猫耳少女と召使の物語@wiki保管庫(戎)

狗国見聞録06a

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狗国見聞録 第6話(前編)

 
 
 それは不思議な音程と韻律だった
 
      「イグナ・ロデ・アダマ アダマ・エクサ・メタリカ メタリカ・ウル・ハイドレ
      ハイドレ・リザリス・シルフェ エト・エルア シルフェ・セルケ・イグナ リダーン」
 
 鼓膜を打った意味不明の言葉が、だけど頭の中に直接『理解』として流れ込んでくる。
 
      《"か"もえて"ど"をうみ "ど"うちに"ごん"をふくみ "ごん"おもてに"すい"をはり
      "すい"のぼりて"ふう"をなし そして"ふう"あおりつよむは"か"のりゅうせい》
 
 歌と踊り、言霊と舞踏、世界の法則すら書き換えてのけるような、至高の美声、天上の楽。
 古(いにしえ)の方式に乗っ取った、正当な魔法、本物の魔法。
 
     「ワト・エルア・ルーラ・ダ・ルーレ アルマ・ラ・ロンデ ロンデランダ・ドナ・イセリア」
      《かくてえんかんはなり すべてはまわる ちからをなす》
 
 ……でも、それももう、今のあたしにはどうだって良い事だった。
 
     「フェサテマ・フェルレ フェクス・フェロデ ルナソレ・テラギア アルマダ・ルーランダ」
      《ごげんごぎょう ごそうごこく いんようてんち ばんぶつるてん》
 
 元の世界に帰れない、帰れる確率が絶望的なんて事は、本当は心の底では知ってたんだ。
 だけどあたしは、怯えと惧れ――『弱さ』からそれを正面から認める事ができなくて。
 ……なのにこいつは、それに最後まで付き合ってくれた。
 あたしの勝手な、ワガママに。
 
     《ちにあって てんのした こんとんのはて ちつじょのそと》
     《まわりましたる ちからのはて せんとばんの そうこくのはて》
     《 ことわりをこえし ちからのついに 》
     《われがとりだすは ばんめつのほむら てんじょうのひ》
 
 傷ついて落ち込んでいた所に、差し伸べられた温かい手。
 いわゆる「寂しさにつけ込まれて」の勘違いと、そう理屈づけられも出来たかも知れないけど。
 ……でも、あたしのこの気持ち、こいつのあの温かさは、本物だったと信じている。
 
     《とがびとをやきし てんじょうのじょうえんよ》
     《たましいのくにのおどりてにして しこうのがくかなづる そのはぜゆらめきよ》
     《わがたまよばいにおうじ いまここにきたりて ちにけんげんし》
     《にくをまとい よくにまみれ つみをなし くるしみにくるしむ》
     《このあわれなたましいに そのいだいなるじひ きゅうさいをあたえたまえ!》
     《いみじくも まくろくよごれし このこひつじの たましいとにくを》
     《せめて いっぺんのしろきはいにかえ てんのくにのもんへと みちびきたまえ!》
 
 そうしてそれも今。
 元の世界での全てを失って、だけどたった一つだけ在ったものも今、失われてしまって。
 ……だったらもう、……もう、どうでもいい。
 ……死ぬのでも、生きるのでも、……こいつが居ないなら、そんな世界に。
 
「《天!》」
 
 焦土の上、大気に溢れ、背後の声の主のもとに集まっていく圧倒的な力の渦が、
 …だけど不思議と怖くはない。
 
「《地!》」
 
「…………」
 痺れた声帯に名前も呼ぶ事が出来ない体、それでもそっと横たわった胸に顔を埋める。
 
「《猫!》」
 
 変化していく最後の空気に、せめてジークと。
 犬としてではなく、人としての名前で呼んでやれればよかったなと思った、
 
 
 
 
 
 ……その時だった。
 
「《発げっ――
 
 発せられようとした最期の言葉に。
 …だけど重なるように、頭を埋めた先からポツリと漏れる声を聴いた。
 とても懐かしくてよく知っている、ありえない声。
 
 
 
「《――界破》」
 
 
 
      ※     ※     ※     < 1 >     ※     ※     ※
 
 
 
 刹那、横転した視界。
 
 
 パン という、何か薄い膜がはじけるような。
 ビイィ……ン という、何かバネかコイルかが跳ね上がるような。
 ギャンッ という、金臭い何かと何かが擦れて悲鳴を上げ。
 そうして ドボッ… という、ブロック肉に金槌でも叩きつけたかのような、鈍い音。
 
 そんな四つの音が、同時に響き。
 
 
 
「がウっ!?」
 
 叫び声を上げたのは、あたしでも、雑巾でも、死んでいった野盗達でもない。
 
 慌てて起こした顔に見えるのは……
 ……ビクリッ、と痙攣させた後、くの字に硬直したその細身。
 
 
 ――不傷不動な存在のはずの賢者が、初めて悲鳴を上げて仰け反って。
 
 
 ……刹那、ボッ……、と。
 
 その身体が唐突に、蒼い炎にと燃え包まれた。
 
 そうして白い燐光を降り飛ばし燃え上がる人型の蒼い炎塊に、
 覆い被さるかのごとく、弾丸のようにそこに突っ込んだのは――…
 
 …――被さっていたあたしを跳ね除けて飛び出した――…
 
 
 …――『黒い衣』。
 
 
 
 
 
 抜き払った肘の、穴空き煙の上がる黒の布地。
 上腕に仕込んでいた袖箭(ちゅうせん)より、放ったのは魔導師殺しのクレゴーラ《愚黄鉛》。
 それは希薄になった防御結界の、最も脆弱な一点を破り、
 あやまたずディンスレイフの脇腹を、……おそらくは臓腑を貫いて突き刺さった。
 
 ──この瞬間を、待っていた。
 コンダクターがフィナーレを飾るべく、『大魔法』の詠唱体勢に入るのを。
 恐るべきは四種類の魔法をも同時に並行構築可能と目されているかのトリックスターが、
 それでも有り余るスペックを一杯にさせて、真の処理過多を起こすこの一瞬を。
 
 放った《界破法》が、パン という音と共に相手が巡らした【返し矢の法】を打ち破る。
 ビイィ……ン というスプリングの音を立てて飛び出したクレゴーラ製のボルトは、
 ギャンッ という耳障りな音を立てて、同じく《界破法》により揺らぎ不安定になっていた
 もう一枚の堅固な結界を、半ば切っ先を溶かしながらも最希薄魔力拡散点を貫通した。
 その後に聞こえた ドボッ…という音が、一体何によるものかはこの際言及すまい。
 
 コードネーム:ワンダリングミラージュ。
 自律思考・多重魂載の生体魔導兵器が、中距離支援戦闘用兵器、ティンダロス・ジーク。
 パワーとマジックには劣るが、テクニックとアヴォイダンスに特化した特殊戦闘用個体。
 毒物を嗜み、静殺術を極め、隠行術を操り、卑剣と暗器を武器とする。
 幻術のエキスパートであり、結界構築、特に特殊結界と偏向術のエキスパート。
 …同時にアンチマジック――発動前魔法の構築妨害・ジャミング――の達人でもあり、
 ブレイクフィールド――幻術・結界術・陣術などの分析・破壊――の専門家でもある。
 
 テクニックしかないが、しかしテクニックだけなら全七名の【ティンダロス】中でも随一の腕。
 …魔法の精密操作法と他人の魔法への干渉介入に関しては、誰にも、負けない。
 
 
 
 
 
 起き上がりこぼしみたいに跳ね上がった体。
 壱足で跳ね起きると、グッと大地を踏みしめて。
 更に壱足、踏み蹴った大地には、めり込んだ靴跡さえつけてのけた。
 
 とっさに杖がガードに出されたのはあたしにも見えたけど。
 
 でもそのガードの上から、へし折らんとばかりに。
 
「ガアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアア!!!!」
 
 ちょうどあたしが、あのオオカミの頭目に受けたのと同じような回し蹴り。
 ……しかしボロボロの黒衣、手加減なしの全体重。
 宙に揺らぎ傾いだディンスレイフの腹部に吸い込まれたそれに……
「…ッ! アシナッ!! ルキウ――」
 
 ……次の瞬間、ピンボールの球みたいに、蒼炎に包まれた体がぶっ飛んだ。
 
 ――もっとも。
 だけど一瞬遅れて、ディンスレイフの衣の下から飛び出すように伸びた『何か』。
 それに反対方向、相打ちになるような形で……雑巾の体も吹っ飛んだのも、見えたけど。
 
 
 
 全部五秒にも満たない、僅かな間の出来事。
 網膜に得た情報に、認識と思考が追いついてないあたしの眼前で、
 ――人間、吹っ飛ぶとなればあそこまで飛ぶか――
 …なんて変なところで感心できたほど、水切り石みたく大地に何度もバウンドして。
 
 こちらは土煙を上げて、障害物なしの焦土を転がったまま、
 あたしの後方、もはやほとんど熾炎の失せた暗闇へと消えていった『黒衣』の姿に。
 逆に根元から1mほど、辛うじて焼け残った巨大な大木の根元にぶつかって大きくバウンド、
 ……転がる蒼い炎塊――地の上をすっ飛んでいた『白衣』の動きは、そこで停止した。
 
 
 
――そうして一箇所を残して、あとは星と月の明かりだけになった夜の下。
 
――……あたしはただ、……ただただあっけに取られて呆然として。
――今や唯一の光明たる、その一点のみを見つめている。
 
 
 
「ニャ……ァ……」
 
 ──蒼い。
 ──蒼い炎。
 
 全てを焼き滅ぼす、天上の浄炎、万滅の焔。
 
「ナ…ァアアアアア……ゥ」
 呆然の端に鼓膜が捉えたそいつの言葉では、あたし達に向けられるはずだったそれを。
 ……しかし自分で食らって苦しんでいるのは、他でもない炎を放つはずだったその本人。
 決して誰にも傷つけられないはずだった、不動の【賢者】、絶対の【強者】。
 
「ニャ…ガアァァァァ……!」
 その全身を覆いつくして、なお燃え上がり踊る蒼の炎。
 よたよたとよろめいたその塊の中から、覗くのは舞い上がった白い衣の端と、痛苦の叫び。
 手をついた端、触れた蒼炎、大木の根がごそりと一瞬で白い灰になった。
 
「ウ……ルルルルルルグウウゥゥ……!!!!」
 …そう言えば元の世界での春先の夜中、近所の猫のらしきこんな鳴き声に悩まされたなと、
 そんな事を思い出してしまうような声をあげて、ぼたぼたと飛び散らす蒼い炎、暴れる身体。
「グ…ニャアア……、……ウナ゙ア゙ア゙アアァァァァッ!!」
 ふいに周囲に拡散しつつあった蒼炎が、しかし叫ぶ身体を中心に一気に集まり。
 
 ガッ、と地面に突き立てられた杖。
 
 
「ニャギャアアアアアアアア―――――――――ッッッッ!!!!」
 
 
 ドンッ!!! という打ち上げ花火の上がるような音を立てて。
「……っ!」
 巨大な蒼い火柱。
 天を突き破らんばかりの、蒼光の柱。
 
 それはどこまでも高く、高く、高く闇を切り裂いて飛んで行き――…
 
 …――やがて、静寂と闇に包まれた周囲、残ったのは。
 
 
 
「…ァッ、…ハッ、…ハッ、…ハアッ、…ハ…………」
 どういう原理なのか、淡い光を放っておぼろげにだが輪郭を照らし出し。
 『傷一つ無く』、『煤一つ無く』、そこに在り続ける純白の衣。
「……結界貫通武器に……『毒』……だと…!?」
 ぎょっとして、あるいは唖然と、戦慄に凍り付いて言葉もないあたしに。
 …だけどディンスレイフは、苦しそうに脇腹を押さえて膝を突き。
「……いや、…その前に……!!」
 荒げた息、空いた方の手に印を組んで。
 傷つかないはずの絶対の強者が、どうしてか黒ずんで見えるその顔にと。
「…どうして動けるッ、──貴様ァッ!!?」
 叩きつけられた手、広がった光に、闇の帳が払われて……
 
 
 
「………っ」
 一瞬で真昼の様に明るくなった(《昼光》というとても高度な明かりの魔法だったらしい)
 周辺一帯に、ようやく明らかになった状況、その姿にあたしも息を呑んだ。
 
 だぶだぶの純白コートは、確かに傷一つなく、煤一つなく白のまま。
 
 …だけど中身は、決して無事『無傷』なんかじゃありえなかった。
 
 
 
 顰めた顔、焦げてない髪、…首から上だけは、それでも辛うじて守りきったらしいが。
 無傷のコートの合わせ目の下、上着とズボンは焦げて穴が空きボロボロで。
 覗く表皮は爛れて赤く、黒ずみ水ぶくれになった場所さえある。
 
 中でも両腕が、特に酷くて。
「グ……」
 呻いて開いた手、ベリッ、と。
 同じく溶け傷ついた様子の見えない杖に、だけどこびりついて残ったのはくっついた手の皮。
「ヴ……にぃぃ…ぃ…」
 そんな相手の抑えた悲鳴と痛苦の唸りに、さすがに息を飲むあたしに対し。
 
 
「…猫国が一級の魔法使いだけが用いる『大魔法』と呼ばれる魔法は、極めて強力だ」
 そうして、ザシリと。
「…ただの一個人が用いる魔法ながら、その威力は総じて戦術級、ものによっては戦略級」
 それを呆然と凝視していた、この背後より。
「的確な状況とタイミングで用いられれば、砦一つ、連隊一個さえ壊滅に追い込む力を持つ」
 同じく足を引き摺って、ふらつく足取りを危うげに。
「……しかし、欠点が無いわけではない」
 だけど、そこらで拾ったのか、
「一つ……詠唱及び術の構築に、多大な集中と時間が必要な事」
 先端が砕け、柄だけになった長めの槍に杖突いて、
「一つ……力の大きさに比例して、制御が極めて難しい事」
 冷酷な声。
「そうして一つ、妨害が比較的簡単で、しかも妨害に成功された際のリスクが極めて大きい事」
 機械の声。
 
「『大魔法』詠唱中の魔法使いは、得てして無防備になるのが通常で。
…そうして妨害、特に五行連環による魔力増幅と、術の構築が終了した後、
術のベクトルとターゲットの指定が終了するまでの間に妨害を受けるような事にもなれば……」
 
 あたしのまえに歩み出て、ザンッと地面に突き刺した柄だけの槍。
「…………」
 それでも、そこで言葉を詰まらせて。
 聞こえるか聞こえないかの呻き声、肺からの空気を搾り出しながらも。
「……消し飛ぶのは『敵の砦や陣』ではない、『味方の砦や陣』という事になる」
 だけどはっきりとした言葉。
 鉄棒になった槍を構えて立ったのは、間違いなく見知ったイヌその人だった。
 
 
「ましてや防御結界やレビテーショ――「「…そういう事を…、…聞いてるんじゃ…、…ないッ!」」
 …ただ、その機械的な言葉を、苛立ったように遮ったのはディンスレイフの声だ。
 
 
「なぜ、貴様、そんな身体でっ、動けッ――」
 
      ――……上手な嘘のつき方、知ってるか?――
 
「――っ、……《破幻》ッ!」
 唐突に言葉を切ったディンスレイフが、吐いた言葉、ふいに杖で大地を叩いた。
 生まれるのはまたあの妙な乾響音、歪む空気。
 そうしてそれが襲って包むのは、腹の辺りを大量の血で染め、他にも全身ボロボロの雑巾で。
 
      ――十割十全、全てを嘘にするんじゃない――
 
 だけどあいつの姿は、…僅かにブレはしたけれど、そのままの有様。
「……ッ!! 《三千世界を吹き抜ける、清らな西風に請い願う! 欺瞞と虚飾を吹き払い…》」
 苛立たしげに口内の血を吐いた後、ディンスレイフが杖を回して印を切り。
 
      ――八割の『真実』に、二割の『嘘』――
 
「《…偽りの下、幻に淀むこの世の霧、人の営み、払いてただ全て、真理の光の下に現せ!》」
 叫ぶディンスレイフの言葉に。
 雑巾は思うところでもあるかのように静かに眼を閉じると、ゆっくりとその黒衣に手を掛けて。
 
      ――そうしてあたかも、全部が真実であるかのように――
 
 
「《偽斬飾壊、山海吹風、破幻法ッ!!》」
 
 
 今度こそ印と共に突き立てられた杖、揺らぐ周囲の空気、不可視の『何か』が砕けるのと。
 …雑巾が胸を覆う、もう役目を果たしてないボロボロの黒布を、ひっちゃぶくのはほぼ同時。
 
 
「……悪いな」
 
 姿は相変わらずボロボロで。
 何がどう変わったのかは、一目じゃよく分かんなかったけれど。
「……死んだフリは、オレの一番の十八番なんだ」
 破ったコートの下、黒い金属…鎖帷子みたいなのが見えたのだけは、真っ先に分かった。
 
 
 
      ※     ※     ※     < 2 >     ※     ※     ※
 
 
 
「……『ガル…ヴォルン《輝黒鋼》』、だと?」
 驚愕に見開いたディンスレイフの猫目を、だけど真正面からしかと見据えて。
 
「──茶番は終わりだ、ディンスレイフ」
 
 音も無く地を蹴ったその動き、瞬時にうずくまるネコの前へとボロ布の黒が肉薄した。
 振り抜かれた鋼鉄の棒が、
 だけどディンスレイフのかざした杖に例の如く不可視の防壁に激突、スパークしながら止まり。
「……ちゃ……茶ばッ「「──茶番さ」」
 
 
 
 大魔法の行使と、暴走したそれの押さえ込みにと、一度に大幅に消費した魔力。
 灰になるのは免れたとは言え、それでも余波での全身大火傷、両手の指は焼けて突っ張り。
 脇腹に突き刺さった『クレゴーラ《愚黄鉛》』の鉄矢に、魔法は疎外され、精神は乱され。
 しかもすぐさま解毒したとは言え、ご丁寧にもその鉄矢には、しっかり毒まで塗られていた。
 
 …ごぼっ、とその喉から吐かれた血、押し込まれた棍槌が、
 『攻城兵器でも持ってこなければ破れない』はずの、不可視の壁にめり込みたわます。
 
 
 
――確かに魔法使いの火力は、少数戦闘においても大規模戦闘においても脅威だ。
 
――それほどの魔法使い、しかし滅多にいないのは確かに事実とは言え。
――しかしただの一撃で中隊、大隊を壊滅に追い込むような攻撃魔法を使う者がいる。
――逆にただの一人で、そのような魔法を防ぎまた逸らす、防衛魔法を操り使う者がいる。
――攻撃防御に限らず、他にも『惑乱の魔法』や『迷いの霧を作り出す魔法』も含め、
――優秀な将軍の下で的確に用いられれば、魔法は10倍差の戦力を覆す事もしばしば。
 
 
「人間を、弱者を、地を這う地虫を甘く見た過ぎたな、ビヒモト、コンダクターの大魔法使い」
 
――…が、決して、おとぎ話にあるよう『無敵』ではなく。
 
「だが、どれだけその才が人外で、どれだけ力が異常、どれだけ神具魔導器で身を固めても」
 
――魔法使いが『脆い』というのは、実はあながち風評でもない。
――わずか5%、10%の肉体的損傷を受けただけで。
――しかしその最大出力は、多くの魔法使いで無傷時の半分にも4分の1にも低下する。
――『痛み』のせいで気が散る精神、うまく集中ができなくなってしまうからだ。
 
「それでも貴様は一人の個人、神でも悪魔でもない、ただの肉纏う一匹のケダモノだ」
 
――…つまり、最初の一発さえとにかく叩き込めれば、大抵の魔法使いは一気に弱体化する。
――その『最初の一発』を叩き込むのが、大抵はおおいに難しいのだとしても。
 
「毒を盛られれば苦しむ。 慢心からの油断をする! 欺きに乗せられて錯誤も起こすッ!」
 
――もっとも時には……
 
「そうして、オレにも、殺す事がッ――「「…ハッ! …バカに、する、な」」
 
 
――……例外もいるが。
 
 
 
 がくんっ、という唐突な抵抗の喪失と共に、消滅した魔法の壁。
 のめりこんだそのままの勢いに、ディンスレイフの頭をかち割るかと思われた鉄棒が、
 しかしガキンと……
 
「…口を、慎め、……駄犬ッ!」
 焼け爛れた軟弱そうな腕の先、しかし差し出された杖が怒涛の鉄撃を受け止めて。
 
「このディンスレイフを、誰だと…ッ!」
 詠唱補助器、神器であるはずのカドゥケウスから繰り出された、しかし目を見張る杖術。
 次の瞬間捻った杖が、1.5倍近い体格を誇る黒衣の大男を、実に鮮やかに転倒させた。
 
「…何年、何百年、全ての国! 全ての種族! 全ての愚図共ッ!」
 転倒間際に襲って来た蹴りを、しかし器用に杖と体捌きであしらいながら。
 結界維持に魔力を回していては攻めきれぬなれば、ただそれを解いて全てを攻めに。
 
「大陸、全てを、敵に、回して! しかし生き抜いてきた、存在だとッ!!」
 ……よってもう片方の手に、杖とは反対側に先刻以上の速さで集まる紫色の光。
 一秒と置かず振り払われた左手、骨まで砕けよと叩きつけられた衝撃波。
 
「舐めるなァッ! たかだか50年も生きていない、浅智な仔犬の分際でッ!!」
 地面にはヒビが入り、小石はことごとく弾け飛ぶ。
 
「そこらのたかだか骨の一本ッ、腕の一本飛んだ程度で泣き叫んで、
初歩の魔法すら使えなくなるような半端魔法使いの若造と同列に――」
「それでもっ!」
 
 かぶさる声。
 転がって衝撃波を交わした黒衣を起き上がらせまいと追いかけるように。
 翻した杖の先から《雷の龍》が、ぎこちなく折った指の先から《緑光の巨鳥》が飛ぶ。
 
「それでもその指じゃ、もうそもそも印はロクに結べない!」
 ……しかし両者共、威力はともかくに、以前よりも明らかに形は崩れていて。
 きれいに纏まり切っていないエネルギー、集約が足りず僅かに薄く間延びした格好、
 ヘレスベーグ《緑光の巨鳥》の方に至っては到達前にアンチ・マジック《構築妨害》を受け、
 万全ならば巨木をも両断するそれが、ただの鉄棒の一撃に霧散させられてしまう。
 
「それでもその『魔導師殺し』、クレゴーラ《愚黄鉛》のボルト(鉄矢)を臓腑に受けて、
しかも込み上げる血に喉まで咽れば、最早『物理的に』長大な詠唱は不可能だ!!」
 辛うじて二つ同時、だがしかし荒く粗雑で、そしておそらく三つ同時は無理。
 火傷に痛む体、それでも何とか『それ』を使わずに距離を取って体勢を立て直そうと、
 舌打ちしながらも宙に逃げる事もできずに、大地を蹴って逃げようとするディンスレイフ。
 ……しかしそれでも、相手はそれを許してくれないつもりらしい。
 
「それでも、解毒に数秒要した。…手足の末端、舌先が痺れる程度には十分なッ!!」
「……だっ…まれええぇぇッ!!!」
 距離さえ取れれば、この状態からでも幾つかの強力な魔法も放てるというのに。
 しかしこう距離を詰めてくるのは、相手もそれを分かってやっているのだろう。
 十分な強度の結界を展開しつつそれらの魔法を放つ余裕があった時ならともかく、
 …これだけ至近距離では、巻き込まれるのを恐れて迂闊な魔法も放てない。
 
「…茶番!? …これで終わり!? ……茶番はどちらだ小僧ッ!!」
 ガキンッ、と。
 棒を杖で受け流しながら放った炎鞭、逸らして更に喰らいついて来る相手が忌々しい。
 
「『ガルヴォルン《輝黒鋼》』に、『クレゴーラ《愚黄鉛》』! 仕込み暗器に、多重幻術、
死んだフリ、不意打ちまで使って! …しかも毒に、全部、全部、『演技』だとッ!?」
 そう叫びがてらに氷撃を放ちながらも。
 
 
──しかし血の昇る頭、今から考えれば思い当たる光景は既にいくつも在った。
 
 簡単に、しかもわざと構築が悟れるように乱雑に作っていたあの幻術。
 ……その下に二重、密かにも堅実緊密な幻術を巡らせていたのは、いつからだ?
 返し矢の法に返した短剣を、一本自分の身で受けていた。
 ……思えばあれも、自分が毒使いだと、『毒』の観念を彼の思考より払拭する為の策略か。
 女を守り、動くことも許されない中、攻撃を捌き続ける不器用な騎士を気取りながら。
 ……だがそれも、そんな振る舞いに彼が手を叩いて喜び、のめり込むのを見越した上での。
 そうしてあたかも手持ちのカードを全て使い切ったように見せかけての、偽りの猛攻。
 ……しかしそうやって、『死んだフリ』なんていう興醒めな事この上ない手まで使ってくれて。
 
 
──そうして、全部、全部。
──…全部、演技だったというわけだ。
 
「……ふざけるな、」
 力任せに相手の足元の土礫を巻き上げながら、
「貴様こそ許さん!
 怨嗟を込めて、ディンスレイフは叫ぶ。
 
「何がB+なものか! 評点外だ評点外!!」
 痙攣しながらも女を守り抜いたと見せかけたあの態度も、彼を欺く為の。
 公僕の意地に殉じて、守ってみせると迷子の子猫に笑ってみせた、あの表情も。
「貴様にB+などをやった自分が、今は愚かにも悔やまれるぞ!!」
 信念の為に限界を超えて、奇跡を呼び込んだと見せかけた輝石すらも、全て『見せ掛け』。
 そんな許しがたい『彼の美』、『真の美』への背徳を、この男はしゃあしゃあと、そしらぬ顔で。
 
──偽り、偽り、また偽り。
──嘘で塗り固められての、土台から仕込まれたくだらないトリック。
──とんだイリュージョニスト《ペテン師》だったというわけで。
 
 
「……よくもこのディンスレイフの劇を! …あの美しき『美』に、泥を塗るようなマネを!!」
 あのまま二人美しく死んでいれば、素晴らしいフィナーレとなったのに。
 …それをひっくり返して、屋台骨からぶち壊しにしてくれるようなふざけたマネを。
「…この私の、このディンスレイフが奏でた『美』を汚し穢した罪!」
 そうして彼を欺いたという事もそうではありはしたが。
 しかしあのヒトの少女までをも欺いたというのが、何よりもまず気に食わない。
「死をもってしてもまだッ――「「それでもッ!」」
 
 
 ギンッ、と三度交わされ、ぶつかり弾かれた鉄棒と杖。
 
「……ッ!?」
 
 しかし『その表情』に、ディンスレイフの身体がまた一瞬、別の驚愕に硬直し──
 
 
「…それでも……あいつは助かる!」
「──!!」
 ──その硬直を突かれて、一瞬防御が遅れる。
 辛うじて振られた棒を受け止めはしたが、しかしこれでは『そこまで』だ。
 反応が間に合わない体、するりと合された面に水平に、杖の上を滑って鉄棒が滑り突かれ。
「…貴様はここで死ぬッ! もう誰もお前の手に掛かる者はいなくなるッ!」
 それでも半身反らして。
「がッ――!!」
 しかし捻りこむように突かれた砕けた槍の柄の先端が、ディンスレイフの脇腹を。
 ──…隠し武器から放たれた金属製の矢が深々と突き刺さり、かつ焼け爛れた脇腹を――
 確かに掠め穿って、皮とその下の肉を削り巻き取るような形、…肉片をこそいで貫通した。
 
「『嘘つきめ』と罵られても、『汚い』と罵られても、『醜い』『卑劣な』『興醒めだ』と罵られても」
 傷口に擦り込まれた塩、焼かれて止まっていたのが再度噴き出す出血。
「官憲めと、国家の犬めと罵られても! あいつにも、みんなにも、嫌われ憎まれても!」
 だが、それよりも尚おかしいのは。
「それでも、あいつも、誰も、殺されない! そうしてみんな、明日を迎えられるっ!」
 
 氷の様に無表情なのに、目からは熱い涙を流し。
 小僧のように熱い感情を吐き叩きつけながら、しかし身体は冷酷無比な機械の如き動き。
 
「醜くても、劇場じゃなくても! それでも世界は回るッ、明日は来るッ!!」
 
 …演技にしては、ちぐはぐだ。
 嘘にしては、その目的が分からない。
 殺戮人形・殺戮機械にしては、行動や言動があまりにも人間臭すぎるし。
 そうしてガキにしては、しかし動きは正確無比、一寸も迷いの無い完璧な反応と対応を行う。
 
「……間違ってないだろうが……」
 苦渋と万感を込められて、吐き出されたえぐみのある声。
 だが殺しの機械《キリング・ドール》になった人間は、ここまで熱く青い何かは見せず。
 かといってそうでない並の者ならば、感情を激し、迷いに囚われれば剣先が鈍るのが常。
「……間違ってないだろうがッ!!」
 叫ばれた言葉には、イリュージョニスト《ペテン師》にも関わらず『輝き』があり。
 困惑と好奇心、初めて見るタイプの、珍しい物を見たという想いにディンスレイフは囚われ、
 ……囚われたが、しかし。
 
 
 
「……ふざ、」
 怒気を発し。
「けるなぁッ!!」
 脇腹を抉った鉄棒を掴めば。
 
「《ΝΥΓΗΧΝΑ》ッ!」
 
 一瞬にしてそれは粉々に砕け散り、ただの鉄片と砂鉄に変わる。
 
 
「……そうして、腐った『明日』を招くのか!?」
 指先に灯した薄茶の光、得物を失った相手が飛び退く暇も与えず。
 
「《──爆ぜ飛べ、ラタトーク!》」
 
 ……自分の足元一帯ごと、足場を斜め上方に吹き飛ばしての土塊と岩石の噴き上げ。
 蹴り上げられた砂場の砂の如く、大小さまざまの土石が舞い散るそこに、
 とっさに後ろに跳んだ相手が、しかし流石に巻き込まれて叩き上げられるのを見ながら、
 自身も土石にまみれて、だけどディンスレイフは敢然と在った。
 
 
 
 どうしてこんなケダモノ・悪党がと、挑んで散っていった騎士達の誰もがそう思っただろうが。
 …だけど、『情熱』は本物、『強さ』は本物。
 『美』に生き、『美』に殉じ、全ての者に強く美しくある事を強要し、できない者は踊らせ散らす。
 欲しい物は奪ってでも手に入れ、誰かに道を譲ろうとも思った事は一度として無く、
 邪魔する弱い奴らはみな躊躇いもせずに蹴散らして、それどころか『華』と称して殺してきて。
 そんな他者からすればどうしようもない迷惑野朗で、誰もが唾棄するような極悪人でも、
 ……それでもディンスレイフは、そんな自分が大好きだった。
 
 何かに妥協した事はない。渋々我慢した事も無い。自分を誤魔化した事もない。
 ほとんどの人間が心のどこかに持つ、自己否定、消滅願望。
 …その想いが、だけど故にこそディンスレイフには、欠片も存在してはいなかった。
 
 …そんなの強さではないと言う者はいても、それでも何の躊躇もなく傷つけ壊せる者は強い。
 どんな罵倒や非難にも耳を貸さない、畜生以下の冷たい心を持つ者は、強い。
 間違い歪んではいても、しかしそれでも結果的に『決して揺るがない信念』を持つ者は、強い。
 
 心も、体も、存在も。
 他の何者にも傷つけられず、害されず、奪われず。
 …しかし逆に、誰もが傷つける事を、害する事を、奪う事をためらうような代物すらをも、
 平気な顔をして腕の一振りで、一瞬の躊躇もなく破壊する事ができる。
 
 ……そんな人間は、悔しいけれども、だけど確かに『強い』のだ。
 ……誤った『強さ』ではあっても。忌むべき『強さ』ではあっても。
 
 善だろうと悪だろうと、正義だろうと外道だろうと、関係ない。
 ただ『より強い情熱』、『より強い力』を持った者こそが勝つのだ。
 
 
 
「確かに、間違ってはいない」
 はらりと翻したコートの袖、焼け爛れた腕先の杖に、赤光が宿る。
「……間違ってはいないな」
 吹き飛ばして、距離を取ってしまえばこちらが有利。
 
「《──滅せよ、フレイヤ》」
 
 刹那、闇夜を切り裂く熱線と、着弾点での爆散。
 受け身を取って転がったハウンドが、辛うじて回避するものの爆風に煽られ更に転がる。
 
「……だがそれが何だと言うのだ?」
 仔細な印は組めずとも、指先に宿ったオレンジの光、印を切って紋を成す事は可能。
「間違ってはいない、しかしそれが一体何だと!? ──《ラタトーク》ッ!」
 構築、指定、発動。
 吹き飛ぶ相手の足元の大地、飛ぶ轢弾。
 繰り出される魔法は、それでも強く、それでも速く、それでも精密に。
 
 
──そりゃ、明日は来るだろう。
──放っておいても月は沈んで太陽は昇る、それだけはディンスレイフにもどうしようもない。
 
「…ふざ……ける…な……」
「ふざけてなどいない、ふざけているのは貴様らの方よ」
 
──でも、ただ惰性で巡り来るだけの。
──ただやって来るだけの泥団な明日に、一体何の『価値』があるというのだ?
 
「《駆けよ、クアトール》」
 翻した手より生まれ出でての雷の槍が、蛇の如く空中を疾駆する。
 開いた顎に大地を削って、土煙を巻き上げながら轟音と共にくねり飛んでいくそれに、
 しかし『何故わざわざ槍蛇の形に』と聞かれたなら、ディンスレイフの答えは決まっている。
 
──平和という名の、安穏たる日常。代わり映えのしない、同じ事の繰り返しの日々。
──『創造と向上』、『安定と維持』しか存在しない世界。
──争わず、傷つけず、自然を大切に。…そうして細く、長く、ただ長生きするだけの世界。
──全てがただ世界という時計の部品として、狂う事無く正確に刻まれ来るだけの明日。
 
「《飛べ、ヘレスベーグ》」
 払った左手から放たれる、雄々しくも優美に翼を広げ、鳥の形をした真空波。
 『強さ』と『美しさ』を兼ね備えた、『脅威』と『畏怖』の対象たる魔法。
 多少の無駄や手間が生まれようと、しかしそれこそがディンスレイフが追求せしものだ。
 
──何の美しさも面白さも、何の変動も混乱もなく、ただ淡々と安穏平和に続くだけの。
──…そんな世界、そんな明日に、なんの『価値』が、なんの『意味』がある?
 
「愛している」
 世界を。
「愛しているのだよ、我なりにな」
 人間を。
「…違う!」
「違わぬ」
「違うッ!!」
「違わぬさ」
 
──なれば『哀しみ』、世界に満ち溢れよ。
──ままならぬその現実、非情さに満ち満ちて、無情と矛盾、嘆きと悲鳴は世界を奏でる。
──『怒り』、『憎しみ』、また世界に満ち溢れよ。
──いがみ合いの火花、復讐の哀れさ、憤怒と憎悪の炎により、混沌と流転の坩堝と化せ。
 
「高級果実。果樹の枝にて、より甘き実の為、形の良い物2玉3玉を残して全てもぎ取るか」
 より甘く滋養のある実の結実の為の、『間引き』と『刈り落とし』。
 犠牲の下に成り立った甘き蜜を、しかし人々は本心では求めてやまぬ。
「対して並の果実。形は悪く、味も悪くとも、量数を重視により多くの実を実らせようとするか」
 逆に最低限の飢えは満たし、表面上は目立った犠牲もなかろうが。
 しかし出来上がった物はすっぱくてまずい、ただ腹満たすだけの粗雑の餌。
「…しかしいずれも、『実』を、『果樹』を、愛しているという事には相違有らぬだろう?」
 破壊と選定、命の価値の優劣を肯定するディンスレイフは前者を選び。
 破壊と選定、命の価値の優劣を否定する他の者達は後者を選ぶ。
 それだけの違い、いずれも『人』そのもの、『世界』そのものへの愛は変わらない。
 
──救いようのない『不幸』があるからこそ、その対称として『幸福』は罪深くも光り輝く。
──『醜さ』と『浅ましさ』という掃き溜めの中にあって、しかし『美しさ』という花は儚くも可憐だ。
──泥に塗れた道端の『石ころ』があるからこそ、『宝石』は愛でられ愛されるのだろうに。
──『破壊』があるからこそ、『死』があるからこそ、しかし世界はここまで美しいのに。
 
──なのに何故、破壊を、死を、不幸を、美しさを否定する?
──なぜ弱くも愚か、くだらなき者達は、安心、安定、安穏、安楽に引き篭もろうとする?
 
──全ての者が平等・程々に幸福なだけの、…そんなのっぺりとした世界の、何が。
──『創造』、『安定』だけの、だらだらと続くだけの世界の、どこが良い?
 
「……間違ってはいない」
──選定者が必要だ。
「お前の言う事は、間違ってはいないな」
──裁定者が必要だ。
「…だが、それは結局『ただ間違っていないだけ』だ」
──美しくない方向へとまとまり落ち着こうとする世界を、掻き乱して再度拡散させる者が。
「正しくはない、【真理】ではない」
──誰もが幸福へと向かおうとする中で、敢えて不幸をばらまく者が。
──死と破壊をばらまく者が、登ろうとする者達の足を引っ張って引き摺り落とす者が。
 
「……世界は、彩られなければならぬ」
 
──もっと哀しみが増えなければならぬ。もっといがみ合ってもらわねば困る。
──争い合い、愚かで在り続けてもらわねば困る。手と手を取り合って、賢くなられては困る。
──……そんな事をされたら、世界は、つ ま ら な くなっ て し ま う 。
 
「……『美しさは、全てに優先する』のだからな」
 
 
 
      ※     ※     ※     < 3 >     ※     ※     ※
 
 
 
「《──跳ねよ、トリテューン!》」
 指した杖に煌めいた淡い青、相手の足元から猛烈な水柱が吹き上がる。
 ただの水流と侮る無かれ、まともに受ければ脚の肉は捻れ、骨は砕け、睾丸は潰れ、
 そうして何より、予備動作無しでの足元からの攻撃、回避は極めて難しいが。
 
 ……しかし確かに捉えられて打ち上がった男の姿が、……次の瞬間、かき消える。
 
 ──虚像、まぼろし。
 
「チッ、賤駄な幻をッ! 下がれ下郎っ、《──噛み裂け、フェンリア!》」
 叫びと共に、左手に生まれた揺らぐ群青、しゃらんと翻されれば飛び散る光。
 扇状、放射線状に飛び散るそれが大地につけば、たちまち棘氷、氷の槍枝を地に生やす。
 全身を氷槍に貫き枝で裂き、肉に付着すれば直接氷根で食い荒らす。
 唸る冷気に荒れ狂う大気、瞬時に生まれて氷の槍衾、美しくも冷たい氷狼の下顎。
 
 ……しかし振り返り際に放たれたそれも、虚しくただ宙を貫く。
 
「ッ!! おっ…なじ手を幾度も幾度も幾度もッ! 《──潰れろ、ニッドホーグ!》」
 振り下ろした杖から走るのは紫紺。
 力の圧縮、力の拡散、瞬時に生まれる超重、圧倒的な力の奔流、衝撃波。
 生まれし金気はぶつかる全てを吹き飛ばし……
 
 ……しかしそれも、虚しく何も無い空間を叩いて通り過ぎて行って。
 
 
 ──気配まで持たせての極めて高度な幻体を、一度に三体、別々に。
 ──…なるほど、ただ『技術』だけならば、ひょっとすると自分よりも上かも知れぬと思う。
 ──『力の質』と『量』とでは、遠く遥かに及ばないのだとしても。
 
 
 
 そうしてディンスレイフの第七感の網。
 閉じた目に、反射的、無造作に繰り出した杖ですら、
 しかしまるでそれも幻であるかのように掻い潜られて、杖を掠めての変則的な滑る刃。
 
 ──卑剣。
 斬り下ろすと見せかけて斬り上げ、払うと見せかけて巻き打つ、正道より外れた鬼難の剣。
 敵を『うちたおす』為の『活人剣』ではない、ハナから『ころす』為に突き詰められた『殺人剣』。
 …そこら中に散らばった折れ壊れた得物の数々だ、またどこかから拾ったのだろう、
 高潔な騎士の下や街の道場等では決して覚えられぬはずの剣を、左手の刃で男は振るい、
 
 ……不規則な動きを見せた後、ひゅっ、と、あやまたず喉元に伸びたそれに。
 
 
――バン!!! と。
 喉笛の寸前、じりじりと火花を上げて止まる剣。
 
 物質遮断――対物理攻撃結界の瞬間展開。
 
 生まれた障壁に、刃先の欠けた剣がじりじりと押し戻され、
 …けれどぐっと込められた力、すぐにまた押し込められて喉元に近づく。
 拮抗する力、しかし――
 
 
 
「――勝ったと思ったか?」
 逆手に持たれた左手の剣を受け、すかさず飛んできた右腕の掌をまた突き通させず。
「……勝ったと思ったかと訊いているんだ」
 火花を挟んでの土埃と返り血に塗れた顔に、凄みのある笑みを浮かべて少年は言う。
 
「勝てると思っただろう?」
 喉元に、あと一寸めり込むならば掻き切るだろう、鋼の刃を突きつけられながら。
 満身創痍の大火傷、抉られた脇腹からだらだらと血を流し。
「……ここまで、持ち込めば、勝てると」
 突きつけられて火花を散らす剣と、同じく障壁に触れて火花を散らす霜濡れの右手、
 めり込んで来るそれらに、間断なく結界強度を継ぎ足し補強する作業に手一杯になりながら、
 
 ……しかしそれなのに、老獪なネコの余裕が揺るがない。
 
 
「……若いなァ」
 その手に。
「……言っただろう?  3 0 0 年 早 い と 」
 左の五指と、杖を握った右手の二指に、すぃ、と燐光が宿る。
 
「…二百と七十余年だ」
 
 赤。橙。黄。緑。青。藍。紫。
「…二百と七十余年、私はこの座に君臨し続けてきた」
 指先から伸びる、操り人形のような七色の光糸。
「貴様らの言うS級国際犯罪者《トリックスターズ》として、至高のこの座に座り続けてきた」
 引かれて、散らばされたエレメントが戻る。
「…それを貴様如きが引き摺り下ろせると思ったか? 青二才……」
 撃ち放たれての布石、地にめり込んだ魔法の塊が、ふわりと浮かび上がる。
 
──ダミーとフェイク。
──攻撃と見せかけての布石、あるいは攻撃も兼ねた下準備。
 
「兎の女王や狐の巫女長、ル・ガルの軍やザッハークですら滅ぼし切れなかったこの私を、
貴様如きが討ち滅ぼせると思っていたのかと訊いているのだッ、小僧ォッ!!」
 
 万象、全て指先の動きに操るが如く。
 狩り手であるはずの猟犬に対し、狩られる側であるはずの狡知な老猫の、
 しかし間に挟まっていたのは、『経験』という名前の絶対的な要素。
 奢りにかこつけての不意討ちならば一度まではとは言え、
 しかしそもそも騙し合いと化かし合い、手数の多さと狩り場の支配に置いては、圧倒的に。
 
「…トリック・アンド・トラップは、何もお前だけの得意技ではないぞ…?」
 男はとっさに身を引こうとしたが、しかしそれすらも叶わない。
 高密度の物護結界に飲み込まれた左腕は、押す事もできないが実は引く事もできず。
 ハメられたと気がついた所で、今更何が出来るものか。
 
「そうとも……『魔法使い』とは、かく在らねばならぬものである以上……」
 ──『肉薄すれば接近戦に弱い魔法使いは脆い』。
 ──確かに反面では真実を表すが、しかし反面では風説をも表すと言える。
 ――逆にこんだけ近ければ。
 ――相手の機動力や回避率がどれだけ高かろうと、撃てば必ずブチ当たる。
 ――『捕まえた』のは、彼の方だ。
 
「…見せてやろうぞ、折角なれば。…貴様の軽賤な幻とは違う、本当の幻想をなぁッ!!」
 べっ、っと口の端から血を吐き出しながら、ディンスレイフはニィっと吐き捨てた。
 そうして――
 
 
 印を組めずとも、喉が枯れようとも、クレゴーラ《愚黄鉛》の矢を腹に受けようとも。
 それでも高位の魔法が使えぬわけではない、複雑高度な魔法が使えぬわけではない。
 ただただその場に唱えて放つだけしか出来ぬような、それが魔法の全てではなく。
 
 ……例えば、あらかじめ仕掛けを含まされた魔法の数個を、
 適切な位置、適切な配置、適切な順序で穿ち定められた円陣を為す事で、
 それによって描かれた元素配置と文様によって、複雑なそれの代用とする事も。
 
 
「《――紅火猫、橙土鼠、黄雷蛇、翠風鳥、蒼水魚、藍氷狼、紫金竜……》」
 地面に突き立てた杖に両手を組んで、最後の仕掛けの印を切る。
 相手の男が逆に必死で彼の物護障壁をほどきにかかってくるが、もう遅い、間に合わぬ!
 既に下準備は済ませてしまっていて、あとは組み立てるだけの状態なのだから。
「《集い、ひれ伏せ、我が前に! 我、万象の王、全てを統べ操り、また彩る者!》」
 たとえ追い詰められても、ディンスレイフは『美しさ』を忘れない。
 傷を負っても、罠に嵌められても、それでもディンスレイフは『美しさ』を忘れない。
「《忌まわしき虹の橋! 駆けよ! 曇天を払え!》」
 突き出され、ぐるりと掌を中心に回された手、そこに集まる七色の光。
 フレイヤ、ラタトーク、クアトール、ヘレスベーグ、トリテューン、フェンリア、ニッドホーグ。
 赤の瞬閃、橙の裂波、黄の雷槍、緑の巨鳥、青の水柱、藍の氷顎、紫の重圧。
 7つの小円と1つの大円、8段並列魔導式。
 大掛かりな器具も設備による補助もなければ、記述式起動魔導式の形態を取らずに、
 それ瞬時に組み立てられる力量の者が、大陸中探して何人いるか、それ程の技。
 仰々しくそれを組んで、そうしてディンスレイフは、弓を引き絞るが如く矢先を向ける。
 
 ──本来ならば避けられるだけの隙となる、恐れ慄き、畏怖するだけの間を、あえて与える。
 その時間を与えずにして殺すなど、彼の『魔法使い』としての本義に反するから。
 ──次に何が起こるのか、相手に想像がつくような分かり易い詠唱を、あえて行う。
 優雅に、華麗に、そして恐ろしく。畏怖と崇拝の対象たる、『魔法使い』の本分に乗っ取り、
 
 ……そうして、美しく、美しく、美しく。
 
 
「《極光の美をここに! ―― ビ フ レ ストッ!!》」
 
 
――五行二態による七元混合。
――走り突き抜ける光帯は、遥か天空を翔ける虹の如く。
 
 
 
 
 
 ――勝ち誇ったように叫んだ猫耳ッ子の両手の先から。
 …なんか、アホみたくぶっといレーザービームが出た。
 
 このまま漫画チックなノリで山にも穴開けるんじゃないかって位の、光の奔流、光子の帯。
 
 ……七色に輝くそれは綺麗だったけど、
 そんな強烈な光の通り道の中に、雑巾の姿が飲み込まれて消えたとなれば。
 
 ……悲鳴だって、上がるよ、そりゃ。
 
 
 
 
 
「──はは、」
 爆音。視界を埋め尽くす、眩い虹色の光。
「ははははははははははははははははははは!!!!」
 たまらない。
 相手の土俵に敢えて上がっての、
 しかしそれでも自分の方が一枚上なのだという事実を見せつけての勝利。
 究極の自己満足、しかしそれゆえに、究極的に愉快で。
 ……やめられない。
 これだから弱者の『精一杯』と『一生懸命』を踏み躙ることは、最高に楽しくて止められない。
 
「見たか、我が幻想ッ! 人の畏怖と崇敬の的たる、美しくも華麗な舞台演出!!!」
 平時なら防魔処理を施した一国の王城の城壁にすら大穴を開けるこの攻撃。
 ディンスレイフが長年の苦心の果てに生み出した、美しさと強さを兼ね備えた魔法の一つ。
 傷体にて威力は半減しているとは言え、しかしただの一個人でしかない生身の人間が、
 この近さ、この至近距離で直撃を受けて、原型を留めていられるはずが――
 
 
 
「は……」
 
 ――さく、と喉に浅くめり込む鋼刃。
 
「………な」
 
 ――消えない結界干渉、加え続けられる負荷。
 
「なん、」
 
 ――渾身の力を振り絞って押し返すも、喉にすっと走る赤い線は変わらず。
 
「だとッッ!?」
 
 ――薄れ行く光の向こうから、闇色の黒はそのままに。
 
 
 
 ……アリエナイ。
 ……アリエナイ、アリエナイ、アリエナイ。
 ……ありえない、光景。
 
 
 
「…なぜ、」
 なぜ?
「…なぜ、なぜ、なぜッ、なぜッ!」
 なぜ??
「なぜッ! なぜッ! なぜッッ!! なぜッッッ!!!」
 なぜ!??
 
 
「なぜだっ――「「……分かっている、はずだが」」
 
 
 ばちばちと物護結界への負荷による火花が散る中、男が薄くか細い声を出す。
 しかし干渉してくる力は衰えず、込められる力もまた衰えず。
 
「――貴様の魔法は、どれもこれも、『派手だが荒い』」
「ッ!!!!」
 
(……ばか……な……?)
 何かの魔法を使おうとした。
 雷の槍を撃ち出そうと、風の巨鳥を飛ばそうと、あるいは絶対零度の牙種を飛ばそうと。
 …いや、そもそももっと簡単な、初級の魔法、火球や氷柱、石礫を飛ばそうと。
 
 
 ――でも、無理だ。
 
(……ばか…な!!)
 ぎりぎりの。
 …ビフレスト《虹橋》を放ってしまった今、本当にぎりぎりの力。
 ほんの少し何かに注意を裂いただけで、迫った刃が喉を切り裂く、結界が貫かれる。
 全てを防御につぎ込んで、浸潤される傍から補強し直して、しかしそれで精一杯。
 
 ――追い詰められている?
 ――この操り奏でる者であるディンスレイフが?
 ――…たかが50年も生きていないような、こんなイヌの小僧ッ子に?
 
「…速さで騙されそうになるが、しかし1つ1つを見れば、割り込みをかけるのは結構簡単だ」
 どこか遠くから聞こえてくるような言葉。
 怒りよりもまず先に、本日初めて、『美』以外の何かに対して混乱する。
 
 ありえない、ありえない、ありえない。
 ……ありえない事が、起きている。
 
「…あの鳥の形の大真空波を、何度も見せたのが悪かったな」
 理屈は、簡単。
「あれだけ打ち消して、この身体をその代わりに見立てて術の中に割り込んだ」
 極めて優れたトリの魔法使いが、風元の魔法を完全に無効化し。
 極めて優れたサカナの魔法使いが、水元の魔法を完全に無効化するのを見た事がある。
 己自身を『風』や『水』に見立て、向かってくる魔法に波長を合わせる事で『すり抜ける』。
 風にそよぐ葦のように鎌鼬をすり抜け、水に揺れる海草のように海嘯を越え、
 ……まるでカメレオンのように、つまりはそれの応用。
「…自身の構成要素自体を傷つけ崩じさせる魔法など、あるまい?」
 だが、理屈は理屈だ。
 『出来る』『出来ない』は、それとは別の次元にある。
 
「バカなッ!」
 火元同化、水元同化、土元同化、風元同化、金元同化。
 猛火の中をも歩き、呼吸なしに水の中を歩み、土中をすり抜けるも可能とする超上級魔法。
 あるいは視覚だけを欺く低級幻術や、五感全てを欺く高等幻術ではなくて、
 その更に上に位置する、世界に対して己の存在そのものすらをも欺く最上級の真幻術。
 
 ……使えるわけがない。
 ディンスレイフでさえ、その域に至れたのは行に行を重ねて齢100を越えた辺りから。
 それをこんな、その次元の魔法をこんな、50年も生きていないような若造が。
 
「それに…どれだけの力量と膨大な魔力が………!!!?」
 言って、見上げて覗いた相手の瞳、…初めてそこで気がついた。
 
 ぎしり、と。
 また押しやったはずの剣先が、自分の喉へと迫ってくる。
 
 
 
「…なん……だと…?」
 
 『演技』なのだと思っていた。
 尽きたと見せかけたあの魔力枯渇も、そうして起こしたあの重度魔素中毒の症状も。
 全て全て。
 
「…おまえ、…なぜ、動ける…?」
 
 だってあれが現実ならば、この男が今こうして動けるはずもない。
 重度魔素中毒の症状を併発したままの状態で、更に魔法を使える人間がいるわけがない。
 
「…そっ、その身体で、なぜ動けるっ!?」
 
 しかし覗いた瞳は――毛細血管が破裂しているのだろう――赤く充血し、
 そうして改めて『視て』みれば、確かに魔力は尽きていて、さっき見た時と同じまま。
 
 ……死体が動くのと同じくらいありえず。
 心の壊れた人間が正気の思考で理性を保ち続けるのと同じくらいありえず。
 だとすれば今彼の目の前にいるのは、──イヌの形をした、イヌでないモノ。
 
「なんでッ、なんで動いているんだッ、きさまぁっ!?!?」
 
 
 並の心の持ち主なら……いや、例えどれほど強靭な心の持ち主でも、
 できるわけが無い事を、不可能な事をこの男はしている。
 ……彼ですら。
 ……このディンスレイフですら、しかし肉纏う身、ネコである以上、不可能な事を。
 
 …なぜ、壊れない?
 …なぜ、弾けない?
 重度魔素中毒どころか、それすらも越えて。
 発狂すら通り越し、ぽしゃんと心がはじけてしまうだけの、そんな器の限界量すらを越えて、
 この男は魔法を使っていて、使い続けていて。
 
 もはや、身体中の穴という穴から血を噴いて倒れてもおかしくないだけの酷使。
 細胞の一つ一つがはじけ飛んで血漿になってもおかしくないだけの酷使。
 ……なのに、なぜ?
 なぜ立っている? この男は?
 
 奇跡を越えた奇跡、ありえない光景に、そうやってディンスレイフは狼狽し。
 
 
「――そういう風に、『造られた』からだ」
 だけどぼそりと洩らされたその言葉に、はたと思い至った。
「…造、られ、た?」
 混迷に差す一筋の光に、だけど目の前の現状が思考の凝結を許さない。
 傷の手当ても出来ぬ中では、黙っていてもやがては押し切られるこの拮抗状態。
 …これほど死を身近に感じたのは、何十年ぶりか。
「……今日ほど、この呪われた身体に、感謝した事は、ないよ……」
 無表情な顔の中、目だけがどこかとろんとしているのは、
 これも過度な魔法の行使による、精神の極度な不安定化の代物だろうか。
「…普通の人間なら、前に立つ事すら許されない程の、強い存在である、お前の前に、」
 人間であるのに人間でない、機械であるのに機械でない。
 ……人の心を保ったまま、機械の行動を行う者。
「……だけど、立って、」
「まさ…か…」
 生まれた帰結。
 ありえなくも、しかしそれしか考えられない結論。
「貴様ッ――「「そうして、殺せる…ッ」」
 
 
 更に一歩踏み込まれ突き込まれた欠けた刃に、歯軋りして杖を合わせる。
 このままでは確実に競り負けるという、その事実。
 …それでも長年培った勘と経験が、最善の行動を選択する。
 
──杖でもって結界の内部、喉元にまで突きつけられた刃を押し返す。
──まずはそうしなければ、いかなる行動も取れはしない。
 
 杖に引っ掛けた刃、腕に力を込めて。
 そうして外側へと押しやった腕に、……しかしほんの少しだけ結界の密度が緩んだ。
 腕力では勝る相手の刃を押し返すのに、必要に迫らせてつけなければならなかった緩急。
 
 押し返された左手の剣に対し、男の右腕が大きく振りかぶられた時も、
 だからディンスレイフは即座には対応を取らなかった。
 
 利き手に剣を持つ事すら叶わぬ、霜に覆われてズタボロの右腕。
 そんな腕での拳打、掌打など、たかが知れていると。
 
 
 ──うなりを上げて殴りつけられた結界に波打ちが走った時。
 ──だからディンスレイフは、その猫目を見開いた。
 
 
 
 叩きつけられた右腕の、軋んだ肉の音、ぶしゅっ、と嫌な音を立てて噴き出す血。
 
(……ばかな)
 
 ──人間の身体とは、決して『機械』や『道具』のようには出来ていないのだ。
 
 痛覚を初めとした余計な自己防衛機能が存在するせいで、
 ほんの8分の1、4分の1が劣化・損壊しただけで、皆悲鳴を上げてもう動けなくなってしまう。
 恐怖や動揺に惑わされて、常にクリアで冷静な思考を保つ事ができる人間はいない。
 いかに剣技・体術に優れていても、心が弱ければ何にもならない。
 100%の力の発揮を、しかし全てが邪魔をする。
 痛み、恐怖、心の弱さ、捨てきれない躊躇い、…人である証、無意識の防衛反応が。
 
(……ばか、な)
 
 無意識のリミッターが、脳細胞の過剰行使、魔法の過剰行使に制限をかける。
 無意識のリミッターが、筋肉の過剰行使、神経物質の過剰分泌に対して制限をかける。
 人は自分でも意識していない所で、自分の身体に制限を持たせて行動しているのだ。
 …100%の力の代償に、自身が壊れてしないよう、二重・三重のプロテクトをかけて。
 
 
──だから痛みも恐怖も感じない、壊れるまで戦い続ける事ができる不屈の兵士。
──肉体を100%余す事無く酷使して、完全に損壊するまで命令に忠実に動き続ける駒。
──戦術・用兵に携わった事がある人間なら、誰もが一度は夢想する存在で。
──…そうして少なからずのそれを目指した者が、しかし出来上がった『物』に失望した。
 
──生まれた物は、ジン《人工精霊》やゴーレム《魔法人形》と何も変わらない代物。
──『心』を壊され、『心』を消され、しかし出来上がった単なる肉でできた機械。
──心の機能の幾つかが麻痺しまた欠損したせいで、知性と状況判断能力は低く粗雑で。
──人間の強みたるアナログ思考は失われ、ただ命令の通りにしか動けない。
 
──そうして誰もがそれに匙を投げ、それに見向きもしなくなった時。
──それでもそこに目をつけて、そうして『とある疑問』を思い浮かべた者達が居た。
 
──『ならば、心を持った機械を造ればどうだろうか?』
──『痛みを忘れず、恐怖を忘れず、しかしそれを越えて動ける機械は造れないだろうか?』
 
──【1/fの揺らぎ】……高度な知性と人間らしい状況判断能力を失っての殺戮人形ではなく。
──それらを維持したままで造られる、『人心持つ機械』、『人の範疇を越えた人間』。
 
 
 
 ──パンッ、と。
 ……自分の利き腕が壊れるのも厭わずに、
 『意図的にリミッターを外して結界を殴りつける』という暴挙を為した男によって。
 
 ──しかし風船が破裂するような音を立て、不完全だった物護結界が再び破れ崩壊した。
 
 コンマ何秒かの世界。
 側頭部が殴られて、そのまま首の骨が折られるのだけは辛うじて回避したが。
 それでも右肩の関節に滑り込んできたその拳打、
 そこまでを回避する余裕は、その時のディンスレイフには存在しておらず。
 
 ──肩の骨が砕ける音。
 
 三倍詠唱の杖、神器たる双蛇杖がするりとその右腕から離れて飛ぶ。
 
 
 
「──ッガ!!」
 
 ダンッ!!! と。
 
 殴り倒されるがままに、木切れや土埃を上げて地べたに叩きつけられる小柄な身体。
 すかさずのし掛かって馬乗りになる獣人の大男の左腕には鋭利な剣が握られており。
 
 傍目には、どうみても暴力の現場。
 しかし確かに、二度目に打ち破られた大魔法使いの鉄壁の守り。
 
 滑るように走った銀閃が、間髪置かず倒れた少年の喉元へと迫る。
 叩きつけられてバウンドしたところを、さらに重圧をかけられたマダラの少年の身体。
 地に仰向けに寝転がらされての、虚ろな瞳が乱れた前髪の間から覗き──
 
 
 
 ──跳ね飛んだ。
 
 
 
      ※     ※     ※     < 4 >     ※     ※     ※
 
 
 
──カンッ、カランッ、……と。
──玩具みたいな双蛇の杖が、乾いた土と炭化した木切れの上を転がってく中で。
 
 地に打ち倒された華奢な少年に圧し掛かって、そこに雪崩落ちる銀閃と黒塊が。
 
 ……だけど熱した油に触れた水みたくに、『跳ね飛ばされた』。
 
 
 パァン!という軽い衝撃音。
 覆い被さるところだった身体を跳ね上げられて仰け反らされ。
 それでも後ろに反り返らされたままたたらを踏む雑巾。
 打ち倒されたままのディンスレイフ。
 
 …完全に何が起こってるのか分からないあたしの目に、そんな二人の姿が映った後。
 鼓膜に満ちるのは、地獄の底から響いてくるような低い声。
 
「──アシナ」
 コートの合わせ目の下から飛び出て、刹那うねった白鞭のようなもの。
 たたらを踏んだ雑巾が、それに思いっきり吹っ飛ばされて。
「──ルキウスッ」
 白の後、更に伸びた黒い閃光。
 吹っ飛ばされた雑巾を、そいつが更に突き飛ばす。
 
 
 
 
 
 肉体の『損傷率』は20%弱。ただし『消耗率』が60%超。
 限界ラインを無視しての魔法行使による精神汚染は、ティンダロスである彼でも無視できない
 レベルに達しつつあり、もはや累魂への並列負荷分散を行っても処理に余る程。
 痛覚を麻痺させ、錯誤する神経を魔力で無理矢理繋げ正常化させての強制的な戦闘続行。
 
 ──しかし、それでも、まだ戦える。
 
 壊れていないなら、道具は、機械は、まだ動き続けられる。
 たとえどれだけ辛く苦しくて、肉を切られて骨断たれても、
 …それでも動ける以上、課せられた任務を果たし続けるのが『機械』の仕事。
 壊れるまで戦うのが道具、そう造られたのが『道具』の意義。
 ……『人』が『獣』に対抗する為、造り出されて握らされた、文明の利器たる叡智の器物。
 
 ……ティンダロス・ジークは、戦闘行動を続行しようとした。
 
 振り下ろされた白い鎌を、左手に仕込まれた輝黒鋼の手甲で受ける。
 叩きつけられた大質量の黒い体当たりを、半分食らいながらも受け身を取って軽減する。
 すぐさま体勢を立て直したところで、顎の向こうに輝く緑の光と黄緑の光。
 
 ──毒のブレスと酸のブレス。
 
 双方向からの交点に自分を置いた二次元扇状攻撃、跳び転がっての回避は不可能と判断。
 地に手をついて前方を見据え、ディフレクション《偏向》による回避実行を試みる。
 
 次の瞬間、ジークのいる場所だけを避けて周囲を抉り削っていく濃密な瘴霧の奔流、
 …地が焼け土が煙を上げる音と匂いに、口元を押さえてただただ地に伏した。
 
 酸霧と毒霧の嵐、一息でも吸えばどうなるか分からず。
 ……分からずとは言え、それでも体内酸素量が限界に近いのも事実だった。
 未加工魔素による過剰侵食によって朦朧とする意識、
 マインドリンクのチャネルを変更しようとするが、どれに繋げても似たような状況だ。
 
 それでも戦闘続行、続行をと。
 
「──《インプロージョン》」
 晴れた視界の切れ目に飛び込むよう、大地を蹴ろうとしたジークの身体を、
 『何か』が内側からはじけるような衝撃が襲った。
 
──正体不明攻撃。
──回避不能。
──詠唱妨害・構築妨害不可。
 
 
 
 
 
 『何か見えない力』に弾き飛ばされて、大地を転がる雑巾の姿。
 
 ──バケモノ──
 そうしてそんな表現が最も的確なものが、その反対方向にゆらゆらと存在している。
 
 しゃらり、しゃらりと。
 関節と毒毛を蠢かして、翻るのは『白』と『黒』との二本の影。
 それはディンスレイフの影から、どういう理屈なのか ずるり、と伸びて。
 
 
(…う……わ……)
 
 ……絶対おかしい、ありえない大きさの、白いムカデと黒いムカデ。
 
 
 うねうねと影より伸びて宙をうねるそれは、はっきり言って気持ち悪い。
 ムカデはムカデでも、ここまで大きくなれば最早東洋でいう所の『龍』を彷彿とさせる巨躯。
 虫らしい毒針と、ムカデの癖にやたらと綺麗で硬そうな白銀と黒曜の甲殻で覆って。
 
《――お呼びで? ディンスレイフ様》
《――呼んだかー、ディン公ー》
 
 …どうやって発声しているのか不明だが、人の言葉まで解して放つ。
 
 そうして、白い方のムカデは死神のそれを彷彿とさせるような鋭い大鎌の両腕を持ち、
 黒い方のムカデは、棍棒をも彷彿とさせる巨大な突撃槍めいた両腕を持っていて。
 ……自然界の生き物じゃないのは、おかげで一目で理解できた。
 
「……巫蠱……、式、鬼……」
 這いつくばったままの雑巾が、掠れた声でそんな言葉を漏らす。
 
 
 
 ──でも、それよりもっと怖いのが。
 
「……そういう泥臭い呼び方はやめてもらおうかな」
 ムカデの胴体にくるまれ抱えられて、そっと大地に立ち降ろされるずたぼろの少年。
 
「……サーヴァント《使い魔》と、言って欲しいもんだよ」
 ただ立って、それだけなのに。
 
「第一、お前の兄弟だろう? …なあル・ガルの多重魂載兵器?」
 飛び掛ろうとした雑巾が、次の瞬間『見えない何かの力』に再度跳ね飛ばされる。
 
 ――……何か、おかしかった。
 
 ――明らかに空気が、なんか異質なものに。
 
 
 
 だらりと右腕を下げたまま。
「《…………万年の氷よ、時を閉ざせ……》」
 ビッと伸ばしたのは、つややかだったそれが跡形もないボロボロの指先。
 端から血を流す唇が蠢いて、それでも美しい言の葉を紡ぎ。
「《……悠久の牢獄ここに在り、出でよ晶檻の伽藍、》」
 今度は何が起こるんだと、思わず身構えたあたしの目の前で。
 
「《天晶獄!!》」
 
 バリン、と。
 俯いて表情の見えない顔。
 真横へと大地に水平に伸ばされた左指先。
 地から伸びた八本の氷触手が、その空間を飲み込むかの様に ばくん と閉じて枝を生やし、
 氷で出来た丸い鳥かごを成して、辺りに鋭い冷気を充満させた。
 
 ──…『何もない空間』を、ただ無意味に穿ち捉えて。
 
 
 
 ……そうして、ただ静寂。
 
《……ディン、スレイフ、様…?》
 ──高く、控えた、女の声だった。
 不可解な行動に困惑するように、彼を支える白ムカデが疑問の声を発し。
「……美しいだろう?」
 でもそれを無視するように、ディンスレイフが陶然としたような声を漏らす。
 
 そのまま周りの全てをただ無視して、生まれた氷の牢獄へと歩を向け始める。
 そんな無防備な様に飛び掛ろうとした雑巾が、
 だけど無造作に払われた腕のただ一振りでもって弾かれた様に吹っ飛ばされるのが見えた。
 
 …その場を覆う、絵本の中のような、薄く、冷たく、ぺらぺらな空気。
 
 
「…なぁ、『美しい』だろう? この魔法は?」
 やがて氷の檻の前に立っての、そんな言葉。
 どこか場違いで、意図の読めない言葉ではあったけれど、
 …でも確かに、その『氷の檻』が綺麗なのは事実だった。
 
「…相手の足元から伸びた八本の氷柱が、閉じる花弁のように対象空間を包み、
結弁した後は八氷柱より相互に枝を伸ばして相手を氷の檻に閉じ込める……」
 洞窟の中で光を発する水晶のように、夜の闇で輝き励起する光る氷。
 見事に形作った丸鳥篭の型も含め、まるで美術品としての氷像のような美しさ。
「水行より発しての氷属、その中でも美の具現、触れれば手焼けし万年氷晶による氷の檻。
…光を反じてのこの煌めきも何とも素晴らしいが、《天晶獄》という術の名前も実にいい…」
 
 美しい。
 美しい。
 …美しい?
 
 
 ……そうしてあたしは、ふと思い至った。
 
「…『美しい』」
 
 あの『炎の蝶』も。『八匹の雷龍』も、『九本の炎尾』も、『氷の花畑』も、『万色の水弾』も。
 『炎の熱線』・『吹き飛ぶ地面』・『雷の槍』・『緑の光鳥』・『水の柱』・『氷の顎』・『紫の衝撃波』。
 そうして『天から降り注ぐ光の雨』、『万象を貫き翔ける虹』、『全てを燃やし尽くす青い浄炎』。
 
 まるでアニメかマンガ、ゲームのように『演出過剰』、『見た目重視』の『華美な魔法』で、
 叙事詩《サーガ》や歌劇《オペラ》の、正義や悪の魔法使いが使う『派手な魔法』と大差なく。
 
「…そうだ、実に『美しい』んだ」
 
 ──だけど全て、美しかった。
 ──まず美しいという事が大前提にあって、その上での強さが形作られていて。
 
 
《おいディン公――「「 《 ── インプロージョン》」」
 白ムカデとは対照の、低く、どこか軽い男の声。
 黒ムカデの口鋏から洩れるそんな声を無視して、だけどディンスレイフがポツリと言う。
 
 ……瞬間、雑巾の身体がまた跳ね飛んだ。
 
 
「……では、これが『美しい』か? なあイリュージョニスト、《インプロージョン》 」
 
 振り返った少年の、およそ見た目とは似つかわしくないその声調に、
 だけど雑巾の大きな体躯が、三度紙切れみたく、ゴミ屑みたく吹っ飛ばされる。
 
「……『美しい』かと聞いているんだ、なあ毒使いの暗器使い? 《インプロージョン》 」
 
 叩きつけられる『見えない力』。
 跳んできた鉄球か何かにぶつかった見たく、雑巾の身体が四度目に跳ねて。
 
 
《……。……ディンスレイフ様、失礼ですがどうか頭をお冷やしに――「「ああ、そうそう」」
 淡々とした、だけど冷静な白ムカデの声を遮って、白けたような声。
「別に『インプロージョン』と、わざわざ魔法の名前を逐一発してやる必要もないんだよ」
 そんなディンスレイフに、だけど蹲った雑巾が、刹那諦めず地を蹴って……
 
「イ」
 ぴっ、と握った状態から立てた親指。
 飛び掛った体勢のまま、雑巾の身体がバチンと跳ねてその場に迎撃された。
「ン」
 立てた人差し指、右腕が見えない何かに跳ね上がる。
「プ」
 中指に、左腕がまた跳ね上がる。
「ロ」
「ゥっ」
 薬指に、右腿が内側から爆発したみたいに ぱん と膨らみ波打って。
「オ」
「グッ」
 小指に、左腿もまた同じように何かに打たれ。
「ジョンッ!」
「ガッ!」
 そんな出来そこないのマリオネットみたいに踊らされた身体が、
 最後に振り払われた左手、思いっきりぶっ飛ばされて後退させられた。
 …無表情で悲鳴一つ上がらなかった雑巾の喉から、初めてそこで本物の悲鳴が漏れて。
 
 
「……美しいか?」
 だけどもう一度、ディンスレイフがそう訊いた。
 目の前に這いつくばって転がされた雑巾に相対し、しかしどこか虚ろな目を虚空へ向けて。
 
「…こんな魔法の…しかしどこが美しかった…?」
 しかし雑巾に向かって向ける指、その先で再度跳ね飛ぶ身体。
「こんな『白ける事極まりない最強魔法』の、どこが美しい、言ってみろ…!」
 ただ指を一本立てただけで、雑巾の身体が面白いように飛び跳ね、苦悶の声が上げる。
 
「『派手だが荒い』だと!? 『無駄が多い』だと!?」
 あまりにも圧倒的、あまりにも絶対的で。
「では『ただ強いだけ』の、『ただ効率がいいだけ』の魔法の、何が美しいというんだァッ!!」
 だけど逆切れの、にゃんこ野朗の言葉。
 
 
《うわ、ちょ、やば、アシナやばいってこいつ……》
 背後で慌てる使役獣の声すら耳に入っておらず、激昂にただ目前の男にだけ注意が向く中。
 
《……完璧キレてる、目据わっちゃってるぞオイ》
 そんな黒ムカデの妙に場違いな声だけが、どういうわけかあたしの耳によく入った。
 
 
 
 
 

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