菅 浩江 講演会


 みなさん、ありがとうございます。広い会場で誰も来なかったらどうしようと思いましたけれど来ていただいてうれしいです。

講演といいましても、何から何までひとりでというのはなかなか難しいので、司会の方に手伝ってもらいたいと思います。このなかで、ふだんSFはほとんど又はまったく読まれない方は、いじめませんから手をあげてみてください。はい、ありがとうございます。私たちの年代では読む人は両方読む。ホラーもミステリもSFも全部読む、というタイプが多かったです。ミステリだけしか読まないという方ももちろんいましたし、SFだけしか、という方もいました。会長さんからお話があったように、いまは「ジャンル混交の時代」と言われていまして、たとえば講談社ノベルスでも「SFかな?ミステリかな?不条理かな」と迷うような作品がたくさん出ていまして、ジャンルわけがそろそろ無駄になってきたような気がします。

 ただ、SFの場合でもミステリの場合でも「俺SF」「俺ミステリ」という言い方をよくするんですけれども「僕はこれがSFやと思う。僕はこれがミステリやと思う。なぜなら、この点がミステリだからや」という信念を持ってらっしゃる方を、私はすごく尊敬します。書くほうからしたら「ごめん、これようわからへんけどとりあえず仕事やし」という時が、ないこともないんですよ。ジャンルわけできないような。たとえばホラーの注文で書いても「ホラーっぽい血が流れていなくて、やっぱりSFかな?」と思うときもありまして、自分のなかでジャンルわけがうまくできていないんです。私の作品に限って言えば、読者の方が勝手にジャンルわけしていただければと思います。

こういういいかげんな性格ですので、脚を組むなりあくびをするなり、どうぞのびのびと聞いてください。よろしくお願いします。

司会 はじめに、立命大ミス研からいくつか質問をさせていただきたいと思います。お約束という
   か、好きな小説はなんですか。

 タイトルですか、ジャンルですか。


司会 では、ミステリでお願いします。

 ミステリのなかで、ですね。


司会 はい。最近読んでよかったなぁというものでもありましたら。

 これだけは訊かないでというのが「最近の作品」のことなんですよ。もう、新刊をまったく読めていない状況です。ミステリのなかで言うと、ゴシック・ロマン系が好きです。幻想文学に近いような、虚構的な世界。江戸川乱歩や、横溝の初期作品「鬼火」とか、ああいう幻想文学ぎりぎりの、あまりロジックでかためないところが好きです。

司会 では、特に影響を受けた作家はいらっしゃいますか。これはジャンルを縛らずに。

 文筆をやろうと思っていた矢先に読んだせいかもしれませんけれど、やはり幻想文学系の山尾悠子さんという方がいらっしゃいます。一昨年か、ものすごく厚い『山尾悠子作品集成』が出ました(二〇〇〇年六月刊行/国書刊行会/八八〇〇円)。なかなか寡作な方なのですが、彼女の日本語能力というのがものすごくって、たとえば「反りをうった羽根が」と書くんですね。「反りをうつ」この言い方はなかなか出てこないと思うんです。「反りをもった」とか「反っている」というふうには言いますけど「反りをうった」っていうのはすごい。そこだけじゃなくって、そういう調子で全篇がかためられている。ほんとうに緻密な硝子細工のような幻想文学です。もしよろしければみなさんも読んでみてください。私も『メルサスの少年』で螺旋の街を書きましたけれども、彼女もその前に螺旋の街を書いていて、薔薇色の脚の踊り子がいたり、夢喰いの獏がいたり。その踊り子も畸形じみていて、踊るためだけに脚だけが異様に大きくって、もう大根みたいなのが二本。その上に、ちっちゃい上半身が萎縮してくっついている。で、踊るたびにそれがぐらぐら揺れるんですね。エロティックでいて、きもちの悪いようなイメージです。さらに脚を太らせるために、踊り子を雇っている人たちが足の裏からことばを吹きこむんです。このイメージっていうのは、ちょっと考えつかない。「ありえないものを書きたい」と仰ったのは山田正紀さんですけれど、そういう「想像力の限界」に対してことばの限界で挑むという山尾さんはいまだにすごいと思います。


司会 菅先生はSF、ファンタジー、ホラー、ミステリとさまざまなジャンルで作品を発表されてお   られますが、ご自分ではどのジャンルがホームグラウンドと思われていますか。

 やはりSFですね。いろいろ書いてはいましても、基本的な考え方はSFです。SFというジャンルが年代的にも若くて、もっとも許容量が大きいと思うせいもあります。たとえば『鋼鉄都市』なんかは「SFでもあり、ミステリでもある」と言われたりしていますし、先ほどの山尾悠子さんも「SFマガジン」ご出身でホームグラウンドはずっと「SFマガジン」でした。「何がSFであるか」という話になりますと、そういうのはジャンルの力が強いところが「あれもこれもあれもこれもウチの縄張りや」と言える。私がSFを読んでいた頃には、そう言える力がSFにはありまして「なんでもできる」感じがしました。

 ミステリの場合では、先ほども言いましたように「強固なミステリファン」を私はすごく尊敬しますし、自分のなかでも「SFもロジックが必要」と思っています。そのロジックをはずすと、ホラーになったりファンタジーになったりするわけで、SFではまず科学っていう錘がついてるんです。その錘がミステリではトリックであったりロジカルな解決であったりする、と私は解釈しています。各ジャンルを書くときには、そのジャンルの定石をあまり壊さないように、歩み寄れるように努力しつつ「外部から書くやんちゃさ」も忘れないようにやっていきたいな、と思っています。ホームグラウンドはSFで、たとえ器用貧乏と言われてもかまわないから何でも書けて、他のジャンルのこともきちんとわかった作家でいたいと思います。

司会 菅先生は京都出身京都在住ということですから、京都でお気に入りの場所やおすすめのスポ
   ットなどがありましたらお聞かせねがえませんか。

 京都以外からいらした方、いらっしゃいますか。おぉ、案外いらっしゃいますね。ありがとうございます、交通費はでませんけれども楽しんでいってください。

京都に観光名所はたくさんありますけれども、そこからちょっとはずれて話をします。私は今まで向日町という衛星都市に住んでいまして、竹やぶで有名というか竹やぶしかないところだったんです。乙訓地方というのは、十一年でつぶれた長岡京があったところです。そこから三、四年前に北区に引っ越してきまして、歩いて鴨川に行けることに感動しました。むかしから川に憧れていたので「歩いて鴨川に行って散歩ができる」ことが如何にしあわせなことかがよくわかりました。足をのばすと北山通という、東京でいう代官山みたいなところがあって、植物園がある。私は子供がいますから、そこには無料パスポートで入りたい放題なんですね。ですから、鴨川を通って、北山でちょっとショッピングめいたことをして、植物園を見る。これが私のいまのトレンドです。

 そうそう、景観問題もいろいろ考えているので、あちこちのビルや高層建築を見ては罵倒を吐きまくるという楽しみ方もありますので、景観に苦情がある方は私とツアーを組みましょう。

司会 もうひとつ、京都関連を。先生の作品のなかで、京都に思い入れのある作品、または「和も
   の」というキーワードに対する信念などありましたら、お願いします。

 和ものと京都は切り離していいのか切り離せないものなのか、よくわからないのですけれど。

まず「和もの」という言葉自体で言いますと『末枯れの花守り』スニーカーブックス版あとがきで書いたのですが、日本舞踊、歌舞伎、狂言、能楽というのはもうほとんど現代では通じないんですね。たとえば、いま「さんさのかがり」と言っても「かがりって何」という感じなんですよ。篝火の「かがり」なんですけれど。それがわからないと、篝能つまり「篝火のなかでお能をする」幻想体験がわからない。共通意識として成り立たないんです。これは端的な例ですけど、そういうところから文化がぬけおちる、様式美がぬけおちる。様式美というのはミステリでいう「見立て」ですから、たとえば黒地に紫の筋が入っていると「藤かもしれない」と思う。浅葱を着ているのを見ると「あ、この人はちょっと粋な人かもしれない」と思う。そうした裏読みの暗号の部分は面白いんだよ、とまず私が面白がっているところが伝わるといいな、と思います。自分で日本舞踊をするせいもあるんですが、すごく「奥が深い」です。すこし、ほんとうに最初の敷居だけを乗り越えてしまえばあとはどんどん面白くなるので……あの、日本舞踊もツアーを組みませんか。私は、衣装をつけないのですが来年に会を催しますのでよろしかったら来てください。

 京都に関しては、名前は言えませんが某京都の女王というミステリ作家の方がいらっしゃいまして。玄関先に胡蝶蘭が飾ってあるといわれるあの方を始めとして「京都の幻想」がものすごくバラ撒かれている。たとえば祇園で話をしていて「なんですって」とふりむいたら嵐山が映る、というような二時間ドラマがあるわけです。そういう、きれいなところをピックアップして「京都っていいな、そうだ京都行こう」みたいなことを思っている方がいる。また一方では、京都駅前があんなガラスのぬりかべみたいなビルになってしまっている現状があって、そのギャップが住んでいる者にとってはすごくきもちが悪い。先ほどの「和もの」にからめて言うと「京都はこうである」という見立てなり幻想なりが横行していて、真実が見えていない。もしくは真実を知りながら嘘をついていく。そうした、すごく屈折したところがある。ですから「和もの」にしても「京都」にしても、本当はそうじゃなくてこうだし、楽しみ方はもっとこういうものがある、ここまでいけばもっと先のことも含めてわかってくるんじゃないか、という研究の奥深さ。そこが楽しみです。


司会 『鬼女の都』はミステリに分類されています。先生にとっては初めてのミステリジャンルにな
   るこの作品を、書こうと思ったいきさつなどをお聞かせください。

 すごく単純でおもしろくない話なのでもうしわけないのですが。私は自己評価がなかなかできない人間で、褒められると有頂天になるし、その一方で「うそだ」と疑うところもあり、けなされるととことん落ちこみます。たまたま祥伝社の編集さんが『メルサスの少年』を読んでくださって「こういう文章を書ける人なら、ミステリも書ける」と仰ってくださったんです。それはすごくありがたいことで、うれしいことでしたから無謀にも注文を受けた、というのが現実です。とにかく「書けるから」と説かれまして、二年ほど待っていただいて。ちょっと難航したせいもあって、本になったときは感動しました。「ちゃんと終わったよ〜謎解いてるよコイツ〜!」とかって。

司会「ホームグラウンドはSF」ということでしたから、ミステリを書くにあたって、なにかゆず
   れないSF魂みたいなものはありませんでしたか。

 ありましたありました。『鬼女の都』未読の方、いても売りつけたりしませんから正直に手をあげてください。あ、だいぶいらっしゃいますね。ではなるべくネタバレはしないように。『鬼女の都』というのは、先ほども言いましたように「京都の幻想を破る」お話でした。京都ものは某女王様以外にもたくさんの方が書いていらっしゃるんですが、地元民としては不満がある。これは京都人としてのこだわりでした。さらに、ミステリに強いNONノベルを持っている祥伝社というところが、あえてSF作家に依頼したのはなぜか、とずいぶん自問自答しました。結果「SF作家ならでは」のおおがかりさ、というかなにかおさまらないようなミステリにしたいと思いました。簡単なことばでいうと「不可能・不可思議現象の解体」のようなもので勝負をしよう、と最初から思っていました。最終的には、小ネタとして不可思議現象を解体していって、最後には人間じゃないものが動機になり、犯人になる。ちょっと詳しく言えませんが、犯人はみなさん早い段階からカンづかれると思うんです。動機もだいたいわかると思います。ただ、それだけでは済まないように、その奥に京都という「魔界」が匂わせられたらいいな、とそこは意地になってやりました。

司会 ミステリとSFでは、一見SFのほうが虚構性が高いように思われますが、ミステリも作り
   こまれたフィクションにはちがいありません。先生が書かれるときの、SFとミステリの嘘
   のつきかたには、どのような差があるのでしょうか。

 どうでしょう。ミステリでやるときには、やっぱり「現代社会の常識に照らし合わせてフェアであるかどうか」をすごく気にします。私がミステリを読むとき、怒るか怒らないかはそこなので。でも、たとえ無理でもすごくキレイな論理で「あぁ、もしかしたら一億分の一でもありうるかもしれない」というロマンが残してあれば良いんです。フェアかどうかということにしても、みなさんそれぞれに基準があると思いますから、なるべくたくさんの方に受け入れてもらえるような作品でありたいと心がけます。

 SFの場合は、たとえば一行めから「ときは未来。ところは宇宙」と書いちゃうと、もう地球の常識は通用しませんよね。ただ、そこには「宇宙空間の常識」はあるんです。まず「宇宙空間の常識」をきちんと説明していって、たとえば無重量状態であるとか、慣性があって抵抗があるとか、そういう前提条件を説明する。SFとミステリでは「どこに」現実の基準をとるかが、はなからちがってくるということです。それからSFの場合、科学という道具を敷衍しながら想像力をひろげていって、そこにカタルシスを求めるところ、常識からはじまってどこまで非常識にもっていくかを醍醐味としてとらえる向きがあります。常識から始まって、ぎりぎり非常識の手前でとどまるミステリと、非常識なところに行く快感を求めるSFとは、論法として表裏一体のような気がしています。

司会 『鬼女の都』、〈歌の翼〉シリーズといったミステリ作品を、他の作品とは分けて考えたり
   なさいますか。

 そうですね、わりと切り離して考えています。『鬼女の都』もそうでしたし< 歌の翼>シリーズも、純ミステリとして線を引いています。SFを持ちこんでやろう、ともあまり思いません。ただ私は科学オタクなので、どうしても科学ネタのロジックなりトリックなりが入ってくるんですが、そこは面白がっていただけるんじゃないかと思います。SF作家の特技、特権みたいなものですね。

司会 いま「科学オタク」と仰いましたけれど、どのようなところから「オタク」になられたんで
   すか。

 いまもあるのかな。学研がやっている『科学』と『学習』という雑誌。いまはどうも、学校側との癒着が心配されて外売りになったようなんですけれども、私たちの頃は学校販売だったんです。もともと本が大好きでしたから、もちろんこれも毎号買っていまして『科学』『学習』どちらも好きでした。そんな素地があって、なおかつ科学の割り切りかたが好きだったんでしょうか。実験そのものよりも、実験結果を本で眺めたり、サプライズが好きでした。いちばん単純なことで言うと、リトマス試験紙の色はなぜ変わるか。まず「え、なんでこんなことが」と驚くのが好きで、さらに納得のいく説明がついてくる、というのがすごく美しかったんです。「美しい方程式」という言い方がありますけれども「ここには美しいものがあるなぁ」と思いました。暗い話になりますが、私は小学生時代なんかにはあまり幸せなほうじゃなかったんで「ここに書いてある科学という世界は美しくて幸せ。何も汚いものが入る余地がなくてうらやましい」と言う感じを、ちっちゃいころから受けていました。あとはもう『宇宙戦艦ヤマト』にはじまって。科学技術者の真田さんという人が出てきて、バラン星で「この植物は茎が下を向いているから、あれは人工太陽だ」と言ったときに「なんて格好いいのこのひとは」と思いました。そんなことからそういうことまで看破できるのか、というのがすごかった。そういう「びっくりさせられる。しかも、それにきちんと納得できる理由がある」というところから、いまだに科学が好きです。だめなのが量子力学と宇宙論。宇宙論はね、たぶん賢いひとはわかってらっしゃるんでしょうけれども、量子力学はわかってる人のほうが少ないらしいので安心しています。

司会 作家になろうと思ったきっかけ、もしなんとなくなってしまった場合には文章を書くことに
   なったきっかけなどありましたら。

 はい、なんとなくです。文章はむかしから好きでした。こうして喋っているのが苦にならないような性格はちっちゃい頃からなんですが「出る杭は打たれる」と申しまして、かなり同級生にはウケが悪かったんですよ。先生にはかわいがられ、同級生には嫌われる。いわゆるティーチャーズ・ペットというタイプの優等生で過ごしていまして。そうすると、言いたいことが喉のつけねあたりいっぱいに溜まってくるんです。なにかこう、へびなわみたいなものがうわーっと。それを紙に書き出せば、すこしは客観視できる。当時、客観視なんてことばは知りませんでしたけれど「なにかスッとするな」とは早い段階から気づいていましたので、作文の時間には他人の三倍ぐらい書いていました。で、またそれが褒めてもらえる。むかしから褒められると図に乗りやすいタイプなので「もしかしたら文章は得意といえるかもしれない」と思っていました。

 それから、むかし京都では「星群」というSFグループが活発でした。ちょうど『ヤマト』から山尾悠子さんデビューの頃の『SFマガジン』を買いまして「星群祭」というパネルディスカッションが京都であることを偶然知りました。それをきっかけとして「星群」に入ったんです。そこで年に一冊「もちだし」でアンソロジーをつくりました。同人誌が売れる時代じゃありませんから、何万円か払って本にしてもらって、合評会で眉村卓さんとか荒巻義雄さんに批評してもらう、というものでした。それがきっかけのデビュー。矢野徹さんが知らぬ間に出版社に持っていった結果の、タナボタ式のデビューでした。その後『SF宝石』がつぶれてしまったから、とだらだらしてしまった焦りと、いまの旦那が大阪から東京に会社を移すとき「僕らと一緒やったら出てこれるんちがうか。むこうやったら持ち込みもできるよ」と誘われたのとで、二年間だけ上京すると親に言い置いて二年に勝負を賭けました。

司会 いままで書かれたなかで思い入れのある作品や「これはここがポイントなんだけどな、みん
   なわかってくれてるのかな」というものがありましたら。

 わかってるかなぁというのは、たぶんどの作品でも同じなんですよ。特に、最後がこうウッと一言飲みこんで終わる感じのラストが好きですから、読みようによってはまるきり反対の感想をもたれたりすることもあるんですね。でも、それはもう読者さんの自由。どう読んでもらおうとかまわないと思っています。

思い入れのある作品といえば、ミステリ研の講演だからというわけではありませんが『鬼女の都』です。あれはすごく緊張しましたし、苦労しましたし、積年の京都に対する気がちょっと晴れた。京極さんふうに言うと、憑き物が落ちた。そんな気がします。饒舌な話で、分厚いですし、文章がこなれていないせいもあって読みにくいのが申し訳ないんですけれども「言いたい、書きたい」ということはひとまずあれで落ちたな、と思います。

 それから、何度も言っていますけれど「褒められると図に乗る」タイプですので、いちばん褒められる機会の多かった〈博物館惑星〉シリーズが、自分でも「あぁ、書けてよかったなぁ」と思います。七年か八年かかってるんですね、あれ。しつこく連載して書かせていただいたこともあわせて、ありがたいなぁと思いました。

司会 作品つながりで「これを読まなきゃ菅浩江は語れない」という作品がありましたら。

 結局、先ほども言ったようにジャンルにあまりこだわらない。SFはもちろん大事にしたいし、SF振興には微力ながらもいろいろ活動をしてはいるんですが。これこそ菅浩江、というよりも
「菅浩江のこの面はコレ、この面はコレ」というふうに、手をかえ品をかえやっている現状です。

ミステリでしたら、先にあげた二作を読んで頂いて、その「ロジックの持っていきかた」をSFっぽいと思われるかどうか……はちょっとよくわからないんですけれども、精一杯やった結果を見て頂ければなぁと思います。

「あまりSFにはなじみがなくて」と仰るんであれば『永遠の森 博物館惑星』は、そんなにむつかしい話は入っていないと思います。多少科学の用語がわからなくとも、全体を小説として読めるように書いたつもりで、そこは『五人姉妹』という短篇集も同じです。

「思いっきりコワイのが」というか「女って怖いなぁ」というのがよければ『夜陰譚』という、ダークなダークな短篇集がありますし。短篇集を一冊お買い求めになると、だいたい色んな傾向のものが読めますから、まず短篇集から読んで頂いてから長篇を読まれるといいかなと思います。


司会 最後にこれだけは言っておかなくては、ということがありましたら。

 作家志望の方、いらっしゃいますか。あ、いま作家の方はいいです。顔みたらだいたいわかるんで。……二人か三人いらっしゃいますね。私はタナボタ式にデビューをさせて頂きました。再デビューの『ゆらぎの森のシエラ』というヤングアダルトも、持ち込みでなんとか出して頂いて。その時は、一回ボツをくらいました。二百枚くらいしかなかったんですけど、それこそ山尾悠子的な、あまりストーリーもないように綺羅綺羅しい森の中を進むような話だったんです。それを書き直して持って行って、デビューとなったんですけれども、ヤングアダルトからデビューして四六判ハードが出るまで、というのはすごく辛かったですね。作家としてどうとか、地位とかピラミッドとか、どの世界にもあるようなそういう辛さでは決してないんですけれど、私が『雨の檻』という短篇集を文庫で出したとき、とある作家、えらいSFの作家さんが「惜しいねぇ、これ単行本だったら賞あげられたのにね」と言われまして「なんでそんなこと言われなあかんねん」と思いました。なんで判型によってそんなヒエラルキーが決まるの、と。あとから聞くと、綾辻行人さんが『時計館の殺人』で推理作家協会賞をとられたときに「ノベルスでとる」というのが一大センセーションであったのだと知りました。SFに限らず、出版社というのはいまだにそういう頭のカタいことをやる傾向があります。読者さんにしてみれば、いい本が安くたくさん読めればいいわけなんですけれどね。

 立場がどうのこうの、とかすごく複雑な問題ではあるんですが「デビュー作」というのは一生ついてまわります。いまだに『ブルー・フライト』でデビュー『ゆらぎの森のシエラ』で再デビューと書かなければいけないので、やはり「最初は大事だな」と思います。やりなおせるものなら、もう一度やり直したいくらいなんですけれど「そういう歴史があっていまの私があるのかな」と諦めています。若いSF系の集まりで話を聞くと「自分自身どういう作家になりたいのか」というビジョンがなくって「とにかく作家になりたい」という方がかなりいる。作家の職業に対してあこがれる方を、もちろん否定はしません。こちらがそれだけ夢を与えているということなので、否定はしないんですけれども。「自分はこういう作家になろう」という意識があると、もっとおもしろくなるのにと思います。

 推理作家協会賞を頂いてからすごく恵まれていて、ようやく中間小説誌に書かせていただけるようになりました。これもヒエラルキーの一種とは思うんですけれども、今まで「SF作家が中間小説誌に書く」ということは、コマツ・ツツイ・ホシの時代以降ほとんどなかったんですよ。それをようやく書かせていただけるようになったので、このままほかの作家さんもひき連れて、いわゆる「ふつうの文芸誌」でSFがもっと読まれるように、もっと認知されるようになればいいなぁというのが現在の目標です。サイトを見ていただければわかりますように「中間小説誌にもSFを!計画」と呼んでいまして、これからも推進していきたいと思っています。


質疑応答

質問 『鬼女の都』を読んだときに、あらすじから判断すると、文中の亡くなられた女性作家は某
   女王様のような人かと思っていたんですが、実際は同人作家であったことにすこしひっかか
   りました。「引かれる」かもわからない特殊なものなのに、あえて同人の設定にした理由は
   あるんでしょうか。

 表向きの理由と裏向きの理由があるんです。表向きの理由というのは、もともとあれはNОNノベルで出していただくことになっていまして。編集さんからは「ヤングアダルトの読者をひっぱってくる」ことが、営業的に期待されていました。それは明確に仰いましたし、いきなり私がミステリを全面に打ちだしても読者がいないのは当然ですから「ヤングアダルトを書いていた菅さんが」という、つながりをちょっと持たせたかったんですね。ですから、ハードカバー出版になった時にもいきなり「文学に挑戦」というんではなくて、若い子を狙ったままにしたかった。じつは『鬼女の都』はネット上あちこちで反発されているらしいんですよ、聞くところによると。同人誌をやっている方にとっては生々しすぎて嫌だったみたいで、書きすぎのせいで失礼なことをしたなぁと思うんですけれど、そういう読者層計算があったのがひとつです。

 それからもうひとつは、私は「SFオタク」と呼ばれる方たちと関わる機会がすごく多いんです。そういう人たちは一種異様であったり非常識な面もあったりするけれども、一皮むけばやっぱり同じように恋愛もするし、悩みもするし根底としてはおんなじ。ただ表現の形態として他人と距離がうまくとれなかったりする。つっぱっちゃったり、ねじくれたり、ふざけすぎたりしてしまって周囲が引き潮のようにざーっと引いていくっていう、そういう「悲しさ」っていうのかな「この人もいい人なのに」というところが、作品を読みすすむにつれて「あ、内情はこうだったのか」とわからせる。「オタクにも愛を」という……。単行本になったときにも同人の設定をはずさなかったのは、あえてこういう人たちをすえることに意義があるかもしれない、と考えたからです。

質問 先生がSF作家になられたのは、ちょうどSFブームの終わり頃かと思うんですが、それか
   らはずっと下火の状態が続いて、最近では〈ハヤカワJコレクション〉(※以下〈Jコレ〉
   )が出されたりと「もう一度SFブームを!」みたいな盛り上がりがあります。先生は、当
   事者の一人としてどう思ってらっしゃいますか。

 私が最初の短篇デビューをしたときはまさしくSFブーム華やかなりし頃で、その後「書かない、書けない」状態をはさみ『ゆらぎの森のシエラ』を出したのが、ちょうどファンタジーブームのはしりの頃です。まだちょっとSFブームの尾っぽが残っていて、ファンタジー系がわやわやと出てきているあたり。ですから『シエラ』も実は、異生物系の話とファンタジー系の設定を二つ出して「どちらが良いですか」と編集さんに尋ねたら、いまのかたちが選ばれたという経緯がありました。若い頃は、本を「出す」ではなく「出してもらう」というようなところがありましたので、もう言われることは全部うけて、ファンタジーと言われたらファンタジー、というように自分を縛って書いていました。ところが根はやっぱりSFファンですから、ファンタジーばかり楽しく書いているわけにもいかないのでちょっとだけSF要素を入れてみて「SFオタクにも喜んでもらえるファンタジー」を書いたりして、ずっとすごしてきたわけです。

 「ブームはどんどん回るよ」というようなことを誰かが仰いましたけれど、私の中では、ミステリはもう確固たるジャンルとしてすたれることはないように思います。SFブームっていうのも「浸透と拡散」という有名な言葉があります。浸透から拡散をしきってしまって、たとえばアニメなんかでもSFじゃないものをあげるのが難しかったりします。ただ、活字媒体となるとやっぱり力がなかった時期があります。だから何をもって「ブーム」ととらえるかは難しいんですけれども「活字媒体SF」としては〈Jコレ〉は希望の星ですし、デュアル文庫にもがんばって欲しいし、ハルキ文庫が名作を復刊してくれてますし。どんどん読みつないでいって欲しいです。

その中で私に何ができるかというと、もちろん偉い方の復刊は出版社にしかできないわけで、先ほど言った「中間誌にSFを載せる」もしくは「Jコレにいいものを書く」というような、自分にできる範囲でできることをやっていかなければいけない。これは、私が「SFファン」なせいもあります。ファンからずっと来て作家になった「ありがたみ」が身についているからか、どんどん恩を返していかないといけないと思っています。それがSF振興に微力ながらつながっていくんじゃないかな。

 同じ年代の作家さんとSFジャンルについて話していて、見解の差を感じたことがあるんですよ。私はSFジャンルっていうのは絶対に振興させたいし、残っていて欲しい派なんですね。ところが、ほかの作家さん二三人に話を聞くと、同じ年代にもかかわらず「いやもう、僕らはレッテルにはこだわらない。SFというジャンルがなくなったとしても、僕らが書きたいものは変わらないからそれが何と呼ばれようとかまわない」というふうに仰って。目からウロコがばらばらばらっと落ちたんですよ。ただ、それだけ「私にはちょっと歪んだ愛があるのね」という感じはしました。これからはどうなるかわかりませんけど、一生懸命SFSFと言っていれば、きっと皆に馬鹿にされながらも「がんばってるなぁ」と見てくれるだろうと思って、いまそうしている最中です。

質問 前に菅先生がSF大会で『ピーターパン』のウェンディについて興味ぶかい発言をなさって
   いたことから、今度公開される映画『ピーターパン2』についてどう思われるのか、お聞き
   したいです。

 ピーターパンとウェンディの話っていうのは、SF大会でのディベートの話ですね。あの時は大森望さんが音頭をとって「各ジャンルの女性最強を決めよう」というものでした。私は人数割り振りの都合上「ファンタジー」になりまして。ファンタジーはそんなに詳しくないので、たまたま子供と観たばかりの『ピーターパン』で「ウェンディってヤなやつ」と思っていたのをそのままディベートに持ち込んで、山田正紀さんにつぐ二位を勝ち取ってしまいました。ちなみに山田正紀さんは『エイリアン』のリプリー。そういう戦いをやっていました。

 ディズニーってね、ものすごくもうかってるんで何をやってもOKだとは思うんです。ただ、いままで二作めのほうが面白かったことってないんですよね、残念ながら。「あたれば次をつくる」っていうのはもちろん正攻法ですし、こういうやり方についての話はうちのダンナ、GAINAX がうまいんですけれど。「次がもっとすごい展開になる」ならOKです。でも今回は何か……あれって現代の女の子が出てくるの?娘?あっウェンディの娘なんだ。また、ヤなやつ?……そうなんや、現代じゃないんや。設定的につながるよりも、世界観としてダイナミックにつながって欲しいという希望があったので、いまの話はけっこう残念。「ピーターパン世界がどうなるか」そういう話だっていうのをちらっと聞いていますから、設定にからまってどこまで化けるか。「化ける」っていうのは「はじける」でもないし「収拾がつかなくなる」でもないんですが、とにかく「もっとすごかったんだ、これは!」と思わせる何かがあればOKです。

質問 ベタな質問で申し訳ないのですが、もしもご著作のなかで「アニメーションにして欲しい」
   もしくは「これはアニメにしたくない」とか、そういう考えはおありでしょうか。

 ありますあります。私はアニメ化とか全然OKで、もうして欲しくってたまらないんです。でも、これは主人の言い分ですが、私はやっぱりGAINAX の一員と思われているらしいのでよその会社がやってくれないんですね。GAINAX側としては「こんな口うるさい身内のものを誰が作るか!」ということになっていて、誰もなにもやってくれないんです。映像化するなら、おこがましいんですけど『メルサスの少年』を、ますむらひろし版『銀河鉄道の夜』のスタッフでつくって欲しいと思います。色彩の暗さとか演出のもっていきかたとか、光でもただ光るんではなくって「ふぅっ」と光るような感じが欲しい。『メルサスの少年』が、ああいう暗くてしっとりした映像になればいいなぁと思います。と、主人に言ったら「そんなもん売れへんからあかんわ!」と言われてしまいました。

 あとそうですね、『鬼女の都』は「ドラマになるよ」と言われたんです。四六判を書いたときに担当さんがすごく褒めてくださって「これ二時間ドラマ来ますよ」って。私は「絶対き〜ま〜せ〜ん」と賭けをしまして。賭けには勝っているわけですからいいんですけど。『歌の翼に』っていう作品は、私の中ではコージーミステリに位置づけされていまして、祥伝社さんは「女性読者を獲得したい」戦略的に私を投入してくださってますので、女性にも楽しく読んでいただける作品を目指したんです。ですから〈歌の翼に〉がメディアミックスになれば、私としてはすごく嬉しいです。やっぱり女の子にいきなりSF言うてもね、なかなか。まずミステリのほうで名前を知ってもらって「あぁ両方やっているんだな」という感じで見ていただければ。

質問 「何と何の出会い」「少年の成長」など、書いておられるモチーフに対するこだわりがあれ
   ばお聞きしたいです。それから、先生がジェイムズ・ティプトリー・ジュニアの『接続され
   た女』について書かれたエッセイで「一見すると不幸な人と、その内実」というシチュエー
   ションはすごく心に迫ってくる」と読みましたけれど、ほかにそうした「ツボ」で、どんな
   ものをお書きになりたいですか。

 私は何を書きたいというよりも「反発して次が出る」タイプなんですよ。若いころは特にそうでした。デビュー当初は「ヤングアダルト」「ファンタジー」「SF」ってくくりがあるなかで、そこから逸脱はせずにいかに外れるか。そこに命を懸けてましたね。どういう反発のしかたがあるかというと、描写することだったんです。

たとえば、これも他に書いた話なんですけれど「スプーンを使う」だとか、日常的なことがファンタジーに出てくると、私はがっかりするタイプなんですよ。それもこう、パロディみたいな「ゲーム世界のお約束」じゃなくて、いわゆる「本格ファンタジー」と言われているところに。スプーンって、西洋文化ですよね。異世界にスプーンってあるの?っていうところからまず考えなきゃいけないのに。あと、衣服もみんな同じような長いローブみたいなの着て、金髪碧眼でっていうのがすごく腹立たしかったんです。そういうのを外していく、ただ外していくだけじゃなくっていかに言葉で構築してみせていくか。「ないものを描かないと異世界ではない」と思っていたので、たとえば「波紋」だとか「音」、「空気の感じ」や「温度」など「書けないものを書く」ことに燃えていた時期がありました。それでちょっと気が済んだというか、そんなことをしていてもちっとも売れないことに気がついて、いまは読みやすいのが第一。読みやすいなかで光るものがあればいいっていうように努力の方向を変えたんですけれど、そういう時期がありました。どういうモチーフが書きたいっていうよりも、いままで人がやらなかったことを書きたい、というところがありました。

 それから「和もの」に関して、すごく偉そうで申し訳ないんですけれど。「これを書くことによってこれを知ってほしい」という啓蒙思想ってありますよね。そういう、和ものファンとしての結構いやらしい啓蒙主義のところと、やっぱり楽しんで読んで欲しいっていう接点というか、バランスをどう持ってくるかですね。それが難しいです。で「和もの」のツボというのは儚さだと思うんですよ。私が見立てを好きなのは「見立てどおりだとキレイにいくはずなのに」という狂ってしまったところが、なんかこうドキッとするんですよね。「はずだったのに」という後悔ですよね。本当はこうだったのに……もうどうしようもない、っていう。そういう悔しさは、自分で一番つらいからこそ書いておきたい気がします。

ティプトリー・ジュニアの「接続された女」(註一)は読んでおられない方が多いと思いますのでだいたいをお話します。映像技術が発展した、たぶんインドの未来だと思うんですけれど、すっごいブサイクな女の子が映像に出るために木偶人形みたいなところに意識を移すんです。誰も見えないところにいわゆるコードで接続された状態で閉じこめられ、幻の女を演じるんです。隔離されているわけですから、そのうち自分とその美人女優の区別がつかなくなってきて「私はああだ」って思いこむようになってしまう、魂のきしみみたいなものがあって。最後はそのコードをひきちぎりながらせまっていくっていう、すごく悲しくもおそろしいラストなんですけれど、そういうのを読むと哀れなんですよね、まず。「かわいそうに」っていう、放っておけない哀れさ。自分のどこかにもある「私はこうなのに」っていうエゴと響くんですよね。私はひねくれて育ちましたから、多少こういう心理がわかる。なにか順調にいかなかった思いをする女性っていうのは、同じような歪みやヒビを持っているんじゃないか。それを見つけだして話にするのが、私の作品のツボかなとも思います。ですから、たとえば猫を出すにしても「猫を出したらこうなるはずだったのにならなかった」ツボっていうのがあると思うんです。そういう「心の中のなにか」が書きたくて、手段としてSFを選んでいるんだとも思います。

質問 SFも含めて年少のころに読んで印象が強かった本は何ですか。

 読書量の多い方は身に覚えがあるでしょうけれど、端から忘れていかないと次のが読めないんですよね。ですからコレっていうのはなかなかあげにくいです。ミステリ的なロジックに気がついたもの、という前提であげるなら「三本のマッチ」とかいう児童書があるんですよ。魔法のマッチを三本擦って、一本につき一つ願い事をかなえてくれる。こういう「三つの願い」のパターンは、三本めに前の二つをも反故にしてしまうバカなことをやってしまって、っていうのが定石ですよね。ところがその作品では、三本目の願いで「同じマッチを一万本くれ」と言うんです。子供ながらに「そうよそうよ、その手があったわよ!」と、すごくびっくりしたことを覚えています。アンフェアぎりぎりのフェアで驚かせる、というところが気に入ったんだと思います。

 科学系の話になりますが、ちょうどヤマトなんかを観はじめたころ、放射線のことについて知りたいと思ってかなり勉強したことがあります。私の年代というのは、水俣病やスモンを幼少期にみてきています。サリドマイドと同じ年代です。薬害や放射線障害など、要するに「人間がいなければそうはならなかった」害、公害も含めて「私たちがいるからこそおこってしまった不幸」を身にしみて感じていた時期がありました。小学校三四年から五六年ころです。「私はこんなことをしていてはいけないんじゃないか」極論すれば、裸一貫になって森で暮らしたり、托鉢をしたり不自由な人を助けたりしなきゃいけないんじゃないかっていう。まぁ子供ですからね、純粋ですから。なんていうか「豊かであってはいけない、幸せであってはいけない」と思いつめて、不幸にむかってずるずる落ちていきそうなヘンな子供でした。科学や社会の本を読んで得たそういうヘンな心理状態は、いまの作品にも顔を出していると思います。

 で、SF。私が好きだったのはブラッドベリですが、あの方は幻想文学の色合いが濃いので「SFのおすすめ」というにはなかなか難しい。早川さんからオールタイムベストや「SFが読みたい!」なんかが出されていますので、それをご参考にと思います。ただ、嗜好にあう作品は女性向け男性向けで若干ちがいがあるように私は思います。これは差別ではなくて区別です。ティプトリー・ジュニアなんかは、先ほどの「接続された女」『たったひとつの冴えたやりかた』などは読みやすくて、男性にも女性にも切ない感じがのこっていいんじゃないかなぁと思います。日本人作家をうかつにあげると、友好関係にヒビが入ったりしますのであげにくく、年少の読書体験からははずれますがPRすると、最近では〈Jコレ〉が出はじめてますから。最近の新鮮なものを読みたければ、あの中から気に入ったものを選んでいただければ。いろんな側面のSFが入っていると私は思います。

質問 竹本健治さんや中井英夫さんは、それぞれSFも書いたり幻想文学も書いたりされるほか、
   アンチミステリも書いています。菅先生はそれらの作品、特に『匣の中の失楽』『虚無への
   供物』などはどう思われますか?

 私はよく用語を知らないのですが「アンチミステリ」っていうのはミステリジャンルからみて「ミステリではない」とはじかれたミステリ作家の作品ということなんでしょうか。(※追記参照)


質問 すいません、作品を限定します。『黒死館の殺人』『ドグラ・マグラ』『虚無への供物』に
   ついてお願いします。

 『黒死館の殺人』は読んでません。『ドグラ・マグラ』は噂に聞いています。『虚無への供物』は読みましたけれども、あの迷宮感覚はすごいと思いました。あの感覚は、マーヴィン・ピークの〈ゴーメンガースト〉シリーズ(創元推理文庫)のようなゴシックテイストの迷宮はSFでもミステリでも幻想文学でも魅力的だな、と思いました。ミステリに見せかけて、さてオチたかオチてないかっていうのは作家にしかわからないと思うんですよね。うまく言えないんですけれども「本当にこれで解決としていいか」っていう。読むこちらとしては「解決になってないやん」と思っても、作家の中ではすごくわからない部分で本人が高度な解決を書いたつもりになっているかもしれない。知人の名前を勝手に出すのは申し訳ないんですが、小野不由美さんの『黒祠の島』。未読なんですけれども興味があって、ウェブでいろいろ書評を読んでいたんですね。そうすると、どなたか評論家の方が「ぜんぶ裏読みにしても成立する」というようなことを書いていらして。小野さんはすっごく頭のいい方なので、全てわかった上でそうされているのかもしれませんが、もしかしたらそうでないのかもしれない。そんなことからも、アンチミステリかそうでないかっていうのは、本人はミステリのつもりだったかもしれないし、ちがうかもしれない。それを判断するのはなかなか難しいと思います。

質問 菅先生の作品はすんなり読めたんですけれど、私はSFに苦手意識があります。宇宙だとか
   量子力学だとか知らない用語が出てくるイメージがあって、とっつきにくい。そういったか
   たくるしいものではなく、SFの幅広い良さをお話していただけないでしょうか。

そういう堅苦しいタイプの作品は「ハードSF」と言いまして、それこそもう「計算せずにはおられない」みたいな作家がね、京都に一人いるんですが……。SF作家にもいろいろありまして、私とか梶尾真治さんっていう方もいたり。梶尾さん、ご存知かしら。『おもいでエマノン』とか、すごくファンタジックないいお話を徳間デュアル文庫からまとめて復刊されておられるんです。そういう叙情的なものを書く作家から、先ほどあげた山尾さんのように幻想派もいますし、スラップスティックというかドタバタのような不条理なものを書く人もいますし、最後に一言オチを言わずには気が済まない人も、今日会場に来ていたりします(註二)。そうしたいろんなものをあわせて、SFと言っています。堅苦しい、難しい、わからない、宇宙船だ宇宙人だというのは。ごく一般的なイメージだと思います。もちろん、私が読んでもわからないものもあります。誰の作品とは言いませんけど「こーれはわからん」というのが始めの二ページで……。だから、それはもうあたってみるしかないんですよね。たとえばそういう作品にしたところで、理系の人にしかわからないロマンというのは確かにあると思うんです。いろんなものがあるなかで、自分に合うものを早く見つけて欲しいですね。

 私は理系オタクではあるんですけれども、知識がぜんぜん追いついていないので「中間小説誌にSFを!計画」では、理系の方から怒られるような嘘八百ならべたてているところがあります。でも、そういう科学のよくわかっていない人間がちょっと科学をつかって、中間小説誌を読むようなおじさん世代にもよくわかる話を書いていきたいです。

今度〈Jコレ〉で書こうと思っているのは、難しい話はどう背伸びしても書けないにしろ、やっぱり「SFを狙いすまして読んでいる」読者さんにも怒られないようなものにしたいと心に決めてます。そういうふうに私自身の中でも使い分けがありますので、私の次には梶尾さんを読んでみるとか、怖がらないでいろんな作品をみていくうちにどんどん幅を広げながら読んでいただければと思います。やっぱりミステリでも、本格系や新本格系とか不条理系、幻想文学的なものなどいろいろあっていまのバラエティ豊かなミステリ界があると思うんです。SFにも水面下にいろいろそういう違いがあるのだけれど、認知度が低くてみえていないんじゃないか、という感じです。読書案内でしたら、私でよければ致しますしウェブでもお答えします。ですから、どうぞ「SFを読もう」というとっかかりを大事にしてください。

註一 『二十世紀SF〈四〉一九七〇年代』(河出文庫)に収録されている。

註二 田中啓文のこと。ダジャレオチばかりの短篇集『銀河帝国の弘法も筆の誤り』(ハヤカワ文庫)の帯では「私たちはこの本を推薦しません」という人を食った応援にたくさんの仲の良い作家の名前が並び、「菅浩江」の名前もある。

追記 あとで「あの質問はSF界で言うところのメタという意味では」と教えられました。物知らずで申し訳ありません。(菅浩江)



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