有栖川有栖先生質問会

司会 有栖川先生は、一九八六年鮎川哲也先生編集のアンソロジー、『無人踏切』収録の「やけた線路の上の死体」でデビュー。その後一九八九年『月光ゲーム−Yの悲劇88』で長編デビュー。以後『月光ゲーム』で登場する、江神を探偵役とするシリーズと、『46番目の密室』で登場する、火村を探偵役とするシリーズとを書き分け、前者の江神シリーズの長編『双頭の悪魔』は、各方面から絶賛され有栖川先生の現時点での代表作となっています。近著『有栖の乱読』は、有栖川先生の読書体験を綴ったのみならず、古今東西のミステリのガイドブックとしても活用できます。

有栖川 有栖川です。こんにちわ。始まりが遅くなってしまって済みません。京都駅からタクシーで来たんですけれども、どれぐらい時間がかかるかは見当ついてるはずだったんですが、さすがは観光シーズンの京都。タクシー乗り場に数人しか列んでいないと思ってたら延々と長蛇の列が出来てて。こんなはずはなかったのに……。そこで時間を食ってしまいまして到着が遅れたので打ち合わせが押して……失礼しました。 大学の教室でお話しするというのは初めてです。なんか妙な気持ちで、大学教授……助教授になったみたい。 この話を受けたときに講演会だったら一時間半とかいったまとまった話をするとなると、アドリブでしゃべれませんから原稿書かなければいけない。それは時間的にも出来ないなと思ったんですけれども、質問会という形式でと言うことでしたので、大丈夫かなと思って受けました。用意していただいた質問も結構な量があるので、それに沿って順番に答えていったら二時間ぐらいすぐ経つと思いますので早速というかこれに沿ってメリハリつけながら喋っていきたいと思います。 質疑応答の時間をとると言うことですので、納得がいかんと言うことがございましたらあとでおっしゃって下さい。

司会 作家と言う職業柄、普段運動不足がちと思われますが、その解消法や健康面に付いて気をつけている事はあるでしょうか。普段の生活サイクル、例えば執筆は何時からだとか起きるのは何時だというのはどうなんでしょうか。

有栖川 執筆は朝からですか? 夜からですか? と言う質問はよくあるんですが、なんかいきなり運動不足って……悪かったなあ(笑) じゃあ生活サイクルについて。私は生粋の夜型で、赤ん坊の頃から夜起きてるのになれてましたんで仕事も夜です。夜仕事して朝寝て昼起きて。昼は人と会ったり買い物したり——もっぱら本屋とレコード屋ですけれどもね——夕方帰ってきて夜仕事しだす。十二時に始めて明け方まで書きます。朝刊を読んで寝る事が多いので、いやな記事があるとちょっと辛いものがあります。そろそろ寝ようかと言うときに和歌山の毒入りカレー事件とか悲惨な記事を見ると、非常にいやな気分になりまして辛いものがありますね。 運動不足の認識はあるんですが、特にスポーツとかはやっていません。ジムに通ったりプールにでも泳ぎに行こうかというようなのもおっくうなので。昼間は家でごろごろしてると言うよりもどっか歩いてます。それが結構運動になってるとは思うんですけれどね。 そんな毎日が繰り返されています。

司会 それでは映像化について質問します。『四聖獣殺人事件』や「切り裂きジャックを待ちながら」といったドラマの原案をお書きになっていますが、通常の小説とドラマの原案で執筆方法に違いはあるのでしょうか。

有栖川 何本かテレビドラマ用のオリジナルという形のアイデアを提供したことがあります。その中で「切り裂きジャックを待ちながら」というのは後に短編小説にしましたけれども、まだテレビドラマでやったまんまというのが何本かあります。 ドラマの場合に留意するのは、解りにくいとまずいかなということです。今年(九八年)の八月に毎日放送で……タイトル忘れたなあ。あ、「大推理王」か。ゲーム仕立ての推理番組に推理ドラマの原案一本書いたんですけれども、その時犯人が解らないようにしないとまずいだろうと思って色々と工夫するわけです。けれども脚本やディレクターの方に「難しい、解りにくいからもっと解りやすくしてくれ」と言われるケースが多かった。加減がなかなか難しくて、あまり解りやすくしてみんな解っちゃうのもなんだし。普段ミステリーを読まない人を対象にやるわけですから、そのあたりの配慮が必要です。程良い難しさと言うのができると、誰かにモニターしてもらう。男女二人——アルバイトの人かな、正社員の方かわかりませんが——に問題編を読んでもらって、二人ともバシバシ正解したらまた変更しようと思ったら「解らない」というんです。ディレクターの方は「ああ、よしよし!」と(笑)。モニターの人が「それで、犯人は誰ですか」と言ったんで「あ、それはテレビで見て」とディレクターがいうと非常に切なげな顔をしていましたね。 後は予算。芝居の原案も書いてたんですけれども、書斎での殺人と言うことになったら書斎って大変なんです。本をどうしようとか、本棚どうしようとか。やっぱりスチール本棚ではいけないですから。それなりの用意をしないといけないので書斎というと「えーっ」と凄い困った顔をされるんですね。じゃあやめましょうとか。そういう予算とのかねあいも必要です。内容はいつも自分が書いてるような話を書いてます。

司会 何年か前に『双頭の悪魔』が映像化されましたが、御自身の作品の映像化についてどう思われますか。漫画などの映像化を含めて。あと、もし有栖川先生が自分で作るならどの作品をどういう形で時間の制限無しで映像化しますか。

有栖川 原作があって映像化されてと言うのは『双頭の悪魔』しか経験がないんですが、気に入ってます。ただ、キャスティングとか思うようにはならないという点がありまして。ミステリードラマとしてみた場合に、作者としては原作に忠実なのは——それが良いか悪いかは別として——ありがたい。あの小説は第二の殺人を巡ってディスカッションするとか理屈っぽい場面があるから、そこら辺は脚本から落ちると思ってたんです。映画であんな延々とディスカッションするというのは無茶でしょう。これ、削るかなと思ってたら、ちゃんと入れてくれた。第三の殺人でロジック変えてたけれど、それはそれで理由があった。忠実に脚本化されてて『双頭の悪魔』というミステリーは再現されてた。汚い画は入ってない、映像がきれい。役者さんもこの人ははまってるなとか、この人はこうなんだな、というのがあって、私が色々気がついた点もあって楽しめました。他にドラマという形で近い将来実現しそうな話というのはありません。 漫画化の可能性はあります。その時はこっちの希望を聞いてもらうようにしようと思ってます。 お金とか時間の制限を考えずに自分で撮るとしたら、やりたいのは『双頭の悪魔』。これは脚本があるんですよ。三時間半ぐらいのVシネマになりましたけれども、第一稿では五、六時間かかる映画にしようと。全何巻という映画にしようと。丁度制作サイドも『ツイン・ピークス』と言う前例もあったから、『ツイン・ピークス』みたいにしたいと言う意向も最初は持ってたんですけれども、なかなかそれは現実的には難しくて実現なかった。それで当初の五、六時間バージョンの脚本が残ってるんです。これはこれで面白くって、良い場面もいっぱい入ってて、さらに原作に密着してる。そして江神さん関西弁喋ってます(笑)。もったいないんです。それに沿ってもう一回作れればいいかなあと。まあ実際私は大ベストセラー作家でもないですし、この映像化という話は現実的ではないんですけれども、もし出来たらやりたいなあと言う思いは持っています。 他は自分の作品が映像化されるとなったらあまり考えないですね。誰かが思いがけない形でしてくれたらそれが一番良いかな。自分がああしたいこうしたいじゃなくて、誰かがあなたの作品をこういう風に映像化してくれましたよあるいはこうしましょう、と言う人がいてくれたら、それは興味が湧くでしょう。

司会 今『ツイン・ピークス』の話が出たので。日本の「ツインピークス」を目指したと言われる吉村達也先生の『時の森殺人事件』(現在ハルキ文庫・全六巻)の解説(中公文庫版所有)で有栖川先生は近い将来合作をしたいなというようなことを書かれてましたがその合作については今どうなっているんでしょうか。

有栖川 吉村さんは東京だし、そう頻繁には会えないんですけれど、お宅まで遊びに行ったこともあります。合作をしてみましょうか、したら面白いでしょうねと、言った話はしたこともある。その話は進んでない。吉村達也と有栖川有栖。これほどずれた執筆ペースというのはないので、主に私サイドの問題です。吉村さんはひと頃に比べますと新刊が出るのが少なくなってきていますけれども、非常に大きな作品を書くと言うことで、取材とか旺盛になさって手仕込み時期にはいってるみたいです。 合作のラフ案で出たテーマは、雪の山荘ものです。吉村さんは題名とかキャッチコピーとか全部作ってるんです。面白いんですよこれが。有栖川有栖という推理作家いるでしょ? それと朝比奈耕作と言う吉村さんが作った推理作家がいるから、朝比奈と有栖川有栖は知り合いだと。で、二人で雪の山荘に行く。そこで殺人事件が起きてでられなくなる。火村にはアリスが携帯電話で連絡する(笑)まあ色々細かいことを話していたんです。お互いの名探偵を使えば本気のバトルになるだろうと。 各人が持ってる名探偵キャラクターを競演させると、マジな推理合戦になるんじゃないか、と。 吉村さんのお宅に泊まって延々とラフなプロットを作ったりしたことはあります。その時作った題名とかキャッチコピーも封印されてますけれども(笑)もしかしたらそのうち動き出すかもしれません。

司会 有栖川先生が作られたキャラクターの中で、絶対に友達になりたくないキャラクターを教えて下さい。

有栖川 えー、「火」が付く人です(笑)友達にするものではない。私も彼のことを十分にはわかってないと思いますけれど、つきあいにくそう。でも、書いてるときは楽しい。彼のことを、何かこいつなあ、と思って書くのは結構楽しいですね。だから何作も書けると思います。

司会 有栖川先生の小説の中には大阪弁をしゃべるキャラクターが出てきますが、「大阪弁の台詞」ということで特にご注意なさることはありますか? また、先日発表された「女彫刻家の首」に出てきた女の子が大阪弁をしゃべっるそうですが、これからは大阪の女の子にも大阪弁をしゃべらすのでしょうか?

有栖川 自分はネイティブで大阪弁を使ってますから、大阪弁の台詞では苦労はしないですね。ただ、平仮名が多くなるとどうしても読みづらくなるし、大阪弁が苦手という人も読んでると思いますから、抵抗なく読んでもらえるように工夫はしてるつもりです。イントネーションを表記する手段がないのは辛いかな。男言葉と女言葉の区別が少ないので、男性の台詞か女性の台詞か混同されないように気をつけたい、と言う問題もあります。 「女彫刻家の首」に初めて大阪弁をしゃべる女の子が出てきた、と言うことですが、今までもいたと思うんですがね。大阪弁をしゃべる女の子のキャラクターは。確かに登場人物で標準語をしゃべる女の子が多かったのは、女の子は関西弁より標準語のほうがいいかとというよりも、(作家)アリスが関西弁しゃべるからややこしいかなあということで若干さけてきたかもしれない美人が出てきて大阪弁使わすのはおかしいとか、そう言う偏見とかからは遠いところにいます。 『朱色の研究』で貴島朱美と言う女の子がいましたけれども、彼女に大阪弁しゃべらすつもりだったらしい、作者は。何故かというと、初版の冒頭に一回大阪弁使わせてるんです。間違えたんですよ。大阪弁を使わそうと思ったんですけれど、丁寧語を使う場面が多い子だったんで——火村の教え子だしね——(貴島朱美の周りに)年長者が多かったんでね、この子に大阪弁しゃべらしても意味無いな、と思って標準語に切り替えたんです。でも、初版の頭の方、一回だけ関西弁しゃべってます。(再版以降)今はもう治ってますが。これからは大阪弁しゃべる女の子もいっぱい出てくると思います。

司会 長編を書かれるときの作品ができるまで。例えば『双頭の悪魔』ですが、トリックやロジックを思いついて書き始められたのか、最初から最後まで順番に書き始められたのか。また、西澤先生の『実況中死』の中で、プロットも固まってないのにとりあえず小説を書き出すというエピソードがありましたが、有栖川先生はそういう書き方をされたことがありますか?

有栖川 『双頭の悪魔』ができるまで、というのは細かいとこまでしゃべっちゃうと結末までしゃべりかねないのでぼかして言います。 三つ殺人出てきますよね。最後の殺人が起こったときに出てくる真相というのが一応の大トリックだとすると、ああいうことでいこうと。としたら事件が三ついるなあ、と。三つというのは、まあ、現場は芸術家の村というのがイメージにあったんで舞台はそこにしようと。最後のあのネタを使うために殺人が三ついる。殺人事件を作ってそれぞれのロジックを考えなければいけないとき、学生時代書いたネタを思い出したんですよね。三番目の殺人の犯人当てというのは二年生の時に大学の機関誌(「カメレオン」のこと)に書いた「別れの曲」という作品のロジックををほぼ同じ形で流用しました。一個目二個目は芸術家の村はこういうイメージかな、と言うところから膨らませました。そこで起きる事件というのはどう言うのが良いかな、と言うような所から始めて、じゃあこんな風に死体が発見されるとか、こんなモチーフを使うとかいう風に作っていきました。要するに後ろから前へ後ろから前へ出来ていく。 『月光ゲーム』という話がどこから出来たか。作った本人以外絶対に想像できないと思う。あれはキャンプに行って火山が噴火して、下りられなくなってそこで殺人が起きるという話ですけれども、火山が噴火するというのは一番最後に決まったです。キャンプ場での殺人を書こうとと思って書き出したと言う風に見えると思うんですけれども、本当は全然違ってて、火山が噴火するようにしようと思ったのは一番最後。最初は『Yの悲劇××』という題名で書きたいと思ってたんです。じゃあその「Y」というのは何なんだろうか。ダイイングメッセージがYだということにしようと。Yと言うのが何を表してるかというと、名前に関する誤解があったこと。名前に関するそう言う誤解が起きるというのはどういうシチュエーションかというと、初対面の人間がうじゃうじゃいる場面。初対面の人間がうじゃうじゃいる場面と言えばキャンプ場(笑)そこだったらダイイングメッセージもありか。キャンプ場の事件ならそこでピストルを撃ったりとか、そう言うことはないだろうから凶器はナイフ。そう言うイメージがありました。ナイフで人が殺される所を思い浮かべて、どんなことが起きるか。Yと言うメッセージを残すのはどんなときか考えていって、キャンプ場からナイフが出てきて、ああいうものが出てきてこういうものが出てきて、どうしてキャンプ場から出られないの? 山が噴火したからにしよう(笑)と言うのが最後に来る。普通だったら火山で起きる連続殺人という事から始まるかもしれないけれども、山の噴火は最後に決めたことを覚えてますね。 だから、プロットが固まらないままとりあえず書き出すというのは無理ですね。 とりあえず山噴火させて、そこで事件が起きて、というのを書くという人はきっといると思うんです。それだと書いてる本人はよくわからないんだから、読んでる方はもっとわからないという、理屈は確かにあるんです。でも、最後にうまく着地できるかどうか、着地の仕方よりも中盤が大事だ、という方法論もあるし。私はプロットも固まってないのに前から書くと言うことは出来ないですね。プロットが生乾きの時みたいな時に書き出すことはありますけれども、ここでこうきてこう落ちるというのは決めてから書くことにしています。

司会 それでは、書く際にトリックから先に考えるのでしょうか。それともプロットが先にあってそれにトリックを当てはめると言うことなんでしょうか。また、トリックが自然に浮かんでくると言うことはあるのでしょうか。

有栖川 トリックが先かプロットが先かという事なら、たいていはトリックが先です。密室とかアリバイのトリックが浮かんで、例えば、このトリックを成立させるにはあまり面識がなくてついさっき出会った、初対面の人たちの中で起きる事件なら成立するというのもあれば、長年つきあってて、間に二十年おいて再会した人たち——同窓会とか——そういう場でないと成立しないトリックとかいろいろありえるでしょう。そのトリックがどうしたら成立するか、どうしたら無理がないか、どうしたら一番かっこいいか、といろいろ考える。つまりこういうトリックを成立させるにはこういう人たちが要るなあ、こういう舞台が要るなあと。そこでどんな話が生まれるかとかね。そこはプロットの部分ですけれども、後からでてきます。まれにストーリーが浮かんで途中で不可能犯罪をいれる、というのがあるんですが、しんどいですね。人にもよるでしょうけれども、トリックが先の方が私はやりやすいです。 トリックはいつも考えてるから浮かぶんでしょうけれども、勝手に浮かぶものなんですね。大体。だからいつ降ってくるかわからないというか……いつも考えてますけれども。

司会 そのトリックなんですが、今までの作家生活の中で暖めていたトリック、プロットを先に使われてしまったことはありますか?

有栖川 本当に悔しかったというのはありません。でも、バッティングは結構します。割と印象に残ってるのが『魍魎 の匣』。『魍魎の匣』のバラバラ死体。あの手の話は考えていたんですよ。もちろん全然違う話なんですけれども、ああいった謎があって、ああいう謎解きがあってというのを考えていて、いつか書けるかなーと思っていたらでてしまった。仕方がないのでうんと改変させて『幻想運河』という小説に使ったんですよ。『幻想運河』の中の作中作で、ちょっとキレてる小説がでてくるんですけれども、キレた小説が『魍魎の匣』みたいな小説のなれの果てです。だから『幻想運河』の中の作中作というのは『魍魎の匣』がなかったら違ってて……あのような展開をしていたのかなあという話なんですよね。でも、まだ着想の段階で『魍魎の匣』が出たから「ああ、くやしい」ということもなく、じゃあ駄目だなあという感じで終わりました。これまでのところはそんな深刻なことはありません。 でも今すごく心配してることがあって、江神シリーズの次の長編のクライマックスに持ってこようと思ってるアイデアがあって——本人はすごく気に入ってるんですけれども——今でさえネタを考えるのに苦労してるのに、先に使われたら立ち直れないかもしれない(笑)これだけが心配です。じゃあ早く書けと、自分でつっこみ入れてますけれども、早く書かないとなあと思っています。

司会 では、シリーズものなんですけれども——この場合たくさん書かれている火村ものですが——を書かれていて、飽きる事はないですか? 井上夢人さんが、『岡嶋二人盛衰記』で、「山本山シリーズを書いていてだんだん嫌になってきた」というような事を書かれていた。だから火村の紹介を書かれていていやになることはないですか?

有栖川 火村を紹介するために毎回毎回同じ文章を書くのはちょっと抵抗がありますね。(火村の紹介文を書くのが)かったるいですね。読んでる方も、もういいという人がいると思うんですよね。ちょっとずつ文章が違うんですよ。毎回。 中には初めて読むという人もいるから。いきなり火村といわれても何だそいつは、年はいくつだ、とかいう風になると思いますよね。書かないわけにはいかない。 人のことはどうでもいいんだけれども「苦労してるなあ」と思うのが山口雅也さんのキッド・ピストルズのシリーズ。パラレルワールドの歴史とかすっごい面倒そうなんだけれども、書かないとなんか訳が分からないという。 シリーズキャラクターの設定の説明がじゃまくさいと思うこともありますけれども、飽きませんか? ということですが、まだ飽きないですね。レギュラーキャラクターで書くというのは、作家にとってマンネリスムだ、堕落にすぎないとはっきりいう人もいます。でも、堕落だという人はもちろんシャーロック・ホームズも水戸黄門も全部否定してるわけですよね。作家も読者も楽だし、というなれあいの中で展開するもので本来感心できるものではないという考え方もありますが、私はそうは思わない。マンネリだという人は飽きるんでしょうね。飽きるのは勝手なんですけれども、毎回キャラクター変えて書いても、同じところをぐるぐる回ってしまうというのがあると思うんです。作家なら誰でも守備範囲なんかっあたりするし、どうしても離れられない興味とかあったりするから、それは別に恥ずかしいことでも何でもないと思う。そのときに同じキャラクターで作者作中人物が一体となっていろんなものにぶつかってそれを乗り越えるという手もあると思うんですよ。火村が出てきて「またこいつかよ」と思うよりも、彼がいろんな事件と対峙して格闘して、どうやっていくかという物語だと思ったら多すぎるとかまだ足りないということはないと思います。彼に関する書き方でいえばまだ断片的にしかエピソードが出てないという見方もできるし、少なくとも私は当分飽きないと思います。作者と読者とで、このシリーズは山場にきたという実感が一致すればきれいにシリーズは幕を引けると思うんですけれども。火村ものに関していえばまだ当分続きます。

司会 有栖川先生は短編、長編、シリーズもの、ノンシリーズものと、魅力的な作品を数多く書いていらっしゃいますが、 それぞれの長所や短所、楽しいところやしんどいところなど、ご自分で感じていらっしゃる点があれば教えてください。シリーズ物とノンシリーズ物ではどちらが書きやすいのでしょうか。

有栖川 それぞれの長所と短所……。私の作品についてと言うよりも、短編小説というのは「えいやっ」と切ってみせるものですね。作家によって見せ方は違いますけれども切って断面を見せるとか。長編というのは彫刻とか粘土細工で練り上げたりとかしてつくるもの。そもそも、作品の性質が違うものなんですけれども、短編の楽しいところはただ一つ。短いところ。一作書き上げたらすごくうれしいわけですよ。終わった、と言う瞬間。物語を完結させて閉じるというのは快感になです。短編だとそれが一週間かけて書こうと思ったら一週間でその快感が味わえる。短編を続けて書くというのも気持ちいいんですね。当たり前のことなんですが、長編というのは時間がかかるし分、達成感というのは短編よりずっと大きい。まだ十回しか経験していませんけれども。どっちもしんどいことはしんどいんですけれども、楽しんで書いてます。これからも両方やっていきたいなと思ってます。 シリーズ物ノンシリーズ物どっちが書きやすいかということですが、シリーズ物は火村物にウエイトがかかってるんで、江神シリーズも数増やしたいなあ、バランスを改善したいなあと、言う気持ちもあります。ノンシリーズ物を書きたいなあ、と言う思いに駆られることはよくあります。さっき火村を書くのは飽きてませんよと言いましたけれども、火村や江神が出てくるととたんに書けない材料というのがあるんですね。彼らが出てきたとたんに「ああ、こういう話にはならないな」ということって確かにあります。火村やアリスが必要じゃないと言うのが着想の中にはいくつかありまして、そう言うのも形にしたいなと思う。両方のシリーズを往復できて楽しいんじゃないのかなと思います。

司会  登場人物、例えば火村や江神、が格好いいと言われることについてどう思いますか? また、彼らを描くときに意識している事とか何かありますか?

有栖川 一応かっこよく書いてるつもりなので、かっこいいといわれたら、それはどうもと言います。ただ、かっこいいというのにもいろんなレベルがありますよね。見栄えが良いと言うところから始まって、非常に深いことを考えてるからとか。彼はどういう意味でかっこいいのか。そう言うところをあからさまに書かずに何となく読む人に伝わるようにというか、それは工夫してるつもりです。 読者からお手紙を頂いて、キャラクターがかっこいいですねーというときに割と嬉しいと思うのは、作中の有栖川有栖に理解を示していただけた時。彼は道化的な台詞を吐いたり、そう言う存在になってて漫才の相方をするために登場しているわけではないんですが、そのように読む人がいます。まあそう読むのは勝手です。でも、有栖をよく見てくれている手紙がくるとそれは嬉しい。

司会  作品の中での独特のユーモアのある表現はどういうときに思いつきますか?

有栖川 この質問をした方は(注 質問を募集しました)私の作品のある部分をユーモラスだと思ってくれてるわけで、それは嬉しく思います。ただ、割と凝ったギャグよりも流れや間抜くことが多いので非常に楽です。書いててちょっと抜きたくなったらおかしな間を作ってみたりというのはやってみますが。そういうわけで、なんの苦労も無くやってます。

司会  作品の執筆中などで煮詰まってしまったとき、息抜きになさることはなんでしょうか?

有栖川 息抜きは音楽ぐらいかなあ。ホントに行き詰まったら外出します。音楽は割とギンギン系のヘビーメタルとかその辺がよろしいんじゃないでしょうか。そんなものです。

司会  有栖川先生がデビューする前後までは本格ミステリがあまりなくて、社会派全盛などといわれてたんですけれども、社会派全盛のときを経て『十角館の殺人』が出たときどう思われましたか? 社会派ミステリに対する関心などはあるのでしょうか?

有栖川 『十角館の殺人』が出たときは『月光ゲーム』が書き上っていて手元にあったんですね。あちこちでボツになってたんで「ああ、こういう離れ小島の殺人ものが他の人によって出てしまったなあ」と。一人ぐらい許されると思ってのに一人出てしまった(笑)しかも京大ミステリ研究会。私は京大ミス研じゃなかったけれども学生時代遊びに行ってたし、綾辻さん自身を知らなかったけれども、かけ離れた世界ではない所から出た人で、年齢も一つしか変わらない。ビックリしたりショックだったりしました。面白くて「早く次でないかなー」なんて思ったりすごい複雑でした。でも、綾辻さんが出て、じゃあ俺のもOKだとか、これから本格が流行るとは思わなかったんですよ。もう定員がいっぱいになって(デビューするのが)しんどくなったかなあと言う思いが強かったですね。 社会派ミステリに関する関心ですが、社会派ミステリというのはここにいらっしゃるみなさんは若いから、「社会派ってなに?」とかいうふうに思ってらっしゃると思うんですけれども、実は社会派というのは昭和三〇年代に流行ったんですよ。私が学生だった昭和四〇年、五〇年代というのは社会派ミステリはへばってた。松本清張はとっくに巨匠。他の有象無象は消えていた。社会派は昭和三〇年代の終わりに少しだけ流行ってたんですけれども。その時に本格ミステリを間違いなく潰してくれたんですよ。社会派もすぐ潰れるんですけれども、本格は大人が読むものではないことにされてしまった。変わった人の殺し方考えてなんなんだアレは、ということです。無論、社会派ミステリーの中には面白いのもあるし、ミステリーの中に現代の様々な問題を盛り込むのは面白いことだと思います。本格ミステリの要素をないがしろにするようなスタンスで書かれてるものには抵抗がありますけれども、社会派ミステリーが持つ方向性はいつの時代も有効だと思います。社会派ミステリーというのはもっと書かれて然るべきだともおもいます。かつて社会派が本格ミステリを滅ぼしたというのがありますので恨みがましく思ったりしますけれども、本来は非常に面白い書き方なのです。今でも環境問題とかいろいろあるわけだし。でも、社会派「ミステリー」と言うからには何らかの仕掛けがあるとか、ミステリーのこだわりがないと社会派ミステリーの「ミステリー」はとって欲しいなと思います。

司会 三年前から鮎川哲也賞の最終選考委員をやっておられますが、最終選考委員をやっていて思うこと、変わったことがあるのでしょうか。

有栖川 いろんないきさつがあって鮎川哲也賞の選考委員をやってるんですけれどもだいぶ抵抗があったんですよ。私は小説の賞を全然獲っていないから。鮎川哲也賞も獲ってないし、キャリアも(引き受けた当時は)そんなにないし、世間から広く認知されるような作品もなかったので、こういう人間に鮎川哲也賞という立派な名前が付いた賞の選考委員がつとまるかというと——つとまらないとは思っていないんですけれども——はたから見てて抵抗があるかなあ、とか考えたんです。紆余曲折があって引き受けたんですけれども、人の小説を審査するというのは難しい。良いものと良いものを比べるときは特に難しい。良いものと良いものを比べてどっちに賞をあげようというのはなかなか辛いものがあります。今年(第九回)の鮎川賞は全員一致だったんですけれども、去年が割れた。私は去年柄刀一さんの『3000年の密室』と言うのを推して、綾辻さんが谺健二さんの『未明の悪夢』を推していて、島田さんはまた別の作品を推していたんですよ。この時私は『3000年の密室』の方に気持ちが行っちゃってたんです。綾辻さんと島田さんを説得できたら賞獲れるんですよ。私が「まいっか」と思ったら落ちる。「この作品はこう言うことが優れてる」といってアピールしたら他の選考委員の人の気持ちが変わったりするかもしれない。そう思ったときに責任を感じましたね。大変なことをやってるんだなって実感しました。そういうことで全力を尽くしてやっていきたいと思います。まあ、何年続くかわかりませんけれども。

司会 書店の店長をなさっていた時代のお話を以前雑誌のエッセイに載せていましたが、そのとき紹介されたエピソードのほかに売上達成の為のおもしろいエピソードはあるのでしょうか?

有栖川 面白いエピソードというのはあるんですけれどもね。本の在庫というのは全部伝票で把握できる訳なんですが、ホントにそれだけあるかという事を数えるんですよ。万引きされてるかもしれないし。その棚卸しがなかなか怖い。ロスは何パーセント以内ならOKだけれども、それをこえてるとチェックが甘いとか言われるんで緊張するんですね。それを上手くクリアーするテクニックというのはいろいろ無いことはないんですが、差し障りがあるので今回はちょっと……。


(1998年11月21日、以学館21号教室にて)
最終更新:2010年08月02日 12:24