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越前国の廻船、韃靼に漂流 1644年(H1644a)

竹内藤右衛門(越前国三国浦新保町の船頭) 、竹内藤蔵(竹内藤右衛門倅)、国田兵右衛門ら総勢58人で3隻の船に分乗して、寛永21年4月1日(1644/05/07)、越前三国浦を船出。能登舳倉島着、15日ほど日和待ち。それより佐渡着。20日余り日和待ち。

(寛永21年4月29日(1644/06/04)、李自成が北京を退去する。このとき、北京に火を放つ。)
(寛永21年5月2日(1644/06/06)、睿親王ドルゴン、満軍を率いて北京に入城する。)

寛永21年5月10日(1644/06/14)、佐渡出帆。その夜から大風に遭い漂流。
寛永21年6月1日(1644/07/14)ごろ、日本海北岸の無人境(第一漂着地)に漂着す。爾来10日余りこの地に滞留し、船底および船具の破損を修理す。
寛永21年6月15日(1644/07/18)ごろ、第一漂着地から日本に向かって出帆せるに、同夜から再び大風に遇い、琿春の海岸(ポシェット湾の一角)に漂着す
寛永21年6月17日(1644/07/20)、竹内藤右衛門等は満州土民の詭計に陥り、43人殺害され、国田兵右衛門等15人、一種の俘虜となる。李朝実録(7月9日(8/11))に、北兵使成夏宗の馳啓(第1報)として、日本漂流人の北海遭難を記録す

寛永21年7月20日(1644/08/22)ごろ、国田兵右衛門等15人は琿春海岸から奉天に向け護送される。遭難地の滞留約30日。李朝実録(8月8日(9/8))に、北兵使成夏宗の馳啓(第2報)として、日本漂流人を奉天に護送されたことを記録す

(寛永21年8月20日(1644/09/20)、清・世祖(順治皇帝)奉天を啓鑾し、北京へ遷都す。)

寛永21年8月20日(1644/09/20)、李朝実録に日本側からの日本船の朝鮮沿岸における漂着の有無を照合せることを記載する

寛永21年8月25日(1644/09/25)ごろ、国田兵右衛門等、35日を費やし、奉天に到着す。爾来奉天に滞留すること約30日。
寛永21年9月25日(1644/10/25)ごろ、国田兵右衛門等、奉天を出発し北京に向かう。
寛永21年11月5日(1644/12/04)ごろ、国田兵右衛門等、35日、或いは40日を費やし北京に到着す。爾来北京に滞留すること約1年に及ぶ。

正保元年12月16日(1645/01/13)、寛永21年を正保元年と改元さる。
正保2年1月1日(1645/01/28)、15人生存。北京で正月を迎える。

(正保2(1645)年5月、対馬藩士古川伊右衛門、対馬から釜山へ再渡航する)
(正保2(1645)年5月、大火の被害を受けた北京の太和殿や中和殿の再建がはじまる。皇帝の日常起居の場である乾清宮が完成する。)

正保2年5月5日(1645/05/30)、国田兵右衛門等、清廷当局に対し日本帰国の取計い方を懇願し、その承諾を得。
正保2年11月1日(1645/12/18)、清・世祖は朝鮮国王に向かい、日本漂流人の送還について勅諭を下す。
正保2年11月5日(1645/12/22)、衣服等を支給される
正保2年11月10日(1645/12/27)、送別の宴
正保2年11月11日(1645/12/28)、国田兵右衛門等15人北京を出発し朝鮮経由帰国の途に就く。清朝の朝鮮国王世子冊封使祁充格等北京を出発、京城に向かう(漂流人同行)。
正保2年12月9日(1646/01/25)、鳳凰城に到着し、支那・朝鮮の護衛交代する。

仁祖23年12月21日(1646/02/06)、朝鮮政府、漂流人入城の暁は相当之を優遇することを決議
仁祖23年12月24日(1646/02/09)、漂流人について、漢城府を以てその宿泊所と定め、房舎の一部に修理を加え、兵曹捕盗庁をして雑人の出入を禁止せしめ、饗宴の事は礼賓館をして掌理せしむるに決定

正保2年12月28日(1646/02/13)、京城に到着し漢城府に収容さる。祁充格ら京城に到着する。
仁祖23年12月30日(1646/02/15)、漂流人ら、朝鮮政府の聴取を受ける

正保3年1月1日(1646/02/16)、国田兵右衛門等京城において漂流第2回の新年を迎える。京城政府の歓待を受ける
正保3年1月5日(1646/02/20)、清の勅使祁充格等と決別し酒饌を贈与される

正保3年1月7日(1646/02/22)、京城を出発。出発に際し、朝鮮政府は漂流民に衣服・紙墨その他を贈与した

(正保3年1月16日(1646/03/03)、漂流民を京城まで送還した勅使礽充格等は、王世子冊封の使命を果たし北京に向けて京城を発つ)

正保3年1月28日(1646/03/15)、釜山の北東2里の東萊府(とうねんき)に着く。釜山駐在の対馬藩士、古川伊右衛門に引き渡される。

(正保3年2月26日(1646/04/11)、答礼御謝使右議政李景奭は、護軍金堉(手偏)、書状間柳淰その他の随員を従え、謝恩封冊表を奉じて京城を出発した)

正保3年3月15日ごろ(1646/04/30)、釜山浦から便船に乗じ対馬に向う
正保3年3月17日(1646/05/02)、対馬・北端の鰐の浦港に到着す。
正保3年3月22日(1646/05/07)、厳原に上陸し、対馬藩の歓待を受ける。爾来対馬に滞留すること約70日。
正保3年6月2日(1646/07/14)、厳原より便船に乗じ大阪に向う
正保3年6月16日(1646/07/28)、大阪着。生存者:新保村 国田兵衛門、小山屋弟 宇野与三次郎、長四郎、藤十郎、庄三郎、三国 久次郎、彦作、五兵衛、庄吉、鮎渡村 十蔵、竹内藤蔵召使りやうし、安島村 次郎、鮎川 蔵兵衛、市三郎、孫十郎。以上15名。 (天野信景 随筆「塩尻」、原典は年月間違い)

正保3(1646)年6月末、越前に帰着

正保3(1646)年7月、国田兵右衛門等江戸へ赴く
正保3年8月13日(1646/09/22)、国田兵右衛門等江戸での取調べが完了する

正保3年10月28日(1646/12/05)、漂流民送還に対する幕府の答謝使対馬藩橘成税が釜山に到着。朝鮮側訳官張偉敏、李時吉等の往問を受け、漂流人送還に対する答謝使であることを声明する。
正保3年11月2日(1646/12/08)、橘成税は東祁府に至り、東祁府使閔応協と会見し、漂流人送還に対する対馬の謝書を提出する。閔応協はその副本を読みその中に「韃靼国」の文字あるを見て、謝書を退け、韃靼国3字の修改を要求した。橘成税がこれに対し修改の不可を唱え、両者間に紛糾を生じたが、最終的には受理される。

参考文献

  • 荒川秀俊. 1962. 異国漂流記集. 吉川弘文館.
  • 荒川秀俊, 1995. 異国漂流物語. 社会思想社.
  • 石井民司. 1892. 日本漂流譚. 学齢館.
  • 上田三平, 1932. 満州漂流者竹内藤右衛門の墓. 史蹟名勝天然記念物, 7(5).
  • 外務省記録局編, 1884. 外交志稿. 外務省.
  • 園田一亀, 1991, 韃靼漂流記. 平凡社
  • 室賀信夫, 1970. 日本人漂流物語. 新学社