1768年 ベニョフスキー、カムチャツカに流刑(のち脱走)

1768年、モーリツ・アウグスト・フォン・ベニョフスキー|Benyovszky(ハンガリー人)、ロシアの内政干渉に対するポーランドの武装蜂起(1768~69年)に参加してロシア軍の捕虜となり,カムチャツカに流刑。

1771/05/12、ベニョフスキー、カムチャツカに流刑にされ、ボリシェレツクで軍務に服していたが、長官を殺し、帆船を奪い、「聖ピョートル号」で流刑囚70数名と出帆。ドミトリー・ポチャロフ、「聖ピョートル号」に航海士補として乗り込む。

1771/05/17、ベニョフスキー、千島列島の無人島で3人の異分子を下ろす。この3人は4日後にロシアの毛皮商人プロトディヤコーフの船に救われる。
1771/7月初旬、ベニョフスキー、土佐の佐貴浜(高知県室戸市佐喜浜町)、阿波の日和佐(徳島県海部郡日和佐町)、雄奄美大島の伊須浜(鹿児島県大島郡瀬戸内町)に寄港 阿波や奄美から長崎のオランダ商館長に書簡を送り、ロシア人の千島南進のことを警告する。

「外交志稿」の記述
ロシア船1隻、阿波の海浜に漂着す。藩主蜂須賀治昭、之を撫恤す。後、大島に上陸して書を長崎在留の蘭人に寄せ、其待遇を謝し、以て東北辺防の利害を報ず。初めポーランド人「アウス」露国に囚われシベリア東北部に流され、後露船其地に至るに及び、「アウス」曰く、蝦夷及び日本の東海を廻り南洋より帰国せんと欲する久しと。乃ち(すなわち)其船将に頼り共に南方に航して、シモシリ島(第16島)に渡り、薪水を載せ遂に我東海を廻り阿波に至り琉球を経て帰る

マカオで船を売る。15人が死んで、55人となった一行は旅行者としてマカオを発つ。

1772/3月、ベニョフスキー、フランスのイル・ド・フランス(パリ)に着く。 ほとんどのものは徒歩でパリに行きぺテルブルグに送られ再びシベリアに流刑となった。 ベニョフスキーら5人は、マダガスカル島で1年半勤務し、ベニョフスキーは同僚とケンカしてロンドンに逃げた。

1774/9月、ベニョフスキー、マダガスカルへ

1785年、ベニョフスキー、イギリス,アメリカの資本と結んで再びマダガスカルに遠征。
1786/05/23、ベニョフスキー、原住民の傭兵の叛乱に遇って殺される。

参考文献

最終更新:2008年04月12日 19:07