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茨でも巻かれたかのように、全身に酷い痛みが走っていて、いつまでも眠っていられなくなってしまっていた。 意識が覚醒状態になると同時に、頭も痛み始める。頭蓋骨のすぐ下に張り付いているようなものと、こめかみを繋ぐように一直線に貫くようなものと、両方である。 あまりの苦しさに何かを考える余裕もなく、レムは目覚めると同時にきつく体を抱きしめた。 頭どころか、体中が裂けているかのように痛い。ひょっとしたら、原形を留めないほど八つ裂きになっているのではないかという気さえした。 少し落ち着いてきた頃、木の床の上に転がされていることに気がついた。一応毛布も用意されている。 どこかの建物の中らしい。遠くから、何かしら言い合っているような気配が伝わってきていた。 声に耳を澄ませようとして、体を動かしただけで痺れに似た痛みが神経に走る。 どうやら、アラバと意識を繋いでいた時に燃えるようだった神経系が、傷ついているらしかった。 丸まって、毛布を頭から被る。 誰かに拾われたのだろうが、拾った相手が善意だとは限らない。 バノンの言うとおりであれば、女の不足している北方では行く末が決まったようなものではないだろうか。 逃げようにも、体中が内側から痛んでいるせいで、体に力を入れることさえ大仕事だった。 なんとか騙し騙し体を起こしてふと横を見ると、誰かがいた。 小さい顔の先端に、小さな鼻がついていて、顔の割に長いひげが細かく動いている。 折り畳んだような耳も小さいが、顔の大きさから比べれば大体ちょうど良いサイズなのだろう。丸くて大きな目がくりくりとこちらを見ている。 声を出そうとして、肺が軋んだ。息が詰まって失敗する。「お。姉ちゃんお目覚め?」 鼠だ。 話には聞いたことがあるが、確かに小柄だった。 決まった国を持たないがために、大陸のどこにでも現れるらしいが、狼の領域で鼠がいたと聞いたことはない。とすれば、想像以上に流されてきたのだろうか。 少しずつ考えを落ち着ける。バルフィンを打ち倒し、川に飛び込んで流されたことも、よく覚えている。 手足はきちんとついているところを見れば、無我夢中で走っている間に斬りかかられることはなかったらしい。 鼠は、何やら楽しげにレムを見下ろしている。「なんかよくわかんないだろうけど、今からサル兄呼んでくるからね。聞かれたことにはちゃんと答えてよ」 体を動かすのが楽しくてたまらないという雰囲気で、扉を少しだけ開くと、鼠はするりと扉を開いて出て行った。 鼠は、もっと臆病だと聞いていた気がする。いくらレムがまともに動けないとは言え、今の鼠は随分気軽な雰囲気であった。 悪い奴ではなさそうだと思った。 再び開いた扉から現れたのは、軽薄そうな若い狼である。やや赤みがかった毛並が少々乾燥している。 その後ろから、赤毛より頭一つ分くらい背の高い、角の生えたいかつい頭が出てきた。 黒っぽい輝くような見事な筋肉に、圧力のある眼が光っている。体格はかなり大きく、これくらいの大柄な者は父くらいしか知らない。もっとも、牛自体見るのは初めてだった。 父と同じくらいの牛に驚くべきか、牛と同じくらいの父に驚くべきか、一瞬迷った。 気がつけば、牛の足元に先程の鼠も姿を現している。「よーう、お目覚めかい」 赤毛の狼が、顔つきの通りの軽い調子で声をかけてきた。 レムは、咄嗟に剣を探した。 言うまでもなく、あるわけがない。バルフィンに奪われた蛮刀は戻ってきていないし、誰かもわからない相手と一緒に武器を寝かせておく馬鹿はいない。 もし相手に害意があれば、絶体絶命である。鼠は悪い奴ではなさそうだったが、この状況が恐ろしい。「連れてきたよ。サル兄だけでいいっつったのに、タル兄も来ちゃったけどさ」「おいチュー助、なんで俺様が来ちゃいかんのだ」「そういう台詞はおめーのイカツいツラをちっとはお子様向けにしてからほざけ」 赤毛は結構口が悪い。いい印象は抱かなかったが、モノマの盗賊たちのように、相手を見下す意図は感じられない。そこだけは好感を持ってもいい気がした。「おめーは狼だな。一応色々診させてもらったけどよ、体に異常なしだ。荷物は見つからなかったからな、なんかあっても諦めてくれよ」 赤毛の頭越しに、牛がレムを見下ろして不満げな顔をした。「なんだこいつ。兄貴、こいつさっきから黙ってばかりではないか」「そりゃタル兄の顔が怖いからじゃないかね」「何だとこのネズ助やる気か」「サル兄助けてくれえ、タル兄が牛のくせにオイラを食おうとするぅ」「おめーらうっせー」 赤毛に叱られて、牛と鼠は渋々口を噤む。どこかで聞いたようなやり取りだが、あの時に比べて格段に和やかだった。「安心しろ、別に取って食ったりしねえよ。俺はサルヴァ。返し屋の頭張ってんだ。こっちの牛がタルヴィでこっちの鼠はザリチュ。あともう一人ババアがいるんだけどな、今取り込み中でよ。後で連れて来るわ。ってかタルヴィおめー、ババアについてろっつっただろ。何やってんだ」「俺様がいると連中がビビって話にならんと言われてな」「ビビッてって言うより、タル兄はすぐ暴れるから話がまとまらないんだよ」「何だ、何か変か」「いやもういいよ」 ぽんぽんと機関銃のように話が進んでいって、レムはしばらく知覚系の痛みも忘れてぽかんとしていた。「返し屋?」 聞き慣れない単語を、ぽつりと呟く。運よくかすれた声が出てくれた。 んあ、と赤狼が間抜けた声で応じてくる。「なんつったっけ、なんかクソムズカシい呼び方があった気がしたけどよ」「俺様が知るわけないだろう、しっかりしてくれ兄貴」「鼠流でよけりゃ、巡礼団って呼び方があるよ」「兄貴みたいなガラの悪い鼠がいるわけないだろうが」「タルヴィみてえなバカデカい鼠がいるかっつーの」「なんでオイラが責められてんだよ! おかしいよ絶対おかしいよ!」「キーキーわめくな」 鼠の高音は、ただでさえ痛んでいる頭に突き刺さる。レムは毛布を被って、耳を押さえた。 とりあえず説明をしようとしてくれているのだろうが、話がまったく進まない。「おいお前、寝るな。兄貴がこれから説明しようってんだろ」「あ? ああ、そうそう」 やや不機嫌そうな牛の声に、赤狼が今ようやく思い出したという風で後を引き継いだ。「今おめーはすげー面倒くせーことになってるんだよ。まず聞くがよ、おめー、どっから来た」 毛布から顔を出して、三人の様子を窺う。 今までの様子を見ていて、何か危害を加えようとしているわけではなさそうだと思ったが、それもこちらの出方次第だろう。 少なくとも、モノマの狼たちのような問答無用さは感じない。「レム。コーネリアス氏族"岩に咲く白"」 声を出すのは、少しましになっていた。「コーネリアス? 兄貴、どこだ」「南だよ、タル兄。東半分で一番強い氏族じゃん」「よーし、レムよ。実はな、あっちにいる俺らの道連れ、まあこの辺の奴らが武装してんだけどな、そいつらの中におめーが盗賊の仲間だって言ってる奴がいる」 モノマにいたところを、見ていた者がいるのだろう。「それは」 誤解だ、と言おうと思ったが、盗賊の仲間だったことは事実である。「モノマにいたことはある。でも、今は違う」「だろうな。モノマはもう半壊状態だ。足抜けした奴も随分いるだろ」「でも、信じてくれ。私は捕まって無理矢理仲間にさせられていただけで、奪ったり殺したりはしていない」「盗賊にいて盗みも殺しもしてない、と? 適当な事を言うな」「あーもー黙ってろ馬鹿。おめーが口挟むと面倒くせえんだよ」 前に出てきた牛頭を、サルヴァが渋い顔で押し戻す。「どう思う、ネズ助」「オイラはウソ発見器じゃないって」「兄貴、やはりこいつ、奴らに引き渡したほうがいいだろう。盗賊の癖に潔白ですなど、馬鹿にしている」 牛の言うことももっともである。あまり風向きは良くなさそうだと思った。 サルヴァは二人を交互に見て、ふうっと息を吐いた。「いやまあ、俺はどっちでもいいんだけどな」「おいおい」「ちょっとサル兄なんだよそりゃあ」「性格ねじくれたクソガキだったら、ババアに庇うのよせって言おうと思ったんだけどな、そういうこともなさそうだ。ま、連中には自分で説明してもらうか」 一応釈明の機会は与えられたらしい。連中というのがどういう者たちかわからないが、この奇妙な三兄弟はとりあえず信用してくれたようではある。 ほら立て、と促され、仕方なく毛布から動こうとした。 体に力が入った途端、体の骨が剣に変わったような痛みが走った。小さくうめく。「ん、どした」「さっさと立て」「待ってよタル兄、なんか具合悪そうだよ」「そんなはずあるか。骨も折れてなかったんだぞ……だよな、兄貴」「おめーはちっとその勢いだけで喋るのやめろ。とは言っても、内臓がイッてる様子もねーんだけどなあ」 そういいながら、サルヴァはレムの顔をしげしげと覗き込んでくる。「わかんねーからいいか。ほら、肩貸してやるよ」 言いつつ、返事も待たずにひょいとレムを担ぎ上げた。体を動かされた瞬間、しびれるような痛みが走る。 思わずまたうめくと、サルヴァは考え込むような顔をした。「なんだろうね、サル兄。フリってわけじゃないみたいだけど」「こんなとこでフリして何の得になるんだッつの」 一歩歩かされるごとに、全身に痛みが走る。それだけで意識が朦朧としてきたが、なんとか気を持たせる。一応、話をするだけの余裕は確保できた。「私をどうするつもりだ」 やっと絞り出した声が、どうにかそれだけである。「あー。奴ら、なんかモノマならブッ殺すってよ」 こっちの命がかかっているというのに、サルヴァはこともなげだった。「なんかこの辺の奴ら、盗賊なら仕返ししたいし、盗賊じゃなけりゃ連れて帰って子供生ませるって言ってるんだよ。なんか怖いところに来ちゃったよなあ」「まったくだ。無理矢理は良くない。少しは俺様を見習うべきだ」「あ? オイこの牛頭今何つった」「タル兄、この間と言ってることが違うじゃん」「あ、やっぱりそうかよ。無理矢理から生まれる愛もあるとか言ってやがったよな」「そ、それは、俺様の男ぶりを示すには、実際にやってみるのが一番というわけで」「うわあ、自分の都合のいいように解釈してるよ。こういう時だけ頭回るんだもんなあ。もうタル兄ハブろうよ、サル兄」「こんなでけえ奴、うろちょろされたら嫌でも目立っちまうな。穴掘って埋めるか」「ちょ、待て、おい、兄貴」 体中の痛みとは別種の頭痛がしてきた。 よくよく考えてみればモノマに捕まった時とほとんど変わらない危地にいるのだが、 体の操縦を手放さないようにするのが精一杯なのと、この三人の能天気ぶりに紛らわされて、すっかり深刻な考えができなくなっている。 このままでいいのだろうか。 苦渋の表情を浮かべた牛が、レムの方へ振り向く。「ええい、もういい。チビ助よ、今姉さんがお前を引き取ると言ってあっちの奴らと話しているのだ」「暑苦しいんだよ、おめーは。頭どけろ寄せんな」 タルヴィが説明を引き継ごうとしているが、話の流れを変えようとしているのがあからさまだった。タルヴィの骨と筋肉の塊のような顔を、サルヴァが押しのける。「ババアがな、あー、まだ紹介してねえ俺らの仲間のあと一人だけどよ、おめーを見たらなんかいきなり身内だから渡せねえッつってよ。おめー、心当たりあるか?」 あるはずがない。巡礼団とやらに加わっている知り合いがいるとしたら、父の関係だろうか。「いや」「だろうな。にしても、姉さんこういう場面で人助けしそうな性格じゃないと思ってたのだがな」「そうそう、オイラも思った。アネさんなんかこう、私には関わりのないことですとか言いそうだよね」「んでまあ、もめてるわけよ。ババアもワケわかんねえよなあ。せめて娘だ、ぐらいフカしゃ、そうそう突っかかってくる奴もいねーだろうによ」 娘と主張すれば助かる可能性が高まるのだろうか。 差がよくわからないが、物を考えられる余裕があるわけでもなく、サルヴァの肩に引っかかったような姿勢のまま、そこそこ大きいらしい建物の中を進んでいった。「兄貴、ここだぞ」「わかってら」 入るぞ、と部屋の中に声をかけて、サルヴァは扉を開く。開いた隙間から、粗暴な空気が漂ってくるようであった。 部屋の中には、武装した狼たちが並んで座っている。モノマに恨みがあるとは聞いたが、とても温厚な農耕民とは思えなかった。 むしろ、同類のような気配すらある。 サルヴァに肩を支えられて部屋に入ると、後ろをタルヴィとザリチュが固める。 並んで座ったのを確認してから、先頭の黄銅色の鎧をつけた一人が、代表して口を開いた。「来たか、拝み屋」「おう、連れて来たぜ……あれ、ババアはどうした」 居並ぶ狼たちはサルヴァの問いかけに答えず、にやにやとレムを見ている。「ふん……そいつ、変な病気持ってねえだろうな。まあいい、拝み屋、早くそのガキを引き渡せ」 ひびの入った鋳物を揉むような声だった。 粘ついた視線がレムの体を品定めするように上下する。おぞ気に身震いした。「ちょっと待て、いきなりかよ」「元々俺たちが拾ってきたガキだ。どうしようと、俺たちの勝手だろうが」「何だ黙って聞いていればお前らァ!」 先頭の狼が馬鹿にしたように言った時、レムの後ろから怒声が飛んだ。 あまりの大声に空気がびりびりする。頭痛どころか、体まで痛い。「見つけた見つけないではないだろうが! 姉さんの身内だと言っているのを、何をしようとしているのだ!」「何だとこの牛野郎、よそ者の癖に態度がでかいんじゃあねえのか」「お前たちだって火事場泥棒しに行くだけのこそ泥狼じゃんかよ、子供一人にそんな臭い顔で大人気ないにも程があるだろ!」 きーきーとザリチュまで言い合いに加わった。おかげで、いきなり場の空気が殺気立ち始めている。 サルヴァたちもレムの釈明から入るものとばかり思っていたようである。問答無用であるならば、相手の立場を考える暇はない。 それにしても、何やら怒鳴り合っているザリチュの高音が響いて、頭が割れるように痛い。「姉ちゃんもなんか言ってやんなよ」「え」「馬鹿野郎ザリチュ、病人に無理さすな。おめーのキンキン声で死にそうになってるじゃねえか」「オイラのせいかよ! サル兄ひでえ!」「おいネズ蔵、兄貴が黙れと言っているだろう、わからんのか!」「おめーも喚くな」「てめえら無視してんじゃねえ!」 早速焦点がずれ始めた三人の向こうで、黄銅鎧がこちらを睨みつけながら大声を上げる。「クソが、俺たちが道連れにしてやりゃあ舐めくさってでかいツラしやがって! 流れ者とよそ者の寄せ集めの分際で!」「そんなもんおめー、自由意志って奴だろうが。道理の通らねえ事に手貸す言われもねーだろ」「ふざけんなよ拝み屋風情が! お前らなんぞいなくても、こっちは困らねえんだからな!」 ついに後ろで事の推移を見守っていた者たちまで声を張り上げ始めた。 代わって鼠が叫び返している横で、サルヴァが呆れたような視線をタルヴィに向ける。「なんかチンコの小せえ奴らだな。おめーより小せえんじゃねえか、タルヴィよ」「そりゃあないぞ、兄貴。俺様はむしろ狸と勝負できると評判で」「それじゃ終始ハミ出てるじゃねーか」「タル兄が小さいのは脳ミソと肝っ玉だよ、サル兄」「喧嘩を売っているのかドブネズミめ! 平らに伸ばすぞ!」「サル兄ィ、助けてぇ」「うっせ面倒くせ寄んな」「てェェめェェえェェらァァァァ!」 もはや斬りかかって来ないのが不思議なくらいに怒りながら、黄銅鎧が喚き散らす。 その有様を、狼と鼠はすっかり冷めた表情で横目で見やっていた。 一人、牛だけが頭の血を下ろさないまま叫び返す。「いいかこそ泥狼め、こんな男か女かの区別もろくについてないガキを捕まえて子供生ませるなんぞ、悪事でなくて何だ!」「なんだと牛風情が!」「まー、ガキは心の傷になるな」「そうそう、特にタル兄は無理矢理しか考えてないしね。あいつらチンコ小さいけど挿れても大丈夫だってわけじゃないし」「なんだザリチュ、詳しいな。昔どこぞの女をオイラ小さいから大丈夫っつって泣かしたか」「なんなんだよサル兄、その嫌に具体的なたとえ……」「兄貴、そうだったのか!?」「こういう時だけ察し良くなるんじゃねえ! 違え! 俺は小さくねえ! 俺じゃねえ!」「聞けェェェェェェ!」 いよいよ床を叩き始めた黄銅鎧を鬱陶しそうに眺めながら、サルヴァは面倒くさげに口を開いた。「それよりババアはどこ行ったって聞いてるだろーが。そっちも答えろ」「へっ、あの女か」 黄銅鎧は、余裕のある表情を浮かべようとして、引きつった顔になっていた。「ガキの命を助けて欲しけりゃ、今晩一人ずつ相手しろっつったら川に水浴びに行ったぜ」「ん?」 誰かは知らないが、レムを助けるためにわざわざ何十人といそうなごろつきの集団に身を売るというのだろう。 一体何がそこまでさせるのか、わからない。 何か言おうと思ってサルヴァを見ると、その表情が鋭くなっていた。「ま、自由意志って奴だ、お前には関係ないことだよなあ、拝み屋?」「おいおい、何が関係ないだって? 返し屋の頭目は俺だぞ。つまりは俺らの問題は俺の問題、わかるかオイ?」「ハハ、そうかよ! そんならお前が相手してくれるってのか? おい、男抱く趣味の奴はいるか」 黄銅鎧の言葉に、後ろから品のない笑いが返ってくる。腹を立てるかと思われたサルヴァは、逆にせせら笑った。「さすがはモノマにビビッてコソコソしてた火事場泥棒どもじゃねーか。使い慣れない得物より、その小せえチンコ振り回してる方が安心ですってか?」「何だとこの野郎!」 ついに武器を手に取った。それを見た後ろの狼たちも同じように武器に手をかけており、腰を浮かせる者もいる。「よーしよしよし、面倒くせえのはカンベンだ。ここは俺とおめーの勝負で話付けようじゃねえか」 サルヴァも、獰猛に笑いながら立ち上がる。このまま座っているわけにも行かず、レムも痛みを押してなんとか立ち上がった。「なんか危ない空気だよね。姉ちゃん、こっち来ときなよ」 ザリチュが、後ろに引っ張りこんでくれる。 レムと入れ替わるように前に出たタルヴィが、何やら息巻いていた。「兄貴、こんな奴ら兄貴の手を煩わせるまでもない。俺様がまとめて引っこ抜いてやる」「タコ、おめーのスットロいパンチなんか誰が喰らうんだ」「わかってるぞ兄貴、闘牛士の本領は掴みと投げだ」「わかってねーじゃねえかボケ。そんなもんおめー、パンチ当たんねえのに掴みを食らう奴がいんのかアホ」「それなら気は進まんが鼓槌を」「音歪んだらおめーが直せよ」「よし、そんじゃあここはオイラが」「俺様が駄目でお前がいいわけあるかネズ公が!」「おめーは何で戦るつもりだマヌケ。寝てる奴の耳元でギロをギロギロやってんのが関の山だろうが」「言ってみただけじゃんかよ! 今のはどう見ても言えって空気じゃんかよ!」 もはや問答無用に、黄銅鎧が剣を抜いたのが見えた。 警告しようと、レムは声を振り絞った。まだ、自分の喉が大きく動こうと震える振動すら、体に響く。 それが言葉になる前に気配を感じ取った三人が、一斉にごろつき集団へ向き直っていた。 同時に、タルヴィの丸太のような腕が、サルヴァの頭上を通り抜けて、斬りかかってきていた黄銅鎧の顔面を叩き潰す。「あーあ、性根ぴったりの面になっちまいやがったな」「ひゅう、いつ見てもタル兄はすげえな。さすが唯一の取り柄だよ」「何か言ったか、チュウ兵衛」 血の筋を引きながら仰向けに倒れる黄銅鎧を見送りながら、他人事のように赤毛狼と鼠が呟く。「ブッ殺す!」「やってみろ痩せ狼どもが! 闘牛士を舐めるなよ!」 既に殺気立っていた一段と、タルヴィがほぼ同時に座を蹴った。 サルヴァは奇妙な形をした鉄の管のようなものを取り出しながら、レムとザリチュに振り向く。「部屋の外出とけ、アブねーからな。ザリチュ、病人しっかりガードしろよ」「アイ・サー! ほら姉ちゃん」「あ、うん」 こうなったのも多分に彼らの自業自得のような気がしないでもないが、少なくともレムが原因で起こったいざこざには違いない。 調子が万全で、武器さえあれば加勢するところだ。しかし、今の自分では鼠に守られる程度の荷物でしかない。 ザリチュに連れられてそそくさと部屋を出る。閉じていく扉の隙間で、タルヴィの背中が向こう側の狼たちを覆い隠していた。 通路に出てからは、反対側の壁に背をもたれさせて、じっと喧騒が収まるのを待った。 鼠は、彼の兄弟たちが暴れている部屋から敵が飛び出してくることはないと確信しているらしい。 どこかへ移動したほうがいいのではないかと思うが、ザリチュは通路の方に意識を研ぎ澄ませてばかりである。「何をしてるんだ」「見張りさ。喧嘩でオイラができることって、ほとんどないからね」 ひとしきり辺りの様子を窺って、どうやら何もいないと判断したのか、ザリチュはレムの隣に壁に背をもたせ掛けて座った。 部屋の中からは、狼たちの怒鳴り声と、一際大きいタルヴィの雄叫びが扉を弾けさせんばかりに聞こえてくる。「姉ちゃん、腕には覚えあるのかい?」「え」 振り向くと、鼠が丸い瞳でこちらを見ていた。「そんな顔してるよ」 そう答えて、ザリチュは頭の後ろに手を組んで天井を見上げた。「いいよねえ、狼はさ。姉ちゃんぐらいの歳でも、武器持って喧嘩できるんだろ。猫のチンピラが言ってたよ、犬と狼間違えて喧嘩売ったら死ねるってさ」「そうなのか」「その辺、オイラたちはダメダメでさ。いくら鍛えても、他の種族とはまともにつかみ合いもできなくってね。兄貴たちがいなけりゃ、今頃オイラは油揚げになってるところだよ」 悲惨な境遇を経験してきたのだろうが、年齢がさっぱりわからない鼠の顔からは、ただ世間話でもするかのような雰囲気しか感じ取れない。「まあ、サル兄は喧嘩強いし、タル兄は猫の国で闘牛士やってたとか言ってるし、姉ちゃんが行かなくても大丈夫だって」 どたばたとやかましい扉の向こう側からは、怒号にかき消されてしまっているのか、サルヴァの声はまったく聞こえてこない。 狭い部屋の中なら、開けた場所よりはましだろう。だが、人数差は気がかりであった。 ふと、ザリチュが鼻をひくつかせながら辺りを見回した。 比較的細い体格の固い足音が、扉から漏れてくる騒音の隙間をすり抜けながら、通路に響く。 まだろくに機能の戻っていない鼻に懐かしさを感じて、そちらを振り向いた。「あ、アネさん」 ザリチュが、極めて自然に目を向けている。「今、兄貴たちが暴れててさ。この姉ちゃんが盗賊でも何でも、結局連れて行くつもりだったみたいで、それでタル兄が怒っちゃってさ」「そうですか」 密やかな衣擦れの音は、変わっていない。青みがかった灰銀色の長い髪に、水晶で作った刃を思わせる目元も、記憶にあるままだ。 少し日に焼けて、肌が引き締まったかもしれない。 レムは、頭の中が空になった。「珍しい所で会いましたね」「ん? 何、姉ちゃんとアネさん、知り合い?」「最初にそう言ったはずです」「そういやそうだっけ」 レムの傍らで、鼠が間の抜けたやり取りをしている。「ゼリエ」 どうにか、それだけ声を発した。「変わりないと言うにはあなたに少々養生が必要なようですが、無事で何よりです」 断崖城では能面のようだと思っていたその顔に、ごく自然に微笑が乗った。 ゼリエらしい笑い方だ、と思った。
ゼリエの落ち着いた足取りに先導され、すっかり緊張の解けた様子のザリチュと一緒に壁に手を擦りながら元来た道を逆に進んでいく。 まさか、ゼリエがこんなところにいるとは思わなかった。 聞きたいことは色々あるが、何一つ言葉にならないまま、最初に寝かされていた部屋に戻った。「具合が悪いのですか? サルヴァは外傷はないと言っていましたが」 座るのにも壁に背を預けながらのレムを見て、ゼリエが尋ねてくる。「ああ、ちょっと、モノマで」「姉ちゃん、無理すんなって」 あまりしっかりと声が出せないのを見かねて、ザリチュが言う。 壁にもたれながら毛布を引き寄せ、体を落ち着けると、ようやく少し楽になった。「寝てもいいよ。なんか来そうだったら、オイラが教えるからさ」 ザリチュに言われて、レムはその場に横になる。 ゼリエは、その様子をじっと見ている。この距離感は、なんだか断崖城を思い出す。「こんなところで、一人でどうしたのです。あなたの父は何をしているのですか」 言葉に、やや咎めるような色が滲んでいる。「私が、外に出てみたいって言ったんだ。そしたら途中で、モノマに捕まって」 言いかけたところで、通路からどたばたと騒がしい足音が聞こえてくる。 数は少ない。ザリチュも何も言わないところを見ると危険ではないのだろうが、集団よりもやかましい足音である。 一切遠慮のない勢いで、扉が開かれた。「ババア戻ってたか!」 ゼリエを見つけたサルヴァが、ボディブローのような勢いでゼリエの隣に滑り込む。「お、姉さん、何もされていないか」 ゼリエの隣で尻尾を振り回しているサルヴァをつまみあげて脇にどけながら、タルヴィが尋ねる。「タルヴィおめー、俺をガキみてーに扱うたあどういうつもりだ!」「姉さんが迷惑しているだろうが。少しは引け、兄貴」「うっせ牛! へっ! そんなことねーよな、ババア?」「それよりも、先程の騒ぎは何ですか」 サルヴァの言葉はまったく相手にせず、ゼリエが言う。「おう、そりゃもうババアにも見せてやりたかったぜ! あのゴロツキどもをブッ飛ばしてブチのめして」「兄貴はいつもどおり俺を盾にしてちょこちょこ殴ってただけだろうが」 良く見れば、タルヴィの体は傷だらけだった。「大丈夫なのか、その傷」 レムが声をかけると、四人の視線が一斉にレムに向けられる。 少し戸惑っていたようだが、タルヴィはすぐになんでもないかのように応えた。「問題ない。ひ弱な種族と違って、闘牛士は敵の攻撃をすべて受け止めるものだ」「トロいから避けらんねーだけだろうが」「頑丈で馬鹿力なのが取り得なんだよ、牛ってさ。タル兄は頭の中身もそっちにやってるから、破城槌で殴られても大丈夫だよ」「何を言う、全種族ひ弱代表め! 俺様と同じ体になるまで鍛えてやろうか!」「うええサル兄、タル兄がついにオイラを殺す気だあ……ってダメだ聞いてない」 呆れ顔のザリチュの視線を追ってタルヴィと共に振り向くと、サルヴァがまたゼリエの隣に、肌が触れるほど密着して座っている。 かなりの勢いで振り回されている尻尾に、ゼリエは迷惑そうである。 タルヴィがため息をついて、またサルヴァを引き剥がしにかかっていた。「なんだよ、いーじゃねーか誰がどこに座ろうとよお!」「姉さんが邪魔そうにしているだろう、しっかりしろ兄貴」「いーやーだ! 俺はここに座んの!」 牛の力で引きずられながらも、なんとかその場にかじりつこうとしているサルヴァを、ゼリエは冷ややかに眺めている。「それはそうと、先程の騒ぎはどうなったのですか」「あいつら? 追い出したぜ。もう安心だからな」 応えたサルヴァは、こともなげだった。「大丈夫なのか」 声を発したレムに、再び視線が集まる。先程よりは自然に、タルヴィが自分の胸に親指を向けた。「喧嘩に勝ったのは俺様たちだ。敗者はただ去るのみよ」「元々、ほったらかしの屋敷を勝手に使ってるだけだから、乗っ取りにはなんないよ。そういや姉ちゃん、ここがどこだかわかってないんだっけ」 ザリチュの言葉に、ひとつ頷いて返す。「ええと、どっから説明しようか」「待て待て、まずはこのチビ黒が盗賊でないという釈明からだろう」「それは私が保証します。この子は顔に出ますからね」 なんとなく不満に思ってゼリエを見ると、相も変わらずの顔つきである。「何か後ろめたいことをしているのであれば、見ればわかります」「さっすがババア、娘のことはよくわかってら!」「私の子ではありません」「ところで俺の子を産んでくれる話は」「承諾した覚えはありません」「そう言うなよ、な? いいじゃんいいじゃん」「サル兄もうやめてくれ、オイラ泣きそうだ」「兄貴、俺様はやはり闘牛士に戻ろうかと思うのだが」「待て待て待て待て」 三人の横でも、ゼリエは表情を崩していない。さすが祭司長だっただけはある、と思ったが、コーネリアス祭司の最高位がそんな感心の仕方をされても心外だろう。「レム」 何やら揉み合いを始めていた三人が、ゼリエの声でレムに顔を向ける。「取りあえず、今あなたが置かれている立場を説明しましょう」「あ、うん」「おい姉さん、そいつは本当に大丈夫なのだろうな」「タル兄は心配性だねえ。それじゃあ、もし盗賊だったら、どうするんだよ」「そりゃあもちろん、性根を叩き直す。走り込みを山十周、ネズ公を背に乗せて腕立て百、逆さにぶら下がって腹筋を百、荷を背負ってスクワットを百、これを二十本だ」 「タル兄は何を作り出そうとしてるんだよ……」「なあに、大したものではない。闘牛士のトレーニングとはいえ、一番軽い練習生メニューだぞ。健全な肉体には健全な肉体が宿るのだ」「精神……」「ここまでで午前のノルマだ。この後に受身千本から入って三十六の打撃技と七十二のグラップリングを」「いらねえいらねえ、女はやーらけーのが一番だって。なー、ババア」 嬉しそうに頬を寄せるサルヴァから身を逸らせながら、ゼリエは傍らのやり取りを傲然と無視した。「このサルヴァは、山岳の各地に散って邪霊を鎮めて回る流浪氏族の一人で、私たちは彼を中心とした流浪の祭儀団です。私も彼らに拾われ、ここしばらく同行しています」 「サル兄、難しい呼び名でもなんでもなかったじゃん」「いやいや、なんかもうちょっと違う言い方だったはずなんだが」「無理するな兄貴。どうせ最初から覚えていないのだろう」「うわおめーに言われると腹立つわ」「何故だ」「そりゃあねえ、タル兄だし」「どういう意味だマメ助! 貴様は最大に詰め込んでもろくに脳がなかろう!」「オイラのは分相応っての! 兄貴みたいに狐のみやげ物にありそうな振ったらカラカラするようなのじゃないんだからね!」「おめーらなあ」 どたばたと暴れ始めた牛と鼠に、サルヴァが面倒くさそうに腰を上げる。「この度はこの辺りにいるであろう邪霊を鎮めに来た折、先程の集団と出会いましてね」「そうそう、もしかしたら必要になるかもしれないって言われたしで、オイラたちも一緒について行く事にしたわけ」 タルヴィの腕を避けながらも口を挟んでくる辺りが、ちょこまかと動き回る鼠らしい印象である。「あいつら、元からああだったんだろ? 危ないとは思わなかったのか」 先程の様子を見れば、あの連中が盗賊寄りの性質だとは見ればわかったはずだ。 尋ねてみるが、鼠とゼリエはやはり平然としている。「ま、道が一緒だったからね」「どこかの集団に属していたほうが、安全なのです。更に危険な集団に襲われる可能性が、否定できない場合は」「いざとなれば俺様がいる。あんな貧弱な奴らには、俺様を破壊することなど不可能だ」 言われて思い出したが、タルヴィの負傷がまだそのままである。 切傷どころか、数箇所刺傷まである。深さによっては、早く手当てしなければ傷が膿んでしまう。「なあ、傷は」「ん、なあに、この程度。言っただろう、痩せ狼風情に闘牛士はやれんと」「まあでも、ちゃんと縫っとけよ。ババア、よろしくな」「ええ」 今度は、ゼリエもきちんと返事をした。 鼠がこそっとレムの横に寄ってくる。「アネさんさ、すごいんだよ。色の派手な飾り糸でタル兄の傷縫ってさ、おかげで余計傷が広くなっちゃって」「そうなんだよなー、結局膿んじまって、当て布の用意が大変だったぜ」 ゼリエは黙って目を瞑っている。「しかもさ、肉を焼かせりゃ外はこんがり中はフレッシュだし、洗濯頼めばどっかをほつれさせてさ、繕ってくれって言ったら反対側まで縫い込んじゃうし」 話を聞きつけて、牛が寄ってきた。「狼の女に見ぬ不器用さだ。責めても仕方ないが、里では何をしていたのだ?」「そうだよなあ、なんでもできそうな顔してるけどね」 答えていいものかどうか。流れ者が元いた氏族の話をするのは、あまり潔いことではない。 氏族としても流れ者を出したとして恥になるし、流れ者としても元の氏族に未練を残しているとなれば、氏族に馴染めずに追い出された素行不良者と自分で示すことと同じである。 「いンだよ、何でもできそうな顔してそーいうのが全然ダメってのも可愛いじゃねーか」「俺様は時々兄貴についていけなくなることがある」 どう応じるか悩んでいるうちに、既に話が進んでしまっている。 あっさりと方向性がずれている辺り、ゼリエが黙っているのも自分に都合の悪い話題だからという理由ばかりではないような気がしていた。「そういや姉ちゃん、さっきコーデリアとかって言ってたよな。知った顔なら、アネさんも同じ氏族?」「ふむ。で、どんなところなんだ、チビ」「待て待て。流れ者の身元を聞くな」 ようやく、サルヴァの制止が入った。「なんでだよサル兄」「面子の問題だよ」「兄貴、狼ってのはそういう面子を捨ててでもプライドを守ろうとする種族じゃなかったのか」「だから、そーいう奴が大事に取っておいたプライドを踏んづけるようなマネすんなってことなんだよ」「サル兄、オイラよくわかんない」「俺様もわからん」「んー、あー、おめーらはもー」「流れ者を出した事実は、祭るべき精霊を捨てた恥ずべき者を出したということになり、氏族としても不名誉なものとなります。なので流れ者は元の氏族から糾弾されます。 ですが私は、出奔したから元の氏族の体面などどうでも良いなどとは思いません。それが、私の矜持です。そんな説明で良いですか?」 頭を抱えてしまったサルヴァの向こうから、ゼリエが口を開いた。 断崖城にいたころの冷ややかな調子は、涼やかと呼んでもいいものになっていた。「なんだかよくわからんが、まあ納得はできそうだ」「オイラもよくわかんないけど、筋は通ってる気がするからそういうことにしとくよ」「さっすがババア! 伊達に歳とってねえ!」「サル兄、オイラその態度そろそろ殺されると思うんだ」 ゼリエの表情は動いていない。動いていないが、あと何かの要素が一つ加われば、容易に決壊する平静さに見えて、レムは気が気ではない。 話を逸らすついでに、聞こうと思っていたことを聞くことにした。「ゼリエ、どうして私の身代わりになるなんてことを言ったんだ」 礼を言ったほうがいい状況なのはわかっているが、他人を身代わりにしてまで助かろうとは思わない。剣さえあれば、逃げる手立てもあった場面なのだ。 実際は、剣がなかったせいで、救われてしまった。「変な事を聞きますね。あなたは彼らの集落で子を産み育てなければならなくなりますが、私であれば彼らが一巡するまで耐えれば良かったのですよ」「いや、そうじゃない」「では、何ですか」 否定はしたが、自分でも何が違うのかは説明できない。 真っ直ぐに見つめ返してくるゼリエの表情には、別に咎め立てる様子はないが、レムは湧き上がってくる居たたまれなさを感じた。「アネさん、姉ちゃんはさあ、アネさんが身代わりになるのがイヤなんだと思うよ」 鼠が、薄桃色の鼻先をついと持ち上げて言った。「自分のことは自分でやるということか。それが狼のプライドというやつか? 存外普通なのだな」「タル兄、それは多分関係ないと思うよ。オイラだって、兄貴たちがオイラの身代わりに天ぷらになるって言われたら姉ちゃんと同じ事言うと思うよ」「何を言う。兄貴と俺様なら、あんな奴らは全員折り畳んで釣りが来る」「いやそうじゃなくってさ」 渋い顔のザリチュの傍らで、サルヴァがくるりとゼリエの方へ振り向いた。「そうだぞババア、もっと自分の身を大事にしろって。ってか欲求不満なら俺に言ってくれれば……」「あのさ、サル兄さあ……」 水掛け論に入りそうだった牛と鼠が、すっかり呆れた表情でサルヴァを見ていた。「そのような意図があったわけではありません」 先程から視線を真正面から一切動かさずに、ゼリエが言う。 少しだけ首を傾けて、僅かに唇を吊り上げた。「むしろあなた方のお陰で、やりたくもないことをせずに済んで助かりました。私としても、あんな細そうな連中は願い下げでしたので」 また、あわよくばゼリエに触れようとしていたサルヴァが、油が切れたように動きを止めた。「なんで勢いが止まるんだよサル兄」「兄貴、元気を出せ。兄貴は器のでかい男だ、多少なにがしかが小さかったところで」「うーるーせーえー! 違うッつってんだろォー! ちょっと気になっただけだろーが!」「何が気になるんだ」「ババアがガキの腕くらいでかいのじゃないとダメとかそういうのかもしれねえって思ってよ……」「大丈夫だよサル兄、そんな怪物いないって」「元気を出せ兄貴、いざとなれば腕と息子を付け替えればいいだけの話だ」「気持ち悪い事言うんじゃねえよ……」「あ、じゃあ万が一サル兄がアネさんと仲良くなれたら、オイラの腕貸したげるからさ」「だから気持ち悪い事言うんじゃねえっつってんだろ! 第一なんでおめーに頼まなきゃなんねーんだよ!」 めそめそし始めたサルヴァに、微妙にずれた慰めをかけている牛と鼠を、ゼリエが冷めた目を向けた。「なあ、ゼリエ」「それでは、今度はあなたの話を聞きましょうか」 らしくない不穏な発言について尋ねようとした声をさらりと無視し、ゼリエはレムに向き直った。「あなたがなぜ一人でこんなところにいるのか。そして、なぜ盗賊の仲間にいたのかを」
モノマにいた日々を再び思い返すのは、つらい事だった。 メドウズからの恐怖の経験は今でも身がすくむ思いがする。バルフィンに関わる話は、口にしたくない内容ばかりだった。 レムは、自分の心が顔に出ないように淡々と話そうと努めた。不幸な経験を語って同情を引きたいわけではない。 それでも、三人は話が山場を迎える度に、レムの代わりに歯を食いしばり、憤りが余って隣の兄弟を小突いたせいで掴み合いを始め、 その都度ゼリエが無視して話の続きを促すため、再び話を始めたレムに気付いて彼らもまた姿勢を正して話に聞き入るのである。 彼らが暴れるお陰で、ゼリエは話が中断されるせいで迷惑そうだったが、レムはむしろ少し気が紛れて最後まで話を続けることができた。「そうか、それで川にな……」 そのつもりはなかったが、サルヴァはすっかり同情的になっていた。「なんか……悪かったな。疑っちまってさ」「黒チビ、お前、つらい戦いを潜り抜けてきたのだな」 タルヴィに至っては、レムへの態度に敬意すら滲ませている。「あれ、兄貴たち随分あっさり信じちゃうんだね」「何だと豆蔵! お前は疑うというのか!」「い、いや、そういうわけじゃないけど、ただなんかほら、慎重さが大事だとか普段から言ってるじゃん」「ババアが信用できる女だってのはわかってるからな。そのババアが信用してんだ、ウソじゃねーだろ」「その通りだ。この黒チビも、ひねくれた性格はしていない」「そんなもんかなあ。ま、オイラも別に信用できないってワケじゃないし、いいけど」 臆病なほど慎重な鼠としては、兄弟分たちの決断に頭で納得できる根拠が欲しかったのかもしれない。と、鼠がレムの方を見た。「なあ姉ちゃん、そんでそのニセ兄ちゃんはどうしたんだよ」「バッ、おめ」 無邪気に持ち上げたザリチュのその鼻先を、サルヴァが掴んでひっくり返す。「何すんだよサル兄!」「気付けよ、精霊宿りがチリになるなら氏族は……!」 抗議の声を上げるザリチュに、サルヴァは声を潜めて、しかし激しい口調でたしなめる。「あ」「このチュウ三郎め、ろくな事言わん」 牛に指先で跳ね飛ばされても、ザリチュは喚き返さなかった。「ご、ごめんよ姉ちゃん」「いや、いい。言わなかった私が悪いんだ」「でもさ……」「いいから黙っていろ豆ネズミ。よく口が回る癖に、こういう時だけ気が回らん」 あの人のいい笑顔と、暖かな心遣いが思い出される。 酷い場所だったモノマの集落の中で、あの優しい場所だけが、レムの支えだった。「いいんだ。いなくなったからって、気になんかしてない。最初から、そんな奴はいなかったんだから」 胸が詰まって、声が出づらくなっている。「ゼダなんて奴は、どこにもいなかったんだ」 目の前の色が急に混ざり合って、レムは慌てて下を向いた。「私は、あいつの名前も知らない。何度も助けてもらったのに。何度も支えてもらったのに」 目から溢れた熱い涙が、古びた床板に落ちて跳ねる。 無様に声を出すまいと歯を食いしばった。指に力を込め、床を掴む。「私は、何も出来なかったんだ」 もう終わった事でいちいち心を動かしていてはいけない。レムとて、戦士として他者の命を奪った事は一度や二度ではない。その彼らにだって、近しい者たちがいたはずだ。 それなら、レムも涙を流すような事が許されるはずもない。 不意に、ふわりとした布地の起こす風が触れた。柔らかな感触に、頭を抱き寄せられる。「アネさん……」「少し休みなさい」 レムの顔を、袖と毛布が覆い隠すように動く。声を押し殺そうとしているのを察したのか、ゼリエが自分の肩にしがみつかせるように、レムを抱えていた。「よく頑張りましたね」 相変わらず冷えた感触を覚えさせる口調に反して、たおやかな体は暖かかった。「おい、おめーら」「わかっている」「やっぱそうだよね」 ひそひそと語り交わして、部屋を出て行く気配が三つ。 しばらくして、外から笛の音が聞こえてきた。 金属製の楽器が鳴らす、澄んだ低音である。 控えめな太鼓の拍子と、合いの手のようにアクセントを加えるギロの音が、胸の詰まりを安らいだ気分に溶かしていく。
夜になった。 日のあるうちにザリチュがどこからかかき集めてきた布の山を適当に並べて寝床を作ってもらい、レムはそこに横になっていた。 先程、炙った干し肉をもらったが、半分腹に収めたところで気持ち悪くなって、あとは残してある。「よーう、起きてるか」 サルヴァが扉の隙間から頭を出した。 あまり代わり映えもなく毛布で丸まっているレムを見て、安心したのか遠慮なく部屋に踏み入ってくる。「なんだ」「あーっと、なんだっけな」 少し離れた場所にどっしりと腰を下ろして、サルヴァは視線を宙に踊らせた。「あー、まあ、なんだ。悪い奴に精霊は憑かねーよ。だから、そんなにヘコむな。おめーに憑けば一番収穫があるって、精霊のお墨付きもらったって思え」「ん」「おめーのおかげで仇取れたんだから、そのなんだかわかんねえ奴も満足してんだろ。この辺りのゴロツキどもが縮み上がるようなバケモンを、一人で討ち取っただけでも大したモンじゃねーか」 「ああ」 昼間の話の事だろう。サルヴァは軽薄な男だが、彼なりに気を使っているのだ。「すまないな。情けないところを見せた」 言っている間に、扉が少しだけ開いて、鼠の鼻先が頭を出す。「何言いやがる、ガキはそれぐらいでいーんだよ」 サルヴァは、少しだけ鼻で笑った。「何の話してるんだい、サル兄」「ちぇっ、せっかくカッコよくキメてたのによ」「姉さんにコナかけていると思ったら、そんなチビ助にもか。節操がないな、兄貴」 ザリチュに続いて、牛のごつごつした頭がぬっと現れた。「そうじゃねーよさすがに」「いやあ、わかんないよ。サル兄のことだから」「まったくだ。崖の村の時など、そのせいで武装した村人に三昼夜追い回されただろう」「そうそう、タル兄が癇癪起こして反撃しようとするのを抑えたの、オイラなんだからね」「ありゃしょーがねーだろ! 俺はフツーに優しく接しただけなのにカン違いしてよ!」「うわ、サル兄ひでえ。あの子マジだったよ」「まったく、我らが兄貴ながら情けない。狼のプライドとやらはどこへ行った」「だから俺はな」 話があさっての方向に飛んでいって、レムの頭が痛み始めた頃に、やや苛立たしげに扉が開かれた。「あなたたちは病人を苛めに来たのですか」 毛布を抱えた薄着のゼリエに向かって、サルヴァが慌てたように手を振った。「あっ、ババア信じてくれ、俺はババア一筋で」「そうそう、ちっちゃい子のスジにも興味津々で」「うっせ黙れやめろマジで」「なんなんだ、この下品さは」「ふざけんなタルヴィおめー、おめーこそ昼間タヌキのキンタマがなんとか言ってたじゃねえか!」「キンタマとまでは言ってなかったよ、サル兄」「それ以上騒ぐのなら出て行きなさい」 ゼリエに睨みつけられて、三人ともすごすごと並んで正座した。「なんか、いつの間にかこういう立ち位置になっちゃってるよね」「まったくだ。何もできん女に頭を下げる謂れはないはずなのだが。だよな、兄貴」「しょーがねーだろ、なんか気迫負けしてるんだからよ」「何もないのであれば、もうあなたたちの部屋に戻りなさい。明日も早いのでしょう」 このあたりの有無を言わせない態度は、さすがの貫禄である。ザリチュが言うとおり、なんとなく従ってしまう雰囲気を持っている。「あ、ああ、ババアちょっと待ってくれ、話す事思い出したぜ」 慌てた様子で、サルヴァが言い繕うように手を振った。「それなら、早くなさい」「お、おう。で、チビ助」 サルヴァがレムに向き直る。ザリチュはともかくこの牛と赤毛狼は、名前をちゃんと呼ぶ気はないらしい。「さっきの話で、ひとつ思い当たったことがあるんだ。おめーの具合悪いの、それ精霊と直結したせいで神経がボロボロになってんだよ」「ああ、そうだな」 アラバが雑音ばかりの声で気遣ってくれた事もあったし、レム自身でもなんとなく理解していた。 レムの知覚系は、精霊二体分の感覚の上乗せに耐えられるようには出来ていない。おそらく、その反動が今の、全身に走る疼痛なのだろう。 素直に相槌を打つと、なぜかばつの悪そうな表情になったサルヴァに、後ろからタルヴィがそっと声をかけている。「おい兄貴、何やらとっくに気付いていたような顔をしているぞ」「マズいじゃんサル兄、得意げに教えたのがバカみたいだよ」「う、うるせーな」 背後の二人を睨みつけて、サルヴァは取り繕うように言葉を続ける。「あー、里の姉ちゃんが駆け出しの時によく祭の次の日に、おめーみてーに体痛いっつって転がってたんだよ。慣れねえ奴が精霊をはっきり感じると、そうなる」「サル兄は?」「俺は一度もなったことがねえ」「半人前だったのだな、兄貴」「違えよ! てかそこは天才だとかなんとか持ち上げるところだろーが!」「だってねえ」「強い闘牛士は、皆肉体が悲鳴を上げるくらいのトレーニングをしているのだぞ、兄貴」「そりゃおめーらだけだろうが。こーいうのは楽器鳴らすのと同じなの。呼吸困難になるぐらい笛吹く奴がいんのかよ」 断崖城の地下で、全身に疲労感がまとわりつくくらいに坐を組み続け、発声を鍛え、ほんの僅かなずれすらなくなるように舞い続けた事を思い出す。 もしかしたらああいうのは必要ないのかもしれないが、それでもあの修練をこなしたから、自分も多少は成長できたような気もする。「ほらサル兄、姉ちゃんもサル兄が適当すぎるって言いたそうな顔してるよ」「おめー、チビ助は関係ないだろ」「関係なくもなかろう。こいつは頭の中に精霊を突っ込んできたのだろう。兄貴はできるのか」 微妙に的を外しているタルヴィの問いかけに、サルヴァはふと考え込むそぶりを見せる。「そういやそうだな……精霊と感覚繋げるどころか、自分が思ったとおりに感じ取るのも、里でももう大叔母さんぐらいしかできねーな」「サル兄、他のところはどうなのさ」「よっぽど山奥じゃねーと、もう精霊がいるいないを確かめるのも難しいところが多いんじゃねーの。最近は行商通るようになったお陰で、あっちこっち割と落ち着いてきてるから、昔みてーに一人精霊に差し出して氏族の動向決めたりとかしなくてもよくなってきたしなあ。 ま、だから俺らがこうやって、定期的に御用聞きに回ってんだけどな」「それで、レムは治るのですか」 レムの隣に毛布を並べたゼリエが、低く唸った。「ババア心配すんな。普段やらねえレベルの使い方したせいで、神経が筋肉痛起こしてるんだよ。しばらく大人しくしてれば勝手に元に戻らあ」「兄貴、神経は筋肉痛にはならんぞ」「たとえだたとえ。つかおめーは黙ってろ。話が面倒くせえ」「タル兄は考え事すると脳が筋肉痛になるんだよね」「人の話を聞いていたかチュー太郎。俺は筋肉でもない場所が筋肉痛になるものかと」「そりゃタルヴィおめーアレだよ、脳みそが筋肉で出来てるっつー」「おいチョロ松貴様」「もう、話は終わりでいいですか」 ゼリエの声に、タルヴィが一発で止まる。 きっと、あの牛は背中から刺されたらああいう風に振り返るのだろうと思わせる動作である。「なんだよ、つれないなババア。もうちょっとぐらいいいじゃねーか。なんなら一緒に寝てもいいんだぞ。女ばかりじゃ危険だろ」「ないのなら、私たちはもう休みます」「チュウ五郎と俺様が揃っていて、危険な輩を見落とすなどまず有り得ん。もっと俺様を信頼しろ、兄貴」「一番危険なのサル兄じゃん……」 一斉に責められて、サルヴァは眉根を寄せて頭を掻いた。「あーもう、わかったよ。さて、それで明日なんだがな……その前にどっから話すか」 サルヴァは顔をしかめて、ひとしきり首をひねっている。「なんだ兄貴、邪霊を鎮めに行くんだろう」 そこまで聞いて、サルヴァの言おうとしている事に気がついたらしいゼリエが、レムに声をかける。「元々私たちは、この辺りにある邪霊を鎮めに来ました。ここからそう遠くない場所にいますので、明日はそこまで行きます。その際なのですが」「あ、そっか」 ザリチュも声を上げる。「おい、何なんだ」「いやさ、姉ちゃん置いてくワケにもいかないじゃん」「まあ、要するにそーいう事でよ」 二人に言われ、タルヴィがしばらく動きを止めた。結構な沈黙が過ぎてから、ようやく牛が納得したように声を上げる。「おお、黒チビを連れて行くのか」「タル兄、遅いよ……」「はっきり言わんのに察しろと無理を言うな」「ま、ここを根城にするにしてもよ、昼間の奴らにも場所割れてるからな。置いていったら仕返しに来られました、なんざ笑い話にもなりゃしねーだろ」「あなたに任せても良いですか、タルヴィ。この子は自分で歩けると言うでしょうが、今のこの様子では体力はすぐ尽きるでしょうから」「ま、アネさんの最初の頃だと思えば大丈夫だってタル兄」「ふん。俺様を誰だと思っている。このような子供、あと十人いても問題ない」 レムが口を挟む余地もなく、話が決まった。「あのさ」 声を出して牛を呼ぶと、例の意表を突かれたような顔で見返してくる。「何だ」「面倒をかけるけど、よろしく頼む」「おう。安い仕事だ」 鹿爪らしい顔で力強く頷く牛の頭が、頼もしく見えた。「なんだタルヴィ、そんなガキがいいのか」「何を言う兄貴。子供を大事にするのはどこの種族でも同じだろう。第一、闘牛士の嫁はもっと肉付きが良くなくては」「てかタル兄って女の人をおっぱいで判断するよね」「そーそー、ババアがそこそこだとかどういうレベルだよっつーハナシだ」「姉さんくらいなら、田舎に帰ればそれなりに居るぞ」「ダメだザリチュ、こいつ牛だった」「そっかー……」「早く寝なさい」 頭に杭を打ち込むようなゼリエの声に、三人はこそこそと退散していった。 騒がしげな足音の後にしばらくばたばたと聞こえていたが、やがてそれも静かになって、ようやく辺りに夜の沈黙が被せられた。 レムは、しっかりした姿勢で横になっているゼリエに、盗むように視線を投げた。 聞きたいことも言いたいこともたくさんある。知っている者と、話がしたい気分だった。 でも、何を話していいか、わからない。 ふと顔を向けたゼリエと、目が合った。「私は、半人前なのだそうですよ」 囁くようにそう言った。「食事の準備も、衣類の整えも、旅をする上での心構えすら何一つなっておらず、身ごなしも子供の方がましという有様でしてね。よくここまで無事だったと感心されました」 祭司長の頃の、何も寄せ付けないような雰囲気は、なりを潜めていた。「私が彼らの役に立つには、せいぜい祭司として鍛えた技くらいのものなのですが、精霊返しの儀は初めてでしてね。まだ、満足に舞うこともできません。謡を役立てようにも、私の声は力が強すぎるのだそうです。精霊を安らぎの中に眠らせる技には、適していないと」 屋内の暗闇の中で、ほのかにゼリエの目が光を湛えていた。 嘆く様子もなかった。ただ事実を在るがままに受け入れている。「私の家族は、どうしていますか」「すまない、顔を合わせる場面がないんだ。でも、悪い話も聞かないから、きっと大丈夫だ」「そうですか」 ゼリエが、目を閉じた。 しばらく、規則正しい呼吸音が続いた。「大変だったんだな」「そうかもしれません」 ぽつりと呟いたレムに、しばらくしてから返事が戻ってきた。「ですが、あのままでは決して得られない経験でした」 小屋の外で風が草木を撫でる音が流れている。
今までいた場所は、川から少し離れた廃村の屋敷だった。 行商と交流でもあったのか、この辺りの集落に比べて発展した感のある家々が、風化するに任せて放置されている。 レムたちがいたのは、どうやら村長のものらしい一際大きな住居であった。内部は、使用する際に手入れしたのか、普通の住居と変わらないように思ったが、 一度外に回ると蔦やつる草が這い回る廃屋だった。 他の住居も、似たような具合である。破壊された跡がないところを見ると、盗賊に襲われる前に自ら土地を捨てたのだろう。 レムは、荷物と一緒にタルヴィの背負子に載せられた。「オイラにはちょうどいいんだけどね。姉ちゃんにはちょいと窮屈かもしんないけど、我慢してよ」「暑苦しくても我慢しろよ。こいつ筋肉バカだから体温高えんだ」 随分と量の多い荷を無理矢理分けて座る場所を作っているので、お世辞にも座り心地がいいとは言えないが、 タルヴィもザリチュもレムの場所を用意するために荷を手持ちにしているからには、文句は言えない。 ただ、タルヴィが荷の他に加えて巻いた天幕まで抱えている割に、ゼリエは小さい袋を肩にかけている程度である。 ぼーっと見ていると、ザリチュが目聡く視線に気付いて、したり顔で話し出す。「アネさんはまだまだ体使うのは不安だからね。こないだまで姉ちゃんの座ってるそこにいたの、アネさんなんだよ」「その時は、荷物はすべて抱えることになったからな。歩きづらくて困ったぞ」「ザリチュお前体使うってオイ」「サル兄、そっちじゃない」「世話になりましたね、タルヴィ」「ちょっ、ババア、いやタルヴィおめー」「だからそっちじゃないってサル兄」「まあ、牛の女ならいざ知らず、貧弱な種族の女に重い荷を持たせたとあっては闘牛士の名が廃るというものよ」「牛の女ならば良いのですか」「おう。牛の女は男より強いぞ。下手に優しくしようとするとぶっ飛ばされるのはこちらの方だ」 ゼリエが大人しくタルヴィに背負われている姿は、想像しようとしてもなかなかうまく行かない。 大人しく担がれているのもゼリエらしくない印象だと思ったが、澄ました表情を見る限りでは本人はあまり気にしていないらしい。「そうだ姉さん、昨日の馬鹿どものお陰で俺様の一張羅が穴だらけだ。繕ってくれ」「後で構いませんね」「もちろんだ」「タル兄、昨日の内に言っておけばよかったんじゃん」「昨日はチビ黒の世話が忙しそうだったではないか」「タルヴィおめー、自分の分ぐらい自分でやれよ。俺がやると布の皺がどうだ、糸の締め方がどうだってうるせーくせによ」「そういや、アネさんに一番細かい文句つけてたのタル兄だよね」「今の姉さんの腕前で直せる範囲しか言わなかっただろう。それに慣れぬことは数を重ねてこそだ。女が裁縫の一つもできんなど。俺の里では千本針で」「またそーいうのかよ……」「あれ、姉ちゃん何複雑な顔してんの」 ザリチュに見咎められて、慌てて顔を逸らした。 被服廠に任せきりで、レムも家事の類は最低限の処置しか身に付けていない。 うかつに尻尾を出せば、最悪の場合、闘牛士練習生レベルの特訓を課される危険性すら感じる。「ほらタル兄、姉ちゃんドン引きじゃん。そのスパルタやめようよ」「まったく、なんだその弱腰は。この程度を始めもせんうちに不満を垂れるようだから、お前たちの種族は貧弱なのだ」「タル兄の特訓受けたらオイラたちなんか十分で破裂するって」「心配するな、筋肉が痛まんように包帯で固めてトレーニングに臨むこともできる」「そういう返事を期待してるんじゃないっての」「なあババア、あんな奴らの言うことなんざ気にしなくていいからな。でも裁縫は練習して、ネーム入りで俺の服作ってくれよ」「そこに居られると歩きにくいのですが」「うわサル兄センス悪い。オムライスにケチャップでハートとか描いてもらいたいタイプ?」「ネーム入りだと? 兄貴、闘士になるのか」「うっせバカリングコスチュームじゃねえっつのタココラ」 ハートの何が悪いんだ、とサルヴァが兄弟で揉めている間に、ゼリエがそそくさとレムの方へ回ってきた。「どうですか、具合が悪くはありませんか」「大丈夫だ」「いつでも言いなさい。この分ではどうせ野宿でしょうから、どこに留まっても差はありません」「ああ」 平静を装ったものの、精霊直結の反動は神経系に来ているのである。上下にずっと揺られる状態で、乗り物酔いになっていた。 あまり調子が芳しくない様子を見て取られたか、ゼリエが三人に声をかける。「今日はどこまで行くのですか」「ああ、そうだったな。おいザリチュ、どうだ?」 サルヴァに言われて、ザリチュが鼻先をくるくると辺りに向けた。「まだしばらくは大丈夫だね」「正確な距離はわからんのか」「無茶言わないでよタル兄、オイラたちのはあくまで勘なんだから」「ま、しょーがねーわな。でも輝きの川ん時みてーにホント紙一重のところでこれ以上行くなァッ! ってのはカンベンしてくれよ」「だからコントロールできたらやってるって……」「目安はありますか」「なんだババア、疲れたんなら言えよ。遠慮しなくていーんだからな、特訓だトレーニングだ言ってるのはこの脳ミソ筋肉だけだからよ」「兄貴、そこに居ると姉さんが歩きづらいだろう」「邪魔すんなこの牛オイコラつまむな前からじゃねーと揺れてんのが見えねーだろうが」「揺れていません」「いや、歩いてるだけじゃ揺れないよサル兄……」「何がだ」「もうタル兄はいいよ……」 再び、ゼリエがレムの正面辺りに回ってくる。「邪霊の規模にもよりますが、精霊返しは基本的に時間がかかります。まずは邪霊の周囲を囲むように楔を打ち、邪霊が流れるのを防ぐことから始めます」「なんだ姉さん、チビ黒の心配か」 タルヴィが背負子を背負いなおす拍子に、レムの体が跳ねる。「気分が優れないようでしたのでね。あまり揺らさないでやってください」「ん、そうか」「ガキの心配とはさすがババアだ! なあなあところでよー、俺もちょーっと頭痛が痛えんだ」「そうですか」「いかんな兄貴、風邪か? 鍛え方が足らんから風邪など引くのだ」「サル兄の場合は木に頭ぶつけとけばそっちの痛みと一緒に頭痛も引くよ」「おめーら……」「その楔は、どこに打つんだ?」 すっかりしおれたサルヴァを横目に、話もひと段落ついたようなので、レムは自分が寄りかかっている背中の主に声をかけてみる。 初めのうちこそ警戒が厳しかったが、この牛もなかなか面倒見が良い。おそらく一番きめの細かい助けを出してくれるだろう。 とは言え、牛が空を仰いだのが背筋の動きで感じられる。「楔か。兄貴、どうやって決めているんだ」「あー? あー。ありゃ勘だ」「ちょっと待ってよサル兄、オイラがそろそろギリギリだって言った時に結構、いやまだまだって言って先進んだよね!?」「それも、勘ですか?」「そうだぜ! すげーだろ、鼠の勘を上回る俺の技量! 自分で言うのもなんだけどよ、この辺りじゃ有数の返し屋だと思うぜ、俺。こーいう男が旦那だといーんじゃねーかなァー、なあババア」 「勘なのか……」「勘かあ……」「な、なんだよおめーら」 あからさまにがっかりしている牛と鼠に、サルヴァがやや腰が引き気味になっていた。「邪霊に近づきすぎると、楔が災厄の風を受けて無力化されてしまうので、打つ場所は吟味しなければいけないのですが」「単純に俺様たちも危険だというのもあったな」 ゼリエが注釈を加えながら、ちらりとサルヴァを見た。先行き不安さは拭いようがないのであった。「なんだよ……俺が悪いみてーな空気しやがって」「いや、兄貴」「だって、ねえ」「少々、買いかぶっていたかもしれません」 牛の背中からすっかり覇気が欠け落ちていた。「チビ黒も具合悪いことだし、そろそろ一休みせんか」「そうですね。邪霊との距離がわからない以上、慎重に進む必要もあるでしょう」「なんかオイラどっと疲れちゃった」「何だよオイ、そんなに言うことかよ、おい、無視すんなよ、なあ!」 サルヴァはまだ進みたいようだったが、もう牛はレムを近くの手ごろな倒木に座らせているところだった。
休憩地点からそう遠くない箇所に、野営に適した場所を見つけ、結局そこを拠点にすることになった。 段差に一体化するようにタルヴィが簡易天幕を張る傍でゼリエが敷布を延べ、ザリチュは細かい部品で二人が組み立てたものを補強して回っていた。 サルヴァは荷を解きながら、周囲に神経を張り巡らせている。 一通り野営の準備が整ったのを見て、慣れた手つきでタルヴィの抱えていた荷包みから、何の変哲もない鉄の棒を取り出した。 何本も束ねてあるうちの一本を引き抜き、その場に横倒しにする。「さーてっと」 鉄棒の前にあぐらをかいて両手を揉み合わせ、袋を取り出し、中の粉を手に取った。 見る間にサルヴァの赤毛が、粉で白くなっていく。「何をするんだ」「マジナイをかけんだよ。邪霊が嫌がるようにな」 病人だからと真っ先に毛布に丸められたレムに、サルヴァはちらりと視線を送った。「お近くの邪霊の正体がわかりゃ、取り込みに来る気も起きなくなるようにできるんだけどな。わかんねー場合は、まあ嫌がらせだ」 言っている間にも、タルヴィが最後の仕上げとばかりに結び目を締める横で、ザリチュが天幕からちょろりと走り出ていったり、ゼリエが保存食を取り出したりしている。 「その粉はなんだ?」「女の小便を乾かしたモン」 なんでもないかのように、サルヴァはさらりと言った。「意外と大変なんだからな、これ集めるの。干したらほとんど残らねえし、砂とか埃とか混じらねーように気を使わなきゃなんねえ。しかも鉢ですり潰すんだぜ」「なんで、そんなのを使うんだ」「嫌がらせだからな」 鉄棒をしごいて手の粉を擦りつけながら、サルヴァが言う。見たところきめの細かい粉で、とてもそんな原材料には見えない。 だが、確かに小便の粉だと言われれば、あまり触れたくもなくなる。「そうそう、ウンコ食べる生き物でもなけりゃ、ウンコ置いておくのって結構効くんだよ」「ウンコウンコうるせーよ。そーいうのが効くのは、狼より格が上の奴だけだよ」「どうしてなんだ」「それ以下になると、きたねー場所でも生きてる奴が多いからな。そーいうのにはシモは効かねーワケ。ま、所詮嫌がらせってのはこーいうことよ」 精霊となれば神秘で不可侵な印象があるが、こういう話をされると途端に俗なものに感じられて、なんとなくイメージが崩された気分になる。「兄貴、その粉はそろそろ少ないのではないか」「そーなんだけどなー。作れねえだろ」「でもアネさんと姉ちゃんいるよ」「バカおめー小便くださいって頼めってか。変態じゃねーか」「変態ではないか」「今さら気にすることじゃないって、サル兄」「おめーらって奴はもー」「足りなくなったら、その、協力したほうがいいのか」「気にしなくていいって姉ちゃん。若いうちから変態プレイに付き合わないほうがいいよ」「ザリチュてめー誤解招くようなこと言うんじゃねえ!」「後ろめたいことがないのなら、率直に頼めばいいだろう」「言えるかおめーバカ! こんなキリッて顔作って『邪霊を鎮めるために君の小便が必要なんだ』とかゲンコツ確定じゃねーかボケ!」「やって見ねばわかるまい。俺様の里の女たちなら、おそらくくれるぞ。随分肝が小さいじゃないか、普段の豪胆さはどうしたんだ兄貴」「俺が小せーんじゃねー! おめーらがおかしいんだ!」「なになに、チンコの話?」「小さくねーっつってんだろォーが!」 喚き合っているのを眺めていると、一通り荷解きの終わったゼリエが、レムの横に座った。「まったく、騒がしくていけませんね。具合はどうですか。頭は痛くありませんか」「まだちょっと気分が良くない。すまないな」「気遣いを受けたときは、謝るのではなく礼を言うのが良いそうですよ」 そう言いながら、敷布のない露出した地面を軽く掘り、石で囲いを作って木切れを組み上げている。「手伝おうか」「結構ですよ。休んでいなさい」 板切れのような装置で細い布切れに火をつけ、今しがた組んだ木切れに放った。「無理をして普段の生活を保つよりも、休む時はしっかり休む方が、早く回復するのでしょう」「だからそうじゃねーって! ホントにコレが効くんだよ!」「でもサル兄、変な文字切ったりとかでも邪霊払いできるんだよね」「大体、原料がわかっていながら直接手で触るものなのか」「あーもーだからおめーらは」「静かになさい」 低く抑えた一声で、騒いでいた三人が火の向こうで一列に正座する。「サルヴァとザリチュは適当な楔の位置の確認に行きなさい。タルヴィは夕食用に使えそうな野草集めを。私はこの子の面倒を見ています。異論はありますか」「ありません!」「結構です。すぐに取り掛かりなさい」「ほら怒られた」「俺のせいかよ」「飯の準備は姉さんが練習した方がいいだろうに……まあ構わんが」 ゼリエが言うと、三人はそそくさと散っていく。
祭儀には、夜の方がいいと言う。 さほど離れていないとはいえレムを一人で置いていくので、野営の天幕は低く作り、木の枝や枯れ草を被せ、さらに周囲に仕掛けを張り巡らせてある。 擬装の上に夜間ということもあって、少し見ただけでは、段差に低木の茂みがあるようにしか見えないだろう。 仕掛けは鼠お手製である。作るのは久しぶりだと言っていたが、慣れた手つきで組み上げ、あっさり仕掛けてきた。 何かが引っかかれば、かなり盛大な呼子が鳴るようにしてあるという。ついでに繋がれた細い綱が天幕の出入り口の支えを崩して、隠れるようにもしたらしい。「ま、コソコソすんのがオイラたちの取り柄だからね」「細かい種族はまだるっこしいのだな」「タル兄がいると図体デカいから隠れきれないんだけど、姉ちゃんぐらいなら大丈夫でしょ」「ん? 今のは悪口か?」「おめーらさっさと行くぞ」 こういう鼠の細工も、案外馬鹿にならない。「ザリチュ、野営が崩れたらレムは生き埋めになりませんか」「大丈夫だよ。倒れた柱で隙間できるようにしてあるから、そっちに這っていけば出られるよ」「もしうまく隙間ができなかった場合は」「ゼリエ、私は大丈夫だ。少し気分が悪いくらいで、動く分には問題ない」 体を起こして声をかけると、ゼリエは振り返って少しだけレムを見つめた。「そうですか。何か不都合があれば……いえ、もういいですね。では、行きましょうか」「そっちも気をつけて」 ザリチュを伴って天幕から出て行くゼリエに声をかけると、振り返って目顔で頷いた。 足音が遠ざかっていく感覚がある。やがてそれも離れていってしまうと、夜の山野の静寂が辺りに溢れた。 レムは、別に病や傷があるわけではない。ただ、感覚器官が万全の状態ではなく、動こうとするとそれが痛みを発するのである。 なので、このように大事にされると、逆に体力が余ってしまう。 毛布の中で暇を持て余していると、耳が不思議な音を捉えた。 音と思ったが、本当に音だっただろうか。音に近いから、耳が本来の器官に代わってそれを捉えただけのような気もする。 漠然とした音には、何か悪いものが篭っているような気がした。死んだ空気だ、と直感的に思いついた時、それをどこかで知ったことも思い出した。 間もなく、本物の音が流れてきた。 抑えた固い鼓の音がかすかに伝わってきて、続いて棒が何かを擦る、これも固い音が聞こえる。そして低く広がりのある、笛の音が続く。 繊細とは程遠い奏者たちが、楽器を繊細に操っている光景が目に浮かぶ。 続いた声は、聞き覚えのあるものだった。断崖城の尖塔で幾度となく手本に示された、高く力強い祭司長の謡だ。 だが、あの時聞いたような精彩は、今はなりを潜めていた。どこにどれくらい力を込めるべきか迷っているかのような、まるで剣を持ったばかりの子供の姿である。 謡手としての実力は十分にあるので、その落ち着かない声は随分と据わりが悪いように感じた。 先に感じた死んだ空気が、合奏に圧されていくのを感じると同時に、レムの神経が再びささくれ始めた気がした。 ぴりぴりと、感覚が痛む。目や耳の奥に異物があるような鈍い不快感がまとわりつき始めていた。 内側から膨れる不思議な痛みが、奏楽に合わせてじっとレムの感覚器官を揺さぶり続けている。 原因は奏楽そのものというより、ゼリエの声だった。 治りかかっている神経系には、ゼリエの力強さのある発声はまだ苦痛でしかないのだ。 手足を踏ん張って、じっと耐える。嫌な汗が滲んで、体のあちこちに不快な湿りを作っている。体はむしろ冷えていくようであった。 火が消された天幕内はところどころに暗闇が凝固していて、感覚に触れるような物は他にない。 毛布を被って神経の痛みを我慢しているうちに、時間の経過もよくわからなくなってきた。 一旦落ち着くかに見せて、波のように戻ってくる苦しさを堪えた。さすがに、眠るような余裕はどこにもない。 呼子が鳴る様子もなかった。せめて、体を動かす状況になれば、こうして対処のしようのない痛みに耐える苦しさも、多少は晴れるだろう。「ちょっとちょっと姉ちゃん大丈夫?」 はっと顔を上げると、ザリチュの鼻先がふにふにと動いている。「あ、あれ」「なんか出かける前より具合悪そうになってるよ。ちょっとアネさーん」 どこから意識がなくなっていたのか、いつの間にか外から入り込んでくる空気に、夜明けの気配が混じっていた。「なんだなんだ、眠れなかったか?」「夜更かしはいかんぞ」「そんなわけはないでしょう」 どやどやと寄ってくる牛と赤毛狼を押しのけて、ゼリエが傍に膝をついた。「確かに顔色が良くありませんね。どうしました」 もう体の内側に熱い湯を流し込まれているような感覚はないが、痛みというほどではないにしろ、疼きは残っている。 あまり休まらなかったせいで、頭が膨れるように痛い。「音楽が聞こえてきたんだ。それで、その」「はーん」 サルヴァがあごに手を当てた。「楔の調べが効いたって事か。邪霊に、俺たちが見てるぞって知らせるものだからな。神経に響いたってのも、ない話じゃねーな」「ほら、サル兄の笛が下手だから」「そりゃ関係ねーだろ! てか指がつるくらい練習してんだからな! それならタルヴィの太鼓がでかすぎたって方だろ!」「兄貴、俺はこれでも撫でるように音を出しているのだぞ」「撫でて音が出るかよ」「さすがにそれは大げさでしょタル兄……」「いや、楽器だけなら」 言いかけて、レムは言うべきではなかったと気がついた。 調子が戻るまで、自分一人が耐えれば済む事なのだ。 頼みにしていた祭司の技にまで瑕があったと知って、どう思うだろう。「なんだ黒チビ、楽器以外でやられたのか」「あっ、ハハハ、そうかあー! なーババ……」 大笑いして振り向いたサルヴァの声が、尻すぼみに消えた。 案の定、ゼリエの表情は動いていなかった。 断崖城で見た、能面のような無機質さが戻っているようにも見えた。 少し荒れた細い指先が、レムの顔を撫でる。「迷惑をかけてしまいましたね」「いや、あの、ゼリエ」「サルヴァ、私はしばらく楔打ちには出ないことにします。そのつもりで」「ん、あー、まーいーけどよ」 レムが取り繕う間もなく、ゼリエは立ち上がって傍を離れていった。
天幕の外で、サルヴァが笛を吹いている。 下の方が塊状に丸く広がった、笛というにはやや奇妙な形状をしているが、不思議と澄んだ音が出た。 降り注ぐ朝の光が木々の梢に弾けて飛び散る様が、細かな粒となって目に見えるようだった。 サルヴァにとっては、幼少の頃から日に百度も吹かされた音である。運指によどみがあるはずもなく、そよ風のような自然でなめらかな音が、辺りに広がっていた。 天幕から、鼠の鼻先が頭を出す。続いて、牛が体を縮まらせながら幕を持ち上げて外に出てきた。サルヴァは、笛を口から離した。「二人とも寝たか」「うん。あのさ、サル兄」「わーってるよ」 何事かを言おうとしたザリチュを押し留める。「今後も、姉さんを連れて行くのか。俺たちにもあまり何人も連れて行く余裕があるわけではないだろう」「役に立たねーワケじゃねえだろ。邪霊払うにゃ、あの腹に力の入った声はもってこいだ」 まだ何か言いたげなタルヴィだが、素直に黙った。「でもサル兄、なんか気になるんでしょ」「ああ、そうだな」 くるりと笛を回転させ、肩に当てる。「なんつーか、気にしすぎなんだよな。そのせいで、ここんとこ声に張りがねーだろ?」「気位が高いようだからな。扱いづらい女だ」「歌に自信あったんじゃないの? それが姉ちゃんの頭痛の原因になっちゃったから」「ンなとこだろーな。魔法もなしで神経刺せるのも技だと思うけどなあ。前にもそれじゃ鎮めができねえっつったのを、まだ悩んでるみてーだしなあ」「子守唄で良かろうものを、そんなに難しいか。なんなら俺様がひとつ手本を」「わーわー、勘弁してよタル兄」「おめーの太い声なんぞ聞いたら子守どころか余計泣くわ」「むしろ気絶して大人しくなっちゃうよ」「なんだと、俺様はこれでも里で一番の美声で通ってだな」「うわ、牛の里行きたくねェー」 発声練習を始めた牛を止めようとしている鼠を眺めながら、サルヴァはぼんやりと唸る。「兄貴、笛を合わせてくれ」「タル兄、本気で歌うつもりなのかよ」「もういいから俺たちも寝ようぜ。見張りの順番誰だ? 俺寝ていいか?」「ここはくじで決めるのが妥当ではないか」「いやいや、昨日はオイラが二人の分も頑張ったんだからオイラが」 夜になったら、昨晩より遠いところへ楔を打ちに行かなければならない。タルヴィの言うとおり、常に伏せり続けている子供を一人抱えていると、少々負担が増える。 また笛を吹く気にもならず、サルヴァはぼんやりと顔を上げた。 木々の切れ間から覗く青空に、薄く煙が流れていく。「どっかで何か焼いてやがんのかなあ……」「昨夜楔打ってる時に騒がしかったの、これじゃない?」「打っていたのか」「タル兄……」「いや違う、言い間違いだ。騒がしかったのか」「タル兄……」「ええい同じ反応をするな、嫌味な奴め!」 どこかで、集落が焼かれたのかもしれない。「昨日の奴らかもしんねーな」「焼き打ちか? 非道な奴らだ。あの場で全員吊り上げておくべきであったか」「いや、でも昨日の騒がしさにアブない感じはしなかったよ」 鼠の直感には、必ず言葉の前に「自分たちにとっては」が付く。 だからこそ一蓮托生まで関係の深まったサルヴァたちには有用に働くが、近くの集落が襲われていたとしても察知することは少ない。「こういう時にお前の勘は当てにならん」「なんでさ」「悪漢をへし折り弱者を叩き直すのは、闘牛士の心得よ。だと言うに、お前は自分に関係のない事は見落とすからな。助けに入れる場面をいくつ逃したやら」「オイラたちは人助けなんてしてられるような出来はしてないの! それにタル兄が弱者叩き直したら、せっかく助かった人が手遅れになっちゃうよ!」「開き直るな、肝まで小さいか! 力が足らんなら、俺様が特訓メニューを」「サル兄、黙ってないで助けてー!」 もし昨日の連中なら、この後どこに行くかわからない。「タルヴィ、ザリチュ、今夜の楔はなしだ」「ん、そうか。どうした兄貴」「オイラには何も変な勘は来てないけど」「ああ、わかってら。でも俺が嫌な予感がすんだよ」 直接的な危険を余さず捉える鼠は、逆に直接的でない危険に鈍感になってしまう。予兆の段階は見落とすことが多いのだ。 結果、鼠の勘が捉える場面になった時、かなりのものを切り捨てて逃げなければならないことも多い。だから、ザリチュに頼り切るわけにはいかない。 これは勘というよりも、北部山岳地帯で生き抜くための慎重さである。「ま、傷心のババアを慰めて甘いひとときでも過ごすか」「無理無理」「諦めろ、兄貴」「うっせ。おめーら、くじは作ったのかよ」「あ」「おい豆助、さっきから手が動いていなかったが」「なんでオイラばっかりなのさ! タル兄の方が器用じゃん! オイラが作ると小さくて取りづらいって文句言うしさ!」「お前こそ、俺様が作ればでかすぎると言うではないか。己の怠慢を棚に上げるか」「まあいいから、とりあえず戻ろうぜ」 もしこの辺を通過するとしたら、見つかるような場所にいるべきではない。
夜になったが、三人は出かける様子を見せなかった。 ザリチュが保存食を取り出して適当に取り分けているのを見て、サルヴァが鍋を火にかけながら、ぼんやりと呟く。「あー、乳があるといいんだがなー」「サル兄、やっぱりおっぱい目当て……」「バカそっちじゃねーよ。鍋だ鍋。乳鍋」「前に分けてもらった乳は固まっていましたからね」「具も足らんぞ。いくらなんでも、草ばかりというわけにも行くまい」 言いながらタルヴィは、乾パンを小さく砕いて鍋の中にばら撒いていく。 鍋ではあるが、あまり多くない携帯食を雑炊状にして、水増しするのが目的である。数切れの燻製肉を細切れにし、適度に千切った野草と一緒に鍋に入れる。 煮崩れて味が行き渡るまで待つのだそうだ。 味付けなどにこだわりを持つほど料理が出来るわけでもないレムには、それがいいかどうかはわからない。 ただ、たまに材料の味を生かすために、それほど煮ずに食べる場合もあるらしい、ということを覚えている。「なあ、今日は楔を打ちに行かないのか」 顔を上げて聞くと、牛が細かく鍋の中身をかき混ぜながら応じる。「おう。兄貴が嫌な予感がするとな」「サルヴァが? 鼠がいるのにか」「頼りきりってわけにもいかねーだろ」「ま、最終的にはサル兄が判断することだからね。少なくともオイラは何ともないから、安心して寝てていいよ」 乾パンをかりかりと細かくかじりながら、ザリチュが鼻先を持ち上げた。 ふと、鍋の様子を見ていたタルヴィが呟くように言う。「姉さん」「なんですか」「歌の事だがな」 空気が張り詰めた気がした。「おいタルヴィ」「ここは黙っていてくれ。姉さん、俺様は黒チビが頭を痛めんように歌えないからやらん、というのには反対だ」 少し前のめりに、タルヴィははっきりと言い切る。あごが鍋の湯気に炙られているが、そんなことなどお構いなしである。「どういうことですか」「今の歌い方が駄目なら、特訓するまでだ。大人しくしているばかりでは、何も変わらんぞ」「ですから、レムの具合が落ち着くまで」「今のなよついた歌い方が、一番駄目だ」 ゼリエの言葉を、タルヴィは断ち切った。「あーあー、始まった始まった」「タル兄、頑張れば何でもできると思ってるからなあ」「しかも一度信じたら疑いもしねえ。だから牛頭ッつーんだよ」「谷に飛び降りて怪我してから、ちょっとは学習したかと思ったのに」「そもそも何でアレで怪我で済んでんだよ」 蚊帳の外で、赤毛狼と鼠が何やら怖いことを囁きあっている。「それに前にも言ったが、姉さんの歌は邪霊を追い払えても、眠らせることはできん。チビを見ればわかるだろう。強いのだ。このチビの反応が、そのまま邪霊の反応だと思え。精霊返しは、眠らせるものだ。追い払うものではない」「何が言いたいのですか」「ええい、最初に言っただろう。歌わんなどと言うのは反対だ」「レムで試せというのですか」 ゼリエの眉が、つと上がる。熱弁を振るう牛は、言葉を編むのに一生懸命なのか、気付いた素振りもない。「違う。チビに頭痛をさせずに歌うのだ」「おい、タルヴィ」 呆れた様子のサルヴァが、待ちきれずに口を挟んだ。「それができりゃ苦労はしねーだろ」「だからやるのだ。次はしくじらんと覚悟を決めて」「バカ言ってんのもほどほどにしろ」「そうだ、兄貴。バカになるのだ。元々特訓などというものは、余計なことを考えてできるものではない。黒チビの具合が気になるなら、チビが頭を痛めなくていいように歌うのだ。試さねば、うまいやり方など見つかるはずがない。とにかく俺様は支障があるからやらん、などというのは反対だ。姉さんとて、そんななよついた台詞を吐く性格をしてはおらんはずだ」 ゼリエは手を止めてタルヴィを真っ直ぐに見据えたまま、身動きもしない。 尖塔で幾度となく向けられた表情が、また表れていた。タルヴィの言う事にも、一理あると感じたのだろう。「ゼリエ、私の事なら気にしなくていい。これくらい、たいしたことはない。修練の方が厳しかった」 あと一押しすればゼリエは思い切ると考えて、レムは口を挟んだ。 だが、レムに目を向けたゼリエの表情に、鉄面皮の雰囲気が消えている。彼女には、まだ思い切ることができない。その原因がレムであることは間違いない。 人当たりの柔軟性が増したが、いかなる時でも自分を通すような強さもまた、柔らかくなってしまった。「考えておきます」「考えるだけでは駄目だ、今決めるのだ」「もういーから大人しくしてろ、おめーは。言う事ァ全部言っただろ」 うんざりした表情のサルヴァが、タルヴィを引き戻した。鍋の湯気が、天幕まで登っていく。「ザリチュおめー、普段はキーキーうるせー癖にこういう時に混ぜッ返さねーでどこで……」 苦々しく振り向いた先で、鼠が余裕を失った表情でサルヴァを見返していた。「さ、サル兄」「ッたく、なんなんだ今日は……どうした」「こんなところで、煮込みなんか食ってる場合じゃないかも」「どういうことですか」 ザリチュは喋ろうとするが舌がもつれそうになり、唾を飲み込んで呼吸を整える。「楔がさ、あの、今日楔」「落ち着け。鍋に突っ込むぞ」 タルヴィに鼻先を指で弾かれ、痛そうに押さえながらどうにか言葉をまとめる。「今日、楔見てなかったのは失敗だったかもしんない」「どういうこった」「わかんないよ! でも、なんていうのかな、えっと」「それが鼠の勘ってものか」「そうそれ、とにかく楔がヤバい事になってる気がする」 ぼんやりと疑問を口にすると、一番落ち着いたほうがいい鼠自身が疑問に答えてきた。 そわそわしているザリチュを見下ろしながら、タルヴィが腕を組む。「ふむ、とすると、どうする兄貴」「オイラとしちゃもう楔どころか、ここの邪霊放り出して逃げちゃうのが一番お勧めだけどさ」「そういうわけにゃいかねえ。邪霊前にして逃げたなんて知れたら、大叔母さんにケツに楔突き刺されちまう」 サルヴァが顎を撫でている間、牛と鼠は大人しく待っている。「見に行くのですか」「そーだな……とりあえず、腹ごしらえをしていった方がいいだろ」 ふつふつと煮立った鍋に木匙を突っ込み、大雑把に中身を取り分け始めた。 舌が火傷しそうなほど熱されていたそれは、味がぼやけてしまっていて、食べるというよりは流し込んでいるような気分だった。
食事が終わってからすぐ、楔の様子を見に出ようとするサルヴァを、強硬に止めたのはザリチュだった。 鼠の勘は、何が危険かまでは特定できないと言う。嫌な予感も、楔に関わることだというくらいしかわからなかったらしい。 見に行かなかったのは失敗だったのではないかと判断したが、だからと言ってすぐ見に行くにも、ザリチュは危険を感じている。 結局、夜が明けてから行くことになった。「ねえサル兄、やっぱりやめとこうよ」「珍しくしつけーな。そんなビリビリ来てんのか」「おいネズ蔵、昨日のうちに見に行っていたらどうなったと思う」「タルヴィおめーそりゃ俺のカンが外れたって言いてーのか」「兄貴は当てにならん」「うわ、はっきり言いやがった」「もしも行ってたらなんてわかんないよ。オイラ別に考えがまとまってるわけじゃないもん」「ほら見ろ俺のキレのある冴えた思考の方が頼もしいだろオイ」「確かに、二度に一度は読みが当たるな。コイン投げと同じ的中率だ」「てめコラそりゃアレか、俺が小銭レベルだって言いてーのか」「二人とも聞いてよ! オイラいつになくシリアスだろ! ねえ、ちょっと!」 レムは天幕で寝ていていいと言われたが、無理を言って一緒についてきていた。 あのまま一日横になっているばかりでは、体が鈍る一方である。自分の足で歩くことにしたが、やはり思ったとおり疲れが早い。 元々口数が多い方ではないが、レムの様子をそれと察したゼリエが何も言わずに隣を歩いている。 前を行くサルヴァの足が止まった。 ザリチュの頭越しに見ると、一昨日にサルヴァが磨いていた鉄の棒が、地面に倒れている。 その尖端のところに、楔を無理矢理倒したかして、地面を抉り出したかのような小さな穴が開いていた。おそらくあれは楔の刺さっていた穴だろう。 皆が足を止める中で、サルヴァだけが楔に近づいていく。「ザリチュ、なんともねーか」「うん。やーな気分は変わってないよ。強くもなってない」「どうだ、兄貴」 神妙な顔つきで楔と穴の周りを見渡し、サルヴァは顔を上げた。「タルヴィ、ザリチュ、その辺を探れ。バカが引っこ抜いただけかもしれねえ。なんでもいい、痕跡を見つけろ」「承知だ」「わかった」「ババアとチビ助はその辺で見張りだ。変なモンが来やがったら言え」 返事を待たず、サルヴァも周囲を調べ始めた。 一体どうしたのか、レムにはよくわからない。 近くの何もない地面に腰を下ろしてしばらく三人の作業を見守っていたが、見張りを言い渡されたのを思い出して、周囲に視線を向ける。「サルヴァ」「悪ィなババア、甘い囁きは後でな」「そうではありません。何を探しているのですか」「なんかが居た痕跡だよ」 言い捨てて、サルヴァは少しだけ考えて言い直した。「楔が何かで抜けたんなら、面倒くせーがまた打ち直しゃいい。だから楔がなんで抜けたか探してんだ」「その言い方だと、それ以外の可能性もあるってことか」「おう」 尋ねてみたレムにも、はっきりと頷く。「もしこれがひとりでに抜けたとしたら……」「そんなことがあるのか」「見たことはないぞ。だが、兄貴はまだ精霊返しの秘伝をいくつも隠し持っているのだ。その中に、ひとりでに抜ける楔があるのやもしれん」「ねーよンなモン。いーから黙って探せ、おめーモノが小さいとすぐ見落とすだろ」 細かな気配りを見せるタルヴィを睨みつけ、気を取り直してサルヴァは声を潜める。「楔は邪霊にとっちゃ邪魔者でな、俺たちがここに楔を打ったのは、邪霊が嫌がってここから動かねえようにするためだ。だから邪霊にとっても、楔はねえに越したことはねえ」 少し言葉を切って、何か考えるような素振りをした。「楔がひとりでに抜けたとすりゃ、間違いなく邪霊が楔を引っこ抜くぐれーに強くなってるってことだ。楔を打つ場所を考え直さなきゃなんねえ。予定していたより、返しの時間もかかる」 「ええい、何も見つかるはずがなかろう」 体を縮めて木や草の様子を調べていたタルヴィが、体をみしみしと軋ませながら大きく伸びをした。「兄貴、何もないぞ」「おめー普段こまごまとうるせー癖に、こういう時だけズボラになりやがっていい加減にしろ! 場合によっちゃ命懸けなんだぞ!」「返しも止めればよかろう、俺様が今度こそ邪霊めを捻じ伏せてくれる」「タル兄、ひとり一週間戦争またやるつもり……?」「あれで懲りろよ」 同じく地面を探っていたザリチュが、うんざりした表情で振り向く。「でもサル兄、本当に何もないよ」「そうかよ。そんじゃあ、そーだな。どうすっか」「兄貴、俺様の時と扱いが違うではないか」「おめーは大体見当はずれじゃねーか。何が何でも腕っ節で解決しようとしやがって、それで片付くんなら一族総出で棍棒担いで出てくるっつーの」「なるほど、人手が足らんのだな」「おめー俺の事バカにしてんだろ」 顔をしかめたまま、サルヴァは横倒しになっている楔を取り上げた。「こいつはもう駄目だな」「サル兄、駄目ってどういうこと?」「もう邪霊の側になっちまってるってことだ。下手すりゃ、邪霊の近くで持ってたら体力吸われるかもしれねー」「どういうことだ。元は兄貴の楔だったのだろう」「あーもーおめーはどーしてそー」「敵の虜になって、敵の下で使われている状態だと思いなさい」「なるほど。だが、それなら兄貴の下に戻ってくるのではないか」「タル兄、男と女には色々あるんだよ。元鞘ってわけには、いかないんだ」「一番チビの癖に何を知った風な事を言っている」「オイラこれでも鼠にしちゃ結構年長なんだからね! 20も生きてて成人にもなってない種族とは一緒にしないでよね!」「おいザリチュおめーそれだと何がおめーの味方だよ」「ん? えーっと……」「それで、どうするのですか」 楔を邪霊のいるであろう方向に大振りに投げ捨て、サルヴァは手の土を払った。「引き上げるしかねーな。帰る道々、次の楔の場所を選ばねーと」 ふと、何か思案している面持ちでゼリエが言う。「サルヴァ、邪霊が楔を抜いたということは、邪霊の影響範囲が広がっているのですね」「おう、そうだぜ」「楔を打ったのは、ここが邪霊の力の及ばない、水際の位置だったからですね」「おう。なんだババア、心配か? 一緒に寝るか?」「結構です」 まだ何か言おうとしていたのだろうが、サルヴァの様子を見て、鼻からため息をついてやめてしまった。
天幕に戻ってからは、なんとなく重い空気が漂っていた。 戻ってくる途中で、楔を新たに打つ場所をいくつも探してみたが、どれもザリチュの反応が芳しくなかったのである。 自称頭脳担当のサルヴァは、帰り道からずっと、ザリチュがどこに対しても渋っている意味を考えていた。「一番イヤなのは、とっくにここが邪霊の腹ン中ってパターンだな」「それだともうわかるんじゃないか」 どっしりと腰を下ろして考え込んでいるサルヴァに、レムは声をかけてみた。 なまった体には山道の往復の疲れが染み渡っていたが、病人扱いされ続けるのも面白くない。 目の前の鍋では、昨日と同じ食事が煮えている。また、あの味のメリハリに欠ける流動体になるのかと思うと少々気が重い。「手の届く範囲の者は、力を吸われるんだろ。もし私たちが邪霊の範囲に入ってるならさ」「そーなんだよな。でもなんともねーだろ。それが引っかかってんだよ」「案外、腹の中だがわざと手を出していないのではないか」「何のためにだよ」「俺様は知らん」「考えもなしに喋りやがっておめーは」「何かわからんのか、ネズ五郎」「だから鼠の勘ってそういうもんじゃないんだってば」 力強くかき混ぜられ、鍋の中の固まりが次第に細かくなっていく。「ともかく、今日のうちに楔の位置が決められなかったのですから、今夜の出発も自重せねばなりませんね」 ゼリエは、タルヴィの服の破れを縫っている。 断崖城の下級の祭司には、祭具に使う文様刺繍などを作る役目もあったはずだが、ゼリエの手の運びはどうにもたどたどしい。 苦心しながら針と糸を操る手元をぼんやり見ていると、いつの間にかゼリエがレムのほうを見ていた。「刺繍とは、勝手が違いますからね」 何を考えていたかも、当てられてしまった。ゼリエは、そう言ったきり手元に集中している。 ますます考え込んでいたサルヴァは、おもむろに鍋から一匙掬って口をつけた。「そうだよなー、どこからどこまで危険かわかんねーのに、邪霊と直接鉢合わせする羽目になったらたまんねーもんな」「しかも夜中」「そーそー」 邪霊縛りの楔を打つ祭儀であるとはいえ、邪霊に干渉するのは間違いない。邪霊の勢力圏に入れば、排除しようと攻撃が来るだろう。「夜だと、精霊が強くなるのか」「ん、あー、まーなんつーか」「サル兄しっかりしてよ、こっちの変なのに詳しいの、サル兄だけなんだから」「変なのって事ァねーだろ、堕ちたりとは言え俺たちより上等な存在だぞ」「俺様はその上等な存在というのがわからん。俺様と何が違うのだ」「脳ミソがなくてもトンチンカンな事言い出さないってところじゃない?」「そーそー」「俺様のどこがトンチンカンだ。どちらかといえば二人ともそうではないか」「なんていうかさ、牛ってみんなそうなの?」「そうとは何だ、そうとは」「自覚ねーのか。あと腕力で全部なんとかしようとしねーとかな」「何だそれは。随分と軟弱な」「えええええええ!? そう来る!?」「筋肉がねーから精霊が大した事ねーとか言った奴俺初めて見た。マジお前の思考が精霊級だわ」「別に筋肉の有無がどうというわけではないぞ、体を張れん手合いは信用しにくいと、それだけのことだ」「お前筋肉の精霊とかなんかなんじゃねーの」「話を聞け、兄貴」「この場合話通じてないのタル兄の方じゃん」「どこがだ」「大体全部だ牛頭」 例によって余計な方向へ調子の出てきた三人に一瞥を投げかけて、結局ゼリエが口を開いた。「夜は静の世界です。生物の気流や魔素の流動は、それらの活動状態に従って沈静化します。精霊への干渉である祭儀を夜間に行う理由は、干渉に不要でありながら影響を及ぼしうる異質な存在の波及を避けるためです。つまり、夜間の活動はそれだけ、精霊あるいは邪霊へ、昼より直接的に接触を持つことになるのです。教えた筈ですよ」「そう、だったっけ」「間違いありません」 手元の繕い物に目を落としたまま断言する。少し離れた所で、言い争いを止めた三人が感心した表情で話を聞いていた。「そうそうそう、俺もそーいうことが言いたかったんだよ」「なるほどなあ。やっぱアネさんはわかりやすい」「どういうことだ?」「つまり、夜は焚き火の周りに人がいなくて近づきやすいだけで、焚き火が強くなるわけじゃないんだって話」「それはそうだろう、夜に火が勝手に強くなるなど、危なくて寝ておれん」「いやそうじゃなくてね……」 一向に脱線が収まる気配を見せない三人の横で、煮立った鍋の具が崩れていっている。「なあ、ゼリエ」「幼い頃には母や祖母に仕込まれた筈ですが、それなりの立場になってからは下位の者や被服廠に任せきりでしたからね」 手持ち無沙汰に任せて声をかけると、なぜか尋ねてもいないことを説明された。 弁解じみているのが、なんとも妙な気分だった。
天幕の中では、熾火の沈んだ明かりが目立つだけとなっている。 ザリチュの仕掛けの上に、さらに天幕の出入り口に三人が交代で見張りに付いていた。 だから、眠っていてもいいと言われていた。しかし、レムはどうにも落ち着いていられなかった。 遠くのどこかにある何かが、神経に障っている。いつ傷が癒えるのかもわからないというのに、これでは気の休まる暇がない。 体は疲れていたが、遠くの何かに刺激され続ける頭が眠ろうとせず、鉛のような体と波のような頭痛に苛まれ、かえって体力を消耗していく。 体の芯が冷える感覚を我慢しながら、寝苦しさを和らげようと、二度三度と寝返りを打つ。 うつ伏せでしばらく顔を地面に埋めていると、誰かが背をさすった。 ぎこちない手つきだったが、触れた部分の澱んだ疲れが払い落とされていくようであった。 そんなことをするような性格だとは思っていなかっただけに、少し戸惑ったが、大人しくされるがままに任せた。 ゼリエは、変わった。サルヴァたちのどうでもいい言い争いにも、怒り出すこともなく、適当にあしらえる余裕ができた。 でも、傍目からは楽しくやっているように見えても、陰では折れるほど歯を食いしばっている事もあり得る。その姿は決して見せようとしない。 そういう性格は、何があっても抜けることはないだろう。 歯を食いしばりながら、今までやろうと思ってもやらなかったことを、ひとつひとつ辿っていっているのだろう。 そう言えば、かつて夫がいたと言っていた。 そもそも彼女がレムの父母と同年代であれば、レムくらいの子がいてもいい年齢だろう。 考えても仕方がないことではあったが、一方的に袖にしていた夫とも、今ならばきっと、なんとかやっていけるのではないかと思った。 遠くの何かはまだ神経の傷口に染みるが、背中に触れる僅かな体温が気持ちを落ち着かせてくれる。 目を閉じて、じっと心を空にした。 沈んでいく。
相変わらずそっけない味の煮込みで腹を満たし、朝の出発の準備を整える。 楔が抜けた以上、再び様子見をしなければ夜に出るのは危険という判断だった。状況によっては、まだ日が高いうちでも楔を打ってしまうとも言っていた。 レムは今度もついていくつもりであった。外を歩くとなれば、失くした蛮刀に代わる武器が欲しかったが、 邪霊の規模の如何では楔が足りなくなるかもしれないと言っているサルヴァに、扱いやすそうな鉄の棒だから一本譲ってくれとは言えない。 近くの川から汲んできた水で顔を洗ったが、冷たさで気分はすっきりしても、昨夜から幽かに響いてきている違和感は未だにふとした弾みに神経に触れる。 もしかしたら、強力になりつつあるらしい邪霊と何か関わりがあるのかもしれないと思うものの、推測以上の事はできなかった。 準備を終えて天幕から先陣を切るサルヴァの様子は変わらない風ではあったが、前日以上に気を張り詰めているのがわかった。「どうだ、ザリチュ」「嫌な予感はずーっとしてるよ。それのせいで、細かいことはさっぱり」「あーあ、面倒なことになりやがった」「まったくだ。兄貴、こんなことをしていても仕方がないのではないか」 いかつい頭が、赤毛狼を見下ろす。「どういうこった」「楔を打っても、まだその後に本命の精霊返しが残っているのだろう。手間がかかりすぎではないか」「仕方ねーだろーが。楔で足止めしとかねーと、下手に暴れられてもこっちが危ねーんだから」「暴れる前に返すわけにはいかんのか」「あのさタル兄、無理矢理消そうとしても消えないから精霊返しやるんじゃん」「てか力技じゃどーしようもねーから眠らせて消すんだろーが」「そんな作法、聞いておらんぞ」「いや察しろよ」 やりとりは相変わらずの三人から少し離れた位置に、ゼリエが静かに歩いている。 元々あのよくわからない話に加わることは少ないとはいえ、今日はやや壁のようなものを感じた。 レムの視線にどこをどう気付いたのか、タルヴィの塊のような頭がぐるりとゼリエに向く。「姉さん」「何ですか」「ともかく俺様は、歌わんなどというのは認めんからな。やることはやるのだ」 返答を求める様子もなく、言いたいことだけ言ってタルヴィは背を向けてのしのしと歩いていく。 ゼリエはというと慣れたものなのか、もしくはついていくだけで精一杯なのか、取り立てて言い返そうともしなかった。 背筋を伸ばして、頭の位置を上下させずに歩く姿を見て、ふと背を撫でる手の感触を思い出した。「ゼリエ、昨夜は」 声をかけると、かすかにはっとした表情が浮かんだように見えた。 とはいえ、もういくら見直しても、いつもの涼しげな顔である。「寝苦しそうにしていましたから、少しでも楽になればと思ったのですが。余計でしたか」「いや、そんなことはない。お陰で眠れた」「そうですか」 レムの返事に、澄ました表情でそう言った。 サルヴァたちの話によれば、ゼリエに足りていないのは、邪霊という呼び名の荒んだ精霊を眠りに就かせる柔らかさだという。 確かにゼリエは、どちらかといえば威で打つような声を使う。だがもし昨夜レムを寝かしつけた時のようにできれば、精霊返しの技もサルヴァたちの満足のいくものになるのではないか。 いちいち言うのは無用な気遣いかもしれないと躊躇ったが、今のゼリエならレムの言う事を受け入れる余裕があるはずだ。 そのことを伝えるべく再び呼びかけようとした時に、ザリチュが引きつるように足を止めた。「どうしたチュウ七」「ごめん、みんな、あのさ、今まで気付かなかったって言うか、わかってたのかもしれないけどわざと隠されてたって言うか」「なんだよ、便所か?」「そこいらで済ませてくれば良かろう、今さら気にすることか。いや待て、そういうのも邪霊の養分になるのを気にしているのか?」「ならねーよ。好き好んでウンコからパワー吸い上げる奴がどこにいるんだよ」「いや、わからんぞ」「ねーよ。何のために楔に干した小便塗ってるんだよ。てか真面目に考えてンじゃねーよ」 ザリチュは、怪訝そうな視線を返す皆の顔を眺め回すように振り向き、恐る恐る口を開いた。 言った事が現実になってしまうと恐れているような様子でやや口篭った後、意を決して声に力をこめる。「あのさ、その、オイラがうっかりしてたのかもしれないけど、どっちかっていうと隠れられてたって方が正しいと思うんだけど、そのね」「簡潔に言いなさい」「さっき、いきなり来た。すごい危険、尻尾巻いて逃げるレベル」 ザリチュの声に呼び起こされるかのように、ざわめきが耳に聞こえた気がした。 タルヴィが辺りを見回すやや横で、総毛立ったサルヴァがじっと身動きを止めている。目に映るものより、毛先に触れるものを捉えようとしている。 そんなことをせずとも、こちらを取り囲む圧迫感は、もう肌に感じるくらいの強さになっていた。「チビ助、おめーがモノマに居た時に食われかけた邪霊ってのァ、木や草を動かして来たっつってたっけか?」「ああ、そうだ」「くそ、そうかよ」 返事を聞いて、サルヴァは焦りを滲ませた様子で鉄の管を取り出していた。 鉄笛であった。片手棍ほどの長さがあり、細身でいて肉厚のようでもある。廃村で火事場泥棒たちを追い払ったのも、これだろう。 直接行動に出た相手に対しての備えなのだろうが、それを手に取ったサルヴァの表情は決して余裕のあるものではない。 耳鳴りのような雑念が、痛みを伴わずに脳を串刺しにしている。急速に辺りに立ち込め始めたのは、打ち捨てられた廃屋の匂いだ。 タルヴィやザリチュもそれを感じ取っているのか、五感に混じった不純物への不快さが顔に滲み出している。「何かあるのか」「どうやらここの邪霊と、おめーがとっ捕まった邪霊は同じものっぽいってハナシだ……もうひとつだチビ助、精霊の起こす奇跡は見たことあるか」「ああ」「あ? ああ」 あまりにもあっさりと頷いたためか、サルヴァが一瞬言葉に詰まった。「サル兄、なんか話するなら急いでよ」「うっせーな、わかってるよ。いいか、精霊ってのは、魔法の力で俺たちじゃどうしようもないことまで操るけどな、精霊そのものが何かに干渉するわけじゃねーんだよ。 雨とか石とか落ちるモンの落ち方を変えるとか、メシがうまくなるとか、寝たきりの爺ちゃんがシャカリキに動き回るとかそーいう程度だ」 元々そう動くことができる方向へ、捻じ曲げるという意味だろう。しかし、周りから来る圧迫感に比べて、力の抜けるようなたとえである。「邪霊だって本来はそーいうモンだ。疲れを酷くしたり、死ぬほど頭痛くさせたりな。草やら生き物がぐったりすんのも、そこに長々といるからだ。俺たちも居座りゃ半日経たずに身動き取れねえくらい体力持って行かれるし、うっかり眠りゃ永遠に目が覚めなくなるが、まあなったとしてもそんなモンだ。でも、おめーの言ってた邪霊は、自分から動きゃしねえ木だの草だのを動かしたっつってたな」「なにか変なのか、兄貴」「ややこしくなるから黙ってろ筋肉が。それでだ、そいつにとってのフツーに手を貸すのに比べて、そいつにとってフツーじゃねえことをさせるのは、すげー力が要る」 「だから、何が変なのだ」「ッたく……タルヴィおめー、ヒョロい病人がクソ重てー荷物を棒で挟んで持ってけって言われたらどうだ」「何かのトレーニングか。握力を鍛えるのなら、もっといい方法が」「うるせえ黙れおめーに構った俺がバカだったよ」「今のはサル兄のたとえも……」「そういう話してる場合じゃねーだろ! いいか、早え話が、ちょっとでも力が欲しいはずの邪霊がパワーバカ食いすることやってるっつーんだよ!」「ほら全然関係ないじゃん」「うっせ黙れ話がすすまねー!」「それじゃあ」「そういうこった」 三人が一斉に外向きに円陣を組む。その少し開いた隙間に、レムも同じように入り込んだ。「相当キツいぜ、こいつは!」「そんな奴の腹の中に来たってことか!」 昨夜感じた神経の傷を擦られるような痛覚が、一段と迫ってくるようである。「くそッ、婆ちゃん適当な事言いやがって、全然規模が違うじゃねーか!」「サル兄知ってたんならもっと警戒してよ!」「しょーがねーだろ、どっからどこまでが邪霊かなんてのはわかりゃしねーんだよ! しかも今回待ち伏せ付きだろ! てかこれほどまでとは聞いてねー!」 言われてみればその通りである。既に邪霊の勢力圏の内側ではないかというサルヴァの懸念は当たっていた。 こうなってしまったのは、ひとえに邪霊を正確に測る術がなかったせいである。「もう、サル兄は肝心なところで抜けてるから!」「俺のせいじゃねッつってんの!」「ふん、何が相手か知ったことか! こうなれば闘るまでよ!」「バカかタルヴィおめー、どこ殴るつもりなんだよ!」「見つけ次第叩き潰す!」「だから何をだっつーんだよ!」 タルヴィは武器がなくとも戦う自信があるのだろう。戦の立ち回りはできないザリチュも、せめて突破口を探り出そうと懸命に耳をそばだてている。 レムの手には、剣がない。役に立たないどころか、下手を打てば足手まといすら有り得る。 滲むように痛む感覚にも焦りと苛立ちを覚えながら、レムはそっともう一人に声をかける。「ゼリエ、私にも何かできることはないか」 コーネリアス氏族の元祭司長なら、あるいは何らかの対抗策を持っているかも知れないと思った。 彼女ができることの内、有効なものは既にサルヴァがそう教えているだろう。もしあれば、技量は大きく劣るとはいえ直弟子のレムも何かできるはずだ。 何も打つ手がないまま逃げるなどより、数段ましであるはずだ。 しかし、返事はなかった。「ゼリエ?」 名を呼びながら振り返るが、男たちの思ったより分厚い背中ばかりが目に付く。 神経が痛む。思わず表情をしかめたレムを、サルヴァが首をひねって見やる。その顔に、見る間に焦りが噴出してきた。「しまった、ババアは流れだ! 精霊の加護がねえ!」 半ば悲鳴じみた叫びが上がり、それに打たれた牛と鼠が振り返る。円陣が崩れた。「ゼリエ、どこだ!」 呼んだところで、返事があるようなら黙って消えたりはしないだろう。しかし、すぐ傍にいながら、どこかへ行ってしまうのになぜ気付かなかったのか。 三人の意識が逸れた瞬間、廃屋の匂いが一段とはっきり感じ取れるようになる。「なんで!? どこ行ったのさ!」「知らねーよ! こんなの初めてだ!」「ふうむ、木や草のように動かされたのかも知れんな」「なんでそんな落ち着いてんだおめーは!」 可能性としては、それが一番有り得るが、わかったからと言ってどうなるものでもない。「ちゃんと見ててよサル兄! オイラ嫌な予感のおかわり探すのでいっぱいいっぱいなんだから」「お、俺のせいかよ!」「あれだけべたべた甘ったれておいて、いざ土壇場で忘れましたなど言い訳にもならんぞ、兄貴」「うおおチクショーどーすりゃいーんだァー!」 耳鳴りが、もはや現実の騒音となって頭に突き刺さってくる。 サルヴァが頭を抱えた理由はわかる。少数を見捨てて多数を生かす。峻険な山岳地帯と、さらに過酷な氏族間抗争を乗り越えるためには、必要な考え方だ。 失敗するかもしれないどころか、そもそも成功の可能性すら見えない有様で、ゼリエを助けに行くわけにはいかない。 だからこそ、サルヴァは探しに行きたい一心を抑えかねて苦しんでいる。「サルヴァ、何か武器になるようなものをくれ。私が行く」 レムも同じ思いである。ゼリエは、一度何もかも捨てて、身の安全などないに等しい苦難の道へ歩き出したのだ。 安寧を約束された立場と、高い気位を覆い隠しうる体面を捨ててきた果てがこれでは、あまりにも酷い結末ではないか。「おいバカやめろチビ助、とっ捕まったら地面に首だけ出して埋められるのがオチだぞ!」 サルヴァが、怒鳴りつけるように制止してくる。「でも、放っておくわけには行かないだろ! 迷惑はかけない、私だけでいい。大丈夫だ、一度逃げ切ったことのある相手だ」「抜かせ、二度目があるわけねーだろ! とっとと引き上げるぞ!」「待て兄貴、ということはどこかに姉さんも首だけ出して」「やかましァおめーこの黙ってろ!」「サル兄、探すにしても逃げるにしてもさっさと動かないと、なんか木がパキパキ言う音がどんどん近づいてきてるよ」 ザリチュの警告で、サルヴァは笛を持ったまま頭を掻きむしる。「あーもーわかってんだよ、俺だって探しに行きてーよ! でもここでバカこいたら全滅だろーが!くっそよし決めた今決めた! あの屋敷まで引き上げるぞ! その後大急ぎで精霊返しを仕掛けるしかねえ!」「サルヴァ、ゼリエはどうするんだ」「一日二日じゃ死にゃしねえ! 間に合わす!」 最後は己自身に言い聞かせるかのように、サルヴァは決定した。 木の枝が、波打ちながら迫ってきた。まだ指ほどの太さしかない。笛が風きり音を発しながら打つと、枝は湿った音を立てて曲がった。 ザリチュがタルヴィの山のような体によじ登り、足元の草を避けている。当のタルヴィは草や細い枝に絡まれつつあったが、気にした様子もない。 草が足を縫い付けようと這い上がってきたのを感じて、レムは慌てて足を上げて草を引きちぎった。 長居をするわけにもいかないのも、確かである。 残ったところで、神経の痛みに体力を奪われている今の状況でゼリエを探しに行っても、どこまで立ち回れるか。どう考えても、共倒れにしかならない。「ザリチュ、どっちだ!」「あっち! あっちが嫌な感じが薄い!」「よしきた!」 後ろ髪を引かれる思いを振り切って、サルヴァの後を追って元来た方向へ早足で進む。 枝や草に絡みつかれたタルヴィが、無造作にレムに続く。 レムなら身動きが取れなくなっているであろう量の草木は、タルヴィの歩みを遅くすることさえできずに、騒々しい音を立てて引きちぎられていく。
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