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竹島

6世紀の新羅による于山国(うざんこく、韓国側は鬱陵島および独島とする)の征服以来、独島(竹島)は一貫して歴代朝鮮国家の領土であったと韓国は主張している。(ニッポン人なら読んでおきたい竹島・尖閣諸島の本)

智証王13(512)年6月、「于山国が服属し、毎年貢物を献上する。于山国は溟州(現在の江原道)の東の海にある島で、別名を鬱陵島という」(三国史記)。韓国側は、竹島を鬱陵島の属島と位置付けて、「于山国」とは竹島を含んだ国の総称としている。(ニッポン人なら読んでおきたい竹島・尖閣諸島の本)

1145年、「三国史記」成立。現存する朝鮮半島最古の歴史書。高句麗、百済、新羅3国の歴史を記した「新羅本紀」、「百済本記」「高句麗本紀」などからなる。于山国に関する記述がある。(ニッポン人なら読んでおきたい竹島・尖閣諸島の本)

1417年、「倭寇」対策として朝鮮政府が鬱陵島の「空島政策」を取る。島民を本土へ移し、鬱陵島への渡海を禁じ、倭寇による島民の被害を防ぐとともに、倭寇の拠点化を避ける意味もあった。「空島政策」は1882年まで続けられる。(ニッポン人なら読んでおきたい竹島・尖閣諸島の本)

『東莱府接倭事目抄』の1614年6月(陰暦)の條に「倭船三隻、称以探問磯竹島、持路引出来、問島何在」と公的な証明書を持った日本船三隻が、磯竹島はどこにあるかを問うたとある。(杉原隆 日本・韓国間の漂流の歴史と竹島問題)

元和3(1617)年、大屋甚吉(大谷甚吉とも)、鬱陵島に漂着。一説にはもっと早い時期の可能性もある。
大屋家は但馬大屋谷に居していた和田九右衛門尉良清が始祖でその孫玄蕃尉勝真が現在の鳥取県会見郡の尾高城主杉原盛重に仕え、姓を大谷に変えたという。彼は家老の上席にまで身を置くが途中で武士を捨て隠士となり祖先の墓所である大屋谷に帰り死去している。その玄蕃の甥が甚吉で町人として米子の灘町で廻船業を開始した。大屋は屋号だという。

1618/07/08(G)(元和4年5月16日)、米子町人の大谷甚吉と村川市兵衛が江戸幕府から「竹島渡海免許」を与えられ、アワビやワカメを採るために、毎年、交代で船を送るようになる。当時、日本では鬱陵島を「竹島」あるいは「磯竹島」と読んでいた。 免許を得るきっかけは、越後国(新潟県)から伯耆国(鳥取県)米子へ船で向っていた大谷甚吉が、遭難して鬱陵島へ漂着したことにあった。その島は、「人家なくして山河産物有り、喬木、大竹繁茂し、禽獣、魚、貝、其品を尽す」(「竹島渡海禁止並渡海沿革」) 帰国した大谷甚吉は、同じく米子町人の村川市兵衛とともに渡海の許可を申し出た。5月16日、幕府の許可は鳥取藩主池田光政へ伝えられた。 渡海事業が続けられる中、鬱陵島への途中寄港地として松島(現:竹島)が新たに発見され利用されるようになり、1600年代中ごろまでには、大谷・村川両家は「松島渡海免許」を授かったと伝えられる。 1696年には鬱陵島渡海を禁じられる。(ニッポン人なら読んでおきたい竹島・尖閣諸島の本)

「遅くとも17世紀半ばには、実効的支配に基づき竹島(当時は「松島」)の領有権を確立」」(日本政府の竹島領有の根拠、韓国は「先占」にはあたらないとする) (ニッポン人なら読んでおきたい竹島・尖閣諸島の本)

1667年、隠岐郡代として隠州(隠岐島)へ赴任した出雲藩士・齋藤豊仙が藩命によってまとめた隠岐島の地誌「隠州視聴合記」が編まれる。序文で隠岐島から見た竹島(現:鬱陵島)と松島(現:竹島)の方位と距離を示している。また、文末では日本の西北限界についても触れている。 「隠州は北海の中にあり・・・・・是より南、雲州美穂の関に至ること35里。辰巳、伯州赤碕浦に至ること40里・・・・・・・戌亥の間、行くこと2日1夜にして松島あり。又1日の程にして竹島あり<俗に磯竹島という。竹魚海鹿多し>。この2島、無人の地。高麗を見ること雲州より隠岐を望むが如し。然らば即ち日本の戌亥の地、この州を以て限りとなす。」 日本側は「この州」を鬱陵島とし、当時の日本は鬱陵島までを日本領と認識していたとするが、韓国側は「この州」を「隠州(隠岐島)と読み、鬱陵島と独島が日本の領土ではない明白な証拠だと反論している。(ニッポン人なら読んでおきたい竹島・尖閣諸島の本)

元禄5(1692)年3月、幕府から渡海許可を得ていた村川家の船が鬱陵島に渡るとすでに約30人の「唐人」が漁を行っていた。どこの国の者かと尋ねると、「ちやうせん国かはてんかわじの者」と答えた。「空島政策」下の鬱陵島にあって、朝鮮人の往来は耐えて久しかった。 村川家の船頭は「この島は日本の地であり、公方(将軍)様から拝領し、毎年渡海してきている島だ」と朝鮮人の漁民をとがめた。村川家の船頭は朝鮮人越境の証拠として、彼らが作った串アワビなどを持ち帰り、藩庁へ届け出た。通報を受けた鳥取藩では船頭2人を取り調べたあと、幕府へ報告したが朝鮮人が去ったのなら「何の構いもこれなく」と大事にはいたらなかった。(ニッポン人なら読んでおきたい竹島・尖閣諸島の本)

元禄6(1693)年、安龍福ら、鬱陵島で米子大谷家の船頭等に拉致される →R1693a

元禄9年1月28日(1696/03/01)、幕府、1618年に大谷甚吉、村川市兵衛に許可していた竹島(現:鬱陵島)への渡海を禁じる。 この決定に関して、老中・阿部正武は「もし兵威をもって臨めば、何を求むとしても得べからざん、ただ無用の小島の故をもって、好を隣国に失する、計の得たるに非ず」と語ったという。 今日の「竹島」問題では、この禁止措置をもって、幕府が松島(現:竹島)への渡航も禁じたかどうかが、日韓両国の争点となっている。

1696年春、安龍福、朝鮮をたつ。鬱陵島で日本人漁民と遭遇。安龍福が「ここはわが国の領土」であると厳しく非難すると、「われわれは松島(現:竹島)の住人で、たまたま魚を取りに来ているだけ」と答えた。そこで、安龍福は、「松島は子山島(于山島)で、そこもわが国のものだ」と一括。子山島に乗り込むと、釜で魚を煮ていた日本人を追い払った。なおも追跡しようとするが、嵐にあって隠岐島へと漂着した。このとき、日本側の記録では、安龍福の船が「朝鬱両島監税将臣安同知騎」の船印を立てていた。安龍福自身の証言によれば、鬱陵于山両島監税」と名乗ったという。この官名は架空のもので、安龍福自身も「僭称」を認めている。(世宗実録)

元禄9(1696)年6月、隠岐を経由して鳥取藩の赤碕灘に到着。鳥取城下に入って藩主と面会すると、「前年両島のことで将軍から書契をもらった。ところが対馬藩主が取り上げて、間に立って書契を偽造し、たびたび漁民を送るなど勝手なことをしている。このことを関白に上訴して対馬藩主の罪状を述べたい」と答えた。 鳥取藩主がこの願いを許可し上訴文を書かせたところ、津島藩主の父がやってきて、「もしこの上訴文の内容が知られると、息子は重い罪で死ぬことになる。やめてもらいたい」と頼んできたので、上訴文の提出を取り止め、越境者15人を摘発して処罰させた。 安龍福の証言によれば、鳥取藩主は「鬱陵島と于山島(現:独島)はすでに朝鮮領となったのであるから、再び越境する者や対馬藩が無理な要求をしてくれば・・・・重く罰してやろう」と約束したとしている。(世宗実録)

元禄9年6月6日(1696/07/04)、安龍福一行来着の知らせを受け、この日、御船奉行を派遣して事情聴取を実施。事情聴取には儒者の辻晩庵があたったが、漢文が読めない安龍福とは筆談による意思疎通もままならなかった。 そのうちに幕府からの指示が鳥取藩へ届く。対馬藩に引き渡すか、訴えを受け付けず送還するかのいずれかを指差。鳥取藩は後者を選択。

元禄9年8月6日(1696/09/02)、すでに対馬藩からは通訳が鳥取藩に向っていたが、その到着前のこの日、安龍福一行は朝鮮へと送り返された。