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1812年 高田屋嘉兵衛、ロシア兵に拉致される

1769年、高田屋嘉兵衛、淡路国津名郡都志村本村(兵庫県津名郡五色町都志)で生まれる。喜四郎の長男。
1771年、金蔵(吉三郎とも)、備前国(岡山県)で生まれる。
1773年、文次郎(文次、文治とも)、讃岐国小豆島で生まれる。紀伊国新宮(和歌山県新宮市)生まれともいう。


1792(寛政4)年、高田屋嘉兵衛、兵庫に出て、回漕業にたずさわり、家業を興す。
1795(寛政7)年、高田屋嘉兵衛、1500石積の辰悦丸を新造。


1798(寛政10)年、高田屋嘉兵衛、箱館に支店を設ける。
1799(寛政11)年、高田屋嘉兵衛、酒田港で幕府の仕入品の輸送を命じられる。
1799年8月(寛政11年7月)、高田屋嘉兵衛、択捉島への航路を拓く。
1800(寛政12)年、高田屋嘉兵衛、択捉(えとろふ) 島に至る航路や同島の漁場を開発。同年、近藤重蔵を択捉島へ案内
1800/03/21(寛政12年2月26日)、高田屋嘉兵衛、幕府から蝦夷地御用定雇船頭を命ぜられる。
1800年(寛政12年7月)、高田屋嘉兵衛、幕府与力・近藤重蔵とともにエトロフ島に渡り、住民の同化政策に着手する(7郷24村の郷村制を施行)。
1806年(文化3)、高田屋嘉兵衛、大坂町奉行から蝦夷地産物売捌方を命ぜられる。
1810年(文化7)、高田屋嘉兵衛、東蝦夷地択捉島の「場所」請負人に命ぜられる。(直捌所の実質的な崩壊)
1812/09/08(文化9年8月2日)、高田屋嘉兵衛、自分の持船観世丸でシャナから箱館に向け計46人で出帆。
1812/09/17(文化9年8月12日)、歓喜丸、水晶島に寄港。
1812/09/18(文化9年8月13日)、歓喜丸、向かい風のため箱館行きを変更し、シャナ出帆時に預かった松前奉行所宛至急御用状を国後島会所から急使をもって届けてもらうため、国後に向け出帆。


1812/09/19(文化9年8月14日)、朝、国後島ケラムイ岬沖でロシア兵20名が乗ったボートに襲われ、36名が捕らえられる。与右衛門、歓喜丸稼方。ロシア兵に襲われたときにほか9名と海に飛び込み国後泊会所に出頭する。ほかの9名は溺死。
1812/09/20(文化9年8月15日)、嘉兵衛ら5名がピョートル・イヴァノヴィチ・リコルドと折衝し15日朝観世丸乗組員のうち10名が開放される。
1812/09/21(文化9年8月16日)、高田屋嘉兵衛、みずから人質として残ることを申し出て、観世丸の21人が開放される。

この時点での捕虜
  • 高田屋嘉兵衛、捕虜時44歳。淡路国津名郡都志村本村(兵庫県津名郡五色村都志)出身、喜四郎倅。宗旨浄土真宗。
  • 金蔵、歓喜丸水主。捕虜時41歳。備前国(岡山県)出身。
  • 平蔵、歓喜丸水主。捕虜時25歳(28歳とも)。讃岐国小豆島(香川県小豆郡)出身。
  • 吉蔵、歓喜丸船頭。捕虜時29歳。淡路島出身。
  • 文次郎、歓喜丸水主。捕虜時39歳。讃岐国小豆島出身。紀伊国新宮(和歌山県新宮市)生まれとも。


1812/09/21(文化9年8月16日)、ジャナ号、日本人捕虜5名を乗せ夕方ケラムイ岬を出帆
1812/10/15(文化9年9月11日)、ジャナ号、ペテロパウトフスク到着
1813/03/26(文化10年2月24日)、文次郎、ペテロパウロフスクで死亡。享年40歳。戒名春月浮名信士
1813/04/28(文化10年3月28日)、吉蔵、ペテロパウロフスクで死亡。享年30歳。戒名西行仏心信士


1813/06/04(文化10年5月6日)、ジャナ号、日本人捕虜3名を乗せ、ペテロパウトフスクを出帆。
1813/06/24(文化10年5月26日)、ジャナ号、国後島センベコタン沖着。金蔵、平蔵、上陸して連絡にあたる
1813/06/25(文化10年5月27日)、高田屋嘉兵衛、上陸して日露間の折衝を助け、用意されていたゴロウニン開放条件を示した「魯西亜人江の諭書」を持ち帰艦
1813/06/25(文化10年5月27日)、金蔵、平蔵、会所に収容
高田屋嘉兵衛ら3人、高橋三平と国後を出帆
1813/08/12(文化10年7月17日)、松前に到着
1813/09/05(文化10年8月11日)、高田屋嘉兵衛ら3人、松前発
1813/09/08(文化10年8月14日)、箱館着
1813/09/09(文化10年8月15日)、高田屋嘉兵衛ら3人、この日から、称名寺に同心・雇4名と差し置かれる
1813/10/09(文化10年9月16日)、平蔵、エドモ―箱館間の水先案内を務め、この日箱館入港
1813/10/24(文化10年10月1日)、高田屋嘉兵衛、箱館恵比須町の支店での病気療養が許される
1814/04/22(文化11年3月3日)、高田屋嘉兵衛、「構いなし」の指令を申し受ける
1814年10月(文化11年9月)、高田屋嘉兵衛、その労に対し金5両を下賜される


1822年(文政5)、高田屋嘉兵衛、大坂野田村(福島区野田)に居を移す
1824年(文政7)、高田屋嘉兵衛、郷里に引退
1827/04/30(文政10年4月5日)、高田屋嘉兵衛、没。享年59歳。宗旨浄土真宗。箱館称名寺に分骨

参考文献