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1744年 南部多賀丸、北千島に漂着

延享元年11月14日(1744/12/17)、陸奥国南部領北郡佐井(青森県下北郡佐井村佐井)を出発(17人乗り組み)。 大湊港(青森県下北郡大畑町)に立ち寄り、大豆・昆布・鰯糟などを積み江戸に向かう。

  • 竹内徳兵衛 船主・船頭 佐井出身
  • 磯次
  • 八兵衛または七五郎
  • 勝右衛門 竹内徳兵衛親族
  • 伊兵衛 陸奥国閉伊郡宮古浦(岩手県宮古市)出身
  • 久太郎または喜十郎 佐井村出身
  • 三之助または佐之助または佐五兵衛
  • 利八郎または利八(=イガチ?)
  • 久助または長助、長松、長作、長之助 陸奥国宮古浦出身
  • 長助または久助、長松、長八 陸奥国北郡大間村出身
  • 利助 水主
ほか6名

延享1年11月28日(1744/12/31)、嵐で遭難。漂流中6名が死亡。

延享2年4月13日(1745/05/14)、残る11人は本船が使えなくなったので小船に乗り移る。

延享2年5月16日(1745/06/15)、北千島のオンネコタン島ウカモル湾に漂着。竹内徳兵衛、上陸後まもなく死亡。
1745/06/17、残る10名は同島に毛皮税徴収のためにやってきたマトベイ・ノヴォグラブレンヌイとヒョードル・スロボドチコフらに見出された。 一説には6月26日。 10名はボリシェレツクに連行され、カムチャツカ長官レベデフ大尉はこれを政府に報告した。ノヴォグラブレンヌイは1744年、マカンルル島に渡来。シムシリ島から来たアイヌに、国後島にある日本役人が同島での交易を望んでいるとの情報を得ている。

1745年、イガチという者が、カムチャツカのボリシュレツク港の柵に連行され、ロシア船に対して、ロシアの織物、ロシア皮、特に日本人の悦ぶ鯨油と塩漬けの魚を積んで、直接江戸の港を目指すようアドバイスした。 南部多賀丸の利八か。

1746年、10名全員が受洗。受洗名は以下のとおり
  • 磯次 フォーマ・レペディエフ・メリニコフ
  • 八兵衛 アンドレイ・レシェトニコフ
  • 勝右衛門 グリゴリー・スヴィニン
  • 伊兵衛 ヴァシリー・パノフ
  • 久太郎 ピョートル・チェルノイ
  • 三之助 イヴァン・イヴァノヴィチ・タタリノフ
  • 利八郎 マトヴェイ・グリゴリエフ・ポポフ
  • 久助 フィリップ・ニキフォロフ・トラペズニコフ
  • 長助 ロシア名イヴァン・アファネシェフ・セメノフ
  • 利助 ロシア名パヴェル・アレフィエフ

1746/08/31、ロシア政府と海軍参与会は、シベリア官憲を通じ、ベーリング探検隊の残務整理のためオホーツクに滞在していたスヴェン・ワクセリ中尉、ルティシチェフ少尉に対し、日本漂流民の中から優れた者5名を選んでペテルブルグに送ることを命じた。

1747/09/21、ドミトリー・コロステリョフの率いる船でオホーツクに到着。利助は病気のため、ボリシェレツクに残る。のちにボリシェレツクで没。 1747/09/25、アレクセイ・ウラドキン少尉補や、シュナヌイキン、フェネフらとともにオホーツクを出発ヤクーツクへ。 ここで2班に分けられる。 1747年、利助、ボリシェレツクで没 1748年、磯次、八兵衛、勝右衛門、伊兵衛、久太郎、ペテルブルグに送られ日本語教師となる。
1752年、三之助に、子 三八生まれる。ロシア名アンドレイ・イヴァノヴィチ・タタリノフ

1753年、磯次、八兵衛、ペテルブルグで死亡。 日本語学校がイルクーツクへ移され、シベリア総督ミヤトレフの監督下に置かれる。これに伴い死亡者2人を除く3人(勝右衛門、伊兵衛、久太郎)がイルクーツクへ出発。ピョートル・シュナヌイキン、アンドレイ・フェネフも同行。

1753/06/06、勝右衛門ら3名、イルクーツクに到着。同地の航海学校に併設された日本語学校教師となり、年俸150ルーブリを支給。 校長はロシア人アンドレイ・タタリノフ(ロシア人航海士)。 ピョートル・シュナヌイキン、アンドレイ・フェネフもイルクーツク着。日本語学校の生徒となる。

1754/01/09、三之助、利八郎、久助、長助、通訳として中尉相当官に任ぜられる。

1754年、三之助、利八郎、久助、長助、イリムスクで日本語教師となる。

1756年、久助に、子どもイヴァン・フィリポヴィチ・トラペズニコフ生まれる。のちに測地士となる。

1759年、イルクーツク日本語学校にあらたに6名の生徒が入学。

1759年、アファナシ・オチェレジン(ピヨドロまたはヒヨドロ、南部漂流民利八郎の妻の兄)、イルクーツク日本語学校で日本語を学ぶ。

1760年、イルクーツク日本語学校にあらたに2名の生徒が入学。

1761年、三之助、利八郎、久助、長助、生徒5名とともにイルクーツク日本学校に合流。この時点で、イルクーツク日本語学校に日本人教師7人学生15人。

1761年5月、ピョートル・シュナヌイキン、没。

1763/01/26、勝右衛門、イルクーツクで死亡

1764年、カルポフ(イルクーツク日本学校生徒)、没

1764年、イルクーツク日本語学校生徒17名になる。生徒カルポフが死亡。4名増員後フェネフとコトコフが死亡。

1765年、アンドレイ・イヴァノヴィチ・タタリノフ、父三之助の請願によりイルクーツク日本語学校に入学。

1765/08/27、三之助、 イルクーツクで死亡

1766年、多賀丸漂流民勝右衛門(あるいは久太郎)の子、生年?

1771年、イルクーツク日本語学校の生徒8名となる。この年、アファナシ・オチェレジン、ボリシェレツクに派遣。オチェレジンは南部漂流民利八郎の妻の兄。ピョドロ、ヒヨドロともいう。

1772年、ピョートル・シモン・パラスを団長とする シベリア調査団がイルクーツクを訪れる。調査団に参加したドイツ系学者ヨハン・ゴットリーブ・ゲオルギーは「ロシア国旅行記」のなかで多賀丸漂流民にふれる。

1773年、伊兵衛、久太郎、利八郎、久助、長助、「日本語単語集」「日本語会話集」を編集

1777年9月、利八郎義兄アファナシ・オチェレジン,、レベデフ-ラストチキンの資金による聖ナタリア号に通訳として乗り込む。オホーツクを出帆。ウルップ島で越年。

1778/07/03~06、 利八郎義兄アファナシ・オチェレジン,、通訳としてノッカマップに同行

伊兵衛、久太郎、利八郎、久助、長助、1782~1786年の間にイルクーツクで死亡。

1782/11/04、アンドレイ・イヴァノヴィチ・タタリノフ、「日本語単語集」を基礎として「レキシコン」と呼ばれる露日辞典を編集し科学アカデミーに提出。

イルクーツク日本語学校83年までに日本人教師3名となる。

1783年(天明3)、ピョートル・レオノヴィチ(多賀丸漂流民勝右衛門あるいは久太郎の子)、水主74名と蝦夷地方に航海し、樺太に着して原住民に殺される。 その船がウルップ島のアダットイに漂着した。

1785年、ミハイル・タタリノフ、多賀丸漂流民についての「現在イルクーツク市にいる日本人たちの知識について」を著す。

1785年(天明5)、多賀丸漂流民勝右衛門(あるいは久太郎)の子、最上徳内に同行

イルクーツク日本語学校の日本人教師は1786年までにはすべて死亡。あとに3名の生徒が残され年長のエゴル・イヴァノヴィチ・トゥゴルゴフ(31)が教鞭をとる。
1788/06/26、アファナシ・オチェレジン、南部多賀丸漂流民利八郎の義兄 通訳として光太夫らに同行

参考文献