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遣唐使19 836年(H0836a)

延暦13(794)年、円仁=慈覚大師。下野国都賀郡で生まれる。
808年、円仁、最澄の弟子となる(15歳)。

承和元年1月19日(834/03/06)、藤原常嗣(ふじわらつねつぐ)、遣唐使19の大使に、小野篁(おののたかむら)、副使に任ぜられる。

承和2年(835年)、円仁、入唐の詔を拝する(遣唐使19に参加)。

承和3年5月14日(836/06/05)、遣唐使19、通例に従い、4隻の遣唐船を一団とし、難波津(大阪)を出発(1度目の出発)し、瀬戸内海を通って九州に向かう。出港直後暴風雨に遭うが、大宰府に到着する。

第1回出帆

承和3年7月2日(836/08/21)、遣唐使19、4隻の遣唐使船(651人)が博多津から中国に向かって出発。
承和3年7月6日(836/08/25)、逆風に遭い第1船(大使藤原常嗣乗船)が肥前国に漂廻してくる。
承和3年7月8日(836/08/27)、逆風に遭い第2船(副使小野篁乗船)が肥前国国松浦郡別島に帰着。
承和3年7月9日(836/08/28)、第4船(判官菅原善主乗船)が肥前国に漂廻してくる。
第3船は遭難漂流するうちに飲料水が不足してきたので渇死を恐れて船を壊して筏を作り、乗員140人が散り散りになる。多くは行方不明となったが、筏に乗ったものが16人あるいは9人と対馬や肥前に漂着し、第3船そのものも対馬島上県郡南浦に3人を乗せて漂着した。
第1船・第2船・第4船は大宰府管内で修理。

第2回出帆

承和4年7月22日(837/08/30)以降、五島福江島の旻楽崎(みみらくさき・長崎県南松浦郡福江島三井楽村)から出帆(2度目の出発)するが、また逆風に遭い、第1・4船は壱岐に、第2船は値賀島(平戸島)に漂着。再度の失敗に、朝廷では藤原朝臣助を勘発遣唐使に命じて督励する。

第3回出帆

承和5年6月13日(838/07/12)、正午頃乗船(博多)。第2船は副使小野篁の病故により出発せず。
承和5年6月17日(838/07/16)、3日間停泊後、この日夜半(0時ごろ)第1船・第4船出帆、志賀島東(10時ごろ着)に5日間停泊。
承和5年6月22日(838/07/21)、6時ごろ、東北風を得て出帆。
承和5年6月23日(838/07/22)、10時ごろ有救島(五島列島北端)に至る。18時ごろ同地出帆。
承和5年6月24日(838/07/23)、第4船先行。22時ごろに第4船の火信が見えたが、明け方には見えなくなった。
承和5年6月27日(838/07/26)、山島見えず。(第1船)
承和5年6月28日(838/07/27)、大陸に近づく。黄泥水・漂流物あり。船漂流し神仏に祈る。(第1船)
承和5年6月29日(838/07/28)、帆柱を倒す。火光を見る。(第1船)
同日14時、大使藤原常嗣、はしけで第1船を離れる。
承和5年7月1日(838/07/29)0時、大使藤原常嗣、大江口に漂着。
承和5年7月2日(838/07/30)、第1船に迎船来たる。迎船で江口に到る。14時、第1船乗員、東梁豊村に着く。
承和5年7月3日(838/07/31)、第1船乗員、堀港着。白潮鎮で第1船一行(本隊と藤原常嗣隊)合す。延海村国清寺に停住。
同日、第4船北海に漂着。
承和5年7月5日(838/08/02)、大宰府が遣唐使船第1船第4船の進発を報告。
承和5年7月29日(838/08/26)、大宰府が遣唐使船第2船の進発を報告。
承和5年8月24日(838/09/20)、第4船一行、第1船に合流。
副使小野篁の病気のために出発の遅れた第2船は海州(江蘇省連雲港)に到着。

承和5年10月5日(838/10/30)、大使藤原常嗣以下35人、5隻の官船に乗って揚州を出発。
運河を利用し、承和5年12月3日(838/12/27)長安に到着。
承和6年閏1月4日(839/02/25)、長安を出発、帰路に就く。
承和6年2月12日(839/04/03)、楚州に到着。

帰路

新羅船9隻を購入し、揚州に残留していた人たちと合流して、承和6年3月14日(839/05/04)、楚州を出発、淮河(わいが)を利用しながら、海州東海県東海山(江蘇省連雲港付近)に停泊
承和6年3月24日(839/05/14)、入唐第2船、海州東海県を出発。消息不明となる。
新羅船組、2船団に分かれて承和6年4月3日と5日(839/05/23&25)に出帆。暴風に遭って漂流、再び山東半島赤山浦(山東省靖海衛付近)に集結。
承和6年7月15日(839/08/31)、新羅船第2船、赤山浦を出帆。
承和6年7月22日(839/09/07)、新羅船第2船以外、赤山浦を出帆。黄海を横断して新羅の西岸に沿って南下。円仁、赤山浦で、弟子の惟正(ゆいしょう)、惟暁(ゆいぎょう)と下船。

承和6年8月14日(839/09/29)、新羅船第6船(録事大神宗雄(おおかみのむねお)乗船)の来着が大宰府から報ぜられる。
承和6年8月19日(839/10/04)、新羅船第1船(大使乗船)など7船が肥前国松浦郡生属島(生月島)に来着したことが大宰府から奏上される。

承和7年2月19日(840/03/26)、円仁、赤山浦の法花院を出発。登州にしばらく滞在
承和7年3月12日(840/04/17)、円仁、登州を出発。
承和7年3月15日(840/04/20)、円仁、莱州着。同日出発
承和7年3月21日(840/04/26)、円仁、青州着。12日間滞在

入唐第2船は、はるか南海の裸人国に漂着し、そのうち知乗船事(ちじょうせんじ)菅原梶成(すがわらのかじなり)ら約30人が船を壊して造った1隻の小船に乗って、承和7年4月(840/5月)、大隈国の海浜にたどり着く。

承和7年4月3日(840/05/11)、円仁、青州発
承和7年4月7日(840/05/15)、円仁、章丘着。同日出発
承和7年4月11日(840/05/19)、円仁、薬家口着。同日出発
承和7年4月13日(840/05/21)、円仁、貝州着
承和7年4月16日(840/05/24)、円仁、貝州発
承和7年4月19日(840/05/27)、円仁、趙州着。同日出発
承和7年4月21日(840/05/29)、円仁、鎮州着。同日出発
承和7年4月28日(840/06/05)、円仁、停点普通院(山西省五台山)に到達する
承和7年7月1日(840/08/01)、円仁、大花厳寺(山西省台懐鎮)出発
承和7年7月6日(840/08/06)、円仁、五台県(山西省五台)着。同日出発
承和7年7月13日(840/08/13)、円仁、太原府(山西省太原)着
承和7年7月27日(840/08/27)、円仁、太原府(山西省太原)発
承和7年8月1日(840/08/31)、円仁、汾州着。同日出発
承和7年8月7日(840/09/06)、円仁、普州着。同日出発
承和7年8月11日(840/09/10)、円仁、新橋渡着。同日出発
承和7年8月13日(840/09/12)、円仁、河中府着。同日出発
承和7年8月20日(840/09/19)、円仁、長安着

承和14年(847)9月、円仁、朝鮮船で帰国

参考文献