阿部次郎『徳川時代の藝術と社会』「百姓は国の宝である」

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 百姓は国の宝である──これはその一般的の意味に於いてはあらゆる時代に通じる真理である。併しこの言葉は、徳川時代に於いては、ある特別の意味を持ってゐた。百姓は国の宝である、故に百姓は人格として尊重せねばならぬ──徳川時代の重農主義はかういふやうな論理の発展に向ふ思想ではなかった。又それは百姓は国の宝である、故に凡ての人は百姓を模範として生活せねばならぬ──かういふやうなトルストイじみた帰結を伴ふ思想でもなかった。百姓が国の宝たる所以は、支配階級の経済的勢力が彼等の納める年貢の基礎の上に築かれてゐるからである。町人から一定の租税を取立てることを思ひつかなかったほど、若くは思ひついてもそんなことをすることを恥辱とするほど、商を軽んじた此等の武家は、特に「年の物成」を非常に重大視すべき理由を持ってゐた。この目的のためには、百姓は勤勉でなければならなかった、さうして極めて質素従順でなければならなかった。百姓を此の如き状態に繋いで置くこと、これが徳川幕府の絡始一貫した方針と云っていいであらう。さうして百姓の無智がこの政策の遂行にとって甚だ有利であった。固より時勢の転変につれて彼等の間にも贅沢の習慣が徐々として浸潤して来たとは云へ、それはそれぞれの時代の町人及び武家のそれに較べれば、まるで問題にもならぬ程度のものであった。又町人の贅沢が武家に感染して、武家の財政の窮乏が次第に甚しくなるにつれて、百姓に対する苛斂誅求が彼等の負担力をあまりに超過するとき、百姓は結束して竹槍と鎌と蓆旗とを持出さざるを得なかった。かくて木内宗吾等を先輩とする「義民」の幾群が徳川時代社会史に多少の波瀾を揚げてゐるとはいへ、それも亦地方的部分的現象たるに止って、特殊の苛政がやめば特殊の暴動も亦終息した。それは階級的対抗の形勢を馴致するほどの情熱を持つには至らなかった。徳川幕府の対農政策が日本の経済文化の発展にとって有利であったかなかったか、それはおのづから別問題であるが、兎に角「御治世安泰」のために農民を支配する政策として、それが成功に近いものであったことは疑ひ得ないであらう。  尤もかういふのは武家が百姓を搾取の対象としてのみ見てゐたといふ意味ではない。この点に於ては、封建制度の哲学的倫理的基礎とも名くべき観念が事態を和げる。各人には生れながらにして具れるそれぞれの分がある。この身分に応じて生活すること、万民その分に甘んじて仮にも下剋上の振舞なきこと──これが士農工商の四民に通ずる道徳である。このやうな社会に於いては、広い意味に於ける「商売冥利」の思想が社会的秩序を保つの楔として作用する。商人が金錢を重ずるは商売冥利である、縦令それが愛児の一生の幸福に関することであっても、そのために大金を抛つのは商売冥利に尽きることである(例へば近松作『寿門松』の浄閑の如きは此の如き思想の一代表者である)。これと同様に、勤勉に質素に、出来るだけ「水を呑んで」生活して、滞りなく年貢を納め国恩に報いるのが即ち「百姓冥利」である。武家の搾取は此の如き道義的観念の上に立つが故に、それは良心の多くの不安なしに、百姓に対する温情や慈悲と両立し得るものとして行はれた。 立命館大学 文 昭和49年

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