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後醍醐天皇、尊良親王の遠流 1332年(O1332a)

1332/04/02(元弘2年3月7日)、後醍醐天皇、隠岐に流される。

1332/04/03(元弘2年3月8日)、尊良親王(たかながしんのう)、土佐の畑(幡多)に流される。親王は幡多郡上川口(大方町)の浜に着いたといわれるが、大方郡奥湊川(大方町)の領主の大平弾正は率先して宮をむかえ、自分の館にみちびいて親王につかえた。しかし近くに北条方の米津山城守がいて危険なので、先に親王をむかえようとして有井庄司三郎左衛門豊高とともに、その居館より2里あまり東北にあたる王野山(幡多郡大方町)の地にうつした。ここは昼なお暗い密林の中で、都の便りも容易に聞けないところであったため、大平・有井の二氏は親王をなぐさめることのできる場所として有井庄内の米原(こみはら)(幡多郡大方町)の地をえらび、三たび親王はこの地にうつった。 有井庄司は親王のもとに御息所をむかえようとして随身の秦武文を使者として京にのぼらせた。武文はやっと御息所をさがしだし土佐へ下ったが、途中海賊の難にあって自殺し、御息所も淡路の武島に漂着した。この事情は太平記にくわしいが、御息所は親王の配流前になくなっており、史実ではない。

元弘3(1333)年、北条氏はほろび、尊良親王は京都へがえることとなった。親王は有井庄司が老齢のため太平弾正の子大膳をともなって帰京したという。まもなく、庄司の病死の知らせが京にたっしたので、親王は深くこれを悲しみ、五輪塔をおくってあとをとむらった。現在、有井川にある庄司の墓はそのときのものと伝えられており、県の指定史跡となっている。

参考文献