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ミッドナイトブルー」(2006/08/06 (日) 00:17:02) の最新版変更点

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 聞こえるのは、虫の音、草の揺れる音、川のせせらぎ 感じるのは、風、体全体を覆う虚脱感 見えるのは、漆黒を背景に燦々と光り輝く、信じられないほど凄艶な月 想うのは、今までの自分 転がったまま右を見ると、金属バットで殴られた右腕が折れていることが視認できた。 感覚から、足も折られているだろう。 未だ興奮しているせいか、痛みは思ったほどない。 自業自得だった。 最初は夜遊びから始まって、そのうち柄の悪い奴らとつるむようになった。 そいつらといると自分が強くなったような気がして、調子に乗ってたらチンピラに絡まれて殴られて。 気付くと、一人だった。 わかってはいたけど、改めて今までの自分の薄っぺらさを実感し、どうしようもなく泣けた。 泣きながら、静かに目を閉じた。 その日の会議で、真紅のクラスの後藤が右手右足を折られ倒れているのが発見された、と報告された。 命に別状はないということだが教職員たちは皆、何を言っていいのかわからず、歪な表情を作った。 中でも特にショックが強かったのが、もちろん担任であった真紅だった。 警察側は現場の状況から見て傷害事件の方向で捜査を進めているが、犯人は一向に見つからない。  事件発生2日後、後藤の意識は戻っても犯人は見つからなかった。 真紅は後藤の意識が回復したと聞いてすぐに病院に駆けつけたが、面会は許されなかった。 真紅としては、なんとも紅茶がおいしくない状況が続いていたある日、職員室にきた一人の生徒が真紅に言った。 「あの、俺、あいつを殴った奴、知ってます」 真紅は驚き、決して誰にも言わないことを約束し、生徒から情報を聞き出した。 生徒はその日、後藤と土手で酒を飲んで騒いでいるうちに酒が無くなったので、買出しに行った。 そして帰ってきたとき、後藤が顎から頬の中ごろまで傷があるヤクザに絡まれていたのを発見し、生徒は恐怖のあまり酒を投げ捨て逃げ出したという。 そのためその後のことはわからないとだけいって、そそくさと職員室を出て行った。 なるほど、ヤクザか、もしかしたら警察が犯人を見つけられないのも、いや、もしかしたらもう見つけているのかもしれない、だけど・・・ 真紅はしばらく思案し、おもむろに雪華綺晶のもとへと歩み寄ると、静かに話しかける。 「雪華綺晶、ここら一帯を仕切ってるヤクザについて、できるかぎりの情報を集めてもらえない?」 雪華綺晶は椅子を回転させ真紅と向き直る。 「・・・・・・高いぞ」 「ええ、お礼はいくらでもするのだわ」 「・・・わかった、多分ここらへんを仕切っているのは石畑組だろう、そうでかい所でもない、事務所の所在地ぐらいだったら今すぐにでも調べられるが?」 「できれば個人を特定してほしいのだわ」 彼女の表情が少し曇る。 「個人か、そうなると少し時間が掛かるな、どんな奴だ?」 「顎から頬の中ごろまで傷がある男」 「かなりわかりやすい奴だな、3日あればいけるだろう」 「ありがとう、頼むのだわ」 雪華綺晶は再びパソコンと向かい合うと、惚れ惚れするくらいのブラインドタッチで作業モードに入った。 真紅はしばらくその様子を見ていたが、しばらくしておもむろに口を開いた。 「理由・・・聞かないの?」 「聞いてほしいのか?」 雪華綺晶は手を休めることなく聞き返す。 「いいえ、なんとなく聞いてみただけ」 「理由がどうだろうと、それ相応の報酬をもらえればそれでいい」 「ええ、かならず」 授業開始十分前のチャイムが鳴る中、真紅は次の授業へと向かった。 コツ、コツ、と歩く音が、病院の静謐な空気に混じり、溶けてゆく。 そこには、先ほどまでのロビーの騒がしさは微塵もない。 『後藤』と書かれたプレートが飾られている部屋の前で止まり静かにドアを開けると、後藤は足を吊られた状態で、ただ天井を見つめていた。 真紅は一歩踏み出す。 音に気付いた後藤が真紅を発見した。 後藤は驚いたが、真紅の顔に変化はない。 「怪我はどう?」 「先生・・・・・・」 横になった後藤の目から、大粒の涙が溢れ枕を濡らしていく。 「先生ぇ、俺、来てくれるなんて、思って、なかったから・・・俺、友達は、来てくれないって、わかってたけど、やっぱり、寂しくて、悲しくって、親にも、じ、自業自得だ、って言われて、だから、先生、来て、くれると思わなくって」 「そうね、確かに自業自得だわ」 「先生ぇ、こんな時位、優しくしてくれたって、いいじゃないですか」 「それじゃあ貴方のためにならないの、これからは一度死んだつもりで、人生をやり直しなさい。 貴方はまだ若いんだから」 真紅の顔に、いつの間にか微かな微笑が見られた。 そして、それに気付いたとき、真紅は初めて自分が教師になったことを自覚した。 ふと時計を見ると、もうすぐ面会時間が過ぎるところだった。 ベッドに背を向け、ドアノブに手をかける。 「・・・先生、ありがとうございます」 聞こえたか聞こえなかったのか、真紅は手に力を入れ、一気にドアを開ける。 ビュウ、と風が吹き抜けた。 ドアを後ろ手で閉めると、そこには先ほどまでの慈愛に満ちた教師の顔はなく、あるのは、溢れんばかりの悪意に満ちた無表情。 彼女は怒りであれ悲しみであれ、感情の変化をあまり外に出さない。 それは自分の弱い部分を見せたくない、という彼女の信条によるものであった。 外はもう暗く、病院という場所だけあって、周囲は静まり返っていた。 窓から覗く、夜空に赤々と輝く月。 差し込む紅い月光に照らされた真紅の表情は、たとえ様がなく美しく、艶やかだった。 翌日、真紅は一番に雪華綺晶のデスクへと向かう。 雪華綺晶は真紅が来たことに気付くと、待ち構えていたように話し始めた。 「来たか、早速結果を話してもいいか?」 「ええ」 真紅は荷物を置きながら隣の椅子に座る。 「結果から言うと、やはり奴は石畑組の構成員だった。 名前は結菱一葉、石畑組次期組長有力候補で、今は組長代理をやっている」 「組長代理って、今の組長は?」 「既に隠居したが、まだ次期組長を決めかねているらしい。 それについ最近になってダークホースが現れた。」 「ダークホース?」 「ああ、組の構成員じゃないんだが、組長はそいつのことをえらく気に入っているらしく、このごろはほとんど毎晩そいつと飲み明かしているらしい。」 「もしかしたらそいつが次期組長になるかもしれない」 「そうだ、結菱は頭もあるし部下からの人望も厚いが少し人情に欠ける所があるらしく、そこが組長の決めかねている点だ。 当然ダークホースの出現は結菱も知っていて、ありえないとは思っていながら一抹の不安は拭い去れないのだろう。」 「ダークホースについての情報は」 「全く、影のような奴だ」 雪華綺晶は少し渋い顔をする。 「雪華綺晶にそこまで言わせるなんて、凄い奴もいるものだわ」 「私にだって不可能なことぐらいある、それに、ダークホースについてはそこまで気にしなくてもいいだろう」 「そうね・・・・・・ところで、結菱が一人になる時ってある?」 「一人になる時か・・・・・・ないことはない、が、もしその時に奴に接触しようとしているならかなり危険だ。 やめておいたほうがいい、これは友としての忠告だ。」 「そんなこと、わかりきってるのだわ、私は大丈夫だから、教えて、雪華綺晶」 「・・・・・・わかった、これは確実な情報ではないが、結菱が八日の深夜、一人で工場の廃墟へ入っていくのを見た奴がいるらしい」 「ありがとう、全部済んだらお礼はいくらでもするのだわ」 「楽しみだな」 そう言う雪華綺晶の顔に笑顔はない。 真紅は席を立つと、自分のデスクへと戻っていった。 二人は気付いていなかった。 職員室に二人以外の人物、金糸雀がいたことを。 金糸雀は今日たまたま朝早く来ていたのだ。 金糸雀が今の会話から全てを理解できたわけではないが、真紅が何か危険なことをやろうとしているのは理解できた。 多分、二人の秘密ごと、他の人に聞かれてはいけないものだということも。 しかし金糸雀は自分でも自覚するほど口が柔らかかった。 だから、もし誰かの秘密を知ってしまった場合はいつも決まってある人の元へと向かうのである。 その人の名は、みっちゃん。 金糸雀の友人であり生徒であった。 昼休み、薔薇水晶特性の弁当を食べ終わった雪華綺晶に、不敵な笑みを浮かべながら近づく水銀燈。 「雪華綺晶ぉ~?」 雪華綺晶は弁当を片付けながら水銀燈へと向き直る。 「なんですか?」 水銀燈は、明らかにわざとであろう、少しいいにくそうにしながら言った。 「今朝ぁ、真紅となに話してたのぉ?」 雪華綺晶はしまったと思った。 まさかあんな朝早く、ましては水銀燈が来ているとは思っていなかった。 動揺はしているが、それを表に出す雪華綺晶ではない。 あくまで冷静を装う。 「何のことですか?」 「もぅ・・・かまかけてるわけじゃないのよぉ、ねぇ、教えてくれたっていいじゃなぁい」 「クライアントの情報は漏らせません」 「そう・・・」 水銀燈は頭をもたげ、肩を落とし、あからさまに落胆する。 雪華綺晶は諦めてくれたかと安堵したが、水銀燈の様子が段々と変わっていくことに気付き、慌てて椅子を立とうとする。 が、腕をつかまれ水銀燈に背を向ける形で強制的に座らされた。 「何を・・・」 いきなり水銀燈に後ろから覆われ、言葉を失う。 背中にやわらかく、暖かい感触が広がっていく。 「ねぇ雪華綺晶? 何話してたのか、教えてくれなあぃ?」 ため息を吐くような、この上なく妖艶で、幻惑的な喋り方。 鼓膜が振るえ、妙な快感に襲われる。 「無理・・・です」 水銀燈は攻撃の手を緩めない。 右手をゆっくりと、体を這うように耳の後ろへと、髪の毛の中へと滑り込ませてゆく。 段々と雪華綺晶の呼吸が荒くなっていく。 水銀燈はおもむろに口を開くと、止めといわんばかりに唇で雪華綺晶の耳をはむ。 「あっ・・・」 雪華綺晶の口から甘い声が漏れる。 「・・・お姉さま・・・」 水銀燈の口に勝利の笑みが浮かぶ。 「教えてくれるぅ?」 雪華綺晶は 「・・・はい・・・・・・」 堕ちた。 同じく昼休み、金糸雀のクラス。 「みっちゃーん、ちょっといいかしら?」 そう言って、弁当を手にぶら下げながらにこやかに微笑む金糸雀。 「あ、先生、いいですようそんなの、全然OKですよ」 突然の金糸雀の訪問により一気にハイテンションになったみっちゃんは、身振り手振りで金糸雀の来訪を許可した。 金糸雀は近くの空席を拝借して座り、お弁当を広げはじめる。 少し間をおいてから、みっちゃんが話しかける。 「それで、今日はどうしたんですか?」 こんなことを確信を持って聞けてしまうほど、みっちゃんは金糸雀を知り尽くし、理解していた。 そしてそれは金糸雀にとって決して不快なことではなく、むしろ喜ばしかった。 「あのねみっちゃん、これは本当に他の人には言わないでほしいのかしら」 「うん、絶対言わない」 もちろん嘘である。 今まで一度たりとも、みっちゃんはこの約束を守ったことがない。 「今朝ね、真紅と雪華綺晶がコソコソ話し合ってたのを聞いたんだけど、「組長」とか「危険」とか聞こえたのかしら」 普通の人間が聞いたならば、あまりに要領得ない話。 軽く流してしまうだろう。 しかしこの場にいたのは普通ではない人間だった。 みっちゃんはまず「組長」という単語から「ヤクザ」という世間一般の発想をマッハの速度で通り越し、一気に人身売買、薬、ヤミ金融等々まで到着。 次の「危険」という単語では、○○や○○○○○や○○○○○○○といった、もはや一般の人間では頭に思い浮かべることすら嫌悪するような単語がずらりと頭の中を並んだのである。 少し思い込みの激しいみっちゃんの顔色はみるみるうちに蒼白になっていく。 「き、危険すぎる、危険すぎるわ先生」 金糸雀はみっちゃんのあまりの迫力に気圧され、全く言葉を失ってしまった。 「先生、このことは絶対に忘れたほうがいいわ、絶対にこのことを他の誰かに言っちゃだめよ」 2度の「絶対」、すっかり立場が逆転してしまったが、そんなことを考える余地は金糸雀には無かった。 金糸雀はただ何度も頷きながら、弁当をしまってフラフラとその場を後にした。 それを見届けたみっちゃんは、さて、とさっきまでの顔をいつものやんわりとした笑顔にもどし、意気揚々と教室を飛び出していった。 「やっほー」 と意気揚々と教室に入ってきたのはみっちゃん、金糸雀からの情報を早速話の種にしようとJUMのクラスへとやってきたのである。 JUMと巴は弁当を食べている最中だったが、そんなことはお構い無しに話し始める。 「でね、真紅先生と雪華綺晶先生が「ヤクザ」とか「危険」とか言ってたんだって」 少し話しに嘘を織り交ぜながら、限りなくマイペースに喋るみっちゃん。 「でもそれだけじゃあ何話してるか全然わからないだろ」 「確かに」 2人に事の重大さを否定され、若干立場が弱くなる。 そこへ、何も知らない桑田由奈は不幸なことに近くを通りかかってしまった。 「あ、由奈ちゃーん、ちょっとちょっと」 「ん、どうしたの?」 みっちゃんは近くに寄ってきた桑田由奈に対して、さきほどよりももう少しだけ拡張された話をする。 「んー、それはちょっと怖いね」 「でしょでしょ、これでイーブン」 得意げに胸を張るみっちゃん。 「何がイーブンだよ、しかもさっきより話がでかくなってるし」 「じゃあさ、今日真紅先生をつけてみない?」 みっちゃんの突拍子もない提案に、全員が冗談だと思った。 が、みっちゃんは本気だった。 「ねぇ、行こうよ」 「うーん、私は部活があるし」 「僕も遠慮しとく」 2人に断られ、最後の希望、残る一人に精一杯の眼差しを送る。 「わ、私も部活が・・・」 「ひ、酷いよみんな、放課後正門前でまってるから!」 ダッ、とみっちゃんはまさに脱兎のごとく教室から飛び出していった。 「あいつ、最後に言い捨てていきやがった」 あっけにとられるJUMに、問う巴。 「どうする、行く?」 「行かない」 「由奈はどうする?」 「私は巴が行くんなら行く、かな」 巴は少し考え 「私、行ってみる」 と結論を出した。 「ええ!」 驚いたのはJUM。 JUMの知る限り、巴は他人に対してあまり興味のない性格だと思っていたからだ。 巴は驚いているJUMに向かって、もう一度問う。 「行く?」 JUMはすこーしだけ考え 「行く」 と決断を出した。 放課後、あたりはくすんだ橙色に染まり、あちらこちらで部活に励む声が聞こえてくる。 正門前には3人、JUM、みっちゃん、由奈が肩を並べて、残る一人を待っていた。 「遅いなー、巴」 誰に言うでもなく、一人呟くみっちゃん。 ほどなくして、後ろの方から誰かの駆けてくる音がした。 3人は一斉に振り向く。 「遅くなってごめん」 皆に向かって誤る巴。 みっちゃんは巴の息が整うやいなやに話を始める。 「では、もうすぐここを真紅先生が通るので、自然に挨拶の後尾行、ということで」 ここで、JUMに一つの疑問が浮かぶ。 「ちょっとまて、考えてみりゃ真紅は車で学校に来てるんじゃないか?」 「え?マジで?」 JUMの疑問に怪訝な顔をするみっちゃん。 「マジで?ってそんなことも知らなかったのか?!」 「それは知らなかったなぁ」 「知らなかったなぁ、って・・・」 返す言葉を失っていると、真紅の赤いフォルクスヴァーゲンが姿を現した。 車は4人の前で一旦停車する。 「こんなところで何してるの? 早く帰りなさい」 真紅はそれだけ言うと、車を発進させた。 みっちゃんが徐に口を開く。 「・・・がんばれ男の子」 「は?」 「男なら走って尾行するぐらいの根性を見せてほしい、ってこと」 「なんで俺がそんなことしなくちゃ・・・」 言いかけたところで、今度は巴が口を開いた。 「がんばって」 この一言でJUMは負けた。 そして今、彼は苦しいやらわけはわからないわで半泣きになりながら走っている。 こんなもの、もはや尾行ではない。 だがそんなあたりまえのことですら、彼女らの前では悲しいほど無力だ。 赤いフォルクスヴァーゲンが霞む、もうそろそろ視認できる距離を越えるだろう。 どうせ何にもないに決まってる、あそこの交差点を右に曲がればすぐに真紅の家だ。 しかし、JUMの考えは見事に外れた。 真紅は交差点を左に曲がったのである。 左に行っても、その先には今では誰も近づかない寂れた工業地帯しかない。 残りの力を振り絞り走るが、とうとう見失ってしまった。 JUMは、巴の言っていた事を思い出していた。 「なぁ、なんで行くことにしたんだ?」 巴はちょっと言いにくそうな顔をした。 「あんまり他の人には言わないでほしいの」 もちろん、どこぞの誰かさんと違って人に言いふらしたりはしない。 「わかった、言わない」 「この前友達が言ってたことなんだけど、うちのクラスの後藤君、この前から怪我して学校に来てないけど、それ実はなんかの事故とかじゃなくて、ヤクザに絡まれて怪我したらしい、って」 「それ、ちょっと危険かも」 「うん、真紅先生の性格を考えたら少し心配で」 「確かにあいつ人一倍クールに見えて、実は相当な生徒想いだからな」 「真紅先生、普段は冷静に振る舞って感情をあまり表に出さないけど、それはただ自分の中に渦巻く感情を、いつもギリギリのところで押さえつけてるだけだから」 「でも、相手はヤクザ・・・」 「そうね」 「・・・かなり危険かも」 JUMはただ、真紅の行ってしまった方向を見つめながら、呆然と立ち尽くしていた。 その先はどこまでも暗く、汚い鉄の塊が聳え立っている。 なすすべもなく、とぼとぼと来た道を戻るJUM。 途中で、後からやってきた3人にあった。 「どうだった?」 「・・・帰る方向が、違かった」 巴の質問に、顔色の悪いJUMは素直に答える。 「どこに行ったの?」 「使われなくなった工業地帯」 場を、重い空気が支配する。 「・・・行こう、明日また、今度は自転車で」 巴は、ほんの少しの微笑みを浮かべながら、JUMと向き合う。 JUMは考えるまでもなく。 「行こう」 と答えた。 「私たちもいくよぉ」 みっちゃんが話に割り込む。 「え? 私も?」 「当然」 不幸なことに、由奈は律儀にその場にいてしまった。 車を、ゆっくりと停車させる。 眼前には、「不気味」という言葉で全てを表せるような、何もなくて、何かありそうな光景。 もはやガラクタとしか認識してもらえない、様々な規模の建物が混在する場所。 フェンスには関係者以外立ち入り禁止と書かれたプレートが張られていた。 真紅は別段気にする様子もなく、フェンスをよじ登り進入した。 今日、奴がいるとは限らない。 ただ、何かあったときのためにある程度は把握しておきたい。 そう思い、大きい建物から小さい建物へ、順々に回っていく。 大方見終えると、日付はもう翌日になっていた。 今日はもう来ないだろう。 それに、少しは睡眠もとらなくてはならない。 真紅は一度ため息を吐き、家へと帰っていった。 同じ頃、学校の職員室に雪華綺晶、水銀燈の二人がいた。 雪華綺晶はパソコンのディスプレイを終始食い入るように見つめ、後ろでは水銀燈がコーヒーを啜りながらその様子を見ていた。 「来た・・・」 雪華綺晶がそういうと、水銀燈も椅子から立ち上がりパソコンの画面に顔を近づける。 画面には今まさにフェンスをよじ登り、進入を試みている真紅が映っていた。 「やぁっぱり思ったとおりねぇ、本当におばかさぁん」 水銀燈は雪華綺晶を抱きいれた直後に、監視カメラを設置させるよう手回しをさせたのである。 カメラは以前真紅を捉え、放さない。 「この調子じゃ明日も来るわねぇ」 「明日?」 「明日は一葉がきちゃうからまずいのよぉ とりあえず明日だけでも乗り切れば、あとはほとぼりが冷めるまで一葉に取引をやめとくように言えばいいだけなんだけどぉ」 水銀燈は意地悪な笑みを浮かべる。 「・・・明日、一葉って奴に真紅を近づかせなければ・・・?」 「そうよぉ・・・・・・やってくれるぅ?」 雪華綺晶に考える必要はなかった。 それで水銀燈が喜ぶのなら、真紅という友を失ってもいいと思った。 「やる」 画面では、真紅がため息を吐いていた。 朝、真紅にとってはあまりいい目覚めではなかった。 睡眠不足でボーっとする頭をひきづり、バスルームへと向かいシャワーを浴びる。 一時的には目が覚めたがすぐに眠たくなってしまう。 このまま寝てしまいたい衝動に駆られるが、生徒たちのことを思うと、どうにも休むわけにはいかない。 そんな自分を客観的に見たとき、心の底からこの職業を愛している自分を自覚した。 それに、今日こそは奴がくると、確信めいた自信があったから。 紅茶を飲み干すと、学校へと向かった。 職員室に入ると、蒼星石が翠星石に水の入ったコップを受け渡されてる所を発見する。 二人の会話の内容から、蒼星石が二日酔いで頭が痛いらしい。 珍しいことだ。 蒼星石はいつも、翠星石の面倒を見なければならないからといってお酒はほどほどにしておくのに。 「飲みすぎるなんて蒼星石らしくないです」 「ごめん、最近よく変なおじいさんに飲みに連れて行かれるんだ」 「変なおじいさん? そんな怪しい奴と飲みにいってるですか? 」 「うん、そのおじいさんが言うにはね、僕が死んだ息子に似てるらしくてさ、どうにも断れないんだ」 それを聞くと翠星石はワナワナと肩を震わし、蒼星石に、翠星石とおじいさんどっちのほうが大事なの? とまるで交際中のカップルのような一方的な喧嘩を始めた。 まあ、いつものことなので特に気にはしない。 そんなことよりも、真紅はあるものを確認するためポケットから小さめの、ややアンティーク染みた鍵を取り出すと、デスクの引き出しの鍵を開ける。 すると中から出てきたのは布にくるまれた何か。 丁寧に布を解いていくと、姿を現したのはむき身のナイフが15本ほど。 周りに誰もいないことを確認してから、1本1本机の上に並べていく。 ナイフは横から見ると刃の部分が広く、色は赤。 楕円形の葉っぱのような形状で、細くなっていったその延長線上が持つ部分になっているというなんとも変わったものだった。 真紅は刃こぼれなどがないか丹念に調べていき、最後の一本のチェックが終わったとき、後ろから声をかけられた。 「あら真紅? 何してるのかしらぁ?」 慌てて後ろを振り向くと、一番見られたくなかった相手、水銀燈が立っていた。 「何って? たまには整備してあげないとこの子たちがかわいそうでしょ?」 あくまで平静を装う。 「へぇ 整備ねぇ・・・まあいいわ、じゃあねぇ」 水銀燈は一度、得意の含み笑いをするとその場を去っていった。 これ以上誰かに見られてはよくないので、真紅は早々にナイフを布に包みなおし、今度は引き出しではなく、鞄にしまった。 昼休み、巴は蒼星石の元に訪れた。 「先生、今日部活を休ませてもらってもよろしいですか?」 と、部活を休むことの許可を求める。 「ああ、いいよ」 だがこれは本題ではなく、話のきっかけでしかない。 「あの、昨日のことなんですけど」 蒼星石は相槌を打ちながら、心の中で首をかしげる。 巴が何か相談してくることは珍しかった。 「昨日、真紅先生の後をつけたんです。 そしたら、真紅先生この近くの廃棄された工業地帯に入っていったらしいんです」 突然の巴の告白に驚愕し、耳を疑うが嘘を言う子ではない。 何か理由があるのだろう。 「友達が、真紅先生が「ヤクザ」とか「危険」とか話してたって聞いたって言ってたんです。 だから、心配で、蒼星石先生に話しておこうと思いました」 「そうか・・・今日も行くのかい?」 非難するわけでもなく、あくまで優しい口調で聞く蒼星石。 巴は正直に答える。 「はい、行きます」 「わかった。 何かあったらすぐに僕の携帯に連絡して、いつでも動けるようにしておくから」 「ありがとうございます」 振り返り、職員室を出て行こうとする巴は、蒼星石に聞く。 「先生は、止めないんですか?」 蒼星石はあくまで平穏に返答する。 「止めたら、行くのをやめるかい?」 「やめません」 ハハハ、と乾いた笑いが聞こえる。 「気をつけて」 それだけを聞くと、巴は職員室を出て行った。 正門前には、昨日の3人が自転車にまたがり待っていた。 遅れてしまったことを悪く思いながら、4人で既に学校を後にしていた真紅のことを追う。 赤いフォルクスヴァーゲンがとまっていたのは、立ち入り禁止と書かれたフェンスの前、4人は自転車をその近くに止めた。 「本当に、こんなところに入っていったのかな・・・真紅先生」 由奈が、信じられないといった口調で呟く。 他の3人も、それには同意だった。 しかし、真紅が入っていったのは事実だった。 いつまでもここで立ち尽くしているわけにはいかないので、4人は恐る恐るフェンスの向こう側へと足を踏み入れた。 次の瞬間、あたりに白煙が立ち込める。 「何?! 何これ?!」 みっちゃんと由奈は完璧に混乱、巴は竹刀袋から竹刀を2本取り出し、1本をJUMに渡す。 2人はお互いが目視できる程度の距離を保ち、回りの気配を窺った。 程なくして白煙が消え去ると、JUMと巴は、みっちゃんと由奈の2人がいなくなっていることに気付く。 そして2人の前には、さっきまではいなかった人物、雪華綺晶がいた。 「こんなところで何をしてる。 今日はもう遅い、帰ったほうがいい」 こんな状況であっても、教師として語りかける雪華綺晶。 もしここで断れば、彼女は教師の仮面を捨て、一瞬にして最凶の敵へと変わるだろう。 素直に帰れ、彼女の目は、そう訴えかけている気がした。 JUMは恐怖を飲み込み、口を開く。 「嫌だ・・・といったら・・・」 雪華綺晶の顔に変化はなく、返答もない。 思わず、竹刀を握り締める手に力が入る。 3人は、ただ立ち尽くしていた。 その頃真紅は、多分最初にして最後の山場、水銀燈と対峙していた。 「なぜあなたがここにいるの?」 「なぜって? そんなこと教える必要なんてないでしょう」 「そこをどきなさい」 「嫌よ」 じわじわと、澱んでいく空気。 最初に動いたのは真紅、右腰のホルダーからナイフを一本取り出すと、水銀燈に向かって投げつける。 対する水銀燈はナイフをいとも簡単に避け、更に通り過ぎていくはずのナイフを手で掴む神業をやってのけた。 真紅は間合いを詰め、右拳を水銀燈の水月めがけて突き出す。 水銀燈は一歩引き、先ほど掴んだナイフを真紅の頭めがけて投げ返す。 真紅は身をかがめナイフを避け、続けて顎にくる水銀燈の蹴りをこれも同じく後ろに跳び避ける。 まさしく一進一退の攻防だった。 JUM、巴、雪華綺晶は以前固まったまま動かない。 ふと、巴が何かに気付くと、竹刀は中段のままジリジリと雪華綺晶に近づきはじめる。 雪華綺晶は腰元のホルダーからサバイバルナイフを引き抜くと、前に突き出し、半身の構えをとる。 巴の攻撃が一歩で入る間合いになった瞬間、雪華綺晶に向かって竹刀が振り下ろされた。 刹那、完璧に入ったと思われた巴の一撃は、雪華綺晶の異常な反射神経と瞬発力によって竹刀が折られ、リーチが半減したことによってとどかなかった。 流石の巴も驚きを隠せず、間合いなど関係なく後ろに下がる。 JUMにとっては見ることすら難しかった今の攻防、自分の力の無さを思い知った。 巴は、2、3回深呼吸すると冷静さを取り戻し、JUMに貸した竹刀を再び自分の手に戻す。 再びジリジリと近寄っていく巴。 雪華綺晶も先ほどと同じに構えなおす。 そして一歩の間合い。 今度はJUMに見ることすらさせない、突き。 雪華綺晶は半歩後ろに下がり、またも竹刀をぶち折る。 だが巴はとまらない。 その折れた竹刀でもう一撃、今度は伸びのある面。 雪華綺晶は1歩後退し、今度は竹刀の刃である部分を根こそぎぶっ飛ばした。 ここであろうことか、巴は残された柄を雪華綺晶に向かって投げた。 雪華綺晶もこれには少し反応が遅れ、ナイフを横にして完璧な防御に回る。 そこを狙っていたかのように、蒼星石が工場の影から飛び出し、竹刀で雪華綺晶のナイフを弾くとそのまま体当たりをかまして弾き倒した。 すかさず竹刀の先端を雪華綺晶の胸元へ向け、触れるか触れないかのところで止める。 剣道においては達人の域にまで達している蒼星石に、ここまでの状態にされては雪華綺晶もなすすべがなかった。 「終わりだね」 蒼星石は雪華綺晶に優しく語りかける。 「ああ、私の負けだ。 大人しく引き下がろう」 竹刀を喉元から外すと、雪華綺晶は立ち上がり、体についたほこりを払い落とす。 「なんだ 負けてしまったのか?」 姿の見えない想定外の声に、皆体を緊張させる。 一つの工場の角から、体格のいい、金髪の男が姿を現した。 「君はさがってていいよ」 その金髪の男、槐は手にグローブをはめながら雪華綺晶にそう促す。 そして、誰もが想定外の第2ラウンドが始まった。 槐は徒手、蒼星石は竹刀、勝負は互角かと思われたが、蒼星石の一撃はあまりにもあっけなく止められた。 「やはり女の力なんてこんなものか」 言った直後、槐の容赦ないみぞおちへの殴打、吹っ飛ぶ蒼星石の顔が苦痛にゆがむ。 「先生!」 巴の悲痛な叫びが聞こえる。 武器のない巴には、どうしようもなかった。 戦えないJUMも、この時ほど自分の無力さを呪ったことはない。 槐はゆっくりと、止めをさすために地面に転がっている蒼星石へと近寄っていく。 「ぅわあああああああ」 突然、雄たけびを上げながらJUMが槐へと突進するが、槐の腰の入ったみぞおちへの一撃で、見事に吹っ飛ぶ。 そのまま地面に叩きつけられるかと思ったが、予想に反してJUMの体は何者かに受け止められた。 「大丈夫ですか」 「さすが男の子、がんばるね」 JUMを受け止めたのはラプラスだった。 横にはローゼンもいる。 槐は不思議そうに、我が校の校長と教頭をみている。 「誰だ? お前らは」 「黙れ」 瞬間、場が凍った。 普段のローゼンからは想像もできない冷たい声。 ローゼンは音速とも思われるほどの速さで間合いをつめ、槐の下顎にこれこそ光速とも言えるほどのフックをかます。 グラングランになった槐の頭をかかと落としで叩き割り、そのままコンクリートにひびが入るくらいの力で叩き付けた。 電光石火のラッシュ。 当然、槐は起き上がれず、ローゼンの言うとおり、完全に沈黙した。 誰もが言葉を失っていたが、ローゼンは気にも留めず 「じゃ、真紅先生のところへ行こうかな あ、みっちゃんと由奈ちゃんはさっき発見して保護したから大丈夫、蒼星石先生のことはよろしくね」 とだけ伝え、ラプラスとともに次なる目的地へと行ってしまった。 「はぁ・・・はぁ・・・ほんと、しつこいわね、真紅」 「はっ・・・はっ・・・そっちこそ、いい加減諦めたら」 お互いに肩で息をし、足はガクガクと震え、手には力が入らない。 真紅のナイフを残り一本となっていた。 水銀燈が、突然構えを解く。 「もういいわぁ、疲れたし、早く帰ってお風呂入りたいしぃ」 水銀燈は戦意を喪失し、フラフラとした足取りで真紅の横を通り過ぎていった。 大分時間をくってしまった。 そう思いながら、残った力を振り絞り走る真紅。 しばらく走っていると一つだけ、この真っ暗闇の中内部から光を発している小屋を発見した。 真紅はすぐに小屋へと近づき、窓から中の様子を窺う。 すると中には、顎から頬まで傷がある男、まさしく結菱一葉がそこにいた。 携帯電話で何かをしゃべっているようだ。 幸いなことに、窓に鍵は掛かっていない。 真紅は結菱一葉が背を向けてしゃべっている間に中へと進入した。 「おお、早くしろよ、切るぞ」 ピッ、と音がして電話が切られた。 ほぼ同時に、結菱の右足に異常としか思えない激痛が走った。 「ぎゃあああああああああああ」 結菱は痛さのあまり床をゴロゴロと転がりまわる。 涙でかすんだ目に映るのは、赤い人間のようなもの。 四つん這いになり出口へと向かうが、すぐに鈍器による2度目の殴打が今度は右腕に振り落とされた。 ミシ、と嫌な音がして、男の右腕は折れた。 「ぎゃああああああああああ」 そして、最初に折りそこなった右足に、最後の一打が振り下ろされた。
 聞こえるのは、虫の音、草の揺れる音、川のせせらぎ 感じるのは、風、体全体を覆う虚脱感 見えるのは、漆黒を背景に燦々と光り輝く、信じられないほど凄艶な月 想うのは、今までの自分 転がったまま右を見ると、金属バットで殴られた右腕が折れていることが視認できた。 感覚から、足も折られているだろう。 未だ興奮しているせいか、痛みは思ったほどない。 自業自得だった。 最初は夜遊びから始まって、そのうち柄の悪い奴らとつるむようになった。 そいつらといると自分が強くなったような気がして、調子に乗ってたらチンピラに絡まれて殴られて。 気付くと、一人だった。 わかってはいたけど、改めて今までの自分の薄っぺらさを実感し、どうしようもなく泣けた。 泣きながら、静かに目を閉じた。 その日の会議で、真紅のクラスの後藤が右手右足を折られ倒れているのが発見された、と報告された。 命に別状はないということだが教職員たちは皆、何を言っていいのかわからず、歪な表情を作った。 中でも特にショックが強かったのが、もちろん担任であった真紅だった。 警察側は現場の状況から見て傷害事件の方向で捜査を進めているが、犯人は一向に見つからない。  事件発生2日後、後藤の意識は戻っても犯人は見つからなかった。 真紅は後藤の意識が回復したと聞いてすぐに病院に駆けつけたが、面会は許されなかった。 真紅としては、なんとも紅茶がおいしくない状況が続いていたある日、職員室にきた一人の生徒が真紅に言った。 「あの、俺、あいつを殴った奴、知ってます」 真紅は驚き、決して誰にも言わないことを約束し、生徒から情報を聞き出した。 生徒はその日、後藤と土手で酒を飲んで騒いでいるうちに酒が無くなったので、買出しに行った。 そして帰ってきたとき、後藤が顎から頬の中ごろまで傷があるヤクザに絡まれていたのを発見し、生徒は恐怖のあまり酒を投げ捨て逃げ出したという。 そのためその後のことはわからないとだけいって、そそくさと職員室を出て行った。 なるほど、ヤクザか、もしかしたら警察が犯人を見つけられないのも、いや、もしかしたらもう見つけているのかもしれない、だけど・・・ 真紅はしばらく思案し、おもむろに雪華綺晶のもとへと歩み寄ると、静かに話しかける。 「雪華綺晶、ここら一帯を仕切ってるヤクザについて、できるかぎりの情報を集めてもらえない?」 雪華綺晶は椅子を回転させ真紅と向き直る。 「・・・・・・高いぞ」 「ええ、お礼はいくらでもするのだわ」 「・・・わかった、多分ここらへんを仕切っているのは石畑組だろう、そうでかい所でもない、事務所の所在地ぐらいだったら今すぐにでも調べられるが?」 「できれば個人を特定してほしいのだわ」 彼女の表情が少し曇る。 「個人か、そうなると少し時間が掛かるな、どんな奴だ?」 「顎から頬の中ごろまで傷がある男」 「かなりわかりやすい奴だな、3日あればいけるだろう」 「ありがとう、頼むのだわ」 雪華綺晶は再びパソコンと向かい合うと、惚れ惚れするくらいのブラインドタッチで作業モードに入った。 真紅はしばらくその様子を見ていたが、しばらくしておもむろに口を開いた。 「理由・・・聞かないの?」 「聞いてほしいのか?」 雪華綺晶は手を休めることなく聞き返す。 「いいえ、なんとなく聞いてみただけ」 「理由がどうだろうと、それ相応の報酬をもらえればそれでいい」 「ええ、かならず」 授業開始十分前のチャイムが鳴る中、真紅は次の授業へと向かった。 コツ、コツ、と歩く音が、病院の静謐な空気に混じり、溶けてゆく。 そこには、先ほどまでのロビーの騒がしさは微塵もない。 『後藤』と書かれたプレートが飾られている部屋の前で止まり静かにドアを開けると、後藤は足を吊られた状態で、ただ天井を見つめていた。 真紅は一歩踏み出す。 音に気付いた後藤が真紅を発見した。 後藤は驚いたが、真紅の顔に変化はない。 「怪我はどう?」 「先生・・・・・・」 横になった後藤の目から、大粒の涙が溢れ枕を濡らしていく。 「先生ぇ、俺、来てくれるなんて、思って、なかったから・・・俺、友達は、来てくれないって、わかってたけど、やっぱり、寂しくて、悲しくって、親にも、じ、自業自得だ、って言われて、だから、先生、来て、くれると思わなくって」 「そうね、確かに自業自得だわ」 「先生ぇ、こんな時位、優しくしてくれたって、いいじゃないですか」 「それじゃあ貴方のためにならないの、これからは一度死んだつもりで、人生をやり直しなさい。 貴方はまだ若いんだから」 真紅の顔に、いつの間にか微かな微笑が見られた。 そして、それに気付いたとき、真紅は初めて自分が教師になったことを自覚した。 ふと時計を見ると、もうすぐ面会時間が過ぎるところだった。 ベッドに背を向け、ドアノブに手をかける。 「・・・先生、ありがとうございます」 聞こえたか聞こえなかったのか、真紅は手に力を入れ、一気にドアを開ける。 ビュウ、と風が吹き抜けた。 ドアを後ろ手で閉めると、そこには先ほどまでの慈愛に満ちた教師の顔はなく、あるのは、溢れんばかりの悪意に満ちた無表情。 彼女は怒りであれ悲しみであれ、感情の変化をあまり外に出さない。 それは自分の弱い部分を見せたくない、という彼女の信条によるものであった。 外はもう暗く、病院という場所だけあって、周囲は静まり返っていた。 窓から覗く、夜空に赤々と輝く月。 差し込む紅い月光に照らされた真紅の表情は、たとえ様がなく美しく、艶やかだった。 翌日、真紅は一番に雪華綺晶のデスクへと向かう。 雪華綺晶は真紅が来たことに気付くと、待ち構えていたように話し始めた。 「来たか、早速結果を話してもいいか?」 「ええ」 真紅は荷物を置きながら隣の椅子に座る。 「結果から言うと、やはり奴は石畑組の構成員だった。 名前は結菱一葉、石畑組次期組長有力候補で、今は組長代理をやっている」 「組長代理って、今の組長は?」 「既に隠居したが、まだ次期組長を決めかねているらしい。 それについ最近になってダークホースが現れた。」 「ダークホース?」 「ああ、組の構成員じゃないんだが、組長はそいつのことをえらく気に入っているらしく、このごろはほとんど毎晩そいつと飲み明かしているらしい。」 「もしかしたらそいつが次期組長になるかもしれない」 「そうだ、結菱は頭もあるし部下からの人望も厚いが少し人情に欠ける所があるらしく、そこが組長の決めかねている点だ。 当然ダークホースの出現は結菱も知っていて、ありえないとは思っていながら一抹の不安は拭い去れないのだろう。」 「ダークホースについての情報は」 「全く、影のような奴だ」 雪華綺晶は少し渋い顔をする。 「雪華綺晶にそこまで言わせるなんて、凄い奴もいるものだわ」 「私にだって不可能なことぐらいある、それに、ダークホースについてはそこまで気にしなくてもいいだろう」 「そうね・・・・・・ところで、結菱が一人になる時ってある?」 「一人になる時か・・・・・・ないことはない、が、もしその時に奴に接触しようとしているならかなり危険だ。 やめておいたほうがいい、これは友としての忠告だ。」 「そんなこと、わかりきってるのだわ、私は大丈夫だから、教えて、雪華綺晶」 「・・・・・・わかった、これは確実な情報ではないが、結菱が八日の深夜、一人で工場の廃墟へ入っていくのを見た奴がいるらしい」 「ありがとう、全部済んだらお礼はいくらでもするのだわ」 「楽しみだな」 そう言う雪華綺晶の顔に笑顔はない。 真紅は席を立つと、自分のデスクへと戻っていった。 二人は気付いていなかった。 職員室に二人以外の人物、金糸雀がいたことを。 金糸雀は今日たまたま朝早く来ていたのだ。 金糸雀が今の会話から全てを理解できたわけではないが、真紅が何か危険なことをやろうとしているのは理解できた。 多分、二人の秘密ごと、他の人に聞かれてはいけないものだということも。 しかし金糸雀は自分でも自覚するほど口が柔らかかった。 だから、もし誰かの秘密を知ってしまった場合はいつも決まってある人の元へと向かうのである。 その人の名は、みっちゃん。 金糸雀の友人であり生徒であった。 昼休み、薔薇水晶特性の弁当を食べ終わった雪華綺晶に、不敵な笑みを浮かべながら近づく水銀燈。 「雪華綺晶ぉ~?」 雪華綺晶は弁当を片付けながら水銀燈へと向き直る。 「なんですか?」 水銀燈は、明らかにわざとであろう、少しいいにくそうにしながら言った。 「今朝ぁ、真紅となに話してたのぉ?」 雪華綺晶はしまったと思った。 まさかあんな朝早く、ましては水銀燈が来ているとは思っていなかった。 動揺はしているが、それを表に出す雪華綺晶ではない。 あくまで冷静を装う。 「何のことですか?」 「もぅ・・・かまかけてるわけじゃないのよぉ、ねぇ、教えてくれたっていいじゃなぁい」 「クライアントの情報は漏らせません」 「そう・・・」 水銀燈は頭をもたげ、肩を落とし、あからさまに落胆する。 雪華綺晶は諦めてくれたかと安堵したが、水銀燈の様子が段々と変わっていくことに気付き、慌てて椅子を立とうとする。 が、腕をつかまれ水銀燈に背を向ける形で強制的に座らされた。 「何を・・・」 いきなり水銀燈に後ろから覆われ、言葉を失う。 背中にやわらかく、暖かい感触が広がっていく。 「ねぇ雪華綺晶? 何話してたのか、教えてくれなあぃ?」 ため息を吐くような、この上なく妖艶で、幻惑的な喋り方。 鼓膜が振るえ、妙な快感に襲われる。 「無理・・・です」 水銀燈は攻撃の手を緩めない。 右手をゆっくりと、体を這うように耳の後ろへと、髪の毛の中へと滑り込ませてゆく。 段々と雪華綺晶の呼吸が荒くなっていく。 水銀燈はおもむろに口を開くと、止めといわんばかりに唇で雪華綺晶の耳をはむ。 「あっ・・・」 雪華綺晶の口から甘い声が漏れる。 「・・・お姉さま・・・」 水銀燈の口に勝利の笑みが浮かぶ。 「教えてくれるぅ?」 雪華綺晶は 「・・・はい・・・・・・」 堕ちた。 同じく昼休み、金糸雀のクラス。 「みっちゃーん、ちょっといいかしら?」 そう言って、弁当を手にぶら下げながらにこやかに微笑む金糸雀。 「あ、先生、いいですようそんなの、全然OKですよ」 突然の金糸雀の訪問により一気にハイテンションになったみっちゃんは、身振り手振りで金糸雀の来訪を許可した。 金糸雀は近くの空席を拝借して座り、お弁当を広げはじめる。 少し間をおいてから、みっちゃんが話しかける。 「それで、今日はどうしたんですか?」 こんなことを確信を持って聞けてしまうほど、みっちゃんは金糸雀を知り尽くし、理解していた。 そしてそれは金糸雀にとって決して不快なことではなく、むしろ喜ばしかった。 「あのねみっちゃん、これは本当に他の人には言わないでほしいのかしら」 「うん、絶対言わない」 もちろん嘘である。 今まで一度たりとも、みっちゃんはこの約束を守ったことがない。 「今朝ね、真紅と雪華綺晶がコソコソ話し合ってたのを聞いたんだけど、「組長」とか「危険」とか聞こえたのかしら」 普通の人間が聞いたならば、あまりに要領得ない話。 軽く流してしまうだろう。 しかしこの場にいたのは普通ではない人間だった。 みっちゃんはまず「組長」という単語から「ヤクザ」という世間一般の発想をマッハの速度で通り越し、一気に人身売買、薬、ヤミ金融等々まで到着。 次の「危険」という単語では、○○や○○○○○や○○○○○○○といった、もはや一般の人間では頭に思い浮かべることすら嫌悪するような単語がずらりと頭の中を並んだのである。 少し思い込みの激しいみっちゃんの顔色はみるみるうちに蒼白になっていく。 「き、危険すぎる、危険すぎるわ先生」 金糸雀はみっちゃんのあまりの迫力に気圧され、全く言葉を失ってしまった。 「先生、このことは絶対に忘れたほうがいいわ、絶対にこのことを他の誰かに言っちゃだめよ」 2度の「絶対」、すっかり立場が逆転してしまったが、そんなことを考える余地は金糸雀には無かった。 金糸雀はただ何度も頷きながら、弁当をしまってフラフラとその場を後にした。 それを見届けたみっちゃんは、さて、とさっきまでの顔をいつものやんわりとした笑顔にもどし、意気揚々と教室を飛び出していった。 「やっほー」 と意気揚々と教室に入ってきたのはみっちゃん、金糸雀からの情報を早速話の種にしようとJUMのクラスへとやってきたのである。 JUMと巴は弁当を食べている最中だったが、そんなことはお構い無しに話し始める。 「でね、真紅先生と雪華綺晶先生が「ヤクザ」とか「危険」とか言ってたんだって」 少し話しに嘘を織り交ぜながら、限りなくマイペースに喋るみっちゃん。 「でもそれだけじゃあ何話してるか全然わからないだろ」 「確かに」 2人に事の重大さを否定され、若干立場が弱くなる。 そこへ、何も知らない桑田由奈は不幸なことに近くを通りかかってしまった。 「あ、由奈ちゃーん、ちょっとちょっと」 「ん、どうしたの?」 みっちゃんは近くに寄ってきた桑田由奈に対して、さきほどよりももう少しだけ拡張された話をする。 「んー、それはちょっと怖いね」 「でしょでしょ、これでイーブン」 得意げに胸を張るみっちゃん。 「何がイーブンだよ、しかもさっきより話がでかくなってるし」 「じゃあさ、今日真紅先生をつけてみない?」 みっちゃんの突拍子もない提案に、全員が冗談だと思った。 が、みっちゃんは本気だった。 「ねぇ、行こうよ」 「うーん、私は部活があるし」 「僕も遠慮しとく」 2人に断られ、最後の希望、残る一人に精一杯の眼差しを送る。 「わ、私も部活が・・・」 「ひ、酷いよみんな、放課後正門前でまってるから!」 ダッ、とみっちゃんはまさに脱兎のごとく教室から飛び出していった。 「あいつ、最後に言い捨てていきやがった」 あっけにとられるJUMに、問う巴。 「どうする、行く?」 「行かない」 「由奈はどうする?」 「私は巴が行くんなら行く、かな」 巴は少し考え 「私、行ってみる」 と結論を出した。 「ええ!」 驚いたのはJUM。 JUMの知る限り、巴は他人に対してあまり興味のない性格だと思っていたからだ。 巴は驚いているJUMに向かって、もう一度問う。 「行く?」 JUMはすこーしだけ考え 「行く」 と決断を出した。 放課後、あたりはくすんだ橙色に染まり、あちらこちらで部活に励む声が聞こえてくる。 正門前には3人、JUM、みっちゃん、由奈が肩を並べて、残る一人を待っていた。 「遅いなー、巴」 誰に言うでもなく、一人呟くみっちゃん。 ほどなくして、後ろの方から誰かの駆けてくる音がした。 3人は一斉に振り向く。 「遅くなってごめん」 皆に向かって誤る巴。 みっちゃんは巴の息が整うやいなやに話を始める。 「では、もうすぐここを真紅先生が通るので、自然に挨拶の後尾行、ということで」 ここで、JUMに一つの疑問が浮かぶ。 「ちょっとまて、考えてみりゃ真紅は車で学校に来てるんじゃないか?」 「え?マジで?」 JUMの疑問に怪訝な顔をするみっちゃん。 「マジで?ってそんなことも知らなかったのか?!」 「それは知らなかったなぁ」 「知らなかったなぁ、って・・・」 返す言葉を失っていると、真紅の赤いフォルクスヴァーゲンが姿を現した。 車は4人の前で一旦停車する。 「こんなところで何してるの? 早く帰りなさい」 真紅はそれだけ言うと、車を発進させた。 みっちゃんが徐に口を開く。 「・・・がんばれ男の子」 「は?」 「男なら走って尾行するぐらいの根性を見せてほしい、ってこと」 「なんで俺がそんなことしなくちゃ・・・」 言いかけたところで、今度は巴が口を開いた。 「がんばって」 この一言でJUMは負けた。 そして今、彼は苦しいやらわけはわからないわで半泣きになりながら走っている。 こんなもの、もはや尾行ではない。 だがそんなあたりまえのことですら、彼女らの前では悲しいほど無力だ。 赤いフォルクスヴァーゲンが霞む、もうそろそろ視認できる距離を越えるだろう。 どうせ何にもないに決まってる、あそこの交差点を右に曲がればすぐに真紅の家だ。 しかし、JUMの考えは見事に外れた。 真紅は交差点を左に曲がったのである。 左に行っても、その先には今では誰も近づかない寂れた工業地帯しかない。 残りの力を振り絞り走るが、とうとう見失ってしまった。 JUMは、巴の言っていた事を思い出していた。 「なぁ、なんで行くことにしたんだ?」 巴はちょっと言いにくそうな顔をした。 「あんまり他の人には言わないでほしいの」 もちろん、どこぞの誰かさんと違って人に言いふらしたりはしない。 「わかった、言わない」 「この前友達が言ってたことなんだけど、うちのクラスの後藤君、この前から怪我して学校に来てないけど、それ実はなんかの事故とかじゃなくて、ヤクザに絡まれて怪我したらしい、って」 「それ、ちょっと危険かも」 「うん、真紅先生の性格を考えたら少し心配で」 「確かにあいつ人一倍クールに見えて、実は相当な生徒想いだからな」 「真紅先生、普段は冷静に振る舞って感情をあまり表に出さないけど、それはただ自分の中に渦巻く感情を、いつもギリギリのところで押さえつけてるだけだから」 「でも、相手はヤクザ・・・」 「そうね」 「・・・かなり危険かも」 JUMはただ、真紅の行ってしまった方向を見つめながら、呆然と立ち尽くしていた。 その先はどこまでも暗く、汚い鉄の塊が聳え立っている。 なすすべもなく、とぼとぼと来た道を戻るJUM。 途中で、後からやってきた3人にあった。 「どうだった?」 「・・・帰る方向が、違かった」 巴の質問に、顔色の悪いJUMは素直に答える。 「どこに行ったの?」 「使われなくなった工業地帯」 場を、重い空気が支配する。 「・・・行こう、明日また、今度は自転車で」 巴は、ほんの少しの微笑みを浮かべながら、JUMと向き合う。 JUMは考えるまでもなく。 「行こう」 と答えた。 「私たちもいくよぉ」 みっちゃんが話に割り込む。 「え? 私も?」 「当然」 不幸なことに、由奈は律儀にその場にいてしまった。 車を、ゆっくりと停車させる。 眼前には、「不気味」という言葉で全てを表せるような、何もなくて、何かありそうな光景。 もはやガラクタとしか認識してもらえない、様々な規模の建物が混在する場所。 フェンスには関係者以外立ち入り禁止と書かれたプレートが張られていた。 真紅は別段気にする様子もなく、フェンスをよじ登り進入した。 今日、奴がいるとは限らない。 ただ、何かあったときのためにある程度は把握しておきたい。 そう思い、大きい建物から小さい建物へ、順々に回っていく。 大方見終えると、日付はもう翌日になっていた。 今日はもう来ないだろう。 それに、少しは睡眠もとらなくてはならない。 真紅は一度ため息を吐き、家へと帰っていった。 同じ頃、学校の職員室に雪華綺晶、水銀燈の二人がいた。 雪華綺晶はパソコンのディスプレイを終始食い入るように見つめ、後ろでは水銀燈がコーヒーを啜りながらその様子を見ていた。 「来た・・・」 雪華綺晶がそういうと、水銀燈も椅子から立ち上がりパソコンの画面に顔を近づける。 画面には今まさにフェンスをよじ登り、進入を試みている真紅が映っていた。 「やぁっぱり思ったとおりねぇ、本当におばかさぁん」 水銀燈は雪華綺晶を抱きいれた直後に、監視カメラを設置させるよう手回しをさせたのである。 カメラは以前真紅を捉え、放さない。 「この調子じゃ明日も来るわねぇ」 「明日?」 「明日は一葉がきちゃうからまずいのよぉ とりあえず明日だけでも乗り切れば、あとはほとぼりが冷めるまで一葉に取引をやめとくように言えばいいだけなんだけどぉ」 水銀燈は意地悪な笑みを浮かべる。 「・・・明日、一葉って奴に真紅を近づかせなければ・・・?」 「そうよぉ・・・・・・やってくれるぅ?」 雪華綺晶に考える必要はなかった。 それで水銀燈が喜ぶのなら、真紅という友を失ってもいいと思った。 「やる」 画面では、真紅がため息を吐いていた。 朝、真紅にとってはあまりいい目覚めではなかった。 睡眠不足でボーっとする頭をひきづり、バスルームへと向かいシャワーを浴びる。 一時的には目が覚めたがすぐに眠たくなってしまう。 このまま寝てしまいたい衝動に駆られるが、生徒たちのことを思うと、どうにも休むわけにはいかない。 そんな自分を客観的に見たとき、心の底からこの職業を愛している自分を自覚した。 それに、今日こそは奴がくると、確信めいた自信があったから。 紅茶を飲み干すと、学校へと向かった。 職員室に入ると、蒼星石が翠星石に水の入ったコップを受け渡されてる所を発見する。 二人の会話の内容から、蒼星石が二日酔いで頭が痛いらしい。 珍しいことだ。 蒼星石はいつも、翠星石の面倒を見なければならないからといってお酒はほどほどにしておくのに。 「飲みすぎるなんて蒼星石らしくないです」 「ごめん、最近よく変なおじいさんに飲みに連れて行かれるんだ」 「変なおじいさん? そんな怪しい奴と飲みにいってるですか? 」 「うん、そのおじいさんが言うにはね、僕が死んだ息子に似てるらしくてさ、どうにも断れないんだ」 それを聞くと翠星石はワナワナと肩を震わし、蒼星石に、翠星石とおじいさんどっちのほうが大事なの? とまるで交際中のカップルのような一方的な喧嘩を始めた。 まあ、いつものことなので特に気にはしない。 そんなことよりも、真紅はあるものを確認するためポケットから小さめの、ややアンティーク染みた鍵を取り出すと、デスクの引き出しの鍵を開ける。 すると中から出てきたのは布にくるまれた何か。 丁寧に布を解いていくと、姿を現したのはむき身のナイフが15本ほど。 周りに誰もいないことを確認してから、1本1本机の上に並べていく。 ナイフは横から見ると刃の部分が広く、色は赤。 楕円形の葉っぱのような形状で、細くなっていったその延長線上が持つ部分になっているというなんとも変わったものだった。 真紅は刃こぼれなどがないか丹念に調べていき、最後の一本のチェックが終わったとき、後ろから声をかけられた。 「あら真紅? 何してるのかしらぁ?」 慌てて後ろを振り向くと、一番見られたくなかった相手、水銀燈が立っていた。 「何って? たまには整備してあげないとこの子たちがかわいそうでしょ?」 あくまで平静を装う。 「へぇ 整備ねぇ・・・まあいいわ、じゃあねぇ」 水銀燈は一度、得意の含み笑いをするとその場を去っていった。 これ以上誰かに見られてはよくないので、真紅は早々にナイフを布に包みなおし、今度は引き出しではなく、鞄にしまった。 昼休み、巴は蒼星石の元に訪れた。 「先生、今日部活を休ませてもらってもよろしいですか?」 と、部活を休むことの許可を求める。 「ああ、いいよ」 だがこれは本題ではなく、話のきっかけでしかない。 「あの、昨日のことなんですけど」 蒼星石は相槌を打ちながら、心の中で首をかしげる。 巴が何か相談してくることは珍しかった。 「昨日、真紅先生の後をつけたんです。 そしたら、真紅先生この近くの廃棄された工業地帯に入っていったらしいんです」 突然の巴の告白に驚愕し、耳を疑うが嘘を言う子ではない。 何か理由があるのだろう。 「友達が、真紅先生が「ヤクザ」とか「危険」とか話してたって聞いたって言ってたんです。 だから、心配で、蒼星石先生に話しておこうと思いました」 「そうか・・・今日も行くのかい?」 非難するわけでもなく、あくまで優しい口調で聞く蒼星石。 巴は正直に答える。 「はい、行きます」 「わかった。 何かあったらすぐに僕の携帯に連絡して、いつでも動けるようにしておくから」 「ありがとうございます」 振り返り、職員室を出て行こうとする巴は、蒼星石に聞く。 「先生は、止めないんですか?」 蒼星石はあくまで平穏に返答する。 「止めたら、行くのをやめるかい?」 「やめません」 ハハハ、と乾いた笑いが聞こえる。 「気をつけて」 それだけを聞くと、巴は職員室を出て行った。 正門前には、昨日の3人が自転車にまたがり待っていた。 遅れてしまったことを悪く思いながら、4人で既に学校を後にしていた真紅のことを追う。 赤いフォルクスヴァーゲンがとまっていたのは、立ち入り禁止と書かれたフェンスの前、4人は自転車をその近くに止めた。 「本当に、こんなところに入っていったのかな・・・真紅先生」 由奈が、信じられないといった口調で呟く。 他の3人も、それには同意だった。 しかし、真紅が入っていったのは事実だった。 いつまでもここで立ち尽くしているわけにはいかないので、4人は恐る恐るフェンスの向こう側へと足を踏み入れた。 次の瞬間、あたりに白煙が立ち込める。 「何?! 何これ?!」 みっちゃんと由奈は完璧に混乱、巴は竹刀袋から竹刀を2本取り出し、1本をJUMに渡す。 2人はお互いが目視できる程度の距離を保ち、回りの気配を窺った。 程なくして白煙が消え去ると、JUMと巴は、みっちゃんと由奈の2人がいなくなっていることに気付く。 そして2人の前には、さっきまではいなかった人物、雪華綺晶がいた。 「こんなところで何をしてる。 今日はもう遅い、帰ったほうがいい」 こんな状況であっても、教師として語りかける雪華綺晶。 もしここで断れば、彼女は教師の仮面を捨て、一瞬にして最凶の敵へと変わるだろう。 素直に帰れ、彼女の目は、そう訴えかけている気がした。 JUMは恐怖を飲み込み、口を開く。 「嫌だ・・・といったら・・・」 雪華綺晶の顔に変化はなく、返答もない。 思わず、竹刀を握り締める手に力が入る。 3人は、ただ立ち尽くしていた。 その頃真紅は、多分最初にして最後の山場、水銀燈と対峙していた。 「なぜあなたがここにいるの?」 「なぜって? そんなこと教える必要なんてないでしょう」 「そこをどきなさい」 「嫌よ」 じわじわと、澱んでいく空気。 最初に動いたのは真紅、右腰のホルダーからナイフを一本取り出すと、水銀燈に向かって投げつける。 対する水銀燈はナイフをいとも簡単に避け、更に通り過ぎていくはずのナイフを手で掴む神業をやってのけた。 真紅は間合いを詰め、右拳を水銀燈の水月めがけて突き出す。 水銀燈は一歩引き、先ほど掴んだナイフを真紅の頭めがけて投げ返す。 真紅は身をかがめナイフを避け、続けて顎にくる水銀燈の蹴りをこれも同じく後ろに跳び避ける。 まさしく一進一退の攻防だった。 JUM、巴、雪華綺晶は以前固まったまま動かない。 ふと、巴が何かに気付くと、竹刀は中段のままジリジリと雪華綺晶に近づきはじめる。 雪華綺晶は腰元のホルダーからサバイバルナイフを引き抜くと、前に突き出し、半身の構えをとる。 巴の攻撃が一歩で入る間合いになった瞬間、雪華綺晶に向かって竹刀が振り下ろされた。 刹那、完璧に入ったと思われた巴の一撃は、雪華綺晶の異常な反射神経と瞬発力によって竹刀が折られ、リーチが半減したことによってとどかなかった。 流石の巴も驚きを隠せず、間合いなど関係なく後ろに下がる。 JUMにとっては見ることすら難しかった今の攻防、自分の力の無さを思い知った。 巴は、2、3回深呼吸すると冷静さを取り戻し、JUMに貸した竹刀を再び自分の手に戻す。 再びジリジリと近寄っていく巴。 雪華綺晶も先ほどと同じに構えなおす。 そして一歩の間合い。 今度はJUMに見ることすらさせない、突き。 雪華綺晶は半歩後ろに下がり、またも竹刀をぶち折る。 だが巴はとまらない。 その折れた竹刀でもう一撃、今度は伸びのある面。 雪華綺晶は1歩後退し、今度は竹刀の刃である部分を根こそぎぶっ飛ばした。 ここであろうことか、巴は残された柄を雪華綺晶に向かって投げた。 雪華綺晶もこれには少し反応が遅れ、ナイフを横にして完璧な防御に回る。 そこを狙っていたかのように、蒼星石が工場の影から飛び出し、竹刀で雪華綺晶のナイフを弾くとそのまま体当たりをかまして弾き倒した。 すかさず竹刀の先端を雪華綺晶の胸元へ向け、触れるか触れないかのところで止める。 剣道においては達人の域にまで達している蒼星石に、ここまでの状態にされては雪華綺晶もなすすべがなかった。 「終わりだね」 蒼星石は雪華綺晶に優しく語りかける。 「ああ、私の負けだ。 大人しく引き下がろう」 竹刀を喉元から外すと、雪華綺晶は立ち上がり、体についたほこりを払い落とす。 「なんだ 負けてしまったのか?」 姿の見えない想定外の声に、皆体を緊張させる。 一つの工場の角から、体格のいい、金髪の男が姿を現した。 「君はさがってていいよ」 その金髪の男、槐は手にグローブをはめながら雪華綺晶にそう促す。 そして、誰もが想定外の第2ラウンドが始まった。 槐は徒手、蒼星石は竹刀、勝負は互角かと思われたが、蒼星石の一撃はあまりにもあっけなく止められた。 「やはり女の力なんてこんなものか」 言った直後、槐の容赦ないみぞおちへの殴打、吹っ飛ぶ蒼星石の顔が苦痛にゆがむ。 「先生!」 巴の悲痛な叫びが聞こえる。 武器のない巴には、どうしようもなかった。 戦えないJUMも、この時ほど自分の無力さを呪ったことはない。 槐はゆっくりと、止めをさすために地面に転がっている蒼星石へと近寄っていく。 「ぅわあああああああ」 突然、雄たけびを上げながらJUMが槐へと突進するが、槐の腰の入ったみぞおちへの一撃で、見事に吹っ飛ぶ。 そのまま地面に叩きつけられるかと思ったが、予想に反してJUMの体は何者かに受け止められた。 「大丈夫ですか」 「さすが男の子、がんばるね」 JUMを受け止めたのはラプラスだった。 横にはローゼンもいる。 槐は不思議そうに、我が校の校長と教頭をみている。 「誰だ? お前らは」 「黙れ」 瞬間、場が凍った。 普段のローゼンからは想像もできない冷たい声。 ローゼンは音速とも思われるほどの速さで間合いをつめ、槐の下顎にこれこそ光速とも言えるほどのフックをかます。 グラングランになった槐の頭をかかと落としで叩き割り、そのままコンクリートにひびが入るくらいの力で叩き付けた。 電光石火のラッシュ。 当然、槐は起き上がれず、ローゼンの言うとおり、完全に沈黙した。 誰もが言葉を失っていたが、ローゼンは気にも留めず 「じゃ、真紅先生のところへ行こうかな あ、みっちゃんと由奈ちゃんはさっき発見して保護したから大丈夫、蒼星石先生のことはよろしくね」 とだけ伝え、ラプラスとともに次なる目的地へと行ってしまった。 「はぁ・・・はぁ・・・ほんと、しつこいわね、真紅」 「はっ・・・はっ・・・そっちこそ、いい加減諦めたら」 お互いに肩で息をし、足はガクガクと震え、手には力が入らない。 真紅のナイフを残り一本となっていた。 水銀燈が、突然構えを解く。 「もういいわぁ、疲れたし、早く帰ってお風呂入りたいしぃ」 水銀燈は戦意を喪失し、フラフラとした足取りで真紅の横を通り過ぎていった。 大分時間をくってしまった。 そう思いながら、残った力を振り絞り走る真紅。 しばらく走っていると一つだけ、この真っ暗闇の中内部から光を発している小屋を発見した。 真紅はすぐに小屋へと近づき、窓から中の様子を窺う。 すると中には、顎から頬まで傷がある男、まさしく結菱一葉がそこにいた。 携帯電話で何かをしゃべっているようだ。 幸いなことに、窓に鍵は掛かっていない。 真紅は結菱一葉が背を向けてしゃべっている間に中へと進入した。 「おお、早くしろよ、切るぞ」 ピッ、と音がして電話が切られた。 ほぼ同時に、結菱の右足に異常としか思えない激痛が走った。 「ぎゃあああああああああああ」 結菱は痛さのあまり床をゴロゴロと転がりまわる。 涙でかすんだ目に映るのは、赤い人間のようなもの。 四つん這いになり出口へと向かうが、すぐに鈍器による2度目の殴打が今度は右腕に振り落とされた。 ミシ、と嫌な音がして、男の右腕は折れた。 「ぎゃああああああああああ」 そして、最初に折りそこなった右足に、最後の一打が振り下ろされた。 ローゼンとラプラスは、謎の叫び声を聞き慌ててやってくる。 辿り着いた先には、腕と足が曲がってはいけない方向に曲がってしまっている一人の男が、まるでボロ雑巾のように横たわっていた。 「あらローゼン 来てたの」 カラカラと、鉄と地面が擦れる音を出しながら近づいてくる真紅。 ローゼンとラプラスはその姿を見て、思わずため息をつく。 「間に合わなかったか・・・」 「後始末は任せたのだわ」 そう言って、真紅は鉄パイプを投げ捨て、一人、小屋を出て行った。 「どうしましょうか? この状況・・・」 ラプラスが沈痛な面持ちでローゼンに話しかける。 「・・・いっそのこと海にでも・・・」 二人の間に、また、沈黙が生まれようとしたとき、人の気配がした。 「やあ校長殿、今回はうちのが迷惑かけましてすいません。」 この場に似つかわしくない、やんわりとした声の主は柴崎元治だった。 「あなたは・・・用務員の・・・?」 「柴崎さんがどうしてここに?」 柴崎は二人の間を抜けると、横たわって気絶している男を叩き起こす。 「ほらっ、しゃんとせえ!」 気絶していた男、一葉は目蓋が完全に開ききる前に、柴田の手の内から飛び退き、瞬時に土下座の体勢となった。 「お、おやっさん、どうしてここに?!」 「おやっさん?!」 ローゼンとラプラスはつい呆気にとられる。 柴田はそんな様子を、特におかしくもなさそうに笑い、「まぁ、いろいろあるんですよ」と付け加えた。 その後、柴田牽引の元、部下に担がれた一葉は帰っていく。  だが、何故かそのうしろ姿に悲壮感はなく、なにはともあれ、これで全てが終わったのだった。 ただ、付け加えるとするならば、その日から学校に月ごとに30万円の匿名での寄付金が届くようになり、何か問題を起こしたときにうるさかったPTAからの苦情や、教育委員会からの勧告も、何故か届かなくなった。 結果としては良かったのだが、とりあえず、あの日の夜のことは、皆のうちで口に出さないことが暗黙の了解となっている。 終わり

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