※上記の広告は60日以上更新のないWIKIに表示されています。更新することで広告が下部へ移動します。

777年 渤海使09

宝亀7年12月22日(777/02/04)、渤海国が献可大夫(こんがだいぶ)・司賓少令(しひんしょうりょう)(外交を司る司賓寺の次官)・開国男(げこくなん)の史都蒙(しつもう)ら187人を遣わして、光仁天皇の即位を祝い、あわせて渤海国王の妃の喪を伝えてきた。一行はわが国の海岸に到着する頃、突然暴風に遭遇して、柁が折れ帆が落ちて、溺死者を多く出した。生存者を数えるとわずかに46人であった。それで越前国加賀郡に丁重に収容して衣食などを供給した。(続日本紀)

宝亀8年1月20日(777/03/04)、使者を遣わして渤海使の史都蒙らに問わせた。 さる宝亀4年(6月24日)の烏須弗(うすふつ)らが本国に帰るに際して、太政官は処分を下して「渤海の入朝使はこれからは古例(高句麗時代)にしたがってまず大宰府に向かうようにせよ。北の航路(日本海横断コース)をとってはならない」とした。しかし、今回はこの約束に違っている。これはどういう事情であるか。
史都蒙らは答えて「烏須弗の帰国した時、確かにその旨をた承りました。そこで都蒙らはわが国の南海府の吐号浦(とごうのうら)(北朝鮮咸鏡南道咸興(かんこう)の港湾に当たるか)から出発して、西方の対馬嶋の竹室の津を目指したのですが、海上で風に遭って、この禁止された地域に着いたのです。約束を違えた罪を避ける気持ちはさらさらありません」といった。(続日本紀)

宝亀8(777)年2月、渤海使09の入朝を許す(外交志稿)
宝亀8年2月20日(777/04/02)、渤海使の史都蒙ら30人を召して朝廷に参内させた。その時、都蒙は次のように言上した。
「都蒙ら160余人は(宝亀7年12月22日条では187人とある)、遠路皇帝のご即位をお祝いするために航海して来朝したしました。ところが、にわかに突風に流され120人もの死者を出しました。幸いに生存するものはわずかに46人で、高波の下、万死に一生を得たようなものであります。聖なる朝廷の極まりない徳がなければどうして独力で生存することができましたでしょうか。そればかりではなく特別に都に進み入ることが許され、宮廷を拝そうといたしております。天下にこれ程の幸運な者がどこにありましょうか。生き残った都蒙ら40余人は、死ぬのは諸ともと苦楽を共にすることを誓った者たちです。ところが、この度賜りますに、16人だけを分けて別の処遇を受け、海岸に留めおかれるとのことです。これは、例えるなら、一つの身を割かれ背中を分断して、四肢を失い這い進むようなものであります。天下の輝きがくまなく照らされて、私ども揃っての参内を許されることを仰ぎ望みます」と。
天皇はこれを許可した。(続日本紀)

宝亀8年4月9日(777/05/20)、渤海使の史都蒙らが入京した。(続日本紀)
宝亀8年4月10日(777/05/21)、太政官は使者を遣わして史都蒙らを慰問させた。(続日本紀)
宝亀8年4月20日(777/05/31)、渤海使の史都蒙らが産物を貢献し、奏上した。(続日本紀)

宝亀8年4月27日(777/06/07)、天皇は宮殿の端近くに出御して、渤海の大使である献可大夫・司賓少令・開国男の史都蒙に正3位を、大判官の高禄思(こうろくし)と少判官高欝琳(こううつりん)とともに正5位上を、大録事の史遒仙(ししゅうせん)に正5位下を、少録事の高珪宣(こうけいせん)に従5位下を授け、また、それ以下の者にもみな地位に応じて位階を授けた。渤海国王へ賜う禄については詳しく勅書に載せてある。また、史都蒙以下、地位に応じて物を賜った。(続日本紀)
宝亀8年5月7日(777/06/16)、天皇は重閣門(朝堂院南門)に出御して、射騎を観覧した。渤海使の史都蒙らを召して、また射場に参会させた。5位以上の官人に飾馬や走馬を進上させ、田舞を舞台で舞わせた。渤海の客もまた自国の音楽を演奏した。それらが終わってから、大使の史都蒙以下の者に、地位に応じて彩色の絹を賜った。(続日本紀)
宝亀8年5月10日(777/06/19)、これより先に、渤海使の判官、高淑源(こうしゅくげん)と少録事1人は、わが国の海岸に着く頃になって、船が漂流し溺死した(宝亀7年12月22日)。ここに至って、高淑源に正5位上を、少録事の者に従5位下を追贈し、令(喪葬令)の規定にしたがってそれぞれに香典の物を贈った。(続日本紀)

宝亀8年5月23日(777/07/02)、渤海使09の史都蒙らが帰国した。大学少允(しょうじょう)・正6位上の高麗(こま)朝臣殿継(とのつぐ)を送使に任じた(遣渤海使08=H0777b)。渤海国王に書を賜った。(続日本紀)

参考文献