阿波国勘左衛門船、無人島に漂着 1669年

寛文9年閏10月28日(1669/12/21)、阿波国海部郡浅川浦の勘左衛門、水主の安兵衛、彦之丞、三右衛門等を雇い、11反帆船で浅川浦を出帆。
寛文9年11月初旬(1669/12/下旬)、宮崎に着き、同地の藤代長左衛門の蜜柑を積み入れ、運賃銀830目で江戸に廻漕すべき約を定める。
寛文9年11月15日(1670/01/06)、勘左衛門、長左衛門共々都合7人(?)乗り組み宮崎を出帆。宮崎を出帆して7、8日を経て伊勢国阿濃津に着船し、12、3日日和をまつ。
寛文9年12月6日(1670/01/27)、早天に阿濃津を出帆するが、内海をでたところで暴風にあい漂流する
寛文9年12月28日(1670/02/18)、糧米をすべて食べつくす。のちは蜜柑を食べて食いつなぐ
寛文10年1月中旬(1670/03/上旬)、風が東北に変わる
寛文10年1月21日(1670/03/12)、2尺4、5寸なる「くまびき」を2尾釣り上げる
寛文10年1月23日(1670/03/14)、また「くまびき」3尾を釣り上げ、その後も魚を釣って食いつなぐが、水もなくなり、日付もわからなくなった
寛文10年2月20日ごろ(1670/04/10ごろ)、島を見つける。上陸を試みるが破船し、艀で上陸する。この日は、磯部で寝る。翌朝、勘左衛門死去。亀を食べて潮煮にして食いつなぐ
寛文10年3月1日ごろ(1670/04/20ごろ)、艀で島を一周する。このとき、楠の長さ4尋厚さ5寸幅3尺ほどの板1枚を拾う。この島は、周り10里ほどで、伊豆大島の山より高い山があった。西南に向けて開き、広さ3町ほどで2、30艘の船をつなげる湊に適した場所があった。1里ほど隔てて小島3島を控え、海の深さは干潮時2尋、満潮時4尋ほどであった。島内には幅2、3間の小川があったが、住民のいる様子はもちろん、住んだ跡も見えなった。気候は日本より温暖で、常に裸で過ごせた。
船を造り脱出することとし、楠板をかわらとし、本船破船時に回収した海具を取り合わせて50日を要して新船を完成させた。船は小さかったが6人は乗れた。
西北の方に遥かに山が見えるのを差して、朝出帆し、同日夜半に着船した。5,6日はその島に滞留したが、前の島とほぼ同じであった。 また、朝出帆し、翌朝まで走って、又島があったので、ここにもしばし船をつないだ。この島は前の2島より狭く、山も低かった。この島2日滞在し、朝出帆した。
寛文10年4月15日(1670/06/12)、西北に帆走8昼夜で、この日、島に近づくが、この島には家屋も多数見え、上陸したところ八丈島であった。直ちに代官所に出頭する。
寛文10年5月5日(1670/06/22)、朝、八丈島を出帆
寛文10年5月7日(1670/06/24)、昼ごろ、伊豆の洲崎に着船し、事の始終を訴えたところ、船を回すよう命ぜられ、3日かけて奉行所にいき、調べを受ける。再び、洲崎に乗り戻り、初めて自由の身となる。
寛文10年8月、陸路、故郷に到着。

青ヶ島、鳥島あたりに漂着したものと思われる。

参考文献

最終更新:2008年04月11日 23:13