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1804年 陸奥慶祥丸、北千島に漂着

1764年、継右衛門文内、陸奥国北郡牛滝村で生まれる。宗旨禅宗。菩提寺佐井村長福寺。
1765年、吉九郎、牛滝村で生まれる。吉五郎とも。宗旨禅宗、菩提寺佐井村長福寺。
1767年、勘右衛門、福浦村で生まれる。宗旨浄土宗。菩提寺佐井村発心寺。

1776年、弥内、陸奥国北郡福浦村(下北郡佐井村長後字福浦)で生まれる。宗旨禅宗。菩提寺佐井村長福寺。1764生まれとも。
1778年、専右衛門、牛滝村で生まれる。宗旨禅宗。菩提寺佐井村長福寺。(1777とも)
1785(天明5)年、岩松、牛滝村で生まれる。友右衛門の弟。宗旨禅宗。菩提寺佐井村長福寺。

1803年11月前半(享和3年9月下旬)、陸奥国南部領北郡牛滝村(青森県下北郡佐井村長後字牛滝)の原右衛門持ち船慶祥丸582石積(13名乗組み)、南部領脇之沢村(下北郡脇野沢村)を出帆。箱館に着帆。

  • 継右衛門文内:慶祥丸船頭。出帆時39歳。陸奥国北郡牛滝村出身。宗旨禅宗。菩提寺佐井村長福寺。
  • 専右衛門:慶祥丸賄。出帆時25歳(26歳とも)。牛滝村出身。習字禅宗、菩提寺佐井村長福寺。
  • 吉九郎:慶祥丸水主。吉五郎とも。出帆時38歳。牛滝村出身。宗旨禅宗、菩提寺佐井村長福寺。
  • 弥内:慶祥丸水主。出帆時27歳。39歳とも。陸奥国北郡福浦村出身。宗旨禅宗,菩提寺佐井村長福寺。
  • 勘右衛門:慶祥丸水主。出帆時36歳。福浦村出身。宗旨浄土宗。菩提寺佐井村発心寺。
  • 岩松:慶祥丸炊。出帆時18歳。牛滝村出身。友右衛門の弟。宗旨禅宗、菩提寺佐井村長福寺。
  • 平次郎:慶祥丸楫取。平次、平治郎とも。牛滝村出身。
  • 庄兵衛:慶祥丸水主。脇之沢村出身。
  • 伊之助:慶祥丸水主。陸奥国北郡長子村(佐井村長後)出身。または同郡田名部河内村(下北郡川内町)出身。
  • 仙之丞:慶祥丸水主。仙之助とも。河内村出身。
  • 福松:慶祥丸水主。河内村出身。
  • 吉五郎:慶祥丸水主。河内村出身。
  • 藤蔵:慶祥丸水主。河内村出身。

1803年11月前半(享和3年9月下旬)、源次郎、箱館弁天町の浜屋次兵衛方よりの上乗として慶祥丸に箱館で乗船(乗員14名に)

1803/12/21(享和3年11月8日)、慶祥丸、箱館在臼尻(茅部郡南茅部町臼尻)を出帆。夜、南部領尻谷(青森県下北郡東通村尻屋)沖で、嵐に遭い、積荷50~60石を捨てる。
1803/12/22(享和3年11月9日)、慶祥丸、仙台領唐丹湊(岩手県釜石市唐丹町)に入港。
1803/12/26(享和3年11月13日)、慶祥丸、仙台領唐丹湊(岩手県釜石市唐丹町)を出帆。
1804/01/10(享和3年11月28日)、慶祥丸、唐湊湊(宮城県茂桃生郡鳴瀬町東名)を経て、中之作湊(福島県いわき市中之作)に避難。この日中之作湊を出帆。
1804/01/11(享和3年11月29日)、慶祥丸、九十九里浜沖で遭難。

1804/02/10(享和3年12月29日)、平次郎、死亡。
1804/03/13(享和4年2月2日)、庄兵衛、死亡。
1804/04中旬(文化元年3月上旬)、慶祥丸、南海を漂流。
1804/05(文化元年4月)、慶祥丸、北海を漂流。
1804/06/05(文化元年4月27日)、伊之助、死亡。
1804/07/22(文化元年6月16日)、源次郎、死亡。
1804/07/24(文化元年6月18日)、仙之丞、福松、死亡。
1804/08/09(文化元年7月4日)、吉五郎、死亡。
1804/08/12(7月7日)、藤蔵、死亡。
1804/08/23ごろ(文化元年7月18日ごろ)、継右衛門文内、専右衛門、吉九郎、弥内、勘右衛門、岩松の6名、北千島ポロムシリ島東浦に漂着。
1804/09月前半占守島を経て、このころカムチャツカのロパトカ岬に渡る。
1804/09月中旬、ロパトカ岬に渡って2日ほどして、通りがかったポロムシリ島アイヌのイハンテレンテほかとロシア人僧侶ヴェレスチャギンの乗った船に助けられ9月後半、ペテロパウロフスクに到着。
継右衛門文内ら6名、善六(H1793a)、ピョートル・ステファノヴィチと会い、善六方に止宿。

1805/07月中旬、継右衛門文内ら6名、カムチャツカから脱走。脱走後1ヵ月後にポロムシリ島に到着。
1805/09月中旬、継右衛門文内ら6名、ポロムシリ島からラショワ島アイヌのマキセンの船で南下しこのころラショワ島につく。越冬する。ここでズヴェズドチョトフの部下男9名、女2名、女児2名と出会う

1806/04/01(文化3年2月13日)、継右衛門文内ら6名、マキセンらとラショワ島を出発。
1806/06/01(文化3年4月25日)、継右衛門文内ら6名、マカンルル島に到着、マキセン・ケレコウリツら一行15名と会う。
継右衛門文内ら6名、レブンチリホイ島に渡る。
1806/07/01(文化3年5月26日)、継右衛門文内ら6名、レブンチリホイ島を出発。
1806/08/02(文化3年6月28日)、継右衛門文内ら6名、択捉島アトイア岬帰着。
1806/08/05(文化3年7月2日)、継右衛門文内ら6名、シベトロ番所に帰着。番所で戸田又太夫の取調べを受ける。
継右衛門文内ら6名、菊池惣内の取調べを受ける。
1806/09/09(文化3年7月27日)、継右衛門文内ら6名、択捉島会所があるシャナに送られ同島詰南部藩お預けの身となり越冬。

1807/05/26(文化4年4月19日)、継右衛門文内ら6名は、菊池惣内、南部藩士佐々木多助らに伴われ箱館へ向け出帆。
1807/05/31(文化4年4月24日)、継右衛門文内ら6名、箱館に到着。
1807/07/08(文化4年6月3日)、慶祥丸漂流民の調書「漂民口書」が作成される。
1807/09/15(文化4年8月14日)、継右衛門文内ら6名、南部藩士に引き取られる。

参考文献