その一からの続き
——御自身に関する評論にはどういった感想を?

法月  僕は割と影響を……。書いてあったら、「じゃあ、次はその評論に当てはまらないものを書くようにしよう」とか。

—— 法月 さんを論じる時、必ず『九尾の猫』とか引き合いにだされますけど、もうそれはやめようとか。

法月  自業自得かって気もしますけどね。いうほどこだわってるわけではないんですけど。むしろ、もっとでたらめなんだけども、その時、割と自分でそういう線を、自分で強く言ってしまったんで。それを今から展開することは、それは自分でやったらお門違いみたいな。むしろ、誰かが、他の人が「ああいう風に表向き言ってるけども、実態は全然違う」と言ってくれれば、賛成反対は別として、ホッとするという感じで。
 ただ、あの巽(昌章)さんに書いてもらったやつ(註・『本格ミステリの現在』所収の「『二』の悲劇」)は、結構あれは図星を指されたというか、あれはかなり考えさせられたんですけど。僕には「大きな図式をうまく機能させられない」という弱点があるんです。それは、どうしてもそうなってしまうんですよ。だから、多分、もしかしたら本格書くのに向いていないんではないか。一応、だから他の人の本を読む時とかっていうのは、図式は割と敏感にくるほうなんですけども、実際に自分で書くと、大きい図式を最後までひっぱるというのは、割と先に自分がウンザリしちゃって、もう三行目過ぎたぐらいからはぐらかすことばっかり考えていくので、ああいう評論が出てくるのは、その通りだな、と。でも、まあ、大きな図式ばかりがミステリの魅力じゃない、ある意味、本格っていうのは、図式をはぐらかすところにその本領があるんじゃないかとも思うことはあります。

——インターネットの書評とか見られることはありますか?

法月  たまに見ると仕事が進まなくなる(笑)。

——『頼子のために』、『一の悲劇』、『ふたたび赤い悪夢』は三部作とおっしゃられてますが。

法月  あれはですね、大概「父と子が……」とかっていう話になってしまうんですけども。あれは、本当は視点の問題ですね。実際はあまり最初から最後まで探偵役の視点に徹して書ききったものってないんですけど、『頼子のために』は一応探偵役に徹しているイメージはありますよね。それで行き詰まったところを一回ちょっと回避するために、巻き込まれ型ハードボイルドみたいな話を『一の悲劇』で書いて、その後『ふたたび赤い悪夢』、あれは読むとわかるんですけど前半は割と多視点で書いています。で、後半は(若干違う視点が入ってくるところもあるんですが)基本的には、後半は探偵の一視点。要は、あの三作は、『頼子のために』で探偵役の視点っていうものが一回破産したものが、『一の悲劇』ではそれじゃない書き方をして、『ふたたび赤い悪夢』っていうのはバラバラな多視点が再び探偵役の視点にもう一回収束して戻ってくるっていう話なんです。で、そこらへんと「父と子のなんとか」とかいうニュアンスを混ぜて三部作と言ってたんですが。まあ、本当は『頼子のために』と『ふたたび赤い悪夢』っていうのが接着力が強くて、『一の悲劇』っていうのは、ある種、まあ別枠って言っちゃえば少し語弊がありますけど、別バージョンみたいなところがある。

——短編と長編と書いててどちらのほうが書きやすいですか?

法月  これはもう圧倒的に短編ですね。短編はいくら書いても消耗するだけですが。さっきも言いましたけど、僕は図式一本ではなかなか最後まで長編をひっぱれないんですよ。どうしても、なんか、自分でずれちゃって。で、あと、枚数的に短編のほうが、最初に目指していた図式を最後まで維持できるという意味で、むしろ推理小説らしく。まあでも、短編でも当初の意図と違うものができあがっているということがあって、一概には言えないですね。ただ、長編は五年書いてないんで、書きやすくないっていうのは、間違いなくあるでしょう(笑)。

——「このミステリーがすごい」のアンケートで二百枚捨てられたとおっしゃってましたけど、あれは最初から仕切り直しというような感じなんでしょうか?

法月  最初に考えていたことがつまらないもので、どんなにがんばって書いても面白くないと思ったので、プロットを修正してもう一回一から書き直しっていうか。最初のアイデアも、捨てたわけじゃないんです。その長編というのが、なんか、今回は図式を最後まで立てないようにして書き始めたのだけれども。嫌で。もうちょっと、やっぱり、推理小説らしいものにと思って、プロット立て直したんですが、なしのつぶてになっちゃって、全然進んでないですね。


虚飾の魅惑  Zoot Allures

——俗に「キャラ萌え」とかいうのがありますよね。有栖川さんとか、篠田真由美さんとか京極夏彦さんとか言われますけど、 法月 さんはパロディ同人誌が送られてきたりとかはしますか?

法月  なんか、たまにあるみたいですけどね。やっぱり、作家によって、より萌え度の高い人とそうでない人がいて、僕はあんまりそうじゃないほうじゃないのかな。

——法月警視がよく言われますが。

法月  いや、あれは……。でも小説書いて、キャラ書いてしっかり立てて書くのは当然ですから。僕は、「あんまりキャラを書かずにやってきている」って言われます。ノウハウもないし。あと、法月警視はワトソンっぽい振る舞いをすることがありますけども、僕はとにかく、クイーン系の書き方をしてると「後期クイーン問題」とかっていうのと同じなんですが、要は、ワトソンなしに本格を書くと大変だっていうことですよ。それはハードボイルドもそうですが、要はワトソン抜きで探偵の視点をメインで書いていくっていう流派なんですよ。流派っていうと変ですけど。クイーンとかがそうですし。クイーンも基本的にワトソンがいなくって、探偵の視点で書いてる。探偵役の視点で書いてると、色々と不都合なことがあって、『一の悲劇』っていうのは、ワトソンではないけれども巻き込まれる人物の一人称で探偵が描かれるわけですけど。あれが一番落ち着きがいいんですよね。ただ、それがちょっと、あんまりやってて気持ちがよくないんですよ。だから、なるべくホームズ・ワトソン関係にならない路線の書き方をと思って。
 僕が小説家として行き詰まったのは、多分、本当の原因はそれなんです。基本的にホームズ・ワトソンをやりたくない、と。勿論、それは場面場面に応じてプロット上必要な時は、ワトソン役を使用せざるを得ないんです。やっぱり、メインは探偵の視点を維持したい。で、おそらくそこでその、キャラ萌えの場合、キャラよりも、キャラ萌えに関して言うと、ホームズ・ワトソン関係を避けていると、結果的にあまり萌えられないほうになるのではないかな、と。

——作品の映像化とか、漫画を含めたら、ありますか? 今のところでは。

法月  昔、「エンドレスナイト」という番組で、作品が映像化されたことがあります。

——何が映像化されたんですか?

法月  オリジナルの作品です。

——ああ、見たことがあります。「黒のマリア」……。

法月  じゃないんです。

——それじゃなくって、綾辻さんと……(ここでインタビュアーが言っているのは、どちらも九十四年に放映された「MIDNIGHT DREAM『真冬の夜のミステリー』」のこと。詳細は『パズル崩壊』に)。

法月  いや、それではないです。あの、法月綸太郎というのは、一度既に映像化されているんです。新本格の作家で、僕は映像化された第一号だと思うんですが。一九八九年の十二月に、「エンドレスナイト」って番組は知ってます?

——いや、知らないです。(『一の悲劇』の本編とあとがきで、一部言及がある)

法月  もう何年も前に打ち切りになっちゃったんですけど、関西テレビで土曜日の深夜に、ばんばひろふみと兵藤ゆきの司会で、素人の女の子をオーディションで集めて、いろいろやらせるという番組があったんですよ。どういうことかよくわからないんですが、なんかの間違いで、私のところに「ドラマの脚本書きませんか」って言われて。で、適当にでっち上げて、でたらめなものを書いて。なんか、一応犯人当てとか称して、問題編だけ書いて、解決編はでたらめ、もう下書きしかなくて、テレビで前後編、一週間おいてやって、それでなんか琵琶湖のロケについていって、ちょっとだけ出て、っていうやつがあります。

——それは法月綸太郎もので?

法月  そうです。

——法月綸太郎は誰がやったんですか?

法月  関西テレビの大橋雄介っていうアナウンサーの人が。解決編で長いセリフを覚えられるのが彼だけだったんです。番組自体は楽しかったし、ロケなんかもいい思い出なんですが、もう二度とTVの仕事はしない方がいいと思いました。

——漫画化を含めた映像化っていうことで、これをやってほしいというのはありますか?

法月  何度か話はあったんですが、全部途中でポシャッちゃって。映像化は完全に他人のやることだと思ってるんで。他人のものというのは、自分のものも映像化されると他人のものだと思って。割と「もう勝手にいじって、勝手にやってください」みたいな。まあ、でも無いでしょう。

——でも漫画化は結構あるかもしれませんよ。綾辻さんの「眼球綺譚」が最近漫画化されましたし。

法月  多分やっぱり、あんまりミステリ以外の読者には受けないような、なんか体臭があるんじゃないかなと。僕は違うと思うんですよ。

——でも『法月綸太郎の冒険』のほうの短編なんかは、いくつかは 法月 さんがおっしゃるような体臭はないと思うので、漫画にしたら面白いかな、と。

法月  まあ話があって、折り合いがあえばやるし。ていうか、別にあんまり期待はしてないですね(註・映像化ではありませんが、NHK−FMの「青春アドベンチャー」という番組で、『二の悲劇』がラジオドラマ化されました)。


桃の勲章  Peaches En Regalia

—— 法月 さんは『姑獲鳥の夏』や『すべてがFになる』など様々な作品の推薦文を書かれてますが、以前に綾辻さんが推薦文書かれる基準っていうを聞いたところ「自分が本当に面白いと思ったものしか書かない」とおっしゃられてますけど、 法月 さんが推薦文書かれる基準っていうのはどういったところにあるんでしょうか?

法月  基準って言われても、頼まれたから書くと。しかも、自分が——まあ勿論編集者が先に読んでるんですけど——第一号の読者だっていうことになれば、割と面白いと思うんですよ。特になんの面白さも感じなかったっていうことは、今まで頼まれて書いたやつのなかではなかったです。「この本には面白いところがある。これの面白さをどうやって読む人にわかるように書けるかどうか」っていう感じで。勿論、欠点はある。欠点があることもわかる。じゃあ、その欠点がある場合、その欠点を帳消しにする面白さを、帯で推薦文を書く時に、更に盛り上げられるだろうかっていうことを考えます。なんか欠点があるのが前提みたいになってますね(笑)。ただ、頼まれると、割と喜んでホイホイ書いちゃう。あんまり口に合わなかったってことはないんです。

——推薦文を書かれた中で、これは一番よくできたなと思われるのはどれですか?

法月  よくできたなといっても、自分だけの作業じゃないでしょう。本の出来そのものとの兼ね合いがあるわけですから、結局「会心の出来」というのは、どの本がよかったか、いちばん面白かったかみたいなところに左右されちゃう。まあ、単純に一番受けたのは、山田正紀さんの『妖鳥 ハルピュイア』。受けたというか、評論家受けしたのは。『ハサミ男』の時でも「『クライム・クラブ』なんて若い人知らない」とか「マニア受け」とか。あれは、たしかにそうですが、僕はもうちょっと考えてやってるつもりなんです。
 例えばメフィスト賞の新刊がでますけど、今のメフィスト賞は割とコアなミステリ・ファンが読まなくなりつつあって、例えば三十代以上の割とマニアックなミステリ読者はメフィスト賞と書いてあると、手を出さないようだと。で、『ハサミ男』の推薦文の依頼が来た時も、これはそういう人達に読ませようと思ったんですよ。で、そういう時に、ああいうことを書けば「おそらくこの人達は読むだろう、読んだらおそらく受けるであろう」と。書評家の誰かが受けるだろうから、この人がどこかで取り上げるだろうとかいうことではなく、目の肥えた読者に読んでほしかったんです。あれは、勿論マニア受けで書いてるのはその通りなんですが。メフィスト賞にそっぽを向いたマニア層に読んでもらいたいという意図が一番先にありました。
 僕は割とストレートな売れるコピーを書けないんです。ほっといても読む人には書かない。「この作品は普通この層は読まないだろうけど、読んだら受けるはずだ」という層がある場合は、そこに向けて書くことが多いかなと。まあ、でも一番気をつけているのは、紋切型のコピーをなるべく使わないようにします。どうしても字数が少ないので、しかも売れるように書かないといけないですから。そうすると大概の言葉って決まってくるわけですよ。それが嫌なので、だから商売のコピーとしては「これはハズしたかな」っていうふうなケースのほうが多いかもしれない。ただ、それは頼んだ方もわかって頼んでいるんだろうと思っています。だから、僕が推薦文を書く時は、編集者が何故僕に頼もうと思ったかっていうのを一番大切にしていきたいですね。


とらわれのペンギン  Penguin in Bondage

——プロになって小説書くようになったら、小説を楽しめないというようなことをたまに聞くんですけど、 法月 さん自身はどうなんでしょう?

法月  これはやっぱり、国産の本格はもうまるっきし素の読者では読めないですね。段階があって、本格に関しては国産より海外、新作より古典の方が読みやすい。海外の本格は、割りと読める。海外のハードボイルドとかスパイものも、比較的エンターテインメントとして楽しむことができる。あと、仕事で書評書かないといけなくなって、この本はいずれ、例えば年末のアンケートでなんか書かないといけない可能性が高いなとか、それこそ推薦文を書かないといけないとかいうのがあると、もう既に視点が「どうやって書評を書くか」ってことを考えながら読むケースが国内モノは多いです。そうすると、やっぱりなかなか日本のものは手放しでは読めないですね。

——やっぱり、それはデビューした後も、評論を書くようになってからも一貫して……。

法月  それは、一貫してというか、より楽しめないようになっているんじゃないですかね。例えば『このミス』とかで評判がいい『極大射程』。いやあ、面白くて(笑)。自分とはなんの関係もないものほど、楽に読める。で、昔は結構、国産の冒険小説はよく読んでたんですよ。それは、単純に、なんか自分の職業、自分の書くものをはかりにかけるということで。一つは冒険小説、自分より十歳とか二十歳上の人が書いてるものと、自分の同年代の人が書いてるものだったら、同じ冒険小説でも、同世代の人のものを読むとちょっと物足りなかったりしますから。それとやっぱり、いろんな軸はありますけども、自分の仕事になんらかの形で重なり、近いものほど読めない。例えば海外だとか時代が昔のものだとか、ジャンルが全然かちあわないとかいうような、距離が遠ければ遠いほど読めます。ただ、割と最近本を読むことが減って、あんまり言えませんけど。

——それが最近注目されている作家が馳星周さんだというのにつながるんですか?。

法月  いや、最初の二冊しか読んでないんで(笑)。それは去年、一昨年ぐらいかな、本当になんか国内モノの本が読めなくなって。買ってはいるんです。読まないだけで。馳さんも、最初のやつは面白かったんです。ちなみに、あの人、歳がほぼいっしょなんですよ。一年若いぐらいなんです。要するに、全然違う作風なんだけど、どう言ったらいいかな、馳さんが聞いたら怒ると思いますけど。最初の二冊のキャラクターのしがらみの切れなさっていうのが、「ああ同世代なんだなあ」って思いました。上の、今までの、自分が読んでたような上の人達だったら、しがらみなんか切ってどっか行っちゃうだろうなと。しがらみ切ってどっか行っちゃう人が、今までは冒険小説書いてるし。ジクジクジクジク歌舞伎町にとどまって、なんか色々やってるのを見て、さっさとどっか行っちゃえばいいのにって思うじゃないですか、あれ行かないのは、「あー、やっぱり同世代なんだなあ」という感じが。本当は馳星周はもっと読者が下支えしないといけないですよ。どうしても、割と売れるものが一年交代ぐらいで変わっちゃうじゃないですか。評論家の一押しの人っていうのが。馳星周って、もっとみんな、みんなって言うと変ですが、もっとしつこく良い、良いと言い続けなければいけない作家だと思うんですよ。

—— 法月 さんは、海外ではクイーンとロス・マクドナルドに影響を受けたと仰られてますが、国内ではどうでしょうか?

法月  結局、やっぱりなんか、国内モノっていういうのは、海外と較べたら浅いっていう先入観がずっとあったので、本当に一人の作家で、ほぼ全部目を通している人っていなくてですね。そういうのを聞かれるたびに振り返って、誰も拾い読みじゃないけども、いいとこしか読んでいない。ちゃんと全貌を把握している人はいない、と思って。ただ、一応一番身の振り方みたいなものに、比較的影響されているのは都筑道夫なのかなあ、と思います。だから鮎川哲也さんの本も実は全部読んでないですし、横溝正史も読み落としのほうが多いし。

——鮎川さんにしても横溝正史にしても、量が多すぎて逆に読みきれない。

法月  鮎川さんはまた別として、横溝正史はおどろおどろしい部分があるでしょ。僕はそこらへんが書いてあると、テンション乗らないんですよ。もっと後の年代の人だったら、比較的フォローしてる人っていうのはいるんですけど、影響というのとはちょっと違って、例えば、島田荘司っていう人に一番影響を受けたとか、連城三紀彦に一番影響を受けたとかみたいな言い方はならない。クイーンとかロスマクとかの言い方とは全然違うもの。ただ、そういう時には、横溝正史とか鮎川哲也とかっていう名前を挙げるべきなんでしょうけれども。
 僕は実を言うと、読んでないのに読んだような振りをして話しているケースがある。だから、自分が影響を受けた受けないの件は別に、読んでないのもかなりあるという話も置いといてですね、日本のダントツのミステリの作家を選べって言われたら、横溝正史。この人がやっぱり、作家の、なんて言うんでしょ。物を考える力みたいなのがスケールでっかいですよ。あの人はカー路線で語られることが多いですけど、やっぱり他人の本を読んで一番よくわかっていったことは、やっぱり横溝正史の構想のスケールなんですよ。ただ、横溝正史っていう人は、そうやって構築する力はあるんだけど、途中で段々どっか行っちゃう人なので、最後までそれをちゃんと維持してくれないので、仕上がりはなんか「んっ?」ていうケースが結構あると思うんですけど。
 結局横溝正史っていうのは、戦後の長編のいいやつでは『Yの悲劇』のヴァリエーションみたいなことしか書いてないでしょ。『獄門島』っていうのはもろ『Yの悲劇』ですし、『犬神家の一族』っていうのも結局は『Yの悲劇』なんですよ。本人もよくわかってなかった節があるんですが。あれも、犬神佐兵衛ってやつが変な遺書を遺して……、果たしてそこに『獄門島』ほど明確な操る意図のイメージがあったかどうか。『八つ墓村』の計画もそうだし。ただ、やっぱり、道具立てとかで、それが、そういういわゆる組立の構造みたいなところのスケールはどうしても影が薄くなって、しかも、本人もたぶんよくわかってなかったんじゃないか。でも、やっぱり構成力のスケールが一番大きいのはあの人でしょうね。あの人がもうちょっと下手な作家だったら、もっと大成したかもしれないです。下手な作家だったら、もっとガチガチのとんでもない物書きになっていたかもしれません。

——なるほど。

法月  そういうところでいかがでしょうか。

——どうも、有り難う御座いました。



(二〇〇〇年一月三十一日 一乗寺にて 取材:嵐山薫、構成:R.山本)