マウン・トゥーガ


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白衛党時代――マウントゥーガ体制(1930~1994) 

◎国家機関

・天帝――歴史的に見て天帝はフォルメアにおいて長らく世俗・宗教上の頂点にあり、マウントゥーガ体制下
においては主権者として、形式上は国家の全権限をもつものとされる。もっとも、そのうち大権(国務・統帥・
祭祀)を残して他は人民にこれを委譲された。 
・首相――最高評議会の議長として、立法府(代表機関)の代表、行政府(執行機関)の首長を兼任する。天帝
により任命されるが、白衛党総裁の就任することが通例化している。国務院下各省庁の長官を任命する。 
・最高評議会――最高意思決定機関。最高評議会議員は天帝により任命されるが、白衛党中央委員(?) の
就任することが通例化している。関牧官評議会と民族代表会議による法案審議について、両者の結論が一致し
た場合はその通りに法律の公布を天帝に上奏するが、食い違った場合は①最高評議会自ら法案の採否を決定す
る(非常時など一定の要件が必要)か、②最高評議会の主催によって関民協議会を開催し法案の採否を決定する。
以上の手続きによって採否の決した場合は、改めてその旨天帝に上奏する。 
・関牧官評議会――関(日本の県に相当)の代表者である関牧官からなる立法機関。 
・民族代表会議――各民族の共同体から選出された代表者よりなる立法機関。 
・国務院――最高評議会の指導の下に行政権を行使する、いわゆる官僚機関。 
 ・最高法院――司法の最高機関。

(左から、テュー・リュヴォルニュアフ、フィー・マッフェウレーン, 1929年 作画:舟鷹)

(左から、ブリメーロ・さサイゲライフィン、チェ・ロ,1929年 作画:舟鷹)

マウン・トゥーガ期の政治機構はフォルメア大陸内を文化的・経済的にあらゆる面からトゥーガ(統一化)することに重点が置かれていた。トゥーガ期の特色である民族代表会議は、トゥーガのための前段階的処置とされ、また来るべき全トレーフ圏奪還(南溟奪還計画)のための補助機関であるとされていた。民族代表会議は党内における民族問題の専門家である幹部チェ・ロやフィー・マッフェウレーンによって提案され、フェナシュテュール・ヴエーヴロら最高幹部の賛同によって実現した。しかし、フェナシュテュール・ヴエーヴロはトゥーガに賛成はするも、決して急進的な民族同化政策(マウン・トゥーガ)への賛意は表明しておらず、内戦期~40年代までに引き続いた民族主義者弾圧等の指令は彼の手によって下されたものではない。官僚制国家としての性格が強い全体的なトゥーガの特徴はブリメーロ・サイゲライフィンとフェナシュテュール・ヴエーヴロらによって提案された。

また、マウン・トゥーガ最初期である内戦期や30年代初頭においてはトゥーガ達成の邪魔となる民族主義者などの暗殺を手がける”MAUT”が組織されており、その隊長のフエ・バギアーは最高幹部セシェル・ナヴァトの追認と示唆に基づき50万人以上を民族主義者と断定し、殺害している。

1920年代初頭から白衛党内部では白衛党による国家改革における政治機関の構造論においては活発に議論が交わされており、中でもロやマッフェウレーンの提唱する民族代表会議に関しては議論が白熱していた。これらの談義の際、急進派であるセシェル・ナヴァトはフェナシュテュール・ヴエーヴロの姿勢にあわせており、ヴエーヴロの死後に民族代表会議を事実上の翼賛組織に転化させていった。

トゥーガ期の政治機関はおおよそ巨大な官僚制機構を民族代表会議・関牧官評議会・最高会議らが統監・指摘する形状になっており、半独裁とも半民主制とも取れる位置にある。

1994年、このような強固な国家体制はトゥーガの目的を十分達成したとしてフェノガン・クノーセフィン首相によって廃止され、この年以降はマウン・ザール(白衛党による放任化)へ国家構造を改めるにいたった。