人様は、俺のTシャツの襟を掴み、ぐっと肩を露出させた。
そのまま、肩口に噛み付かれ、体が一瞬硬直する。
食われた。
そう、思った。
だが、いつまで経っても、痛みが来ない。
牙は緩く膚を食む。
「門番衆は、肩まで剛毛に覆われておる。せいぜいこの程度じゃ」
ご主人様は、耳元で囁いた。
「儂が、殺したと、申すか」
震えを押し殺したような、声だった。
俺は、何も言えなかった。
ご主人様が無言で離れ、扉を開け放って出て行った。
俺は、俯いたまま、苛立ちで握りしめた拳に、爪が食い込んだ。
お互い、何事もなかったような振りをして、日々は過ぎた。
夜はお互い、背を向けあって過ごすのに、昼は、穏やかで和やかな日常が過ぎる。
暑さは増してきて、俺は日陰で過ごすのを好むようになっていた。
夏は、すぐさま去っていくような感じだった。
秋の実りの季節がもうすぐそこまで迫って、暑さも日に日に気だるくなっていく。
「出かけるぞ」
だらだらと汗をかいて、土間でへばっていた俺に、ご主人様が声をかけた。
「どこへっすか」
「山三つ向こうまでだ。小さな湖がある」
「へ?」
それは遠出だ。遠出過ぎる。
「用意も何もしてないっすよ」
「里の者も出かけたぞ」
ご主人様の手には、小さな風呂敷包みがあった。
「持て」
仰向けにだらしなく寝そべる俺の腹の上に、包みを落とす。
軽く腹筋にヒット。俺は受け止めて、起き上がった。
土間に上半身裸で寝るのはまずかったか。
でもひんやりしてて気持ちいいんだよな。
土を払って、風呂敷包みと、板間に置いてあった甚平の上着を掴んで、ご主人様の後を追う。
先を行くご主人様の服装は、赤地に白いウサギの模様がある、ずいぶん可愛らしいものだった。
ご主人様が着ると、なんでも、ただの着古しに見えてしまうが、赤は案外似合う。
里長のくれた衣は、もっと落ち着いた、里長の趣味の柿渋色だった。これは誰が捧げたのだろう。
服まで供えられるようになるとは、ご主人様の株も、いろいろと里で上がったらしい。
だが、その理由を考えると、何処か、咽の奥が苦かった。
俺の甚平は、誰からか知らないが、ある日の斎と一緒に入っていたものだ。
腰はヒモで調節すればいいから、大きめのそれも、俺にはちょうどよかった。
くたびれたスニーカーを突っかけて、ご主人様の後について行く。
正直、ご主人様の足が程よく短くてよかったと思う。
健脚のご主人様は、例え寄り道をしていても、俺の体力では到底叶わないところを平気で越えたりする。
俺がよじ上る場所でも、案外飛び越えるだけで済んだりするから、基礎能力と言うのは侮れない。
汗だくになりながら、俺たちはようやく夕刻、目的地に着いた。
羽虫が鬱陶しい草むらの中、斜面に座り込む。
眼下には、小さな湖が広がり。
湖畔には、どこから集まってきたのか、近隣の里から集まったらしい、イノシシ族の女子供と、出店の屋台、それに見かけぬ種族がちらほら。遠目には耳と尻尾の違いくらいしか分からない。
「ちょうど始まるところだな」
どーんと、狼煙が上がった。
違う。
まだ明るいから、見覚えがなかったが、この音には聞き覚えがある。
「……花火?」
「ほう、知っておったか。西より流れてきた角ある民が持っていた短筒というものに使われておったのだがの。その火薬を元々あった狼煙の技術と合わせてみて、出来たのよ」
隣に座り込んだご主人様が言う。
「今日は、酒、持ってきてないんですね」
俺はちらりと目を向けて言った。
「お前が飯を持ってきたではないか」
途中でつまみ食いしたの、ばれてるのになあ。
俺は渋々膝の上に弁当を広げる。大分量は減っていたが、まあ、つまみには十分だろう。
徐々に、日が暮れ始め。
花火が、轟音とともに夜空に上がり始めた。
ああ、近いと、空気も震えるんだな。
単色の花火が、すうっと昇ってきて、花開き、散る。その度に、下の方で歓声が上がった。
いつもは警戒心の強い奴らなのに、今日だけは解放されているようだ。
こうしていると、元の世界の花火大会とそう違わないように見えるのに。
俺と同じ姿の人間は一人もいない。
俺と同じ影を持つ人間は一人もいない。
傍らのご主人様さえ。小さな耳の影が、尻尾の影が、豊かな肉置きの影に重なる。
俺はしばらく、ご主人様が俺の膝の上の飯を平らげるのを見ていた。
俺の横顔を、ご主人様の鬣を、花火が照らす。
「ゴボウ、あそこを見ろ」
ふいに、ご主人様がすっと腕を伸ばし、湖の片隅を指した。
俺は、引き付けられるように、そちらを見る。
花火に照らされる小さな影達。そして、湖の上を跳ねて行く何か。
あれは。
「……去年はな、あんな景色なぞ無かった」
ご主人様が、小さく呟いた。
あれは、あの動作は。
俺が、教えた、石切だ。
小さな影達が投げた石が、花火に照らされる湖面で跳ねていく。
遠いはずなのに、それは、俺の眼に鮮やかに焼き付いた。
轟音が、湖面を揺らす。
ああ。
あいつが、あんなに沢山。
俺のいない間に増えている。
「……ゴボウ」
ご主人様の指が、俺の瞼の下を拭った。
視界がぼやけて行く。花火が霞む。
鼻の奥が痛くなった。
「ご主人様、俺は、俺はっ」
声が裏返っている。
嗚咽が、こみ上げて、止まらなくなった。
こんなに泣いたのは、いつ以来だろう。記憶にない。初めてかも知れない。
ご主人様の手が、俺の背中をさする。
俺は、自分の膝を抱え込んで、上を向いて、零れ落ちる涙を、歪む視界に留めておこうと必死だった。
「……、あやつは御山に還ったが、子らの心にも残った。そうじゃろう? ゴボウ」
鼻をすすって、俺のしゃくりが落ち着いてきた頃、ご主人様の唇が、俺の瞼に押し当てられた。
涙が吸い取られ、片目の視界が、元に戻る。
(そうだろう? シンヤ)
そう、ご主人様の唇が動いたような気がした。
そんなはずはない。
ご主人様は俺の名前を知らない。
俺の名前を聞こうとしない。
いつも、名乗ろうとすると、遮られた。
その、はずなのに。
「儂は、御山のヌシ。御山の記憶は儂に還る。そして、儂自身の記憶は薄れて行く」
俺が名乗った、あいつは、御山に還った。
あの老婆も、御山に還った。
そして、あのヒトの頭蓋骨も。
「カンナの記憶も、そして、あのヒト……ソウジの記憶も、儂の中に埋もれておる」
ご主人様の顔が離れて行く。
俺はご主人様から眼が離せなかった。
顔を、手の甲で拭って、甚平の上着で拭く。
それから、無意識のうちに、その着物の端から、肩へと手を伸ばす。
「綺麗じゃの」
素面のご主人様はそう言って、空を見上げた。
肩に手を置いても、ご主人様は払いのけようとはしなかった。
俺は横顔をいつまでも惚けたように眺めて。
花火が終わる頃、ぐしゃぐしゃに崩れた顔のまま、その頬にキスをした。 (了)