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1841年 中浜万次郎(ジョン万次郎)、鳥島へ漂着

1827年、中浜万次郎(なかはままんじろう)、土佐の中浜浦(高知県土佐清水市)の漁師の家に生まれる。
天保12(1841)年1月、万次郎ら、土佐高岡郡宇佐浦を発し、風に逢い無人島に漂着し、居ること4月、北アメリカマスチウセツ州の鯨猟船に助けられる。(外交志稿)
天保12年1月5日(1841/01/27)、土佐高岡郡宇佐浦を出帆。出帆時13歳。幡多郡中浜(土佐清水市中浜)の漁師悦介の次男。筆之丞(伝蔵とも)、五右衛門、寅右衛門、重助と5名乗船。(異国漂流物語、高知県の歴史)
天保12年1月7日(1841/01/29)、大西風に沖へ流され、櫓も失う。(異国漂流物語)
天保12年1月8日(1841/01/30)、陸地の山が見えなくなる。(異国漂流物語)
天保12年1月14日(1841/02/05)、鳥島に上陸。(異国漂流物語)
1841/06/27、アメリカの捕鯨船ジョン・ハウランド号に助けられる。(異国漂流物語)
(天保12(1841)年10月、散得蔚歯群島の内、テアホ島に着す。船長伝蔵、五右衛門、十助、寅右衛門4人を此に留め、独り万次郎を伴い去る。万次郎は、4人に別れ針路を赤道直下に取る。(外交志稿))
天保12(1841)年11月、ホノルル入港。
1842年1月初め、中浜万次郎、ジョン・ハウランド号でホノルル出港
天保13(1842)年2月、万次郎、「キンシメル、フル」島(案ずるに1本「キンシメロク」に作る)に泊す。島の人民多くは裸体なり。この月、スペイン島に停泊し留まること、7ヶ月余り。大東洋に鯨猟し英国属地「エミヨウ」島(案ずるに漂流記によれば、島中開闊又山岳あり。椰子雑樹多し、城郭寺院なし、家屋は柱を土中に起て萱を用いて葺く)に留まる月余。(外交志稿)
1842年11月ごろ、中浜万次郎、グアム入港
天保14(1843)年1月、中浜万次郎、伊国の属地「キヤン」島に至り、又留まること月余。己の方を指し開行し再び「エミヨウ」島に帰る。(外交志稿)
1843年3月末、中浜万次郎、グアム出港。
1843/05/07、中浜万次郎、フェヤーヘブン帰港
1844年2月、中浜万次郎、パーレット校へ進学
弘化元(1844)年春、中浜万次郎、南アメリカの南岸を廻り、北アメリカマスチイセツ州に着す。(外交志稿)
弘化元(1844)年夏、中浜万次郎、「ハアヘイブン」に至り、学校に入り講習す。(外交志稿)
1846年春、中浜万次郎、パーレット校を卒業
弘化3(1846)年4月、中浜万次郎、「ヌベツトホール」の港を発し、アフリカ州喜望峰を廻り、新和蘭瓜哇の近海を経る。(外交志稿)
1846/05/16、中浜万次郎、フランクリン号でフェヤーヘブンを出港
弘化3(1846)年10月、伝蔵、五右衛門2人アメリカ船に託し、テアホ島を発し、南を指して「キアント」島(カラリン群島の内)に着す。(外交志稿)
弘化3(1846)年10月、中浜万次郎、蘭領タイモル島(一本タモルに作る。又、他問に作る。瓜哇属島なり。漂流記によれば島内地開け、山なし。和蘭に属す。家屋白壁多しという)「カヲハシ」島へ泊し(此島大さ我が九州の如し。港内人家200余、商船10余艘、東印度支那等の人来り居る)又、セレヘス島、マロツカ群島の間を過ぎ、新ゴイチャチララ島の辺に鯨猟する。(外交志稿)
弘化3(1846)年11月末、筆之丞、五右衛門、フロリダ号でホノルルを出港。(異国漂流物語)
弘化4(1847)年1月、大東洋を航し蝦夷北海外に上陸すと雖も人家なきを以て再びテアホ島に帰る。(外交志稿)
弘化4(1847)年2月、中浜万次郎、再び「キアン」島に帰り、薪水を取る。(外交志稿)
1847/03/03、中浜万次郎、グアム島アプラ港入港。1ヶ月滞在
弘化4(1847)年3月、フロリダ号、蝦夷地東方に出る。筆之丞、五右衛門は船長ともに上陸するが人影が見えないので舟に戻る。(異国漂流物語)
弘化4(1847)年3月、中浜万次郎、ルソン、マニラに着す(この地城郭あり。港口人家一望際なし。清英其他諸国の商船数十隻繋在す)。留まる3月バタン島を過ぎ、日本近海に於いて鯨猟する。(外交志稿)
1847年秋口、中浜万次郎、父島を経て琉球諸島のマンピゴミンに上陸
1847年10月、中浜万次郎、ホノルル入港。寅右衛門と会う
1847年10月、筆之丞、五右衛門、このころまでにフロリダ号で帰国を目指すが、八丈島上陸に失敗、蝦夷の島に上陸するも、住民が逃げ去ったのでホノルルに戻る
弘化4(1847)年10月、中浜万次郎、テアホ島に着し、伝蔵、五右衛門に会す(外交志稿)
1847年、中浜万次郎、寅右衛門、筆之丞が再会
1847年11月?、中浜万次郎、ホノルル出港
1848年2月、中浜万次郎、グアム島入港
嘉永元(1848)年2月、中浜万次郎、再び「キアン」島に至り赤道直下を過ぎる。(外交志稿)
1848年4月初め、中浜万次郎、船長を監禁してグアム島出港
1848年5月下旬、中浜万次郎、マニラ入港。領事館に船長を引き渡し、万次郎が副船長となる
1848年7月初め、中浜万次郎、マニラ出港
嘉永元(1848)年11月、中浜万次郎、スペイン所属「レイムス」島に泊す(此島大さ琉球に似たり、港口濶大、人家50ほど)。(外交志稿)
嘉永2(1849)年1月、中浜万次郎、再びタイモル島に至り復た印度洋を経て「ヌヘツトホール」に帰り、カリホルニヤ金山の事を聞く(外交志稿)
1849年2月、中浜万次郎、モルッカ諸島セラン島に立ち寄る
1849年8月下旬、中浜万次郎、ニュー・ベッドフォードに帰港
1849年10月、中浜万次郎、スティグリッツ号でニュー・ベッドフォードを発つ。
嘉永2(1849)年11月、中浜万次郎、「ヌヘツトホール」を発し、南アメリカの南海を過ぎる。(外交志稿)
嘉永3(1850)年3月、中浜万次郎、スペイン所属「ワツペンイツヲニ」に泊す(港幅1里長さ10町、英米の船林立す)。(外交志稿)
1850年5月下旬、中浜万次郎、サンフランシスコ着。エエンナ金山へ
嘉永3(1850)年5月、中浜万次郎、カリホリニア州サンフランシスコに着す(港広さ8里ほど、径1里、人家1500、外国船甚だ多し)。内河に泝ること50里「サクレメント」府に着し、更に「ノヲスレハ」に至り金山の雇夫となり銀280枚を得、去ってサンフランシスコに至り、復たテアホに帰る。之より先紀伊の船頭九助ら10人太平洋40度にありてマスチウセス州の船に救われ此地に在るに会す。後、合衆国の商船清国上海に航するを聞き万次郎、伝蔵、五右衛門3人其船に便し、太平洋を航す。(外交志稿)
1850年8月下旬頃、中浜万次郎、サンフランシスコに帰り、エライシャ号で出港。
1850年9月、中浜万次郎、ホノルル着。天神丸の5人と会う。
1850年、中浜万次郎、寅吉らと帰る予定だったが、便船とトラブルがあり乗船を拒否される。
1850/12/17、中浜万次郎、筆之丞、五右衛門の3人、ホノルルを出発
嘉永4(1851)年1月、琉球摩文仁間切に上陸。(外交志稿)
1851/2/3、沖縄の摩文仁(まぶに)海岸(糸満市)に接岸した
1851/08/08、中浜万次郎ら3人、那覇へ向かう
1851/08/14、中浜万次郎ら3人、那覇出港
1851/08/26、中浜万次郎ら3人、薩摩山川港着
嘉永4年8月1日(1851/8/27)、中浜万次郎ら、夕刻、鹿児島着
嘉永4年8月2日(1851/8/28)、中浜万次郎ら、取調所に出頭
嘉永4(1851)年、中浜万次郎、島津斉彬と会う
嘉永4(1851)年9月、土佐の中ノ浜漁夫万次郎、伝蔵、五右衛門、北アメリカ州より長崎に帰る。万次郎海外に在ること11年。粗英文に通じ、筆算を解す。世界図アメリカ図等を献ず。後3年米船来るに会し、幕府其言語に通ずるを持って挙げて旗下の士に列せり。(外交志稿)
嘉永4年9月18日(1851/10/12)、中浜万次郎ら、鹿児島発
嘉永4年9月24日(1851/10/18)、中浜万次郎ら、薩摩京泊出帆
嘉永4年9月29日(1851/10/23)、中浜万次郎ら、長崎着。佐倉町の獄舎(揚り屋)へ投ぜられる。揚り屋で寅吉ら5人と会う。
嘉永4年11月22日(1851/12/14)、中浜万次郎、このときを最後に18回の取調べを長崎奉行所で受ける。
嘉永5年6月23日(1852/08/08)、中浜万次郎、堀部らに引き渡される
嘉永5年6月25日(1852/08/10)、中浜万次郎、長崎発
嘉永5年7月10日(1852/08/24)、中浜万次郎、土佐入り 越知泊
嘉永5年7月11日(1852/08/25)、中浜万次郎、高知着
嘉永5年7月12日(1852/08/26)、中浜万次郎、御目付役所で取り調べ
嘉永5年10月1日(1852/11/12)、中浜万次郎、高知発 夕方、宇佐浦着
嘉永5年10月2日(1852/11/13)、中浜万次郎、宇佐浦発
嘉永5年10月4日(1852/11/15)、中浜万次郎、中ノ浜着
嘉永5年12月4日(1853/01/13)、中浜万次郎、武士に取り立てられ、中浜万次郎を名乗る。山田町に家を借りて住む。藩校の下遣となる。
嘉永6年8月1日(1853/09/03)、中浜万次郎、高知発
嘉永6(1853)年9月初め、中浜万次郎、江戸着
嘉永6(1853)年10月、中浜万次郎、徳川斉昭と会う
1854年、中浜万次郎、幕臣となる。団野源之進の娘、鉄と結婚
安政4(1857)年6月、中浜万次郎、「亜美理加合衆国航海学書」を訳出
安政4年10月13日(1857/11/29)、中浜万次郎、江戸発
安政4年11月17日(1858/01/01)、中浜万次郎、箱館着
安政4年11月26日(1858/01/10)、中浜万次郎、箱館発
安政4年12月21日(1858/2/4)、中浜万次郎、江戸に帰る
安政6(1859)年2月、中浜万次郎、鯨漁御用を命ぜられる
安政6(1859)3月、中浜万次郎、戸田号で品川出帆 小笠原付近まで行くが嵐に遭い帰る
安政6年12月28日(1860/01/20)、中浜万次郎、咸臨丸の通訳となることが決まる
1860年1月16日、中浜万次郎、咸臨丸で彦蔵と会う
文久元年12月7日(1862/01/06)、中浜万次郎、咸臨丸で浦賀を出港 小笠原へ
文久元年12月13日(1862/01/12)、中浜万次郎、小笠原諸島を通り過ぎ、火山列島へ向かう
文久元年12月19日(1862/01/18)、中浜万次郎、小笠原島(父島・ピール島・ロイド港)に入港。上陸しイギリス人ナサニエル・サボリーに会う
文久2(1862)年2月、中浜万次郎、母島へ渡る
文久2(1862)2月下旬、中浜万次郎、父島へ戻り、食料と建築資材を届けることになって千秋丸を待つ
文久2年3月9日(1862/04/07)、中浜万次郎、千秋丸がこないので、8名を残して、父島出港
文久2年3月16日(1862/04/14)、中浜万次郎、下田港着
文久2年12月26日(1863/02/14)、中浜万次郎、捕鯨船一番丸で品川出港。浦賀に寄港
文久2年12月29日(1863/02/17)、中浜万次郎、浦賀出港
文久3年1月9日(1863/02/26)、中浜万次郎、父島二見港入港
文久3年3月17日(1863/05/04)、中浜万次郎、父島出港
文久3年3月24日(1863/05/11)、中浜万次郎、鳥島上陸
文久3年4月20日(1863/06/06)、中浜万次郎、父島二見港帰港
文久3年5月1日(1863/06/16)、中浜万次郎、二見港出港
文久3年5月11日(1863/06/26)、中浜万次郎,横浜回航
元治元(1864)年11月初め、中浜万次郎、江戸出発。鹿児島へ向かう
元治元年11月17日(1864/12/15)、中浜万次郎、京発。
元治元(1864)年12月初め、中浜万次郎、鹿児島着。薩摩藩で、軍艦操練や英語の教授をおこなう。(高知県の歴史)
慶応2(1866)年1月、中浜万次郎、土佐 中ノ浜に帰る
慶応2年3月25日(1866/05/09)、中浜万次郎、中ノ浜発
慶応2年7月7日(1866/08/16)、中浜万次郎、高知を出発
慶応2年7月12日(1866/08/21)、中浜万次郎、宇和島着
慶応2年7月24日(1866/09/02)、中浜万次郎、長崎着 土佐藩士後藤象二郎の艦船購入に通訳として同行(高知県の歴史)
慶応2年12月10日(1867/1/15)、中浜万次郎、ジョセフ・ヒコと会う
慶応3(1867)年正月、中浜万次郎、江戸で過ごす
慶応3(1867)年3月、中浜万次郎、鹿児島に戻る
慶応3(1867)年11月、中浜万次郎、任期満了によって江戸に戻る
明治元年10月23日(1868/12/06)、中浜万次郎、土佐藩より新知100石を下しおかれ、格式御馬廻に召抱えられる。
明治2(1869)年3月、中浜万次郎、新政府は、徴士として、開成学校の2等教授に迎える
明治3年8月14日(1870/9/9)、中浜万次郎、普仏戦役観戦の随行人を命ぜられる
明治3年8月23日(1870/9/18)、中浜万次郎、グレート・パブリック号で横浜を出発
明治3年9月23日(1870/10/17)、中浜万次郎、サンフランシスコ着
明治3年10月4日(1870/10/28)、中浜万次郎、鉄道でニューヨーク着
明治3年10月6日(1870/10/30)、中浜万次郎、フェヤーヘブンへ ホイットフィールドをたずねる
明治3年10月9日(1870/11/2)、中浜万次郎、ニューヨーク発
明治3年10月23日(1870/11/16)、中浜万次郎、イギリス リバプール着
明治3年10月24日(1870/11/17)、中浜万次郎、ロンドン着。足の潰瘍のため治療に専念
明治4(1871)年3月末、中浜万次郎、ロンドンから船で日本に向かう
明治6(1873)年、中浜万次郎、土佐 中の浜へ帰省
1875年7月9日、中浜万次郎、土佐 中の浜へ帰省 新橋発
1875年7月10日、中浜万次郎、オルゴニヤ号で横浜発
1875年7月11日、中浜万次郎、神戸着
1875年7月15日、中浜万次郎、高知着
1875年7月23日、中浜万次郎、高知発
1875年7月26日、中浜万次郎、中ノ浜着
1875年8月5日、中浜万次郎、中ノ浜発
1884年夏、ホノルルのデーモン牧師が来日し万次郎と会う
1898年11月21日、中浜万次郎、死去