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654年 トカラ船漂着

白雉5年4月(654/4)、吐火羅国の男2名、女2名、舎衛の女1名、暴風に遭い日向に漂着(トカラ船A)。
吐火羅はタイのメナム河下流スパンブリー Suphan Buri(地図A)周辺にあった(乃木生薬研究所, 2004)ドヴァラヴァティ王国(地図B)(坂井太郎ほか, 1993)
舎衛はガンジス河中流のシュラ-ヴァスティ(地図C)(坂井太郎ほか, 1993)
「舎衛の女」は「ペルシャ(地図D)の王女」を指す(伊藤義教, 2001)
「舎衛」はトカーレスターン(地図E)の地名ShawegharまたはShawe(井本英一, 1978)
吐火羅はトカラ列島(地図F)を指す(荒川秀俊, 1995) 吐火羅国はトルキスタン、いわゆる西域である。舎衛は天竺(地図G)にある。(外交志稿)

斉明3年7月3日(657/08/17)、都貨邏国の男2名、女4名が筑紫に到着した(トカラ船B)。奄美大島(地図H)に漂着したという。駅馬にて都に行く。
トカラ船Aとトカラ船Bは同一船団(坂井太郎ほか, 1993)
7月3日は、大和到着の日(伊藤義教, 2001)

斉明3年7月15日(657/08/29)、須弥山の像を飛鳥寺(地図I)の西に作る。また、盂蘭盆会を営み、夕べにトカラ人に饗応した。(トカラ船B)
この大和朝廷による迎接は、一行が薩南のトカラ列島(宝七島)の住民でないことを物語る(伊藤義教, 2001)

斉明5年3月10日(659/04/07)、トカラ人が妻なる舎衛婦人といっしょに朝廷に伺候した。

斉明6年7月16日(660/08/30)、乾豆波斯達阿(けんずはしたちあ)が本国に帰りたいと送使を求める。乾豆波斯達阿は妻(舎衛の女??)を残し、10人余りのものと本国へ出発する。

天武4(676)年1月1日、舎衛の女、堕羅(たら)の女らが薬や珍しいものなどを捧げ、天皇に奉った。

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参考文献