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わかりやすいヒト講座――メス編。 ヒトのメスは非常に弱く、また、ひどく怖がりである事が知られている。 警戒心が強く、一度怖がらせてしまうとその関係を修復するのは非常に困難である。 また、ヒトのメスには処女膜と呼ばれる物があり、初めての性交時に激痛を訴える事が確認されている。そのため無理に行為に及ぶとやはり怯えられる可能性があるため、性行為の経験が無いヒトと性向に及ぶ場合は注意が必要である。 小さめのバイブやローターなどでまず様子を見るのがよい。 しかし一度快楽を教え込んでしまえば非常に従順で、調教によっては夜の生活の幅は飛躍的にアップするため、根気よく開発していくのが一番の近道である。 媚薬などを積極的に使い、行為への恐怖心を取り除いてやるとよい。 逆に、わざと恐怖心を与えて服従させる方法もあるが、加減を誤ると肉体的にではなく精神的に崩壊してしまう可能性があるためお勧めはしない。 着飾って歌や踊りを教え込むことをステータスとする貴族も多い。 * 「あちゃーって感じ。バラム絶望的」「怒った原因は分かったが……フォローのしようがねぇなこりゃ」 パルマが大量に買い込んだ服やら首輪やらアクセサリーの真ん中にどっかりとあぐらをかき、アカブはパルマが読み上げたヒト奴隷との生活教本の内容に頭を抱えた。 バラムは今日も森に行っていて家にはいない。 しかし遅かれ早かれ、いつしかこの絶望的な状況を知る事になるだろう。この本の内容を信じるならば、バラムには千宏を恐怖で服従させる他道がない。「素人にお勧めの簡単調教セットとか売ってるよ?」「ただの淫乱に調教するのか? 趣味じゃねぇなぁ」「そうだよね。特にメスヒトの価値って、外見にそれ程価値がないから頭の良さや特殊な技術で決まるんだ。それを変な薬で壊しちゃうなんて絶対反対!」 しかしなぁ、とアカブは唸る。 これではあまりにバラムの立場が無い。「まぁ、難しい事はアカブに任せるよ。私チヒロと遊んでくる。面白いよねぇ、ヒト用の付け耳とか付け尻尾とか売ってるの。防犯用って書いてあったけど、それにしては種類ありすぎてびっくりしちゃった」 そんな事を言いながら、パルマはそこいらじゅうに散らかしたヒト用品をかき集めて箱につめ、ひょいと抱えて立ち上がった。 銀色のくせっけをなびかせて、尻尾をピンと立てて走り出す。「任せるって……おいおい」 その後ろ姿をぽつねんと見送り、アカブは溜息と共にヒゲと尻尾をへたらせた。 * こちらの気も知らないで、パルマは今日も天真爛漫に千宏の部屋を訪れて、色とりどりの衣装やアクセサリーを広げて着て見せろとせっついた。 初めは無視してずっと布団を被っていたのだが、ちらと様子を伺うと今にも泣きそうだったので、千宏は慌ててベッドから這い出した。 どうして自分がパルマのお遊びに付き合わなければならないのかとも思ったが、今はパルマの押し付けがましい愛情がなければきっと壊れてしまうだろうとも思う。 なにより、パルマの好意を突っぱねて絶望に浸る事は簡単だが、それが自分の立場を悪くする行為に他ならない事を千宏はよくわかっていた。 パルマは髪飾りを弄びながら、千宏は髪が短いからリボンが飾れないと文句を言ったり、でも髪が短いからイヤリングがよく似合うと喜んだりとまるで落ち着きがなく、千宏は昔遊んだ着せ替え人形はこんな気持ちだったのかも知れないとくだらない事を考えながらその時間を過ごしていた。 そして、夜が来た。 夕食を終え、パルマと一緒に風呂に入り、新しく与えられた寝巻きを着てベッドにもぐる。 ありがたい事に、元の世界で着ていたような、オーソドックスなパジャマである。 ベッドの中で昨晩の恐怖に震えながら目を閉じると、がちゃり、と鍵のあく音がして、千宏は思わず悲鳴を上げそうになった。 頭まですっぽりと毛布をかぶって膝を抱き、来ないで、来ないで、と必死に祈る。「そんなに怯えるなよ。何もしねぇ」 アカブの声だった。 バラムでは無い事にほっとして、しかし布団からは顔を出さずにそっと耳をそばだてる。 ぱたん、とドアの閉まる音がした。しかし足音は聞こえない。「昨晩――その、悪かった。言い訳になるかもしれねぇが、俺たちはヒトについてよく知らなくてな――実際ヒトを見るのも初めてで、どう扱ったらいいのかわからねぇんだ。バラムも悪気があったわけじゃねぇ」 がりがりと、乱暴に耳の後ろをかく姿が目に浮かんでくるようだった。 あぁ、ちくしょう、と溜息を吐き、どっかとその場に座り込む。「なんつったらいいかわかんねぇけどよ、許してやってくれねぇか。あいつは俺よりは頭もいいし、女の扱い方も知ってる。ただあいつはマダラだからよ、女に嫌がられた事ねぇんだよ。だから……」「怒ってるんじゃない」 許すとか、許さないとか。 悪気があるとか、無いとか。 そんな事は問題では無いのだ。 ただ、ただどうしようもなく――。「嫌なんだよ……ただ、嫌なんだ。だって……だって昨日まで大学生で、友達だっていて、夢だってあったのに……!」 バラムに悪気が無かった事は、あの時の様子で分かる。だがだからこそ嫌なのだ。そう扱われる事が当たり前である事が嫌なのだ。 そう扱われるのが当然なこの世界が嫌なのだ。「わかってるよ! あたしは君達のペットで、奴隷で、所有物なんだって事くらいわかってるよ! そうしないと生きていけないのもわかってるよ! だけど嫌なんだよ! 帰りたい! お父さんとお母さんに会いたいし、友達と遊びたい!」「チヒロ――」「だって、想像してみてよ……! 理不尽じゃないか! だって、友達と遊んでたら川で溺れて、気が付いたら異世界で、よくわかんない犬のお化けに襲われて、尻尾の生えた男の人に助けられて、それで元の世界には帰れないとか! 高級奴隷なんだとか! 恋人だって出来た事無いのに、当たり前みたいに“抱くだけ”だって――!」 そして、それを受け入れないともう、生きてもいけないなんて――。 うわぁあ、と子供のような声を上げ、千宏は毛布に包まったまま泣きじゃくった。 アカブが立ち上がる気配がし、そして、ベッドに歩み寄るのを意識した。 そっと腰掛けたアカブの体重で、ベッドが大きく沈み込む。「そうか……おまえにも生活があったんだよな」 ぽんぽんと、毛布越しに背中を叩かれて、千宏はたまらずアカブの胸にしがみ付いて泣き出した。 うぉ、とアカブが驚いたような声を上げ、しばし躊躇した挙句に縋り付いて泣く千宏の背を撫でる。 そうだよ、生活があったんだよ、あるんだよ、と八つ当たりのように怒鳴りながら、千宏はぐずぐずと鼻をすすって帰りたいと繰り返した。 奴隷なんて嫌だ、ペットなんて嫌だ、一生懸命勉強して、資格だって取ったのに――。 「明日――他の奴らも一緒に今後の事について考えよう」 ようやく涙も収まりかけ、感情が落ち着き始めると、出し抜けにアカブが言った。「もう俺達の勝手にしたりしねぇよ。お前が好きなようにさせてやる」 驚愕して体をはなし、どういう事かと金色の瞳を凝視する。 その、虎そのものでしかない顔からは表情を読み取る事は難しかったが、千宏はなんとなく、アカブが自分を対等に見てくれている気がしてまた泣きたくなった。 だがそんな事に何の意味も無い事を、千宏はよく分かっていた。 好きなようにするもなにも、自分には何一つ出来ないのだ。 恐らく、この世界に“落ちてきた”者たちが奴隷やペットに甘んじているのは、それが理由なのだろう。甘んじているのではなく、そうして生きるしか道が無いのだ。 解放されても、自由を与えられても、この世界でヒトはあまりにも無知で無力だ。 保護してくれる団体も、教育を与えてくれる機関も無い。「チヒロ? おい、どうしたよ。俺何か悪い事言ったかよ」 千宏はその夜一晩中泣き続け、アカブはその千宏に一晩中付き合っていてくれた。 人とかけ離れた姿をしているから、それが逆に警戒心を緩めたのかもしれない。 千宏はアカブのちくちくとする毛皮に顔をうずめ、気が付くとそのまま眠っていた。 * 千宏に仕事を与え、奴隷ではなく家族として扱おう――というアカブの言葉に、パルマは唖然として目を見開き、ピクピクと耳を動かした。 バラムも食事の手を止めて、正気を疑うような目でアカブを見る。 そんななんとも言えない沈黙に晒されながら、千宏は彼らと同じテーブルにつき、ひどく肩身の狭い思いをしながらとろりとしたシチューを一口食べた。「仕事って……そ、そりゃあ、ヒトは頭がいいって言うし、よくわかんない発明したりするのもいるって聞くけど……」 仕事って言ったって――とパルマが千宏を見る。「千宏はまだ落ちてきたばかりでこの世界の事知らないんだし、家事全般は下働きがいるし、放牧は体力がいるし、森は危険が一杯だし……」「何が出来るかはまだわからん。だが、見ての通り千宏はまだ若い。チャンスはいくらでもあるはずだ。パルマ。売買交渉に千宏を連れて行ってみろ。ヒトを連れてるってだけで相手の態度も変わるだろうし、千宏も少しはこっちの事が覚えられるだろう」「市場につれてくだと? 馬鹿言うんじゃねぇよ! ちょっと目ぇ離した隙にさらわれるに決まってんだろ!」「だったらてめぇが連れて歩いて守ってやりゃいいだろうがよ。女相手の交渉はてめぇの仕事なんだ。市に行く機会もあんだろう」 いきり立って立ち上がったバラムを見据え、アカブが言う。 バラムは不満そうに尻尾を揺らし、しかし何も言わずに押し黙った。 どさり、と乱暴に腰を降ろす。 「し、仕事なんかしなくてもさ、千宏は私達の家族だよ。ね? それでいいじゃん。無理に働かなくたって、ちゃんと私たちが養ってあげるよ」「それじゃだめなんだ……だめなんだよ!」 パルマのなだめるようなその言葉に、千宏は半ば懇願するような声を出した。「何も出来ないのは嫌なんだ。なんもわかんないのは嫌なんだよ! 怖くて、不安で、何がなんだか分からなくって、でもどうにもならないからこの世界の人のペットになって……そんなのは嫌なんだ! 自分の意思で行きたい場所に行きたいし、いたい所にいたい。一人で生きていこうって思ってるわけじゃない。でも、一人で生きられるようになりたいんだ……!」 ヒトを人として扱って欲しい。 ペットだとか、奴隷だとか――飾り立てて安全な場所にしまいこんで大事大事にされる存在なんて真っ平だ。 そしてそういった存在は、常に飽きられて捨てられる事に怯えていかなければならない。 若いうちは性奴隷で、人形気分で飾って遊んで、見せびらかして自慢できるからいいだろう。 だが年老いた無能なヒト奴隷を――果たして最後まで面倒を見る者がこの世界にいるのだろうか。 見た目だってこの世界の女性とほとんど変わらないのだ。年老いて使い道が無くなった奴隷など、姥捨て山よろしくポイされるに違いない。「チヒロ……」 パルマが悲しそうに耳を伏せる。 そして沈黙が訪れた。「私、チヒロがおばあちゃんになっても捨てたりしないよ? 本当だよ?」「それでも……あたしは生きる力が欲しい」 パルマは困り果てたように尻尾をたらし、ちらちらとバラムの様子を伺った。「チヒロがそう言うなら……私は反対しない、けど……」 トラは多数決をしない――とアカブは言った。 意見が分かれた時点で袂を分かち、無理に多数意見に少数意見を引きずりこんだりしないのだと言う。 ただ賛成した者だけが集まって実行し、そして賛成しなかった者は傍観――もしくは妨害する。そういうものなのだと言う。 ひとつ問題があるとすれば、それは千宏の所有者がバラムだということだった。「……パルマ。食ったら地図と適当に雑誌もってこい。アカブ。市に持ってく商品と帳簿をチヒロに見せてやれ」 ぱぁ、とパルマが表情を輝かせた。 よく意味が分からないが、アカブがほっとした表情を浮かべていると言う事は、つまり許可が出たのだろう。 表情――? あぁ、よく見れば虎顔の表情も読み取れないこともない。「そうだよね。ヒトは頭がいいんだし、ちゃんと教えれば交渉くらいすぐ覚えられるよね」 そう考えると、チヒロと一緒にお仕事するのもなんだか凄く楽しそう――と、パルマはがつがつとシチューをかきこんで一目散にどこかに走っていった。 アカブも静かに立ち上がり、じゃあ帳簿と商品とってくらぁ、とのしのしと部屋を去る。 アカブについて行きたかったが、千宏は我慢してその場に留まり、冷めかけたシチューの野菜をのろのろと口に運んだ。 「あいつが気に入ったか?」 静かな問いに、千宏はぎくりと肩を竦めて恐る恐るバラムを見た。 表情は何気ないもので、しかし千宏と同様に緊張しているのがわかる。「……うん。いい人だと思うよ……」 そうか、とバラムが頷く。 そしてひどく言いにくそうに、「俺……は、嫌い……か?」 と訊く。 数秒の沈黙を挟み、千宏は正直に、「少し怖い」 と答えた。 そうか、とバラムが尻尾と耳を脱力させ、肩を落として寂しそうに空になった皿を睨む。「でも……感謝してるよ」 あの時、バラムに森で拾ってもらわなければ死んでいたのだ。 あの晩だって、バラムの優しさが無ければあのまま陵辱されていた。 そして今、バラムは千宏に一人で生きる力を与える事に同意してくれたのだ。「ありがとう」 ぴん、とバラムが耳を立て、嬉しそうにくるりと尻尾の先を丸める。「お、おう……気にすんな」 照れ笑いのような表情を浮かべて立ち上がり、バラムはそそくさと部屋を後にした。 * この世界には、バラム達のような虎だけでなく、猫やら狐やら犬やらと、多種多様な種族が存在しているらしい。 そして種族によって生活様式や習性、得手不得手に顕著な違いがあり、みなそれぞれにあった産業を持っているのだと言う。 トラは豊かな国土に恵まれているため農業が盛んで、バラム達は森で取れた鉱石や薬草や、家畜などを売っているらしかった。 大体は国内にある市場で行商だが、注文を受けてそれを納品する事もある。定期的に納品している物も無いではないが、季節によって森で取れる物が異なるため、コンスタントに同一の物を納品し続ける事はまず不可能なのだと言う。「本当は、ネコの国との国境にある大きな市場に行きたいんだけど、キツネの国を通らなきゃいけないじゃない? 私達、キツネとあんまり相性がよくないんだよね」 大きく広げられた地図を指差して、パルマがひょいと肩を竦める。 虎の威を借る狐――という言葉があるくらいだ。きっとこの世界でもキツネは頭が良くて、トラは騙されてばかりなのだろう。「ネズミの国から抜けられるんじゃない? この山を越えるとイヌの国境って事は、ここってこの山岳沿いでしょ? 最短なんじゃないの?」「試した事はねぇが、試す気もねぇなぁ」 そう、バラムが難しげな表情で顎を撫でた。「ネズミは体が小さくて魔法もそんなになんだけど、その分物凄く警戒心が強いの。なかなか入国させてもらえないし、入国したはいいけどどこの宿屋も泊めてくれなくて、ずっと野宿したって商人もいたらしいから、たぶんトラは相当信用薄いんだと思う」「前に酒飲んで暴れた馬鹿がいたからなぁ」 アカブがしみじみと言う。「誰か死んだんだっけか」「よりによってトラとの国境国で、ネズミがな」 アカブの問いかけにバラムが答え、その場の雰囲気が絶望的に重くなる。 ぶんぶんとパルマが首を振り、わざと明るい声で説明を続けた。 「それでね、仕方ないから国内の市場で行商するんだけど、そこにいるネコやキツネの商人がもうひどいの! 私達の事馬鹿だと思ってやたらと吹っかけてきたり、足元みてきたり、どうしようもないガラクタをさも素晴らしい物みたいに言って売りつけてきたり」 悪徳商人――猫に小判? 頭の中をぐるぐると単語が巡る。「そんなふうにして買い叩かれた物が、結局は国境市で高値で売られてくんだよね」「国境市?」「ネコの国は各国の国境の交点に大規模な市場を設けてるんだ。それが国境市」 バラムがそう説明しながら、ネコとキツネとイヌとネズミの国を隔てる国境線の交点を指差し、とんとんと叩いた。「ここには四つの国の商人が集中するから、特に大規模な市場になるんだ。一応ネコの国の領地になるが、中立地帯として開放されてるからここに入るのに許可は要らない。反対にあるカモシカとヘビとネコの国境線の交点にも市場があるが、こっちはちと血生臭せぇな。武器や爆薬、毒薬なんかの取引が主で、死の商場って別名があるくらいだ」「死の商場?」「ヘビとカモシカの国は内戦やら内乱が耐えないからな」 それをネコが食い物にしてるのさ、とバラムが忌々しげに吐き捨てる。「ネコの商人が武器や弾薬の原料を持ち込んで、それをヘビやカモシカが買うだろ? で、ヘビとカモシカがお互いの国が開発した武器を売り買いするんだ」 アカブはそう補足すると、特にカモシカの国は武器開発が盛んなんだと締めくくった。 「私達は死の商場に用は無いから、絶対に行く事はないんだけどね。この雑誌見て。セパタとセンタってあるのが分かる? これが通貨で、1セパタは1000センタ。ネコはこの通貨じゃないと取引しないから気をつけて。他の商人は物々交換に応じる事もあるけど、価値が見極められないうちはやめた方が無難だと思う」「似たような服なのに全然値段が違うんだけど……」「それは材質を見ればいいんだ。横に書いてあるでしょ? 貴重な材質で作った服は高いし、服に使ってある装飾品によっても変わってくる」 なるほど、合成繊維と天然素材のような物か。 あとは、ガラスのイルミネーションか本物のダイヤかの違い――それ程“あちら”の人間社会と考え方の違いは無いのかもしれない。「まずチヒロは、どんな物がどんな値段で売り買いされるか覚えないとね。明日はバラムが市場に行く日だから、観光気分で連れてってもらうといいよ」 それまでに、商品の値段と名前と特徴を覚えようね、とパルマが笑う。 案外――大学の勉強かもハードかもしれない。 千宏はそんな事を思い、それでもパルマの言葉に力強く頷いた。 * 獣臭い――と思った千宏を、果たして責められるものがいるだろうか。 バラムに連れられて訪れた市場には、見渡す限りの虎、虎、虎である。 しかも全ての虎が見上げるほどに大きいので、千宏は市場に到着した途端思わず奇妙な雄叫びを上げそうになった。 実際、うぉ、位の声は出したかもしれない。 決してきゃぁ、では無かったのは確かである。「絶対に手、離すなよ」 差し出された手を逆らわずに掴み、巨大な布袋を担いで歩くバラムの後を必死になってついていく。 明らかに――明らかに注目を浴びていた。 マダラがヒトを連れて歩いているのだから注目を浴びない方がおかしい――という理屈はわかるが、ここまで露骨に注目されるとさすがにすくんだ。 そんな中を胸を張って堂々と歩くのだから、バラムは相当肝が据わっている。 バラムは服やらアクセサリーやら香水やらでごった返す一画にやってくるとようやっと立ち止まり、地面に真っ赤な布を広げてその上に商品を並べだした。 これは少し意外だったのだが、干し肉や薬草、骨や牙などを販売するのはパルマの役目で、香水や果実、鳥の羽や宝石の原石などを売るのを担当するのはバラムだった。 中には羽や木の実をアクセサリーに加工してある物もあり、見るからに乙女心をくすぐる品々である。 そして今回の千宏の仕事は、それらのアクセサリーを一式身に付けてバラムの隣に座っている事だった。 これはパルマの提案だが、いわゆる生きたマネキンである。 「凄い人……っていうかトラ……」「国境市の半分もいねぇよ」「バラムは呼び込みとかしないの?」「座ってるだけで寄ってくる」 しれっと答えるバラムの言葉を肯定するように、一目散にこちらにかけてくる影があった。 見事な金髪のトラ女で、どうもバラムと面識があるらしい。 「バーラム! どうしたのよヒトなんて連れてきて! まさか買ったの?」「拾った」 信じられない、と悲鳴を上げる。 そしてまじまじと千宏を見つめ、ふぅん、へぇ、としきりに感心しているようだった。 ――パルマと似たような反応である。「この子も売り物?」「馬鹿言うな! 売り物はこいつの衣装だ」「ふうん。ヒトが身につけてるってだけで、なんだか高級品に見えてくるわね」 そういうものなのだろうか。 普通、奴隷が身につけている物なんか汚らわしくて着られない――という結論に至るのではないのだろうか。 それとも、吉原の花魁が着ている着物は憧れの対象――というような事と同じなのだろうか。 しゃがみ込み、長い尻尾をゆらゆらと揺らしながら並べられた商品と千宏を見比べて、女は長く鋭い爪で鳥の羽で作ったピアスを指差した。「これ、頂くわ。それと……ねぇ、今夜はその子も一緒にサービスしてくれるの?」 ピアスの代金を支払いながら、女がちらちらと千宏を見る。「私、バラムがその子犯してるとこ、見たいなぁ」 ――なに? 大きく目を見開いて、千宏は言葉を失ってバラムを見た。「やめろイシュ。チヒロが怖がってる」「あら、さてはまだご主人様にしか見られたことないのね? 初心でかわいいじゃない。ねぇ、この子ってどのくらいの大きさまで銜え込めるの? 私、人用の玩具用意するわよ」「イシュ!」 ぬ、と千宏に伸ばされた手を、怒ったようにバラムが掴んだ。 ビクリと、イシュと呼ばれた女が尻尾を縮こまらせる。「なぁによ。いいじゃないちょっとくらい。ねー?」 イシュがねこなで声を出す。「じゃあせめてナデナデさせて? いいでしょ? ちょっとだけ。触るだけ」 だってヒト奴隷なんて珍しいんだもぉん、とイシュが甘えた声を出す。「チヒロがいいって言ったらな」「もちろんいいわよね? そうだ、マタタビキャンディー舐める? ヒトってマタタビ平気なんだっけ?」 言いながら、全く動けずにいる千宏の頬にイシュが触れる。「おー。柔らかい柔らかい。プニプニしてる。きもちいー!」「や、やだ……!」 嫌がって顔を背けると、面白がってイシュが笑う。 その手がするりと服の中に滑りこんできて、千宏は愕然とイシュを見た。「ふふ、小っちゃい胸。やっわらかーい」「おい、イシュ。いい加減に――」「乳首見っけ。えい」 ひゃん、と甘ったるい声が出て、千宏は愕然として口を押さえた。 聞いたバラム? 可愛い声ね、とイシュが笑う。「や、やだ! やめ、ぁ……んん……」「ほら、喜んでる。ほらほら、おねーさんの指でいっちゃいなさい」 ぐう、とバラムが言葉を詰めた。 喜んでる――ように見えると言うのか。 鋭い爪の先端で、イシュがくすぐるように立ち上がった乳首をつつく。 嫌がって逃れようとしてもどうしても逃げられず、千宏はいつの間にかイシュにしがみ付いて必死に声を殺すだけになっていた。 イシュは怖くない――だからこそ、快楽が浮き彫りになってしまう。「だぁ……め、ぇあ……ゃ、やぁ……そ、ひぁ……」 耳元でくちゅくちゅと音がする。 イシュの舌だ。香水だろうか、ひどく甘い香りがする。「おねーさんにどうして欲しい? ん? 下の方も触って欲しい? 欲しいわよねぇ」「やぁ……おねが、や……!」 くすくすと笑いながら、イシュが千宏の下半身に指を滑りこませる。 くち、と粘っこい音を響かせて、イシュが指の腹でそこをなぞった。「ほうら、もうぐっちゃぐちゃ。ね、ちゅーしていい?」「いやだ――!」 渾身の力を込めて突き飛ばそうとした腕は、しかしどう足掻いても動かなかった。 ほっそりとした、しかし豊満なイシュの体がピクリとも動かない。「ちぇ、さすがにそれはだめか」 爪切ってくればよかった、と零しながら、イシュが指の動きを早めた。 ぞくぞくと腰から震えが走る。「やだ、やだ、やだ、やだぁ……! や、ぁ……やぁあぁ――!」 びくん、と大きく体が跳ね、千宏はイシュの首にすがりついた。 下半身の奥の方がきゅうきゅうと蠢き、ふるふると指先が震える。そして溶け出すように体から力が抜けていき、千宏はぐったりとしてへたりこんだ。「ふふふ。指だけでいっちゃうなんて、かーわいい。どう? 気持ちよかった?」 よしよしと、イシュが千宏の髪を撫でる。 そしてポケットに手を突っ込むと、チヒロの手の平に一枚の紙幣をつかませて立ち上がった。「バラム。今夜はもういいわ。なんだか凄く満足しちゃった。それ、お駄賃ね」 ひらひらと手を振りながら、イシュが尻尾を揺らして去っていく。 呆然とその後姿を見送って、千宏は突然沸きあがってきた羞恥心に真っ赤になって唇を噛み締めた。 自分は――今、何をされた? こんな市場の真ん中で――どうして抵抗の一つも出来なかったのだ!「今の……なに?」「イシュだ。あいつは商人じゃなくってただの客だが――」「どうして止めてくれなかったの……?」「――止めて欲しかったのか?」 驚いたような表情でバラムが聞き返す。「気持ち良さそうだったから、止めない方がいいかと――」 ぱん、と乾いた音が市場の雑踏に飲み込まれた。 バラムがぎょっとして千宏を見つめ、困惑したように気まぐれな瞳孔を大きく開く。 ぼろぼろと涙がこぼれてきて、千宏はごしごしとそれをぬぐって立ち上がり、雑踏に紛れるように一目散に駆け出した。 数秒遅れて、バラムが千宏の名を叫ぶ。 しかし千宏は振り返らず、市場の雑踏の中を闇雲に、ひたすらに走り続けた。
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