Ever Green Forest -漂流@wiki内検索 / 「H1677a」で検索した結果

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  • 石井研堂. 1892
    ...を欺きて故郷に帰る H1677a 志摩の人、台湾島に漂流し、清国船に因りて故郷に帰る H1757a 筑前の人保爾尼に漂流し、万死を出でて故郷に帰る H1764a
  • H0677a
    新羅人朴刺破(ぼくしは)ら五島列島に漂着 677年(H0677a) 天武6年5月7日、新羅人朴刺破が従者3人・僧3人と血鹿島(ちかのしま・五島列島)に漂着した。 天武6年8月27日、朴刺破は金清平と帰国する。 参考文献 宇治谷孟, 1988. 全現代語訳 日本書紀 下. 講談社. 坂井太郎ほか, 1993. 日本古典文学大系 日本書紀 下. 岩波書店.
  • 荒川秀俊, 1962
    ...衛門船漂流帰国之事 H1677a 漂人談話 H1712a 浙江漂流帰帆 H1752c 宝暦7年丑9月志州鳥羽浦船頭漂流一件 H1757a 異国漂流人之次第 H1764a 異国江漂流仕候陸奥国の者4人口書 H1793a 能州羽咋郡塵浜村清兵衛異国漂流口書写 H1830b 呂宋国漂流記 H1841c 漂客談奇 H1841a 漂流奇談 H1841a 栄寿丸漂流口書 H1841b 漂流記 H1850a 無人嶋ヨリ帰国之者御調書上留 H1719a, H1739a, H1785a 無人嶋漂流記 H1785a
  • H1637a
    米子の漁師、蔚山に漂着 1637年(H1637a) 寛永14(1637)年、米子の村川市兵衛門仕立てで弥三右衛門、與七郎等36人が鬱陵島での漁を終え帰国に向かう途中で漂流し朝鮮の蔚山魴魚津へ漂着した。当時既に漁の対象はアシカに移行していた。 弥三右衛門等は3月鬱陵島に行き、6月末本国へ向う途中遭難し蔚山に漂着した。 8月、対馬藩に引き渡される。 大谷家と隔年で鬱陵島へ出漁した村川家は「家譜」によると始祖は尾張の久松甲斐守の家臣山田二郎左衛門正斎である。正斎はある事件で1581(天正9)年切腹している。その子正員は母に従って米子に来住、母の実家が村川姓だったので彼は村川甚兵衛正員と名乗った。正員から3代目が市兵衛正純で大屋甚吉(H1617a)と懇意で共に町年寄であったという。その市兵衛正純が家督を市兵衛正清に譲るのは1656(明暦2)年とされるから村川市兵衛船の朝鮮への...
  • 年表
    年表 BC320年ごろ ピュテアスがグリーンランド(アイスランド?)を探査* TB320a BC20年 瓠公、新羅に漂着* HB020a 157年 迎烏、日本の小島に漂着* H0157a 544年 粛慎の人、佐渡島に漂着* H0544a 570年 高麗の使人、越に漂着* H0570a 573年 高麗の使人B、越に漂着* H0573a 609年 百済の僧ら、肥後葦北に漂着* H0609a 620年 屋久島の人、伊豆諸島に漂着* H0620a 653年 遣唐使02* H0653a 654年 トカラ船漂着* H0654a 659年 遣唐使04A* H0659a 659年 遣唐使04B* H0659b 661年 大伴部博麻ら百済救援の役で唐の捕虜となる* R0661a 676年 麻續王、因幡に流される* O0676a 676年 筑紫太宰三位屋垣王、土佐に流される* O0676b 677年 新羅人...
  • H1617a
    大屋甚吉、鬱陵島に漂着 1617年(H1617a) 元和3(1617)年、大屋甚吉(大谷甚吉とも)、鬱陵島に漂着。一説にはもっと早い時期の可能性もある。 大屋家は但馬大屋谷に居していた和田九右衛門尉良清が始祖でその孫玄蕃尉勝真が現在の鳥取県会見郡の尾高城主杉原盛重に仕え、姓を大谷に変えたという。彼は家老の上席にまで身を置くが途中で武士を捨て隠士となり祖先の墓所である大屋谷に帰り死去している。その玄蕃の甥が甚吉で町人として米子の灘町で廻船業を開始した。大屋は屋号だという。 元和4(1618)年5月16日(一説には1625年)、米子町人の大屋甚吉と村川市兵衛が江戸幕府から「竹島渡海免許」を与えられ、アワビやワカメを採るために、毎年、交代で船を送るようになる。当時、日本では鬱陵島を「竹島」あるいは「磯竹島」と読んでいた。 免許を得るきっかけは、越後国(新潟県)から伯耆国(鳥取県)...
  • H1667a
    尾張孫左衛門船、馬丹島に漂流 1667年 寛文7年9月(1667/10月か11月)、尾張国知多郡大野村の商人孫左衛門、15人乗りの船に材木を積んで江戸に送る。 寛文7年10月中旬(1667/11月末~12月始め)、江戸着。 寛文7年10月下旬(1667/12月前半)、尾張大納言の品物をはじめ、千賀志摩守、同与八郎の荷物を積み、飯米2石ほど積み込んで、江戸を出船。 寛文7年11月4日(1667/12/18)、下田を出て、三河国沖合いまできたとき、西風が強くなり、尾張国に寄せることができず。11月5日(1667/12/19)、大王崎のあたりで西風がますます強くなり、東へ流される。11月8日(1667/12/22)朝、帆柱を切り捨てる。11月14日(1667/12/28)晩、風が変わる。11月15日(1667/12/29)、帆げたを帆柱にし帆走。西に向かう? 寛文7年...
  • H1673a
    陸奥国相馬の船、東寧(台湾)に漂着 1673年 1673年、陸奥国相馬の船、東寧(台湾)に漂着し、原住民に捕らえられ奴隷とされていたのを、鄭錦舎が銀を与えて放たせ、延宝2(1674)年6月、長崎に送ってくる。礼として銀20貫目を贈る。 参考文献 網野善彦ほか(編集), 1993. 海と列島文化別冊 漂着と漂流. 小学館. 外務省記録局編, 1884. 外交志稿. 外務省.
  • H1676a
    豊前小倉の漁民、朝鮮に漂着 1676年 延宝4(1676)年、豊前小倉の漁民2名、朝鮮に漂着する。 参考文献 外務省記録局編, 1884. 外交志稿. 外務省.
  • H1671a
    播磨飾磨津の漁民、朝鮮巨済島に漂着 1671年 寛文11(1671)年、播磨飾磨津の漁民3名、朝鮮巨済島に漂着する。朝鮮はこれを対馬に護送する 参考文献 外務省記録局編, 1884. 外交志稿. 外務省.
  • H1672a
    讃岐塩飽島の漁民、朝鮮に漂着 1672年 寛文12(1672)年、讃岐塩飽島の漁民14名、朝鮮に漂着する。朝鮮これを対馬に護送する。 参考文献 外務省記録局編, 1884. 外交志稿. 外務省.
  • H1673b
    清船、肥前平戸に漂着 1673年 延宝元(1673)年5月、清船1隻、肥前平戸に漂着す。 参考文献 外務省記録局編, 1884. 外交志稿. 外務省.
  • H1679a
    朝鮮人、薩摩甑島の内瀬に漂着 1679年 延宝7(1679)年1月、朝鮮人26名、薩摩甑島の内瀬に漂着し、岩礁に触れて船楫破砕して覆没する。その屍を島中に葬り、対馬に命じてその器物を朝鮮に送る。 参考文献 外務省記録局編, 1884. 外交志稿. 外務省.
  • H1601a
    ポルトガルの船、上総大瀧浦に漂着 1601年(H1601a) 慶長6(1601)年秋、ポルトガルの船、上総大瀧浦に漂着す。乃ち(すなわち)会て、伊豆加茂郡伊東に於いて唐船に擬し造る所の船を与え其国に帰らしむ。 ドン・ロドリゴの漂着(H1609a)に酷似。 参考文献 外務省記録局編, 1884. 外交志稿. 外務省.
  • H1610a
    メキシコ船、東国に漂着 1610年(H1610a) 慶長15(1610)秋、新スペイン国の船(案ずるに今アメリカ州メキシコ国是なり)、東国に漂着す。修繕を加え薪糧を給して、其国に還す。(案ずるに、欧南遣使考に曰く。スペイン国人、風に漂うて、我西陲に抵る舳艫悉く壊る。官命じて繕治し薪糧を給して還らしむ。本文と東西地を異にす。孰れ(いずれ)が是なるか知らず) これも、ドン・ロドリゴの漂着(H1609a)と酷似。「東国に漂着」はサン・フランシスコ号、「西陲に抵る」はサンタ・アナ号とも読める。 参考文献 外務省記録局編, 1884. 外交志稿. 外務省.
  • H1609a
    ドン・ロドリゴ九十九里浜に漂着 1609年(H1609a) ドン・ロドリゴ|Rodrigo de Vivero y Velasco、1564年生まれ。メキシコ生まれのスペイン人。 1595年、サン・フアン・デ・ウルア城塞守備隊長兼市長となる。 1597年、タスコ市長となる。 1599年、ヌエバ・ビスカヤ地方長官兼軍司令官となる。 1608年、フィリピン臨時総督として派遣される。 1608年(慶長13年)、家康の使節であるウィリアム・アダムズ(H1600a)と会見。アダムズを通じて家康に親書と贈り物を託し、間もなくスペインとの交易が始まった。 1609年、メキシコへの召還命令を受ける。 1609年7月25日、サン・フランシスコ号でマニラを出帆。日本人ケン同乗。 ケン:蜂須賀家の雑兵として関ケ原の戦いに参戦し、敗残兵として堺へ落ち延びる。のちに、ルソンへの渡航を果たし、水夫の...
  • H1616a
    美保の漁師、朝鮮に漂着 1616年(H1616a) 元和2(1616)年、雲州三保関ノ人七名竹島ニ至リ漁猟シ風ニ逢ヒ朝鮮ニ 漂着ス。朝鮮礼曹参議書ヲ宋(宗)氏ニ与テ之ヲ護送ス(竹島紀事)。漂着地は江原道平海と推察されている。 帰還は元和4(1618)年。 参考文献 杉原隆, 2006. 日本・韓国間の漂流の歴史と竹島問題. 島根県.
  • H1600a
    ウィリアム・アダムス(三浦按針)の漂着 1600年(H1600a) 1564年、ウィリアム・アダムズ|William Adams、イギリスケント州ジリンガムに生まれる。24歳のとき、ライムハウスで造船の技術を学び、自作の船「リチャード・ダフィールド号」に船長として乗り組む。 1588年、メアリ・ヘンと結婚。 1598年、オランダの船隊に加わり、リーフデ号に水先案内人として乗り組む。 1598年6月、5隻の艦隊でオランダのロッテムダムを出発。オランダ人、 ヤン・ヨーステンもリーフデ号に乗り込む。 1599年4月、南アメリカ州マンエーランの海に着し、太平洋に入るに及び、漂流して其4艘を失う。(外交志稿) 慶長5年3月6日(1600/04/19)、リーフデ号、大分臼杵佐志生海岸に漂着。生き残ったものは24名で、そのうち動けたものは、アダムズのほかにわずか5名であった。 (外交...
  • H1694a
    1694年 清国船、中永良部島に漂着 元禄7(1694)年9月、清国船主周宝舎ら109人洋中風に逢い楫を失い檣を斫り漂蕩半月、南海中永良部島に漂着す。 明年、H1694bとともに長崎に送られ帰国する。 参考文献 外務省記録局編, 1884. 外交志稿. 外務省.
  • H1694b
    1694年 清国船、甑島に漂着 元禄7(1694)年10月、清国潮州の船主呂寧宮ら105人長崎を発し五島洋中にて暴風に逢い漂流して薩摩甑島に到り破船して9人を失う。明年H1694aと共に之を長崎に送り其国に帰らしむ 参考文献 外務省記録局編, 1884. 外交志稿. 外務省.
  • H1602a
    ポルトガル船、土佐に漂着 1602年(H1602a) 慶長7(1602)年秋、ポルトガルの船1隻、土佐に漂着す。国主山内一豊をして之を守らしむ。既にポルトガル船大砲を発し逃れ去る。 参考文献 外務省記録局編, 1884. 外交志稿. 外務省.
  • H1611b
    薩摩の商船、媽港に漂着 1611年(H1611b) 慶長16(1611)年、薩摩の商船安南に赴かんとし洋中風に逢い、漂流して媽港に至る。媽港は葡萄牙人のの居留地なり。葡人為に舟楫を理す。 慶長17(1612)年7月、之を肥前五島に送る。島津義久、書を贈て之を謝す。 参考文献 外務省記録局編, 1884. 外交志稿. 外務省.
  • H1605a
    有馬晴信の遣い、媽港に漂着し殺される 1605年(H1605a) 慶長10(1605)年、肥前高来城主、有馬晴信、人を遣わし、交趾に通せんとす。風に逢うて媽港に漂着し、舟楫を整理するの際、土人と争闘し遂に為に悉く殺さる。 参考文献 外務省記録局編, 1884. 外交志稿. 外務省.
  • H1467a
    朝鮮人、筑前に漂着 1467年(H1467a) 応仁元(1467)年、朝鮮人、筑前に漂着する。 参考文献 外務省記録局編, 1884. 外交志稿. 外務省.
  • H1634a
    慶尚道の漁民の石見に漂着 1634年(H1634a) 寛永11(1634)年10月、慶尚道の4人の漁民の石見に漂着(朝鮮側資料では1635年)。 参考文献 杉原隆, 2006. 日本・韓国間の漂流の歴史と竹島問題. 島根県.
  • H1666b
    隠岐の漁民、江原道三陟に漂着 1666年 寛文6年7月12日(1666/8/12)、隠岐の漁民1名、江原道三陟にこの日漂着。H1666aと一緒に送還される 参考文献 外務省記録局編, 1884. 外交志稿. 外務省.
  • H1615a
    カンボジア船、筑後柳川に漂着 元和年間(H1615a) 元和中(歳月未詳)、柬埔寨国 (カンボジア)の舟、筑後柳川に漂着す。藩主、田中吉政、其の臣、三宅弥治左衛門に命じ、送って其の国に帰らしむ 参考文献 外務省記録局編, 1884. 外交志稿. 外務省.
  • H1637b
    ポルトガル船、琉球に漂着 1637年(H1637b) 寛永14(1637)年8月、ポルトガル船1隻、バテレン6人、琉球に漂着す。在番の薩摩士人捕えて長崎に送る。鎮台之を検して其宗教を弘めんとするを知り之を獄に下す。 参考文献 外務省記録局編, 1884. 外交志稿. 外務省.
  • H1643b
    ポルトガル人、筑前大島に漂着 1643年(H1643b) 寛永20(1643)年5月、ポルトガル人8名、筑前大島に漂着す。之を検するに耶蘇教の徒なり。「ショセイフカウロ」なる者あり。後、我邦、俗に化し改名して岡本三右衛門と称す。小日向の邸に居り天寿を以て終る。 参考文献 外務省記録局編, 1884. 外交志稿. 外務省.
  • H1611a
    ヘンリー・ハドソン、ハドソン湾に置き去りにされる 1611年(H1611a) イギリスの海洋探検家ヘンリー・ハドソン|Henry Hudson(生年不詳)は、1607年から 4回にわたり北アメリカ東岸を北上した。最初はバレンツ海を北緯 80°23′まで進んだ。 1609年の第3回にはハドソン川をさかのぼり,河口から 240kmの地点のオルバニーに至る。探検を委託したオランダ東インド会社がその河口に植民地を建設したのが今日のニューヨーク市である。 1610年、イギリス商人の依頼で最後の航海に出て,初めてハドソン海峡を通過,ハドソン湾を発見。 1611年、ハドソン湾で越冬後,部下に置去りにされて行方不明となった。
  • H1643a
    オランダ船、陸奥南部に漂着 1643年(H1643a) 1643年、オランダ人、マルテン・ゲルリツェン・フリース、第 2 回太平洋探検隊の司令官としてカストリクム Castrikum 号に乗船,僚船ブレスケン号を伴い日本の東岸を北航して,サハリン (樺太) 東岸のテルペニエ (知床) 岬の北,北緯 48°54"に到達した。この間,択捉 (えとろふ) 島とウルップ (得撫) 島を発見して,それぞれをスターテン・ラントとコンパニース・ラントと命名し,サハリンと千島のアイヌとも接触 寛永20年6月13日(1643/7/28)、南部山田港(岩手県下閉伊郡山田町)に入る。乗組員のタタール人が「モスコヴィア」国出身のものであると告げる。 1643/8/16、北海道の厚岸(あつけし) で船を修理した(~9/1)が,そのさい松前藩の蝦夷交易船上乗役小山五郎兵衛の船体調べを受けて...
  • H1669a
    阿波国勘左衛門船、無人島に漂着 1669年 寛文9年閏10月28日(1669/12/21)、阿波国海部郡浅川浦の勘左衛門、水主の安兵衛、彦之丞、三右衛門等を雇い、11反帆船で浅川浦を出帆。 寛文9年11月初旬(1669/12/下旬)、宮崎に着き、同地の藤代長左衛門の蜜柑を積み入れ、運賃銀830目で江戸に廻漕すべき約を定める。 寛文9年11月15日(1670/01/06)、勘左衛門、長左衛門共々都合7人(?)乗り組み宮崎を出帆。宮崎を出帆して7、8日を経て伊勢国阿濃津に着船し、12、3日日和をまつ。 寛文9年12月6日(1670/01/27)、早天に阿濃津を出帆するが、内海をでたところで暴風にあい漂流する 寛文9年12月28日(1670/02/18)、糧米をすべて食べつくす。のちは蜜柑を食べて食いつなぐ 寛文10年1月中旬(1670/03/上旬)、風が東北に変わる 寛文10年1...
  • H0777a
    777-778年 遣唐使16 777-778年 遣唐使16任命 第1回出帆 第2回出帆 唐にて 第1船・第2船 第1船第1船舳 第1船艫 第2船 第3船 第4船 帰国後 海上真人三狩救出(遣新羅使) 参考文献 任命 宝亀5年3月5日(774/04/20)、従5位上の小野朝臣石根を左中弁に任じ、中衛少将はそのままとした。(続日本紀) 宝亀6(775)年6月、佐伯今毛人(さえきのいまえみし)を大使、大伴益立(おおとものましたち)を副使に任命。節刀を授けられ出発するに際しては、とくに藤原清河に対して帰国を勧める勅書が托された。羽栗吉麻呂の子翼同行。 宝亀6年6月19日(775/07/21)、正4位下の佐伯宿禰今毛人(いまえみし)を遣唐大使に任じ、正5位上の大伴宿禰益立(ますたて)と従5位下の藤原朝臣鷹取(たかとり)を副使に任じた。判官(じょう)と録事(さかん)をそれぞれ4...
  • H0685a
    新羅人金物需(こんもつぬ)、漂着新羅人とともに帰国 685年(H0685a) 天武14年3月4日、来日中の新羅人金物需が、漂着した新羅人7人と帰国する。 この7人の漂着新羅人は、677年五島列島に漂着した朴刺破(ぼくしは)ら7人(H0677a)と人数は合うが、朴刺破は同年帰国しているので、別の漂流民である。 参考文献 宇治谷孟, 1988. 全現代語訳 日本書紀 下. 講談社. 坂井太郎ほか, 1993. 日本古典文学大系 日本書紀 下. 岩波書店.
  • H1644a
    越前国の廻船、韃靼に漂流 1644年(H1644a) 竹内藤右衛門(越前国三国浦新保町の船頭) 、竹内藤蔵(竹内藤右衛門倅)、国田兵右衛門ら総勢58人で3隻の船に分乗して、寛永21年4月1日(1644/05/07)、越前三国浦を船出。能登舳倉島着、15日ほど日和待ち。それより佐渡着。20日余り日和待ち。 (寛永21年4月29日(1644/06/04)、李自成が北京を退去する。このとき、北京に火を放つ。) (寛永21年5月2日(1644/06/06)、睿親王ドルゴン、満軍を率いて北京に入城する。) 寛永21年5月10日(1644/06/14)、佐渡出帆。その夜から大風に遭い漂流。 寛永21年6月1日(1644/07/14)ごろ、日本海北岸の無人境(第一漂着地)に漂着す。爾来10日余りこの地に滞留し、船底および船具の破損を修理す。 寛永21年6月15日(1644/07/...
  • H1457a
    朝鮮人、肥前五島に漂着 1457年(H1457a) 長禄元(1457)年、朝鮮人、肥前五島に漂着する。 参考文献 外務省記録局編, 1884. 外交志稿. 外務省.
  • H1217a
    日本商船、金に漂着 1217年(H1217a) 建保5(1217)年12月、我商船1隻、金の邪墨移風砦に漂着す。船中72名あり。司覆験、その漂着たるを上稟す。金主詔して糧を給し還らしむ。 参考文献 外務省記録局編, 1884. 外交志稿. 外務省.
  • H1666a
    米子船、朝鮮国慶尚道に漂着 1666年 寛文6(1666)年、竹島(鬱陵島)から帰る途中で大屋九衛門勝實(米子)の仕立船が朝鮮国慶尚道長鬙に漂着した。船団は全部で3艘であったが1艘21名のみ漂着し他の2艘は行方不明となった。 対馬藩に引き渡される 寛文7年2月22日(1667/03/16)、大阪で鳥取藩側へ引き渡される 参考文献 外務省記録局編, 1884. 外交志稿. 外務省. 杉原隆, 2006. 日本・韓国間の漂流の歴史と竹島問題. 島根県.
  • H1695a
    1695年 伝兵衛、カムチャツカへ漂流 伝兵衛(デンベイ):父は大坂の商人ディアサ。伝兵衛は同じ大坂商人のアワスディヤ(淡路屋?)マタヴィン(又兵衛?)の店に出入りする2人の子を持つ妻帯者。大坂谷町あたりに在住。淡路屋又兵衛の上乗役として乗船した。15人乗船。なお、伝兵衛は日本に帰らなかったため、日本側には一切記録はない。すべてはロシア側の記録である。 1695年8月、ウラジミール・アトラソフ、アナディル城砦の指令として、ロシアの東シベリアの基地ヤクーツクから前進基地アナディルの砦に派遣された 元禄8年11月初め?(1695/12/初め?)、12艘(一説に30艘)の船団で、大阪を出帆し江戸に向かう。難破し帆柱を切り倒したとき、2名が海に落ちて死ぬ。 伝兵衛の供述(1702年1月)の中に、「彼、伝兵衛が大阪を出版してから今、7年目である」(А как он, Ден...
  • H1644b
    天草耶蘇教の徒、漂流に託して朝鮮に逃れる 1645年 正保元(1645)年、天草耶蘇教の徒、漂流に託して朝鮮に逃れるとの情報があったため、宗義成に命じ、朝鮮に報じて窮捕させる。 正保元年は寛永21年12月16日に改元された。一般に寛永21年は1644年であるが、正保元年12月16日は、グレゴリオ暦に直すと、1645年1月13日となるため、厳密にいえば、正保元年はグレゴリオ暦の1645年に完全に含まれることとなる。「外交志稿」がそこまで厳密なのかどうかという問題もあるが、ここでは、正保元年は1645年であるとした。 参考文献 外務省記録局編, 1884. 外交志稿. 外務省.
  • 遣隋使遣唐使
    遣隋使・遣唐使 遣隋使・遣唐使の次数の数え方について確認しておく。 遣隋使については、600年の隋書に現れる使を1回目とカウントし、同じく610年の隋書に現れる使を4回目とカウントし、遣隋使は5回実施されたとして扱っている。 遣唐使については、さまざまな数え方があり、その例を下記に掲載するが、ここでは、もっとも次数の増える、菅原道真が中止にしたものが第20回となる数えかたを採用した。 なお、遣唐使第2回のみ2つ掲げているのは、この回のみ大使2名をたてた、2団編成であったからである。 回 任命 出発 Code 遣隋使 第1回 (600) 第2回 607 第3回 608 第4回 (610) 第5回 614 遣唐使 第1回 第1回 第1回 630 630 第2回a 第2回a 第2回a 653 653 H0653...
  • H1653a
    オランダ船、朝鮮全羅道に漂着 1653年 承応2(1653)年、オランダ船発航して長崎に至らんとす。風に逢うて覆溺し28人を失い36人朝鮮全羅道に漂着する。 寛文6(1666)年、オランダ人8名、肥前五島に漂着す。藩主之を長崎に送る。(上記の36人のうちの8名。朝鮮から逃れてきた)8名余は皆彼地に在り。使を遣わし事由を糺し其人を請い併せて之を本国に還す 参考文献 外務省記録局編, 1884. 外交志稿. 外務省.
  • H1684a
    1685年 伊勢国度会郡神社村船、マカオに漂着 貞享元(1684)年12月、伊勢国度会郡神社村船、太兵衛庄三郎ら、江戸より帰路伊勢大山洋に於いて漂流を始める。12人乗船。 貞享2(1685)2月、マカオ港内の一島に漂着。鎖国令(1636)で追放された長崎生まれの混血老女(70歳余り)に、船体や積荷の売却や通訳の世話になる。 貞享2(1685)6月、ポルトガル船で長崎に帰着(12人)。ポルトガル船の来航は貿易の再開を意図したものであったが、幕府は再来航を禁止した。しかし、送還の謝礼として米30俵、薪、水を与えて帰帆させた。漂流民12人は絵踏をしたのち、揚屋での取調べを受け、伊勢に帰された。 これにより、漂流民の受け入れ態勢が定まる。(1)漂流民は清国船・オランダ船以外からは受け取らない(2)送還船に糧米を贈る(3)漂流民の居住地を制限するの3点。 参考文献 網野善彦ほか...
  • H1695b
    1695年 江原道蔚珍県の漁民、出雲神門郡鷺浦に漂着 元禄8(1695)年1月、江原道蔚珍県の漁民7名、出雲神門郡鷺浦に漂着する。対馬に命じこれを本国に送る 参考文献 外務省記録局編, 1884. 外交志稿. 外務省.
  • H1690a
    1690年 朝鮮人死体が、長門阿武郡須佐浦に漂着 元禄3(1690)年、朝鮮人死体2体と船具が、長門阿武郡須佐浦に漂着する。これを長崎に送り、本国に帰す。 参考文献 外務省記録局編, 1884. 外交志稿. 外務省.
  • H1692c
    1693年 讃岐の船、浙江定海県に漂着 元禄6(1693)年8月、暹羅の船、我讃岐の漂民7名を長崎に送り来る。去年(1692年)、讃岐那賀郡盬飽島の民14人江戸に至り将に帰らんとす駿河田子浦にて風に逢い、漂蕩数月鮫鰐の難を経て是歳(1693年)2月浙江定海県補陀山に到り此に至て帰国す(華夷變態) 参考文献 外務省記録局編, 1884. 外交志稿. 外務省.
  • H1663a
    肥前五島の漂流民、朝鮮から対馬に送還 1663年 寛文3(1663)年10月、肥前五島の漂流民5名、朝鮮から対馬に送還される。書を送りこれを謝す。 漂流時期は、不明。 参考文献 外務省記録局編, 1884. 外交志稿. 外務省.
  • H1682a
    1682年清船、野間崎で破船 天和2(1682)年9月、薩摩河邊郡野間崎に在りて破船する所の清商施翼亭ら39人を長崎に送る。鎮台、之を点検するに、翼亭ら8月蘇州鎮江府を出て洋中大風に逢い漂蕩7日、遥に日本の山を望み11日を経て薩摩野間山の海浜に達す。例により之を護送す。 参考文献 外務省記録局編, 1884. 外交志稿. 外務省.
  • H1680a
    1680年 バタン船、日向に漂着 延宝8年5月17日(1680/06/13)、日向国(宮崎県)の伊東出雲守領の沖へ異国船が1隻漂着。バタンの漁船で、出発時25人乗り込み、長さ10m、幅3m。出発直後に難船し、琉球に1度上陸。琉球で2人死亡。その後また難船し、日向国に漂着した。漂着後5人死亡し、残りは18人となる。 延宝8年6月17日(1680/07/12)、長崎奉行のもとへ送られる。十善寺御薬園所に召し置かれ、御薬種苗手入れ役をしている水野小左衛門にお預けになる。ここで、12人死に、6人となる。 延宝8年9月(1680/11月ごろ)、オランダ船に引渡し、バタンへの送還を依頼した。オランダ船は、バタビヤまで連れて行って、生活の手段を与え、便船があるときにバタンへ送ることになる。6人ともバタビヤで結婚し、1人は左官になり、残りは鍛冶屋手伝いになる。 参考文献 荒川秀俊,...
  • H1684b
    1684年 朝鮮の船、対馬に漂着 貞享元(1684)年、朝鮮の船1隻、対馬に漂着する。これを釜山に送る。 参考文献 外務省記録局編, 1884. 外交志稿. 外務省.
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