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遣唐使10 733-739年(H0733a)

733年出発、大使多治比広成、同行者中臣名代、平群広成、留学僧玄昉、栄叡、普照ら、735、 737年南島路にて帰国。帰国者、吉備真備、玄昉。来朝者、菩提仙那、袁晋卿。

養老元(717)年、阿倍仲麻呂、遣唐使9で入唐。
開元9(721)年、阿倍仲麻呂、24歳。左春坊司経局校書となる。
開元15(727)年、阿倍仲麻呂、(左)拾遺となる。
開元19(731)年、阿倍仲麻呂、左補闕となる。

天平4年8月17日(732/09/14)、多治比広成を遣唐大使に、中臣名代を副使に任じ、判官秦朝元(はたのちょうげん)以下4人、録事4人をつける。
天平4(732)年9月、近江、丹波、播磨、安芸の4カ国に使節が派せられ、それぞれ1艘ずつの大船の建造が命じられた。

天平5(733)年2月はじめ、普照・栄叡、遣唐使10への参加を打診される。

天平5年3月1日(733/03/25)、多治比広成、山上憶良を訪ねる。
天平5年3月21日(733/04/14)、遣唐大使多治比広成が天皇の出発の拝謁をする。
天平5年閏3月26日(733/05/18)、遣唐大使多治比広成が天皇に別れの拝謁をする。天皇は広成に節刀を授ける。

天平5年4月2日(733/05/23)、多治比広成ら奈良を発ち、難波津に向かう。この日は国府(大阪府南河内郡道明寺村)で泊まる。
天平5年4月3日(733/05/24)、国府をたち、昼前、難波津に入る。夕方、遣唐船の4隻が難波の津から進発した。総勢590人。僧玄昉、普照、栄叡も加わる。
武庫、大輪田泊、魚住泊、檉生泊、多麻の浦、神島、韓泊、備後長井浦、安芸風速浦、長門浦、周防国麻里布浦、熊毛浦、豊前分間浦等の内海の港に寄港しながら、4月中ごろに筑紫の大津浦に到着した。
天平5(733)年4月下旬、大津浦を出帆。

出航21日目(5月中旬)、第3船(判官秦朝元、留学僧普照、栄叡、戒融、玄朗乗組み):ほかの船を見失う
出航30日目ぐらい(5月下旬)、第3船:海水が藍青色となり、逆風の吹く日が多くなる
出航40数日(6月中旬)、第3船:暴風雨に遭う

天平5(733)年8月、遣唐使船、4船とも相次いで蘇州の岸に漂着、ついで東都洛陽にはいる。
天平6(734)年4月、多治比広成、洛陽に入る。日本国使、絁400疋を唐の政府に献上。この年、阿倍仲麻呂36歳、吉備真備、ほかに僧玄昉が留学生として唐にあった。

天平6(734)年9月、帰国が11月に決定。9月中ごろ、広成ら、洛陽を発つ

天平6年10月(734/11月)、帰路、4つの船で同時に蘇州を出発したが、悪風が突然に起こり、4隻の船はお互いに見失った
第1船:大使広成、玄昉、吉備真備
第2船:副使中臣名代、道璿(C)、理鏡(J) 、婆羅門僧菩提僊那(39歳)、安南僧仏哲、皇甫東朝(こうほとうちょう、C)、袁普卿(えんしんきょう、C、18歳)、ペルシャ人李密翳、景雲(J)

袁晋卿は唐人で、天平7年に、わが朝廷の使(遣唐使)に従って帰化した。その時、年は18、9で『文選(もんぜん)』・『爾雅(じが)』の音を学び習得して、大学の音博士になった、後に大学頭・安房守を歴任した。(続日本紀:宝亀9年12月18日の条)

天平6年11月20日(734/12/23)、多治比広成ら(第1船)が多祢島(種子島)に到着。

天平7年3月10日(735/04/11)、多治比広成らが、唐国から帰朝し、節刀を返上した。
天平7年3月25日(735/04/26)、遣唐使一行が天皇に拝謁する。
天平8年8月23日(736/10/06)、遣唐使10副使中臣名代らが唐人3人、ペルシャ人1人を率いて帰国の挨拶のため天皇を拝謁した。中臣名代(第2船)は、インドシナに漂着し(734年)、翌年洛陽に戻る。天平7年閏11月洛陽を発ち、帰国

藤原清河らは、717年遣唐使9にて入唐の阿倍仲麻呂と、安南に漂着。734年、再び唐に戻る。

平郡広成の乗った船115人は崑崙国(ベトナム。マレー、スマトラとも)に漂着した。賊兵に包囲され、捕虜となる。殺されたり、逃亡したり、残ったものも90人余りが病気(マラリアか)に係り死亡した。広成ら4名だけが生き残り、崑崙押に謁見し、わずかな食料を与えられ、よくない場所にかこわれた。
天平7年(735)、唐国の欽州に留められていたとき、唐に帰順した崑崙人がやってきて、救出され、船で脱出し唐国に帰ることができた(書籍3では、たまたま欽州(広西壮族自治区欽州)から来た船にひそかに同乗させてもらい、そこを脱出して唐国に帰る)。天平8(736)年11月ごろ、長安に入る。
阿倍仲麻呂に会い、そのとりなしで、唐の朝廷に参入することができ、渤海経由で日本に帰ることを請願した。天子はこれを許し、船と食料を支給して出発させた(739年)。
天平11年3月(739/3月ごろ、書籍3では天平10年3月)、平郡広成は、登州(山東半島北部の都市)から出帆した。
天平11年5月(739/6月ごろ)、平郡広成、渤海の境域に到着。
たまたま、渤海王・大欽茂(だいきんも)が渤海使02を派遣しようとしているのに出会ったのですぐその使節に同行して出発した。 渤海船は1隻が波にのまれて転覆し、大使・胥要徳(しょようとく)ら40人が死亡した。広成らは残りの衆を率いて出羽に到着した(天平11年7月13日(739/08/25))。

天平11年10月27日(739/12/06、書籍3では入京は9月末)、遣唐使10の判官・平群広成と渤海からの使節たちが入京した。
天平11年11月3日(739/12/11)、平郡広成、朝廷を拝する。
天平11年12月21日(740/01/28)、平郡広成、外従五位下→正五位上に昇進。のちに、刑部大輔・式部大輔・摂津守などを歴任、最後は従四位下武蔵守で死んだ。

大暦5(770)年1月、阿倍仲麻呂、在唐54年、73歳で唐において没した。

宝亀9年12月18日(779/01/10)、玄蕃頭・従5位上の袁晋卿に「清村宿禰(きよむらのすくね)」の氏姓を賜った。晋卿は唐人で、天平7年に、わが朝廷の使(遣唐使)に従って帰化した。その時、年は18、9で『文選(もんぜん)』・『爾雅(じが)』の音を学び習得して、大学の音博士になった、後に大学頭・安房守を歴任した。(続日本紀)

注 ここでは、遣唐使は菅原道真が中止させたものを第20次としている。

参考文献