文化10(1813)年10月初め。重吉ら14名督乗丸に乗り込む。
  • 重吉、督乗丸船頭。乗船時29歳。長右衛門、金兵衛とも。尾張国知多郡半田村荒古(半田市半田)出身の百姓。同国幡豆郡一色村佐久島(一色町佐久島)の善三郎次男で、半田村荒古の庄兵衛養子。15歳より船に乗り、文化10年伯父長右衛門に代わって督乗丸船頭。宗旨浄土真宗。菩提寺半田市中村の雲観寺。のち小栗姓を与えられる。叔父の長右衛門は、督乗丸の本来の船頭。この時、船頭は支障があり、重吉が仮の船頭を頼まれた。箱館での文書には長右衛門として差し出している。
  • 音吉、水主。出帆時27歳。伊豆国加茂郡子浦中野町(静岡県賀茂郡南伊豆町)出身。甚太郎次男で伝蔵の弟。18歳頃より船乗渡世。宗旨浄土宗。
  • 要吉、水主。尾張国名古屋矢場(名古屋市中区矢場)出身。
  • 七兵衛、水主。七蔵とも。半田村出身。
  • 藤助、楫取。半田村荒古出身。藤七倅。宗旨浄土真宗。菩提寺半田雲観寺。
  • 房次郎、炊。出帆時15歳。半田村荒古出身。
  • 庄兵衛、水主。半田村西町出身。宗旨浄土真宗。菩提寺雲観寺。
  • 福松、水主。伊豆国加茂郡子浦出身。
  • 孫三郎、賄。出帆時42歳くらい。半田村西町出身。宗旨浄土真宗。菩提寺雲観寺。
  • 為吉、水主。亀吉とも。知多郡乙川村〔半田市乙川〕出身。
  • 三之助、水主。三郎助とも。伊豆国加茂郡柿崎(静岡県下田市柿崎)出身。
  • 重蔵、水主。亥蔵とも。伊豆国加茂郡田子浦(賀茂郡西伊豆町田子)出身。
  • 安兵衛、水主。伊豆国加茂郡子浦出身。
  • 半兵衛、水主。知多郡亀崎村(半田市亀崎)出身。
督乗丸、尾張国名古屋納屋町(名古屋市中村区)の小島屋庄右衛門持船。1200石積。尾張廻米その他諸商物を積みいれ、江戸に向けて同国師崎(熱田港)を文化10(1813)年10月初め出帆。知多半島の師崎(愛知県知多郡南知多町師崎)の船番所で船改めを受け一路江戸に向かう。
江戸に着くと、問屋石橋弥兵衛を通じ廻米を納め、その他の積荷も売り払って、代わりに大豆700俵、その他諸道具を積んで、文化10(1813)年10月末江戸出帆。
浦賀船番所を経て、文化10年11月3日(1813/11/25)伊豆子浦(静岡県賀茂郡南伊豆町子浦)に入る
文化10年11月4日(1813/11/26)、伊豆の子浦(ねのうら)を午前10時ごろ出帆し尾張へ帰国の途に着く。その夜御前崎沖で東北の暴風雨に見舞われ遭難。このときの雨を最後に翌年8月まで雨が降らなかった

文化10年11月4日(1813/11/26)夜、要吉、御前崎沖で水死。戒名随善信士。
文化10年11月5日(1813/11/27)午前2時ごろ、御籤で伊良湖崎という御告げがある。湊入りの火を見せてくださいと願立てする。夜明けごろ、先に人を落とした御前崎の辺りまでやってきた。伝馬船を捨てる。
子浦沖で楫を折られ、船の覆るのを防ぐため帆柱をきる。8時ごろに切り始め、午後2時ごろにやっと切り倒す。
午後8時ごろ、伊豆諸島の土島と新島の間を流される。新島の西の陰で約100尋(180m)くらいのかがす(苧(お)で綯った太い綱)3本つないで300尋(540m)くらいにして碇を下ろすが、もっとそこは広くて届かなかった。
文化10年11月6日(1813/11/28)、朝、三宅島の前を流されていったので、麾(まねき)をあげる。
文化10年11月7日(1813/11/29)、大風が続く
文化10年11月8日(1813/11/30)、最後に山影を見失う。孫三郎は剃髪し(出家し)、重吉は日記をつけ始める。
文化10年11月9日(1813/12/01)、大風が続く
文化10年11月10日(1813/12/02)、金毘羅様の御縁日の午前10時ごろ、白い鳥が2羽飛んできて午後2時ごろまで船の周りを立ち去らなかった。この間、波風も少しは静まっていた
文化10年11月11日(1813/12/03)、少し風が穏やかになる
文化10年11月12日(1813/12/04)、初めて風がすっかりおさまる
文化10年11月13日(1813/12/05)、また、西北の方から大風が吹いてきて大波が立つ
文化10年11月14日(1813/12/06)、やはり大風。1ヶ所に円くなって座り、念仏を唱えるほかなかった
文化10年11月15日(1813/12/07)、大神宮及び氏神八幡宮の御縁日。青い鳥が2羽、午前10時ごろから午後2時ごろまで船の周りを旋回する。このあと、必ず10日には白い鳥、15日には青い鳥が群れてくる。
文化10年11月16日(1813/12/08)、少しは風が穏やかになる。御籤によると八丈島から500里南。この時点で、米5斗入り6俵、水一人当たり3升5合、豆700俵。米は5升を万一の備えに貯えて置き、残りを13人に割り当てて渡す。
文化10年11月17日(1813/12/09)、水が乏しくなり、重吉がランビキをする。1日に7、8升ほどとれる。

文化10(1813)年11月下旬、暑気が厳しくなり始め、赤道直下へ流されてきたのであろうと思われた

文化10(1813)年閏11月、皆のものは浪を見ることさえうっとうしくなって、2人3人ずつ船底に入っては、ごろごろ横になる唐になった。それでも、朝な朝な水垢離を取って、信心することだけは怠らなかった。

文化10年大晦日(1814/02/19)、松飾など正月の準備をする
文化11年1月1日(1814/02/20)、正月の儀式をする

ごろ、乗組員が次第に病人になる
文化11(1814)年3月半ばごろ、重吉以外のもの病に臥す。非常用の米を出せと言い出し食べさせるが10日でなくなる。

文化11年4月の末(1814/06中ごろ)、自失した病人が出てくる
文化11年5月8日(1814/06/25)、七兵衛、死亡。戒名得善信士。死体は船中に置く
文化11年5月16日(1814/07/03)、藤助、死亡。法名覚善信士
文化11年5月28日(1814/07/15)、房次郎、死亡。享年16歳。戒名説善信士か?
文化11年6月12日(1814/07/28)、庄兵衛、死亡。法名応善信士。
同日、福松、死亡。
文化11年6月13日(1814/07/29)、孫三郎、死亡。法名教善信士
文化11年6月16日(1814/08/01)、為吉、死亡。戒名法善信士か
文化11年6月18日(1814/08/03)、三之助、死亡。戒名光善信士
文化11年6月20日(1814/08/05)、重蔵、漂流中死亡。戒名誠善信士
文化11年6月28日(1814/08/13)、安兵衛、漂流中死亡。重吉、音吉、半兵衛の3人となる

文化11年8月1日~2日(1814/09/14~15)、2日間、大雨が降る。文化10年11月4日以来の雨
文化11年8月3日(1814/09/16)、重吉、鰹を7本釣る。このあとさまざまな魚が釣れる
文化11年8月20日ごろ(1814/10月初め)、魚を食べたからか、病人2人も釣りができるまでに回復する

文化11年9月末(1814/11月)、船に積んだままの死体の処分について御籤を引き、1ヶ月待って海中に捨てることにする
文化11年10月28日(1814/12/09)、夕方、10人の死体を海中に捨てる

文化11年11月5日か6日(1814/12/16か17)、鰐鮫40匹が群れてやってきて、船の虫に付いた魚を追い散らし、このあと魚が釣れなくなった

文化11年11月20日ごろ(1814年末ごろ)、またも重吉を残して2人が病人になる

文化11年大晦日(1815/02/08)、重吉、死ぬ決心をする
文化12年1月1日(1815/02/09)、重吉、御籤を引いて、生き残る決心をする

文化12年1月26日(1815/03/06)、北東の方向に山のようなものが見える
文化12年1月27日(1815/03/07)、山であることがはっきりするが、暮れ方から北風にかわり、風に道筋が悪くなる
文化12年1月28日(1815/03/08)、午前4時ごろにまた西風に変わる。夜が明けてみると、20町隔てて国が見える

文化12年2月7日(1815/03/17)、夕べから、山が見えなくなる
文化12年2月13日(1815/03/23)、午後8時ごろ、誰ともわからない2人が船に現れる夢を見る
文化12年2月14日(1815/03/24)、午前2時ごろ、また人2人が現れる夢を見る。
夜が明けてみると、西南の方角に唐船と思われる2本檣で帆数をいっぱいかけた大船が1艘、西から東の方へ走っていくのを見つけた。その距離、およそ3里ばかり。この船に見つけられる。 船は1町隔てて帆を下ろし、伝馬船を下ろして6人が乗って督乗丸にやってきた。異国人一人(道計り役人エデメツ)が梯子をあがってきた。午前9時ごろ船に乗り移る。 10時ごろ、茶に砂糖を入れて黒人が持ってくる。 正午頃、パン1切れ、牛肉一切れ、豚肉1切れと、水を1杯持ってくる。チーズは食べられなかった。 夕方になって、パン2切れ、牛肉、茶2杯が出る。牛肉はやはり食べられない。
イギリス船フォレスター号(船長ピケット)にノバ・イスパニアのサンタ・バーバラ沖で助けられる。(漂流484日間。この日は、重吉の記録による。フォレスター号のアダムズ氏の談話では、救助は1814年という)



1814/02/14、重吉、音吉、半兵衛の3名はメキシコ沖でイギリス船フォレスタ号に救助され、乗っていた督乗丸は焼き払われた。
1815 文化12 2月 H1813a 督乗丸 英船に助けられ、丑の方に向て馳せること4日。一大島に着す。英人皮船14艘を下し、クリル人をして漁労をなさしめ、更に丑の方に向て馳せること2日「シュハント」に着し海岸に沿って渓谷の間を行くこと1里、人家僅かに5、6戸。多く馬を産す。逗留10日又開行すること10日。 外交志稿
1815/03/24 文化12 2月14日 H1813a 督乗丸 船長日記
1815/03/24 文化12 2月14日 H1813a 督乗丸 このあと、サンタ・バーバラに上陸。記録上、初めてアメリカ本土に上陸した日本人漂流民となる。 荒川秀俊 異国漂流物語
1815/03/25 文化12 2月15日 H1813a 督乗丸 朝食は、パン3切れと牛肉。昼食になって普通の食事となる。 船長日記
1815 文化12 3月 H1813a 露領「ルキン」に着す。人家20余戸、露米の船10艘あり。留まる30日。英船より監酒を露人に送り、獣皮と交易す。英船、我漂民の故を以て迂途、ナホツカに向かう。海上40日。 外交志稿
1815 文化12 6月 H1813a カムチャツカの岬を望み、更に馳せてナホツカに向かう。風潮あしく便を得ず。 外交志稿
1815/09/03 * 文化12 8月 H1813a カムチャツカ、ヘトルハチロスク港に着し、居る月余 外交志稿
1815/09/17 * 文化12 8月15日ごろ 9月5日頃 H1813a フォレスタ号 重吉 ペテロパウロフスクに入港。 木崎良平 漂流民とロシア
1815/09/17 * 文化12 8月15日ごろ 9月5日頃 H1813a フォレスタ号 音吉 ペテロパウロフスクに入港 木崎良平 漂流民とロシア
1815/09/17 * 文化12 8月15日ごろ 9月5日頃 H1813a フォレスタ号 半兵衛 ペテロパウロフスクに入港 木崎良平 漂流民とロシア
1815/10/03 * 文化12 9月 H1813a 薩摩の漂民喜三左衛門ら(H1812a)ナホツカ港より来るに逢う。 外交志稿
1815/10/04 * 文化12 9月2日ごろ H1813a 重吉ら 薩摩の漂民ら(H1812a)と会う。以後、ルダカウ宅で6人で同居 船長日記
1815/10/23 10月中旬 H1813a フォレスタ号 ピケット船長、ベネツ事務長、召使の黒人3名を残し広東に向け出港していった。 木崎良平 漂流民とロシア
1816 文化13 5月 H1813a 露船に乗りヘトルハチロスクを発す 外交志稿
1816/06/16 * 文化13 5月末 H1813a 帰国の準備が整う 船長日記
1816/06/23 * 文化13 5月28日ごろ H1813a ペテロパウロフスクを出港 船長日記
1816/06/25 文化13 6月初め H1813a 聖パヴェル号 重吉 ペテロパウロフスクを出港 木崎良平 漂流民とロシア
1816/06/25 文化13 6月初め H1813a 聖パヴェル号 音吉 ペテロパウロフスクを出港 木崎良平 漂流民とロシア
1816/06/25 文化13 6月初め H1813a 聖パヴェル号 半兵衛 ペテロパウロフスクを出港 木崎良平 漂流民とロシア
1816/07/05 文化13 6月11日 H1813a 聖パヴェル号 半兵衛 ペテロパウロフスクから択捉島への帰国船上で死亡。戒名歓善信士。水葬にする 木崎良平 漂流民とロシア 船長日記
1816/07/22 文化13 6月28日 H1813a 聖パヴェル号 重吉 午後2時ごろ、脚船を与えられ放環される 木崎良平 漂流民とロシア 船長日記
1816/07/22 文化13 6月28日 H1813a 聖パヴェル号 音吉 午後2時ごろ、脚船を与えられ放環される 木崎良平 漂流民とロシア 船長日記
1816/07/22 文化13 6月28日 H1813a 夜8時ごろ、ウルップ島の北東の砂浜に着き野宿 船長日記
1816/07/24 文化13 6月30日 H1813a 重吉 濃霧と風の中、ウルップ島東北岸に吹き付けられ上陸。この日東浦のワニナウに移り風待ち 木崎良平 漂流民とロシア
1816/07/24 文化13 6月30日 H1813a 音吉 濃霧と風の中、ウルップ島東北岸に吹き付けられ上陸。この日東浦のワニナウに移り風待ち 木崎良平 漂流民とロシア
1816/07/24 * 文化13 6月30日ごろ H1813a 最初に上陸した砂浜に1日、2日留まったあと、西南の方に廻って、ワニナウで風待ちする。ここでラソワ人13人を見る 船長日記
1816 文化13 7月 H1813a 択捉島シベトロに着す。 外交志稿
1816/07/31 文化13 7月7日 H1813a 重吉 択捉島北端のアトイア岬に渡る。同所で二晩野宿 木崎良平 漂流民とロシア
1816/07/31 文化13 7月7日 H1813a 音吉 択捉島北端のアトイア岬に渡る。同所で二晩野宿 木崎良平 漂流民とロシア
1816/08/02 文化13 7月9日 H1813a 重吉 アトイア岬を迂回して途中であったアイヌの案内で、択捉島シベトロ番所に帰着 木崎良平 漂流民とロシア
1816/08/02 文化13 7月9日 H1813a 音吉 アトイア岬を迂回して途中であったアイヌの案内で、択捉島シベトロ番所に帰着 木崎良平 漂流民とロシア
1816/08/02 文化13 7月9日 H1813a 7月10日の朝にかけて、取調べ役配下の役人村上貞助、同心木村十平、北小山倉之助の取調べを受ける 船長日記
1816/08/07 文化13 7月14日 H1813a 高田屋嘉兵衛の弟、嘉十郎がやってきて、14日に、木村十平、嘉兵衛が付き添い、蝦夷の人が水夫でここを船出し、海岸を西の方へ回り、午後4時ごろにヲトイマハシというところの番小屋に到着した 船長日記
1816/08/10 文化13 7月17日 H1813a 15日、16日は雨が降り船が出ず、17日に出帆し、ベツトウブというところの番小屋で泊まる 船長日記
1816/08/11 文化13 7月18日 H1813a サナというところの番小屋に泊まる 船長日記
1816/08/12 文化13 7月19日 H1813a 雨が降って、サナに逗留 船長日記
1816/08/13 文化13 7月20日 H1813a フルヱベツ到着 船長日記
1816/08/13 文化13 7月20日 H1813a 重吉 フレベツ会所に送られ、7月20日付けで「口書」が作成された 木崎良平 漂流民とロシア
1816/08/13 文化13 7月20日 H1813a 音吉 フレベツ会所に送られ、7月20日付けで「口書」が作成された 木崎良平 漂流民とロシア
1816/08/24 文化13 8月2日 H1813a 重吉 フレベツ会所発。取り調べ役配下役人塚田富次郎、同じく三橋勝次郎、同心松井卯内、高田屋の下僕助四郎が付き添う。ヲトイで泊まる 木崎良平 漂流民とロシア 船長日記
1816/08/24 文化13 8月2日 H1813a 音吉 フレベツ会所発。取り調べ役配下役人塚田富次郎、同じく三橋勝次郎、同心松井卯内、高田屋の下僕助四郎が付き添う。ヲトイで泊まる 木崎良平 漂流民とロシア 船長日記
1816/08/25 文化13 8月3日 H1813a 12里ほど行って、ヲダシツという所の番小屋で泊まる 船長日記
1816/08/26 文化13 8月4日 H1813a 陸路2里でナイボウで泊まる。5日~7日は雨が降る 船長日記
1816/08/30 文化13 8月8日 H1813a 船を出し、タネモイというところに至り、番小屋に泊まる 船長日記
1816/09/01 文化13 8月10日 H1813a クナシリへ渡航、7里を渡る。アトイヤで泊まる 船長日記
1816/09/02 文化13 8月11日 H1813a 天気は良いが、二百十日だから船を出さない 船長日記
1816/09/03 文化13 8月12日 H1813a アトイヤ発 船長日記
1816/09/08 文化13 8月17日 H1813a ところどころの番所に泊まり、この日セセキに至る 船長日記
1816/09/10 文化13 8月19日 H1813a トマリに至る。取調べを受ける。 船長日記
1816/09/15 文化13 8月24日 H1813a トマリ発。付き添いは変わらず。海上5里でネモノ(根室?)に渡る。そこから砂浜2里でノツケについて泊まる 船長日記
1816/09/15 文化13 8月24日 H1813a 重吉 国後島泊会所を経て、この日、北海道野付〔野付郡別海町野付〕に渡る 木崎良平 漂流民とロシア
1816/09/15 文化13 8月24日 H1813a 音吉 国後島泊会所を経て、この日、北海道野付〔野付郡別海町野付〕に渡る 木崎良平 漂流民とロシア
1816/09/17 文化13 8月26日 H1813a ノツケ発 船長日記
1816/09/22 文化13 閏8月1日 H1813a アツケシ着 船長日記
1816/10/22 文化13 9月2日 H1813a 重吉 午後4時ごろ松前到着。牢へ入れられる 木崎良平 漂流民とロシア 船長日記
1816/10/22 文化13 9月2日 H1813a 音吉 午後4時ごろ松前到着。牢へ入れられる 木崎良平 漂流民とロシア 船長日記
1816/10/23 文化13 9月3日 H1813a 午前10時ごろに箱館の奉行所へ呼び出されて取調べを受ける。 船長日記
1816/12/22 文化13 11月4日 H1813a 重吉 奉行本田淡路守繁文の取調べの後、この日松前発 木崎良平 漂流民とロシア
1816/12/22 文化13 11月4日 H1813a 音吉 奉行本田淡路守繁文の取調べの後、この日松前発 木崎良平 漂流民とロシア
1817/01/20 1月20日 12月4日 H1813a 重吉 江戸千住の中屋六右衛門方に着 木崎良平 漂流民とロシア
1817/01/20 1月20日 12月4日 H1813a 音吉 江戸千住の中屋六右衛門方に着 木崎良平 漂流民とロシア
1817/01/20 1月20日 12月4日 H1813a 千住の宿に到着。中村六左衛門という者の家で休憩。蝦夷会所から受け取りの役人が来て、受け取って、江戸の霊岸島にある蝦夷会所の長屋に連れて行き、松前からの付き添い、松井、村井とともにこの長屋に留め置かれる。 船長日記
1817/01/21 12月5日 H1813a 重吉 霊岸島の蝦夷会所の長屋に止宿 木崎良平 漂流民とロシア
1817/01/21 12月5日 H1813a 音吉 霊岸島の蝦夷会所の長屋に止宿 木崎良平 漂流民とロシア
1817/05/19 文化14 4月4日 H1813a 重吉 申し渡しを受け、市ヶ谷の尾張藩屋敷へ引き取られる 木崎良平 漂流民とロシア
1817/05/19 文化14 4月4日 H1813a 音吉 申し渡しを受け、領主の旗本河原林三郎左衛門の屋敷に引き取られる 木崎良平 漂流民とロシア
1817/06/04 文化14 4月20日 H1813a 重吉 藩蔵方役人付添で江戸出発 木崎良平 漂流民とロシア
1817/06/04 * 文化14 4月20日ごろ H1813a 江戸出発。尾張藩御蔵方役人が付き添い木曽路を経由して帰藩 船長日記
1817/06/16 文化14 5月2日 H1813a 重吉 木曽路経由でこの日名古屋着。清水御門の藩奉行所で取り調べののち、親族と対面。半田村支配の鳴海代官所を経て帰村 木崎良平 漂流民とロシア
1817/06/16 * 文化14 5月2日ごろ H1813a 名古屋着 船長日記
1817/07/14 * 文化14 6月 H1813a 重吉 藩の水主に召抱えられる。江戸を出るとき与えられた2人扶持を合わせ7石4人扶持となり、苗字帯刀を許された。小栗姓を名乗る 船長日記
1818/07/31 文政1 6月29日 H1813a 重吉 藩の水主を辞し半田村字西端で湯屋を開業。かたわらロシアからの持ち帰り品を諸所で展観して、死没乗組員の供養碑建立資金集めに奔走した 木崎良平 漂流民とロシア
1821/03/18 * 文政4 2月15日~5月7日 H1813a 重吉 笠寺観音でロシア持ち帰り品の展観を行い、「魯西亜衣類器物披露来由書」という刷り物を作り、これを1部12文で売って、供養碑の資金の足しにした。 木崎良平 漂流民とロシア
1822/01/23 * 文政5 H1813a このころ供養碑が出来上がっていたと思われる 木崎良平 漂流民とロシア
1822/12/13 * 文政5 11月 H1813a 重吉 三河国新城(愛知県新城市)の菅沼家の用人池田寛親と会い、寛親はその漂流話を「船長日記」としてまとめた(11月は端書の日付) 木崎良平 漂流民とロシア 船長日記
1824/01/31 * 文政7 H1813a 尾張漂流民供養碑が、尾張藩儒者秦鼎の選文を得て、愛知郡笠寺村〔名古屋市南区笠寺町)の笠覆寺、俗に言う笠寺観音に建てられたが、のち熱田白鳥町の成福寺に同寺第4代住職的山和尚の手によって移され、現在にいたる 木崎良平 漂流民とロシア
1837/02/05 天保8 H1813a 重吉 湯屋を廃業。熱田伝馬町の侠客鬼半方に寄宿 木崎良平 漂流民とロシア
1853/02/09 嘉永6 1月2日 H1813a 督乗丸 重吉 尾張熱田伝馬町の女郎屋鬼半方で死亡。享年69歳。法名釈良心信士 木崎良平 漂流民とロシア

最終更新:2008年04月15日 09:29