イノシシの国 イノシシ編パート4
四
懐かしい獣道。
枯れ草の向こうに見える樹々も、山肌の輪郭も、昔と何も変わらない。
崖崩れの跡か、時折山肌にごっそりと樹木の膚が途切れている以外は、すべて、色とりどりの紅葉に覆われた地であった。
この辺りでは針葉樹が少ない。
明け方の空気は、冷え込んでいた。
足下でさくさくと霜が音を立てる。
なせの弾む息が、時折白くなる。
バジは獣道から外れて、街道筋に出た。
先程から、違うイノシシの男の臭いが、樹々のこすれた跡や、ぬかるみから匂っていた。
道標に、目を細める。
『至白継山(西の要)』
山の名前が何度も書き換えられた、道標。
西の要と書かれた方が、誇らしげに苔むし、古びている。
バジは、しばし、その場に留まり、どちらに行こうか考えていた。
里はこの山道を越えたところにある。
だが、先程から臭い程、他の男の存在を臭覚に訴える。
『冬』の訪れを待って、集まってくる男達だろう。
なせに会わせたくはなかった。
何としても、『冬』が始まる前に、里長に会い、なせを預けるのだ。
そうすれば、なせの身は護られる。
イノシシの男達から。
そして、己から。
大抵のイノシシの男達が『冬』までの間、忍耐をより上げて、太い綱を心に作り上げ、欲を縛る。
だが、バジの心の中の綱は、もう、今にも引き千切れそうだった。
ヒトがこんなに香しいと、教わった事は無かった。
何もしていなくても、バジの吹かす煙の輪を、傍らで眺めているだけでさえ。
その瞳に媚びを見いだす己におののく。
朝、五穀粥を作ってみたいとだだをこね、水の分量を間違えて、薄い白湯のようなものをこしらえてしまった時の、一口食した際の、何とも言えぬ顔も。
昼、枯れ草で編んでやった藁靴を喜んで、何度も周りを走り回り、しまいには転けて、せっかくの藁靴も泥だらけにして、泣いたと思ったら、いつまでも笑い転げていた、くしゃくしゃの顔。
黄昏時、懐中提灯に照らされた枯れ草の動きに怯えて、ひしと抱きついてきた後、居心地悪そうに、ふいと顔を背けた横顔にも。
夜、寝入った振りをするバジの傍らで、蝋燭入れから蝋燭を取り出し、手燭の明かりをじっと見つめて、動かない小さな背中も。
明け方、泣き濡れている事に気付かずに、目を覚ましてきょとんとしていた瞼の下も。
皆、見ない振りをしてきた。
道草ばかりの旅路は、一日に進む距離はたかが知れていた。
なせだけならもしかしたらその三倍は歩けるかも知れない。
だが、うろうろとする習性のあるバジには、決まった路を行くとはいえ、道程は果てしなく遠かった。
冷え込みは徐々に厳しくなり、なせが暖を求めバジに寄り添って眠る事も増えた。
バジの巨体の腹側に小さく丸まり、無意識に頭をすりつけたくせに、朝、頬に刺さった剛毛が痛いと呟くのには苦笑する。
枯れ草で手足を切り、手当てしてやる事も増えた。バジには何ともない所で切り傷を作る。膿まぬように軟膏を塗り付けてやると、薬が強すぎるのか、熱を出す。
その看病時に、熱に浮かされた瞳でぼんやりと見上げられると、また弱い。
子供なのだ、堪えろと、何処かで頭が言う。
女だ、『冬』だ。痩せ我慢をするな、と肚が言う。
見てしまった。
見なければ良かったとは思わない。
だが、徐々に撚り糸が解けて、細くなっていく。
「ばじさま」
なせの声が、バジの思考の闇を破った。
いつの間にやら、随分と日が上に昇ってきている。
「行くぞ」
バジは、いつもよりさらに深く笠をかぶせると、街道筋を行く事にした。
近道が幾重にも連なり迷路と化している獣道と違い、街道筋はまっすぐ続くが、道はなだらかで幅広く、急な勾配などはない。その分、遠回りをしてゆっくりと坂を上り、坂を下る。
道の横は、草原から、薮へと、変わっていた。
山と山の切れ目に、里が遠く見える。
「あそこが、俺の生まれ里だ」
「ばじさまの……」
なせは背伸びして、山の向こうを見やった。笠を持ち上げて、遠くを見ようとつま先立ちになる。
「見えにくいか」
「いえ……」
それでも背伸びをするなせに、バジは焦れて、ひょいと腰を両腕で持ち上げる。右肩になせを乗せてやると、なせはおそるおそるバジの頭にしがみついて、ようやく均衡をとり、感嘆の声を上げた。
「広うございます」
一瞬、頭部になせの胸が当ったが、いや、実に柔らかい感触であった。
尻も引き締まっていてよい。
そんな事が脳裏をよぎり、バジは仏頂面になった。
「もうよいか」
乱暴に抱き降ろす。
「っ……、はい」
なせは最初抵抗しかけたが、すぐに大人しく降ろされた。
『冬』が始まっていれば、里外れに、検番が立つはずだ。
そこで、里に入る為の手間賃を払い、里長に面会すれば、その里の『冬』に参加した事になる。
もっとも、バジはこの里の『冬』に参加する気はなかった。
疾く、里長にあって、なせの身を保護してもらわなければならない。
その為には、里の中になせを連れていくわけにはいかない。
落ち葉の積もる薮の中。
まだ、こんもりとした紅葉が生い茂る木がある辺りに、バジはなせを連れて行った。
小さな手が、バジの大きな手をしっかりと握りしめているのを感じながら。
「ここで待っていろ」
バジは、樹洞を見つけて、そこに縞合羽を着せたなせを押し込めた。
笠は入らなかったので、外してやる。
「ばじさまは?」
不安げな表情で、なせがバジを見上げる。
「里長様に話をつけに行く。そうすれば、おまえをきっと保護してくださる」
バジは毛深い掌をぽんと、なせの黒髪の頭に乗せて、落ち着かせるように撫でてやった。
「ばじさまは?」
なせはなおも繰り返す。
すがりつくように、小さな手が、バジの着物の端を掴んでいた。
「すぐに戻ってくる。……両目の開いたイノシシの男を見かけたら、すぐに逃げろ」
笠を元通り被せてやりながら、バジは言い聞かせる。
こちらを見上げる視線が遮られると同時に、バジは離れた。
引っ張られる感覚の無くなった着物の端。風に舞う落ち葉。
樹洞からいつまでもこちらを見つめている気配に気付かぬ振りをして、やがて走るように、その場を後にする。
落ち葉を踏みしめる音だけが、森の中に響いた。
「待たれよ」
よく掃かれた道。里境を示す祠の前に立ち、太い木の杖を構えていたのは、門番衆ではなく、普通の顔をしたイノシシの老女だった。
「ここが西の要の御里と知ってのお越しか、それとも『冬』を望む御仁か」
それが顔見知りである事に、バジはしばらくの既視感から気付き、苦渋の面になった。
イノシシの女は体格がよく、子を幾度も産んだ女傑ともなれば、そうそう体も衰えるものではない。
「『冬』にはまだ早いが、名を名乗り、手間賃を払えば、里長に会わせてやらん事も無いぞ」
牙を見せて、警棒代わりの杖を地面に突き立ててみせる。その姿は、変わらない。
噂には、その昔、里長と長の地位を争った事があると言う。
破れてから数十年はその憂さばらしもあり、何も知らぬ幼子のバジは、畑で小腹を満たそうとして、叩きのめされた事があった。
故に、男達とやり合う検番を務めているのだろう。
「相変わらずの業突く張りだな」
バジの呟きに、検番は怪訝な顔をした。
「乳臭さの抜けた男など覚えておらぬぞ」
里には男は殆どの時期存在しない。ましてや会うのはほぼ20年ぶりぐらいである。
「……バジだ。養い親のカスミ様にお目通り願いたい、これでいいか」
バジは、里長様、という名称ではなく、あえて懐かしい名を言った。すでに代替わりをしている程、柔な御仁だとも思ってはいなかったが。
「バジ? あのバジか?」
心当たりがあったのか、検番の顔に驚きが浮かぶ。
「ああ」
逆に、バジの声は低くなった。
「おまえ、いつの間に隻眼になったのよ」
「居ぬ間だ」
検番は少し相好を崩した。
「里長なら、館よ。案内出来ぬが分かるな」
頷くと、低められた声で、釘を刺される。
「されど、おまえとて、『冬』には参加出来ぬ身ぞ」
女がほぼ定住するイノシシ族において、近親相姦は固く戒められている。同じ里の女も、一度ならいいが、二度目は無い。
「うむ」
結局、手間賃は払うはめになり、バジは畦道を急いだ。
乾いた地面に、蹄の跡が食い込んで行く。
なせの匂いが届くように、風上を選びながら進む。
記憶より、用水路沿いの木々が生長している。
畑の位置も若干変わり、見た事も無い場所に家の影が見える。
時折遠くから自分を眺める里人の姿は、見慣れぬ若い衆ばかりだ。
バジと視線が合わぬよう、家の中に隠れる者もいる。
まだ、『冬』の準備は整っていないらしい。
刈り入れられた稲穂も、干されている畝と、積み上げられたままの畝がある。
手が足りなかったのだろう。
それでも、館の位置は変わらぬはずで、バジは視界に惑わされずに歩いた。
里の中ではイノシシの男の臭いは遠ざかって行く。
それは、里の外にいるなせの安全を意味しない。
追われている訳ではない、走る必要は無い、他の女達にばれたくない。走れば急いている己を認めるに等しい。
そんな逡巡が、里長の館に着くまでにバジを走らせずに、常と変わらぬ徒歩にさせた。こういう時は、足の短さが恨めしかった。
長い生け垣を曲がれば、里長の館の庭だ。
何から言おうか、何を告げようか、悩みながら顔を上げる。
ちょうど庭に出ていたのか、それとも、バジの匂いを察していたのか、事態を心得た里長の顔が見えた。
焦りは安堵に変わり、吐息が牙の間から漏れる。考えていた言葉はすっ飛んだ。
「おひさしゅうございまする、カスミ様」
バジは目許を和らげた。
「久しいな、バジよ。クナの便りに右眼を損なったと聞いてはいたが、差し障りは無いか」
着流し姿の里長は、よく似た面立ちの二人の子供を引き連れていた。見慣れぬ双子に、バジは内心首を傾げるも、問う事無く、話を続けた。
「特には」
まだ、あの掘町を離れてからさほど経っていないように思えたが、一月……いや、二月に入ろうとしているやも知れぬ。
双子達は、見慣れぬ男の姿に、里長の後ろに隠れてこちらをじっと見つめている。
今、養い子がいるのでは、なせを預かってくれとは言い出しにくい。
「今度旨い酒を送ってくれるそうだ。お主に預けたのだとてっきり思ったが」
里長の視線が、言い淀むバジの全身を見やる。
そう言えば火酒をもらったが、あれが旨いのかどうか、未だに口をつけてはいない。
正直、なせの前で酒を呑む気にはなれなかった。
「いや、そのようなものは……」
注がれるのは視線だけではない。鼻が、微かに動いているように、思えた。
「そなたらは酒の趣味はさほど変わらぬではないか」
軽口を叩く唇とは裏腹に、里長の眼は細められていた。
思わず、視線をそらす。
もう、己では気付けない、体中に染み付いたなせの匂い。それを嗅がれているのか。
歩く間になせの温もりの消え去った掌を見つめ、里長に視線を戻す。
何と言えば、いいのか。
「……俺はあそこまでは」
言いかけて、里のはずれから強い匂いを感じて、固まる。
ゆっくりと、太い首が里外れを向いた。
同時に、里長の顔色が変わる。同じ方向を、確かに二人は見た。
視界には、穏やかな里の雰囲気。男の気配は、バジ以外には無い。
しかし。
「ご免っ」
バジは一礼し、言いかけた言葉を飲み込み、走り出す。
「待て、バジっ」
風の中で、置き去りにしてきた方向に、耳を動かすと、微かな、音がした。
(……なせ)
往きに走らなかった事を悔いながら。景色は風に消えて行った。
(了)