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大屋甚吉、鬱陵島に漂着 1617年(H1617a)

元和3(1617)年、大屋甚吉(大谷甚吉とも)、鬱陵島に漂着。一説にはもっと早い時期の可能性もある。
大屋家は但馬大屋谷に居していた和田九右衛門尉良清が始祖でその孫玄蕃尉勝真が現在の鳥取県会見郡の尾高城主杉原盛重に仕え、姓を大谷に変えたという。彼は家老の上席にまで身を置くが途中で武士を捨て隠士となり祖先の墓所である大屋谷に帰り死去している。その玄蕃の甥が甚吉で町人として米子の灘町で廻船業を開始した。大屋は屋号だという。

元和4(1618)年5月16日(一説には1625年)、米子町人の大屋甚吉と村川市兵衛が江戸幕府から「竹島渡海免許」を与えられ、アワビやワカメを採るために、毎年、交代で船を送るようになる。当時、日本では鬱陵島を「竹島」あるいは「磯竹島」と読んでいた。 免許を得るきっかけは、越後国(新潟県)から伯耆国(鳥取県)米子へ船で向っていた大谷甚吉が、遭難して鬱陵島へ漂着したことにあった。その島は、「人家なくして山河産物有り、喬木、大竹繁茂し、禽獣、魚、貝、其品を尽す」(「竹島渡海禁止並渡海沿革」) 帰国した大谷甚吉は、同じく米子町人の村川市兵衛とともに渡海の許可を申し出た。5月16日、幕府の許可は鳥取藩主池田光政へ伝えられた。 渡海事業が続けられる中、鬱陵島への途中寄港地として松島(現:竹島)が新たに発見され利用されるようになり、1600年代中ごろまでには、大谷・村川両家は「松島渡海免許」を授かったと伝えられる。
1696年には鬱陵島渡海を禁じられる。甚吉本人も何回か鬱陵島に渡り、鬱陵島で没したといわれるが時期は不詳。

参考文献