※上記の広告は60日以上更新のないWIKIに表示されています。更新することで広告が下部へ移動します。

1810年 摂津歓喜丸、カムチャツカに漂着

文化7年11月22日(1810/12/18)、歓喜丸船頭平助ら16名、摂津国莵原郡御影村(兵庫県神戸市灘区御影)の加納屋十兵衛の船摂津歓喜丸1100石積に乗り込み、朝、江戸に向かって大坂を出発。
  • 平助 船頭 讃岐国小豆島出身。
  • 好五郎 船親父。権四郎とも。讃岐国小豆島出身。
  • 久五郎 水主。讃岐国小豆島出身。
  • 常吉 水主。讃岐国小豆島出身。
  • 千太郎 水主。善太郎とも。播磨国揖西郡浜田(姫路市網干区浜田)出身。
  • 新五郎 水主。播磨国揖西郡浜田(姫路市網干区浜田)出身。
  • 新次郎 炊。与次郎、与次とも。播磨国揖西郡浜田(姫路市網干区浜田)出身。歓喜丸に乗り込む
  • 武兵衛 賄。讃岐国小豆島出身。
  • 和吉 水主。讃岐国小豆島出身。
  • 与茂吉 水主。出雲国館野井(楯縫、島根県平田市)出身。宗旨禅宗、菩提寺浄光寺(平田市鰐淵の常光寺)。出帆寺36歳。
  • 忠五郎 水主。播磨国加古郡本庄(三田市本庄)出身。宗旨真言宗。菩提寺本庄蓮華寺。出帆時27歳。
  • 清五郎 水主。播磨国本庄出身。宗旨真言宗、菩提寺本庄蓮華寺。出帆時36歳。
  • 安五郎 水主。保五郎とも。出帆時24歳。播磨国本庄出身。宗旨真言宗、菩提寺本庄蓮華寺。
  • 嘉蔵 水主。出帆時20歳。播磨国本庄出身。宗旨真言宗、菩提寺本庄蓮華寺。
  • 吉五郎 水主。出帆時23歳。讃岐国日下部郡坂手村(香川県小豆郡内海町)出身。宗旨真言宗、菩提寺坂手観音寺。
  • 久蔵 水主。のち吉五郎。出帆時24歳。安芸国加茂郡川尻(広島県豊田郡川尻町久俊)出身。屋号鉄屋。宇兵衛倅。
文化7年11月23日(1810/12/19)、紀州三崎(和歌山県西牟婁郡すさみ町三崎)沖で西風の暴風雨に会う
文化7年11月24日(1810/12/20)、紀州大島(串本町大島)沖に至る。東風強く、波荒く楫を損じた。
文化7年11月25日(1810/12/21)、積荷を捨て、以後70日間南へ漂流
文化8年2月6日(1811/02/28)、このころから北へ吹き戻される
文化8年閏2月7日(1811/03/30)、カムチャツカ東海岸のカメントロスケ島付近に漂着。漂着時、本船は砕け、一同は雪中無人の境をさまようこと1ヶ月及んだ。
文化8年閏2月10日(1811/04/02)、平助、好五郎、久五郎、常吉、千太郎、新五郎、新次郎、カムチャツカ中部東海岸で雪中凍死
文化8年閏2月13日(1811/04/05)、武兵衛、カムチャツカ中部東海岸で雪中死亡
文化8年閏2月15日(1811/04/07)、和吉。カムチャツカ中部東海岸で雪中死亡
文化8年3月10日(1811/05/02)、与茂吉ら生存者7名、ロシア人に出会う
文化8年3月14日(1811/05/06)ごろ、ニジニ・カムチャツクに連れていかれる
文化9(1812)年1月、ニジニ・カムチャツクを出発
文化9(1812)年3月中旬、マルカを経てペテロパウロフスクに到着
文化9年4月17日(1812/05/27)、ペテロパウロフスク出帆
文化9(1812)年5月下旬、オホーツクに着く。久蔵、凍傷に罹った脚部の手術を受ける
文化9年6月26日(1812/08/03)、ジャナ号でオホーツクを出帆
文化9年8月3日(1812/09/09)、国後島ケラムイ岬沖に到着
文化9年8月4日(1812/09/09)、与茂吉、リコルドの「国後長官宛書簡」を持って国後島に上陸、そのまま帰還せずに泊会所に収容される。太田彦助、与茂吉を取り調べ「与茂吉口書」を作成
文化9年8月7日(1812/09/12)、清五郎、「国後島長官宛書簡」のロシア文を持って国後島に上陸したが、日本役人に受け取られることなく帰艦する
文化9年8月10日(1812/09/15)、忠五郎、互いに小舟を出し合い海上で会談したいという日本文の書付を持って上陸したが、何らの回答を持たずに帰艦する
文化9年8月11日(1812/09/16)、忠五郎、ゴロウニンの生死確認のため国後島に上陸
文化9年8月12日(1812/09/17)、忠五郎、逃走、国後島泊会所に帰着
文化9年8月12日(1812/09/17)、清五郎、安五郎、嘉蔵、吉五郎、夕方、国後島に上陸、日本側に収容される

文化9(1812)年10月、久蔵、イルクーツクに送られる。善六方に世話になる。一時、日本語学校の教師を務める

文化9年10月15日(1812/11/18)、与茂吉、忠五郎、清五郎、安五郎、嘉蔵、吉五郎、松前着
文化9年11月20日(1812/12/23)、与茂吉、忠五郎、清五郎、安五郎、嘉蔵、吉五郎、江戸着。在府松前奉行荒尾但馬守、服部備後守貞勝の取調べを受ける

文化10(1813)年1月、久蔵、ピョートル・イヴァノヴィチ・リコルド、イルクーツクを出発

1813/02/05、リコルド、カムチャツカ長官に任ぜられる

文化10年7月28日(1813/08/23)、 久蔵、ジャナ号でオホーツクを出帆

文化10年9月8日(1813/10/01)、久蔵、通訳としてリコルドに同行。エドモ入港
文化10年9月16日(1813/10/09)、久蔵、ジャナ号で箱館入港
文化10年9月26日(1813/10/19)、久蔵、箱館番所に帰着。松前奉行所取調べの後「口書」を提出。
文化10年11月30日(1813/12/22)、久蔵、箱館出立
文化10年閏11月28日(1814/01/19)、久蔵、江戸に着き霊岸島の蝦夷会所長屋に留め置かれ、勘定奉行の取調べを受ける。
文化11年4月5日(1814/05/24)、久蔵、安芸藩江戸屋敷に引き渡される
文化11年4月17日(1814/06/05)、久蔵、江戸出発
文化11年5月10日(1814/06/27)、久蔵、大坂から船で、この日広島着。竹屋町喜屋万平方に宿す
文化11年5月13日(1814/06/30)、久蔵、故郷の川尻村に帰る。

参考文献