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777-778年 遣唐使16

任命

宝亀5年3月5日(774/04/20)、従5位上の小野朝臣石根を左中弁に任じ、中衛少将はそのままとした。(続日本紀)

宝亀6(775)年6月、佐伯今毛人(さえきのいまえみし)を大使、大伴益立(おおとものましたち)を副使に任命。節刀を授けられ出発するに際しては、とくに藤原清河に対して帰国を勧める勅書が托された。羽栗吉麻呂の子翼同行。
宝亀6年6月19日(775/07/21)、正4位下の佐伯宿禰今毛人(いまえみし)を遣唐大使に任じ、正5位上の大伴宿禰益立(ますたて)と従5位下の藤原朝臣鷹取(たかとり)を副使に任じた。判官(じょう)と録事(さかん)をそれぞれ4人任じた。使節の乗る船4隻は安芸国に造らせた。(続日本紀)
宝亀6年8月29日(775/09/28)、遣唐録事・正7位上の羽栗翼(はぐりのつばさ)に外従5位下を授け、遣唐准判官に任じた。(続日本紀)

宝亀7年4月15日(776/05/07)、天皇は前殿に出御して、遣唐使に節刀を賜り、次のように詔した(宣命体)。
天皇のお言葉として、唐国に派遣する使人に仰せになるお言葉を承れと申し述べる。
今仰せになるに、佐伯今毛人宿禰(遣唐大使)・大伴宿禰益立(副使)ら2名の者よ。汝ら2人を唐国に遣わすのは、今回が初めてではない。以前から朝廷の使者をかの国に派遣し、かの国からも使者が渡ってきた。この一環として次の使者として使わすものぞ。この趣旨を悟って、かの国の人らが和み安んずるよう語り合え。人目を驚かすようなことはしてはならない。また遣わす使者のうち、判官以下の者が死罪以下の罪を犯したならばその罪に応じて処分せり。ゆえに節刀を与える、と仰せになるお言葉を承れと申しのべる。
宣命が終わって大使と、副使に天皇の服を賜った。
また前の入唐大使の藤原河清(H0752a)に次のような書を賜った。
汝は使者として遠く隔たった地に遣わされてより、久しく年月を経た。汝の忠誠は遠くわが国にまで明らかになり、消息も伝わることがある。ゆえに、今回唐国を訪れる使者があるので、これに命じて汝を迎えさせる。そこで、汝に絁(あしぎぬ)100匹・細布(上質の麻布)100端・砂金大100両を賜ることにする。何とか努力して使者とともに帰朝するようにせよ。汝に会うのは遠くのことではあるまい。それ故今は多くを述べない。(続日本紀)

第1回出帆

宝亀7(776)年閏8月、一行は、南路をとるべく肥前国松浦郡合蚕田浦(あいこのたうら)(五島列島久賀島田の浦)まで行ったが、結局順風をえずこのころ博多大津に引き返す。
宝亀7年閏8月6日(776/09/23)、これより先に、遣唐使の船は肥前国松浦郡合蚕田浦(あいこだのうら)(「肥前国風土記」松浦郡値嘉(ちか)郷の条に相子田(あいこだ)の停(とまり))に到着した。そこで月日を過ごしたが順風が吹かなかった。季節はすでに秋に入り、ますます渡航の時期からはなれていく。それで、博多の大津に引き返し奏上して「今すでに季節は秋に入り、逆風が日々吹いております。私どもは来年の夏を待って渡海させていただきますよう、お願い致します」といった。 この日、天皇は次のように勅した。 来年の出発の時期は奏上の通りにせよ。使者と水手(かこ)は共にそこにとどまり、時期を待って渡海を決行せよ。(続日本紀)

第2回出帆

佐伯今毛人が病気のため、大使はこれも大伴益立に代わった副使小野石根(おののいわね)が代行することとなり、宝亀8年6月24日(777/08/06)、風向きをうかがって再出発する。
宝亀7年11月15日(776/12/30)、遣唐大使の佐伯宿禰今毛人が待機中の大宰府から帰って節刀を返上した。副使の大伴宿禰益立・判官の海上(うみかみ)真人三狩(みかり)らは大宰府に留まって入唐の期を待つことにした。世間の人々はこの態度をよしとした。(続日本紀)
宝亀7年12月14日(777/01/27)、遣唐副使の大伴宿禰益立を解任して、左中弁・中衛中将・鋳銭(じゅせん)長官で従5位上の小野朝臣石根と備中守・従5位下の大神朝臣末足をともに副使に任じた。(続日本紀)

宝亀8年4月17日(777/05/28)、遣唐大使の佐伯宿禰今毛人らが暇乞いのため天皇に謁見した。ただし、大使の今毛人は羅城門まで来たとき病と称して留まった。(続日本紀)
宝亀8年4月20日(777/05/31)、遣唐大使の佐伯宿禰今毛人は病の身を輿に乗って出発した。摂津職まで着いたが、日数を経ても治らなかった。そこで天皇は副使の小野朝臣石根に「節(遣唐使のしるし)を持って先発し、大使の職務を代行せよ。順風を得たら大使を待たずに出帆せよ」と勅した。
また、右中弁・従4位下の石川朝臣豊人を遣わして、遣唐使の一行に対し、次のような詔をのべさせた。「判官以下で死罪を犯した者は、節を持つ主席の使者が独断で判決することを許す」と。(続日本紀)

宝亀8年6月1日(777/07/10)、天皇は遣唐副使で従5位上の小野朝臣石根と、従5位下の大神(おおみわ)朝臣末足(すえたり)らに次のように勅した。
大使の今毛人の病はますます重く、出発するのに堪えられない。この状況を承知し、唐に到着して牒を渡すとき、もし大使がいないことを問われたら、状況を判断して申し開きをせよ。石根は紫(代表を意味する)の衣服を着用して、なお副使と称せよ。節を持って職務を実行することは、以前の勅のようにせよ。(続日本紀)

宝亀8年6月24日(777/08/06)、4船で順風を待って出帆。(続日本紀)

宝亀8年7月3日(777/08/14)、第1船・第3船、揚州海陵県(江蘇省蘇州)に安着。(続日本紀 宝亀9年10月23日の条、同年11月13日の条)

唐にて

宝亀8年8月29日(777/10/08)、揚州都督府(江蘇省揚州)に至る。
8月29日に揚州の大都督府に至り、すぐに定例の方式にしたがって、宿舎や衣食の供給を受けました。この時、観察使(道内の民生を総轄する地方官)兼長吏(都督府次官)の陳少遊(ちんしょうゆう)の取り決めによると「安禄山の乱によっていつもの駅舎が荒れはて廃れているために、入京の使の人数は60人に限る」ということでありました。(続日本紀 宝亀9年10月23日の条)

8月29日には揚州の大都督府に到着しました。ただちに、節度使(軍政長官。先の小野滋野の報告では観察使兼長吏とある)の陳少遊が上奏しては許可し、次々と65人を入京できるようにしてくれました。(続日本紀 宝亀9年11月13日の条)
宝亀8年10月15日か16日(777/11/23or24)、揚州を出発。
10月15日に、私たち(小野滋野・第3船)85人は揚州を出発して京に向かいました。100余里行ったところで、突然中書門下の勅牒(唐制で皇帝の命令の一つ)によって人数を抑えられ20人に限られました。そこで私たちは願い出て23人を追加してもらいました。(続日本紀 宝亀9年10月23日の条)

10月16日上郡(長安)に向けて出発し、高武県に着くと、勅を伝える中書門下の牒があって、道中は車馬が乏しいため、人数を減らして20人に定められました。(続日本紀 宝亀9年11月13日の条)
安史の乱後の混乱を理由に入京人数が著しく制限され、小野石根ら43人だけが宝亀9年1月13日(778/02/14)長安に入り代宗に対見を許される。
持節(天子の使者であることのしるしの旗をもつ)副使の小野朝臣石根・副使の大神朝臣末足・准判官の羽栗臣翼(はぐりのおみつばさ)・録事の上毛野公(かみつけのきみ)大川・韓国(からくに)連源(みなもと)ら43人は、正月13日に長安城に到着しました。すぐに皇城外で宿舎の提供や衣食の供給を受けました。特に監使(使者の監督・護衛をする)がいて、使者の宿泊所を担当し、非常に手厚く待遇してくれ、中使(宮中からの使者)も絶えることがありませんでした。(続日本紀 宝亀9年10月23日の条)

正月13日、長安に到着しました。唐朝はすぐに内使(宮中からの使者)の趙宝英を遣わし、馬を伴い出迎えて、私たちを皇城の外宅に落ち着かせてくれました。(続日本紀 宝亀9年11月13日の条)
宝亀9年1月15日(778/02/16)、宣政殿(せんじょうでん)(皇帝が政務をみる殿舎)にて拝謁の儀があったが、天子は出御せず。(続日本紀)

宝亀9年3月22日(778/04/23)、延英殿(えんえいでん)(天子が宰相などの高官などに会い政務を審議する殿舎)にて天子に対面。遣唐使の願い出たことは許可される。その後すぐに、内裏で宴席が設けられ、遣唐使に対して地位に応じて官位や賞が与えられる。(続日本紀)
宝亀9年3月24日(778/04/25)、天子に対面して、任務の事を上奏する。(続日本紀)

宝亀9年4月19日(778/05/20)、監使の揚光耀(ようこうよう)が口頭による天子の勅を宣べる。「今、中使の趙宝英(ちょうほうえい)らを遣わし、返礼のみやげ物を持たせて日本国に行かせる。その乗る船は揚州に命令して造らせる。卿らはこれを承知するように」(続日本紀)

滞京3ヶ月で、宝亀9年4月22日または24日(778/05/27or29)、長安を出発。(続日本紀)
4月22日、お別れの挨拶をして帰途につくことになりました。天子は勅され、内使の揚光耀に監督し送らせ、揚州まで行って、そこから使者を日本に向けて出発させるようにされました。そこで私どもは帰国する留学生を統率し京を立ちました。この時、内使で掖庭令(えきていりょう)(内侍省掖庭局の長官)の趙宝英と判官4人に、唐の宝物や財貨を持たせて私どもの帰るのに従い来朝させられました。隣国と誼(よしみ)を結ぶためであります。(宝亀9年11月13日の条)

同(4月)24日、私(小野滋野)どもは任務を終えて天子にお別れの挨拶をし、「本国への行程は遥かに遠くて、波風は予測がつきません。もし今、中使が出発し、波濤を押し切って海を渡り、万一転覆することでもあれば、恐らくは皇帝の命令に違うことになりましょう」と奏上しました。しかし、天子は勅して、「朕には少しばかりの返礼の信物(みやげ)がある。今、宝英らを遣わしてそれらのものを護送させるのである。それが道義であり、心づかいには及ばない」と答えられました。かくしてすぐさま銀碗に入った酒を頂き、別れを惜しみました。(宝亀9年10月23日の条)
宝亀9年6月24日(778/07/27)、揚州に帰還。
6月24日、私(小野滋野)たちは揚州に到着しました。中使も同じように日本に向けて出発しようと望みましたが、中使の船はにわかにはできません。事情を天子に奏聞して、とりあえず私たちの船に同乗して出発することになりました。その第1船と第2船はともに揚子の堤(揚州広陵郡)の前端に停泊し、第4船は楚州の塩城県に停泊していました。(宝亀9年10月23日の条)

宝亀9年6月25日(778/07/28)、惟楊(いよう)に到着しました。(宝亀9年11月13日の条)

第1船・第2船

帰国も南路を取るが、揚子江口を出発し、蘇州常熟県(江蘇省常熟)で風待ちののち、宝亀9年11月5日(778/12/02)、東シナ海に船出
9月3日(778/09/27)、揚子江の河口より出発し、蘇州の常熟県(常熟県)に到り順風を待ちました。第3船は揚州の海陵県に在り、第4船は蘇州塩城県に停泊していました。しかし、それらが出発した日は今もわかりません。(宝亀9年11月13日の条)
11月5日、都合のよい季節風(北西風)が吹いてきましたので、第1船と第2船は同時に出発して海に入りました。(宝亀9年11月13日の条)

第1船

宝亀9年11月8日(778/12/05)夜になって波浪高く船を洗い、副使小野石根や同船していた唐使趙宝英(ちょうほうえい)ら63人は波に流されて溺死。
宝亀9年11月11日(778/12/08)夜明け頃、船が舳と艫に分断される。
ところが、外海に達しました頃の8日の初更(しょこう)(夜を5更に分けた第1更。午後8時ごろ)に、風激しく波が高くなりました。そして、左右の棚根(舷側の下部)を打ち破って潮水が船に満ち、甲板はことごとく流れ去りました。人や荷物は波のまにまに漂い、一勺一撮(いっせきいっさつ)(勺は合の10分の1、撮は勺の10分の1.わずかなこと)の米や水も残りませんでした。副使の小野朝臣石根ら38人と唐使の趙宝英ら25人は、同時に海に沈んで救うことができませんでした。私(大伴継人)一人は海中を潜り行き、舳の手すりの角にたどり着きました。前後を見渡したところ、生き延びる道はありませんでした。(宝亀9年11月13日の条)

11日の5更(午前4時頃)に、帆柱が倒れ、船体は2つに断たれました。舳と艫がそれぞれ流れ去って、どこに行ったのかわからなくなりました。私(大伴継人)ども40余人は方1丈(約3平方メートル)の舳にまつわりついていて、重さのために舳全体が沈没しそうになりました。そこでともづなを切り舵を投げ捨てると、少し浮き上がらせることができました。今度は着ているものを脱ぎ捨てて裸で舳にしがみつき、宙吊りの様な恰好で座っていました。米も水も口にすることなく、すでに6日が経っていました。(宝亀9年11月13日の条)

第1船舳

副使大伴継人(おおとものつぐひと)や藤原清河の娘喜娘(混血)ら41人は裸のまま飲まず食わずで宝亀9年11月13日(778/12/10)夜、肥後国天草郡西仲島(天草諸島)に漂着。
13日の亥の刻(午後10時頃)に、肥前国天草郡の西仲嶋(にしのなかしま)(鹿児島県阿久根市長嶋島)に漂着しました。私の命拾いは天の救いによるものです。幸運の極みで、喜びに耐えません。謹んで上表文をた奉って申し上げます。

第1船艫

主神津守国麻呂(かんづかさつもりのくにまろ)と唐の判官ら56人は、宝亀9年11月13日(778/12/10)、薩摩国甑島(甑島列島)に漂着する

第2船

宝亀9年11月13日(778/12/10)、薩摩国出水郡(鹿児島県北部の出水郡)に漂着。

第3船

宝亀9年9月9日(778/10/07)、揚州海陵県を出帆。3日間南風にのって航行したが、逆風にあって座礁。
9月9日、私の船(第3船)は真南の風を得て、船を出発させ海に入りました。航行3日目に、急に逆風に遭遇し、船は浅瀬に乗り上げました。損壊の箇所が多く生じましたので、力を尽くして修理しました。(宝亀9年10月23日の条)
修理の後、宝亀9年10月16日(778/11/13)、ようやく離礁。
今月10月16日、何とか船(第3船)を浮かすことができ、すぐ海に入りました。(宝亀9年10月23日の条)
宝亀9年10月23日(778/11/20)、肥前国松浦郡橘浦(五島列島)に到着。
23日、肥前国松浦郡の橘浦(たちばなのうら)に到着しました。ただし今、唐の客で私に随って入朝しました者についての出迎えや接待は諸蕃の国に対する例と同じくさせております。私はこのことを大宰府に詳しく通知しました。それと同じように朝廷からお命じなって待遇の基準を定めさせてくださいますようにお願いいたします。
宝亀9年10月28日(778/11/21)、天皇は大宰府に次のように勅された。 今月25日の奏状を受け取って、遣唐使の判官・小野朝臣滋野らの乗った船が到着し、停泊していることを知った。それに同乗している唐使に、大宰府は、まずは使者を遣わし慰問させよ。そして、判官の滋野はすぐに入京させるように。

第4船

楚州塩城県を出たが耽羅島(済州島)に漂着。判官海上三狩(うなかみのみかり)らは島民に抑留された。録事の韓国源(からくにのみなもと)ら40余人だけが脱走し宝亀9年11月10日(778/12/07)に甑島に帰着。
海上三狩も迎えの遣新羅使に伴われ、宝亀10(779)年7月帰国。

帰国後

宝亀9年11月19日(778/12/12)、左少弁・従5位下の藤原朝臣鷹取(たかとり)と勅旨員外少輔・従5位下の建部(たけるべ)朝臣人上(ひとかみ)を使わして、唐使を慰問させた。
宝亀9年12月17日(779/01/09)、唐使の趙宝英(溺死)を弔って絁(あしぎぬ)80匹、真綿200屯を贈った。
宝亀10年2月4日(779/02/24)、故入唐大使・従5位上の小野朝臣石根に従4位下を贈った。 石根は大宰大弐・従4位下の小野朝臣老(おゆ)の子である。宝亀8年に副使に任じられ、入唐した。使命を終えて還る時、海中で船が2つに折れ、石根と唐の送使の趙宝英ら63人は、共に没死した。

宝亀10年3月10日(779/04/01)、遣唐副使・従5位下の大神朝臣末足らが唐国から帰った。

宝亀10年4月21日(779/05/11)、領唐客使(唐客入朝の案内をする)らが奏上して、次のように言った。 「唐使の行列は左右に旗を立て、また武器を帯び、行列の官人は前後に旗を立てています。臣らが古例を考証しますに、いまだこのような儀礼はありません。禁止するかどうか、ぜひとも取り決めていただきますようお願いします。」と。 そこで「武器を帯びることだけ許して、旗を立てさせてはならぬ」とされた。 領唐客使らはまた奏上して次のように言った。 「昔(大宝2年)、遣唐使の粟田朝臣真人らが、唐の楚州を出て長楽駅(長安の東)に至りましたときに、唐の五品の舎人が皇帝の勅を宣べて慰問しました。このとき、拝謝の礼(うやうやしく礼を述べる)は致しておりません。また新羅の朝貢使で皇子の泰廉(たいれん)が入京した日(天宝勝宝4年)、官吏(太政官の使者)が勅命を宣べて、迎えの馬を賜りました。このとき、新羅の客たちは轡(くつわ)を引き締め、馬の上から謝礼しました。但し、渤海国使は全員みな馬から降りて、二度拝礼し、舞踏(喜びを表す拝礼の一種)しました。今回、唐の客を受けるのにどの例に準拠したらよいでしょう」と。 これに対し、「進退に関する礼儀や行列の順序は、つぶさに別式に載せ、使者のところに下させるので、この式にしたがって間違うことのないようにせよ」と答えられた。

宝亀10年4月21日(779/05/11)、遣唐副使・従5位下の大神朝臣末足に正5位下を、判官・正6位上の小野朝臣滋野と従6位上の大伴宿禰継人にはそれぞれ従5位下を、録事・正6位上の上毛野公大川には外従5位下を授けた。
宝亀10年4月27日(779/05/17)、外従5位下の羽栗臣翼に従5位下を、正6位上の紀朝臣継成に従5位下を授けた。

海上真人三狩救出(遣新羅使)

宝亀10年2月13日(779/03/05)、大宰少監・正6位上の下道(しもつみち)朝臣長人(ながひと)を遣新羅使に任じた。遣唐判官の海上真人三狩らを迎えさせるためである。

「外交志稿」では、宝亀7年(776年)とある。
注 ここでは、遣唐使は菅原道真が中止させたものを第20次としている。

参考文献