小林泰三講演会

(2008.12.7)



司会:

本日は事前に募集した質問に、先生に答えていただくという形で進行させていただきます。それが終了次第、時間の経過を見て、会場の皆さんから質問を募集し、先生に答えていただくという形をとろうと思っております。

 それでは質問に入る前に、小林泰三先生より一言、頂戴したいと思います。では小林先生、お願いします。



先生:

小林泰三です。今回、関西ミステリ連合の講演会に呼んでいただいて、私もそろそろ、ミステリ作家として認識され始めているのかな、と思っております。そもそも出身はホラー大賞ということで、基本的に世の中の人にはホラー作家と思われております。ただ私自身、あまりホラーに執着はないので、どちらかと言うとミステリ作家、SF作家と思ってもらえる方が嬉しいような気がしています。

 たとえばデビュー作の「玩具修理者」がホラー大賞の短篇賞を受賞したんですけども、読んでいただいたらわかると思うんですが、一応ホラーという体裁はとっていながら、SFやミステリの要素も入っております。玩具修理者自体がナノバイオテクノロジーシステムの一つの形態ということですね。また全体で一つの叙述トリックが入っています。まあそういうようにミステリとSFの要素を入れたた上に、ホラー大賞に出さないといけないので、一応ホラーのオブラートで包んで出したところ、幸運にも賞が取れてしまいまして、それ以降「お前はホラー作家や!」ということになってしまいました。普通にミステリとかSFを書いて持っていっても編集者に「ホラーと違う!」と怒られたりするので、また、ホラーの感じを出して持っていく、と。まあ注文も、「今度の雑誌の掲載お願いします」って言われて、どんな書き方が良いですかって言ったら、「まあ、内臓出てきたらそれで良いです」と言われたりします(笑)

内臓とか書きたくないんだけれども、とにかく内臓出てくる話を考えて、それにミステリなりSFなりの要素を付け加えて持っていくと。そういう努力の甲斐もあって、こういう講演会に呼んでもらえるところを見ると、最近はミステリ作家だと、ちょっとずつ認識されてきたのかなと、まあ安心しているところです。よろしくお願いします。



司会:

ありがとうございました。それでは先生、おかけください。

 それでは、質問の方に移らせていただきます。まず、先生の作品の中には未来は決まっているというのをテーマにしているものがありますが、先生自身はそのことについてどうお考えになっているのでしょうか? お願いします。



先生:

未来は確定しているかどうか、というお話なんですけれども、これは大変難しい問題です。SFなんかに時間ものがどんどん出てくるんですけれども、大きく二つの立場があるんですね。一つは、時間は改変できるというもの。過去に戻って歴史を変えてまた戻ってくると、歴史が変わってしまっているという立場。『バックトゥザフューチャー』とか、かなりのSF作品ではそういう立場になってます。もう一つの立場は、絶対に時間は変わらない。過去に戻って何をしようが、実は過去に戻って行ったことも歴史に組み込まれてしまっていて、そうすることによってまたもとの歴史そのままになってしまうという立場ですね。これは日本の作品で、最近だと上野樹里さんなどが出演されている『サマータイムマシンブルース』ですね。過去に戻って何をしても結局それがつじつまが合ってしまうという話でした。二つの立場があって、どっちも面白いんですけれども、作品によってはちょっとそのへんがこんがらがってしまって、二つの立場が混じってしまっているような作品も結構あります。超能力ものなんかそういうのが多いですね。超能力といっても色々あって、その超能力の中の一つとして、未来を予知する超能力者が出てくる。もう一方、タイムトラベル能力がある超能力者が出てくると非常に話がややこしくなってきて、どちらの立場をとっても何かおかしなことになってしまうんですね。

予知能力を持った人と、時間遡行能力持った人、両方出てくるSFとしては、日本だと筒井康隆さんの『七瀬ふたたび』ですね。最近の海外ドラマだと『HEROS』、なんかも未来を予知する超能力者と、過去に遡れる超能力者が出てきます。何でこれが矛盾するかというと、もし時間が改変できないという立場で考えますと、歴史が変えられないんだったら過去に戻っても仕方ないということですね。結局何か大きな災害が起きて過去に戻ってそれを防ごうとしても、結局起きてしまうということだったら、その時間を遡る超能力というものはまったく無駄になってしまいます。で今度は、じゃあ時間を改変できるとした場合は、予知能力がちょっと苦しいんですね。予知したけども、それが当たるかどうかわからんとなると、それって予知じゃなくて予想とか、予測とか、それに近いものですね。明日の天気は晴れるかもしれんし雨かもしれんけど、多分晴れるんちゃうかな、っていうのが予知能力かというと、そうじゃないわけですね。で、その二つの立場が一つのドラマに入ってしまうと非常に展開が難しいですね。予知能力の予知は、絶対じゃないといけないんだけれど、過去に戻って改変することは可能にしないと、ストーリーは繋がらない、っていう風になると、かなり変な設定になりますよね。未来は絶対に変えられないけれど過去はいくらでも変えられると。普通は逆ですね。過去は変えられないけれどまだ決まっていない未来はいくらでも変えられる、と考えるのが普通です。けれども、時間ものだと、そんな変な設定になったりしてしまったりするんで、それは脚本とか、作家の力で何とかごまかして書いていかないと仕方ないわけです。

まあそういう風に、いろんな考え方があるんで結論はでないんです。ただ、個人的には、歴史は、未来は変えられるとした方が楽しいんじゃないかなと、また希望が持てるんじゃないかなと思ってますんで、どっちかと言うと未来は変わるんじゃないかなと思ってるほうです。



司会:

ありがとうございました。希望が持てました。

 それでは次の質問に。先生は京都にお住まいですが、作品の舞台を設定するに当たって京都の風景を参考にすることはありますか?



先生:

 私は出身が京都市で、今も、京都市じゃないんですけれども京都府に住んでいます。ところがですね、私はほとんど取材をしないタイプの作家でして、ほとんど頭の中の空想で書いてしまうんです。ただいくつかの作品には、京都の風景というか生まれ育った近所の町とかが入ってくるものも、いくつかあります。最近のものですと、『異形コレクション 京都宵』というアンソロジーの中に「朱雀の池」という作品を書いたんですけれども、これは京都の南の方を舞台にした作品です。四神相応といって、京都は四つの神に守られている。東西南北に神様がいて、それが京都を守ってるという言葉があります。北には山があって、東には川があって、西には道があって、南には池があるというのが、風水の世界の中で良い地相やと言われてるんですけれども。北の山っていうのはどっちかというと船岡山が北の山に相当するだろうと、東の川は鴨川でしょうと、西の道は山陰道がそれに相当すると。ということで、南に池があるかという話なんですけれども、京都の南の方には、久御山町とかあのあたりには昔、大きな池があったんですね。巨椋池という池があって、その巨椋池が昭和十六年まであったんですけども、それが干拓されて農地になったんです。つまり、京都を守る四つの神様のうち一つがなくなった、というのをネタにして一本書いた話「朱雀の池」というのが、『異形コレクション』に載っています。

それと、これもまだ短篇集には入っていないんですけれども、『問題小説』に「百舌鳥魔先生のアトリエ」というのを書いたんですけれども、それは竹やぶの中に芸術家が住んでいるという話で、八幡のあたりの竹やぶをイメージして書いた作品ですね。あと、デビュー直後に、「五人目の告白」というのを書いてるんですけども、小学生の女の子がさまよい歩く町っていうのは、生まれ育った町そのままをイメージしたものです。まあ別にその場所じゃないと成立しないという話じゃないんですけれども、ある程度生まれ育った町のイメージが入り込んでいる場合があります。ただ、意図的に取材して京都の様子を取り込んだっていうのは今のところ、あまりないと思います。



司会:

ありがとうございました。次の質問に移らせていただきます。

ミステリをテーマにした作品集『モザイク事件帳』ではこれまでの作品の登場人物が再登場して事件を解決していますが、これからもこういった作品を書かれるのでしょうか? お願いします。



先生:

まあ、それはわからないということで(笑)

 たぶん彼らは他の作品にこれからも出てくると思います。愛着のあるキャラクターがいると、結構使いたくなってしまうところがありますので。登場させた時には、こいつをもう一回使おうという気持ちはまったくなかったんですけども、書いてるうちに愛着が湧いてきて、他の作品にも出したろ、と思うことがあります。そういうことから考えると、ああいうところに出てくる登場人物は結構愛着があるということなので、これから……探偵役かどうかわからない、犯人役かもしれないんですけれども、あるいは殺される役かもしれないんですけれども、まあ出てくる可能性はある、ということです。



司会:

ありがとうございました。楽しみにしております。

 では次の質問です。先生にとっての短編の魅力、また長編の魅力といったものを、それぞれ教えてください。



先生:

短篇と長篇、僕なんかは短篇が好きで、学生の頃とかは長篇を毛嫌いして短篇集ばっかり、色んな作家の短篇集ばっかり買って読んでいたんです。短篇の面白さと長篇の面白さはやっぱりちょっと違いまして、短篇はどうしてもそんなに、登場人物の性格なんかを深く掘り下げるのは難しい。枚数が限られていますから。まあ短篇というと五十枚ぐらいが平均ですね、もっと短い二十枚とか、長いと百枚くらい、ページ数にしたら、五、六十ページくらいですね。そんなに登場人物を、あまり深く掘り下げることはできない。では、短篇の何が面白いかというと、やはりアイディアですね。変哲のない短篇というのもあり得るんですけれども、やっぱり、何か一つアイディアがあって、「おお、こんなことが!」っていうアイディアストーリーですね。それがないと、やっぱり短篇は面白くないでしょう。

それに対して、長篇もアイディアは当然必要なんですけれども、アイディアだけで、一冊本を持たせようと思うと、かなり苦しいんですね。何がやっぱり必要かというと、物語、ストーリーテリングというものですね。わくわくして、これから先どうなるんやろう、と思わせるテクニック、それがやっぱり必要になってきます。中には、ワンアイディアだけで、だらだら引っ張っていく、特に事件は起こらないんだけれども、とりあえず何百ページか書いて、最後のページで「実は!」って書いておとす、という方法も、そういう作家さんもいるんですけれども、それはもう最後に何か面白いものがある、っていう期待感だけで読まないといけないので、かなり辛いですね。それで二百ページとか読んで、実はたいしたことないとかなると、詐欺に引っ掛かったみたいなもので。

小説じゃないんですけれども、映画なんかでありますよね。シャマラン監督の映画とか、『シックスセンス』は結構面白かったんですけど、その後の作品群ですね。これ何やねん、というのがあります。最近なんかオチすらないという映画も、よくあるみたいです。僕が見て一番、アカンな、って思ったのは『アンブレイカブル』。登場人物の行動が変なんですよね。最後のオチ、『シックスセンス』の場合は、最後のオチをばらさないように、上手く演出してる、というのはあるんですけれども、『アンブレイカブル』はあまりにも不自然で、こんなん自分が確かめたらええやん、っていうのを主人公はしないんですよね。ああちょっとネタバレになりますけども、主人公のブルース・ウィリスが『おまえはスーパーヒーローじゃないか』と、誰かに言われるわけです。その理由は大きな事故にあって、一人だけ怪我しなかったからと言うんですね。でも、自分が不死身かどうか確かめる方法なんてなんぼでもあるんですけども、主人公はずっと、二時間ずっと思い悩んでいるだけでそれを実行しないんですよね。それで、最後のオチが、このオチはどうかな、っていうオチだったんです。

まあそういうことがあると、やっぱり長篇っていうのは物語性なのかな、という風に思います。僕の場合、長篇・短篇両方書いてるんですけれども、やっぱり短篇の場合は、アイディアが非常に大事、長篇の場合は次々と読ませていく物語性が大事かな、と思ってます。短篇一本と長篇一本どっちが書くの楽か、っていうと当然短篇一本書く方が楽なんですけども、本を出すことを考えると、短篇集一冊と長篇一冊どっちがしんどいか、というと絶対短篇の方がしんどいんです。ただ長篇を書き上げるのは、精神的にかなり強くないと心が折れてしまうというところがあるので、まあどっちもどっちかなと思っております。



司会:

ありがとうございます。小説を書いていて特に面白かったことや、何か今までとは違った考えや見方を思いついたりしたことはありますか? もしあるとすれば、それはどんなことでしょうか?



先生:

僕の場合、さっき言ったアイディア、という話になるんですけれども、どっちかと言うと、常にそういうことを考えてますね。何か面白い考えや感じ方ないかな、新しい物の見方はないかなと、いつも考えてまして、そういうのがあると、それを小説にしていこうと、思ってます。だから小説を書いて、「あれ? こういう見方があるのか」ということはあまりなくて、逆に日常で面白い考え方や見方に気付いた時に、「あ、これをネタに小説を書かれへんかな」と思って、書いていくことが多いですね。そんな感じです(笑)



司会:

ありがとうございました。それでは次の質問に移らせていただきます。

新作の予定などありましたら差し支えのない範囲で教えてください。また、以前、『海を見る人』インタビューだと思うんですけども、歴史小説にも挑戦したいと仰られていましたが、現在また新たに開拓したい分野などはありますでしょうか? お願いします。



先生:

はい。これからの予定としましては、来年(2009年)の三月にホラー文庫を出す予定です。ただ、書き下ろし分がまだ書けていないので、それがちょっと不安材料ではあるんですけれども(笑)

 まあ、年内にあと百五十枚ほど書けば、三月には出るということらしいので、これは頑張りたいと思います。短篇集で、書き下ろし以外にも今までの各雑誌とかに出した分を、一冊にまとめた本です。それと来年出る本としては、『異形コレクション』を出してる光文社から、ホラー長篇が出る予定です。これはまだだいぶ先で、来年(2009年)十月とのことで、まあこれもそんなにゆっくりはしていられないんですけども、出る予定です。あと連載なんですけども、『SFマガジン』にハードSFスペースオペラを連載中で、ただ連載といっても、僕の場合毎月書いてるんじゃなくて、三ヶ月ごとなんですけども、冒険系のハードSF で、主人公たちが、未知の世界を……未知の世界というのは、「天獄と地国」という作品があるんですけども、その「天獄と地国」の舞台で巨大なロボットに乗って戦うという、何かよくわからない話なんですけれども、それを今連載中です。それとですね、東京創元社の『ミステリーズ!』という雑誌で、それもまた二号に一号くらいの割合で、ミステリの連載を始める予定です。これは全然ネタを考えていないんで、どうしようかな、と思ってるところなんですけれども。『モザイク事件帳』とはまたちょっと違った感じの連載にしようかな、という風に思ってます。



司会:

ありがとうございました。来年も非常に楽しみな一年になると思います。

 それでは。先の『モザイク事件帳』や「玩具修理者」などもそうだと思うんですけれども、先生の作品には同じ名称の人物が登場することがありますが、これは名称だけでなくまったく同一の存在と考えてもよろしいのでしょうか?



先生:

これは同一人物です。読んでいただくとわかると思うんですけれども、ちょっと設定的につじつまが合わないとか、キャラクターが変わってるんちゃうか、と思われることもあると思うんですけれども、それは理由があります。どういう理由かは、作品を読んでいただいて、考えていただいた方が良いと思います。



司会:

ありがとうございました。

 『AΩ』における聖書の引用が、各部の冒頭にある聖書の引用がとても興味深かったです。先生は聖書という作品をどのように捉えられていますか?



先生:

  「AΩ」という言葉自身が聖書の言葉で、神様が、「私はアルファでありオメガである」という言い方をしています。これは最初と最後という捉え方が一般的なんですけども、AΩという言葉がヘブライ語ではAとBにあたるというので、AでありBである、ということで全ての始まりが私である、という意味ともとれるとされていますけども、まあこれはどっちでも良いんですけども。AΩが面白い言葉であると思うのは、日本語にも「阿吽の呼吸」という言葉がありまして、阿吽ってのは何かと言うと、アっていう音とウンっていう音なんですけれども、これはサンスクリット語のアルファベットの、最初の文字と最後の文字で、アってのはアルファ、Aと同じですよね。ウンっていうのは、発音的には「ウン」じゃなくて、「オーム」に近いということがあって、オウム真理教のオウムもそれらしいんですけども、オームって言えば、「Ω」も単位としては「オーム」と読みますね。偶然ですけども、AΩと阿吽とは同じものを指してて面白いな、って思ってます。

ところで、聖書っていうのは、いつ書かれたかっていうと、キリストが書いたわけじゃないんですね。キリストが死んでから書かれたと。昔は、キリストが死んだ後弟子がすぐ書いたんちゃうか、って思われてたんですけども、そうじゃなくて、死んでからだいたい百年ぐらいの間に書かれたらしいと。今から百年前というと、1900年代の初めぐらい、明治時代の後半ですね。明治時代後半に死んだ人のことを今書いたら、それはかなり伝記というよりは小説に近いんじゃないかな、と。そんな感じがします。

世界に、キリスト以外にも偉人がいるわけですけども、例えば中国の孔子とか、ギリシャのソクラテスとか、彼らの場合は、死後すぐに書かれているんですね。孔子の場合の『論語』、これは孔子の言葉そのものを死後、すぐに弟子がまとめたものですね。ソクラテスの場合は、弟子の中にプラトンっていう偉い人がいまして、ソクラテスとプラトン、同格ぐらいに思うんですけども、一応ソクラテスがお師匠さんで、弟子がプラトン。ソクラテスは何も本を書いていないんですけれども、ソクラテスが死んだ後、プラトンがソクラテスを主人公にしていっぱい書いています。多分、かなりプラトンは自分で作って書いているとは思うんですけども、実際ソクラテスを直に知っている人たちが生きている時代に書かれた本ですから、あまり変なことも書けないだろうから、多分ほんまの、ソクラテスがかなり反映されていると思われます。孔子とかソクラテスの本を読むとわかるのは、彼らはあまり超能力とか使わないですね。普通のおじさんですよね。ええこといっぱい言うけども、別に魔法を使うわけでもなく、死人を生き返らせるわけでもなく、病気を治すわけでもない。ところが、死んでから時間が経ってくると、当然口伝えですよね、今でいうところの都市伝説化していくわけです。しゃべっていくうちにどんどん話が変わっていって、面白いように枝葉がついていくということがあったと思います。

そういうのを如実に示す例があります。いわゆる聖人っていうと、まず思いつくのが釈迦ですね。お釈迦さんは、紀元前の四百年とか五百年ぐらいになくなってます。釈迦の死後すぐに、弟子が集まって最初のお経書き始めたんですけども、それで終わりっていうわけじゃなくて、何度も、どんどん書かれていくわけです。例えば有名な、妙法蓮華経とかになると、死後五百年くらい経ってから書かれてるんです。当然もう、色合いが全然違うんですね。初期の頃に書かれた経というのはもうほとんど人間的なお釈迦さんが出てきて、何歳の時にどこに修行に行って、何歳になって、最終的には料理にあたって死にましたという話があって。その間に良いことをいっぱい言ってはった、ということですね。あまり神がかっていない、神話的な要素が、あんまりない。

 そもそもユダヤ教とか、イスラム教の場合は、神様が降りてきて「お前は救世主やから」という話になって、布教を始めるんですけども、仏教の場合は別に神様が降りてきたわけではなくて、釈迦という人が自分で考えて、人間とはどうすれば苦しみから逃れられるかと考えてできたのが仏教なので、原始仏教には、あまり神がかった要素はなかったんですけども、時間が経ってくると、どんどん魔法の要素とか神様とか悪魔とか出てきて。妙法蓮華経とかの時代になると、もう原型残ってないですね。どこの星の話やと。テレポーテーションとかも平気で使ってくるし、人間の心も読める。あと人造人間とかも出てくるし、世界間移動ですね。この世界があって、別の世界が、上にも下にも、東にも西にもいっぱい世界があって、それぞれの世界に太陽や月があるという別の太陽系の概念みたいなものがでてくる。壮大なSFみたいになってしまってるわけですね。誰か書いた人がいても、それが伝わっていくうちに、だんだん話が大きくなっていって広がっていくと、五百年も経つともう完全に原型留めない。釈迦という人がいたってぐらいは伝わってるんですけども、お釈迦さんがどんな人かは誰も覚えてなくて、スーパーヒーローや神様みたいな人やっていうイメージになっている。

例えば日本でも、卑弥呼の時代っていうのがありまして、卑弥呼の時代は全然良くわからないんです。日本の文献には卑弥呼載ってない、って話になるんです。でも、日本で残ってる歴史の文献っていうと日本書紀とか古事記になるんです。それが書かれたのは卑弥呼からだいたい五百年後なんですね。さっきの話によると、卑弥呼がいて、当時の人が記録していたとしても、五百年経ってしまうと完全に神話化してしまうだろうと。だから、天照大神という女神が出てくるんですけども、ひょっとするとそれが卑弥呼なのかもしれない。卑弥呼が人間としてどんな生活をしていたかっていうのは全然原型留めていないわけですよね。完全に神としての姿になっていると。それは意図的にしたわけではなくて、五百年も経つとそれは仕方ないことだと、僕はそういう風に思ってます。

話を戻して、キリストの場合は百年ぐらいなんで、完全に神話化はしていないわけですよね。ある程度原型を、人間としてのキリストの原型を留めていると。 ただまったくそのまま、事実を書けたかっていうと、キリストを知っている人はもうほとんどいないわけですから、ファンタジーが混じってきている。自由に空を飛んだり死人を生き返らせたりとか、魔法を使えるようになってるわけです。ところが、完全に神話化してないところもあって、最後は死刑です。人間に捕まって殺されたとなると、非常に矛盾点が出てくるわけですね。全知全能の神であるのに、そこらのローマの兵隊に捕まって死刑になったと。それは折り合いをつけないといけないんですね。神なのに、何で人間に殺されたかということに折り合いをつけるために、無理矢理いろんな理屈をこじつけるわけですね。一つは三位一体、あと贖罪説。キリストは何で死んだかというと、全人類の罪を背負って死んだと。三位一体っていうのは、キリストが神だとすると、キリストがいる間神様はどこにおってんって話になってしまうわけですね。例えばキリストの母親はマリアですけど、じゃあマリアがキリストを生む前は神様はいなかったという矛盾した話になってしまう。日本のような多神教の世界ならそれは矛盾でも何でもなくて、神様の子を生んだんや、っていう話なんですけども、キリスト教圏は何故か一神教なんで、一神教で神の子を産んだっていう話と矛盾なく整合させるのはかなり難しいので、三位一体であると。父と子は一体であると。父と子と聖霊ですね。非常にアクロバティックな論理で、無理があるお話を何とか整合性を持たせようとして頑張って作ったのがキリスト教の哲学なんです。そういう意味では突っ込みどころ満載なんで、ある意味特異な宗教、一番広まってしまっているんで特殊性に気付かないんですけども、一番特殊な宗教かなと。

 そういうところ、僕は聖書読んだときに、これおかしいなって思うところがあると、そこばかり拾い上げて一冊の話にできないかなって思ったんです。『AΩ』っていうのは、聖書の一節を入れるんですけども、我々の思うキリストっぽくないイメージ、復讐をしたりとか、非常に怒ったり、食べ物ないから怒ったとか、聖書にはそういうことをするキリストも描かれてるんですけども、そういうところを取り上げたんですね。実は、聖書ってもっとたくさんあるんですけども、昔ローマのカトリック教会がいくつかそのうち集めて、これだけが本物の聖書、それ以外は全部偽物ですって宣言したことがあるんです。偽物って呼ばれてる聖書の中にはもっとひどいキリストがいっぱい出てくるものもあるんです。キリストの幼少期の部分があって、ほとんど水木しげるの悪魔くんみたいな感じの子供で。何か変な子がいて、近所の人に苛められるとその苛めた子が死んでしまうという風な。悪魔くんというかオーメンに近いようなイメージで書かれてるんです。まあそれは正統なキリスト教からは排除されてるんですけどもそういう話も面白いので、これからもそういう系統の話は書いていこうかなと思ってます。



司会:

 ありがとうございました。それでは次の質問です。

 ネットで『海を見る人』著者インタビューを拝見しました。その中で「SFは絵、ホラーは文体」という話が非常にわかりやすく面白かったです。そこで質問なのですが、このようにジャンルを一言で言い切る場合、先生にとってミステリとはどのような表現になりますでしょうか。



先生:

 まず「SFは絵」だっていうのは、もう亡くなったんですけども野田昌宏さんっていう、作家であり翻訳家でありTVプロデューサーである方がおられたんですけども、「SFは絵」と。やっぱり絵なんですよね。SFっていうのは宇宙船なり宇宙怪獣なりの絵を見て、「わーすごいな!」っていうところから始まっていると。文章は当然、後から付いてくるというか、我々がSFは好きやなって思ったのも、イラストですね。今はほとんどイラストがないんですけども、ハヤカワ文庫なんか昔は、ほとんどの文庫にイラストがありました。表紙があって、開くと中に口絵があって、文章中にもイラストがたくさんあった。今だとライトノベルしかそういう方法は取らないんですけども、昔は普通の大人向けの本にもイラストはいっぱい入ってました。そのイラストがかっこいいんですよね、SFっていうのは。かっこいいイラストを見た人が本を買うようになって、SFを読むようになった、ということが大きいと思います。

 ホラーはやっぱり、ホラーも絵でもいいんですけども、やはり文体ですよね。単純に、「怪物がきた」っでなくて、どんなにそれが気持ち悪いか、グロテスクな怪物かということを書くだけで、ホラーになる。例えば、普通の、アパートに入りましたではなくて、もうアパートに近づくだけで物凄い不快感が出てくると。部屋に入ると、畳の染みが人の顔に見えるとか、カーテンが揺れて向こうに誰かいるように思うとか、トイレ開けるたびに何か変な臭いがするとか書けば、それだけでホラーですね。ホラーが文体っていうのは、結局同じような物語があってもそれをどう描写するかでホラーになるという話で。まあちょっと先ほどのSF は絵という話とは次元が違う話なんですけども。ホラーを成立させるのはやっぱり文体であろうということで、「ホラーは文体や」と前に僕は言ったんです。

 ミステリは何かというと、やっぱりミステリはアイディアでしょうね。トリックと言っても良いんですけども。広義のトリックです。読者を騙す、という意味でのトリック。社会派ミステリっていうのもあるんですけど、それは犯人が何故このような境遇に陥ってこのような犯罪を起こさないといけなかったかっていうのを、『砂の器』みたいに書くのもミステリだと思うんですけども、それは社会小説ですよね、大きな意味ではミステリなんですけども、それは別にミステリの要素があってもなくても良いと。最初から犯人はこいつやってわかってて、犯人の生い立ちを書くだけでも同じ効果があるわけです。、ミステリっていうのは犯人が誰かって当てるのがミステリの核なんですね。だからやっぱり、アイディアですね。こんなことが何故実現したのか、こういう状況下でこいつが犯人であるはずがないのに何故こいつが犯人であるのか、そういう思考のアイディアですね。こんなことが、こういう考え方、方法があるのか、っていう驚きがやっぱりミステリじゃないかという風に思います。

 ミステリとSFと、ホラーとファンタジーっていうのがあって、エンターテイメントの大きなジャンルなんですけども、倉阪鬼一郎さんっていうホラー作家がいて、エンターテイメントは四つの空間に区切れるという話をしてまして。切り口としては二つあると。一つは論理的であるか直感的であるかという切り口。あと舞台が現実であるか、架空であるかという切り口。架空の舞台であまり論理的じゃなく進むっていうのがファンタジー、架空の舞台で論理的に進むっていうのが SFだろうと。現実の世界で論理的に話が進むのがミステリ、現実の世界で非論理的に話が進むのがホラーだと。まあそれはかなり例外がいっぱいあるので、簡単にまとめることはできないんですけれども。ホラーSFって結構ありますけども、まあそれは切り口の違いですよね。ホラー、恐ろしい現象が起きてて、それを論理的にこれは細菌兵器やとか、宇宙人とかロボットがやってますと言ってしまえばSFになるんであって、それは妖怪とか例の仕業だとか言ってしまえばまあホラーになると。

 話を戻しますと、ミステリはやっぱりアイディア、トリックじゃないかなと思ってます。



司会:

 ありがとうございました。それでは、次の質問です。

 ミステリなんですけれども、小林先生はミステリの分野の作品も発表されていますが、先生ご自身はどのようなはどのようなミステリがお好きでしょうか? また、これから書いてみたいミステリのテーマなどがありますか?



先生:

 そうですね。叙述トリックが私好きなんですけども、何で好きかというと、小説でしか基本的には成立しない、映画とか漫画とかでも不可能じゃないんですけども、非常に難しいですよね。主人公の性別を描かない映画ってかなり難しい。例えば登場人物が男か女かわからないとか、年齢がわからない、という状況で描くのは難しい。暗がりばっかりにする方法とかもあるんですけど、それって不自然ですよね。「何でそんなことしてんねん」って思ってしまう。小説の場合は、情報量が限定されているので、書かなくて良いことは書かなくて良い。「コップ」って書いても「紙コップ」なのか「ガラスのコップ」なのかは別に書かなくて良いわけですね。ところが、映画なり漫画なりだとコップが紙かガラスかっていうのは描かざるを得ないわけですよね。そういうことを考えると、小説に限った手法ということで、やっぱり叙述トリックっていうのは結構面白いなと思います。叙述トリックじゃなくても、最後にどんでん返しがある、それがミステリの醍醐味かなと思ってます。短篇でも、最後の一行で全部今までの思い込みは逆だったんや、ていうのが醍醐味だと。自分自身でもそういうのを書いてみたいな、といつも思ってます。長篇でそれができたらすごいんですね。全五巻ぐらいの長篇小説で最後の瞬間に、今までの全部逆だった、っていうのがあったらそれはすごいんです。まあ不可能に近いわけですけども。それに近いことをなるべく書いていきたいな、と思っています。



司会:

 ありがとうございます。それでは少し質問の順番を変えさせていただいて。

 先生はご自身の作品が映像化されることについて、どのように思われますか?



先生:

 私の作品で映像化されたものってあまりないですね。「玩具修理者」が映画化されています。あとテレビの『世にも奇妙な物語』で「影の国」がドラマ化されています。あとは「家に棲むもの」、「食性」ですね。この二本も映像化されてます。舞台になったものもありまして、「玩具修理者」は舞台化してますね。漫画も「玩具修理者」があるんですけども、これらは二次作品ですね。私の作品を一次作品とすると、それから派生した二次作品。

 小説をやってて、一番感じたのは自分自身の作品を客観的に読むっていうのは非常に難しいということなんです。書き出してその後読み返して校正して……っていう段階で、同じ作品を、自分の作品を何十回と読んでしまうと、面白いかどうかもわからなくなってくる。それでも一応直していくわけですけども。他の人の作品っていうのは非常に無心に読めるわけですね。作っているときに全然関わっていないので、何が起きるかわからない。楽しんで、客観的に読める。ところが自分の作品だと、もう主観的になってしまって。例えば文章を読んでいても、極端な話をしますと、ここに点を打って良かったのかな、とかここで改行すべきだったかなとか、この会話文のしゃべり方は人物の書き分けできてるかな、と思ってしまうわけですね。それがどうしても拭い取れない。自分の書いたものだから、絶対に客観的にならないわけですね。自分の作品を客観的に楽しみたいなぁと。初めて僕の作品を読んだ場合、どんな感じがするのかっていうのが絶対にわからないから。記憶喪失になれば別ですけど。自分の記憶を消して読むことができたらどんなにかええやろな、と。楽しみたいというのと、客観的に自分の作品が本当に面白いのか知りたいと。そのままじゃないですけども、それに近い体験として、映像化とか漫画化だとかがあります。映画になれば、当然私の作った台詞も出てくるんですけども、映画監督の作った台詞も出てきまして、だいたいストーリーはわかっているけども、先がわからない。そういう意味では、自分の作品を客観的に観ることの疑似体験ができると。それは非常に楽しいな、と思います。

 もう一つの楽しみとしては、僕の映画は結構アイドルが出るので、アイドルに会えるという楽しみがあります。『玩具修理者』でしたら田中麗奈さんですね、なっちゃん。当時は完全にアイドルで、最近はアイドルというより女優という感じですけども、当時はまだ二十歳くらいで……なっちゃんは何代もいるんですけども、やっぱり皆イメージとして強いのは一代目の田中麗奈さんだと思うんですね。深キョンのなっちゃんとか堀北真希さんのなっちゃんとかもいるんですけども、あまり皆覚えていなくて、田中麗奈のなっちゃんしか覚えていないとなるとやっぱり、インパクトがあったのかなぁと思います。

 ちょうどその「なっちゃん」が放映されている時に、「玩具修理者」の話がきて。でも、原作者って皆さんが思ってるほど大事にされていないんですね、映画撮る時に。ほとんど無視されている状況で(笑)いっぺん監督がきて、監督とプロデューサーですよね、「今度小林さんの映画撮らせてください」「はいわかりました」、「また連絡しますので」って言われて、そのまま一年以上連絡がこない。ぽしゃったのかな、と思ったんです。だいたい映画化の話ってぽしゃるんですよね。僕の場合、映画化させてくださいっていう話だけなら十本以上きてるんですけども、それがなくなる時、「ああ、すいませんなくなります」とは言わないんですよね。一年も二年もほっといて、そのまま、という状況なので。まあこれも消えたのかな、と思ってたら、編集さんから電話がきまして、「玩具修理者の話なんですけども」「ああ、あれもうないんでしょう?」って言ったら、「いやもう撮影に入っているそうなので」「えっ、もう撮影入ってるんですか」と言って。「ちょっと撮影見に行きたいので、段取りしてもらえませんか」って言ったら、「いや、もう撮影明日で終わるっていう話なので、もう無理だと思います」、「いったい主演は誰なんですか」「主演は田中麗奈ですけども」っていう話を聞いて、はじめ「田中麗奈子」とかなんとかいう田中麗奈似のAV女優か何かかな、と思ってたんですけども(笑)、ほんまの田中麗奈さんやっていうことを聞いて、「それやったら明日見に行きます、どこで撮ってるんですか」、「いや箱根で撮ってるらしいです」ってことで、箱根まで行ってきて、田中麗奈さんにサインもらって帰ってきたんです(会場笑) 

 まああの、何で田中麗奈さんかっていうのも、最初から絶対田中麗奈って決まってたわけではなくて、企画段階でいろんな女優さんを検討した結果、田中麗奈さんになったみたいなんですけども。普通はちょっと冒険だと思いますよね。アイドルの女の子に突然あの映画っていうのは。今の田中麗奈さんやったらそんなに違和感ないんですけども、当時田中麗奈さんっていうとどうやろ? っと思ったんですけども、いざ映画が完成すると、もうこの役は田中麗奈さん以外、考えられないぐらいのできでした。また、あの玩具修理者の声の出演に美輪明宏さんが出たりとか、まわりが凄くベテランの人が固めていたのもさらに良かったと思います。田中麗奈さんも、演技に新しい芽が出たんじゃないでしょうか。それまでは恋愛映画とかスポコンばっかりだったんですけども、それ以降変な映画にも出るようになってきた(会場笑)

 田中麗奈さんは『ゲゲゲの鬼太郎』で猫娘をやってますけども、僕の映画で猫娘になったのがよかったんじゃないかな、と勝手に思ってます。その後、映像化されたのはですね、『世にも奇妙な物語』の「影の国」です。これは主人公がおっさん二人なんですね、原作は。だからどんなおっさんがやるのかなと思って、これは別に見学に行く気がなかったんですけども、「配役どうなりました?」って言ったら「聞いてみます」と。「もう撮影に入ってるそうです」「主演は何という俳優がやるんですか?」って聞いたら、「桜井幸子です」って言うので、「見学に行きます」と。(会場笑) 

 桜井さん、当時は二十代で、非常にあれも、不自然ですよね。心理カウンセラーのおっさんの役が何で女の子になんねんって思うんですけど、TV的にはそっちの方が華があるということですね。これも桜井さんに会って、サインもらって帰ってきたと。そんなんばっかりですけども(笑) その後ですね、「家に棲むもの」と「食性」も映画化されました。「食性」は女優さんが二人出てくるんですよね。肉食の女の子と、草食の妻、二種類の人物が出てくるので、物凄く行きたかったんですけども、ちょっと都合で行けなくて。もう一つ「家に棲むもの」、これは若妻が出てくるということで、誰がやるのかなと思うと、伊藤裕子さんということでした。伊藤裕子さんはSMAP×SMAPのコントとか、あと「UFO男塾」のCMの保健室の先生とか、最近だと『ケータイ捜査官7』のケータイ捜査官を指揮してる女性の部長ですね。『ミラーマン』のリメイクにも出られてますよね。そういう方が出るって聞いたので、これはもう行きますってなったんですけども、その時編集さんに「忙しいので行けません」って言われたので、一人で山梨県まで行って。めちゃくちゃ遠かったですね。山梨県ってどうやって行ったらいいかわからなくて。東京から西に戻る感じで行ったんですけども。突然なんか、「原作者です」言って。「すいませんサインしてください」って言って帰ってきました。(会場笑) 

 『食性』の方は三輪ひとみさんと、里中あやちゃんっていうアイドルの女の子が出ています。三輪ひとみさんっていうのは、これはもう完全にホラーの女王として『発狂する唇』とかで賞を取られて、最近では『仮面ライダーカブト』の敵の、幹部役をされてました。普段は劇団とかで女優してるっていう変な設定の幹部で。そういう変な役が好きなのか、そういう役がまわってくるのかわからないんですけども、とても美人な方で、お会いできなかったのが非常に残念で心残りです。そういうことで、いろんなアイドルに会えるっていうのが楽しみですね(笑) 

 まあ映像化っていうのはそういうことです。あ、『玩具修理者』はまだDVDにあると思いますので、レンタルビデオ屋とかで見かけたらぜひ。場所はホラーじゃない可能性が高いですね。アイドルのところ、田中麗奈さんのところに『玩具修理者』があることが多いですね。あと『家に棲むもの』と『食性』については、Yahoo動画で三月まで公開されていると思いますし、DVDも出てます。ただ題名が食性とか家に棲むものじゃなくて、『ラブサイコ』という題名です。『ラブサイコ』は三巻出てまして、わたしの原作が入っているのはそのうち二つです。「妖赤のホラー」と「狂惑のホラー」という副題です。それは多分ホラーの棚に入ってると思うんですけども。もしあったら借りて、無かったらYahoo動画で見られると良いんじゃないかなと思います。



司会:

 ありがとうございました。僕の見た『玩具修理者』はちゃんと、ホラーのところにありました。それでは次の質問です。

 小林先生が今まで読んだ中で、一番怖いと思ったホラー小説は何でしょうか?



先生:

 僕はあまり、小説を読んで怖いと思うことがないんですね。例えばTVとか見てても、お化け屋敷的にうわっと出てくるのは怖いんですけども、小説読んでこれは怖いなぁ、っていうのはあんまりなくて。自分の作品でも怖いかなー、これ? とか思いながら書いてます。怖がるっていうのは一つの才能みたいで、ミステリ作家の綾辻行人さんなんかは、怖がる才能があるんですね。綾辻さんが凄く怖いって言う作品を読んでも全然怖くない。僕だけ怖くないのかな、と思って同じミステリ作家の我孫子武丸さんに「これって怖いですか?」って言ったら「僕も怖いのわからない」って言われて。結局ホラーも、怖がるのも才能かなと思ったんですけども、怖いかどうかは別にして、非常に、昔読んで、これは面白いなって思ったのが、もう三十年以上前に読んだんですけども、『地球最後の男』っていうリチャード・マシスンの長篇で、最近『アイアムレジェンド』っていう題名でリメイクされています。自分だけ残して、世の中皆が吸血鬼になってしまう話なんですね。何が面白いかっていうと、普通のホラーと状況的に逆なんですね。誰か町の中に一人吸血鬼が混ざってるんじゃなくて、世の中全員吸血鬼になってしまってて、自分だけが違うと。それで何をするかっていうと、一人で吸血鬼ハンターになるんですね。誰を助けるってわけでもないんですけども、昼になると家から抜け出して、そこらの家を探しまわって棺桶を探す。棺桶が見つかると、それを引きずり出して太陽の下にばぁっと開けて、吸血鬼を殺す、という日々を送って、晩になると屋敷に逃げ込む。屋敷の周りには十字架とか鏡、にんにくとかいっぱい吊ってあって、吸血鬼が入れなくなるようにしてある。晩になると吸血鬼が家の周りを取り囲んで出てこい出てこい言うんだけども、出て行かずに縮こまって丸く小さくなっている。日が昇るとまた外に出て行って、吸血鬼を殺しまくるっていう話です。子供のときに読んで、非常に面白いなと。こういう状況の逆転っていうか、発想の逆転っていうか。面白いなと。そんなに怖くはないんですけども面白かったな、と思います。

 短篇ですと、アイディア、イメージが強烈なのが怖いなと思うのがあって。筒井康隆さんの「母子像」っていう作品があるんですけども、最近の短篇集、全集が出てるんでどれかに入ってると思うんですけども、主人公と妻と子供がいると。ある屋敷に住むんだけども、その屋敷で白い人形、猿かなんかの人形ですね、それで遊んでいて、その猿の人形が不思議な力を持っていて、妻と子供の体の、首から上だけが異次元に行ってしまう。体は残ってて、生きている。死んでないんですね、生きている状態で首がないという状況になっている。でも意識はあるし、子供を抱いてあやしている、ただ首から上はどこか違う世界に行ってしまっている。言葉を話すこともできないんだけども、子供と妻を抱きしめて安心したらええよ、と伝えるけども、妻と子供の首はどこにあるかわからない。一度だけ、遠くの霧の中に二人の首が浮かんでいる様子が見えた、それが母子像のように見えたっていう話なんですけども、これってよく考えると怖い話で、そこにいるのに助けられないっていうもどかしい怖さですね。そういう恐怖っていうのは、お化け屋敷的な怖さではなくて心情的に、愛する者がここにいるのにその一部だけがどこかに行ってしまっているという状況が非常に怖いなと思いました。そうですね、他にもいくつかあるんですけども、今思いつくのはそういうところです。



司会:

 ありがとうございました。

 それでは次の質問です。私は先生の作品の中でも、読み終わった後に自分という存在が不安定になる、世界や自己に対する認識の基盤が揺らいでしまう、そんな作品が好きです。先生が作品を書き、物語を突き詰めて行く上で、先生ご自身が不安定な感覚にとらわれることはないのでしょうか? あるいは、読者が作品からどのような影響を受けるか、すべて予測し計算した上で物語を作られているのでしょうか?



 先生:

 まあホラーとかSFかっていうと、どうもそういう話ばかりなのですけど、ただまあ、完全に計算しているかというと、そうではないですね。僕の書く基準は、自分が書いて面白いかどうかですね。面白いかどうかということが基準で、それで不安にさせてやろうという計算はあまりないですね。だから、読んでいて不安になるとしたら多分それは、心のどこかにそのテーマにひっかかりがあるんじゃないかと思います。私自身が書いていて不安になるかというと、全然ならないですね。

 例えば自分以外の人が全部人間ではないのではないかとか、この世界が実は偽物の世界なんじゃないかとかいうものは、子供の頃は誰でも感じた感覚だと思うんですね。あるいは、家の中に幽霊がいるんじゃないかとか、あとは夜中、カーテンの向こうに怪物がいるんではないかとか、なにか音がすると家の中に殺人鬼が忍びこんだんちゃうか、とかそういう不安というのは子供の心にいっぱいある不安だと思います。で、大人になってくるとどんどん消えてくるわけですね。あの、子供の心ってものすごく訳の分からないものなんですけれども、大人になると別に夜中に一人で暗い道を通っても何ともないんですね。それは多分、大人になることによってのメリットですね。恐いもの、恐怖を感じなくなるメリットなんですけれども、ある意味失ったものもあるのかなと思います。で、そういう感覚を大切にして、なるべく作品に生かしたいと思うんで、そういう世界の不安定さというのをテーマにすることはあります。かといって書いてるときに自分が不安かっていうと全然不安じゃないんで、なんというんですかね、その不安定さを自分は感じないけれども、作品に込めていくというのも作家としての技術の一つかなと最近思っています。



司会:

 ありがとうございます。それではすこし先の質問で関連しているものを選ばさせていただきたいと思います。質問の十八を選ばさせていただきます。

 小林先生の作品には架空世界、上位階層について触れたものがあります。そこで質問なのですが、例えば作品の執筆などをされている時、作中の人物がまるで自分を認識しているかのような感覚に陥ったことはありますか?



先生:

 まあ、もしそういった類のことがあったらそれは一つのホラーなんですけれども(笑)、基本的には全然そういう感想はないです。作品のキャラクターというのは完全に自分の中から出てきたものですから、自分の意志に反して勝手に行動したりは絶対しないわけです。

 ただなんと言うんですかね、一般的な話として一番近いイメージとしていうと夢の中の登場人物がいますね。夢の中の登場人物は、当然それはそこに本当はいないわけですね。夢には色んな人が出てきて、実在の人だとしても、その実在の人とは関係ないわけです。頭のなかに自分の恋人が現れても、実在の恋人とは違うんですね。夢の中の恋人の喋ったことは、実在の恋人の喋ったこととなんの関係もないわけです。ところが、夢の中の登場人物ってのは色々行動するんです。歩いたり、喋ったりする。で、誰喋っているの? という疑問は持ったことないですか、皆さん。夢の中で誰かが私に何か言っていると、それを言っているのは、誰が言っているのかということですね。夢の中の登場人物には意識がないはずなのに喋っている。喋っていることは、実は自分が考えていることなんです。自分が考えているんだけれども、あたかも自分が考えているんじゃなくて、誰かが喋っているように感じると。

 で、小説書くときにも、ノっているときの状態はそれに近いですね。どんどん、頭の中で主人公達が喋り出す、動き出すという状況にあって、それを描写していくというのに近い状況なんです。だからといって、それが勝手に自分の意志とは全然違うことを決めるかというとそうではなくて、ある物語の筋道が頭にあると、一応それに沿って頭の中で話が展開していく。それが、自動的に展開していくような感じになるわけですね。それを小説に、文章に起こしていくということなんです。それは、所謂登場人物の一人歩き、キャラクターの一人歩きというイメージに近いのかなと思いますね。ただ、一人歩きしてくれたら楽なんですけれども、そうならないときもあって、無理矢理に動かすということが結構ありますね。僕はあんまり登場人物に愛着を持つことがないんで、動いてくれないのかなあなんて思いますけど。



司会:

 ありがとうございました。では次の質問です。

 小林先生は兼業の作家としてご活躍されていますが、会社でのお仕事と小説家としてのお仕事、割かれている時間の比率と労力の比率は、それぞれどのくらいのものなのでしょうか? 差し支えない範囲でお教えください。



先生:

 もうホントに正直に言いますと、会社の仕事の方が十倍しんどいということですね。時間も多分十倍ぐらい掛けてると思うんですけど、なんでしんどいかっていうと、やっぱり全部自分だけの判断で出来ないからですね。チームワークは得意な人と不得意な人がいると思うんですけれど、やっぱり自分の意志で動いていないところってのは、ストレスが高いですね。誰かにこれこれの報告書を書けと言われて書くのと、自分で書きたいものを書くのでは全然モチベーションが違うということがあります。あと、時間配分とかが自由に出来ますからね。会社では、体調が悪いなあと思って、二時間昼寝してから仕事の続きしようかなというのはあり得ないわけですよね。会社はもう時間決まってまして、昼飯の時以外の時には、コーヒーの休憩入れてもいいなんて会社もあるとはおもいますけど、基本的には時間いっぱい働くということで、当然自分の頭の中や、心や体の波というのが無視されるわけですね。一定時間。ここで始めて、ここで止めましょうと。

 それに対して、自分で小説書く時っていうのは、ちょっと今しんどいというときは、二時間昼寝してから書こうかなとかいうのもOKなわけですね。始めるのも、今日は朝乗らんから昼から書こうかなとか、あるいはもう今日はもう乗らんから休みにしようというのも自由にできるわけですね。休むことばかりいってますけど。

 それから書くときには、それはもう躊躇せずにバッと書けるということですね。会社じゃあり得ないですよね。朝来て、九時から十時半までの一時間半で今日一日の仕事が終わったんで帰ります。そういうのが許される職場もあるかもしれないですけど、一般的には許されないです。どんだけ集中して一気に仕事を片付けても、帰れないわけです。ところが、小説の場合はそれが出来るんですね。二時間で、十日分の仕事をしたから来週はさぼろう、そういうのも出来るわけなんで、自分の都合に合わせて時間を自由に調整できるということで、効率的に動ける。そういうこともあって、僕の場合は平均して年一冊ぐらいのペースでは書けるということです。僕が年一冊ということは、五百枚ぐらいですね。ページ数にしたら二百ページから三百ページぐらいは書けると。一年で本一冊というのは凄いなと思われる方もいると思うんですけれども、一日に一ページ書いたら本は出ますんで、そんなに難しいことでもないです。



司会:

 ありがとうございました。次の質問に移らさせていただきます。

 小林先生の作品には多くの個性的な登場人物が出てきますが、そのような登場人物を考えるときはその登場人物のどのようなところから考え始めるのでしょうか?



先生:

 個性的な登場人物が居るといわれるんですけれども、実はキャラクターから入っていくという話はあまりないんですね。大体ストーリーから入っていって、ストーリーにそって登場人物が決まっていくということで、今回はこんな変なやつを出してやろうと思うつもりはあんまりなくて、どっちかというと書き始めは、できるだけ無個性な記号のような人物で始めるんですけれども、書いているうちにさっき言ったようなキャラクターの一人歩きがあると、どんどん変なことを始めてくれるということで、そういったものが出てくるということはあります。

 僕の場合はキャラクターを書くときに愛着を持っていないんで、名前を適当に付けるという癖があって、新人の頃変な名前を付けたら編集者さんにごっつ怒られるということがありました。「こんな名前のやつおらんよ」とか言われるんですけれども、あんまり普通の名前を付けてしまうと、自分でも登場人物の名前忘れるぐらい愛着がないんで、途中で名前変わってしまったりとかたまにあるんですね。変わってしまうというのは、自動的に変えちゃうんじゃなくて、こいつ名前なんやったっけなあと思って、適当な名前をもう一遍、確かこの名前やったと思って書いたら、後で見返すと途中から名前変わってるということがあるんです。これは作者がどんだけ愛着持ってないかということなんですけれども(笑)だから僕、なるべく名前忘れないように変な名前付けたいんです。変な名前付けると忘れないんで。で、最近は変な名前付けるやつと思われているんで、割と変な名前でもOK出してもらったりするんですけれども。だからそうですね、キャラクターを作ろうっていうんじゃなくて、ストーリー書いているうちに変なキャラクターに変わっていくということだと思うんですね。例えば『玩具修理者』だと、初めにイメージしたのが、どっかの四畳半の部屋で部品から人間を作り上げるという状況。それに対してどういうストーリーだったらそのシーンに無理なく繋がっていくかなと持って行ってストーリーを考えて、最後にキャラクターを男にしようか、女にしようか考えて、喋らせ始めると変なことを始めてくれると、キャラクターとしては良くなっていく。でまあ、たまには別に変なことをせずに終わってしまうということもあると、そういうときにはキャラクター的には立っていない場合もあるんですけれど、ストーリーとして面白かったらそれでいいかなという感じで書いています。



先生:

 ありがとうございました。

 それでは今のキャラクターに関する質問に関連しまして、十一番、ご自身の作品の登場人物の中で、一番気に入っているのは誰でしょうか?また作品の登場人物の中で、多分いないとは思うのですが、誰が一番自分に似ていると思われますか?



先生:

 そうですね。キャラクターというのはどれも自分の分身なんですね。自分の中に完全にないものを書くというのは出来ないもので、自分の中にいるものを取り出して増幅させて書いていくということです。どれも愛着がないといえばないし、好きやといえば好きなんですけれども、特に好きか嫌いかでいうと、結構私理屈っぽい人間なんで、理屈言いのキャラクターってのが好きなんですね。だから、『モザイク事件帳』に登場する人っていうのは基本的に理屈が好きですから、『モザイク事件帳』の登場人物は好きですね。

 あと、キャラクター的に好きなのはといわれると『ネフィリム』という作品に出てくるランドルフっていうおっさんなんですけれども、ヒーローとはなにかっていうところを考えてつくったやつで、前に『ΑΩ』というやつを書いたときに、あまりヒーローらしくないやつが主人公で、でも結局ヒーロー的な行動をするっていう話にしたんですけれども、それでなく正統的なヒーローってどうかなと思いまして、最初からヒーローとしての行動をするおっさんを書こうと思っていたのが書いたのがランドルフっていうキャラクターです。彼は非常にヒロイックな人物で、多分ハリウッドで映画化するとしたらハリソン・フォードかシルベスタ・スタローンかブルース・ウィリスかなんかそのあたりだと思うんですけれども(笑)、そんな感じの格好いいおっさんなんで、これはかなり気に入って書いたものです。

 その他というとヌチャっとしたキャラクター、「影の国」の王とか、玩具修理者とか、本になってないんですけれど、百舌鳥魔先生(短編「百舌鳥魔先生のアトリエ」の登場人物)とかその辺も、ヌチャっとしたキャラクターなんで気に入っています。





先生:

 ありがとうございました。それでは次の質問です。

 最近お読みになられた本のうち、気に入ったものなどあればお教えください。



先生:

 あの、作家になって何が一番嫌かというと、時間がなくなるということですね。本が読めなくなってしまいました。本を百冊読む時間を掛けても、本を一冊書けないですね。だから、百倍以上書く方が時間がかかるということで、今小説を書いてる時間を昔はほぼ本を読むのに費やしてたわけですから、少なくとも百冊以上年間に本が読めなくなっていると。で、百冊も本が読めなくなって、最近の本といわれるとほとんど読んでないわけです。

 最近どういうものを読んでるかって言われると、二、三年前、もう今は終わったんですけれども、SF新人賞の選考委員をやっている時期がありまして、この時は最終選考作品がダンボール箱に入れてドンと送ってくるわけですね。で、これは本数にして七本とかバンと送ってくるんですね。短編を七本読むというのは一日で出来るんですけれども、これがごっつい長編が七本出てきたりして。で、新人賞に送られる方というのは長ければ長いほどいいと思われてる節があって、応募規定いっぱいの長さの作品が殆どなんですね。でも、実際は応募規定が二百枚から五百枚というのだったら、二百五十枚あたりが、選考委員は一番喜びます。二百十枚でも良いです。下手したらもう二百枚以下でも怒らないと思うんです、短い分には(笑)

 なんでかって言うと、小説を読むというのは時間を取られるんです。しかもそれ、自分で買った本じゃないんですね。これは賞取らせるかどうかを判断してくださいということで読むわけですから、面白くない場合もあるわけですね。賞を取るに値しない作品である場合もあるので、非常に読むのが辛い場合もあります。ストーリーに読ませる力がなくて、なおかつアイディアがしょうもないというのも当然あるわけで、そういうのも含めて七本ですから、読書がこんなに辛いものかと思うぐらい辛いものだったんですけれども、でもまあ自分自身もそういう賞でデビューさせてもらったという恩返しの意味もあるんで、面白くないと思っても、きっちり最後まで読んで判断しようと思って頑張って読んだわけです。最近読んだのはほとんどそういうので、最近読んだ本と言われると困ってしまうわけです。けれど、過去に読んだ本でも良いというなら、ちょっと古い作品になるんですけれどもやっぱり、筒井康隆さんとか星新一さんとか、その辺の作品って、ちょっと違うな、面白いなと思います。

 海外の作品で行きますと、古いSFが好きなんで、ニーブンとかアシモフとか、あとE・E・スミスとか、フィリップ・K・ディックとかあとまあ、最近あまり本が出てないと思うんですけれども、フィリップ・ホセ・ファーマーとか好きですね。ファーマーとかは、一つの世界を、宇宙のどっかの星というわけではなくて、全然この世界とは違う物理法則に則った星、いわゆる世界ですね。それが出てきて面白いんです。この人の有名な階層宇宙という世界(『階層宇宙』シリーズ)があって、なんて言うんですかね、デコレーションケーキみたいに世界がこう、大陸の上に大陸が乗っかっている世界というものがあって、大陸ごとに王国があって、登っていくと上と下は断崖絶壁で繋がっていて、上と下の世界は全然交渉がないという階層宇宙というシリーズが僕大好きなんですけれども、最近はもうないんです。どっかの古本屋を探せば見つかるんではないと思うんですけれども。あと、SF外の作品で言うと、ミヒャエル・エンデの、映画版でいうと『ネバーエンディングストーリー』——『果てしない物語』なんですけれども、それも映画とは全然違う様な展開があって面白いですし、『鏡のなかの鏡—迷宮 —』という短編集もミヒャエル・エンデにあるんですけれども、これなんかもホラーといっても良いような短編がたくさんあって、あとは時間もので『モモと時間泥棒』ですね。その辺も結構おもしろいんじゃないかなと思います。

 あと、皆さん読まれるんでしたら、さっきちょっと僕が仏教やキリスト教の話をしたんですけれども、若い頃は読む本がSFもいっぱい読んで面白いなあと思ったんで、あと何かないかと思って、そういう神話系の本も沢山読んだので、もし興味があって、SF的なものをやっていて、もっと変な話を読みたいと思うと、そういう神話的なものを読むと面白いかもしれませんね。SFができたのは、今から百年ちょっと前ぐらいからなんですけれども、それ以前のSF作家は何してたんやと思うと、多分お経書いたり、神話書いたり、落語書いたりしてたのではないかと思います。だから、落語とかそういった作品にもSF的な要素、ミステリ的な要素がいっぱいはいって面白いんで、もし興味があったらそういうのも読まれたらどうかなという風に思います。





先生:

 ありがとうございました。それでは次の質問に移ります。

 「玩具修理者」でデビューする以前も小説を書かれていたのでしょうか。書かれていたのなら、それはどのような小説だったのでしょうか。



 

先生:

 ええとね、『玩具修理者』は商業作品として初めてなんですけれども、それ以外に書いてたかというと、別に同人誌に書いていたわけでもなくて、ホントに高校生から大学生ぐらいの間に、自分だけのためにノートに、当時はワープロとかなかったんで、手書きでノートに書いた短編があります。ほとんど未完で、ちゃんとした形になっている本とかはなくて、大体SF作品とか、ちょっとホラーの入った作品を書いていたんです。それは高校生とか大学生が書いたもので、見せられるものではないんですが、アイディアとしてはいくつか現在の作品に入っているものもあります。そういうことをやっていたのが二十ぐらいまでで、『玩具修理者』を書いたのがそれから十年後ぐらいですかね、三十一歳か二歳ぐらいのときに書いたので、完全に十年間ぐらいブランクがあったんですね。だから学生時代に書いていたものと連続していたのかというと、連続して形が出来てきたのではなく、自分でもその形成過程というものはよく分からないんです。例えばこれを僕の過去の作品と並べてみても、作風が形成されていったという痕跡は多分ないと思います。

 なんでじゃあ、急に書き始めたかというと、これは僕のどれかの本に書いてあると思うんですが、自分が書こうと思ったんじゃなくて、家内が書けと言うてできたんですね。なんでかって言うと、「家を買いたいな」と家内が言い出して、そんなん貯金がこんなんだから無理やでと言うたら、「いや大丈夫や。私がちゃんと金儲けの方法は考えてある」と。で、どうすんのって言ったら、ホラー文庫のチラシを出してきて、「ほらここにホラー大賞募集ってかいてあるやん、これとったら」といわれたんで (会場笑)

 それとったらって、そんなん誰が? って言うた時に、「私が」って言うたんですね、家内が。ああ、書けんのやと思ってじゃあ書いてみいということになりました。何週間か経って、それからどうなったって聞いたら、「書いてへん」と言うわけですね。で、書いてへんと言うても、もう締め切りってあと一週間ぐらいしかないやん、どうすんの? と言ったら、「大丈夫、私には考えがある」と。で、考えっていうても、書かれへんもんは書かれへんやろと言うたら、「あんたが書いたらいい」と言われたんで、(会場笑)じゃあちょっと書くわって言って、四日ぐらい頑張って書いて出したのが『玩具修理者』ということになります。

 だからまあ、あんまり覚えてないんですけれども(笑)、そんなに自分が書くことを固めていって書いたってわけじゃなくて、明日書けって言われて慌てて書いた感じなんです。自分でも自分の作品がどうやって形成されたのか分からないんで、誰かが分析してくれたらええなあと思っているんですけれども(笑)、そういう感じであまり過去の作品というのはないです。





先生:

 ありがとうございました。この会場の多くの人が先生の奥様には感謝していると思います。

それでは次の質問です。ご自身の作品の中で、特に気に入っているもの、印象深いものなどを教えてください。



先生:

 そうですね。どれも好きなんです。書いているときは自分で面白いと思って書いているんで、嫌いな作品というのはあまりないんですね。どれもこれは面白いんで、是非みんなに読んで欲しいと思いながら書いてるし、例えば雑誌とかに載ると、そのときは出てるわけですけれども、雑誌というのはひと月かふた月でなくなってしまうので、無くなってしまうと読んでもらえなくなるので非常に寂しいなあと思って、早く短編集に入らないかなあと思っているぐらいなんです。

 まあだから、印象深いという意味で言うとやっぱり最初の『玩具修理者』ですね。これが雑誌に載ったわけですね。ホラー大賞短編賞を取りましたと。で、雑誌載ったら、嬉しいなあ、俺も作家やなあとその時は思ったんですけれども、「野生時代」という角川書店の雑誌に載ったんですけれど、雑誌が出ている間は自慢も出来るわけですね。ここに僕の小説が載っているんだと言えるんですけど、ひと月ほど過ぎてしまうと完全に本屋から無くなってしまうわけです。まあ取り寄せたら取り寄せられるんですけれども、普通の人はそんな取り寄せてまで買わないですから、本屋でなくなってしまうと自分が作家やって言う証拠は何もないわけです。

 さっきも言いましたけれど、いっぱいそれまでに小説を書いている人ならば、「玩具修理者」でもし取ったとしても、これとこれとこれを見てくださいと見せて、短編集一本というのは可能だと思うんですけれども、僕の場合いきなり一週間で書いたんで、ストックがまったく無いわけですね。賞取ってから慌てて書き始めた訳ですから、短編集が出るまで一年ぐらいかかったんです。その間はほんまに本が出るのかなあというドキドキ感があったんで、本が出るときはもの凄く嬉しいという気持ちがありました。一緒に賞取った瀬名秀明さんなんかはもう、受賞式の時に本が山積みになってましたから、これはもう絶対作家としての実態があるわけですね。それに対して僕の本はまだ形になってないという状況が一年間あったわけで、その後で本が出たというのがもの凄く嬉しかったという記憶はありますね。

 後は短編をしばらく書いた後で、初めての長編ということで『密室・殺人』というミステリーを書いたんですけれど、これも印象が深いですね。これ最初長編にするつもりはなくて、短編のつもりだったんですけれど、書いてるうちにどんどん乗ってきて、話が長くなって長編になったんです。これも長編書こうと思って書いたんではないというところから言うと、小説書く人にとってはあまり良い例ではないと思うんですけれども、長編小説自分でも書けるんやと思った作品でした。しかも、ミステリーなのにホラー文庫から出たという点で印象深い作品ですね。ホラー書いてくださいと言われて、ミステリー書いてもええんやっていうことで。

 その次に印象深いというのはやっぱり『ΑΩ』です。これはもう始めから計画的に、今度はSF書こうと思ってまして、「小林さん、ちょっと今回はホラーの方でお願いします」って言われて、はい分かりましたと言ってSF長編書いて出したら、ホラー文庫から出たということで、ホラー文庫からでもええんやなあと。(会場笑)

 初めに言ったようにホラー風の味付けさえあれば、多分なんでもホラーで通るということが分かったんで、それが分かったということでも非常に印象深い作品ですね。あの、もし皆さんホラー作家になるんやったら、とりあえず書いた作品はホラーですっていって渡せば受け取られると思います。

(会場笑)





司会:

 ありがとうございました。それでは最後の質問です。

 作家を目指している人間にアドバイスをお願いします。また、小林先生は大阪大学基礎工学部卒ということで理系の学生だったということですが、理系の学生で作家を目指しているような場合に特に気を付けるべき点、考えなければならない点があれば教えてください。





先生:

 そうですね。作家目指してる方ってこの中におられますか。

(何人か手が上がる)

 おお、結構おられますね。数人ですか。

 まず、なんのために作家になるかという話があって、一番駄目なパターンがお金儲けしたいから作家になるというパターンです。なんでこれは駄目かって言うと、作家になっても基本的にはお金儲け出来ないからです。えー、そんなはずない。ベストセラー作家というのがテレビに出て大金持ちやでって思うかもしれないんですけれど、作家の数、分母に比べてベストセラー作家というのはもの凄く少ないですね。作家というのは多分、数千人から数万人単位でいるんですけれども、一千万以上の収入というと多分、十人かそれぐらいの人数しかいないんじゃないかなと。もっと少ないかもしれません。で、何とか作家一本で食っていけるのになるのも数百人ぐらいかなという感じで。いや、無茶苦茶儲かってる人もいるじゃないかというんですけれども、それで言うとサラリーマンだとしても社長になれば無茶苦茶儲かる訳ですから。作家を出発点とするかサラリーマンを出発点にするかして、年収一千万どちらが確率高いかって言うと明らかにサラリーマンの方が大きいんで、お金儲けの為やったらやっぱりサラリーマンが一番いいわけですね。

 お金儲けじゃなくて、じゃあなんで作家になるのって言うと、基本的にはどういう人が作家になっていくのかというと、作家以外では生きていかれないという人が作家になるべきなんです。本を書く以外に俺はどうしようもないんや、面白い話は思いつくけれども、それ以外の仕事はなにやらしてもものにならんという人は是非作家になるべきだと思います。そういう人がいたとして、どうしたら作家になれるかというと、やっぱり素質がある程度いりますね。どんな素質かというと、常に上の空であるということが重要です。(会場笑)

 僕も子供の時からそうなんですけれども、すぐぼーっとしてしまうんですね。授業中とかもほとんど授業は聞いていないですね。ずっーとこう窓の外見て、あそこに怪獣いたらどうなるかなあとか、宇宙人が空から降りてきたらどうやって逃げたらいいかなあとか、あとは心霊写真とか見てこれは顔に見えるけれども、これもひっくり返したら顔に見えるなあとか。(会場笑)そういうことずっと授業中考えて、授業が面白くないから現実逃避。あ、分からないんじゃないんですよ、授業が分からないということではなくて、つまらないと。で、先生が何か言うてるわけやけど、別にそれここに書いてあるからここを読むだけですむやん、でこれは授業始まったら一分ぐらいで読み終わってしまうわけです。別に頭が良かったとかではなくて、読んだら終わりなわけですよね、それを先生が一時間かけて説明してるのを聞いても詰まらんと。だからずっと空想してましたね、上の空で。そういう自分の特性というのは幼稚園ぐらいの頃から気づいて、頭の中で映画が始まったり、アニメが始まったりするというのは、どうやらみんなそうじゃないみたいだなと。で、なるべく人にばれないように、ぼーっとしてないふりをするという、癖というか意図的なものですが、が出てきたんですね。でもつい頭の中の登場人物の言葉が出てきてしまったりするんですね。そういうとき、どうやってごまかそうかなというものを幼稚園ぐらいの時既に考えていました。で、そういう風な脳内劇場がある人は、作家としての素質があるんじゃないかと思います。

 次の段階ですね。素質があったとして、それを伸ばしていくにはどうすればいいかというと、やっぱりそれは本をたくさん読むことですね。社会人になると本を年間百冊というのはちょっと難しいと思うんですけれども、学生さんの頃やったら日に一冊ぐらい、ないしは忙しい人でも二、三日に一冊ぐらいは読めると思うんで、年間百冊以上は学生さんの頃には読んだ方がいいんじゃないかと思います。色んな本を読めば小説の書き方というものも段々分かってきて、例えば小説の書き方を人に聞いてもその人の書き方なわけですね。でも、本を百冊も読めば自ずと自分なりの小説の書き方が分かってくると思います。だから、とりあえず小説家になりたい方は山ほど本を読んでください。それは、自分の好きな分野も読むんですけれども、自分の好きじゃない分野も買って読むと。そうすれば、自ずから自分の方向性というものが見えてくると思います。



 理系と文系というのは、受験用語なんですね。実は、大学に入って僕らが学ぶことって全部科学なんですよ。社会科学であり、人文科学であると。自然科学だけが科学って訳じゃなくて、全部科学なんですよ。科学的な方法でやるのが学問であると。だから理系とか文系とか本来無いはずなんですけれども、どっちかというと数学が不得意な人が文系で、英語が不得意な人が理系に行くというふうに分けられてしまうんで、自分は理系やと思いこむというところはあると思います。で、なぜか一般の方は自分のことを文系だと思っている確率が非常に高いものでして、理系の人はこんなに変やって笑うために時々取り上げられるんですね。ノーベル賞とか取ると、大体理系の人が取る場合が多いんで、こんな変なことしてるというんでテレビで笑おうというものがあって。田中耕一さんという方が数年前に取られたときには、非常に行動が奇妙やというんで取り上げられたりしたんですけれども、アレは理系やから変ということではなくて、ノーベル賞を取るぐらいの人は大体変なんですよね。日常生活にこう頭がいかない人しか、多分ノーベル賞を取れないんで。それは理系というところとはまた別だと思うんですけれども。

 作家で理系って不利か有利かで言うと、あんまり関係ないような気がします。統計取ったわけじゃないんですけれども、理系と文系で作家になる確率ってほとんど変わらないんじゃないかと思います。人数的には文系の方が多いとは思うんですけれども、理系学部と文系学部というのは人数的に言うと、文系学部の方が遥かに多いので、普通に文系学部出身の作家の方が増えてくるわけです。理系作家というのは僕を含めて堀晃さんとか北野勇作さんとか、古くは手塚治虫さんとかいくらでもいるわけですよね。でも、何故か理系は作家にならないという思いこみがあって、それを意図的に利用して、理系の作家やというて出版者がことさらに強調する場合もあります。

 そういえば、最近の作家で言うと東野圭吾さんも理系出身ですね。まあ、「ガリレオ」とか書いてるところは理系出身ならでは、と言えるかもしれないですけれども。後はまあ、瀬名秀明さんが理系作家誕生という感じで出られた。あれは、理系は作家にならないという「常識」を世の中の人が持っているのを逆利用して、理系なのに作家になったと言うたんですけれども、理系の作家と言うのは実際には珍しくないんで、あの売り出し方も一ぺんしか使えないかなと思います。理系の方がこの中におられて作家になりたいという場合には、逆に理系と言わない方が良いんじゃないかなと思います。理系と言っちゃうと、内容が難しいんちゃうかとか勝手に思いこまれて、逆に敬遠されてしまう可能性もありますんで。瀬名秀明さんみたいに上手く理系であることが生かせればいいのですが。同時にデビューしたのに、僕は誰にも理系と言われなかったんですね。僕が理系だということに、誰も気付かなかったんでしょう。





先生:

 ありがとうございました。事前に募集した質問が終了したため、これより会場の皆様から、質問をお受けしたいと思います。小林先生に質問のある方、挙手お願いします。



質問者:

 質問なんですけれども、自分の中でこうなったら面白くなるんではないかという、自分なりのパターンというものはお持ちですか?



先生:

 それは難しいんですけれども、大きな意味でのパターンというものはありますね。こうなったら面白いんじゃないかというものはありますけれども、ただ、それはあまりに当たり前すぎたら逆に面白くないので、スッと思いつくようなものは逆に、そんなんやめとこと思ってしまうことが多いですね。すんなり行かない方が、例えば『玩具修理者』にしても、最初に思った展開は、修理した弟が帰ってきて、その弟が変なことを始めると。不気味なことをするようにしようかと思ったんですけれども、それでは普通のホラーだから面白くないなと思って、そうではないと。不気味な弟ではなくて、怪談話みたいな「お前や!」っていう終わり方の方が面白いんちゃうかなと思って、書いたということですね。だから、大きな流れとしては期待を裏切るというのがあって、それは大きなパターンとしてはあるんですけれども、それ以外の細かい場合はケースバイケースでそのときに考えるということです。



質問者:

 もう一つよろしいですか。先ほど『異形コレクション』のお話がありましたけれども、あそこに何人か作品を載せてる方がおられますが、そこに掲載されてる方とは結構関係をお持ちですか?



先生:

 『異形コレクション』に載ることは多くて、何人かは知り合いですけれども、全員知ってるかというとほとんど知らないですね。ホラーの短編を発表する場っていうのは『異形コレクション』が一番メインです。他の文芸誌もあるんですけれども、例えばSFやミステリーだと専門誌があるんですけれども、ホラーは、ホラー小説特集はあるんですけれども、ホラーの専門誌というのはあまりなくて、そういう意味では『異形コレクション』がホラーの専門誌的な役割を日本で今果たしていると思います。仲良しの仲間の作品だけを載せるという感じではなくて、編集長である井上雅彦さんがなるべく世の中から広くホラー作家の作品を載せていこうという方針でやられてます。なので、逆に知らない方が載っている場合がほとんどです。



質問者:

 基礎工学部をご卒業されたとお聞きしました。「ジャンク」や「人獣細工」では人間の臓器や遺伝子について細かく描写されていましたが、それらは大学でお学びになられたのでしょうか? それとも、小説を書くに当たって改めて文献などをお読みになられたのでしょうか?



 先生:

 大学は基礎工学部で、電気工学科なんですね。理系の人間のもっている電気のイメージと、文系の人間のもっている電気のイメージはちょっと違うと思うんですけれども、所謂電気的な電気ではなくて、やってることは電子工学だったんです。けれども、多分一般の文系の方からすると電気工学と電子工学の違いはわからへんと思うんですが、私がやっていたのはテーマ的にいうとレーザー、つまり光ですね。レーザーの装置の部品に近いものをやってましたんで、あんまり遺伝子とか臓器とかは関係なかったんです。で、それを小説を書くときに勉強したかというと、そういうことではなくて、基本的にそういうことが好きなんで元々持ってた知識です。

 まあ、SF好きな人は自然にそういう知識を持っているんですけれども、テレビとか、本、雑誌とか読んで受け取る情報は同じぐらいだと思うんですけれども、SF好きな人間というのはそういうのが頭にたまっていくんですね。そういう役に立たない(笑)、お前がDNAを知って何の役に立つんやということですけれども、SF好きの人間というのはどんどん脳内にしょうもない知識が集まってきて、それが絡んできて一つの話に結びついていくことがあるんです。僕もそういう感じで、なんかホラー書けと言われて、ホラーってどんなんかなと思って、多分フランケンシュタインはホラーだよなと思いまして。フランケンシュタインというのはホラーなんですけれども、世界最初のSFとも言われてまして、人造人間の話なんで、そういうイメージから人間を部品と考えて、ロボットを組み立てていくように人間を作っていくというのだったらホラーかなと思って、書いた作品が『玩具修理者』なんです。





質問者:

 わかりました。ついでにもう一つ質問よろしいですか?

 最近新しい素粒子の発見というものがありましたけれど、その面で科学分野が発達すると思いますか? 小説に影響していくのでしょうか? 





先生:

 あの、ノーベル賞取られた方のお話ですよね。最近ではなくアレはもう四十年ぐらい前の仕事らしいんですけれども。そういう意味では『ΑΩ』はあの理論に基づいた部分が、超対称性の部分は『ΑΩ』の影の世界ですね。影というのはこの社会の物質とは相互作用しないという、そんなようなものなんですけれども、あれはその理論をちょっと使って広げた話ですね。重力とは相互作用するけれども、重力以外とは一切相互作用しないというのは超対称性から出てくる理論です。今ここで詳しく説明することは出来ませんが。





質問者:

 すみません。凄く個人的な興味から来る質問で、あまり広がりとかはないんですけれども、先生は何のお肉が一番お好きですか?(笑)



 

先生:

 これはねえ、昔は牛肉が一番好きだったんですけれども、最近は豚肉も鶏肉も好きです。魚も好きなんですけれども、どっちかというとほ乳類か鳥類の方がいいかなと思います(笑) 変わった肉も食べてみたいんですけれども、あんまり食べていないですね。あ、羊の肉も結構美味しかったです。食べた肉といったらあとは鴨とか、猪ぐらいですね。馬とかも食べたことがありますけれども、そんなに変わった味ではないなと思いますね。何肉がお好きですか?(会場笑)





質問者:

何でも結構好きなんですけれども、鶏肉が好きです。唐揚げとか好きなんで。





先生:

 あのまあ、肉繋がりでいうと、父親が昔腸の手術したことがあって、そのときにこう切り取った腸を見せてもらったことがあるんですけれども、見たときに「これ肉屋持って行って、ホルモンやって言われて出されたら、多分みんな気づかへんやろな」と思いました。人間も肉としてみれば他の動物とあんま変わらないなと。今のは何も関係ないんですけれども、それ食べたってことでもないんですけれども(笑)





質問者:

 先生は大阪大学出身ということなんですけれども、今回のこの関ミス連、大阪大学も参加しているんですけれども、先生の頃には関ミス連というか大学のミス研のようなものはあったんでしょうか。また、今回関ミス連に参加されたんですけれども、どんな印象を持たれたでしょうか?





先生:

 多分そういったものはあったんでしょうね、僕がいた頃にも。あんまりみんなで集まってワイワイやりたいタイプじゃなかったので、多分ミステリ研究会も、SF研究会もあったんだと思いますけど、一切そういうところとは関わりなく、四年間というか僕の場合はもっと過ごしたんですけれども。あと、関ミス連の印象というのは、今のここの感じということですけれども、SF関係ではSF大会というのがあって、SFファンのクラブ連合というのがあるんですが、あちらの方も結構盛んに動いていて、(比較すると)まだミステリ研の方が大人しい。よく言えば、良識人が多いなという感じがして(笑)。SF研の方は、なんやこいつ? てのがいて、それが面白いんですけれども。例えば、今見ても誰もホームズの格好をしてないでしょ。(会場笑)

 (あっちでは)いるんですよね。ダースベイダーとかが。居るわけですよ、この辺に座って。(会場笑)だから、ミステリの人はそこまで突き抜けてないかなと。また、ミステリの場合変装しても地味ですけどね。まあ、ルパンとか、ホームズとか二十面相ぐらいですかね。あ、あと金田一耕助なら分かりやすいんですけれども、他の探偵といってもあんまり分かりにくいですよね。たとえばドラマの「ガリレオ」なんかでも、普通の格好してるわけで(笑)そういう理由もあるのかもしれませんけど、ミステリ系のファンというのは落ち着いた感じがしますね。

 ホラー系のファンとだと、全然集まってこないんです。ホラー系のファンは人付き合いが嫌いという訳でもないんでしょうが。





質問者:

 京都大学SF研のものです。どうもお世話になっています。SFのファンは非常識だと言われたので(笑)、(先生の違う違うというつっこみ)、非常識ついでにお伺いしたいんですけれども、『AΩ』でウルトラマンだったり、『密室・殺人』で探偵役が○○だったりとか、なんかどうもホラーともミステリーともSFともつかないようなサブカルチャー的なアイディアとかモチーフが使われているのはどういう思いつきなのかなあと思います



先生:

 いや、思いつきというか、もう自然に。そういうのが好きなんで。最初はそういうのが無くても、書いてるうちにこんなん出したらおもろいやろな、みんな笑ってくれるやろなと思って、基本的に笑わそうという動機ですね。ここで「ヘァッ!」ってかいたら笑われるだろうなと思って書いてみるとか。

 オマージュという、ある作品が好きな場合はその作品の一部をわざと自分の作品に取り入れて、ニヤリとさせるという手法があるんですけれども、パクリとかそういうものではなくて、そこにその話を持ってこなくても成立する話にわざとそれを持ってきてニヤリとさせるものですね。で、パクリというのはその骨格自身を盗んでくることで、パクリというのはパクられた人に取っては非常に不愉快だと思うんですけれども、オマージュはパクリとは違って、持ってこられた人にとっても非常に嬉しいやろなあと。僕自身も他の作品に玩具修理者が出てくると嬉しいなと思って。『HUNTER×HUNTER』に玩具修理者が出てきたんですけれども、(会場笑)それはもの凄く嬉しかったんですけれども、そんな風な感じで、自分の好きな作品というのはちょろっと出してみたいなと思うところが一つの動機です。



質問者:

どうもありがとうございます。もう一つお伺いしたいのですが、先生の世代ですと、『ジョジョの奇妙な冒険』というよりは、『魔少年ビューティー』じゃないかなあと思っているんですが、スタンドはお好きですか?



先生:

 スタンドはみんな好きでしょう!

(会場笑)



質問者:

どうもありがとうございました。





司会:

それでは、時間の都合上、次で最後の質問とさせていただきます。

質問のある方挙手をお願いします。





質問者:

 さっきの京大SF研の方と被るんですけど、結構、先生の作品て例えば、「三百万」の「イジュギダアァァ!」とか「コォ!」とか独特な擬音がたくさんありますけれども、どうやって編み出しているんでしょうか?





先生:

 それはもう、頭の中の映像に出てきてる登場人物が叫ぶんですよね。それは、どっちかというと文字にしづらい、何いうてるか分からないぐらいの叫びなんですけれども、一応文字にした時どういう文字面にしたら気持ち悪いかなと思いながら、書いてるんです。

 例えば、「三百万」だと筋肉ムキムキの奴らが出てきて、「ウォー!」と言いながら戦うのを、ウォーでは面白くないんで、なんかこう言葉なんだけれども、訳の分からない言葉の方が面白いかなと。それはもうそのときに思いついた言葉を大体書く場合が多くて、イジュギダァと今言われても、何の言葉か分からないって自分でも思うんですけど(笑)、その書いてるときのノリで面白いなあと思ったものを大体叫ぶようにしていますね。





司会:

 ありがとうございます。

 それでは、本日の講演会はこれにて、終了とさせていただきます。

 本日はどうも、ありがとうございました。







(会場拍手)





終了

(平成20年12月7日、立命館大学衣笠キャンパス以学館3号教室にて)




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