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<1>「主よ、主よ、神よ。心温かに慈悲あれよ。御身の御名の壮麗こそは崇敬と賛美の的であれ」クロプシュトックの春の祝いの一節を静かに諳んじながら、ヴィリー・ヴォーンは解像度の高いカール・ツァイス製の大型望遠照準鏡を何かに憑依されたかの様に、身動ぎ一つせず凝視していた。日が昇ったばかりの澄み切った東部戦線の朝。朝露が降りて、暖まった空気から土と草の芳しい香りが漂ってくる。潜んでいる豊かな緑の茂みは身体の輪郭を曖昧にしてくれ、敵の目を欺いてくれる。だが、ヴォーンの感性は少しも素晴らしい自然には向いておらず、また、彼にはそんな余裕など許される筈がなかった。髪の毛一本まで神経が張り詰めている。獲物を狙う獰猛な肉食獣の様に、望遠照準鏡越しの視線をもう一度、ソ連軍砲兵陣地に走らせた。草原の中に構築されたソ連軍砲兵陣地が、何枚ものレンズ越しに明瞭に見える。倍率を上げれば更にその細部がはっきりと手に取る様に解った。私費で購入した、解像度の高いカール・ツァイス製の大型望遠照準鏡は支給される通常のものよりも遥かに優れた性能を持っている。上下調整ノブ、左右調整ノブの精巧な手応えの時点で他とは一線を画す存在であり、戦前の職人の手によって一つずつ丁寧に作られた望遠照準鏡は、戦時下の大量生産品とは異なり、まるで芸術品の様に丁寧な仕上げだった。この砲兵陣地は、今は小康状態にある戦区に位置しているから、兵士達の気も緩んでいた。彼らは穏やかな陽光に恵まれた朝の時間を思い思いに過ごしており、朝食を食べたり、口髭を剃って身嗜みを整えたり、近くの河で身体を洗ったり日光浴をしている。素っ裸になって、安全を信じきっている。周辺を警戒している者は一人もおらず、水浴びの見張り役もいない。ヴォーンは距離をざっと九〇〇メートルと見積もった。ほぼ無風状態で、空気は乾いている。なるべく大きくて静止した目標を選んだ。河岸の斜面の砂地では、ソ連兵が何人かで固まって海豹の様に寝そべり、日光浴をしている。ヴォーンは背の高い草が生い茂った小高い丘の上にいたので、照準に捉えた兵士は射角で見るとほぼ垂直に近かった。丸めた迷彩ツェルトヴァーンを銃架代わりにして、その上に騎兵小銃を据え置き、いよいよ狙撃を行おうとする。特製の遮光フードを取り付けた大型望遠照準鏡を装着したマウザーKar98b騎兵小銃は、手にずっしりと重かったが、この重みがヴォーンにとっては何よりも慣れ親しんだものだ。彼の騎兵小銃はよく使い込まれており、錆止め防止の黒い塗料が剥がれ落ち、地金が所々剥き出しとなっていたが入念な手入れが施されていた。銃身には、光の反射を防ぐ為のボロ布がグルグルと巻かれている。目標と定めた兵士の剥き出しの白い腹部に死の十字架を重ね合わせ、引っかかり点まで引鉄をギリギリまで引き絞り、僅かでも指を動かせば撃てる状態にする。引鉄を完全に引ききる瞬間のほんの少し前、彼は呼吸を止めていた。当たり前の事だが、呼吸をすれば身体は動く。正確無比な狙撃を行ないたいのであれば、身体を死んだ様に静止させ、引鉄を引く人差し指だけが動く様にしなければならない。そして照準をし、引鉄を引き落とすまで、といよりも、炸薬の爆発力で薬室から突き進む銃弾が、銃口から完全に放たれるまで呼吸と身体の動きを止め続けなければならない。ところが、呼吸をしなければ血液中の酸素は忽ちの内に不足し、視力が若干だが低下してしまう。中距離からの正確無比な狙撃を行なうには、呼吸を止めてから照準を四秒以内に完了させなければならない。これは単に身体を酸素不足にしない為ではなく、敵に発見された場合に直ぐにでも移動出来る様にする為である。また、呼吸を止める時、空気をいっぱい吸い込んでも吐き出してもいけない。安定の為には肺に七割程度の空気を残しておくのが最良である。そして引鉄を〝闇夜に霜の降る如く〟、静かに真っ直ぐ後に引かなければならない。静かに引かなければ銃が横揺れしてしまい、特に距離が一〇〇〇メートル近くにもなると、それが弾道に大きな誤差を引き起こす原因となる。それら全ての条件を満たして初めて完璧な狙撃が行なえる。熟練した狙撃兵といえどもこれらの条件を満たすのは容易ではないが、苛酷な東部戦線を戦い抜いている百戦錬磨のヴォーンにしてみれば朝飯前だった。彼は完璧な狙撃を行う為のそれら全ての条件を満たし、特に伏射姿勢は完璧で、銃軸線と体軸線が綺麗な三〇度を描いていた。狙撃兵は戦場の死神と言っても過言ではない。彼らは獣の様に危険を本能で嗅ぎ分けながら移動し、常に居場所を変え続ける。敵味方入り乱れる広大な戦場での捕捉は難しく、それは藁の山から一本の針を見つけ出すのに等しい。遠距離からの正確な狙撃の一撃で代替困難な軍隊の〝部品〟を確実に破壊し、その機能を麻痺させる。砲撃に比べ殺害効率は低いが、その直截な死は、敵の心理に与える殺害効果が圧倒的に高い。だがそれ故に狙撃兵もまた強靭な精神力を求められる。正常な人間が戦争に駆り出されれば、快楽殺人者でもない限り敵とは言え、同じ人間を殺害する際の強烈なストレスは感じる。通常の戦闘では、自分が誰を殺したのかをはっきりと明確に知る機会は少なく、それに伴うストレスも低い。だが狙撃兵だけは、望遠照準鏡を通して自分が殺した相手と常に向き合い続けなければならない。狙撃兵は、賞金や追跡の差し迫る危険の中に感ずる楽しさの為に〝狩猟〟をするのではなく、自分と同類の人間を殺そうとしているのであり、その笑顔や顰め面、或いは目の輝きを望遠照準鏡のレンズを通して垣間見る事が出来るのだ。狙撃兵が冷静に、計画的に殺すと決めた人間は、最も寛いだ罪のない行為――入浴中だったり、用を足している途中だったり、或いは煙草を吸いながら仲間と談笑している時かもしれない。見えない所から狙撃兵は、それら全てを事細かに観察し、常に最適な標的を探している――をしている場合が多い。狙撃兵は自分の使命に纏わるこの苛酷な現実と上手く折り合いを付ける必要がある。狙撃兵は冷血な殺し屋になる為の必要なものを持っていなければならない。激しい戦闘の最中、普通の歩兵は敵を負かすと同時に自らの命を守る為に、殆どぼんやりとしか見えない敵に向かって弾をばら撒く事になる。ごく稀に、敵の個々の兵士と顔を合わせる白兵戦や、接近戦となった時は、敵兵は人間以下だと何時間、いや何年も教え込まれてきた事が支えになる。決定的瞬間にあっても、大抵の狙撃兵はこうした割り切り方は出来ない。狙撃兵は自分が撃ち斃すべき標的を何日も監視して、相手の習慣を覚えたり、癖を知ったり、更には高精度の望遠照準鏡を通して、何時も相手を同じ一人の〝人間〟として見ているのである。肉眼で見るより何倍にも拡大された敵の顔ははっきりとしており、髭の剃り具合、結婚指輪をしているか如何かさえも判ってしまう。それは遠くから的を撃つ様な感覚とは全く違う。単に軍服を着ている人間が見えるのではなく、命を愛する生身の男の顔が目の前に見えるのだ。敵は撃たれた瞬間、何を考えているのだろうか。最期の瞬間に考える事は、恋人か子供の事か、或いはその晩の予定についてかもしれない。しかし、不意打ちにも等しく訪れる最期の瞬間を彼は知らない。相手は望遠照準鏡を通して狙われている事さえ知らないまま死んでしまう。その瞬間だけは、狙撃兵と標的はこの世で最も近い人間同士であるにも関わらず。自分と同じ〝人間〟を殺すという事は、平穏な片田舎の村で育ったヴォーンにとっては容易い事ではなかった。彼は何の屈託もない青年期を小さな共同体の中で過ごし、その生活には祖国愛、勤勉、義務の遂行、社会の権威に対する従順といった保守的な習慣が染み付いていた。来るべき戦争の苛酷な現実をそれに負けない運命論で、彼が耐え忍ぶ事が出来たのは、こうして育まれた倫理的な価値観がしっかりと根付いていた御蔭でもある。ヴォーンは、その当時の独逸の大多数の若者と同様に、来るべき兵役を、若者がこなさなければならない義務であると同時に名誉な事と考えていた。徴兵検査に合格して召集される事は若者にとっては一大事で、新たな自覚を促す良い機会であり、軍に入隊する事で大人の世界に属しているという意識を与えるものだった。彼には当時の社会と政治の環境が染み付いていて、幼児の頃にぼんやりと覚えている、長い不況に喘ぐ祖国の惨状、そして少年時代は第三帝国によるイデオロギーの強い統制政策に感化されて育っていった。統制政策は取り分け多感な青年期に於いては、独逸の青年達に深く浸透しており、国家意識、保守的な道徳や価値観、武力外交の目的達成の為に無条件で国家に身を捧げる若者らしい自己犠牲の意識とは不可分の関係にあった。国防軍に自ら志願し、新時代の目標の為に武器を取って戦う事は、ヴォーンの年代の若者にとっては当然の義務だった。開戦から既に一年近く経っていた国防軍は連戦連勝で、多くの若者にとって、新時代を拓く大いなる闘争に参加し損ねるのではないかという気持ちは恐れにも近かった。至る所に無秩序に撒き散らされる戦時プロパガンダを信じるならば、勝利は目前だったからである。苛酷で容赦のない戦争の現実など欠片さえ夢想すらしないまま、一九四〇年秋に徴兵検査の合格が発表された日には、合格した全ての若者の記念すべき日となった。祖国への自己犠牲的奉仕について、そして世界のボルシェヴィズムに対する英雄的な闘いについて、若者達は想いを馳せていた。兵士として徴兵された若者達にとって敵の命を奪う事は、想像以上に難しかった。それまでの訓練と教練で、敵は人間以下だと散々教えられてきたが、戦場で対峙した時、彼らも自分達と同じ人間である事を知り、多くの新兵が動揺と激しい衝撃を隠せなかった。戦場に於ける敵兵の殺害は、当たり前の銃撃戦の非人間性と混乱によって伴う苦痛や煩わしさで鈍らされて、初めて達成し得るものであった。ヴォーンが兵士という戦争機械にされないまま、ただの素人として人間を殺していれば、恐らくその強烈なストレスに耐えられなかっただろう。それ程、殺人は普通の人間の精神を責め苛むものである。尤も、何事にも慣れがある様に、やがてヴォーンは狙撃による殺傷に慣れていった。望遠照準鏡越しに初めて敵兵を、同じ一人の人間として認識し、射殺しなければならなかった時は良心の呵責に苛まれたが、戦争が齎す残酷な現実に打ちのめされ続けた結果、若者の心は麻痺していった。そして何よりも先ず、戦争とは殺すか殺されるかの非情なシステムであり、敵への同情は畢竟するところ、自殺であるばかりか仲間の命さえ危険に晒しかねない愚行に過ぎない事と悟る。戦場では一人の人間の感情など何の意味も持たない。本当の戦場を知る者は誰も感傷的にはなれない。戦闘に於ける倫理や兵士としての名誉などというものは、戦争を外から論じる者の虚言である。何ものにも抑止されない原初的な暴力が振るわれる時の唯一の行動規範となるのは、個人とその直接の仲間が如何にして生き残るかという事だけなのである。何度繰り返したかも分からない、狙撃の前に行う折り合いを心の中でつけると、最後に照準を僅かに修正してから、引鉄を完全に引き切った。鉄帽の庇から垂れ下がる、簾状の迷彩フェイスカバーに隠れていてその素顔は窺えないが、ヴォーンは全くの無表情だった。鋭い銃声がソ連兵達の朝の平和な一時に終わりを告げ、銃弾が猛然と目標に突き進む。肩に短い鋭い反動を感じてから一秒もしない内に再び標的を望遠照準鏡で捉え、不意を突かれたソ連兵の臍の真上に命中したのを確認した。撃たれたソ連兵は、まるで電にでも打たれたかの様に身体をくの字に折り曲げ、両手で腹部を抑え、激しい痛みにのた打ち回っている。指の隙間からは血が止め処なく漏れ出し、裂けた腹部からは腸もはみ出していた。悲鳴、混乱に陥った周囲の声がヴォーンの所まで聞こえ、穏やかだった河岸が阿鼻叫喚の地獄絵図と化すのが望遠照準鏡越しに見えた。ヴォーンが放った銃弾はBパトローネという特殊な炸裂弾で、元々は機関銃の弾着修正用に使用されていたものだ。勿論、七.九二mm弾の弾殻内に充填される炸薬量は微々たるものだが、その破壊力は直径五cmの幹の木を一発で倒し、これで撃たれると大抵の人間は助からない。この種の歩兵用携行火器の炸裂弾の使用はジュネーブ条約で固く禁じられているが、ソ連軍は開戦初期から積極的に使用しており、そういった状況を鑑みて独逸側でも使うのが妥当と感じていた。既に東部戦線でのモラルは、目的の為ならば手段を選ばずという次元にまで低下している。生き残るのにどちらも必死なのだろう。他のソ連兵は鷹に襲われた鶏の群れさながらに四方八方に逃げ散り、誰一人として致命傷を負った仲間を助けようとする者はいなかった。断末魔の苦しみは数分で終わったらしく、動きが凍った様に止まった。その間にもヴォーンは望遠照準鏡を凝視したまま槓桿を流れる様な動作で引き、熱された空薬莢を薬室から蹴り出し、新たな弾薬を薬室に素早く送り込んでいた。そして騎兵小銃を巡らして新たな獲物を射界内に捕捉しては、淡々と撃った。銃弾が命中する度にソ連兵らの頭部や体内で小爆発が起こり、派手に肉片を撒き散らす。瞬く間に五人のソ連兵を仕留めたところで、騎兵小銃の弾倉内が空になる。ヴォーンは迷彩スモックの左上腕に自分で縫い付けたホルダーから五発の弾薬を抜き、伏臥姿勢のまま一発ずつ装填していった。装填している間も目は望遠照準鏡からは外さない。本来ならば、挿弾子で一纏めにされた弾薬を装填するのだが、ヴォーンの狙撃兵仕様の騎兵小銃は機関部の上に望遠照準鏡を装着しているので、装填する際に干渉してしまい、手作業で一発ずつ装填しなければならない。だがそれも彼には手馴れたもので、挿弾子を使用しての装填と変わらぬ早さで作業を終え、狙撃を続行した。遠距離から狙撃する場合、ヴォーンは頭部よりも的の大きな胴体、可能ならば腎臓を狙うように努めていた。腎臓を撃つと、この世のものとは思えない絶叫を上げ、苦しみ抜いてやがては死に至る。これは相手の士気を挫くのには最も効果的な方法で、仲間のおぞましい悲鳴を聞きながら、見えない狙撃兵からの死の一撃に怯えなければならないからだ。新たに装填した弾薬を全て撃ち尽くしたところで、河岸には十人のソ連兵の死体が累々と横たわっていた。その内の何人かは未だ生きている様だが、炸裂弾を喰らえば長くはない。望遠照準鏡越しに、軍服を着たソ連兵達が河岸の上方で忙しなく動き回っているのを確認すると、忽ち迫撃砲弾の唸る様な発射音が聞こえ、数秒でヴォーンが潜んでいる藪から、数百メートル程離れた場所で鈍い音を立てて炸裂した。事態は深刻で、引き上げ時だった。草の中から頭を出さない様に立ち上がると、長い間同じ姿勢を維持していた為、すっかり凝り固まった関節がぽきぽきと鳴った。伏臥姿勢をしていたが膝は痛くなかった。ヴォーンは固い地面に長時間伏せても膝が痛くならない様に、降下猟兵の降下用膝パッドを装着していた。これは少々動き辛いという点を除けば、固い地面に伏せて射撃を行なう場合には最適の装備だった。その他にも、ヴォーンは数日間の単独任務に必要な装備を携行する為に工兵用突撃パックを身に着けており、腰や背中の爆薬パウチに糧食や弾薬盒に収納しきれない予備の弾薬、手榴弾を入れていた。ヴォーンが被っている鉄帽は迷彩カバーに覆われており、庇からは簾状の迷彩フェイスカバーが垂れ下がっていたので、彼はそれを首までずり下げると、望遠照準鏡が壊れるのを防ぐ為に迷彩ツェルトヴァーンで騎兵小銃ごと厚く包んで負い紐で背中に背負い、傍に置いてあったStg44突撃銃を引っ掴んで丘の斜面を滑る様にして逃げ出した。その間にも後方ではソ連軍の迫撃砲弾が、ヴォーンが潜伏していた場所を徒に掘り返していた。ヴォーンは予め決めておいた退路を使って逃げ遂せる事に成功し、彼は藪の中に亡霊の様に消え失せた。******************************************ヴォーンはソ連軍の警戒線よりかなり外れた場所に位置する白樺の森に辿り着いていた。清水の流れる微かな音を頼りに深い藪を掻き分けて進み、やがて視界が開け、小川が前方に現れた。暫く小川に沿って歩くと、川岸の草地の潅木に繋がれた一頭のパーニェ馬がもぐもぐと呑気に草を食んでいた。馬は重い荷物を背負っていても長い距離を素早く移動する事が可能で、道のない場所でも走れる上、移動中にエンジン音で相手に気付かれる事もない為、ヴォーンは日常の偵察や狙撃行に好んで使っていた。馬の直ぐ傍に倒れている古木に腰を下ろし、煙草を吸って一服しながらヴォーンはもう一度狙撃に出かけようかと思案した。先程の砲兵陣地は当分の間は近づくべきではない。何度も繰り返し同じ場所を狙撃し続けると、相手も馬鹿ではないから自軍の狙撃兵を配置して敵の狙撃兵に備えるだろう。今は未だ警戒が薄いと思われる、メーリッシュ・オストラウ方面の歩兵陣地に攻撃を仕掛けようか。そうやって休んでいたが、不意にヴォーンの戦場で鍛え抜かれた動物的な勘が何かを察知し、地面に生えている苔に煙草を押し付けて火を消すと、馬をその場に伏せさせる。温順な東欧産のパーニェ馬は言う事をよく聞き、もぐもぐと口を動かしたまま素直に膝を折った。座っていた古木を銃架代わりにしてその上に伏臥姿勢で突撃銃を据え、一五〇メートル程前方にある川辺の藪を凝視した。藪がガサガサと揺れると、ソ連の小規模な斥候隊が周囲を窺いつつ、開けた場所に出てきた。未だ年若い少尉を先頭に、見るからに警戒を緩めた一団が些か間隔を詰めた縦隊を組んで、清浄な空気の漂う森に現れた。ヴォーンは居場所を悟られない様に中腰で立ち上がり、手綱を引いて馬と一緒に藪の中に隠れ、鞍に積んであるGew43自動小銃を手に取った。これは精度の点では騎兵小銃に劣るが、精密さを必要とされない近距離の狙撃では、その連射性能が齎す火力が絶大な威力を発揮した。六倍の望遠照準鏡を予め装着してある自動小銃を伏臥姿勢で構え、木の枝を銃架にしてより安定させた。望遠照準鏡越しにヴォーンはその斥候隊の拙劣な行動を呆れながら観察した。何時も通り、先ず将校の姿を望遠照準鏡の十字線に捉えた。恐らく党のエリートなのだろう、その人物は大変珍しく、上等な生地をオーダーメイドで仕立てた制服に身を包み、最高級の革で作った見事な長靴を履いている。指を引鉄に掛けたまま、魅入られた様にその光景に目を凝らしていると、その少尉が不意に木の根に躓くのが見えた。既に引く準備が出来ていた指の力を抜きながら、ソ連軍少尉が起き上がり、純白のレースのハンカチをポケットから出し、手や制服に付着した泥を払っている様子を観察した。連日の仮借ない生存闘争に呑み込まれ、汚泥、臭気、害虫と共に何週間も過ごしていたその時でさえ、ヴォーンにとってその時代錯誤な情景は、笑うべき愚かしさと、場違いな安逸への憧れが綯い交ぜになった想いを感じさせた。しかし、戦争に感傷が入り込む余地はない。もしもその斥候隊を見逃せば、自分自身や仲間の危険に繋がるかもしれない。少尉がハンカチの皺を丁寧に伸ばして畳み、再びポケットに仕舞うのを望遠照準鏡越しに観察している間、否応のない必然として、その左の胸ポケットに照準が重なった。その状況は、目前に迫った殺戮行為と相まって、魔術的とも言える滅びの美を醸し出していた。死という終焉が様式化された美にまで昇華されたかの様であった。それは、既に日本の武士道として〝技芸〟にまで高められた様な、人為が作り出す無常な詩情とまで言えた。行動すべき瞬間を何時にも増して慎重に定め、引鉄を再び引っ掛かり点まで引き絞り、心の中で、お坊ちゃんの少尉を嘲笑しながら引鉄を最後まで引き切った。銃声が静寂を袈裟懸けにして斬り捨てると、胸に穿たれた穴から細い噴流となって血が流れ出すのを、青年少尉は驚愕の眼差しで見詰め、部下の兵士が喚きながら四散する中、音もなく膝を着いた。既に虚ろになった目がもう一度森の木々の合間から覗く朝空を見上げてから、その瞳が光を失い、息絶えて茂みの中に倒れ、ヴォーンの望遠照準鏡の射界から消えた。部下の二人の兵士が遺体を運ぼうと恐る恐る茂みの中から出てきたが、自動小銃の速射で瞬く間に少尉と同じ運命に遭わした。その他の兵士達は安全な場所から出てこなくなったが、茂みに隠れていても身体の輪郭がぼんやりと見えており、それに向かって次々と銃弾を撃ち込んでいく。幾つもの悲鳴が上がり、茂みが大きく揺れたので命中を確信した。放った銃弾は例によって炸裂弾で、身体のどの部分に当たっても無傷では済まない。弾倉内の弾薬を十発全て撃ち尽くしたところで、ソ連兵らの気配がなくなったので、如何やら彼らは狙撃兵の潜伏地点を直接発見する事なく撤退した様だ。だが、ヴォーンは、敵が去ってもこの地点は既に相手に知られて使い物にならない事を知っていた為、彼は馬と共にさっさと移動した。******************************************太陽は地平線の彼方に沈みかけ、東部戦線に夜の帳が下り始めていた。戦線の何処でも夜の訪れと共に戦闘は一段落し、兵士達は束の間の休息を得る。それは何時もと変わらぬ東部戦線の夕暮れで、数少ない楽しみである夕食が配給される。それがたとえ一杯の粗末なスープであろうと、生きて再び温かい食べ物を流し込める幸せを教授する事が出来るのだ。ヴォーンは、馬と一人の人間が充分に姿を隠して休めるだけの広さがある小さな窪地で、慎ましやかな夕食を摂っていた。携帯焜炉で固形燃料を燃やして湯を沸かし、代用珈琲を淹れ、サラミソーセージ、人造蜂蜜を塗ったコミスブロート、鰯の油漬けを黙々と口に運ぶ。この窪地に居るのは、ヴォーンと彼の移動手段であるパーニェ馬だけだ。無論の事ながら、馬は戦争に疲れきった彼の心を慰める言葉の一つも掛けてはくれない。ただ、自分の主人を視界の隅に置いたまま、無関心を決め込んで口をもぐもぐと動かしているだけだ。尤も、ヴォーンもこの馬には移動と輸送手段である以外は何も求めてはいない。馬は東部戦線に於ける独逸軍の兵站に関して重要な役割を担っており、数十万頭の馬がいなければ戦争の遂行は考えられなかった。燃料や交換部品の不足、供給を上回る膨大な損失、車両の規格化の遅れによる生産ラインの遅滞などで、車両の在庫量は激減している。馬は、独逸軍の最後の頼みの綱であった。一人きりの食事を終えて後片付けをし、懐からシガレットケースを取り出して食後の一服をしようと思ったが、残り少ない煙草は貴重だから止めた。戦争に疲れた兵士を癒してくれるのは何時の時代でも酒、女、そして煙草と相場が決まっている。飢餓感を抑え、精神的な抵抗力を高め、高揚感を与えて眠気を覚ますペルヴィツィンも場合によっては有効だが、彼はこの種の覚醒剤が好きではないので、状況が逼迫していない限りは使わない事にしていた。身に着けていた装備を外し、足の山岳猟兵用革製レギンスと山岳靴を脱いで楽になり、突撃銃を胸に抱いて丸めた迷彩ツェルトヴァーンを枕代わりにして毛布に包まった。敵中で、しかも独りでの野営には慣れていた。殆どの狙撃兵は観測手との二人一組で行動を常に共にするが、ヴォーンは単独を好んでいた。二年前の春、その頃のヴォーンは未だ軽機関銃手から狙撃兵に転向したばかりで、その技能は今と比べれば未熟だった。雪解けの訪れと共に東部戦線の至る所が泥沼と化し、独ソ双方は大規模な作戦行動を起こせなかった。その時期の戦闘活動は小規模な突撃班による浸透突破作戦や、狙撃兵による攻撃だけだった。ヴォーンは連日の様に狙撃に出掛け、不意を突いた射殺でソ連軍の塹壕に動揺を与えた。双方の塹壕の間の中間地帯に撃破され放置されているT34中戦車の残骸があったので、彼はそれが安全な掩蔽物になると思っていた。朝の暗い時間から人目につかない様に戦車の中に潜り込み、一日中戦車の分厚い装甲に守られつつ、徹甲弾で穿たれた車体の破孔を銃眼にしてソ連軍陣営を完璧に監察し、射撃する事が出来た。普通、狙撃に一度使った陣地は二度と使わないのだが、その時は異例で、この戦車の陣地を四日間も利用しており、五人を仕留めていた。向かい合うソ連軍には戦車ごと吹き飛ばせる様な重火器がなかったので、戦車の奥深くにあるこの潜伏地点ならば絶対に安全だと考え、位置を決して特定されてはならないという狙撃兵の鉄則を敢えて破ってしまった。しかし、そうしているとソ連軍は酷く用心深くなり、標的を見つけるのが難しくなる一方だった。そこでヴォーンは五日目には狙撃兵よりも広い視野を持つ観測手を連れて行くのを決め、子供の頃から親しくしていた同郷のフリッツ・ケーニヒを選んだ。だが、ヴォーンは、二人が夜明け前に戦車の陣地までの道を辿っている時、これから終生忘れられない惨劇が待っていようとは夢にも思っていなかった。ヴォーンは安全とばかり思っていた例の陣地から何度も狙撃をしており、既に敵もその戦車には気付いていた。他に身を隠す掩蔽物のない一帯で唯一考えられる潜伏地として、敵もその場所をはっきりと特定していたのである。ソ連軍はこの区域では目下のところ戦車を丸ごと吹き飛ばせるような野砲を使えなかった為、それまでは独逸軍狙撃兵の前に為す術がなく、当然、戦車の下に潜むヴォーンにも無力だった。ところがこれ以後、極めて危うい脅威が彼を付け狙う事となる。自らの狩人としての職務に精通し、執拗に好機を窺い続けるソ連軍狙撃兵である。血の様に赤く燃える朝の太陽が東の地平線から顔を覗かせ、荒涼としたステップの大地に曙光を放った。ヴォーンとケーニヒは戦車の下に潜り込んで臨戦態勢を整え、敵の陣営を息を殺して観察していた。空き缶いっぱいになった大小便を捨てようと、寝ぼけたまま何気なく塹壕の外に身体を出す様な、迂闊な標的がいないかと探す為である。ケーニヒが少しだけ双眼鏡を前に出し過ぎて、対物レンズに低い太陽光が差し込み、ほんの小さな反射を放った。だが、それだけで充分過ぎた。老獪なソ連軍狙撃兵にとって、それで潜伏地点に潜む独逸軍狙撃兵の存在の有無を把握し、尚且つ照準するだけには充分だった。ソ連軍狙撃兵は巧妙に偽装した位置から小銃を構え、光の反射が見えた地点に望遠照準鏡を合わせて、もう一度光が見えるのを辛抱強く待った。銃声が二人の所まで響くのに数分もかからなかった。その瞬間、双方とも狩るべき相手を確認した様だった。「おい、ヴィリー、あの前方だ。地面が少し盛り上がっている所から指二本程右の………」双眼鏡を目に当てて観測していたケーニヒがそう言い掛けたが、二回目の銃声が轟くと、ヴォーンの直ぐ傍で手を叩く様な音がした。何かが顔の左半分に飛んできて付着した。袖で拭うと、それは血と肉片だった。驚いて横を振り向くと、そこには異様に変貌したケーニヒの顔があった。ソ連軍狙撃兵の撃ち放った銃弾は例によって炸裂弾で、ケーニヒが覗いていた双眼鏡に当たってやや弾道が逸れ、もろに口内で爆発していた。唇、歯、顎、そして舌の半分が吹き飛んでいる。恐怖に見開いた目でヴォーンを見詰めている間にも、無残に砕かれた口腔から血の泡を吹き出して、ごぼごぼと不気味な音を立てていた。数秒すると次の銃弾が飛来し、二人の間の地面に当たって爆ぜた。直ぐにヴォーンは銃弾の届かない陣地の奥の安全な所まで戻り、ケーニヒの両足を掴んで引き寄せた。夕方になって陽が完全に落ちるまで、その場所を離れるのは無理だった。外に出ようとすれば敵の狙撃兵に確実に撃たれるだけだ。それ故に、二人は無為のまま釘付けにされるのを余儀なくされ、瀕死のケーニヒを満足に介抱も出来なかった。今直ぐにでも軍医に診せなければならない程の重傷を負った戦友を目の前にしながら、ヴォーンは己の無力と、その状況から如何足掻いても抜け出せない事を痛感した。もはや、持ち合わせの包帯や止血器は役に立たない。心得のある衛生兵から、出来るだけ早く専門的な治療を施して貰うしかないのだが、それは如何したって叶わない願いであった。ケーニヒの僅かに残っている舌が見る見る内に赤黒くボール大に膨らみ、気道を塞いだ。ヴォーンはケーニヒの口中に手を入れ、腫れ上がった組織を押し退け様と試みたが、その所為で彼は嘔吐し始め、一層呼吸が苦しくなるという代償を払った。気管にチューブを入れるか、気道切開をするしか助かる道はないだろう。戦友が懸命に死と闘っているのをヴォーンは為す術なく、呆然と見守るしかない。瀕死のケーニヒは呼吸をするのがますます困難となり、痙攣の様な呼吸をする度に血液が肺に入り、窒息が始まった。ヴォーンは彼の上半身を抱えて、少し持ち上げようとした。無力感に苛まれつつ、しっかりしろ、きっと何とかなる、直ぐに助けが来る、と無駄と知りながらも励まし続けた。ケーニヒは死と闘いながらヴォーンの腕をぎゅっと掴んだ。痙攣する両手の爪が、皮膚を突き破って肉に深く食い込んだが、ヴォーンには何も感じられなかった。何時間も経った様な気がした頃、急にケーニヒはかっと目を見開き、計り知れぬ絶望と悲しみを瞳に宿しつつ、最後にヴォーンの顔をまともに見詰め、もう一度最後の別れに両手を不思議な程優しく握り締め、身体を微かに震わせ、遂に死が訪れて彼の目から生命の輝きが失われていき、長く続いた苦悶から解放され、ヴォーンの腕の中でぐったりとなった。ヴォーンは心を凍りつかせたまま、抱えている戦友の魂の抜け殻を凝視した。何分か経つと、それまでの計り知れない緊張感が解けて嗚咽に変わった。思う存分泣いている内に、無力感、不安感、緊張感、絶えざる生存競争の持続的な重圧は霧散していった。身体が麻痺した様に硬直したまま、その日はずっと戦友の抜け殻の傍で過ごし、最後の介添えをした。最終的には、頭が空っぽになったかの様に何も考えられず、何も感じなくなり、涙と共に思考も感情も涸れ果てた。漸くの事で我に返った時、若いヴォーンの内面はまたもや鈍磨、非情、酷薄の度を加えていた。また、心の正常な部分が壊死していくのを、彼は確かに感じた。照準をつけるのが困難になる程暗くなると、ヴォーンは亡骸を戦車の下から引っ張り上げ、担いだまま夜陰に乗じて自軍の陣営に戻った。人間の身体は、生きている時よりも死んだ時の方が重く感じられるというが、その時のヴォーンには背負ったケーニヒを軽いと感じられた。それが魂の不在、即ち背負っているのは苦楽を共に生き抜いてきた掛け替えのない戦友ではなく、ただの空っぽの肉の器に過ぎないと再認識していたからだ。陣地に戻ると中隊本部に出頭し、中隊長に簡単な報告を済ませ、予め切り取っておいたケーニヒの認識票を衛生兵に渡した。翌朝、仲間と共にケーニヒの墓を掘った。樹木のないステップには十字架を作る枝や木の棒がないので、戦死者の鉄帽だけを盛り土の上に置き、埋葬が終わっても、追悼の想いでその前に黙したまま佇んでいた。ケーニヒの亡骸と共に、ヴォーンは若者らしい純真さの一部をまたしても露西亜に葬り去った。だが、それから数日後、新たなソ連軍の攻勢でケーニヒの墓は踏み躙られた。戦車の履帯が墓をずたずたにして何もない風景に変えてしまい、人生の若い盛りに命を奪われた他の何万人もの兵士と同じく、ケーニヒの記憶も広大無辺な露西亜の彼方へ、そして歴史の奔流の中へ飲み込まれてしまった。袖を捲くり、ケーニヒが刻み付けた、彼が確かに生きていた証である腕の傷痕にそっと触れる。その部分は深く抉れ、この傷痕に触れる度にヴォーンは露西亜の大地に消えた戦友の事を思い出すだろう。ふと、頬を何か生温かいものが伝い落ちた。それは涙だった。自分でも気が付かない間に、ヴォーンは泣いていた。エルンスト、ノイバッハ、レンセン、ヴィーネル、そして同郷の戦友フリッツ・ケーニヒ、リントベルクも忘れはしない。皆、ヴォーンの親友だった。だが、もう彼らはこの世にはいない。会いたいと願っても二度と会う事は出来ない。寂しい、悲しい、辛い。しかし、彼はただ身体を丸めて嗚咽するしかなかった。今は亡き戦友達を想いながら、ヴォーンは無数の星が煌く夜空の下で孤独な眠りについた。<2>茹だる様な暑さの中、ヴォーンは身動ぎ一つせず、双眼鏡越しにソ連軍の塹壕陣地を観察していた。その何処かに、この数日間で九人の戦友を葬り去った敵の狙撃兵が完璧な偽装を施して潜んでいる筈だ。奴は余程の熟練者に違いない。東部戦線の苛酷な戦場で鍛え上げられた、古参狙撃兵であるヴォーンが二日に渡って探しているのに見つからないからだ。だが、その早朝、奴の放った銃弾が九人目の山岳猟兵の命を奪った時、ヴォーンにはおよその見当がついた。その時、ついに正体を見破る手掛かりを掴んだ。潅木の根元に幾らか不自然に生えている下草だ。その不審な地点に突き刺す様な視線を向ける。間違いない、奴はあそこに居る。本能でヴォーンは悟っていた。望遠照準鏡の一部と銃口をおぼろげながら確認し、血管にアドレナリンが噴き出した途端、銃口に光が閃いた。咄嗟に騎兵小銃を構え、望遠照準鏡の十字線に捉えたが、ヴォーンは銃弾が此方に飛んでくるのを見ていた。まるで身体が痺れた様に固まり、陣地に伏せたまま、破滅の運命から逃れる事も出来ない。螺旋を描いて一直線に突き進む銃弾に刻まれた旋条痕さえ細かに見て取れ、それが望遠照準鏡のレンズを割りながら通って、右目の青い瞳を貫き、それを葡萄の様に潰して、大脳を抜け、鉄帽を被った頭の後頭部が、砕けた硝子や血飛沫や脳もろとも吹っ飛ぶのが、消えかかった意識の中で薄っすらと感じられた。その瞬間、ヴォーンは深い夢から飛び起きた。早鐘の様な心臓の鼓動が首筋まで伝わってくる。思わず、瞼の上から右目に触れ、ちゃんと眼窩に眼球があるのか確かめてしまった。夢にしては妙に生々しい感触があったので、ヴォーンは覚醒してからも暫くの間は現実を認識出来ず、荒い息を吐きながら心を落ち着けようと努めた。現実と分かるとヴォーンは小さく呻き、手で顔を撫でた。手は熱く、顔は冷たかった。「最悪だな………」声に出して呟くと、直ぐ傍で馬の荒い鼻息を感じた。何度目になるかも分からない、この悪夢に魘されて起きるのは酷く目覚めが悪かった。窪地は静かで仄暗く、まだ空に朝日は昇っていない。もう一眠りしようかと思ったが、とてもそんな気にはなれなかった。仕方がないので寝床から起き上がり、レギンスと山岳靴を履き、迷彩ツェルトヴァーンを巻いて畳み、装備に括り付ける。そして窪地の隅に折り畳み式スコップで穴を掘って、ズボンを下ろしてその上に屈んだ。彼の一日は、排便をする事から始まる。狙撃兵は自分で構築した陣地――陣地とは言っても、それは腹這いになった状態で地表に身体の輪郭を溶け込ませるだけの深さの溝である場合が多い――でほぼ一日を過ごすという事がざらにあり、そうなった場合は身動きさえ満足に出来る筈もなく、食べる、飲む、排泄をするといった極めて個人的なレベルの重大な兵站上の問題が数多く生じる。如何やって、何処に、それらを処理すれば良いのか。ヴォーンは狙撃の玄人として、人間の誰もが避けては通れないこういった条件を出来る限り計算に入れて陣地を選択、準備していた。豊富な前線経験を持つ彼は、水と何かしらの食料を携帯する事を常に心掛けており、食べ物は一切れの黒パンでもラスクでも何でも良かった。排泄に関しても、充分に排便を済ませない内は一日の活動を始めない事にしていた。そうしなければ一日の終わりに、身体を強張らせて、がに股で歩かなければならない。止む終えずズボンの中に排泄するという事態は避けなければならない。用を足し、装備を身に着けて簡単な身支度を整え、馬の手綱を引いて窪地の外に出る。薄暗いステップの草原は朝靄に包まれていた。今日は、昨日とは別の砲兵陣地に攻撃を仕掛けようかとヴォーンは思案した。現在、独逸軍は東部戦線からの全面的な撤退作戦中だから、ヴォーンの様な狙撃兵は残地狙撃兵として単独で遅滞戦闘を繰り広げている。一丁の高精度の小銃と一人の人間が齎す戦果は計り知れない。たった一人の狙撃兵が、大部隊の進撃を阻止するというのはよくある事だった。ヴォーンが朝露に濡れた草を踏み締めて歩き出そうとしたその時だった。「うっ………」急に眩暈を覚え、ヴォーンは堪らずその場に膝を着いてしまった。貧血、という訳ではなさそうだ。危険な残地狙撃任務に就いた為か、食料と武器弾薬はたっぷりと支給されている。朝食は余り食べる事はないが、そもそも独逸人の食生活は昼食を中心としているので、その分昼食と夕食を多めに摂っていた。頭の中がグルグルと回り、平衡感覚が失われ、地面の感触がなくなっているかの様な錯覚に陥った。まるで酷く酔っ払っている様で、とてもではないが立てそうになかった。暫くの間、ヴォーンは縫い付けられたかの様にその場から動く事が出来なかった。一体、どれ程の時間が経ったのだろうか。漸く、不可解な眩暈から快復し、ヴォーンは立ち上がったが、彼は直ぐにその場で卒倒したくなった。「これは夢か?」それともペルヴィツィンのやり過ぎだろうか。目の前に広がる光景に、ヴォーンは思わず呟く。彼がそう言いたくなるのも無理はなかった。狙撃兵ヴィリー・ヴォーンは、露西亜の広漠なステップに居た筈だった。彼の目の前には、朝靄に包まれた大平原が続いているべきなのだが、如何いった訳か、その景色は跡形もなく消え去っていた。ヴォーンは小高い丘の上に佇んでいた。まだ昇ってもいない筈なのに、陽は高く、穏やかな春の風が頬を撫でた。荒涼としたステップと打って変わって、丘から見渡せる情景は豊かな自然そのもので、丈のある青草の生い茂った草原の向こうには大きな森が何処までも続き、彼方には頂に雪を被った青々とした山脈も見える。思わずその場に座り込み、ヴォーンは頭を抱えた。彼が腰を下ろすとそこには切り株があり丁度良く椅子代わりとなったが、そんな事には全く気付かなかった。そうやって暫くの間、彫像の様に彼は動かなかった。「夢だ。これは夢だ。でなければ可笑しい。そうだろう?」一通りの思考の堂々巡りを繰り返した末に出した結論は平凡だったが、そう思わないと頭が変になりそうだった。それから暫く考え続けた結果、これが夢であろうとなかろうと、どちらでも良いとさえヴォーンは思った。だが、夢なのかそうでないのかぐらいは確かめるべきだろう。おもむろに彼は腰のホルスターからマウザーR713大型自動拳銃を抜くと、銃口をこめかみに押し当て、引鉄に指を掛けた。引鉄を引けば、夢から覚めるのではないかと思ったが、これが万が一にも現実だとしたら、なんと馬鹿げた事をやっているのだろうか。尤も、これが現実である筈がない。引鉄を引いた瞬間、自分は奇妙な夢から覚め、何時もと変わり映えのしない、生と死のみが支配する現実の世界を生きるのだ。それこそがヴォーンの全てだった。いや、彼に限らず、東部戦線で戦う独逸軍将兵の殆どは戦争の目的などとうの昔に忘れ、理不尽に降りかかる死と破壊から逃れるので精一杯だった。瞼を閉じ、ゆっくりと引鉄を引く指に力を入れる。少しずつ引鉄が引き絞られ、引っ掛かり点で止まると、あとは僅かでも指を動かせば銃弾が発射されるというところで、ヴォーンは急に怖くなった。幾ら夢とはいえ、自分で自分の頭を撃ち抜いて目覚めるというのは、何とも目覚めが悪いのではないだろうか。夢から覚める方法はもっと他にある筈だ。なにも、こんな方法でなくてはならないという訳ではない。ヴォーンは自動拳銃をホルスターに戻し、考え直した。穏やかな風が頬を撫でて吹き抜ける。降り注ぐ日差しは柔らかい。足元では草がさわさわと揺れ、風は微かに甘い花の匂いを運んでいた。たかが夢なのに、それらの感触はやけに現実味を帯びていて、実に奇妙だった。不意に背後で物音が聞こえ、ヴォーンが振り返ると、そこには彼のパーニェ馬が佇んでいた。相変わらず口をもぐもぐと動かし、その目は何に対しても無関心な様子だった。「なあ、お前は如何思う?」気が付けば馬に話しかけていた。ヴォーンは、答えが返ってこないのを知っていても、得体の知れぬ不安からか、たとえ馬とでもいいから会話がしたかった。尤も、動物相手ではただの独り言にしか過ぎないが、今はそんな事は如何でも良かった。「ぶっちゃけた話をするとだな、俺にはこれが現実にしか思えてならないが、そんな事は有り得ないとも思っている。つまり、頭では分かっているが心はそうではないという状態だ」馬は草を食み、ヴォーンを無視している。だが、彼は続けた。「世の中には、頭で分かっていても心で理解出来ない事が沢山あるのは知っている。でも、これは、明らかにそういう問題じゃない。超越しているんだ、何もかもが」そう言って、ヴォーンは馬を相手に話すのがただの徒労だと悟ると、深い溜息を吐いて押し黙った。そして未だに混乱から抜け出せない頭で必死に状況を整理し、理解しようと努めた。その時だった。唐突に森から一発の鋭い銃声が轟き、鳥達が喚きながら飛び去る騒々しさに、ヴォーンは咄嗟に膝の上に置いていた突撃銃を構えてその場に伏せた。が、直ぐに馬鹿らしくなって自嘲した。夢の中だというのに、何を真剣になっているのだろうか。そんな自分を愚かしく思ったが、身に染みた習慣がそうさせるので仕方がなかった。周囲の様子を窺いながら、慎重に立ち上がり、草原の左に広がる森を注意深く観察した。先程の銃声は何だろうか。首から提げていた、反射避けの布を巻いているカール・ツァイスの一〇×五〇倍の双眼鏡を覗き、レンズ越しの視線を草原と森の境目に走らせる。そうしている間にも二発目の銃声が森から響いた。暫くの間、辛抱強く監視していると、がさがさと木々が揺れ、人の形を成した緑の塊が草原へと転がり出てきた。それは草木で入念な偽装が施された、暗緑色の外套を頭からすっぽりと被った人物だった。ヴォーンには彼の正体が直ぐに分かった。そういった手が込んだ全身偽装は、狙撃兵ぐらいしかやらない。彼の予想を裏付けるかの様に、全身に草木を生やした人物は長大な銃身を持つ小銃を背負っていた。居場所を見破られて追撃されているのだろう。追われる狙撃兵ほど憐れな者はいない。捕まれば、狙撃兵というだけで普通の兵士と同じ慈悲は期待出来ないからだ。遠くに隠れて一人ずつ殺す卑怯者というのが狙撃兵に対する一般的な考えで、捕虜になれば殆どの場合は惨たらしく殺される。だから狙撃兵は見付かった場合、死に物狂いで逃げる。尤も、死に物狂いで逃げる様では、狙撃兵は狙撃兵として失格だ。狙撃をする前には入念な下調べを行い、幾つも狙撃に最適な地点を探し出し、複数の退路を予め確保しておくというのは、狙撃兵にとっては常識だ。そういった地道な作業が生存の可能性を高める唯一の方法で、これを厳守出来ない狙撃兵の末路はその時点で決まっている。生き残りたければ、努力を惜しんではならないのだ。風に乗って、微かにだが追撃者達の怒号が聞こえた。それは独逸語だったので、追われているのはソ連軍の狙撃兵だろう。何時の間にかヴォーンは、今の自分が見ているこの光景が夢か現かという問題を忘れていた。敵は斃さなければならない。身体に染み付いた戦争の習慣が、ヴォーンを突き動かす数少ない原動力となっていた。突撃銃を脇に置き、背中の騎兵小銃を下ろして望遠照準鏡ごと機関部に厚く巻いた迷彩ツェルトバーンを解く。槓桿を流れる様な動作で引き、開放された機関部に腰の弾薬盒から取り出した炸裂弾を一発ずつ装填する。弾薬を装填しながら、ヴォーンは薄っすらと自覚した。愛用の小銃の槓桿を引き、弾薬を装填するこの作業は、彼にとっては無機物の銃にまるで命を吹き込むかの様に神聖な行為であり、使い慣れた銃の感触をはっきりと感じられるのは現実以外の何物でもない。だが、今は、これが夢か現かの判断は必要ない。必要なのは、弾薬を装填し、照準を定め、確実に敵は斃す事だ。槓桿を戻し、初弾を薬室内に送り込む。独逸製銃火器の、他に類を見ない程の精巧な造りの機関部が奏でる装弾の旋律は氷の様に冷たく、そして銃口から放たれるであろう絶対的な死と破壊を予感させた。ヴォーンはその場で右膝を地面に着き、左膝を立てて、その上に左腕を置き、その腕で騎兵小銃を支える〝狙撃兵型座り撃ち〟の姿勢をとる。頬をしっかりと床尾に付け、左手は騎兵小銃を握った右手を覆う様に銃床に当てて、騎兵小銃を抱える様にして保持した。望遠照準鏡の十字線には、例の緑の人物が捉えられている。彼の足取りは重く、恐らく負傷しているのかもしれないが、ヴォーンには敵に与える慈悲がこれっぽっちも残っていなかった。それらは全て苛酷な現実の前に捨ててしまったからだ。引鉄を引っ掛かり点まで引き絞り、完全に引き切る機会を窺う。およそ六〇〇メートル、やや南からの風があるが、この距離ならば絶対に外す事はない。不意に、草原を横切ろうとしていたソ連軍狙撃兵が、何かに躓いたらしく、そのまま無様に倒れた。ヴォーンはその隙を見逃さなかった。引鉄を完全に引き切る数瞬前、息を止め、精神を集中させた。だが、完全に引鉄を引き切ろうとした瞬間、ヴォーンの狙撃は得体の知れぬものによって中断させられた。決して広いとは言えない望遠照準鏡の視界の隅に映ったものが、彼を凍り付かせたのだ。最初、ヴォーンはそれが何であるか解らなかった。それもその筈である。それは、明らかに彼の想像を遥かに超えたものだったからだ。今までに見た事も聞いた事もない生物が、望遠照準鏡の狭い視界内に映っている。その生物の身体つきは人間に似ているが、全身が動物の様に毛むくじゃらで、二本の足で歩き、頭は獣そのものだった。「な、何だ? あれは………人間、じゃない!?」得体の知れない生物に直面し、ヴォーンは嘗てない戦慄を覚えた。だが、目は片時も望遠照準鏡からは離さず、毛むくじゃらの化け物を観察している。よく見れば、その化け物は革製の鎧を着込み、刀剣で武装している。人間の様な手には抜き身の剣を持っていた。そして頭は虎で、毛並みも虎縞模様である。狼男ならぬ、虎男である。それが、倒れ伏しているソ連兵に近づき、襟首をむんずと掴んで無理矢理立たせていた。ヴォーンはというと、別に何をするでもなく、固唾を呑んで黙ってその光景を傍観していた。虎男は、ソ連兵の外套に手を掛け、乱暴に脱がした。外套の下から現れたのは、屈強な露西亜人ではなく、年若い少女だった。年齢はヴォーンよりも幾らか若く、大体十代後半ぐらいだろう。見事な銀髪を、項を隠す程の長さにまで伸ばしていて、人種的なものに因ると思われる小麦色の肌には健康的な魅力があった。顔の造形はとても整っており、小柄な体格と相まって愛らしい雰囲気さえ感じられるが、襟首を掴む虎男を油断なく睨みつけている銅褐色の大きな瞳には、決して飼い馴らされない獣性が見て取れた。草木で偽装した暗緑色の外套を羽織っている以外は、殆ど全裸に近い格好をしており、胸元や腰回りには、亜細亜の民族衣装を髣髴とさせる色鮮やかな幾何学模様が描かれた黄色い薄布を巻いているだけだった。あどけなさの残る容姿とは裏腹にたわわに実った乳房が、少女が暴れる度に柔らかそうに揺れ動き、剥き出しにしている腹筋が形良く盛り上がる。ヴォーンは望遠照準鏡越しに見える、大胆に露出した小麦色の肌が魅せる野生的な色気に終始釘付けだった。少女を捕まえた虎男はあからさまに下卑た笑いを浮かべていた。尤も、虎の顔では人間の様に表情など作れはしないが、少なくともヴォーンにはそう見えていた。虎男が丸太の様に太い毛むくじゃらの腕を無造作に伸ばし、彼女の豊かな乳房を乱暴に掴んだ瞬間、彼は逡巡した。幾ら酷薄なヴォーンとはいえ、それはあくまでも戦闘の時だけであり、普段の彼は人並みの正義感を持ち合わせている。だから、同じ人間の少女が訳の分からない化け物に陵辱されそうになっているのを見て、怒りを覚えない筈がない。本心からあの女の子を助けたいと思ったが、虎男があの一人だけとは限らない。居場所が露見して、奴の仲間に発見されたら危険だ。狙撃兵は、感情を殺さなくてはならない。たとえ望遠照準鏡越しに友軍が殺される惨状を見ても、怒りで引き金を引く事があってはならない。それは即ち、自分の存在を敵に晒してしまうからだ。そしてそれは、つまりは己の死を意味する。事態を静観する事に決めたヴォーンは、別の虎男が森の中から現れたのを目撃した。続々と現れる虎男の人数はこれで二三人となってしまい、仮にヴォーンが少女を助けようとしていたとしても、流石にこれだけの人数を相手には出来そうにない。虎男達は何やら言い争っている様だが、やがて指揮官らしき一際大きな虎男が指示を出し、他はそれに従った。彼女はこれから自分の身に起こる事を悟ったのか、一層激しく暴れたが、あっと言う間に数人の虎男に草原に押し倒され、手足を押さえつけられ、胸と腰に巻いていた薄布を剥ぎ取られてしまっていた。ヴォーンの位置からでは背の高い草に邪魔されて見えないが、一糸纏わぬ生まれたままの姿で、少女は地面に組み伏せられているのだろう。一瞬、少女の裸体が見れなかった事を残念に思ってしまったが、直ぐにそんな邪念は振り払い、そんな己を恥じた。指揮官らしき虎男がいそいそとベルトを外し、人間とそれほど変わらない形の勃起した陰茎をズボンから取り出した時、ヴォーンの脳裏にあの忌まわしい記憶が鮮明に蘇り、吐き気と気絶しそうなぐらい強烈な憤激が沸き起こってきた。既に彼は、どんな事が起こっても静観するという狙撃兵の鉄則を忘れていた。今直ぐ、目の前の胸糞悪くなる光景を消し去りたい想いでいっぱいだった。気付いた時には、既に引鉄を完全に引き切っていた。銃火が銃口より迸り、肩にしっかりと押し当てている銃床から鋭い衝撃が脳天にまで心地良く響く。放たれた炸裂弾は毎秒八〇〇メートルの速度で空気を切り裂いて突き進み、次の瞬間には指揮官の虎男の左側頭部を貫通して頭蓋内に食い込み、そして爆発した。ほぼ密閉された状態にある頭蓋は西瓜の様に破裂し、舌がへばり付いた下顎を残して完全に吹き飛んでいた。司令塔である脳の存在が突如として消失し、虎男の身体はそのまま糸の切れた操り人形の様に、その場で頽れる。彼らは一体何が起こったのか分からない様子で、ただ、頭の上半分を吹き飛ばされた指揮官の死体を呆然と眺めていた。これを好機と睨んだヴォーンは、槓桿を引いて薬室内から空薬莢を排莢させ、弾薬を装填し、新たな標的を選定した。敵に立ち直らせる暇を与えてはならない。次の犠牲者は直ぐに決まった。未だに状況を把握出来ず、呆けた表情で立ち尽くしている四人の虎男に淡々と銃弾を撃ち込むと、全てが頭部に命中して続け様に柘榴の様に爆ぜ、彼らに自身の死を自覚させないまま即死させていた。ほんの数秒の間に五発の銃声が轟き、五人の虎男が物言わぬ肉塊と化して地面に転がっていた。騎兵小銃の弾倉内の最後の一発を撃ち終えると、ヴォーンは直ぐに小銃を構えたまま片手で左腕の弾薬ホルダーから新たな炸裂弾を引き抜いて、一発ずつ装填していった。装填し終えると、そのまま狙撃を続行する。奴らが五人の仲間が何者かによって瞬時に殺されたのを把握した時には、既に死体は十体に増えていた。残った十三人の虎男達は恐怖に駆られて蜘蛛の子を散らしたかの様に、慌てて四方に散ったが、奴らの動きは全て直線的で先が読み易く、独逸国防軍の熟練狙撃兵の死神の死の抱擁からは逃れられそうにない。まるで鴨を撃つ様に、ヴォーンは容易く新たに五人を仕留めた。三度目の装填をしている間に、残った八人の虎男は森に逃げ込んでしまったのでそれ以上の戦果は望めそうになかった。人間よりも奴らの逃げ足は早い様だ。ヴォーンは望遠照準鏡を覗き込みながら、先程の少女について思案した。さて、彼女をあのまま放っておいて良いものだろうか。見ると、未だ仰向けに倒れたままだ。化け物相手に少しも臆しなかったのだから、さっさと立ち直って逃げ出してくれれば良いのだが、もしこのままの状態が続くのであれば放っておくわけにはいかない。ヴォーンは指笛を鳴らして馬を呼び寄せた。彼の馬は常にやる気を感じさせない瞳の持ち主だが、命令した事は一通りこなす様に訓練してある。それにちょっとやそっとの事で自分を見失わない度胸を備えていた。時と場合によっては、人間の兵士よりも頼もしい存在と言えた。迷彩ツェルトヴァーンで包んだ騎兵小銃を背負い、負い紐で突撃銃を胸の前に提げ、ヴォーンは馬の背に飛び乗った。拍車を掛けると、馬は地面を力強く蹴って駆け出した。丘の斜面を駆け下り、膝の高さまである草を掻き分けて草原を突っ切る。少女の直ぐ傍で馬を止めると飛び降り、虎男の死体を避けて足早に駆け寄る。気絶しているのだろう、少女は、最初に吹き飛ばした虎男の脳と血に塗れて虚ろな顔をしていた。大丈夫な様子に安堵したが、残りの虎男達の動向が気になった。「おい、しっかりするんだ」抱き起こすが、依然として彼女は気を失ったままだ。仕方がないので、肩に担ぎ、荷物の様に馬の背に載せる。ヴォーンも馬に跨ろうとしたが、その時、何かが鋭い風切り声を上げて迫り、鉄帽に命中した。その衝撃で思わずヴォーンは倒れた。鉄帽に弾かれて地面に突き刺さっていたのは矢だった。森に逃げ込んだ虎男達が放ったのだろう。そういえば、奴らの中には刀剣類の他に弓矢で武装している者もいた。ヴォーンは直ぐに体勢を立て直すと、矢が飛来してきた方向に向かって突撃銃を全自動で射撃した。Stg44突撃銃が使用する弾薬は七.九二×三三mmクルツ弾という特殊な弾薬で、フルサイズのマウザー弾よりも全長が短く、また装薬量も少ないので反動が低く撃ち易い。小型軽量になった分、遠距離での威力は劣るが、それ以外の距離ではフルサイズ・カートリッジと何ら変わりない高い威力を発揮する。薙ぎ払うかの様に掃射すると、森の茂みの幾つかが揺れ、虎男のものと思しき悲鳴が聞こえた。その隙にヴォーンは鞍に跨ると、拍車を掛けてその場から離脱した。後ろからは何本かの矢が追い縋る様に飛来してきたが、幾つかが掠めただけで当たらなかった。ヴォーンの姿は、やがて草原の丘陵の向こうに消えた。<3>夜になると、鬱蒼と木々の生い茂る奥深い森の中は静寂だった。自分の呼吸以外は何も聞こえない。尤も、草叢から聞こえる虫の鳴き声、草木が風に揺れて擦れ合う音、近くで流れる小川の清らかなせせらぎ、その他色々と小さな物音が夜の森には満ちているが、死と破壊が織り成す戦闘騒音と比べれば、自然が紡ぎ出すそれらの音色は心地良い穏やかなものと言えた。ヴォーンは装備も脱がず、突撃銃を膝の上に置き、苔生した岩に腰掛けて思索に耽っていた。時刻は既に夜中になろうとしていたが、全く眠くならない。目も頭もはっきりと冴えていた。先ず初めに、此処が何処なのだろうかとヴォーンは考えたが、これといって答えは一つも見つからなかった。少なくとも此処は露西亜ではないだろう。昼間見た奇妙な生物――人と獣の姿を合わせた様な化け物――は、東部戦線にはいない。はっきりしているのは、その様な馬鹿げた存在は御伽噺の中でしか在り得ないという事だけだ。ならば、そんな馬鹿げた存在が登場するこれはやはり夢なのだろうか。それにしては何時まで経っても覚める気配がない。しかも妙に現実感があり過ぎる。例えば、今こうしている間にも頬を撫でる湿った夜風や、それに乗って流れてくる虫の声と森の小動物が立てる物音はとても夢とは思えない程の感触を持っている。そして、身に着けた装備の重さや銃の硬質な肌触りが、これが紛れもない現実だという事を訴えている様な気がした。そんな馬鹿な事があるものか、とヴォーンは頭を振って胸の中で擡げた一つの答えから逃避した。だが、何度も自分は不思議の国のアリスではないと言い聞かせても、それは背後から追いかけてくる。内なる声が、認めてしまえと囁きかける。認めなければいけないのかもしれないが、認める訳にはいかなかった。これを現実だと認めてしまえば、そうだと認識してしまえば、何かは分からないが大事なものが失われてしまいそうな気がしたのだ。それは嘗ての戦友達の様に、自分にとっては掛け替えのない大切なものなのだろう。だが、仮に今のこの状況をありのままに受け入れたとしても、果たしてそれに何の意味があるのだろうか。尤も、ずっと聞き分けのない子供の様に駄々を捏ねて拒否し続ける事にも意味があるとは思えないが、そうしているとある種の安心感に身を委ねられるのもまた一つの事実だった。認めたくはないが、これは現実だ。だが、現実だと理解していても、簡単に受け入れられる筈もなく、認めたくはないという一心で、今のヴォーンは自らの殻の中に閉じ篭って永遠の思考のループを続けていた。それは既に思考停止に近いものだったが、そうしなければ心の均衡が崩れてしまいそうだった。これが夢か現かという問題から一瞬でも逃避したくなり、ふと、夜空を見上げると、木々の梢の合間から明るい月が覗いていた。不思議な事に、空に浮かんでいる月は二つもある。普通、月は一つしかない筈だ。これはやはり、夢なのだろうか。しかし、この現実めいた奇妙な感触は一体如何やって説明すれば良いのだろう。肌に感じる夜風の感触と匂い、目に見える闇の暗さ、身体全体に掛かる装備の重さを、何と説明すれば良いのだろう。そして彼女の存在は何だ。視線を足元に転じれば、昼間、虎男達から助け出した少女が、丸めた迷彩ツェルトヴァーンを枕にして毛布に包まって眠っている。ヴォーンは、この少女から色々と訊きたい事が山ほどあったのだが、彼女は気絶したきりずっと眠ったままだ。訊きたい事はそれこそ数え切れない程あるが、何よりも気になったのが、彼女自身についてだ。助け出したこの少女は、はっきりと言ってしまえば人間ではなかった。厳密に言えば、一見すると人間の少女だが、よく見ると人間とはまた違った存在である事が分かった。銀髪の合間、人間ならば耳のある箇所からは、髪と同じ銀色の毛並みに覆われた動物の大きな耳の様なものが生えていた。最初、ヴォーンはそれはただの飾り物だと思っていたが、眠っている少女の髪を少し捲って確かめてみると、それは確かに彼女から生えていた。触れれば、流れる血の温もりが伝わってくる。この少女の奇妙な点は耳だけではなかった。毛布の端から、毛並みに覆われた長い何かがはみ出していた。それは動物の尻尾の様な、いや、動物の尻尾そのものだった。耳と同じく銀色の毛並みに覆われていて、肌触りはふわふわとしていて心地良い。「一体何なんだ。くそっ、俺は悪い夢でも見ているのか?」溜息を吐くと、懐から木彫りのシガレットケースを取り出し、煙草を一本口に咥えて火を点けた。思わず咳き込みそうになる程、強い煙草だった。それは例によって露西亜煙草で、半分が煙草、半分がボール紙の管という代物である。東部戦線に従軍した者の中には、見栄を張る為に吸っている者もいるが、ヴォーンはこれを好んでいた。辛過ぎる煙が咽喉を刺激したが、混乱した頭には丁度良い。肺胞を通して血中に溶けたニコチンが、レセプターに作用して報酬系を活性化させ、疲れた脳に快の感覚を齎してくれる。煙草を吸って落ち着いたところでヴォーンは徐に立ち上がると、少女の傍にしゃがみ込み、いつ何時も嵌めている愛用の鹿革の手袋を脱いだ。そして素手の指先で、眠っている彼女の唇の上にそっと手を翳した。微かに、温かな寝息が吹きかけられた。触れてみると、唇は柔らかく、瑞々しくしっとりと潤っている。その唇の柔らかさは、思わず口付けたくなる程だ。「何を馬鹿な事を…」脳裏を過ぎった下衆な考えに頭を振り払うが、絶え間ない戦闘で続いてきた緊張が抑えきれない性的欲求という形で発露しようとしていた。戦争中の兵士の生活は、生きる事、食べる事、飲む事、そして可能ならば性交をする事という、必要最低限に抑えられるからだ。尤も、性交に関しては誰もが行える訳ではなく、軍規で厳しく罰せられる場合の多い強姦を除けば、部隊が比較的落ち着いていて現地住民と親しくなれる時や、国防軍が管理運営する娼婦宿が近くにある時でなければ性行為が出来ないのは言うまでもない。ヴォーンとて健全な独逸青年である。目の前に美しい少女がいれば、彼でなくとも男であるならば何かしらの欲望を抱くだろう。でなければ不健全だ。健全なヴォーンは、彼女に対して性的魅力を感じ、出来るならばしたいと思ったが、彼は理性を持つ人間としてきちんとした教育を受け、尚且つ厳しい軍規に律せられている独逸国防軍の兵士だ。露西亜の僻地より見境なく掻き集められた、無法者に等しいソ連軍兵士とは違う。眠っているいたいけな少女に対して卑猥な悪戯など彼には到底出来そうになかった。喩えこれが、夢の中だとしてもだ。だが、ヴォーンの冷静な理性とは裏腹に、肉体は正直な反応を示していた。身体のある一部分が熱を持ち、痛い程硬く強張っている。駄目だ、と理性が制止しても、止まる事を知らない若い欲望は抑えられそうにない。興奮が昂ぶるにつれて、思考能力が極端に低下し、考える事自体を拒絶し始めていく。体内で若い血潮が疼き、今にもヴォーンは無尽蔵に沸き起こる獣欲の衝動に身を委ねてしまいそうだった。肉体は熱病にでも冒されたかの様に熱く火照り、呼吸が不気味な程にまで荒い。少女の唇に触れている指先が、酷く熱く感じられた。何時の間にか小刻みに震えだした指先で、その肉感的な唇をそっとなぞる。そして細い咽喉、彫刻の様にくっきりと彫られた鎖骨、そして胸元へと指先を徐々に滑らしていく。心の中ではこれが許されざる行為と分かっていながらも、初めて触れる蕾が綻び始めた様な若さ溢れる少女の柔肌の魔力には抗えなかった。「んん……」不意に少女が小さく呻いて身動いた。ヴォーンは寿命の縮む思いをしたが、反面、戦場で鍛えられた鋭敏な五感の全てが少女の存在を強く意識しており、薄紅を引いた様な唇、耳を打つ悩ましげな吐息の音、鼻腔を微かに擽る女の甘い体臭が、彼を理性を激しく苛む。少女の体の上を這う手が毛布の中へと滑り込み、指先が豊満な双丘に触れた途端、ヴォーンの理性という名の糸が、彼自身が思っている以上に呆気なくプツリと切れた。それと同時に先程まで頑として受け入れようとしなかった非現実的な状況を、これは夢なんだ、夢だから、何をしたって誰にも咎められる事はない、と自分の醜い欲望を満たさんが為に都合良く利用し、一方的に夢と決め付ける事で、それを免罪符にして己の矮小な自尊心の保身を謀っていた。 少女を起こさぬように注意を払い、逸る心を落ち着かせ、慎重に被せていた毛布を少しずつ捲っていく。毛布の下から顕わになりつつある少女の小麦色の素肌に、ヴォーンの興奮と感動の度合いがいよいよ最高潮に達しようとしていた。それは子供が新しい玩具を箱から取り出す時の感動、いやそれ以上のものだった。完全に毛布を剥ぎ取ると、思わず感嘆の吐息が漏れた。野生の獣を彷彿とさせる健康的でしなやかな小麦色の肢体の素晴らしさは言うに及ばず、量感たっぷりの円やかな乳房に、思わず咽喉をごくりと鳴らして生唾を飲み込んだ。まるでクリームを入れた珈琲の様に美味しそうな色をしている。今にもはち切れんばかりに乳肌が張り詰めた双丘は、仰向けになっても形が崩れておらず、小麦色の肌との対比が鮮やかな桜色の乳首がツンと上を向いていた。薄っすらと割れた腹筋線が浮き出ているなだらかな下腹部に視線を転じれば、その髪と同じ銀色の陰毛に淡く覆われているヴィーナスの丘が目に入った。衝動の赴くまま、ヴォーンは少女の足を少しずつ広げさせ、荒い息を押し殺し、初めて見る女性の神秘の場所を間近で仔細に観察した。其処もやはり小麦色をしていて、ぷくっと肉厚な大陰唇は固く閉じており、中の肉襞をはみ出させていない。剥き出しにされた、筋肉質だが程良く脂肪の付いた小さな尻の谷間の始まる部分――人間ならば尾骨に相当する箇所――からは、銀色の毛並みに覆われた尻尾が生えていた。ヴォーンはまるで狙撃を行う時と同様に、驚異的な集中力を発揮して、感動の震えを抑えた指先で女唇に軽く触れた。「ん…」その瞬間、少女の身体が僅かに反応し、彼女の声も漏れ聞こえた。流石に今ので起こしてしまったか。ヴォーンは焦ったが、敢えて気持ちを落ち着かせる事で全神経を研ぎ澄まし、少女の肉体の変化を敏感に感じ取って好機を窺った。暫く呼吸を止め、目の前にある神秘の扉をじっと物欲しそうに凝視する。普通の男ならばそうしているだけでもう居ても立ってもいられなくなるのだろうが、ヴォーンは熟練した狙撃兵である。日頃から忍耐には慣れており、常人よりも遥かに我慢強い。これも狙撃と何も変わらない。焦れば負ける。だから、今は耐え、訪れるであろう機会を逃さぬようにするしかない。気配から、少女の覚醒は無いと判断した。安堵の息を吐きたくなったが、僅かな吐息の感触でさえ刺激しかねない。目の前の此処は、男性と同じく神経が集中している敏感な箇所なのだから。ぐっと我慢し、硝子細工にでも触れるかの様な繊細な手つきで愛撫を再開する。密やかに茂る銀色の恥毛に囲まれている、ふっくらと柔らかい性器土手を少しだけ押し開くと、膣と同じ鮮紅色の小陰唇が顕わになる。小陰唇の合わせに目ある小突起が、兵士の間での猥談でよく聞く陰核なのだろう。それは慎ましやかな花弁とでも形容すべき美しいもので、小さな膣腔の周囲は薄い膜の様なもので覆われていた。「処女……なのか?」乏しい女体の知識の中から、この膜が何であるかを思い出すと同時に驚愕と興奮の嘆息混じりの声が、咽喉の奥から辛うじて絞り出された。何という事だろう。信じ難い事に、この少女は未だ穢れを知らぬ純真無垢な乙女なのだ。その神聖不可侵なる存在を、女の柔肌に餓えた野獣が犯そうとしている。ヴォーンは少なからぬ罪悪感を覚えたが、それと同時に美しいものを穢せるという、男の誰もが抱くであろう或る種の征服欲が満たされるのを感じていた。そして夢と思い込む事で彼の欲望は更に加速していった。音を立てない程度に、静かに鼻から空気を吸い込むと、仄かに甘酸っぱい〝牝〟の香しい芳香が肺をいっぱいに満たし、ヴォーンの〝牡〟の本能を強く刺激した。流石に幾ら忍耐強い彼でも、もう欲望を抑え付けられる自信はなかった。とうとうヴォーンの中では、今すぐに、その柔肌の下、温かな膣内に押し入って思う存分蹂躙し尽したいという荒々しい欲望が勝り、それが行動となって発現する。膝で立ち上がって、かちゃかちゃと金具を慌しく鳴らしてベルトを外すと、本来ならば精強な兵士となるべき教練とは無縁である筈のヴォーンの股間の剛直は、華奢な少女の手首程に逞しい屹立を見せ、腹部に向かって雄々しく反り返っていた。既に先端からは透明な先走り液が溢れ、滴っている。だが、いざ行動を起こす時になって、運悪く――むしろヴォーンにとっては本当の意味では幸運だったのかもしれない。何故なら、そのまま事に至っていれば、彼が忌み嫌っている露西亜野朗と同類になってしまうからだ――、少女は目覚めてしまった。少女の大きな銅褐色の瞳とはったと目が合い、ズボンを下ろし掛けた状態のまま硬直する。ヴォーンは自分の中で、欲望の炎が見る見る内に萎えていくのが分かり、徐々に心が平静を取り戻していった。彼は冷静になるにつれて、今のこの滑稽な状態を心底恥ずかしく思い、穴があったら入りたい想いでいっぱいだった。少女の視線が、己の一物に釘付けになっているのが分かった。彼女はヴォーンの今の格好から、彼が男性として最低な行為に及びそうになっていたのを瞬時に理解し、あからさまに侮蔑と嫌悪の感情を顕わにしていた。咄嗟に上半身を起こして身を守る様に毛布に固く包まり、誰の思い通りにもならない野性を秘めた鋭い眼差しで睨みつけている。その一睨みで熱くなっていた身体は冷や水でも浴びせられたかの様に冷たくなっていた。天に在す我らが神は、ヴォーンよ、お前の愚行を御覧になられていた。お前は大いなる過ちを犯しそうになった。だから、神はお前に天罰を下したのだ。そう、神は少女の突き刺さる様に痛い視線を、己の一物自身に受けなければならないという恥辱をお前に課したのだ――つまりは、そういう事だった。「…………」粛々と、今は叱られた子犬の様に縮み上がってしまったモノを仕舞い、無言でズボンを穿き直す。この沈黙がヴォーンには途轍もなく苦痛だった。何であんな馬鹿な真似をしたのかと、今となっては激しく後悔せずにはいられなかった。「その……何だ、あれだ」沈黙を破り、ヴォーンが口を開いた。緊張の所為か咽喉が渇き、口中が唾液で粘ついていた。「色々と済まなかった」ヴォーンは、情けなく謝る事しか出来なかった。<4>パチパチと爆ぜる焚き火を挟んで、二人はある程度の距離を置いて無言で向かい合っていた。ヴォーンは、未遂とはいえ、己が犯した愚行により途轍もなく凄まじい自己嫌悪に陥っており、まともに少女の顔を直視出来なかった。穴があったら入りたい、というのは今のこの気持ちをいうのだろう。情けなくて、恥ずかしくて、己の矮小さを噛み締める事しか出来なかった。今の彼は去勢された犬の様にすっかり大人しくなっていた。ちらり、と少女を見遣る。彼女は、今では長大な小銃を抱き抱え、相変わらず毛布に固く包まり、ずっと此方を疑い深い眼差しで睨みつけていた。眠っている間に強姦されそうになったのだから、当然の反応だろう。自分を犯そうとした男が目の前に居れば誰だって警戒する筈だ。「………」「………」この沈黙は一体どれだけの間続いているのだろうか。腕時計に目を落とせば、少なくとも二時間は経っていた。その間どちらも口を開かず、じっと焚き火を眺めて沈黙を貫き通している。もうそろそろこの行き詰った状況を打破すべきだろう。だが、何を話せば良い。如何にして人道を踏み外した行為に及びそうになった心の推移でも細かに話すのか。仮に話したとしても許してくれるとは思えない。男ならば誰だって一度ぐらい道を踏み外しそうになるものだが、情状酌量の余地がある――こんなふざけた状況は夢としか思えないし、夢の中では何をしても罰せられず、誰だって現実世界では出来ない事を平気でやってしまうものだ――初犯で未遂とはいえ犯罪は犯罪だ。しかも性犯罪の中では最も罪が重い強姦となれば、問答無用で人間の屑というレッテルを貼られても仕方がない。結局、ヴォーンには如何すれば良いのか分からなかった。そもそも、こんな状況は初めて経験する。若気の勢いが過ぎ去った後の気まずさというのは何とも居心地が悪い。「ねえ」長い沈黙を破ったのは少女からだった。ヴォーンの身体が思わずびくりと反応した。「アンタ、名前は?」「……………ヴィリー。ヴィリー・ヴォーン」俯いたまま、ヴォーンは呟く様に言った。今の彼は、初めて自慰を行った後に中学生が陥る自己嫌悪の真っ只中にいる。「アンタが私の事を助けてくれたの?」ヴォーンは小さく頷いた。「ふーん……本当に?」少女は疑惑の眼差しで、胡散臭そうにヴォーンを眺めた。それもそうだろう。助けたのが事実だとしても、犯そうとしたのもまた事実である。信じられなくて当然だ。「アンタ、ヒトでしょ。ヒトが如何やってあれだけのトラを倒せたのさ?」無言のまま、ヴォーンは負い紐で背負っていた騎兵小銃を手に持ち、それを少女に見せた。「それは何?」「マウザーKar98b騎兵小銃。これで遠距離から狙撃したんだ」「遠距離ってどのくらいの距離から?」「約六〇〇メートル。南から微風が吹いていたが、狙撃には何の問題もなかった。湿度、温度も最適だった」「本当に? 魔法の付与もなしに、そんな距離から銃弾が当たるの?」少女にはヴォーンの言葉を欠片程も信じる様子がない。彼の気持ちは相変わらず暗く沈んでいたが、静かにこの少女に対して沸々と反感が込み上げてきた。自分の人間性を疑うのは別に良い。それだけの罪を犯したのだから仕方がないだろう。だから己の人間性に対する批判は甘んじて受け入れる心算だ。だが、狙撃に関する技量を疑われるのだけは我慢出来なかった。それだけは曲がりなりにもヴォーンが戦場で、己の命を懸けて研鑽を積み重ねた確かな生存の術であり、これを否定されれば今までの辛苦さえも、そう、目の当たりにしてきた多くの戦友達の死をも否定される様な気がしてならなかった。「腕さえ良ければ当てられる。俺は嘘は言わない」「へぇ、寝ている女の子に乱暴しようとした強姦魔のくせに、嘘だけは言わないんだ」そう言われてしまってはぐうの音も出ない。ヴォーンは拳を固く握り締め、肩を震わせた。「そもそも、俺だけ名乗らせるのは可笑しくないか。君も名乗ったら如何だ?」流石のヴォーンにも我慢の限界というものがある。確かに、自分が犯した罪は許されるものではないが、だからといって被害者が加害者に何をしても許されるという道理はない。明らかに自分よりも年下と思われる女の子に、好き勝手言われるのは独逸の男としての自尊心を著しく傷つけられるばかりだ。「強姦魔が一丁前に私に指図する気? ま、良いわ、助けてくれたのは本当みたいだし、名前ぐらい教えて上げる。姓をフェーン、名をリィス、字をヴルフ。オオカミの二七氏族が一つ、フェーン家のフェーン・リィス・ヴルフとは私の事よ」少女は自信たっぷりにそう自己紹介するが、ヴォーンにはいまいち理解出来ない。オオカミ、というのは、彼女の耳と尻尾がそうなのであろうか。成程、そう言われてみれば、銀色の毛並みが狼の耳と尻尾に見えなくもない。となると、やはり彼女は人間ではないのだろう。少なくともその様な耳と尻尾を生やしていては人間とは呼べないからだ。「よし、分かった。リィス、一つ聞きたいんだが……」「ヴルフよ。アンタ、初対面なのにいきなり私の事を名で呼ぶの? それって失礼なんだけど。普通は字で呼ぶものよ」何故かリィスと呼んではいけないらしく、不機嫌そうに頬を膨らませている。「あー……それじゃあヴルフ、一つ聞きたいんだが」幾らか間を置き、心を落ち着けてからヴォーンは訊ねた。「これは夢だよな? 君も、俺の夢の中の住人にしか過ぎないんだよな? 目覚めれば、また、あの毎日なんだよな?」とうとうずっと気になっていた事を口にしてしまった。ヴォーンは心の奥底では、一連の非現実的で不可解な出来事を夢ではなく、現実なのではないかと疑い始めていたが、固定化された常識をあっさりと覆せる程もう彼は子供ではない。既に戦場で殺人を犯した時点で、彼の少年時代は終わりを告げており、血みどろの大人の道を歩み始めている。「アンタって馬鹿ぁ?」半ば呆れ、半ば小馬鹿にした表情でヴルフは言った。「夢と現実の区別さえつかないの? まぁ、アンタって子供じゃなさそうだし、大人だったら信じられなくて当然かもね。これは夢なんかじゃなくて、紛れもない現実。試しに焚き火の中にでも手を突っ込んでみたら? そうしたら目も覚めるんじゃないの?」彼女の言われた通り、右手を燃え盛る焚き火へと無造作に近づけると、やはり熱かった。ヴォーンは、本当は薄々感づいていた。だが、水の様に柔軟な子供とは違い、常識に囚われた大人である彼の精神はありのままを受け入れる事が出来なかった。だから気付かぬ振りをしてきたが、今となってはそれを押し通せそうにない。ヴォーンは深い溜息を吐き、妙に諦観した気持ちになった。もう諦め、こんな気が狂いそうな現実の全てを受け入れるしかないのだろうか。しかし、その一方で、本当のところ彼はこの状況に大して驚いてはおらず、むしろ妙な既視感さえ覚えていた。この感覚は前にも一度経験している。四四年五月、専門的な狙撃兵の養成機関で数週間を過ごし、数日間の休暇を貰って実家に帰省した時の事だった。戦場を遠く離れ、戦争の爪痕のない風景に出くわして、ヴォーンは確かな違和感を感じた。彼の妹達は、戦争を冒険か何か刺激的なものかと思っている様だった。それは巷に氾濫する戦時プロパガンダに植え付けられたイメージだった。好奇心いっぱいで訊ねる妹達の瞳は、世の中の穢れを知らない純真そのもので、戦争を通して草臥れた大人になってしまったヴォーンは答えに窮してしまった。仮に話したとしても、外の世界で何が起こっているのか、苛酷な従軍経験のない母や妹達には何も解りはしないだろう。それにヴォーンには、何も知らない銃後の平和な世界に、戦争が齎す辛い現実を持ち込む事が出来そうになかった。嘗ての生活は変わり果て、生存を懸けた闘争が唯一の現実となってしまったヴォーンには、戦争とは無縁な世界が虚構としか思えなくなっていた。戦争と無縁という観点からすればこの奇妙な現実も、戦場から遠く離れた故郷も同じだ。どちらもまるで不確かな夢の様なのだ。彼はおよそ十九年間を故郷の村の閉塞的な環境で平凡に過ごし、その中で基本的な常識や道徳、社会通念を学び、肉体と精神を育んでいった。大人への決定的な一歩を踏み出したのは、一九四一年に経験した始めての実戦だった。初めて人間を殺めた時、ヴォーンの精神は完全な成熟を迎え、本当の意味で大人になったのだ。それからの四年間は、彼に戦争の現実が齎す苛酷さを嫌という程に知らしめ、他の独逸の若者と同様に一つの戦争機械に変貌した。それらの現実を基に築き上げられた大人としての確固たる人格は戦争を真正面から受け止め、良心の呵責を殺し、戦争の遂行を円滑にしていった。それもこれも、無意識の内に働いていた自己保存本能によるものだった。身に降りかかる理不尽を理解するよりも前に、弾薬を装填し、槓桿を引き、狙いを定め、引鉄を引かなければならなかった。生き残る為には残酷な現実と折り合いをつけ、敵を躊躇わずに殺す必要があったのだ。自己の生存を懸け、ヴォーンは戦い続けていた。何時終わるとも知れぬ戦争の日々を生き抜き、たった一人で大軍を相手に這いずり回り、確実に敵を死に至らしめてきた。そこでは、生と死しか存在しない。戦争は畢竟するところ、物理的な力を行使して相手に己の意思を強制する暴力的な外交行為だが、実際に従軍する兵士にしてみれば、銃弾が頭を掠めた瞬間、国家同士のくだらない政治的な主張など簡単に跡形もなく吹き飛んでしまい、彼らは生物の自己保存という根源的な本能に従って戦うだけだ。日常生活の中で抑止されていた非人間性が思う存分に発露する戦場ではまさに綺麗ごとは通用しない。生きるしか死ぬか。これに尽きるのみだ。「これで分かったでしょ? アンタが見るもの、聞くもの、嗅ぐもの、味わうもの、触れるもの、五感の全てに感じるものは紛れもない現実。いや、五感だけじゃなくて、六感でも感じられる筈よ。尤も、アンタに六感があればの話だけど。ヒトは獣人と違って鈍いらしいからね」やれやれとヴルフは肩を竦めて見せる。ヴォーンは彼女を視界の端に捉えながら、ぼんやりと考え続けていた。その容赦ない苛烈な日々が何の前触れもなく突如として終わりを告げ、代わりに、目の前には狼の耳と尻尾を生やした少女がいる。自分でなくても、そうなれば誰だって困惑するだろう。ヴォーンの現実に対する認識が追いついていなかった。虚構としか思えない現実が齎す葛藤には胸が締め付けられ、心が消化不良を起こしている。幾ら常人よりも頑強な精神と肉体を有しているからといって、度を越した不可解な出来事の連続には流石の彼も頭が痛くなった。が、予想に反して心は徐々にこの現実を受け入れ始めていた。暫くの間、ヴォーンは思考を停止し、何も考えないように努め、心を空にしようとした。戦場で遭遇する体験の多くが、それまでの常識と道徳観念を粉々に破壊するものであり、その度に受け入れ難い残酷な現実を受け入れ、自分が置かれた兵士という苛酷な立場を理解しなければならなかった。喩え己の魂の半分と同然の戦友を失ったとしても、感情を極力抑圧し、一個の戦争機械に徹しなければ戦争の渦中を生き残る事など出来やしない。つまりは心の切り替えが上手く出来ず、自分に課せられた任務を疎かにする者は遅かれ早かれ野垂れ死ぬという事だ。此処まで大戦を生き残ってきた古参兵であるヴォーンはその点では心の切り替えが上手く、理不尽を受け入れるのには慣れていた。だから、目の前のこの少女の存在が突き付ける、自分が異世界に迷い込んだという不可解な現実さえも受け入れられようとしていた。「いまいち、解らない。もう少し解り易く説明してくれ」案外落ち着きながら、ヴォーンは懇切丁寧な解説をヴルフに求めた。「え~と…簡単に言うと、アンタは私ら獣人の世界に〝落ちた〟のよ。アンタらヒトが住む世界と、私ら獣人が住む世界は上下で接しているらしいの。上にヒトの世界があり、下に獣人の世界がある。尤も、これはあくまでも概念的な話。誰も本当の事は知らない。ただ、時々ヒトの世界の物が空から落ちてくる事から、ヒトの世界は私らの世界の上にあるって言われてる」「それじゃあ、俺は何故、此処に落ちたんだ? 特別、俺は何かした訳でもないんだが」「そんなの誰も分からないわよ。運が悪かったからじゃない? ヒトの世界には私らの世界に通じる穴が開いているらしいから、それに偶然落ちちゃったんでしょ」「元の世界に帰る方法は?」「一般的には無いって言われているけど…そんなの、私は知らないわよ。私は猟師なんだもん。猟師がそんな事を知っている訳ないじゃない」そう言ってヴルフは抱き抱えていた長大な小銃を示す。それは見た目からして旧式の部類に属するもので、金属製薬莢が普及する以前に作られたパーカッション・ライフルの様だ。機関部は回転式拳銃と同様の構造をしており、大きな輪胴弾倉を備えている。「帰る方法が無い? 本当に?」「だから言ってるでしょ。私はただの猟師。偉い学者なら知っているかもしれないけど、猟師がそんな事を知っていたって何の役にも立たないわ」確かにそうかもしれないが、ヴォーンは呻かずにはいられなかった。元の世界に帰る方法が無いのであれば、最悪、人間とは別の霊長類である獣人とやらが支配するこの世界に根を下ろして生きていかなければならない。それだけは考えたくもなかったが、現状を見る限りではそうせざるを得ないかもしれない。「…それで、獣人というのは?」「私の様に、女はヒトの女に獣の耳と尻尾が生えた姿をしているけど、男は昼間アンタが見た様な感じ。全身が毛むくじゃらで顔が獣そのもの。でも、例外もいて、獣の耳と尻尾を生やしたヒトの男の様な姿をしたのがマダラ、全身が毛むくじゃらで顔が獣そのものという女がケダマっていうの。獣人は一般的にヒトよりも身体能力が高いと言われているけど、やっぱりこれにも例外がいるわ」「例えば?」「私の様に普通よりも筋力が弱いのもいるって事……所謂、虚弱体質って奴かな」しゅん、とヴルフの大きな狼耳が力なく萎れ、語調も弱々しくなった。その銅褐色の瞳には深い悲しみさえ見て取れた。あどけなさの残る容姿とは裏腹に、人よりも計り知れぬ苦労を積み重ねてきたのだろう。如何やら、彼女は普通の獣人よりも肉体的に劣っている事に対してコンプレックスを抱いている様子だが、見た限りでは健康そのもので、しなやかに鍛えられた身体は、少なくとも彼女と同年代の平均的な少女よりも高い運動能力がありそうだ。「俺にはそうは見えないが」「ヒトからすれば普通かもしれないけど、私らからすれば異常なの。長い間、森で暮らしていたから体力はそれなりにあるけれど、それでも健常者からすればヒトの女とそれ程変わらないぐらいなのよ」健常者に生まれ育ったヴォーンには、獣人からすれば障害者として生まれ育ったヴルフの苦悩を欠片さえも知る事は出来ない。だが、それが如何に大変であるのかは容易に想像出来る。自分と少し違うというだけで人間は排他的になる生き物だ。人種、皮膚の色、世系、種族的出身、政治的、経済的、社会的、文化的などといった形質的差異によって人間は同じ人間を差別し、排斥し、駆逐しようとしてきた。それは人間の長い歴史が証明している。更に現在進行形で、優生学の盲目的信奉者であるヒトラーは独逸民族、即ちアーリア系――長身痩躯、彫りの深い顔立ち、白い肌、金髪碧眼がその基準となるらしい――を世界で最優秀な民族とする為に、それの支障となるユダヤ人を迫害し続けている。ならば、人間とよく似た生物と思われる獣人の中でもそういった差別があっても不思議ではない。彼女なりに苦しい人生だったに違いない。「色々と………大変、だったんだな」ヴルフの苦しみの何万分の一さえ知る事は出来ないが、哀れみの言葉ぐらいはかけてやれる。尤も、それは悪戯に彼女の心を傷つけるだけかもしれないが、ヴォーンにはそうとしか言ってやれなかった。「まぁね。普通よりも身体が弱かったから、私はこの森に住んでいるお祖父ちゃんに預けられたの。親に半ば捨てられたのよ。でも、お祖父ちゃんだけは私を可愛がってくれた……」古びてはいるがよく手入れのされた小銃の、優美な紋様が精巧に刻まれた白銀の銃身を撫ぜながら、祖父との幸せだった日々に思いを馳せる様にヴルフは目を瞑った。「お祖父ちゃんはフェーン家の前当主で、引退してこの森で隠居していたの。お祖父ちゃんは私に武器の扱い方や獲物の狩り方、その他にも色々な事を教えてくれた。二人で森や山を自由気侭に歩き回り、自然と戯れ、獣を追いかけ、星空の下で眠ったわ。こんな森だから何もないけれど、私は充分幸せだった」銃身を撫でる手を止め、薄っすらと目を開く。銅褐色の瞳の奥に悲しい過去が垣間見えた。「でも、お祖父ちゃんは死んじゃった………それから私はずっとずっとひとりぼっち」暫くの間、二人の間に重苦しい沈黙が訪れた。パチパチと爆ぜる焚き火の音がやけに大きく聞こえる。「両親の所には帰らないのか?」「あの家に戻るぐらいならば死んだ方がマシよ。私の事を捨てたのよ? それに帰ったところで歓迎してくれるとは思えないわ」「そうか…………世界が違っても、複雑な家庭の事情というのがあるんだな」自慢ではないが、ヴォーンは自分を他よりも苦労人だと思っている。そもそも狙撃兵は敵味方から忌み嫌われるのが普通であり、今の理解ある上官に巡り会うまで人一倍の苦境の中で孤独な狙撃任務に従事していた。戦争の惨禍に巻き込まれたのも充分な悲劇だが、ヴォーンは自分よりもヴルフの方が可哀想に思えて仕方がなかった。実の親に疎まれ、捨てられるというのはどれ程の苦痛なのだろうか。ヴォーンはごく普通の家庭に生まれ育ったが、彼女は他者と少し違うという理由で両親から愛されなかった。その分も代わりに彼女の祖父が愛してくれたのだろうが、やはり親の愛を知らずに育つというのは悲劇としか言い様がない。「ふふふっ、私って変ね。会ったばかりのアンタなんかに、こんな話をするなんて……」自嘲的な笑みを浮かべ、ヴルフはぽつりと呟いた。「なに、今は夜の二時だ。誰だってこんな時間には変な気分になるものさ」ヴォーンはそう言い、装具ベルトを外して身に着けていた装備を下ろして身軽になり、焚き火の始末をしてから鉄帽、レギンス、山岳靴を脱いでなるべく柔らかい地面の上で身体を丸めて横になった。「もう寝るの?」「俺は酷く疲れたんだ。これからの事は、明日になったら考えるさ……」目を閉じると直ぐに意識がぼやけていった。何時もなら、寝ようと思ってもなかなか寝付けないが、今日ばかりは常識を遥かに逸脱した出来事の連続だったので、脳が早急な休息を欲しているのだろう。寝て、頭がすっきりしたらまた考えれば良い。今はもう何も考えたくない。この現実を冷静に受け入れるので精一杯だった。眠りに落ちいく中で、ヴォーンは確かに漠然とした不安を感じていた。それは戦場で感じる死に対する直接的な不安とは異質だった。それは帰属していた共同体、即ちミクロな見方であれば独逸国防軍であり、マクロな見方であれば人間社会の消失というものだった。人間は社会的動物であるから、たとえどの様な形であれ同種族が形成した社会の中に帰属している。だが、今はその当然とされていた前提が取り払われ、人間の世界という同種族の共同体の中にいるという当たり前の安心感もなかった。あるのは得体の知れない疎外感だけであった。そっと指を這わして腕に刻まれた傷痕に触れる。人間の世界から切り離されたという現実が、亡き戦友ケーニヒとの絆をも断ち切ってしまったかの様に思われて、ヴォーンは何とも言えない孤独を感じていた。この世界は人間とは別種の知的生命体によって支配されており、此処では自分の様な人間はマイノリティーだろう。それ故に、一体自分は如何なるのだろうか、元の世界に帰れるのだろうか、この世界で上手くやっていけるのだろうか、といった諸々の不安が浮かんできては胸の奥に沈んでいった。何時の間にか、ヴォーンは深い眠りに落ちていた。だが、その手は、しっかりと亡き戦友との繋がりの証である傷痕を握り締めていた。
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