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島根県長浜に朝鮮人10人が漂着 1426年(H1426a)

応永32年12月(1426年1月)、現在の島根県浜田市長浜町の海岸に朝鮮人平海人張乙夫ら10人が漂着した。按撫使金鱗雨に随って茂陵島(鬱陵島)に向かっていたところ、二艘の内自分等46人が乗っていた船が突風に合い破船し、36人が溺死し船に積んでいた小船に乗り移った10人が日本の石州長浜へ漂着したものである。

その地の領主順都老は彼等を丁重に扱い30日間逗留させた。順都老については中世の日朝交流史の研究者関周一氏は語音から周布殿(すふどの)と解されている。その後順都老は対馬まで護送し対馬の有力者左衛門大郎に朝鮮への彼等の帰国を依頼した。左衛門大郎とは対馬の海賊首の早田左衛門太郎のことで彼もまた丁重な扱いで彼等を無事帰国させた。

当時の朝鮮国王世宗はこの報告に感激し、すぐ順都老と左衛門大郎の所へ礼物を持った使節を派遣すると 共に朝鮮国との通商権を与えた。

日本側の史料である『萩藩閥閲録』から石見の雄益田氏の庶子家周布氏の当時の頭首は周布兼仲であったことがわかる。そして「世宗実録」には兼仲が6回通商の為朝鮮へ船を派遣したこと、その子兼貞は8回、孫の和兼は33回派船したとあるが、最近の藤川誠氏や長節子氏の研究から兼貞と和兼の場合は対馬の者が二人の名をかたって対馬から朝鮮へ派遣した偽の使節も含まれることがわかっている。

参考文献