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遣唐使18 804年(H0803a)

大使、藤原葛野麻呂(かどのまろ)、副使石川道益(大庭, 2001)。延暦23年7月6日(804/08/18)、肥前国松浦郡田浦から4船そろって出帆。
延暦23年7月7日(804/08/19)20時ごろ、第3船・第4船との連絡が途絶える。

第1船

大使藤原葛野麻呂、准判官兼訳語笠臣田作(かさのおみたづくり)、僧空海、乗船(大庭, 2001)。延暦23年8月10日(804/09/21)、福州長渓県赤岸鎮(ちょうけいけんせきがんちん)に着岸。
延暦23年10月3日(804/11/12)、船を廻航し福州(福建省福州)に到着。

延暦23年9月己丑(18日、804/10/24)、遣兵部少丞正六位上大伴宿禰岑萬里於新羅国。太政官牒曰。遣使唐国。脩聘之状。去年令大宰府送消息訖。時無風信。遂變炎凉。去七月初。四船入海。而兩船遭風漂廻。二船未審到處。即量風勢。定着新羅。仍遣兵部省少丞正六位上大伴宿禰岑萬里等尋訪。若有漂着。宜隨事資給。令得還郷。不到彼堺。冀遣使入唐。訪覓具報。(日本後紀)

延暦23年11月3日(804/12/12)、23人だけが福州を出発(陸路)。録事山田大庭(やまだのおおにわ)ら船に残る。
延暦23年12月21日(805/01/25)、到上都長樂驛宿(日本後紀)
延暦23年12月23日(805/01/27)、長安入京。第2船組と合流。

第1船残留組

延暦24年2月5日(805/03/13)、録事山田大庭(やまだのおおにわ)によって廻航のため福州出帆。
延暦24年4月1日(805/05/07)、明州着。

第2船

副使石川道益、判官菅原清公(すがわらのきよきみ)、僧最澄、乗船(大庭, 2001)。明州(浙江省寧波)に着いたが、副使石川道益はその地で病死し、判官菅原清公が率いる27人だけが延暦23年9月1日(804/10/11)、明州を出発。
延暦23年11月15日(804/12/24)、長安に到着し、大使の到着を待つ。

帰路(第1船、第2船)

延暦24年2月10日(805/03/18)、長安発。
延暦24年3月29日(805/05/05)、越州永寧(浙江省紹興付近)に至る。ついで明州に入る。
延暦24年5月18日(805/06/22)、明州鄮県(ぼうけん、浙江省寧波付近)を2船で出発。
延暦24年6月5日(805/07/08)、第1船、対馬島下県郡阿礼村(長崎県下県郡厳原阿連)に帰着。

延暦24年6月乙巳(8日、805/07/07)、遣唐使第一船到泊對馬嶋下縣郡。大使從四位上藤原朝臣葛野麻呂上奏言。臣葛野麻呂等。去年七月六日。發從肥前国松浦郡田浦。四船入海。七日戌剋。第三第四兩船。火信不應。出入死生之間。掣曳波涛之上。都卅四箇日。八月十日到福州長溪縣赤岸鎭已南海口。時杜寧縣令胡延沂等相迎。語云。常州剌史柳冕。縁病去任。新除剌史未來。国家大平者。其向州之路。山谷嶮隘。擔行不穩。因廻船向州。十月三日到州。新除觀察使兼剌史閻濟美處分。且奏。且放廿三人入京。十一月三日臣等發赴上都。此州去京七千五百廿里。星發星宿。晨昏兼行。十二月廿一日到上都長樂驛宿。廿三日内使趙忠。將飛龍家細馬廿三匹迎來。兼持酒脯宣慰。駕即入京城。於外宅安置供給。特有監使。高品劉昴。勾當使院。第二船判官菅原朝臣清公等廿七人。去九月一日從明州入京。十一月十五日到長安城。於同宅相待。廿四日国信別貢等物。附監使劉昴。進於天子。劉昴歸來。宣勅云。卿等遠慕朝貢。所奉進物。極是精好。朕殊喜歡。時寒。卿等好在。廿五日於宣化殿禮見。天子不衙。同日於麟徳殿對見。所請並允。即於内裏設宴。官賞有差。別有中使。於使院設宴。酣飮終日。中使不絶。頻有優厚。廿一年正月元日於含元殿朝賀。二日天子不豫。廿三日天子雍王□崩。春秋六十四。廿八日臣等於亟天門立仗。始着素衣冠。(日本後紀)

延暦24年6月17日(805/07/20)、第2船、肥前国松浦郡鹿嶋(五島列島小値賀島か)に到着。

第3船

判官三善朝臣乗船(大庭, 2001)。
延暦24(805)年7月17日、第3船が出発しなおしたところ、また南風で孤島に漂着し、判官三善朝臣今嗣らが身をもって逃れ、船は纜(ともづな)を切ってどこかへ行ってしまった(「日本後記」)(大庭, 2001)。

第4船

判官高階真人達成(たかしなのまつととうなり)乗船。漂流後、高階ほか2名以上のものが生存し唐へたどり着く。(大庭, 2001)
(唐)元和1(806)年1月28日、高階達成ら、唐において位記を受ける(労を労われる)(「朝野群載」)(大庭, 2001)。
大同1年(806)年8月、高階達成は、空海、橘逸勢(たちばなのはやなり)とともに帰国( 大庭, 2001)。

参考文献