760年 渤海国迎使(遣唐使13)判官、渤海使05とともに対馬に漂着

遣渤海使03が渤海使04とともに帰国

天平宝宇2年9月18日(758/10/24)、小野朝臣田守(たもり)(遣渤海使03)らが渤海より帰った。渤海大使の輔国(ほこく)大将軍兼将軍行木底洲(ぎょうもくていしゅう)の刺史兼兵署少正(ひょうしょしょうしょう)・開国公の揚承慶(ようしょうけい)以下23人(渤海使04)が田守に随行して来朝した。そこで越前国に滞在させた。
天平宝宇2年10月28日(758/12/03)、帰国した遣渤海大使(遣渤海使03)・従5位下の小野朝臣田守に従5位上を、副使・正6位下の高橋朝臣老麻呂(おいまろ)に従5位下を授けた。その他の66人にも、功労に応じて位階を授けた。
天平宝宇2年12月10日(759/01/13)、遣渤海使03の小野朝臣田守らが、唐国の情勢(政変)を奏上した。田守は唐王から渤海王に賜った勅書1巻を報告書に添えて進上した。
天平宝宇2年12月24日(759/01/27)、渤海使04の揚承慶らが入京した
天平宝字3年1月1日(759/02/02)、天皇は大極殿(だいごくでん)に出御して朝賀を受けられた。文武の百官および高麗の蕃客ら(先に入京していた渤海使04のこと。当時渤海を蕃国視していた)は、規定の儀礼に従っておのおの拝賀を行った
天平宝字3年1月3日(759/02/04)、帝は宮殿の端近く出られ、高麗使(渤海使04)の揚承慶らは土地の産物を貢上し、国書を奏上した
天平宝字3年1月18日(759/02/19)、帝は宮殿の端近く出られ、高麗(渤海)(渤海使04)大使の揚承慶に正3位を、副使の揚泰師に従3位を、判官の馮方礼(ひょうほうらい)に従5位下を授けた。録事以下の19人にも、それぞれの地位に応じて位を授けた。国王および大使以下には地位に応じて禄を賜った。5位以上の官人と高麗の使人、ならびに主典(さかん)以上を朝堂で饗応し、舞台で女人による楽を演じさせ、庭では内教坊の女性が蹋歌を舞った。高麗の使人や主典以上の者もこれにつづいた。事が終わってのち、身分に応じてそれぞれに真綿を賜った。
天平宝字3年1月27日(759/02/28)、大保(たいほ)の藤原恵美(ふじわらえみ)朝臣押勝(おしかつ)が、高麗の使人(渤海使04)を田村第(たむらてい)(押勝の邸宅)に招き、宴会した。天皇は勅して、内裏の歌祇を遣わし、真綿1万屯を賜った。また、当代の文人たちが、詩を賦して使人に送り、副使の揚泰師も詩を作って唱和した。

遣唐使13が渤海使04とともに出発

天平宝字3年1月30日(759/03/03)、正6位上の高元度に外従5位下を授け、迎入唐大使使(天平勝宝4年度の大使藤原清河を迎える使い(遣唐使13))に任じた。
天平宝字3年2月1日(759/03/04)、天皇は高麗王(渤海王)に次のような書を賜った。 「貴国の国使(渤海使04)は、日本の国使につき従って来朝したので、乗って帰る船がない。よってそのための使者を任命し、本国に送り返す。わが使者はそのまま帰国から大唐に行き、前年入唐した大使の藤原朝臣清河を迎えようと思う。よく理解して助けられたい。」
天平宝字3年2月16日(759/03/19)、揚承慶ら(渤海使04)が国に帰った。高元度ら(遣唐使13)もまたそれに随って出発した。

迎入唐大使高元度(こうげんど)は往路渤海から山東半島の登州を経由して長安に至る。藤原清河を迎えるのが目的であったが、安史の乱の最中で危険なため、唐朝は帰国を許さず、高元度だけが帰る。 羽栗吉麻呂の子翔同行。翔は唐にとどまったらしい。

遣唐使13判官、帰路渤海使05とともに対馬に漂着

天平宝字3年10月18日(759/11/12 )、藤原河清(清河)を迎える使い(遣唐使13)の、判官内蔵忌寸全成(くらのいみきのまたなり)は渤海を廻って帰国する途中、海上で暴風にあって対馬に漂着した。渤海使の輔国大将軍兼将軍・玄菟(げんと)州刺史兼押衙官(おうがかん)・開国公の高南申が、ともに随って来朝した(渤海使05)。その中台(中書省)の牒(ちょう)(連絡文書)には次のように言っている。 藤原河清を迎える使いは、全部で99人であります。大唐の安禄山は、先に天子の命にそむき、史思明(ししめい)もその後に乱を起こして、内外は荒れて騒がしく、まだ平らげられていません。それで河清を迎える使いを送り出そうとしても、恐らく殺されるというような害を受けるでしょう。迎える使いを渤海が率いて帰らせようとしても、考えてみれば日本の意に反するでしょう。それで長官の高元度ら11人を出発させ、大唐に行って、河清を迎えさせ、同時にこちらの使者を任命して、高元度らと共に唐に出発させます。また判官の全成はいずれも帰国させます。またこちらの使いを任命し、全成らに随って日本に往かせ、詳しい事情を通報させます

天平宝字3年10月23日(759/11/17)、高麗(渤海)の使い(渤海使05)を大宰府に呼び寄せた。
天平宝字3年12月19日(760/01/11)、高麗(渤海)使(渤海使05)の高南申(こうなんしん)と、わが国の使(遣唐使13)の判官内蔵忌寸全成らが難波の江口に到着した
天平宝字3年12月24日(760/01/16)、高南申(渤海使05)が入京した
天平宝字4年1月1日(760/01/23)、天皇は大極殿に出御して、朝賀を受けた。文武百官および渤海の使節(渤海使05)らが、おのおのの儀礼にしたがって拝賀した。
天平宝字4年1月5日(760/01/27)、帝(淳仁)は宮殿の端近くに出御し、渤海国使(渤海使05)の高南申らが土地の産物を貢上した。そして次のように奏上した。 「国王の大欽茂(だいきんも)が申し上げます。日本の朝廷の遣唐大使で特進兼秘書監(唐の秘書省長官)の藤原朝臣河清が、本国に差し出した上表文と恒例の貢物を献上するために、輔国(ほこく)大将軍の高南申らを選んで、使いに任じて入朝させます」と。 これに対して天皇は次のように詔した。 「遣唐大使の藤原河清は久しく帰国しないので、心がふさぎ気がかりに思っていた。ところが高麗王(渤海王)が南申を遣わして河清の上表文を持って入朝させた。王の誠心は本当に嬉しく思う」と。
天平宝字4年2月20日(760/03/11)、渤海使05の高南申らが帰国した

参考文献

最終更新:2008年04月12日 07:49