1741年 ベーリング、ベーリング島へ漂着

1681年、ベーリング|Vitus Jonassen Bering、デンマークで生まれる。

1703年、ベーリング、ピョートル 1 世治下のロシア艦隊に勤務。

1724年、ベーリング、シベリアとアメリカ大陸間の海域探検隊の隊長に任命された。
1725年、ベーリング、第1回北太平洋探検(~30) この探検に、ヤコフ・マクシモフ(H1713a)が参加していたとも言われる。
1726年、マルティン・ペトロヴィチ・スパンベルグ、スパンベルグ支隊を率い、13艘の平底舟でヤクーツクを出発。レナ川、アルダン川、マイー川を経てユドマ川へ。
1726年8月末、ベーリング、ヤクーツクを出発。663頭の馬を動員。
1726年10月中旬、ベーリング、オホーツク着。267頭の馬を失う。
1726年11月初旬、スパンベルグ、ユドマ川で氷に閉じ込められる。
1727年、ベーリング、オホーツク荷駄街道(ヤクーツク~オホーツク)を開発。
1727年1月末、スパンベルグ、オホーツク着。
1728年、ベーリング、シベリアとアラスカをへだてる海峡を発見。のちにこの海峡にはベーリングの名がつけられた。悪天候のため北アメリカ大陸を確認することはできなかった。

1730年、ベーリング、サンクト・ペテルブルグにもどり、シベリア北東部の再探検をもうしでる。
1733年、ベーリング、2度目の遠征隊を指揮することになった。この計画は1度目より規模が遥かに大きく、シベリア北部沿岸の広大な地域の地図作製も任務にふくまれた。 第2回北太平洋探検(~43)。

1736/06/18、スパンベルグ、スパンベルグ支隊を率い日本近海探検のためにオホーツク港を発して、カムチャツカのボリシュレツク港に着く。

1738年、スパンベルグ、3隻の船を率いてカムチャツカのボリシュレツクから千島列島沿いに南下、ウルップ島まで達する。
1739/06/01、スパンベルグ、再び4隻の船を率いてボリシュレツクを出発。僚船にウィリアム・ワリトン船。
1739/06/25、スパンベルグ、荒天のためスパンベルグの本隊3隻は、ウィリアム・ワリトン少尉の率いる船と別れ別れとなったが、なお南航を続けた。
1739/06/27(元文4年5月22日)、スパンベルグ、北緯38度41分付近の地点で日本本土を見出す。ロシア人による最初の日本本土望見となる。
1739/06/28~07/03(元文4年5月23日~28日)、スパンベルグ、陸奥国牡鹿郡網地島(宮城県牡鹿郡牡鹿町)の南端長渡沖、同国亘理郡磯浜(亘理郡山元町坂元)、牡鹿郡田代島(石巻市)三石沖などの仙台湾に姿を見せる。1713年に広東から帰還していた亘理郡荒浜船漂流民(H1712a)をスパンベルグ船の見極めに当たらせる。

1739/06/30(元文4年5月25日)、ワリトン、安房国長狭郡天津村(千葉県安房郡天津小湊町)海岸に至り住民と接触した。 その後、伊豆半島沖から紀州沖あたりまで南下。

1739/07/14、スパンベルグ、北緯43度50分の島(色丹島か)に立ち寄る。
1739/08/03、ワリトン、ボリシェレツクに帰着
1739/08/25、スパンベルグ、ポリシュレツクに帰着。

1740/03/25、ソウザ・ゴンザ(H1728a)の教え子、ピョートル・シュナヌイキンとアンドレイ・フェネフに対し、元老院が日本探検隊に通訳として加わることを命じる。

1741/06、ベーリング、カムチャツカから北アメリカ大陸にむけて出航。
1741/07/17、ベーリング、アラスカ湾にはいり、セント・エライアス岬北方で大陸を確認し、この日、カイアック島に上陸した。帰路、ベーリングも乗組員の多くも壊血病にかかったうえ、嵐(あらし)と霧で難破して無人島(のちのベーリング島)に漂着した。ベーリングは1カ月後(1741/12/19)にそこで死亡したが、乗組員の一部は42年、カムチャツカに帰還した。
1741/10/21、聖パヴェル号、ペトロパウロフスクに帰還。
1742/09/07、チリコフ・アレクセイ・イリィチ(イリイッチとも)、ベーリング探検隊の生き残りとしてカムチャツカに帰還。乗組員77名のうち31名が死亡。

1742/06/02、スパンベルグ、ボリシュレツクを出発。通訳として、ピョートル・シュナヌイキンとアンドレイ・フェネフを同乗させる。占守島でさらに2人のアイヌを通訳として乗せ日本に向かう。
1742/07/11、スパンベルグ、濃霧で別れ別れとなり、スパンベルグの船だけが北緯39度35分の地点に達する。
1742、スパンベルグ、ボリシェレツクに帰港。

1742/09/06、ピョートル・シュナヌイキン、アンドレイ・フェネフ、オホーツクに帰る。

参考文献

最終更新:2008年04月12日 18:35