新科学論議第4日(第1部)

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のべアクセス数 &u(){&bold(){&counter()}}人 - yokkunさん、いつもありがとうございます。図を貼り付けました。 -- Leon (2009-01-09 20:51:18) #comment(size=80, nsize=20, vsize=3, num=20) *&aname(A08){.} -&bold(){&link_aname(A75){サルヴィアーティ[75]}} -&bold(){&link_aname(A76){定理1[76]}} -&bold(){&link_aname(A77){サグレード[77]}} -&bold(){&link_aname(A78){サルヴィアーティ[78]}} -&bold(){&link_aname(A79){サグレード[79]}} -&bold(){&link_aname(A80){シンプリーチョ[80]}} -&bold(){&link_aname(A81){サルヴィアーティ[81]}} -&bold(){&link_aname(A82){シンプリーチョ[82]}} -&bold(){&link_aname(A83){サルヴィアーティ[83]}} -&bold(){&link_aname(A84){サルヴィアーティ[84]}} -&bold(){&link_aname(A85){サグレード[85]}} -&bold(){&link_aname(A86){シンプリーチョ[86]}} -&bold(){&link_aname(A87){サルヴィアーティ[87]}} -&bold(){&link_aname(A88){サグレード[88]}} -&bold(){&link_aname(A89){サルヴィアーティ[89]}} -&bold(){&link_aname(A90){シンプリーチョ[90]}} -&bold(){&link_aname(A91){サルヴィアーティ[91]}} -&bold(){&link_aname(A92){【訳注】[92]}} &bold(){第四日} *&aname(A75){サルヴィアーティ[75]} &bold(){ ちょうどシンプリーチョさんもおいでになりました。それではさっそく運動について始めることにしましょう。我々の著者のテキストは次の通りです。} *&aname(A76){定理1[76]} &bold(){  投射体の運動について} &bold(){均等運動において生じる現象や、任意の傾きの斜面上での自然加速運動において生じる現象については、先に考察した。これから始める以下の考察では、可動体が、二つの運動すなわち均等運動と自然加速運動とから合成された運動によって動く場合に、それに生じるある種の知るに値する特有の性質を明らかにし、その上でそれを確固たる証明によって確立しよう。しかも我々のいう投射体の運動とは、まさにそのようなものに他ならないと考えられるのである。この運動は次のようにしてつくられるのである。} &bold(){ あらゆる障害が取り除かれた状態で、ある可動体が水平面に沿って投げ出されたと想定する。すると他の所〔第三日〕で詳細に述べたことから明らかなように、もし平面が無限に延びているならば、この運動は均等でその平面に沿ってどこまでも続くことになるだろう。しかし、もしその平面が有限(1)であり、高い所に置かれていると考えるならば、私はその可動体が重さを持っていると想定しているので、可動体が平面の瑞まで行き、それを越えて進む際に、最初の均等で不滅な運動にさらに固有の重さによって持つ下方への傾向が加わり、その結果、水平方向の均等運動と下方への自然加速運動から合成された運動が生じるだろう。それを投射〔projectio〕と呼ぶのである。その性質の幾つかを証明しよう。その第一のものは次の通りである。} &bold(){【訳注】(1)「重さ」「軽さ」とは、アリストテレス的な意味では、それぞれ「地球の中心、すなわち下方に向かう傾向」「地球の中心から離れ上方に向かう傾向」を意味する。ガリレオがこのような概念規定に反対したことはすでにみたとおりであるが、術語の使用法という点では、ガリレオもこの伝統に従っている。以下でも、「重さを持つ」という意味で「重い」という表現がされ、現代なら「(より)軽い」と言うところで「重さの少ない」という言葉が使われる。ここでは、これらの表現はそのままの形で訳してある。なお、「(より)重さの大きい」という比較級の表現も、文脈上明らかな箇所ではやはり「重い」と訳してあるので注意されたい。} &bold(){  定 理一 命 題一} &bold(){ 投射体は、水平方向の均等運動と下方への自然加速運動から合成された運動によって進む間は、その運動を通じて半パラボラ曲線〔linea semiparabolica〕を描くだろう。} *&aname(A77){サグレード[77]} &bold(){ サルヴィアーティさん、私のために、そして恐らくはシンプリーチョさんのためにもここで少し休んでいただけませんか。私は幾何学にそれほど通じているわけではないのです。アポッロニオスについては、彼がパラボラや他の円錐曲線(1)について論じたことは知っていますが、それ以上の勉強はしていないのです。それらの曲線とその性質についての知識がなくては、それらに関係する命題の証明も理解できないと思います。そして早くもこの素晴らしい最初の命題において、著者は、投射によって描かれる曲線がパラボラ曲線であることを証明せねばならないと我々に述べています。ですから、他の曲線〔楕円と双曲線〕については論じる必要がないにしても、この図形〔パラボラ〕の性質については、アポッロニオスが証明したもの全てとはいわないまでも、少なくともここで論じている学問に必要なものは完全に理解することが絶対に必要だと思います。} *&aname(A78){サルヴィアーティ[78]} &bold(){ あなたは大変謙遜なさって、先日よく知っていることとして認められた知識を御存じないとおっしゃりたいのですね。それは、はっきり申し上げれば、抵抗力についての論考でアポッロニオスのある内容についての知識が必要になったとき〔「第二日」の内容。なお、ここでいう抵抗力とは、物体を破壊しょうとする力に対する抵抗、すなわち物体の機械的な強度のこと〕のことで、そのときあなたはそれについて何の困難も感じなかったではありませんか。} *&aname(A79){サグレード[79]} &bold(){ 私がその命題をたまたま知っていたのかもしれませんし、その論考において必要になったときだけ、さしあたり仮定したのかもしれません。しかしここでは、その曲線に関するすべての証明を聞かねばならないと思いますから、それをいわばうのみにすべきではないでしょう。というのは、それでは時間と労力の浪費にしかならないでしょうから。} *&aname(A80){シンプリーチョ[80]} &bold(){ それに、サグレードさんは御自分に必要なすべて〔の知識〕を十分お持ちだと思いますが、私はといえば、〔著者の命題の〕最初の用語自体がすでに新しいものなのです。というのは、我々の哲学者たち〔アリストテレス主義者たち〕もこの投射体の運動という問題を扱ってはいますが、投射体の描く線については、鉛直上方への投射を別にすればごく一般的に、それはいつも曲線であるといっているだけです。それがどのような線であるかを定義する必要に迫られているような場合は思い当たりません。ですから、我々が以前に他の論議〔ガリレオの前著『世界系対話』〕をしたときからこれまでの間に私はエウクレイデス〔の『原論』〕から幾何学についてわずかばかりのことを学びましたが、それだけではこのあとの証明を理解するのに必要な知識を得たことにはならないのでしたら、私としては、それらの命題を理解できなくてもただ信じるだけで満足すべきなのでしょう。} *&aname(A81){サルヴィアーティ[81]} &bold(){ いや、私はあなた方に、それらの命題をこの著作の著者自身の助けによって理解して欲しいのです。著者は、私にこの自らの労作を見せてくれたときに、私がまだアポッロニオスの著作を手許に持っていなかったので、才知を働かせて、私のためにパラボラの最も主要な二つの性質を何の予備知識も前提とせずに証明してくれたのです。そしてこの論考において我々に必要なのはこの二つだけなのです。もちろんアポッロニオスもこれらの性質を証明していますが、他の多くの性質の後になっているので、それを知るまでに時間がかかるでしょう。そこで私は、第一の性質をパラボラの生成そのものだけから直接導き出し、この性質から第二の性質の証明を導き出すことによって、道程を大いに縮めたいと思います。それでは第一の性質から始めましょう。} &ref(p267.jpg) &bold(){ 直円錐があり、その底面を円IBKC、頂点を点Lとし、この円錐を母線LKに平行な平面で切ると、断面BACができると考えましょう。これがパラボラと呼ばれるものです。その底BCが、円IBKCの直径IKを直角に切るとし、パラボラの軸をADとしましょう。これはLKに平行です。曲線BFA上に任意の点Fをとり、線分FEをBDに平行に引くとします。私は、BDの平方がFEの平方に対して持つ、比は、軸DAがその部分AEに対して持つ比と同じであると主張します。点Eを通り、円IBKCに平行な平面を考えましょう。この平面は円錐内で円形の断面を作りますが、その直径を線分GEHとします。そして、円IBKの直径IKの上に垂線BDが立てられているのですから、BDの平方は、〔IKの二つの〕部分ID、DKから作られる長方形〔の面積すなわちIDとDKの積〕に等しいことになります。また上の円は点G、F、Hを通ることがわかっていますから、同様にして、線分FEの平方は、GEHの〔二つの〕部分〔GEとEH〕から作られる長方形に等しくなります。それ故、BDの平方がFEの平方に対して持つ比は、長方形IDK〔すなわちIDとDKの積〕が長方形GEHに対して持つ比と同じです。また、線分EDはHKに平行なので、EHとDKは互いに平行で、等しくなります。したがって、長方形IDKが長方形GEHに対して持つ比は、IDがGEに対して、すなわちDAがAEに対して持つ比と同じでしょう。それ故、長方形IDKが長方形GEHに対して持つ比、すなわちBDの平方がFEの平方に対して持つ比は、軸DAがその部分AEに対して持つ比と同じになります。これが証明すべきことでした。} &ref(p268.jpg) &bold(){ この論考において必要なもう一つの命題は、次のようにして明らかになります。パラボラを描き、その軸CAを外側にDまで延ばします。また、任意の点Bをとり、さらにその点を通ってパラボラの底に平行な線分BCを引くとしましょう。そしてDAが軸の部分CAに等しいとすると、点D、Bを通って引かれた直線は、パラボラの内部に入り込まずに外部にあり、したがってちょうど点Bでパラボラに接するだけであると主張します。それは次のような理由によるのです。もしDBがBより上で、あるいは延長されたときにBより下でパラボラを切り、パラボラの内部に入り込むことがありうるならば、その内部に〔DB上の〕点Gを任意にとりましょう。この点を線分FGEが通るとします。するとFEの平方はGEの平方より大きいのですから、FEの平方がBCの平方に対して持つ比は、GEの平方がBCの平方に対して持つ比よりも大きくなります。そして以前に証明したことから、FEの平方対BCの平方は、EA対ACに等しいのですから、EAがACに対して持つ比は、GEの平方がBCの平方に対して持つ比、すなわち、EDの平方がDCの平方に対して持つ比よりも大きいのです(というのは三角形DGEにおいて、GE対〔GEの〕平行線BCはED対DCに等しいのですから)。ところで線分EAがACに対して、すなわちADに対して持つ比は、長方形EADの四倍がADの平方の四倍に対して、すなわちCDの平方(これはADの平方の四倍に等しいのです)に対して持つ比に等しいのです。したがって、長方形EADの四倍がCDの平方に対して持つ比は、EDの平方がDCの平方に対して持つ比よりも大きくなります。それ故、長方形EADの四倍はEDの平方よりも大きいことになってしまいます。実際には小さいのですから、これは誤りです。というのは、線分EDの〔二つの〕部分EA、ADが互いに等しくないからなのです。よって直線DBはBでパラボラに接し、それを切ることはありません。これが証明すべきことでした。} *&aname(A82){シンプリーチョ[82]} &bold(){ あなたの証明の仕方は余りに見事過ぎます。またお見受けするところでは、あなたは議論を進めるにあたって、エウクレイデスの〔『原論』の〕すべての命題が私にとって、その最初の公理と同じほどなじみのあるもので、いつでも使えるものであると常に仮定しておられますが、実際にはそうではないのです。たった今、線分EDの部分EA、ADは等しくないので、長方形EADの四倍はDEの平方よりも小さいと述べて説明をすませたことにも、私は満足できず、疑問が残っています。} *&aname(A83){サルヴィアーティ[83]} &bold(){ 実際、れっきとした数学者はみな、読者が少なくともエウクレイデスの『原論』には通じているものと仮定しています。そして、ここであなたの必要に応じるためには、〔『原論』の〕第二巻のある命題〔命題五〕を思い起こすだけで十分でしょう。その命題では、ある線分を等しい〔二つの〕部分と、不等な〔二つの〕部分に分けたとき、不等な部分からなる長方形が、等しい部分からなる長方形(〔もとの線分の〕半分の平方)よりも小さいこと、そしてその差は、不等な部分と等しい部分との差の平方に等しいことが証明されています。このことから、線分全体の平方はその半分の平方を四つ含んでいますので、不等な部分からなる長方形の四倍よりも大きいことは明らかです(2)。さて、円錐に関する基本的な諸定理の中から、二つの命題を採って証明しましたが、これらは、この論考の続く部分を理解するために覚えておかなければなりません。なぜなら、著者が用いているのはこの二つだけで、それ以上は何も用いていないのですから。これで本文へ戻って、著者がどのようにして第一命題を証明しているかを見ることができます。そこで彼は、水平方向の均等運動と自然落下運動から合成された運動で落下する重い可動体によって描かれる線が、半パラボラであることを我々に示そうとしています。} &ref(p270.jpg) &bold(){ 水平線あるいは水平面ABが高い所に置かれていると考え、その上を可動体がAからBへ均等運動によって進むとせよ。だが平面による支えがBで終わるために、この可動体に、固有の重さのために鉛直線BNに沿う下方への自然加速運動が加わるとせよ。平面ABからさらに真っ直ぐに線分BEを延ばすと考え、時間の流れあるいは尺度として、その上に任意の等しい時間部分BC、CD、DEを自由にとるとせよ。そして点B、C、D、Eから鉛直線BNに平行な直線を引いたと考えよ。それらの最初の直線上に任意の部分CIをとるとせよ。次の直線上にその四倍であるDFをとり、さらにその次の直線上に九倍であるEHをとるとせよ。そして結局残りの直線上にも、線分CB、DB、EBの平方相互の比、あるいは言い換えればこれらの線分の二倍比(3)に従って部分をとるとせよ。もし可動体がBを越えCに向かって均等運動によって進むとき、それに量CIに応じた鉛直方向の降下が加わると考えるならば、その可動体は時間BCの後に点Ⅰに見出されるだろう。さらに先へ進み時間BCの二倍の時間DBの後では、下方への下降距離は最初の拒離CIの四倍となる。というのは、最初の論考〔二四九ページ、定理二 命題二〕で証明されたように、重い物体が自然加速運動によって通過する距離相互の比は時間相互の二倍比となるからである。また同様にして、結局時間BEで通過する距離EHは〔CIを単位とするとき〕九にあたるだろう。その結果明らかに、距離EH、DF、CI相互の比は線分EB、DB、CBの平方相互の比に等しい。さて、点Ⅰ、F、Hから線分EBに〔それぞれ〕平行な直線IO、FG、HLを引くとせよ。線分HL、FG、IOは各々線分EB、DB、CBに等しく、また線分BO、BG、BLも各々線分CI、DF、EHに等しくなる。HLの平方対FGの平方は線分LB対BGに等しく、FGの平方対IOの平方はGB対BOに等しいだろう。よって点Ⅰ、F、Hは同一のパラボラ曲線上にある。そして同様にして任意の大きさの相等しい時間部分を任意の数だけとると、同様の合成運動によって進む可動体の、これらの時間における位置は、一つのパラボラ曲線上に見出されることが同様にして証明されるだろう。よって命題は明らかである。} *&aname(A84){サルヴィアーティ[84]} &bold(){ この結論は、先に提示した二つの命題のうちの最初のものの逆からわかります。このことは次のように説明されます。たとえばパラボラが点B、Hを通るように描かれたとき、二点F、Ⅰのうちのどちらかが、描かれたパラボラ曲線上にないとすれば、その点はその内部か外部にあることになります。その結果、線分FGは、〔Gから始まり〕パラボラ曲線上で終わる線分よりも小さいか、あるいは大きいでしょう。したがって線分LBがBGに対して持つ比は、HLの平方がFGの平方に対して持つ比には等しくなく、それ〔HLの平方〕が、FGの平方より大きいかあるいは小さい他のもの〔平方〕に対して持つ比に等しいことになるでしょう。しかしこの比〔LB対BG〕は、実際にはHLの平方がFGの平方に対して持つ比に等しいのです。それ故、点Fはパラボラ曲線上にあることになり、同様のことが他の全ての点についてもいえます。} *&aname(A85){サグレード[85]} &bold(){ この議論が斬新で、才知にあふれた説得力を持つものであることは否定できませんが、これは「仮定による〔ex suppositione〕」議論です。すなわち次のことを仮定しています。横方向の運動は常に均等の状態を維持し、また下方への自然運動も、時間の二倍比に従って常に加速していくというその状態を同じく維持するということです。さらにこのような運動とその速さは、合成される際に互いに変化を及ぼすことも、攪乱することも、妨害することもないので、結局運動を続けていく際に、投射体の〔描く〕線が他の種類に変わってしまうことはないということも仮定されています。このようなことは、私には不可能であるように思われます。それは次のような理由によります。我々のパラボラの軸は、それに従って重い物体の自然運動がなされると仮定されていますから、水平面に垂直であり、地球の中心へ向かいます。そしてパラボラ曲線は常にその軸から離れて広がり続けますから、いかなる投射体も〔地球の〕中心へ向かわないことになるでしょう。あるいは次のようにも言えます。投射体が地球の中心へ向かうのは必然であると思いますが、もしそうならば、投射体の〔描く〕線は、パラボラとは非常に異なる他の線へとそれていくことになるでしょう。} *&aname(A86){シンプリーチョ[86]} &bold(){ 私は、この他にも困難があることを指摘したいと思います。その一つは、我々が、どちらへも傾いていない水平面が直線状であるとし、そのような直線が、その全ての点において〔地球の〕中心から等距離であるかのように仮定していることです。これは正しくありません。なぜならば、その直線の中央から出発し端の方へ行けば、それにつれて絶えずいっそう〔地球の〕中心から離れるので、したがって常に上昇することになります。このことの結果として、〔この直線に沿う〕運動が永久に続くことは不可能になります。それどころか、ある〔有限の〕距離の間でさえも〔運動が〕均等であることは不可能で、常に衰えていくことになるのです。さらに私の信じるところでは、媒質による妨げを逃れて、横方向の運動の均等性や落下する重い物体における加速の規則が成り立つようにすることは不可能です。これらすべての困難を考えると、このような不確実な仮定によって証明されたことが、現実の経験において確証されうるとは到底思えません。} *&aname(A87){サルヴィアーティ[87]} &bold(){ あなた方が述べられた困難や異論はすべて、もっともな根拠のあるものですから、それらを取り除くことは不可能だと思います。また私としてはそれらをすべて認めますし、同様に我々の著者もまた認めるだろうと思います。そしてこのように抽象的に証明された結論は、具体的な場合には変わってしまい誤りになることを認めましょう。たとえば横方向の運動は均等ではなく、自然運動の加速は仮定された比に従わず、投射体の〔描く〕線はパラボラ曲線ではないということになります。しかしながら、著者の仮定はなるほど誤りではありますが、同じ仮定は他の偉大な人びとも行っているのです。ですから、こういった困難や異論のために、著者がこのような仮定をすることが許されないということがないようにお願いします。アルキメデスの権威によるだけで、誰もが満足するでしょう。彼は、機械学に関する著作やパラボラの最初の求積(4)において、天秤あるいは竿秤の腕がその全ての点において、重いものの共通の中心〔地球の中心〕から同じだけ離れた一つの直線であることや、錘の吊るされている糸が互いに平行であることを真なる原理として用いています。これらのことを認めたことを許している人たちもいます。というのは、実際の活動においては我々の用いる道具や〔活動に関係する〕距離が、地球の中心から我々までの大きな距離に比べて非常に小さいので、地球の大円の角度の一分ほど〔の弧〕をあたかも直線であるかのようにみなし、そしてその両端から吊るされている二本の鉛直線を互いに平行であるかのように考えることができるのです。もし実際の活動においてこうした細かなことを考慮に入れねばならないとすると、まず建築家たちを非難せねばならないでしょう。彼らは、鉛直線を用いて極めて高い塔を平行線の間に建てることができると考えているのですから。ここで付け加えておきますが、アルキメデスや他の人々は、考察するにあたって〔我々が〕地球の中心から無限に離れていると仮定しているともいえるのです。この場合には、彼らの前提〔二つの鉛直線は互いに平行であることなど〕は誤りではありません。それ故、彼らは絶対的な証明でもって結論を導いていたということができるのです。そこで我々が、無限の距離を仮定することによって証明した結論を、〔地球の中心からの〕限られた距離において実際に用いようとするならば、地球の中心から我々までの距離が実際には無限でないために問題となることを、証明された真理から差し引かねばなりません。しかしこの距離は無限でないにしても、我々が用いる人工的な手段の小ささに比べれば十分に大きいといってもよいのです。我々の手段の中で最大のものは、投射体を発射することであり、その中でも大砲によるものに限りますが、それでもいくら大きくても四ミーリオにも達しないでしょう。一方我々は、およそ四〇〇〇ミーリオも地球の中心から離れているのです。そしてこれらの投射体が地球の中心まで運動を続けるならば、パラボラの形は大きく変わってしまうでしょうが、運動は地表で終わるのですから、パラボラの形の変化は知覚できない程度でしかないでしょう。} &bold(){ 次に、媒質の妨げから生じる撹乱についてですが、こちらの方がもっと重要なことなのです。しかしこれは非常に多種多様なものなので、それを確固たる規則に従わせたり、それに関する理論〔scienza〕を与えたりすることはできません。というのは、我々の考えている運動に対して空気がもたらす妨げだけを考慮するとしても、この妨げは全ての運動を乱すものであり、その仕方も、可動体の形や重さや速さに無限の多様性があるのに応じて無限にあるのです。速さについて言えば、速さが大きくなるのに応じて、空気が及ぼす抵抗も大きくなるでしょう。また空気は、可動体の重さが少なければ、それに応じていっそう可動体を妨げるでしょう。ですから、落下する重い物体が、その運動の継続時間の二倍比で加速しながら進んでいくはずであるとはいえ、極めて高い所から落下してくるときには、どんなに重い可動体であっても、空気の妨げが、可動体がそれ以上速さを増すことを不可能にして可動体に一様で均等な運動をさせるほどに大きくなるでしょう。そしてこのような釣合〔の状態〕は、物体が軽ければそれだけ早く、より小さい高さ〔短い落下距離〕で達成されるでしょう。水平面上での運動もまた、他のすべての障害が取り除かれれば均等で永続するものになるはずですが、空気の妨げによって変化が起こり、ついには止まってしまうでしょう。この場合にもやはり可動体の重さが少なければ、それだけ早く静止するでしょう。こういった重さや速さ、そしてまた形という付帯的なことには無限の多様性があるので、これらに関する確固とした理論を与えることはできません。それ故、このような問題を学問的に扱うことを可能にするためには、抽象を行い、妨げを捨象した結論を見出して証明し、さらにそれを実際に用いる場合には、経験によって知られる限定内で用いる必要があります。しかし、だからといってその有効性がわずかしかないわけではありません。というのは、可動体の材質や形としては、媒質の妨げを少ししか受けないように重くて丸いものが選ばれますし、〔運動の〕距離や速さは一般にさほど大きくないので、その運動が容易に補正できないほどに〔抽象によって得られた結論から〕逸脱することはないはずだからです。それに、我々が実際に用いることができる投射で、重い物質からなる丸い形のものや、それほど重い物質でなくとも矢のように円筒状の形をしているものが投石器や弓から発射されるならば、それらの運動と正確なパラボラ図形との相違は全く感知できないでしょう。さらに(もう少し〔話し続けることを〕お許しいただきたいのですが)、我々が実際に用いることのできる手段においては、それらが小さいために、媒質の妨げをはじめとする外的で付帯的な妨げはほとんど目に付かないほどであるということを、二つの実験によってあなた方に明らかにすることができます。空気中で行われる運動を考えましょう。というのは、我々が論じているのはもっぱらそのような運動についてですから。空気は運動に対して二つの仕方で力を及ぼします。一方は、重い物体よりも重さの少ない物体をよりいっそう妨げることによるもので、他方は、同じ可動体に対しても、小さな速さよりも大きな速さに対して強く対抗することによるものです。第一の妨げに関しては、同じ大きさであるが、たとえば鉛の球と樫の球のように、一方が他方より一〇倍ないし一二倍も重い二つの球が、一五〇あるいは二〇〇ブラツチョの高さから落下するとき、両者はほとんど同じ速さで地面に到達することが実験によって示されますから、空気による妨げや減速はどちらにおいてもわずかであることが確信できます。もし鉛の球が、もう一つの木の球と同時に高い所から出発したときに少ししか減速されず、一方木の球が大いに減速されるならば、一〇倍も重い鉛は、地面に到着するときに木をかなりの距離引き離すはずです。しかし、このようなことは起こりません。それどころか、鉛の球は高さ全体の一〇〇分の一ほども先には進んでいないでしょう。そして鉛の球と、その三分の一ないし半分の重さしかない右の球とでは、地面に着く時間の羞はほとんど観察できないほどでしょう。さて、二〇〇ブラッチョの高されら落下する際に鉛の球が獲得するインペトゥスは(それは、均等運動を続けるとするならば、落下に要したのと同じ時間内に四〇〇ブラツチョを通過するだけのものです)、我々が弓や他の器械を用いて投射体に与える速さと比べても決して小さいものではありません(ただし火器によるインペトゥスは別にしてですが)。したがって、媒質による変化を考慮せずに証明される諸命題を結論として認め、絶対的に真であるとみなしても目につくほどの誤差はないでしょう。次にもう一方の問題ですが、同じ可動体が大きな速さで運動するときに空気から受ける妨げが、ゆっくり運動するときに受ける妨げよりもさして大きなものではないことを示すことに関しては、次の実験によって揺るぎない確実性が得られます。四ないし五ブラッチョの長さの等しい二本の糸に二つの等しい鉛の球を吊り下げ、その糸を高い所に結び付けましょう。これら二つの球を鉛直の状態から、一方は八〇度ないしそれ以上、他方はほんの四、五度だけ離すとします。そして両方の球を放して自由にすると、一方は下降して鉛直線を通過し、一六〇、一五〇、一四〇度といった極めて大きな弧を描きますが、それは少しずつ小さくなっていきます。もう一方も自由に運動し、一〇、八、六度といった小さな弧を描きますが、これらの弧もやはり少しずつ小さくなっていきます。ここでまず私は、後者が一〇、八度など〔の小さな弧〕を通過する時間のうちに、前者は一八〇度、一六〇度など〔の大きな弧〕を通過すると主張します。このことから、第一の球の速さは、第二の球の速さよりも一六ないし一八倍大きいことが明らかです。それ故、大きな速さが、小さな速さよりも空気によって余計に妨げられるはずならば、一八〇度ないし一六〇度の極めて大きな弧の振動数は、一〇、八、四、さらに二や一度の極めて小さな弧の撮動数よりも小さくなければなりません。しかし、実験ではそのようにはなりません。すなわち二人の人が、一人は大きな方の振動を、もう」人は小さな方の撮動を数え始めると、何十回、何首回数えても、一回たりとも、それどころかごくわずかさえも〔二つの振動の間に〕差が生じないことがわかるのです。そしてこの観察は、我々に二つの命題を同時に保証してくれます。すなわち、極めて大きな振動と極めて小さな振動とはすべて各々等しい時間で行われるということ、空気による妨げや減速は極めて速い運動においても、極めて遅い運動における場合と同程度にしか作用しないということです。これは、ほんの先ほどまで我々も一致して判断していたことに反しています。} *&aname(A88){サグレード[88]} &bold(){ いや、それだけではなく、空気が両者の運動を妨げることは否定できないのですから、速い運動も遅い運動も衰え、ついには止まってしまう以上はそれらの減速が両者に同じ比で作用すると言うべきです。しかしそれはどのようなものでしょうか。〔空気の〕及ぼす抵抗がある場合には大きく、他の場合には小さいということは、〔可動体の〕インペトゥスや速さがある場合には大きく、他の場合には小さいということ以外のいかなることから起こるというのでしょう。そして、もしそのとおりだとするならば、可動体の速さの量自体が抵抗の量の原因であり、同時に尺度でもあることになります。したがってすべての運動は、遅いものも速いものも同じ比で減速され、妨げられます。これは軽視できない知識だと思います。} *&aname(A89){サルヴィアーティ[89]} &bold(){ そこでこの第二の場合においても、外的で付帯的な状況を捨象することによって証明される結論における誤差については、〔投射という〕我々の人工的な手段の場合は、さほど考慮する必要はないと結論できます。すなわち、一般に扱う程度に大きな速さの運動や、地球の半径や大円の大きさに比べて極めて小さいとしか言いようのない距離の場合には、それほど問題にならないのです。} *&aname(A90){シンプリーチョ[90]} &bold(){ 私はあなたが、火のインペトゥスによる投射体、すなわち火薬の力による投射体のことだと思いますが、それを他の投石器や弓や石弓による投射体から区別した理由と、それが空気による変化や妨げに同じ仕方では従わない理由を聞きたいと思います。} *&aname(A91){サルヴィアーティ[91]} &bold(){ それは、そのような投射体が撃ち出されるときの過度の、いわば超自然的な激しさのためです。というのは、マスケット銃や大砲から射ち出された弾の速さは、超自然的と呼んでも決して誇張ではないように思われるからです。その理由を説明しましょう。そのような弾が非常に大きな高さから空気中を自然落下するとしても、その速さは、空気の抵抗のために永久に増加し続けはしないで線が描かれます。} &bold(){ しかし今のところは、論考の先へ進みましょう。著者はそこで、二つの運動から合成された運動をする可動体のインペトゥスに関する考察や探究へ我々を導こうとしています。まず最初は、一方は水平で、他方は鉛直な二つの均等運動の合成についてです。} *&aname(A92){【訳注】[92]} &bold(){ (1) 円錐曲線とは、円錐の平面による切り口であり、平面と円錐の母線とのなす角によって楕円(ellipsis)、パラボラ(parabola)、双曲線(hyperbola)という三種の曲線が生じる。ペルゲのアポッロニオス(Apollonius gaeus.262-1908B.C.)は、この理論を集大成し、『円錐曲線論』を著した。} &bold(){ (2) 線分ABが、点Cで二等分され、一方点Dで不等な二つの部分に分けられるとする。エウクレイデスの命題によれば、AC^2=(AD×DB)+DC^2すなわちAB^2=4AC^2A(ADXDB) となる。} &bold(){ (3) 「パオロ・サルピヘの書簡」の注(2)参照。} &bold(){ (4) 『運動について』〔第一四〕章の注(4)参照。} *- #center(){&bold(){&link_aname(A08){ページの先頭に戻る}}}
のべアクセス数 &u(){&bold(){&counter()}}人 - yokkunさん、いつもありがとうございます。図を貼り付けました。 -- Leon (2009-01-09 20:51:18) #comment(size=80, nsize=20, vsize=3, num=20) *&aname(A08){.} -&bold(){&link_aname(A75){サルヴィアーティ[75]}} -&bold(){&link_aname(A76){定理1[76]}} -&bold(){&link_aname(A77){サグレード[77]}} -&bold(){&link_aname(A78){サルヴィアーティ[78]}} -&bold(){&link_aname(A79){サグレード[79]}} -&bold(){&link_aname(A80){シンプリーチョ[80]}} -&bold(){&link_aname(A81){サルヴィアーティ[81]}} -&bold(){&link_aname(A82){シンプリーチョ[82]}} -&bold(){&link_aname(A83){サルヴィアーティ[83]}} -&bold(){&link_aname(A84){サルヴィアーティ[84]}} -&bold(){&link_aname(A85){サグレード[85]}} -&bold(){&link_aname(A86){シンプリーチョ[86]}} -&bold(){&link_aname(A87){サルヴィアーティ[87]}} -&bold(){&link_aname(A88){サグレード[88]}} -&bold(){&link_aname(A89){サルヴィアーティ[89]}} -&bold(){&link_aname(A90){シンプリーチョ[90]}} -&bold(){&link_aname(A91){サルヴィアーティ[91]}} -&bold(){&link_aname(A92){【訳注】[92]}} &bold(){第四日} *&aname(A75){サルヴィアーティ[75]} &bold(){ ちょうどシンプリーチョさんもおいでになりました。それではさっそく運動について始めることにしましょう。我々の著者のテキストは次の通りです。} *&aname(A76){定理1[76]} &bold(){  投射体の運動について} &bold(){均等運動において生じる現象や、任意の傾きの斜面上での自然加速運動において生じる現象については、先に考察した。これから始める以下の考察では、可動体が、二つの運動すなわち均等運動と自然加速運動とから合成された運動によって動く場合に、それに生じるある種の知るに値する特有の性質を明らかにし、その上でそれを確固たる証明によって確立しよう。しかも我々のいう投射体の運動とは、まさにそのようなものに他ならないと考えられるのである。この運動は次のようにしてつくられるのである。} &bold(){ あらゆる障害が取り除かれた状態で、ある可動体が水平面に沿って投げ出されたと想定する。すると他の所〔第三日〕で詳細に述べたことから明らかなように、もし平面が無限に延びているならば、この運動は均等でその平面に沿ってどこまでも続くことになるだろう。しかし、もしその平面が有限(1)であり、高い所に置かれていると考えるならば、私はその可動体が重さを持っていると想定しているので、可動体が平面の瑞まで行き、それを越えて進む際に、最初の均等で不滅な運動にさらに固有の重さによって持つ下方への傾向が加わり、その結果、水平方向の均等運動と下方への自然加速運動から合成された運動が生じるだろう。それを投射〔projectio〕と呼ぶのである。その性質の幾つかを証明しよう。その第一のものは次の通りである。} &bold(){【訳注】(1)「重さ」「軽さ」とは、アリストテレス的な意味では、それぞれ「地球の中心、すなわち下方に向かう傾向」「地球の中心から離れ上方に向かう傾向」を意味する。ガリレオがこのような概念規定に反対したことはすでにみたとおりであるが、術語の使用法という点では、ガリレオもこの伝統に従っている。以下でも、「重さを持つ」という意味で「重い」という表現がされ、現代なら「(より)軽い」と言うところで「重さの少ない」という言葉が使われる。ここでは、これらの表現はそのままの形で訳してある。なお、「(より)重さの大きい」という比較級の表現も、文脈上明らかな箇所ではやはり「重い」と訳してあるので注意されたい。} &bold(){  定 理一 命 題一} &bold(){ 投射体は、水平方向の均等運動と下方への自然加速運動から合成された運動によって進む間は、その運動を通じて半パラボラ曲線〔linea semiparabolica〕を描くだろう。} *&aname(A77){サグレード[77]} &bold(){ サルヴィアーティさん、私のために、そして恐らくはシンプリーチョさんのためにもここで少し休んでいただけませんか。私は幾何学にそれほど通じているわけではないのです。アポッロニオスについては、彼がパラボラや他の円錐曲線(1)について論じたことは知っていますが、それ以上の勉強はしていないのです。それらの曲線とその性質についての知識がなくては、それらに関係する命題の証明も理解できないと思います。そして早くもこの素晴らしい最初の命題において、著者は、投射によって描かれる曲線がパラボラ曲線であることを証明せねばならないと我々に述べています。ですから、他の曲線〔楕円と双曲線〕については論じる必要がないにしても、この図形〔パラボラ〕の性質については、アポッロニオスが証明したもの全てとはいわないまでも、少なくともここで論じている学問に必要なものは完全に理解することが絶対に必要だと思います。} *&aname(A78){サルヴィアーティ[78]} &bold(){ あなたは大変謙遜なさって、先日よく知っていることとして認められた知識を御存じないとおっしゃりたいのですね。それは、はっきり申し上げれば、抵抗力についての論考でアポッロニオスのある内容についての知識が必要になったとき〔「第二日」の内容。なお、ここでいう抵抗力とは、物体を破壊しょうとする力に対する抵抗、すなわち物体の機械的な強度のこと〕のことで、そのときあなたはそれについて何の困難も感じなかったではありませんか。} *&aname(A79){サグレード[79]} &bold(){ 私がその命題をたまたま知っていたのかもしれませんし、その論考において必要になったときだけ、さしあたり仮定したのかもしれません。しかしここでは、その曲線に関するすべての証明を聞かねばならないと思いますから、それをいわばうのみにすべきではないでしょう。というのは、それでは時間と労力の浪費にしかならないでしょうから。} *&aname(A80){シンプリーチョ[80]} &bold(){ それに、サグレードさんは御自分に必要なすべて〔の知識〕を十分お持ちだと思いますが、私はといえば、〔著者の命題の〕最初の用語自体がすでに新しいものなのです。というのは、我々の哲学者たち〔アリストテレス主義者たち〕もこの投射体の運動という問題を扱ってはいますが、投射体の描く線については、鉛直上方への投射を別にすればごく一般的に、それはいつも曲線であるといっているだけです。それがどのような線であるかを定義する必要に迫られているような場合は思い当たりません。ですから、我々が以前に他の論議〔ガリレオの前著『世界系対話』〕をしたときからこれまでの間に私はエウクレイデス〔の『原論』〕から幾何学についてわずかばかりのことを学びましたが、それだけではこのあとの証明を理解するのに必要な知識を得たことにはならないのでしたら、私としては、それらの命題を理解できなくてもただ信じるだけで満足すべきなのでしょう。} *&aname(A81){サルヴィアーティ[81]} &bold(){ いや、私はあなた方に、それらの命題をこの著作の著者自身の助けによって理解して欲しいのです。著者は、私にこの自らの労作を見せてくれたときに、私がまだアポッロニオスの著作を手許に持っていなかったので、才知を働かせて、私のためにパラボラの最も主要な二つの性質を何の予備知識も前提とせずに証明してくれたのです。そしてこの論考において我々に必要なのはこの二つだけなのです。もちろんアポッロニオスもこれらの性質を証明していますが、他の多くの性質の後になっているので、それを知るまでに時間がかかるでしょう。そこで私は、第一の性質をパラボラの生成そのものだけから直接導き出し、この性質から第二の性質の証明を導き出すことによって、道程を大いに縮めたいと思います。それでは第一の性質から始めましょう。} &ref(p267.jpg) &bold(){ 直円錐があり、その底面を円IBKC、頂点を点Lとし、この円錐を母線LKに平行な平面で切ると、断面BACができると考えましょう。これがパラボラと呼ばれるものです。その底BCが、円IBKCの直径IKを直角に切るとし、パラボラの軸をADとしましょう。これはLKに平行です。曲線BFA上に任意の点Fをとり、線分FEをBDに平行に引くとします。私は、BDの平方がFEの平方に対して持つ、比は、軸DAがその部分AEに対して持つ比と同じであると主張します。点Eを通り、円IBKCに平行な平面を考えましょう。この平面は円錐内で円形の断面を作りますが、その直径を線分GEHとします。そして、円IBKの直径IKの上に垂線BDが立てられているのですから、BDの平方は、〔IKの二つの〕部分ID、DKから作られる長方形〔の面積すなわちIDとDKの積〕に等しいことになります。また上の円は点G、F、Hを通ることがわかっていますから、同様にして、線分FEの平方は、GEHの〔二つの〕部分〔GEとEH〕から作られる長方形に等しくなります。それ故、BDの平方がFEの平方に対して持つ比は、長方形IDK〔すなわちIDとDKの積〕が長方形GEHに対して持つ比と同じです。また、線分EDはHKに平行なので、EHとDKは互いに平行で、等しくなります。したがって、長方形IDKが長方形GEHに対して持つ比は、IDがGEに対して、すなわちDAがAEに対して持つ比と同じでしょう。それ故、長方形IDKが長方形GEHに対して持つ比、すなわちBDの平方がFEの平方に対して持つ比は、軸DAがその部分AEに対して持つ比と同じになります。これが証明すべきことでした。} &ref(p268.jpg) &bold(){ この論考において必要なもう一つの命題は、次のようにして明らかになります。パラボラを描き、その軸CAを外側にDまで延ばします。また、任意の点Bをとり、さらにその点を通ってパラボラの底に平行な線分BCを引くとしましょう。そしてDAが軸の部分CAに等しいとすると、点D、Bを通って引かれた直線は、パラボラの内部に入り込まずに外部にあり、したがってちょうど点Bでパラボラに接するだけであると主張します。それは次のような理由によるのです。もしDBがBより上で、あるいは延長されたときにBより下でパラボラを切り、パラボラの内部に入り込むことがありうるならば、その内部に〔DB上の〕点Gを任意にとりましょう。この点を線分FGEが通るとします。するとFEの平方はGEの平方より大きいのですから、FEの平方がBCの平方に対して持つ比は、GEの平方がBCの平方に対して持つ比よりも大きくなります。そして以前に証明したことから、FEの平方対BCの平方は、EA対ACに等しいのですから、EAがACに対して持つ比は、GEの平方がBCの平方に対して持つ比、すなわち、EDの平方がDCの平方に対して持つ比よりも大きいのです(というのは三角形DGEにおいて、GE対〔GEの〕平行線BCはED対DCに等しいのですから)。ところで線分EAがACに対して、すなわちADに対して持つ比は、長方形EADの四倍がADの平方の四倍に対して、すなわちCDの平方(これはADの平方の四倍に等しいのです)に対して持つ比に等しいのです。したがって、長方形EADの四倍がCDの平方に対して持つ比は、EDの平方がDCの平方に対して持つ比よりも大きくなります。それ故、長方形EADの四倍はEDの平方よりも大きいことになってしまいます。実際には小さいのですから、これは誤りです。というのは、線分EDの〔二つの〕部分EA、ADが互いに等しくないからなのです。よって直線DBはBでパラボラに接し、それを切ることはありません。これが証明すべきことでした。} *&aname(A82){シンプリーチョ[82]} &bold(){ あなたの証明の仕方は余りに見事過ぎます。またお見受けするところでは、あなたは議論を進めるにあたって、エウクレイデスの〔『原論』の〕すべての命題が私にとって、その最初の公理と同じほどなじみのあるもので、いつでも使えるものであると常に仮定しておられますが、実際にはそうではないのです。たった今、線分EDの部分EA、ADは等しくないので、長方形EADの四倍はDEの平方よりも小さいと述べて説明をすませたことにも、私は満足できず、疑問が残っています。} *&aname(A83){サルヴィアーティ[83]} &bold(){ 実際、れっきとした数学者はみな、読者が少なくともエウクレイデスの『原論』には通じているものと仮定しています。そして、ここであなたの必要に応じるためには、〔『原論』の〕第二巻のある命題〔命題五〕を思い起こすだけで十分でしょう。その命題では、ある線分を等しい〔二つの〕部分と、不等な〔二つの〕部分に分けたとき、不等な部分からなる長方形が、等しい部分からなる長方形(〔もとの線分の〕半分の平方)よりも小さいこと、そしてその差は、不等な部分と等しい部分との差の平方に等しいことが証明されています。このことから、線分全体の平方はその半分の平方を四つ含んでいますので、不等な部分からなる長方形の四倍よりも大きいことは明らかです(2)。さて、円錐に関する基本的な諸定理の中から、二つの命題を採って証明しましたが、これらは、この論考の続く部分を理解するために覚えておかなければなりません。なぜなら、著者が用いているのはこの二つだけで、それ以上は何も用いていないのですから。これで本文へ戻って、著者がどのようにして第一命題を証明しているかを見ることができます。そこで彼は、水平方向の均等運動と自然落下運動から合成された運動で落下する重い可動体によって描かれる線が、半パラボラであることを我々に示そうとしています。} &ref(p270.jpg) &bold(){ 水平線あるいは水平面ABが高い所に置かれていると考え、その上を可動体がAからBへ均等運動によって進むとせよ。だが平面による支えがBで終わるために、この可動体に、固有の重さのために鉛直線BNに沿う下方への自然加速運動が加わるとせよ。平面ABからさらに真っ直ぐに線分BEを延ばすと考え、時間の流れあるいは尺度として、その上に任意の等しい時間部分BC、CD、DEを自由にとるとせよ。そして点B、C、D、Eから鉛直線BNに平行な直線を引いたと考えよ。それらの最初の直線上に任意の部分CIをとるとせよ。次の直線上にその四倍であるDFをとり、さらにその次の直線上に九倍であるEHをとるとせよ。そして結局残りの直線上にも、線分CB、DB、EBの平方相互の比、あるいは言い換えればこれらの線分の二倍比(3)に従って部分をとるとせよ。もし可動体がBを越えCに向かって均等運動によって進むとき、それに量CIに応じた鉛直方向の降下が加わると考えるならば、その可動体は時間BCの後に点Ⅰに見出されるだろう。さらに先へ進み時間BCの二倍の時間DBの後では、下方への下降距離は最初の拒離CIの四倍となる。というのは、最初の論考〔二四九ページ、定理二 命題二〕で証明されたように、重い物体が自然加速運動によって通過する距離相互の比は時間相互の二倍比となるからである。また同様にして、結局時間BEで通過する距離EHは〔CIを単位とするとき〕九にあたるだろう。その結果明らかに、距離EH、DF、CI相互の比は線分EB、DB、CBの平方相互の比に等しい。さて、点Ⅰ、F、Hから線分EBに〔それぞれ〕平行な直線IO、FG、HLを引くとせよ。線分HL、FG、IOは各々線分EB、DB、CBに等しく、また線分BO、BG、BLも各々線分CI、DF、EHに等しくなる。HLの平方対FGの平方は線分LB対BGに等しく、FGの平方対IOの平方はGB対BOに等しいだろう。よって点Ⅰ、F、Hは同一のパラボラ曲線上にある。そして同様にして任意の大きさの相等しい時間部分を任意の数だけとると、同様の合成運動によって進む可動体の、これらの時間における位置は、一つのパラボラ曲線上に見出されることが同様にして証明されるだろう。よって命題は明らかである。} *&aname(A84){サルヴィアーティ[84]} &bold(){ この結論は、先に提示した二つの命題のうちの最初のものの逆からわかります。このことは次のように説明されます。たとえばパラボラが点B、Hを通るように描かれたとき、二点F、Ⅰのうちのどちらかが、描かれたパラボラ曲線上にないとすれば、その点はその内部か外部にあることになります。その結果、線分FGは、〔Gから始まり〕パラボラ曲線上で終わる線分よりも小さいか、あるいは大きいでしょう。したがって線分LBがBGに対して持つ比は、HLの平方がFGの平方に対して持つ比には等しくなく、それ〔HLの平方〕が、FGの平方より大きいかあるいは小さい他のもの〔平方〕に対して持つ比に等しいことになるでしょう。しかしこの比〔LB対BG〕は、実際にはHLの平方がFGの平方に対して持つ比に等しいのです。それ故、点Fはパラボラ曲線上にあることになり、同様のことが他の全ての点についてもいえます。} *&aname(A85){サグレード[85]} &bold(){ この議論が斬新で、才知にあふれた説得力を持つものであることは否定できませんが、これは「仮定による〔ex suppositione〕」議論です。すなわち次のことを仮定しています。横方向の運動は常に均等の状態を維持し、また下方への自然運動も、時間の二倍比に従って常に加速していくというその状態を同じく維持するということです。さらにこのような運動とその速さは、合成される際に互いに変化を及ぼすことも、攪乱することも、妨害することもないので、結局運動を続けていく際に、投射体の〔描く〕線が他の種類に変わってしまうことはないということも仮定されています。このようなことは、私には不可能であるように思われます。それは次のような理由によります。我々のパラボラの軸は、それに従って重い物体の自然運動がなされると仮定されていますから、水平面に垂直であり、地球の中心へ向かいます。そしてパラボラ曲線は常にその軸から離れて広がり続けますから、いかなる投射体も〔地球の〕中心へ向かわないことになるでしょう。あるいは次のようにも言えます。投射体が地球の中心へ向かうのは必然であると思いますが、もしそうならば、投射体の〔描く〕線は、パラボラとは非常に異なる他の線へとそれていくことになるでしょう。} *&aname(A86){シンプリーチョ[86]} &bold(){ 私は、この他にも困難があることを指摘したいと思います。その一つは、我々が、どちらへも傾いていない水平面が直線状であるとし、そのような直線が、その全ての点において〔地球の〕中心から等距離であるかのように仮定していることです。これは正しくありません。なぜならば、その直線の中央から出発し端の方へ行けば、それにつれて絶えずいっそう〔地球の〕中心から離れるので、したがって常に上昇することになります。このことの結果として、〔この直線に沿う〕運動が永久に続くことは不可能になります。それどころか、ある〔有限の〕距離の間でさえも〔運動が〕均等であることは不可能で、常に衰えていくことになるのです。さらに私の信じるところでは、媒質による妨げを逃れて、横方向の運動の均等性や落下する重い物体における加速の規則が成り立つようにすることは不可能です。これらすべての困難を考えると、このような不確実な仮定によって証明されたことが、現実の経験において確証されうるとは到底思えません。} *&aname(A87){サルヴィアーティ[87]} &bold(){ あなた方が述べられた困難や異論はすべて、もっともな根拠のあるものですから、それらを取り除くことは不可能だと思います。また私としてはそれらをすべて認めますし、同様に我々の著者もまた認めるだろうと思います。そしてこのように抽象的に証明された結論は、具体的な場合には変わってしまい誤りになることを認めましょう。たとえば横方向の運動は均等ではなく、自然運動の加速は仮定された比に従わず、投射体の〔描く〕線はパラボラ曲線ではないということになります。しかしながら、著者の仮定はなるほど誤りではありますが、同じ仮定は他の偉大な人びとも行っているのです。ですから、こういった困難や異論のために、著者がこのような仮定をすることが許されないということがないようにお願いします。アルキメデスの権威によるだけで、誰もが満足するでしょう。彼は、機械学に関する著作やパラボラの最初の求積(4)において、天秤あるいは竿秤の腕がその全ての点において、重いものの共通の中心〔地球の中心〕から同じだけ離れた一つの直線であることや、錘の吊るされている糸が互いに平行であることを真なる原理として用いています。これらのことを認めたことを許している人たちもいます。というのは、実際の活動においては我々の用いる道具や〔活動に関係する〕距離が、地球の中心から我々までの大きな距離に比べて非常に小さいので、地球の大円の角度の一分ほど〔の弧〕をあたかも直線であるかのようにみなし、そしてその両端から吊るされている二本の鉛直線を互いに平行であるかのように考えることができるのです。もし実際の活動においてこうした細かなことを考慮に入れねばならないとすると、まず建築家たちを非難せねばならないでしょう。彼らは、鉛直線を用いて極めて高い塔を平行線の間に建てることができると考えているのですから。ここで付け加えておきますが、アルキメデスや他の人々は、考察するにあたって〔我々が〕地球の中心から無限に離れていると仮定しているともいえるのです。この場合には、彼らの前提〔二つの鉛直線は互いに平行であることなど〕は誤りではありません。それ故、彼らは絶対的な証明でもって結論を導いていたということができるのです。そこで我々が、無限の距離を仮定することによって証明した結論を、〔地球の中心からの〕限られた距離において実際に用いようとするならば、地球の中心から我々までの距離が実際には無限でないために問題となることを、証明された真理から差し引かねばなりません。しかしこの距離は無限でないにしても、我々が用いる人工的な手段の小ささに比べれば十分に大きいといってもよいのです。我々の手段の中で最大のものは、投射体を発射することであり、その中でも大砲によるものに限りますが、それでもいくら大きくても四ミーリオにも達しないでしょう。一方我々は、およそ四〇〇〇ミーリオも地球の中心から離れているのです。そしてこれらの投射体が地球の中心まで運動を続けるならば、パラボラの形は大きく変わってしまうでしょうが、運動は地表で終わるのですから、パラボラの形の変化は知覚できない程度でしかないでしょう。} &bold(){ 次に、媒質の妨げから生じる撹乱についてですが、こちらの方がもっと重要なことなのです。しかしこれは非常に多種多様なものなので、それを確固たる規則に従わせたり、それに関する理論〔scienza〕を与えたりすることはできません。というのは、我々の考えている運動に対して空気がもたらす妨げだけを考慮するとしても、この妨げは全ての運動を乱すものであり、その仕方も、可動体の形や重さや速さに無限の多様性があるのに応じて無限にあるのです。速さについて言えば、速さが大きくなるのに応じて、空気が及ぼす抵抗も大きくなるでしょう。また空気は、可動体の重さが少なければ、それに応じていっそう可動体を妨げるでしょう。ですから、落下する重い物体が、その運動の継続時間の二倍比で加速しながら進んでいくはずであるとはいえ、極めて高い所から落下してくるときには、どんなに重い可動体であっても、空気の妨げが、可動体がそれ以上速さを増すことを不可能にして可動体に一様で均等な運動をさせるほどに大きくなるでしょう。そしてこのような釣合〔の状態〕は、物体が軽ければそれだけ早く、より小さい高さ〔短い落下距離〕で達成されるでしょう。水平面上での運動もまた、他のすべての障害が取り除かれれば均等で永続するものになるはずですが、空気の妨げによって変化が起こり、ついには止まってしまうでしょう。この場合にもやはり可動体の重さが少なければ、それだけ早く静止するでしょう。こういった重さや速さ、そしてまた形という付帯的なことには無限の多様性があるので、これらに関する確固とした理論を与えることはできません。それ故、このような問題を学問的に扱うことを可能にするためには、抽象を行い、妨げを捨象した結論を見出して証明し、さらにそれを実際に用いる場合には、経験によって知られる限定内で用いる必要があります。しかし、だからといってその有効性がわずかしかないわけではありません。というのは、可動体の材質や形としては、媒質の妨げを少ししか受けないように重くて丸いものが選ばれますし、〔運動の〕距離や速さは一般にさほど大きくないので、その運動が容易に補正できないほどに〔抽象によって得られた結論から〕逸脱することはないはずだからです。それに、我々が実際に用いることができる投射で、重い物質からなる丸い形のものや、それほど重い物質でなくとも矢のように円筒状の形をしているものが投石器や弓から発射されるならば、それらの運動と正確なパラボラ図形との相違は全く感知できないでしょう。さらに(もう少し〔話し続けることを〕お許しいただきたいのですが)、我々が実際に用いることのできる手段においては、それらが小さいために、媒質の妨げをはじめとする外的で付帯的な妨げはほとんど目に付かないほどであるということを、二つの実験によってあなた方に明らかにすることができます。空気中で行われる運動を考えましょう。というのは、我々が論じているのはもっぱらそのような運動についてですから。空気は運動に対して二つの仕方で力を及ぼします。一方は、重い物体よりも重さの少ない物体をよりいっそう妨げることによるもので、他方は、同じ可動体に対しても、小さな速さよりも大きな速さに対して強く対抗することによるものです。第一の妨げに関しては、同じ大きさであるが、たとえば鉛の球と樫の球のように、一方が他方より一〇倍ないし一二倍も重い二つの球が、一五〇あるいは二〇〇ブラツチョの高さから落下するとき、両者はほとんど同じ速さで地面に到達することが実験によって示されますから、空気による妨げや減速はどちらにおいてもわずかであることが確信できます。もし鉛の球が、もう一つの木の球と同時に高い所から出発したときに少ししか減速されず、一方木の球が大いに減速されるならば、一〇倍も重い鉛は、地面に到着するときに木をかなりの距離引き離すはずです。しかし、このようなことは起こりません。それどころか、鉛の球は高さ全体の一〇〇分の一ほども先には進んでいないでしょう。そして鉛の球と、その三分の一ないし半分の重さしかない右の球とでは、地面に着く時間の羞はほとんど観察できないほどでしょう。さて、二〇〇ブラッチョの高されら落下する際に鉛の球が獲得するインペトゥスは(それは、均等運動を続けるとするならば、落下に要したのと同じ時間内に四〇〇ブラツチョを通過するだけのものです)、我々が弓や他の器械を用いて投射体に与える速さと比べても決して小さいものではありません(ただし火器によるインペトゥスは別にしてですが)。したがって、媒質による変化を考慮せずに証明される諸命題を結論として認め、絶対的に真であるとみなしても目につくほどの誤差はないでしょう。次にもう一方の問題ですが、同じ可動体が大きな速さで運動するときに空気から受ける妨げが、ゆっくり運動するときに受ける妨げよりもさして大きなものではないことを示すことに関しては、次の実験によって揺るぎない確実性が得られます。四ないし五ブラッチョの長さの等しい二本の糸に二つの等しい鉛の球を吊り下げ、その糸を高い所に結び付けましょう。これら二つの球を鉛直の状態から、一方は八〇度ないしそれ以上、他方はほんの四、五度だけ離すとします。そして両方の球を放して自由にすると、一方は下降して鉛直線を通過し、一六〇、一五〇、一四〇度といった極めて大きな弧を描きますが、それは少しずつ小さくなっていきます。もう一方も自由に運動し、一〇、八、六度といった小さな弧を描きますが、これらの弧もやはり少しずつ小さくなっていきます。ここでまず私は、後者が一〇、八度など〔の小さな弧〕を通過する時間のうちに、前者は一八〇度、一六〇度など〔の大きな弧〕を通過すると主張します。このことから、第一の球の速さは、第二の球の速さよりも一六ないし一八倍大きいことが明らかです。それ故、大きな速さが、小さな速さよりも空気によって余計に妨げられるはずならば、一八〇度ないし一六〇度の極めて大きな弧の振動数は、一〇、八、四、さらに二や一度の極めて小さな弧の撮動数よりも小さくなければなりません。しかし、実験ではそのようにはなりません。すなわち二人の人が、一人は大きな方の振動を、もう」人は小さな方の撮動を数え始めると、何十回、何首回数えても、一回たりとも、それどころかごくわずかさえも〔二つの振動の間に〕差が生じないことがわかるのです。そしてこの観察は、我々に二つの命題を同時に保証してくれます。すなわち、極めて大きな振動と極めて小さな振動とはすべて各々等しい時間で行われるということ、空気による妨げや減速は極めて速い運動においても、極めて遅い運動における場合と同程度にしか作用しないということです。これは、ほんの先ほどまで我々も一致して判断していたことに反しています。} *&aname(A88){サグレード[88]} &bold(){ いや、それだけではなく、空気が両者の運動を妨げることは否定できないのですから、速い運動も遅い運動も衰え、ついには止まってしまう以上はそれらの減速が両者に同じ比で作用すると言うべきです。しかしそれはどのようなものでしょうか。〔空気の〕及ぼす抵抗がある場合には大きく、他の場合には小さいということは、〔可動体の〕インペトゥスや速さがある場合には大きく、他の場合には小さいということ以外のいかなることから起こるというのでしょう。そして、もしそのとおりだとするならば、可動体の速さの量自体が抵抗の量の原因であり、同時に尺度でもあることになります。したがってすべての運動は、遅いものも速いものも同じ比で減速され、妨げられます。これは軽視できない知識だと思います。} *&aname(A89){サルヴィアーティ[89]} &bold(){ そこでこの第二の場合においても、外的で付帯的な状況を捨象することによって証明される結論における誤差については、〔投射という〕我々の人工的な手段の場合は、さほど考慮する必要はないと結論できます。すなわち、一般に扱う程度に大きな速さの運動や、地球の半径や大円の大きさに比べて極めて小さいとしか言いようのない距離の場合には、それほど問題にならないのです。} *&aname(A90){シンプリーチョ[90]} &bold(){ 私はあなたが、火のインペトゥスによる投射体、すなわち火薬の力による投射体のことだと思いますが、それを他の投石器や弓や石弓による投射体から区別した理由と、それが空気による変化や妨げに同じ仕方では従わない理由を聞きたいと思います。} *&aname(A91){サルヴィアーティ[91]} &bold(){ それは、そのような投射体が撃ち出されるときの過度の、いわば超自然的な激しさのためです。というのは、マスケット銃や大砲から射ち出された弾の速さは、超自然的と呼んでも決して誇張ではないように思われるからです。その理由を説明しましょう。そのような弾が非常に大きな高さから空気中を自然落下するとしても、その速さは、空気の抵抗のために永久に増加し続けはしないで線が描かれます。} &bold(){ しかし今のところは、論考の先へ進みましょう。著者はそこで、二つの運動から合成された運動をする可動体のインペトゥスに関する考察や探究へ我々を導こうとしています。まず最初は、一方は水平で、他方は鉛直な二つの均等運動の合成についてです。} *&aname(A92){【訳注】[92]} &bold(){ (1) 円錐曲線とは、円錐の平面による切り口であり、平面と円錐の母線とのなす角によって楕円(ellipsis)、パラボラ(parabola)、双曲線(hyperbola)という三種の曲線が生じる。ペルゲのアポッロニオス(Apollonius gaeus.262-1908B.C.)は、この理論を集大成し、『円錐曲線論』を著した。} &bold(){ (2) 線分ABが、点Cで二等分され、一方点Dで不等な二つの部分に分けられるとする。エウクレイデスの命題によれば、AC^2=(AD×DB)+DC^2すなわちAB^2=4AC^2A(AD×DB) となる。} &bold(){ (3) 「パオロ・サルピヘの書簡」の注(2)参照。} &bold(){ (4) 『運動について』〔第一四〕章の注(4)参照。} *- #center(){&bold(){&link_aname(A08){ページの先頭に戻る}}}

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