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1695年 伝兵衛、カムチャツカへ漂流

伝兵衛(デンベイ):父は大坂の商人ディアサ。伝兵衛は同じ大坂商人のアワスディヤ(淡路屋?)マタヴィン(又兵衛?)の店に出入りする2人の子を持つ妻帯者。大坂谷町あたりに在住。淡路屋又兵衛の上乗役として乗船した。15人乗船。なお、伝兵衛は日本に帰らなかったため、日本側には一切記録はない。すべてはロシア側の記録である。

1695年8月、ウラジミール・アトラソフ、アナディル城砦の指令として、ロシアの東シベリアの基地ヤクーツクから前進基地アナディルの砦に派遣された

元禄8年11月初め?(1695/12/初め?)、12艘(一説に30艘)の船団で、大阪を出帆し江戸に向かう。難破し帆柱を切り倒したとき、2名が海に落ちて死ぬ。

伝兵衛の供述(1702年1月)の中に、「彼、伝兵衛が大阪を出版してから今、7年目である」(А как он, Денбей из города Асакка на море пошел---тому ныне седьмой год.)とあるのが根拠。(村山、1965)

1696年6月ごろ、伝兵衛ら13人がカムチャツカ南部、オホーツク海に注ぐオパラ河口付近に漂着。翌日の夜、船は40艘の舟に分乗した200人のクリル人の襲撃を受ける。 伝兵衛は仲間の2名とともに捕らえられ、クリル人の村へ連行される。其村で仲間2名は不慣れな食物のため死亡(殺されたとも)。 オパラ河口に残された10人は、間もなくどことも知れず連れ去られた。 伝兵衛は、クリル人の村で約1ヶ月、カムチャツカ川支流のナネ川畔にあるカムチャダル人の村でさらに1年近くを過ごした。

1696年、ルカ・モロズコ、アトラソフに命ぜられカムチャツカ北部のコリヤク人討伐に派遣。予定よりずっと南のカムチャダル人の住むチギリ川上流付近にまで達し、住民から毛皮税を徴収して帰る。その際「何ものか分からない文書」を持ち帰る。この文書は、伝兵衛らがオパラ河口付近に漂着したとき、自分たちのことについてクリル人に書いて差し出したものと思われる。

1696年12月、ウラジミール・アトラソフ、部下の兵士と猟師60人を連れ、更に土民60人を伴って、新しい土地を発見するためにカムチャツカ半島に入る。 一隊はオホーツク海北端のベンジナ河口を経て、カムチャツカ半島の西海岸を2週間ほど南下し、いったん東に向かいオリュトラ川流域に出、配下の部隊にはそのまま東海岸を南下させる一方、自らは再び西海岸のパラン川に出て、チギリ川河口の南に達した。

1697年春、 ウラジミール・アトラソフ、半島の西海岸に向かい、その後東方に方向を転じて太平洋沿岸に出て、アリュートル川の河口のコリヤークの集落にたどり着いたが、ここで隊を二つに分けた。そして一隊は東海岸をまっすぐ南下、自らの属する二隊は西海岸に出て、これまた一路南下することにした。アトラソフは道案内に雇っていた土民の叛乱に遇ったり、いろいろと苦難多い旅を続けた。

1697年7月28日(ユリウス暦7月18日)、ウラジミール・アトラソフ、チギリ川河口から東に転じ、クレストヴカ川がカムチャツカ川に合流する地点にいたり、ここで初めてカムチャダールの集落に入る。ここに十字架を建て「50人隊長ウラジミール・アトラソフの一行これを建てる。7205年7月18日」と記した。カムチャツカ川のカムチャダールの集落から引換えすと、イーチャ川を渡って、更に南進し、クリール人(千島アイヌ)の集落に達した。 イーチャ河畔に駐屯中、デンベイと出会う。

1698年、ウラジミール・アトラソフ、カムチャツカをロシア領に編入させる。カムチャツカ半島南部、北緯52度10分のゴルイギナ河口に達し、千島列島のアライド島の島影を認める。ロシア人による最初の千島望見。1699年7月22日、デンベイを連れてアナディルに帰還。

ウラジミール・アトラソフ、デンベイを連れヤクーツクへ向かうが、途中、デンベイの足が腫れたのでアナディルへ送り返した。

1700年、伝兵衛、アトラソフに数ヶ月送れてヤクーツク着。ヤクーツクで取調べを受ける。

1700年6月14日、アトラソフ、ヤクーツクの代官所へ報告を為す。「カムチャツカ遠征に関する第一の報告」(伝兵衛に関する報告書1)。

彼、ウラディーミル(アトラソフ)は同僚とともに(イチャ河畔で)カムチャダル人たちから、「ナナ河畔(カムチャツカ河支流か)のカムチャダル人のところに1人の囚人がいる。彼らはこの囚人をロシア人と呼んでいる」と聞いた。かれ、ウラディーミル(アトラソフ)はその囚人を連れて来いと命令した。カムチャダル人は主人の厳格さに恐れをなして囚人を連れて来た。囚人はウラディーミル(アトラソフ)のところに出頭した。この囚人はウザカ(大阪)国の者である。この国は印度の支配下にある(Он-де Узакинского государства, а то-де государство под Индейским царством.)。[この囚人は「自分は大阪の者で、大阪は江戸の支配下にある」と述べたのが、ロシア人にはこのように受け止められたのである。]。彼らはウザカ国から印度[実は江戸]に向って航行し、12隻の帆船に乗っていた。或る帆船は食料を、或るものは酒やさまざまな陶器を積んでいた。[暴風雨のため]或る帆船はマストが折れ大洋に押し出され、6か月漂流し、12名が漂着した。クリル[カムチャツカ南部]の住民がそのうち3名を捕えた。しかし残りの者はあの岬のわきを帆船(単数)に乗って進んで行った。しかし彼らがどこにひそんでいるのか、この男は言わなかった。クリル人のところで暮らしていた2人の仲間は食物に不慣れで死んだ。クリル人たちは腐敗した肉と根菜類で生活していた。かの印度人[江戸から印度を連想したのである]はウラディーミル(アトラソフ)とその仲間がロシア人であるというので喜んだ。この男は自分流に文字を知り、役所の書記であったと言った。印度[江戸]の文字の書いた1冊の本を示した。ウラディーミルはこの本をヤクーツクに持ってきた。ウラディーミルはその男をつれてきて、イチャ河畔のコザック陣地の家来たちのところにおいてきた。(村山、1965)

1701年2月21日、アトラソフ、モスクワのシベリア庁で「第2の報告」。

帆船に乗って(カムチャツカに)漂流したこの囚人の話す言葉[日本語]を自分は知らない。この囚人はギリシャ人のように見え、やせていて、口ひげは大きくない。髪は黒い。ロシア人たちのもとで神像を見て、大そう泣いて、自分の国にもこうした神像があると言った。この囚人はロシア人たちとロシア語で話すこともあった。というのはウラディーミル(アトラソフ)と2年間一緒に暮らしたからである。しかしコリャーク語の通訳を介して話した。なぜなら、ウラディーミルと一緒に暮らす前に異民族のところで2年暮らしたからである。彼は印度人と自称した。彼によると、その国では黄金が沢山産出し、陶器でできた宮殿(複数)があり、印度[江戸]の王は銀の宮殿(複数)と金色に輝く宮殿を持っている。ウラディーミルはクリル土民から銀貨をとりあげたが、それはゾロトニク[4,26グラム]の重さがある。この囚人は「それは印度[江戸]の鋳貨だ」と言った。その国では黒貂やその他の動物を用いないという。木綿にぬいてつけたいろいろな緞子の着物をきている。この囚人はウラディーミルと一緒に雪靴をはいてアナドイルの冬期陣地から6日間走った。足が腫れて、病気となった。そこでアナドイルの冬期陣地につれ戻した。快復すれば直ちにロシア人たちと一緒にヤクーツクに出発するであろう。囚人は性格上、非常に礼儀作法が正しく、分別がある。(村山、1965)

1702年初め、伝兵衛、 モスクワへ移される。

1702年1月、アトラソフ、モスクワのシベリア庁で「伝兵衛物語」(伝兵衛の口述調書)と呼ばれる報告を行う。

かの囚人はいくらかロシア語を話し(говорит немного по руски)、シベリア庁で供述した。デンベエと言い、ディサイ(治三、治佐?)の息子(Дисаев сын)で、日本島のオサッカ Осакка町の生れ。日本島の首都はミアコ Меако[京都]であり、オサッカから150露里(1露里は約1キロ)離れている。其処には、その島の支配者が住んでいる。ダイン・サマ(Даин-сама)と呼ばれる。デンベイの父・ディアサは同じオサッカの町に住み、商人である。彼デンベイは同じ大阪の町の商人である主人---その名はアワヂの息子マタヴィン(именем Авасжія сына Матавина、淡路屋又兵衛か?)---に雇われて、商品を積んで、主人の他の雇われ人と一緒に、全部で15名で船に乗り他の船30隻---小舟又は大船、それはイェドヴニ едовни(江戸船)と呼ばれ、長さ15尋、幅、高さ4尋で、帆をかけていた---がイェンダ(江戸)の町に(в город Енду)向って、日本島の海を通って航行しようとした。この町は海辺にあってアサッカ Асакка(大阪)から約700露里(約700キロ)離れている。積荷は米、酒、緞子、南京木綿、木綿、白砂糖、氷砂糖、びゃくだん材、鉄であった。これは絹や板鉄、麻布、金、銀と交換するものであった。なぜなら、彼の言によると、金と銀はミアコとイェンダ(江戸)でだけ鋳造されるからである。そしてその支配者は両方の町に行ったり来たりして住んでいる。
 海上では船は波浪のためにちりぢりばらばらになった。それらの船が何処へちらばったか、彼は知らない。彼の乗っていた船は烈風で28週間も海上を漂流した。そして風を避けるために一行は帆柱を切り落とし、水の中におろした。その作業で2名が帆もろとも溺死してしまった。船にはオサッカ(大阪)の町から淡水を持ってきてあった。水は2ヶ月たりた。水が無くなると、米を酒で煮た。酒も使いはたしたとき、米を氷砂糖であまくして露命をつないだ。風がおさまったおき、波のうねりから(по матошнику)大海に押し流されてしまったことが判った。そこで、そうして戻るかを考えはじめた。彼らは海上に、根のついたあまり大きくない樹木を見つけた。この樹木をマストノ代りに船に立て、また緞子で帆を縫ったのであった。
 この帆でクリル国土[カムチャツカ南部]にはこばれた。河を見つけてさかのぼり、クリル人たちのところにたどりついた。クリル人の1人がやってきた。そこで伝兵衛はその仲間と一緒に、ためしにその国土及び言語の知識を得ようとして、紙に書き始めた。そしてこの書き物をクリル人に渡し、彼にその言語を書かせようとした。するとそのクリル人は紙をふろころに入れてしまった。なぜならカムチャダル及びクリルの国では人々は全く文字を持たないからである。この男は彼らから去っていった。しかし翌朝、4隻の小舟に乗って20名ぐらいがやってきた。そして彼らを眺めてからたち去った。しかし夜に約200名が40隻の小舟で来た。伝兵衛とその仲間をめがけて矢を放ちはじめ、石斧と骨斧で彼らの船をこわし始めた。彼らは伝兵衛の左手の指を矢で傷つけた。伝兵衛と仲間が群集を見たとき、殺されたくないので船から緞子、綿織物、金物を取り出して彼らに渡し始めた。クリル人は彼らから緞子、綿織物と金物を受け取った。米と砂糖は香をかいで見て、においが無いのがわかった。また同じように酒のにおいをかいで見た。約500樽あった。彼らは樽を割った。米も砂糖も捨て、酒は海に流した。しかし酒樽は魚漬け用にとっておいた。というのはクリル・カムチャダル国土は異人種は容器を全く持っていないからである。彼らは魚を穴に入れ、上に木材や草をかぶせておくのだった。魚は全部石鹸状になる。これを桶に入れ、水をそそぎ、熱い石で熱する。それからベニテングダケを加え、それを彼らは飲むのである。またお客をそれでもてなす。彼らはそれで酩酊する。伝兵衛と仲間にはこの飲み物が飲めなかった。そこで植物の根や余り長くねせつけていない魚を食べた。
 これらのクリル人は彼らのうちの2人---泣き過ぎて海上の船で盲目になっていた[壊血病か]---をなぐり殺してしまった。しかし伝兵衛のことは或る男が捕まえてカムチャトカ河までつれて来た。彼の仲間10人はクリル人たちのところにとどまった。伝兵衛は仲間と一緒に約1ヶ月、かのクリル人たちのところでとどまっていたのだった。
 ところでカムチャトカ河畔で伝兵衛は1年近く暮らしたとき、ウォロディメル・オトラーソフ[ウラディミール・アトラソフ]が同僚とともにやって来た。伝兵衛はカムチャダル語の幾つかの単語を知り始めた。彼はカムチャダル人たちから、小舟又は帆船で人々がクリルの土地にやってきて彼[伝兵衛]の仲間10名を連行した、と聞いた。彼らが日本国の人かシナ人(Японскіе земли или Китайскіе лоди)であったか、彼は知らない。
 ウォエオディメル・オトラーソフがそのコサックたちと一緒にカムチャダル人の国にやってきたとき、伝兵衛は彼等のもとで食事が清潔であるのを見て、餓死をまぬかれるために彼らのところに行った。そしてウォディメルは仲間と一緒に伝兵衛をひきとり、カムチャダル人たちに渡さないで、シベリヤにつれて来た。
 伝兵衛はアサッカ(大阪)の町から出帆して今7年目である。[この供述はモスクワのシベリア庁で1702年1月に行われたのであるから、大阪を出たのは1695年、元禄8年ということになる。とすればカムチャツカに漂着したのは1696年であろう。]伝兵衛は大阪に妻と2人の子を持っている。(以下略) (村山、1965)

1702年1月19日、ピョートル1世|Alekseevich Pyotr I、モスクワ郊外プレオブラジェンスコエ村で伝兵衛を引見。(M.ドストイェフスキーによれば2月8日(ユリウス暦))

1702年4月27日、ピョートル1世は、国費による伝兵衛の生活保証と、日本語学校を開設し、伝兵衛をそこの教師たらしめることを勅令をもって命じた。 身柄をシベリア局から砲兵局の管理下に移される。同日、「伝兵衛にロシア語とその読み書きを教えるとともに、4、5人の子供へ日本語とその読み書きを教えさせるために、その身柄をシベリア庁から砲兵省に移すべし。」と勅令で指示。

1705年、伝兵衛、「ロシアにおける日本語学校の教師」という称号を与えられ、モスクワで日本語を教える。ただ、この時期、日本語学校が開設されたとは考えられない。砲兵省で子供に日本語は教えていたかもしれない。

1705年10月27日、ピョートル1世、砲兵総監アレクサンドル・アルチロヴィチ大公および砲兵少将で知事のヤコフ・ヴィリモヴィチ・ブリュースに、「日本国出身の異国人伝兵衛は、砲兵省でロシア語を学んだか、また、何名に自国語を教えたか、そして今も教えているかを調査すべし」と命じた。

アンドレイ ・ボグダノフ(画家となる)、1706年か1707年に生まれる。伝兵衛の子との説あり。
ところで、チェーホフの「サハリン島」に「苗字ではどんな奇妙な巡り会わせが、サハリンではボグダーノフというのと、ペスパーロフというのがやたらに多い」とある。

1707年、商務大臣マトヴェイ・ペテロヴィチ・ガガーリン、デンベイを引き取る。

1710年、伝兵衛、洗礼を受けガブリエルと名乗る ガブリエル・ボグダノフか?

1713年、伝兵衛、ペテルブルグに移る。

1714年、伝兵衛、助手にサニマ(H1710a)を迎える。 この数年後に死去。

1733~1743年、ドイツ生まれの歴史家、ゲラルド・フリードリヒ・ミュラー、ベーリングの北太平洋探検の学術調査団に参加してイルクーツクやヤクーツクに滞在、シベリアの諸史料の収集に努める。伝兵衛に関する記録を残す。
1737~1741年、博物学者、ステパン・ペテロヴィチ・クラシュニンニコフ(ミュラーの弟子)、科学アカデミーの学生としてシベリアに赴きカムチャツカに滞在。伝兵衛に関する記録を残す。

外交志稿では、次のとおり。
元禄7(1694)年、大坂の船、露西亜東部柬察加の「オパラ」河口に漂着す。全船溺死、僅に1人を存す。露国官吏之を莫斯果府に送致す。

参考文献