ローゼンメイデンが教師だったら@Wiki 恐怖の昼休み

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  夢。夢を見ていた。
  ねっとりと黒いペンキを塗り重ねたような漆黒の中、私は、ただひたすらに走り続けていた。
  はあっ、はあっ、はあっ、はあっ……。
  荒くかすれた息づかいが、耳朶に煩わしく響く。
  心臓が、ばくばくと早鐘のように打ち鳴らされた。
  不意に足を取られ、思いっきりつんのめった。とっさに受け身を取ろうとするが、全身が鉛のように重く、手足がまるで利かなかった。したたかに打ちつけられた。
  着衣が破れ、血がにじみ出した。痛みは感じなかったが、悲観的な観測に取り込まれそうになった。
  己を鼓舞するように絶叫し、懸命に立ち上がった。なりふり構わず、再び走り始める。
  それにしても、一体いつまで走り続ける必要があるのか。それ以前に、どこを目差せばいいのだろう。
  答えなどなかった。しかし、立ち止まる訳にもいかない。
  なぜなら、身の毛もよだつ脅威が、すぐ後ろまで迫りつつあったから。
  ……真綿で首を絞められるような責め苦が、永劫に続くかと思われた。
  前後の区別もままならない深淵に、一条の光が射し込む。闇が矩形に切り抜かれ、まぶしい光があふれ出した。
  助かったのか? 私は、わらにもすがる思いでその中に駆け込み、後ろ手にドアを閉めた。
  外界とは隔絶された空間。視覚には捉えられなかったが、肌でそう感じた。
  逃げ延びた。私は安堵のため息を漏らし、へなへなとその場に崩れ落ちた。
  ……閉じ込められたと気づいたときには、もう手遅れだった。入り口のドアが、跡形もなく消え失せていた。私は、己の思慮の至らなさを心の底から呪った。
  ゆらりと見上げるような巨大な影が、私に圧しかかってくる。
  それは、耳元まで裂けた口で、にやりと笑みを浮かべた。鮫のような鋭利な歯が、びっしりとそろっていた。
  私は、もう蛇ににらまれた蛙だった。指一本動かすことすらままならなかった。
  淡い桃色のウェーブヘアーをふわりと広がらせて、雪華綺晶先生は、私の頭からぱくりとかぶりついた。


「全く……この私ともあろう者が、夢にうなされるとは……」
  朝から不快を極めた。全身にじっとりと汗をにじませ、喉はからからに渇いていた。
  まとわりつく懸念を振り払うかのようにかぶりを振るが、脳裏に焼きついた鮮明なイメージは、簡単には拭えそうになかった。
  ラプラスは、自嘲気味に口元を歪め、ベッドから抜け出した。
  窓際のブラインドを開ける。白を基調とした寝室に、目一杯に朝日が射し込んできた。
  雲一つ見当たらない、すがすがしい天気だった。しかし、対照的に、ラプラスの心中には、どんよりとした暗雲が立ち込めていた。
  すらりと引き締まった全身が照らし出される。彼は異形の存在だったが、本来ならば、その姿はまがまがしくも麗しかった。それが、今は見る影もない。
  無責任、無軌道、無遠慮と三拍子そろった……いや、それ以上のバカ校長を相手に、年がら年中、神経をすり減らす日々を過ごしていれば、さもありなん。
  純白の毛並みの艶は失われ、体のところどころには円形脱毛症も見受けられた。
  その上、新たな問題が浮上した。
  ここ数日、雪華綺晶が、じっと彼のほうを見つめてくるのだ。
  元々表情に乏しい彼女から、その意図するところを推量するのは容易ではない。
  彼女は、幾多の戦場を潜り抜けてきた特異な経歴の持ち主だ。
  ラプラスには、彼女の視線が、獲物の品定めをする狩猟者のそれに思えて仕方がなかった。
「ばかばかしい……いくら彼女が悪食だからと言って、この私を食べるなどと……」
  声に出して否定してみても、わだかまりは払拭できなかった。
  今日もまた、胃腸薬が手放せそうになかった。


  それは、お昼休みのことだ。
  四時間目終了のベルを合図に、職員室からは、教職員達が一斉に姿を消した。
「今日の学食の日替わり定食は、花丸ハンバーグなのーーっ!!」
  雛苺を筆頭に、ぞろぞろと駆け出していく。
「一体何なのですか!? 生徒の見本となるべき先生がたが、たかだか学食の定食ごときで、嘆かわしい……」
  ラプラス教頭は、ぶつぶつと愚痴をこぼすと、自分の弁当箱を片手に、席を離れた。
  食事中くらいは、机の上に山積みにされた書類から解放されたかった。
  奇麗に片づけられた作業用の大きなテーブルに着く。中央の花瓶に活けられた満開の菜の花が、ラプラスのささくれ立った心をわずかに和ませた。
  ふう、と一息吐いて、弁当箱の包みを広げる。と、その時だ。
  ラプラスは、すぐ隣の席に座った彼女を目にして、思わず腰を浮かせた。
  何と、雪華綺晶だ。救いを求めるように辺りを見回すが、もう職員室には、彼と彼女の二人っきりしか残されていなかった。
  総毛立った。全身にざわざわと怖気が押し寄せてきて、冷たい汗がびっしりとにじみ出した。心臓の鼓動は瞬く間にピークに達し、急激に息苦しさを覚えた。
  教頭は、声を震わせつつ、彼女に訊ねた。
「ききき雪華綺晶先生は、皆と一緒に、学食の花丸ハンバーグをお食べにならないので?」
「……学食の花丸ハンバーグ……とっても美味しいけれど、量が少ない。……私の分……今、薔薇水晶先生が、調理実習室で、特製のを用意してくれている……」
「そそそっ、そうですか……っと、私、とても良いアイディアを思いつきました!! 本日は天候にも恵まれたことですし、私は中庭でお弁当を食べることにします! いやぁ~~、たまには生徒達と輪になって、熱く語らうのも悪くない……いや、教育に携わる者として、ぜひにそうすべきです!」
  熱弁を振るったラプラスは、そそくさと席を外そうとする。が、雪華綺晶に押しとどめられた。彼女は、黙って窓の外を指差した。
  土砂降りだった。
  ラプラスは、自分の中の何かが音を立てて崩れていくのを感じた。


  ラプラスは、仕方なく、その場で弁当箱を広げた。
  お腹を空かせた雪華綺晶の熱い視線が、はばかる様子も見せず箱の中身に注がれる。
「そそそっ……そう言えば、雪華綺晶先生、件の大きなお弁当箱はどうされたので?」
「……お弁当……二時間目の休み時間に……食べちゃった……」
  早弁かよ。教頭は、こめかみをぴくぴくとひくつかせた。
「でででっ、では、大量に買い置きしてあるインスタントラーメンは……?」
「……三時間目の休み時間に……最後の三つを食べた。……追加の物資が搬入されるのは……本日の一六○○時になる予定……」
  ラプラスの口から、追従の笑みにも似た、乾いた笑いが漏れた。もう、笑うしかなかった。
  己の不運を、心の底から呪った。
  雪華綺晶の物欲しげな視線を甘受して、人参のソテーに箸を伸ばした。と、その動きが、ぴたりと静止する。
  何か、おかしい。ラプラスは、奇妙な違和感を覚えた。視界に映る何かが、先刻とは決定的に違うように感じた。
  何と、テーブルの上の花瓶に活けられていたはずの菜の花が、跡形もなく消え失せているッ!!!!
  錆びついた玩具のロボットのように、ぎこちなく首をめぐらせると。
  彼女の口元には、黄色い花びらが一枚へばりついているではないかッ!!!!
「うひぃいいいいいいいいっ!!!!」
  教頭は、声にならない悲鳴を上げた。
「……どうか……なさいましたか……?」
  雪華綺晶が首を傾げ、彼のほうを覗き込んでくる。ラプラスは、はっと我に返った。
「い、いいえ……何でもありません。ちょっと喉の調子が……ごほんごほん」


  状況は、悪化の一途を辿っていた。
  ラプラスがテーブルから目を背けたのは、どう考え直してみても、ほんの一瞬に過ぎなかった。
  一方、菜の花の高さは、少なく見積もっても三十センチはあった。
  菜の花は確かに生食に堪えたが、開花しているからには、硬い芯の部分もあったはずだ。それを彼女は、たった一息で飲み下してしまったのだろうか。
  今さらながらに、雪華綺晶が、決して侮れない相手であることを思い知らされた。
  ……いっそのこと、地位も名誉もかなぐり捨てて遁走できたら、どれほど簡単だったろうか。
  しかし、ラプラスは、それだけは断じて受け入れられなかった。
  有栖学園は、彼の全てだった。いかなる局面に突き当たろうと、万難を拝し、保全に尽くしてきた。バカ校長がどれほど横暴に振る舞おうと、忍耐強く対処に励んだ。
  この学園から逃げ出すことは、これまでのウサギの生の全てを否定することに他ならなかった。
  それに、まだ食べられてしまうと決まったわけではないのだ。
「あ、あの……これ、食べますか……?」
  教頭は、恐る恐る人参のソテーを指し示した。餌で釣って、少しでも時間を稼ごうと考えたのだ。
「……いいの……?」
「ええ、実は私、最近あまり食欲がなくって、今日もちょっと多過ぎるかなと思っていたところで……」
  すると、雪華綺晶は、懐からするりと箸入れを取り出した。彼女が、それを常時携行していることは、疑う余地がなかった。
  と、彼女が手に取った箸は、見慣れない鈍い輝きを放っていた。おそらくは、金属製の素材に滑り止めの加工が施されているのだろうが。疑問を覚えたラプラスは、何となしに彼女に訊ねてみる。
「……これ……ルナ・チタニウム合金製……以前は、チタン合金製の箸を使っていたんだけど……すぐ駄目になっちゃうから、特別に作ってもらったの……」
  訊くのではなかった。ラプラスは、彼女から顔を背けると、大粒の涙をぽろぽろとあふれさせた。


  狐につままれたようだった。
  教頭の弁当のほぼ半分を占めていたはずの人参のソテーが、いきなり姿を消した。
  雪華綺晶が箸をつけたのは、まだ一度きりのはずだ。
  不審な挙動は、一切見られなかった。
  彼女が、品性を疑われるほどの大口を開け放った様子もない。
  時間を稼ぐどころではなかった。教頭は、一気に窮地に追いつめられた。
  悪夢の具現が、見る見る現実味を帯び始めた。全身からどっと脂汗が滴った。空っぽの胃袋が、きりきりと痛めつけられる。
  雪華綺晶は、残る半分の温野菜のサラダにも、熱い視線を寄せてきた。教頭は、対応に窮した。
  先刻ラプラスが分け与えた量など、雪華綺晶にとっては、スズメの涙にすら満たなかった。
  だからと言って、残る半分まで食べられてしまったら、それこそ万策尽き果ててしまう。
  ラプラスは、底知れぬジレンマに陥り、憔悴していった。

「……きらきー、お待たせ……」
  薔薇水晶が、特製の巨大花丸ハンバーグを抱えて戻ってきたときほど、彼女が頼もしく思えたことはない。
  しかし、彼女がつまずいて、花丸ハンバーグを床にぶちまけたときほど、奈落の底に突き落とされたこともなかった。
「……ごめん、もう一度作り直してくる……」
  職員室には、再びラプラスと雪華綺晶の二人だけが取り残された。

  その後、ラプラス教頭は、真っ白に燃え尽きた状態で雛苺たちに発見され、即座に病院に担ぎ込まれたと言う。
  当事者と疑われた雪華綺晶は堅く口を閉ざし、全幅の信頼を寄せる妹にのみ真相を打ち明けたと伝えられるが、それ以上のことは謎のままである。
  事態は、結局、教頭の単なる被害妄想に過ぎなかったとして、決着が図られた。
  ただ、その日を境に、学食のメニューに花丸ハンバーグが並ぶことだけは、二度となかった。