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妙音院師長、土佐へ流される(O1156a)

保元元(1156)年、 保元の乱。後白河天皇と崇徳上皇の皇位をめぐっての対立、関白藤原忠通と弟の左大臣頼長との摂関の地位を争う抗争がもととなり、これに源平両氏の武力が加わって爆発した事変。 崇徳上皇方と後白河天皇方とにわかれての対戦は天皇方の勝利に終わり、上皇方の主な人々は処罰された。 崇徳上皇は藤原頼長とはかって源為義・為朝(ためとも)父子・平忠正らを味方にひきいれていたが、上皇は讃岐に流され、為義は斬られた。上皇方の首謀者頼長は戦いの最中に傷をうけて死んだ。妙音院師長(みょうおんいんもろなが)は頼長の子で、父の罪に連座して土佐の畑(幡多)へ流された。 師長は幼少のときから聡明で、14歳で参議となり、やがて権中納言兼左近衛中将という高官にすすんだが、土佐に流されたときは19歳であった。師長は幡多に流され、有井川村(幡多郡大方町)の宮地山にいたと伝えられる。

1164年、妙音院師長、許されて都に帰り、中納言となり、左近衛大将を兼ねたので「土佐大将」と称したといわれている。

治承元(1177)年、従一位太政大臣となる。
平清盛の全盛時代には、平氏を抑制しようとして清盛の怒りに触れ、尾張(愛知県)に流され出家して理覚と称した。のち許されて帰京し、建久3(1192)年、世を去る

参考文献