ローゼンメイデンが教師だったら@Wiki かなりー最強伝説

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「さすがに……これはちょっと荷が重いかもねぇ……」
「ふんっ、弱音を吐くなんて、あなたらしくもない……のだわ」
  ちょっとどころではなかった。
  二人とも、とっくに肩で息をしていた。
  水銀燈の柳の髪は千々に乱れ、真紅のステッキもぼろぼろにささくれ立っていた。
  ……一体、いつの時代からタイムスリップしてきたのか。
  広い河原の見渡す限りが、アナクロな変形学生服の群れで埋め尽くされていた。
  その数、三百人は下らないだろう。
  豪と大気を震わせて、後ろから拳が襲いかかる。水銀燈の髪の毛数本が千切れ、宙を舞った。
  紙一重でかわしていた。余裕を見せているのではない。余力が残り少なかったから、体力の消耗を極限まで抑えた。
  男の腕を取って懐に入り込む。勢いを損なうことなく、膝頭を男の腹に叩き込んだ。
「ぐえッ……」
  ヒキガエルのようにうめいて、男は前のめりになる。水銀燈はするりと懐から抜け出すと、がら空きになった男の首根っこに、上段から両拳を打ち下ろした。


  倒しても倒しても、きりがなかった。
  木刀を手にした都合五人が、真紅に半包囲を決める。
  数で勝るとはいえ、うかつには踏み込んでこない。
  腕に覚えのある者同士の対峙。互いに得物を中段に構え、 じりじりと必勝の間合いを探り合った。
  先に仕掛けたのは、五人のうちの一人。真紅は、にやりと口元を歪めた。
  陣形が乱れた。突出した一人が、残る四人に死角を生じさせる。
  真紅は、地を這うように、得物のステッキでなぎ払った。
  河原の石くれが、つぶてと化してバンカラどもに襲いかかる。
「がッ」
「うぐっ……」
  ある者は眉間から血を滴らせ、またある者は喉を押さえて苦悶にうめいた。
  必勝の間合いを得て、真紅は一気におどり込んだ。


  血と汗と泥に塗れた学生服が、累々と横たわっていた。
  ……五十人は屠っただろうか。
  しかし、真紅と水銀燈の二人がいくら獅子奮迅の活躍を見せても、多勢に無勢を覆すまでには至らなかった。
  二人の息がいよいよ上がってくると、バンカラどもには軽口を叩く余裕も出てくる。
「へっへっへっ、そっちの銀色の姉ちゃんは、この俺様がいただく。なあに、心配する必要はねえ。殺しやしないからよ。ベッドの上で、たーっぷりと可愛がってやる」
  チンピラの一人が、下卑た笑みを浮かべると、別の一人がそれに続く。
「おいおい、待てよ。その銀色には、この俺が先に目をつけたんだぜ? 勝手なことをほざくな」
「へっ、てめーには、そっちの紅い嬢ちゃんが似合ってんよ」
「悪い。俺、胸がないのは好みじゃないんだわ。銀色と交換してくれや」
「こっちだって願い下げだ。たっぱだって、ろくにないし……おい、おめーはどうだ? 確か、ガキっぽいのが好みだったろう?」
  別の一人に話を振った。
「うーーん、でも、性格きつそうだしなぁ……」
「何だ、誰もいないのか? じゃあ、紅いのはどうするよ?」
「簀巻きにして、川にでも放り込んじまおうぜ」
「ははっ、そりゃあいい」
  どっと嗤った。
「……真紅ぅ、あなた、簀巻きにされる運命みたいねぇ」
「あっあっあっ、あなた達は~~ッ!!」
  怒髪天を突いた。闘志がよみがえった。


  一体どうして、ここまで事態が悪化したのだろう。
  いや、そんなことはもうどうでも良かった。目の前にある現実が全てだった。
  雛苺を人質に取られた二人は、投降を余儀なくされた。
「二人とも、ごめんなさいなのーーっ!!」
  喉元にナイフを突きつけられた雛苺は、涙をぽろぽろ溢れさせて、詫びた。
  真紅と水銀燈は、唇を噛んだ。
  ……気がつくと、水銀燈は、両手を後ろ手に縛られ、鉄柱にくくりつけられていた。
  疲労困憊のあまり、意識が混濁していたようだった。軽く頭を振って、思考をクリアにする。
  ここは一体どこだろう? まだ日は暮れていないようで、視界はそこそこ確保されていた。結構広い屋内のようだ。棄てられた倉庫か、工場の類だろうか。どちらにせよ、ひと気のない場所に違いはないだろうが。
  水銀燈の正面には、見張り役らしき男が一人。どっしりとあぐらをかいていた。
  足元には、簀巻きが二本。
「こっ……この扱いの差は何なの! 待遇の改善を要求するのだわ!」
  簀巻きの一本……真紅が、体をうにょんうにょんとくねらせつつ、抗議する。
  一方の雛苺は、ただただ涙に沈んでいた。
「うるさいぞ、黙れ」
  見張りの男に一喝された。


  その男は、まるで昭和の異物のような風体をしていた。
  やたらとごつごつしていて、見上げるような巨体。長ランを着流しているが、顔はどう見ても三十を越えていた。頭にはひさしの割れた学生帽をかぶり、足には下駄を履いている。
  水銀燈は、男に話しかけてみた。
「ね、ねぇ……縄がちょっとちくちくするんだけどぉ、ほんの少しでいいから緩めてくれたら嬉しいわぁ」
  妖艶にしなを作って微笑みかける。しかし、男に取りつく島はなかった。
「色仕掛けなど通用しない。それに、そんな見え透いた手に乗るほど愚かでもない」
  水銀燈は、小さく舌打ちをしつつも、脱出する糸口を求めて会話を続けた。
「……私たち、これからどうなるの?」
「……お前さんは、総番の慰み者にされる。簀巻きは、川に放り込まれるのが常道だ」
「ええええっ!? そっ、そんな……」
「あうわうあうわぅ……酷いのーーっ!!」
  真紅と雛苺が悲鳴を上げる。が、水銀燈は冷静だった。
  なぜなら、男の口調に明らかな嫌悪の感情を感じ取ったから。
  この男、もしかしたら逃げる手助けになってくれるかもねぇ……。


「はわわわわっ、ちょ、ちょっと遅すぎたのかしら……?」
「……ちょっとじゃない」
「だいぶ……」
「ああああああ、あなたたちっ、カナが道を間違えたせいで遅れたと……ふぉふぉいひふぁいのふぁひふぁ……」
  思わず大声を上げそうになった金糸雀の口は、即座に封じられた。
  金糸雀と雪華綺晶、薔薇水晶の三人は、真紅たちが捕らわれている廃工場から少し離れた土手の上に潜んでいた。
  すでに日はとっぷりと暮れている。雪華綺晶はノクトビジョンを覗き込んで、敵地の様子を観察した。
「……少なく見積もっても、二百人は……いる」
「そそそ、そんなに!? すぐに翠星石と蒼星石を呼び寄せるのかしらーーっ」
  翠星石、蒼星石の二人とは、手分けして真紅たちの捜索に当たっていた。金糸雀は携帯電話を取り出すが、薔薇水晶に制止される。
「二人は、町の反対側……今の時間、道はとても混んでいる……残念だけど、間に合うとは思えない……」
「じゃ、じゃあ、どうすれば……」
  金糸雀は、がくがくと膝を突いた。
  雪華綺晶、薔薇水晶の二人は、お互いの顔を見合わせ、力強くうなずいた。
「私たちだけで……」
「助け出すしかない……」
  薔薇水晶は、刀を腰に帯びた。雪華綺晶は、懐から拳銃を取り出した。


  金糸雀は仰天する。
「ちょちょちょ、ちょっとあなたたちっ、それは一体何なのかしらーーっ!!」
「……日本刀」
「……モーゼル・ミリタリー」
「じゅっじゅっじゅっ、銃刀法違反じゃないのかしらーーっ!! 人殺しになっちゃうのかしらーーっ!!」
「……大丈夫……ちゃんと登録してあるから……それにちゃんと……峰打ちにするから」
「……大丈夫……………………………………ちゃんと足を撃つから」
  きらきー、登録は?
「ばらしーはまだしも……きらきーは、下手すると発射罪適用になってしまうのかしらーーっ!!」
「……えっ……?」
  言葉を失う雪華綺晶。上目遣いになって訊ねる。
「……だめ?」
「駄目に決まってるのかしらーーっ!!」
「ちゃんと残さず食べるから……それでも、だめ?」
  何を食べるつもりなのだろう。金糸雀は、怖い考えが浮かびそうになって、慌てて頭から振り払った。
  雪華綺晶は、渋々持っていた弾倉を全て茂みに隠した。グリップで殴りつけるつもりのようだ。
  戦う準備を整えた二人は、手に汗を握る金糸雀にこう告げる。
「……私たちが敵をおびき出すから」
「かなりーは、その隙にみんなを助け出して……」
「……えっ……………………ええええええええっ!!??」
  自分は後方待機だとばかり思っていた金糸雀は、またも仰天。
「そっ、そんな……いくらなんでも、カナには無理……」
「敵の数は、かなり多い……私たちだけでは、処理し切れない……」
「……急がないと、増援が配備される可能性もある……」
  場数を踏んだ二人の言葉の説得力を前に、自称策士は反論の余地がなかった。


「誰だ!?」
「そこに誰かいるのか!?」
  誰何の声が飛び交う中、薔薇水晶は、自らスポットライトの中におどり出た。
  バンカラどもの間に緊張が走る。即座に得物を構え、迎撃の布陣を組んだ。
  木刀以外に、日本刀で武装している者もいる。
  薔薇水晶はダンビラを抜き放ち、無造作に間合いを詰めた。
  日本刀の男が、上段から切りかかった。
  薔薇水晶はダンビラを中段に構えると、切っ先を男に向けて、左右に小さく跳ねさせた。
  上段から切りかかった男は、中段からの攻撃にとっさに対応できない。どうしても腰が退けてしまう。
  体勢が崩れたところへ、一気に袈裟懸けを決める。鎖骨を、肋骨を砕かれ、男は昏倒した。
  一連の動きに、よどみは全く感じられなかった。腕に覚えのある者たちが、ひるんだ。
  一方、雪華綺晶は。
  うっかりモーゼルを失くしてしまって、危機に陥っていた。武装した男たちに、ぐるりと取り囲まれる。
  グリップで殴るつもりだったが、大切なコレクションを傷つけるのは忍びなかった。そこに隙が生じた。
  一瞬で、モーゼルを叩き落とされていた。雪華綺晶は、丸腰になった。
  そんな彼女がどう戦ったかと言うと。
「ぎぃいいいいいいやぁああああああああッ!!!!」
  大の男が、赤子のように泣き喚いた。
  そう、噛みついたのだ。
  チタン合金の装甲をも噛み砕く驚異のエナメル質が、防刃チョッキをやすやすと切り裂いた。
  阿鼻叫喚の光景が広がろうとしていた。


「俺の女は、息を吹き返したかな?」
  張りのある声が、暗がりに響き渡った。広間に照明がともされる。真紅と水銀燈は、はっとして声の主を探した。
  見張りの男が、直立不動の姿勢で迎え入れる。その男は、数名の取り巻きを従えていた。どうやら、総番直々のお出ましのようだった。
  ずいと前に進み出ると、捕らわれの水銀燈をなめ回すように眺める。そして満足したのか、酷薄そうに口元を歪めた。
  水銀燈が苛烈な視線でにらみ返すが、どこ吹く風だ。
  見張りの男よりも二回りは小柄だったが、油断は禁物のようだ。
  総番があごをしゃくると、取り巻きの中から何者かが突き出された。
「ひゃうん!」
  たたらを踏んで、尻餅をつく。
  真紅と水銀燈は、地団駄を踏んで悔しがった。
  案の定、金糸雀も捕らえられていたのだ。
  しかし、事態はここから予想外の展開を迎える。
  見張りの男が、あんぐりと口を開け放った。金糸雀の元に駆け寄って、立ち上がる彼女に手を貸す。
「あ……あねさん! かなりーのあねさん!!」
「……へ?」
  真紅と水銀燈は、間の抜けた声をハモらせた。


「あ、あなたなんか、知らないのかしら……」
「あねさん! お忘れですか!? 中三の時、同じクラスだった土方(ひじかた)です!」
「えっ…………………………ええええええええっ!? あなた、まだ高校生やっていたのかしらーーっ!?」
「へえっ、面目次第もございません……」
  金糸雀は、記憶の糸を手繰り寄せた。
  土方の顔には、確かに見覚えがあった。喧嘩に明け暮れ、留年を繰り返し、周囲から番長として恐れられていた男。
  しかし、なぜ彼は、金糸雀のことを『あねさん』などと呼ぶのか。
  お嬢様育ちの金糸雀と、ほとんど授業に出て来なかった極めつけの不良とは、ろくな接点はなかったはずだが。
「何だ、知り合いか?」
  抑揚のない声でそう問われ、土方ははっと我に返った。顔面が見る見る蒼白になる。
「そっ、総番! どうか……どうかこの方だけは、この土方に免じて、お赦しいただきたい……!」
  巨体をわななかせ、ひれ伏して金糸雀の放免を請うが。
「土方……お前、この俺に意見するの?」
  総番は、にべもなかった。
  なおも食い下がる土方に対して、制裁が下された。取り巻きによるリンチ。
  金糸雀を盾にされた土方に、抵抗する術はなかった。黙して殴られ、蹴られ、ぼろぼろにされて外に放り出された。


  床に転がる簀巻きが、三本に増えた。
  雛苺と金糸雀は、しくしくと嗚咽を漏らし、真紅と水銀燈は、憤怒の表情で総番をねめつけた。
「ふん……少し頭を冷やしたほうが良さそうだ。どんなに美人の姉ちゃんだって、そんな鬼のような形相をされたら、起つものも起たなくなっちまう」
  総番とその取り巻きたちは退出する。照明が落とされた。見張りは残されなかった。
  クールダウンの時間が短いから、必要ないと判断されたのか。それとも、土方のような堅物でなければ、妖艶な水銀燈の見張りは務まらないと考えられたからか。
  どちらにせよ、絶好のチャンスだ。
  水銀燈の背中の縄が、ぱらぱらとほどけた。時間をかけて、鉄柱の角に擦りつけていたのだ。
  自由を取り戻した彼女は、急いで雛苺と金糸雀を簀巻きから解放する。
「さ、逃げるわよぉ……」
「ちょ、あなた!!」
  残る一本の簀巻きが、懸命に体をくねらせて自己主張する。
「……そう言えば、あなたもいたんだっけぇ、すっかり忘れてたわぁ」
「な、何、莫迦なこと言ってるのよ。さっさとこの簀巻きをほどきなさい!」
「あらぁ、それが人にものを頼む態度ぉ? 私ねぇ……真紅ぅ、あなたがぶくぶくと水に沈みながら、もがき苦しむところ、見たくなっちゃったかもぉ」
「えっ……ええっ!? あっ、あの、その、あなた、水銀燈、まさか本気じゃ……」
「二人とも、何やってるのー!? さっさと逃げ出さないと、また酷い目に遭わされるのーーっ!!」


  雪華綺晶と薔薇水晶の陽動が、功を奏したかに思えた。
  しかし、気がつくと、元の木阿弥。
  お世辞にも身のこなしが優れているとは言えない、雛苺と金糸雀をかばいながらでは、真紅も水銀燈も、普段の半分も実力を発揮できなかった。
  二百人に、ぐるりと取り囲まれていた。
「なかなか手間取らせてくれるな……だが、それもここまでのようだ」
  総番が冷たく嗤った。
  真紅も水銀燈も、もう絶望の色を隠せなかった。
  と、そこへ。
「待った、待った、待ったぁああああああああ!!!!」
  傷だらけの土方が、人をかき分けて現れ、総番の前に立ちはだかった。
「……何だ、お前。まだ逆らう気なの?」
  総番の顔から表情が失せる。
「どうか……どうか、お願いします。あねさんは……あねさんだけは、見逃してやってください。あっしはどうなっても構いませんから……」
「そうかい」
  懇願する土方に対し、総番はぶらりと歩み寄ると。
  何のためらいもなく、土方の腹にナイフを衝きたてた。


  がっくりと膝を突く土方。金糸雀が慌てて駆け寄って、その巨体を支えようとするが。
「ひ、土方君、大丈夫!? しっかりするの……かしら……」
「へへっ、あねさん、ざまあねえですや……今まで莫迦ばっかりやってた、報いって奴ですかね……」
  非力な金糸雀には支え切れず、土方は、仰向けにばったりと倒れ伏した。鮮血が、薄汚れたシャツを見る見る真っ赤に染めていく……。
  土方は、残された最後の力を振り絞って、金糸雀に長ランの内側を指し示した。
「こ、これは……」
  金糸雀は息を呑んだ。
  一体どこから調達してきたのだろう。
  見慣れた形のケースに納められた、バイオリンと弓のセット。
「へへっ、あねさん……最後にもう一度だけ、あねさんのバイオリンが聴きたいな……」
  乙女の瞳の奥に、かつてない強い意志の力が宿る。金糸雀は、涙を振り払って立ち上がると、バイオリンの弦に弓をあてがって構えた。
「ああん、何をするつもりだ……?」
  総番は首を傾げた。
「金糸雀、一体何をするつもりなの……?」
  真紅たちも、訳がわからない。
  金糸雀は、思いの丈を込めて、バイオリンの弓を操った。


  ホゲエエエエエエエエエエエエエエエエエエエエエエエエエエエエエエ……。
  音律が、凶器と化した。
  地獄の釜の蓋が開いたような軋んだ高音が、冷たく冴えた夜空をびりびりと震わせる。
  頭蓋骨を直接ハンマーで殴打されるような衝撃が、無差別に撒き散らされた。
「ぎぃいいいいいいいいッやぁああああああああッ!!!!」
  総番が、屈強なバンカラどもが、頭をかきむしり、白目を剥き、口から泡を吹いて、ばたばたと崩れていく。
  土方は、耳から血を垂れ流しながら、ふと昔のことを思い返していた。
  クラスメイトが卒業を控えたあの日。すでに留年が確定していた土方は、抗争相手の卑劣な罠にはめられたのだ。
  口一杯に錆びた鉄の味が広がった。両手両足が鉛のように重くなり、立っていることすらままならなかった。情け容赦なく追いつめられた。しかし、不思議と恐怖は感じなかった。
  己の腕のみを頼みに生きてきた。生き恥はさらしたくない。散り際はわきまえているつもりだった。
  そんな絶体絶命の状況に、たまたま彼女が通りかかった。
  救いようのないチンピラどもの抗争だ。黙って通り過ぎることもできたはずだった。
  彼女は、そうはしなかった。持ち合わせていたバイオリンケースを広げると……。
  その時、土方は、生まれて初めて、心の底からの真の恐怖を覚えた。踏みにじられる虫けらの心情がわかった気がした。
  死にたくないとひたすら切望した。
  病院で意識を取り戻したとき、土方は、天の采配に感謝した。
  逆立ちしたって敵わない高みが存在する。自分は、何てつまらないことにこだわって、たった一つの命をふいにするつもりだったのか。
  金糸雀が教えてくれた真理だった。
「へへっ、かなりーのあねさん……やっぱ、すげえ……カッコいいぜ……」
  土方は、静かに眼を閉じた。


「いッ……いやああああああああががががッ!!!!」
「頭がッ、頭が割れそうに痛いのーーーーッ!!!!」
「かッ、金糸雀ッ、あなたッ、私たちまで殺す気!!??」
  三人は、地面でのたうっていた。
「あべしっ」
「ひでぶっ」
  そこかしこから、あり得ないはずの悲鳴が聞こえてくる。
  真紅も水銀燈も雛苺も、恐怖の本当の意味を叩き込まれていた……。


  半年後。
「はわわわわわわーーっ、今日も遅くなってしまったのかしらーーっ、今日は一時間目から化学なのかしらーーっ、まだ全然準備していないよ、どうしよう……」
  金糸雀が、いつものように、遅刻ぎりぎりで職員室に駆け込んでくると。
「ご心配なく、あねさん。実験室のほうは、万事滞りなく準備を済ませておきやした」
「はわわわわわわーーっ、ピチカートっ、いつもいつもありがとうなのかしらーーっ」
  とんぼ返りするように、実験室へと駆け出していく金糸雀。
  土方は、ようやく己の居場所を見つけたようだった。